No.252178

EXIT (前編)

Touyaさん

ゲーム「BOF5・ドラゴンクォーター」の二次創作です。
主人公リュウとボッシュの出会いのころのお話。
初任務のとちゅうで人質事件に巻き込まれて…。
時系列でパートナーになるまでを書いています。
こちらが前編です。

2011-08-01 02:42:10 投稿 / 全2ページ    総閲覧数:510   閲覧ユーザー数:505

1.

長さはいろいろあれど、ひとつの区画と次の区画の境界には、必ず間をつなぐ通路があって、リュウは、そこをくぐり抜ける瞬間が好きだった。

下層街からレンジャー基地のある区画へ入るときにも、短い通路があり、ほんの一瞬だけ視界が暗くなる。

ある空間から次の空間へ、その次にあるのがどんな場所かは、その暗い通路を抜けてみなくてはわからない。

子供の頃は、そこを通り抜けるときの期待感に胸がぐるぐるした。

次に目の前に開けるのは、勿論、よく知り尽くした場所なのだけれど、暗い通路から視界が明るくなるそのときだけは、まるで初めて見た場所に出たかのように、感じる。

そして、リュウの想像の中では、目の前に開いた世界がどんなのかは、踏み出してみないと、わからないのだ。

幾度となく通り抜けた、その短い通路が、今日のように特別な意味を持つこともある。

「伏せ! 立て! 伏せ! 立て! 遅いぞ新米!」

「了解!」

「そこのお前、遅れてるぞ、居残り30回追加。他の者は、こっちへ集合!」

「了解!」

「お前たちも、これで訓練期間終了だ。隊長からの訓示がある。」

「隊長に敬礼!」

「敬礼!」

額の前にかかげた右腕を30度の角度に挙げて敬礼し、2週間の訓練を終えた新米のレンジャーたちを、ゼノはゆっくりと見回した。

「ひとりの落伍者も出さず、全員が訓練期間を終えたこと嬉しく思う。今日から仮配属の部署で任につくことになる。

実際の任務は厳しいぞ。――期待している。」

「了解!」

敬礼を返しながら、リュウは、ゼノの背後に立っている少年を、見た。

全員が気をつけの姿勢で、隊長のほうに向かっているなか、少年だけは、ゼノの背後に立ち、両手を背中に回した姿勢で、新米レンジャーたちの上にぶしつけな視線を投げつけている。

下層街では見たことのない生粋の金髪で、瞳の色とあわせた、少しくすんだグリーンのレンジャースーツを身につけている。

その視線が、リュウの上で、止まるかとおもったが、すぐにその頭上を通り過ぎ、退屈そうに、また最初のところへ戻っていく。

いったい、何者だろう、とリュウは思った。

レンジャーの上官にしては、リュウたちとそう年令が違うようには、見えなかった。

新米レンジャー全員が好奇心むき出しに見つめているのに気付き、ゼノが、少年を振り返った。

「ボッシュ1/64、本日より、合流するように。エドマンド、後は頼む。」

「はい。」

ゼノが退席すると、少年のIDを聞いた新米レンジャーたちの中にひそひそと囁く声が起こった。

(1/64? こんなとこに何しに来たんだか?)

(訓練期間は無視かよ?)

(幹部候補だ、逆らわない方がいいぜ。)

ざわめきの中、リュウだけは黙って立ち、じっとその少年を見ていた。

囁き声を聞きながら、まんざらでもなさそうな表情で、全員を見下ろしていた少年が、2度目にリュウのほうに顔を回し、今度は、目が合った。

ほんの一瞬だけ、視線がぶつかった。

だが、ボッシュと呼ばれた少年は、少しも表情を変えず、電柱や犬を見るように、リュウの顔をながめただけだった。

「お前ら、いつまでうだってる! 即刻それぞれの部署へ向かえ、解散!」

「了解!」

リュウがふたたび視線を壇上に戻すと、少年はもう背を向けて、配属係のエドマンドとともに、訓練所の出口へと向かっていた。

ここ下層区で耳にした覚えがないほどに高いD値をもつ少年について、その後に向かったロッカールームでは、にぎやかに噂話が囁かれていたが、それにも、リュウは興味を惹かれなかった。

しょせん、リュウには無関係な世界の話だ。

だが、予想したよりも早く、少年とは再会することになった。

ロッカールームで身支度を整えたリュウが、仮配属先の書かれたプレートを持って、レンジャー基地の廊下を急ぎ、部屋番号を確かめて扉を開くと、さっきの少年の背中が、まっさきに目に飛び込んできた。

その背中の向こうに、管理ボードを手にしたエドマンドの姿も見える。

「リュウ1/8192、本日づけで、こちらに仮配属に決まりました!」

初めて、はじかれたように、少年が、振り返った。

ひるまずに、リュウが少年のほうに歩み寄り、その左に立った。

「あぁ、ご苦労、さっき聞いたな。彼はボッシュ1/64だ。

当分、いっしょにパトロールに出てもらう。同じ新人同士、仲良くやってくれ。」

エドマンドのうながしで、リュウは、金髪の少年の方を向き、右手を差し出した。

「了解。よろしく、ボッシュ。」

差し出されたリュウの手に、ボッシュはトカゲでも見たような驚きを向け、ついで、笑顔になった。

「よろしくな、リュウ。」

ボッシュは差し出されたリュウの指先を握るふりをしただけで、その手に触れることはなかった。

 

 

 

半開きのロッカーの扉を、リュウはすばやく閉めたつもりだった。

けれども一瞬遅く、背中合わせで着替えをすませた同僚のジョンが、先端のとがったブーツを、リュウのロッカーの扉の間にねじ込んだ。

「なんだよ?」

リュウは、片方の眉をひそめてみせたが、訓練の間に親しくなった同僚には通じるはずもない。ジョンは、遠慮なく、ぴったりした黒革のスーツを身につけた長い脚を跳ね上げて、リュウのロッカーの扉を蹴り開けてしまった。

「ふーん、こっちの台詞だ、なんだよ、これ? 支給品は、任務後武器庫へ預ける規則だろ?」

リュウのロッカーの奥に鈍く光るレンジャー支給の剣を見て、にやにやと目配せする。

「個人訓練のために借りてるんだ。許可は、とってる。……わ!」

ジョンは、後ろからリュウの首に腕を回し、ふざけてリュウを背後に引っ張った。

「ジョン! ふざけるなよ!」

「リュウ……俺のロッカー、見てみろよ?」

「ロッカー?」

巻きついた腕をようやく引き剥がし、そこに開いていたジョンの個人ロッカーを覗き込み、リュウは思わず笑った。

黒革の上着の奥に隠してある、支給品の銃のグリップが、いくつも並んでいる。

「お前と、組むと思ってたよ。」

「そうだな。」

ジョンが視線を合わせずにさらりと言い、リュウは笑いながら、自分のロッカーの扉を閉める。

「幹部候補のエリート様相手じゃ、この先大変じゃないか。

訓練期間は顔も見せなかった。ローディ相手じゃ、訓練するのも嫌だって、奴だろ。」

「しかたない。命令だよ、割り切るさ。

どうせ短い間かもしれないし、かなりのエリートだそうだし。」

「普通なら、出会うこともない相手だ、いいよなリュウ。」

少し太り気味の体型で、訓練期間中なにをやるにも一番最後だったマックスが、私服のズボンを引き上げながら、声をかけた。

今日もまた、一番最後に着替えを終えて、ロッカールームを出る気のようだ。

「でもさ、リュウがちょっと、羨ましいよ。」

「そりゃ、どういう意味だ、マックス。」

閉まったロッカーの扉の上に腕をおいていた長身のジョンが、のぞきこむように扉の陰のマックスに問い詰めた。

「あ、え…と、だってさ。D値1/64だろ? 普通なら、どうして下層街に来たんだろう、てくらいのエリートで、

そいつに気に入られたら、ひょっとしたら、ひょっとして、上まで引っ張ってもらえるんじゃない?」

ジョンとリュウは、思わずマックスの顔を見つめた。

「上まで?」

「俺たちが?」

「そうだよ…もの凄いチャンスじゃないか!」

その言い方に、ジョンとリュウはやっと笑い出した。

「本気で言ってやったのに。」

「ごめんごめん、ちょっと思いつかなくて。」

「案外すぐ上層へ逃げ帰るんじゃないのか? こんな下層じゃ暮らせない!ってさ……。」

「さぁ、どうかな。きっと、そのときはマックスを連れて行くんだろ?」

「こんな馬鹿なやつらと組むより、ずっと、ましさ。」

むくれるマックスをさらにからかおうと、ジョンが身を低めたとき、リュウは、ロッカールームの入り口の前を通り過ぎる人影を見た。

額も頬骨も鼻も高い位置にあり、肌がとびぬけて白い。

薄い唇を引き結んだ横顔は、冷徹にさえ、見える。

ただ、下層街ではめずらしい金色の髪が、いろいろの色を含んで光を放ち、その表情を複雑なものに見せている。

「リュウ?」

リュウは手をのばして、向かい合わせになったジョンのロッカーの扉を閉め、ふたりを残したまま、ロッカールームを出た。

ロッカールームの前の廊下を曲がったところで、早足で遠ざかる新しいパートナーに、リュウはようやく追いついた。

「…なんだ?」

「いや、話があったんじゃないかと思って。」

振り返った身長は、リュウとさほど変わらない。

だから、目線は変わらないはずなのに、あごを引き上げ、目を細めて、相手を見る癖があるんだな、とリュウは気付いた。

「…そうだな。いちおう、言っておく。」

「?」

「宿舎で、同室だとさ。俺の荷物は今日、届く。

片づけが終わったら、俺も宿舎に入ることになるそうだ。」

「そうなの? じゃ、俺も今日はまっすぐ帰るよ。荷物運び、手伝おうか?」

「必要ないさ。もう、届いているはずだ。」

「そうか。でも、宿舎にまで入るなんて…徹底してるんだね。驚いたよ。」

「驚く? そうだな。」

ボッシュは、いらいらと時計に目をやった。

「引き止めて悪かった。じゃあ、宿舎で。」

「あぁ、俺は明日の朝から合流する。またな、リュウ。」

そう言って足早に立ち去るボッシュを捕まえておかなかったことに、リュウはすぐに後悔することになる。

宿舎の自室の前でリュウを迎えたのは、廊下をふさぐほどの人だかりだった。

「…どうしたんです?」

あわてて、人垣をかきわけようとしたリュウに、振り向いた先輩レンジャーの冷たい視線が突き刺さる。

「おい、新米。なんだ、あれは?」

「あれって…。」

目に飛び込んできたのは、リュウに割り当てられたレンジャールームから、廊下にまではみ出した大きな荷物。

優雅なカーブを描いた足をもつテーブルが廊下の前に置かれ、ビニール袋で覆われた明らかにまっさらのキングサイズのベッドが、横になって戸口をふさぎ、そのほとんどを部屋からはみ出させている。

「す…、すみません、通してください。」

あわてて見物人をおしのけて、部屋にたどりついたリュウは、部屋の中に入り、今度はところせましと置かれた荷物をかきわけるはめになった。

「あーやっと、帰ってきた。あの、受け取りのサインをここにー。」

一服吸いながら、部屋の奥で荷物にはさまれて途方にくれていたようにも見えた一人の男が、梱包した箱から腰を上げ、リュウを迎えた。

「受け取りって…、これ、どこから来たんです?」

「うちは普段上層しか扱わないんだけど、たっての希望ってことで。受け取る人がいなくて、ちょうど困ってたところなんです。」

「この荷物……」 リュウは嫌な予感がした。

配送係の男から受け取った宛名には、予想どおりの名前が書かれている。リュウは、頭を抱えた。

「この部屋に全部入るわけないでしょう? いまだって、座る場所すらない。」

「でも、配達を頼まれたんですから、受け取ってくださらないと困ります。」

「これは、俺のじゃないから、受け取れません。」

「そんな……せっかく、ここまで運び込んだんですよ? また、下層に来いっていうんですか?」

男が泣きそうな顔をする。その腰のホルスターに、でかい護身用の銃が差し込まれているのを、リュウは見た。

飾りにはなるが、素人にはあつかえない、見掛け倒しの銃だ。

「ともかく、廊下にはみ出ている分だけでも、持ち帰ってください。廊下が通れないでしょう?」

男は、ぶつくさ言ったが、ついにはあきらめて、仲間を呼び、派手にはみ出ていたベッドやら、洋服ダンス、バーカウンターセットを引き取り、しぶしぶ帰っていった。

「よい身分だな、新米。」

最後には同じ階にすむレンジャーから、そんなふうに肩を叩かれて、リュウは溜息をつくしかなかった。

ようやく扉は閉まったものの、部屋には梱包された荷物が、まだまだうずたかく積まれている。

この部屋に入るとき、リュウがもってきたスーツケースは、ベッドの上に投げ込まれていた。

それを引き出して、ベッドの足もとに置くと、リュウは、二段ベッドの下段に横になり、ようやく息をつく。

部屋の中には、新しい荷物特有の、ほこりっぽい匂いが満ちていた。

額に腕を置き、目を閉じて、リュウは、思い浮かべていた。

目を引く明るい金髪が、高い頬にゆるくかかり、薄い唇を強く引き結んでいる横顔。

迷いのない、自信たっぷりの隙のない足取り。

人に向かうときにも、下にさがったりしない強いまなざし。

短く刈り上げられた首筋に刻まれたまっすぐの青いライン。

とても綺麗で、なにもかも、リュウにはないものだ。

リュウは、暗闇の中で、自分の手を透かしてみた。

子供の頃にあきらめたはずの、なつかしい痛みが、リュウの胸を焼く。

(あれが、俺のパートナー? あんな人種、会うのも今日が初めてだろ。)

それ自身が、まるでなにかの冗談のようで、途方に暮れたリュウは、どこへ踏み出すかわからない明日にとりあえず背を向け、丸くなって眠りについた。

 翌日は、早かった。リュウは、目を覚ますとすぐに、機敏に身支度を整え、新しいパートナーとの初任務に備えて、部屋を後にした。

新米仲間とは挨拶をかわしただけで、ロッカールームで手早く着替え、レンジャー施設の勤務シフトを確認し、配属先のエドマンドの指示を仰ぐために、彼の元に向かった。

エドマンドは、手元の勤務シフトにちらと目を通し、リュウに今日のパトロール場所と時間を告げただけだった。

「あの…。」

「なんだ? まだぐずぐずしてる気か。武器庫で装備を整えて、街へ降りて来い。

パトロール先は、資材倉庫だ。仕事は体で覚えろ。」

「了解! しかし、本日のパトロール任務は単独ではありません。」

「あぁ、ボッシュ1/64か…。ま、来たらめっけもんだ、くらいに思え。

言っとくが、自分をやつと同じだなどと思うなよ、リュウ1/8192。

わかったら、さっさと行け。」

リュウは、尻を蹴飛ばされたような気分で、敬礼を返した。

いつものことだ。

レンジャーになったからといって、変わるわけではない。

いつもの、下層街のルール。こんなことで、なにかを失うわけじゃない。

リュウは、自分の身分で手に入るだけのありったけの武器を(といっても、もちろん自分の手に余る武器は慎重に避けて)、武器庫から借りだし、レンジャー施設を出て、資材倉庫へと向かった。

 

 

 

 

 下層街の南の端にある壁際から、採掘機が通れるほどの巨大なゲートを抜け、通路を渡った先の扉をくぐると、岩肌が露出した広大な資材倉庫へとリュウは出た。

天井は底が見えないほど高く、朝のライトに照らされていた下層街からここへ来ると、また夕闇に戻ってしまったような、不思議な感覚になる。

下層街より下にある採掘坑で働く人々は、ここを通り抜け、さらに先にある縦穴のホールから、毎日それぞれの穴へと降りていく。

採掘坑へと下降するエレベータからは、地熱のため廃棄された街や、最下層と呼ばれる、IDをもたない人々の暮らす街も見える。

最下層は、野良ディクがいつ出てもおかしくないような治安の届かない地域で、さすがのリュウもそこへ向かうときには、覚悟がいった。

とりわけ、レンジャースーツを、身につけているときは。

政府の実験施設、バイオ公社が、失敗した実験動物を、排気孔から下へと捨てているために、最下層には人を襲うエラーディクが絶えない、などというあやしげな噂まで聞いたことがある。

下層街を基点に、下は地下2000メートルの採掘坑から、上は中層街に近いところまで、縦に突き抜けたホールへの中継地点が、ここ資材倉庫となっている。

幸い、今日のパトロールは、もちろん危険な最下層や採掘坑に降りるわけではなく、その入り口にあたる資材倉庫を巡回する予定だった。

スライドドアをくぐり抜けたリュウの目に、扉を入ってすぐの壁際に背を当てて、腕を組んだまま、唇を引き結んでいるパートナーの姿が飛び込んできた。

(へぇ……)と、内心、リュウは思う。 (あの目立つ金髪と、高価な特注のレンジャースーツ着て、ひとりで立ってるなんて。)

暗い闇の中でも浮かび上がるような容姿は、数メートル先からも目を引いた。

(いや、最下層がどんな場所か、知らないだけかも……。)

「…遅いな。」

横柄なその言い方に、”この俺を待たせるなんて”という響きを感じ取る。

「基地で点呼だったんだ。知らなかったの?」

「点呼? 必要ないだろ。」

それで話はすんだ、というように、ボッシュはさっさと歩き出し、リュウは一瞬あっけにとられて、その後を追った。

このパートナーの癖が、まだつかめない。

資材倉庫は、くぐり抜けてきた通路よりもさらに暗く、ほとんど夜の色をしている。

青い色をしたコンテナが壁際に積まれ、そのコンテナを積み上げる巨大なクレーンが、大きな獣のような影を、部屋の半ばあたりにまで落としていた。

ここの天井もまた、底が見えないほど、深い。

背の高いクレーンがどれだけ首をのばしても、積み上げるコンテナが天井につかえることは、絶対にありえなかった。

リュウは、右手の懐中電灯で物陰を照らし、ボッシュは、倉庫の壁際ぞいに進みながら、黒い岩肌をなでていた。

「ここの天井は、中層街の底付近まで届いてるそうだな。」

まるで、相手が説明するのが当然というように、上を見て、リュウに問いかけた。

「そう。この部屋と隣のエレベーターホール、床全体が丸いだろ。倉庫にしては変じゃない?」

「岩肌も、丸い。もとから、倉庫だったのか?」

「噂じゃ、ずいぶん前に、排水孔として掘られたって話。

ちょうど、中層街に地下水が噴き出して、水没しはじめたころ、」

中層街には行ったことないけど、と付け加えるのを、リュウは忘れない。

「――最初は、街にたまり始めた水を、どうにかしようとしたらしい。

大急ぎで、排水のための穴を、下層街から上へと堀り上げた。

でも、中層街を沈めた地下水は、手に負えない量だったんだ。

ここを掘っているうちに、とても街は救えないことがわかって、

最後の段階で、天井を掘りぬくのをあきらめたんだそうだ。

そのあと中層街は水没して放棄され、いまじゃ、ここは倉庫として再利用されてる。」

「ふーん……。」 自分が訊ねた割に、そっけない反応だった。

「そういえば、倉庫で思い出したけど……、」 リュウは切り出した。

「昨日、部屋に大量の荷物が届いてさ、いま、倉庫状態なんだけど。

仕事が開けたら、荷解き手伝うよ。」

「昨日のは、勝手にうちの者が、やったんだ。

家具屋から報告を受けて、今日のうちにも全部入れ替えることになってる。

コーディネーターも入れたから、今日からちゃんと住めるようになるぜ。」

振り返った金髪頭は、初めて笑顔を見せ、それを見て目を丸くしたリュウの反応に、はっとしたように横を向いた。

「そう。なら、いいよ。」

リュウがさっぱりと話を終わらせ、ふたりは、自分たちの前に伸びた広大な空間に目を向ける。

労働者たちが採掘抗へ向かう時間は過ぎて、いまはひっそりしているけれど、毎日大勢の人間が通り過ぎる場所だから、臆病な野良ディクなどは滅多に入り込まない。

もしもここに入り込むとすれば、人間を恐れていないディクだけだろう。

下層街の住人としてではなく、レンジャーとして足を踏み入れるとき、ここがまったく別の場所のように見え始めたことに、リュウは気づく。

支給されたばかりの武器を確かめて、そのすがすがしさと、心地よい緊張感を、リュウは思い切り、胸の中に吸い込んだ。

いままで住んでいただけの街は、今日から、リュウには、守るべきものへと変わっていくのだ。

暗い通路に並べられたコンテナの間を縫うように見回るふたりは、倉庫の一番奥まった地点へと行き着いた

奥の壁には、またスライドドアがあり、その先は、採掘抗や最下層へと降りるホールになっている。

倉庫の奥までたどり着き、ふたりは壁際にそって、また入り口のほうへと戻ろうとした。

コンテナの影になったわきの壁に、高さ1メートルくらいの四角い黒い線が現れた。

線はたちまち厚さをもち、四角い図形は、壁に隠された扉となって、倉庫街のほうへと、開かれた。

壁にしこまれた扉の中から、茶色い革でできた防寒着と、頬まですっぽり覆う形の防寒帽を身につけた、7歳くらいの子供が飛び出してきて、奥へと駆け出して来ると、壁際に立っていたリュウとボッシュの姿に突然気がつき、いきなり立ち止まった。

すぐに後ろを振り返り、右手の岩壁と左手のコンテナにはさまれている状況を見回すと、無茶なことに、左手のコンテナの下に開いている数十センチの隙間に、もぐりこもうとした。

その背後に、2本の角を持った、カローヴァと呼ばれる大きなディクが、子供の出てきた穴から這い出す姿が見える。

「!」

それを見たリュウが飛びだし、ボッシュは、様子見を決め込む。

コンテナの下に隠れるのは明らかに無理だと判断したリュウは、腹ばいになった子供の体に後ろから腕を回し、引っ張り出そうと、ひっつかんだ。

「落ち着け。そっちには、逃げられない。」

パニックに陥ってもがく子供は足をばたばたさせて、抵抗するばかりだ。

その体を抱きとめるようにして、ようやく引き剥がしたリュウの左手に、追ってきたカローヴァが、のっそりと至近距離まで近づいた。

手にはコンクリの欠片のついた鉄筋を持ち、むき出した歯の間から、ねばねばの唾液を、顎の下にまで、したたらせている。

背筋にひやりとしたものを感じながら、リュウは、子供を抱いて咄嗟に地面を転がると、さっき立っていた通路まで駆け戻った。

ボッシュが、そのわきをゆっくりした足取りで通り過ぎる。

リュウは、奥の壁まで走り、抱き上げた子供を、壁に固定された梯子にとりつかせ、上へと登るよう指示し、自分はきびすを返した。

右手に剣を抜き、まっすぐにディクのほうへと向かったパートナーの後を追おうとした。

だが、リュウは間に合わず、通路の真ん中で、すぐさま足を止めてしまう。

目の前で、ボッシュが邪魔くさそうに、カローヴァの喉もとを半月の形に切り裂き、とどめに切っ先を獣の右目に突き刺していた。

倒れ落ちた巨大な獣から流れ出た血が、リュウの足もとにまで、伸びてくる。

リュウには、わかっていた。

リュウの足を止めさせたのは、巨大なディクへの恐怖でも、戦闘へのとまどいでもなく、相棒の剣の容赦のない残忍さだった。

ぴくりともしないディクのようすを見てとると、リュウは、すぐにまた向きを変えて、奥の壁の方へと戻った。

奥の壁に垂直につけられた梯子は、一段一段のはばが高く、追われていた子供は数段登っただけで、腕を梯子の横木に回し、しがみついている。

地上3メートルの高さの木に登り、降りられなくなった子猫のように、背中をこちらに向けたまま、飛び降りることもできないで、固まってしまったかのようだった。

「もうだいじょうぶ、終わったよ。降りておいで。」

リュウが手を差し出して、触れようとするとびくりと震え上がり、いっこうに降りてこようとする気配がないので、しかたなくリュウは、梯子の同じ段まで登ると、子供の背後から腕を回し、体を支えて、一段ずつゆっくりと降ろしていった。

最後の2段になったところで、リュウが飛び降り、しがみついていた子供を抱え上げると、床に下ろしてやる。

縮こまっていた足が床についたとたん、ねじをまかれた玩具の自動車のように、子供はぱっと走り出した。

リュウの手を逃れ、出口へと向かう途中で、ゆっくりとこちらに向かって歩いてきたボッシュとすれ違う。

右手にレイピアをぶら下げたままのボッシュは、空いた左手で、走ってきた子供の襟首をいきなり掴み上げると、後ろにぐい、と引いた。

バラバラ、と子供のポケットから金属のねじが床に散らばり、暴れたたはずみに、顔を半ば隠していた帽子が脱げた。

「ボッシュ…!」

リュウがあわてて駆け寄ると、上着の後ろ襟をひっつかんだ手をはずそうと、もがく子供の顔が見えた。

茶色い大きな目をした、少女だった。

ほんのわずか、ウェーブがかかった茶色い髪は、首筋の真ん中あたりで乱暴に切られている。

少女が暴れるたび、やわらかい髪が、いくつかの束になって、左右に揺れ動いた。

その髪の束の間から、見え隠れする少女の細っこい首筋を見て、ボッシュが声を上げた。

「おい……、無印だぞ…?」

少女の首筋にバーコードがないことが、リュウのところからも見て取れた。

その隙をのがさず、少女はようやくボッシュの手を逃れ、下層街とは反対側にある倉庫の出口へと、まっすぐに駆け出していき、あっという間に姿を消した。

ちッ、と聞こえるか聞こえないかくらいに、軽く舌打ちをしたボッシュは、少女の上着からこぼれ落ちたねじのひとつを、拾い上げている。

「官給品だ。ここの備品を狙ったんだろう。」

「――かもね。」

もう、急ぐこともなく、リュウは、ゆっくりと歩いてきた。

「それより、見たか? あいつ、無印だったぜ?」

拾ったねじを床に投げ捨てたボッシュが、なによりもそれに驚いたようにリュウに言う。

「ここじゃ無印なんて、珍しくもないんだ。このあたりは、最下層へと続く地域だから。」

リュウは、目を丸くしているボッシュにむかって、辛抱強く、そう答えた。

 

 

「ボッシュ1/64、最初の任務はどうだった?」

基地に戻るなり、エドマンドが問いかけた声が、ふたりを迎えた。

ボッシュは、つかつかと部屋の中へ歩きながら、ディクとの闘いで汚れたグローブを両手からひきはがし、部屋の右側に備え付けてあるゴミ箱へと投げ込む。

窓際のデスクに座ったエドマンドは、わざと書類から目を上げずに、窓際の椅子を回し、ぎこちない音を立てた。

「――とくには。あぁ、カローヴァを一匹仕留めました。」

「ひとりでか、さすがだな! ほかに犯罪は?」

言い方にわずかにおもねるような響きがあることを、後ろにいるリュウも感じ取る。

「いえ。――あとは、報告書で。」

ボッシュは、さらりとかわして、デスクの上に置いてあったラップトップをひっつかんで、奥にある応接用のソファに腰掛けた。

それを見たエドマンドが、目を細めて、小さくリュウに手招きする。

「リュウ1/8192、」

「なんでしょうか。」

「どうだ、エリートのパートナーは?」

「どうって…、まだ初日ですし……。」

そういいながら、さっきの戦闘でのボッシュをリュウは思い浮かべる。

「…ただ、ディクを倒したときの手並みは、見事でした。」

エドマンドは、急にむっつりして、手にした書類をがさがさとかき混ぜた。

「そうか。パトロール中、なにかあったら、すぐ俺に報告するんだぞ、リュウ1/8192。」

「はい。」

「…あぁ、これ回ってきた手配書きだ。署内の掲示板に、適当に貼っとけ。」

「了解しました。」

いまさら、こんなものを……とぶつぶついいながら、エドマンドはリュウに薄いプラスティックの束を投げてよこした。

ノートの表紙くらいの大きさの薄っぺらいシートの表面に、光の加減によっては七色に見える塗料がコーティングされており、下には「容疑手配中」の文字と、シートの中央には人物の立体写真が配置されている。

立体写真は角度を変えて見ることができるだけなく、シートの上下左右を指でなでることで、中の人物を上下左右さまざまに回転させて表示できる。

「容疑手配中」の文字の下には、その手配中の犯罪者の名前と、あればID、ご丁寧にも、レンジャーがリーダーで読み取れるバーコードまでが印刷されていた。

リュウは、数十枚の手配書きを順番にめくりながら、念のため、手首にとりつけた記憶装置に、すべてのバーコードを読み取らせていった。

こうしておけば、現場でバーコードを、手配書きと照らし合わせたいときに、いつでも情報を呼び出すことができる。

最後の一枚になったとき、はっとして、リュウの手が止まる。

最重要手配を示す蛍光色の赤で派手に縁取られた、最後の手配書きには、「政治犯」「テロリスト」「反政府組織リーダー」といった物騒な手配理由といっしょに、赤い三角に白い剣がつきささったような特徴的なマークが描かれ、「メベト1/4」という名前と青白く光るバーコードがつけられていた。

 

 

 

「ここだよ。」

仕事を終えて、レンジャー施設に隣接された宿舎へ戻ってきたリュウは、自分たちに割り当てられたレンジャー・ルームへとボッシュを案内し、ドアのキーナンバーを手早く打ち込んだ。

スライドドアが開くと同時に、暖かいライトが部屋に灯る。

「ふーん。」

ボッシュは、腕を組んだまま、ドアのそばに立つリュウをすり抜けて、部屋の中へと進み、リュウは、少しはらはらしながら、その後ろに続いた。

親元に同居している、ごく一部の例外を除き、新米レンジャーは、たいていは宿舎に住んでいる。

皆16歳で施設から出なくてはならなくて、でも1人で借家を借りるだけの蓄えがまだなく、そこに住むしかないためにしかたなく住んでいる者が多く、サードで何年か働いてそのうち宿舎を出て行くことが多い。

宿舎であてがわれる部屋は、天井と床のつなぎめがない、ダークグリーンの金属の箱のようで、ほかのなにかというよりは、棺桶か冷蔵庫に似ていた。

サードにあてがわれる部屋は、すべて同じように冷たくて狭くて暗く、間取りが同じなので、隣の部屋に間違えて入っても、ぱっと見たときには自分の部屋に見えるくらいだった。

けれど、リュウが覗き込んだレンジャールームは、今朝出てきたときとは、ずいぶん雰囲気が違っていた。

昨日いきなり押し寄せてきた、乱暴なほこりっぽさも、消えている。

部屋の奥へ続く細い通路の天井には、六角形の形をしたパネルがモザイクのように数個はりついていて、その裏から天井を照らすように、温かみのあるオレンジの淡い光が漏れている。

手前のミニキッチンから一段降りたところにある居住スペースには、白とこげ茶のぶちもようの革でできたラグが敷かれ、黒革のクッションをつなぎ合わせたような奇抜なデザインのソファが、新たに置かれている。

一番驚くのは、今朝方まではただの金属でしかなかった左手の壁一面が、巨大なモニターに付け替えられていたことだ。

だれかのアクセスを待っているかのように、画面の右下に青緑色の楕円が回転しながら、伸びたり縮んだりしている。

案内役のはずだったリュウまでが、ぐるりと見回して部屋の奥に進み、一番奥にある二段ベッドの下段に、やっぱり自分のトランクが押し込められているのを見るまで、そこが自分のいた部屋だとわからなかった。

ボッシュは、コツコツとブーツのかかとを鳴らしながら、室内を一瞥し、腕を組んだまま、横に立つリュウに言った。

「ふん、そう、悪くないな。」

「……驚いた。」

「は? お前に割り当てられた部屋だろ?」

「え、あぁ、そう。でも、昨日――おとついまではなにもなくて、デスクとパイプ椅子だけで、まるで殺風景だったんだ。これじゃ、まるきり別の部屋みたいだよ。――見違えた。」 リュウが確かめるように、取り替えられた最新型の黒い冷蔵庫の前にかがみこみ、扉を開けしめした。「――ミネラルウォーターが山ほど、詰まってる。」

「それで?」 棒立ちしたボッシュが、いらついたように靴を鳴らし、リュウを憎憎しげに見て、言葉を早めた。

「え? それでって?」

「……先に案内しろよ。俺の部屋はどこだ?」

 それから、事情を話し、押し黙ったボッシュが、ようやく真新しいソファに、かなり不機嫌そうに沈み込むまでに、ほぼ30分を要した。

リュウは、ほっとして、ふたたび冷蔵庫の扉を開け、よく冷えた瓶を2つ取り出すと、1つをボッシュに手渡した。

「…まぁ、いい。わずかの間のことだ。」

「やっぱり、すぐに、上に戻るんだ?」

リュウは、どこか、ほっとしたような気持ちで答えた。

サプライズ・パーティで、貸し出された玩具は、その日の終わりには、返さなくてはならない。

突風のようにやってきた出来事が、そしてまた、何事もなかったように消え、元の生活に取り残されることに、身構える癖は子供のときからついている。

それなら、失われることを、先に知っていた、ほうがいい。

「当たり前だろ、ようやく任務が始まったんだぜ? どこで始まろうと問題じゃないさ。ただ、先を、急ぐだけのことだ。」

意外に楽天的なのか、ボッシュは、ソファの真ん中で足を組むと、革のパウチから手で握れるくらいの大きさの楕円形の端末を取り出すと、ぱちりと蓋を開いた。

とたんに、部屋の壁の大型モニタの右隅の幾何学模様が、息づいたように、明滅し始めた。

「おいリュウ、さっきのデータ、寄こせよ。こっちにもインプットするから。」

「さっきのデータ……。」

「ふざけるなよ、指名手配犯のデータ、エドマンドから渡されたのを、自分の端末に入れてただろ。」

一度もこっちを見てなかった癖に、とリュウは思いながら、右手首の端末をするりとはずし、ボッシュへと渡す。

赤い光がふたつの端末をつなぎ、ボッシュの手元の端末に、手配犯のデータが流れ込むのを、壁のモニタが表示しはじめた。

ボッシュの端末と、リンクしていたのだ。

転送はすぐに終了し、ボッシュは、リュウの端末を投げて寄こす。

壁のモニタには、リュウが入力した最後のデータ、メベト1/4の掲げる赤い三角に白い剣のマークとバーコードが大写しになった。

その巨大なマークが、部屋を赤く染めて、反政府組織の下っ端が、スプレーであちこちの壁に残していくいたずら描きを、連想させた。

「D値1/4でお尋ね者とはね、ばかなやつ。」

「D値は剥奪されてないんだね。」

ボッシュが、ぱちりと端末の蓋を閉じると、ふたたび部屋は元の色に戻った。

「――そういえば、」

リュウは、自分の分のグラスと水、冷蔵庫で見繕った食材を、テーブルの上に置き、その横にあぐらを組んだ。

「今日逃げたあの無印の女の子の件、報告せずに、見逃してすませてくれたんだね。ありがとう。」

「無印を捕まえても、たいした点数は稼げない。それだけだ。」

ボッシュは、邪気のない欠伸をして、端末を放り出し、ソファにしなやかな体を伸ばした。

「あぁ、ひょっとして、お前の顔見知りだったのか?」

「そうじゃないけど、身寄りのない無印があの年で捕まると、相当つらい施設に入れられるんだ。

でも、あぁしなきゃ、あの子は生きてけないのかもしれないから。」

「捕まれば矯正施設行き。――それでも、いまの俺の境遇よりは、ましだぜ、きっと。」

ボッシュは、そういってレンジャールームの低い天井を振り仰いだ。

「安心しろよ、ああいう雑魚は、全部お前にやるさ。

数にはなる、――そういうルールは、どうだ?

その代わり、大きな手柄になりそうな件は、必ず俺に知らせろよ?

お前の腕じゃ、解決できないし、どうせ、手に余るぜ、

パートナーでいるわずかの間の交換条件なら、お前にとっても、そう悪くないよな。」

今日のボッシュの戦闘を見たあとでは、すぐにこの街を出るというボッシュの言葉は、真実味を帯びていた。

それには答えず、手柄を立ててすぐにこの街を出て行くというパートナーから、リュウは視線を引き剥がし、飲み干したグラスをもって、立ち上がった。

「今度、パトロールのときにでも、下層街、案内するよ。あらためて、ようこそ。ま、見たとおりの街だけど。」

2.

翌朝のロッカールームで、ひとり着替えていたリュウは、部署の分かれた新米たちと挨拶を交し合った。

どの部署でも当然ながら、新米はまだ味噌っかす扱いで、それで余計にお互いの気持ちがわかる。

「あのエリート様、どんな感じだ?」 と、揶揄するようにジョンが聞いてきた。

「さぁ、まだわからないよ。」

「心の中じゃ俺たちのこと、馬鹿にしてない? あの目つき。」

太り気味で背の低いマックスが、ぴったりしたセーターに悪戦苦闘しながら、話を向ける。

「そうかな。…どちらかというと、下層のこと、わかってないだけみたいだけど。」

「そりゃあ、な。俺だってハイディーならさ……、」 いつもの愚痴が始まったので、ジョンとリュウは、さっさと着替えを終えることに決めこんだ。

「リュウ、今日はどこを担当なんだ?」

「西側、第7採掘所まで降りて、戻ってくるルート。昨日、途中の倉庫に大型の野良ディクが出たんだ。」

リュウは、ロッカーをばたんと閉める。「それで、念のため、今日は下まで見に行くことになった。」

「俺なんか、今日は、交通整理だ。せっかくレンジャーになったのに、交通整理じゃ、派手な事件が起こりそうにない。」

「馬鹿いうな、そのほうがいいだろ。」 リュウが笑って、ジョンの肩を叩き、出て行こうとすると、後ろからマックスの声が届いた。

「そういえば、第7採掘所って、この前珍しい鉱石が、見つかったんじゃなかった?」

「あぁ、確か、貴重な原石が見つかったとかで、採掘の奴らが色めきたってたぜ。一個でも相当な値がつくとかで、噂になってる。」

「そうなんだ。あ、俺、もう行かないと。」

リュウは、ロッカールームの中からかき集めたありったけの武器を携帯し、ボッシュと合流した。

昨日の戦闘が、どうしても、目の中に残っていたからだ。

息を呑むような、鮮やかな角度。軌跡。いまのリュウには、まだ、ないものだった。

「行くぜ?」

「あぁ。」

そのまま2人は、下層の繁華街を抜け、重いゲートをくぐり抜けて、昨日ディクを倒した倉庫街へと向かう。

今日の目的地は、さらにその奥へ進み、エレベータを降りたところにある最下層近くの採掘抗にまで、降りていかなくてはならなかった。

下層にさえ初めて降りたというボッシュに配慮して、リュウは、採掘抗へ降りるエレベーターまでの通路を先導することにした。

底も天井も見えないほど深い円形の大広間に出て、ボッシュは、手すりから身を乗り出し、下を覗き込んでいる。

円形の広間の黒い岩肌に添うような形で、金属のチューブが何本も縦にはりついていて、チューブの中のエレベーターが、それぞれの採掘抗へと降りる最速のルートとなっている。

そのひとつ、”7”という数字の書かれたチューブに向かおうとしたとき、岩陰からふたつの人影が現れた。

「あの…レンジャーさん、ですね?」

見ると、採掘抗でよく見かける暗色の作業服を着た若い母親が、小さな手を引いて、リュウのところへ駆け寄ってくるところだった。

リュウは目を丸くした。手を引かれているのは、間違いなく、昨日のあの子だ。

「どうかしましたか?」

「この子が、昨日ディクに襲われたとき、レンジャーさんに助けていただいたと聞いたんです。」

「あれは、相棒が――。」

頭から足まで全部昨日と同じ格好の少女は、やっぱり一言も口をきかず、ただ、母親のズボンにしがみついていた。

リュウは、少女にむかって、にっこりした。

「任務ですから、気にしないで。」

「助けてくれて、ありがとうございました。」

すすにまみれた母親の手袋が、少女の頭に乗せられても、少女はこげ茶色の瞳で頑なにリュウを見ているだけだった。

気が晴れたのか、若い母親は少女を連れて、7番のエレベーターに向かい、扉の前で振り返って、会釈を返す。

いつの間にか、リュウの隣に、ボッシュが立っている。

「へぇ、母親がいたのか……。」

「そうだね。ボッシュは? どうだったの?」

「は? いないさ。」

「そっか、俺もだ。」

リュウが笑いかけると、ボッシュがぷい、と顔をそらす。

リュウは、初めて、ボッシュのそんな表情を見た気がした。

底が深いぶん、エレベーターが上がって来るのにも、長い時間がかかっている。

やっと着いたエレベータに入る親子につづいて、閉まりかけた扉にリュウが飛び込み、つづいてゆっくりとボッシュが同じ箱の中に乗り込んだ。

 

 

 

 

ごとん、と重い音を立てて、数メートル四方の金属のエレベータが、下降し始めた。

ボッシュは、エレベータの右奥にもたれかかって腕を組み、その反対の左奥にさっきの親子が所在なげに立っている。

扉のわきに立ったリュウは、扉の真ん中にはめ込まれた2センチくらいのはばの細長いガラスに目をやって、そこから外のトンネルに灯されたオレンジ色の明かりが、断続的に射しこんでいるのを見ていた。

不自然な沈黙が狭い箱の中に満ちて、ただでさえ、最下層のよどんだ空気の中を降りていく息苦しさを、加速しているような気がする。

リュウが、少し心配になり、母親の隣で赤黒いエレベータの隅に縮こまっていた少女の方を振り向くと、その反対側でそっぽを向いている相棒の姿も同時に目に飛び込んできた。

そのとき、何の前触れもなく、がくん、と大きく揺れたかと思うと、エレベータが突然止まり、すぐにすべての明かりが消えた。

リュウは、足もとをすくわれて、姿勢を崩しそうになったが、壁に手をついて持ち直した。

真っ暗な箱の中で、やがて潜めていた息を吐き出すように、リュウが声を出した。

「ボッシュ!」

「大きな声を出すな。ここにいる。」

いつの間にそばに来たのか、リュウの右手から静めた声が届いた。

よく見ると、ゴーグルにつけた蛍光マークが淡い光を吐き出して、箱の中にいる人間の位置を知らせている。

「おふたりとも無事ですか?」

「は、はい……。」

さっきと変わらない位置から、か細い声がしたので、リュウは胸をなでおろす。

ぱちり、と傍らのボッシュが、携帯用ライトを灯すと、まっすぐな鋭い光が、隅にちぢこまったままの親子を一瞬照らし出し、リュウの横にある壁に向けられた。

「どけよ。」

リュウが、身をずらすと、左手にもったライトで操作パネルを照らしたボッシュが、すべてのボタンを試し押していた。

「警報ランプは?」

「見ればわかるだろ。これは、どうなってる? 主電源でも落ちたってのか?」

「聞きたくないだろうけど、ここじゃ、そう珍しいことでもないよ。」

リュウも腰のパウチから自分のライトを取り出すと、パネルのほうはボッシュに任せて、手の光を灯して奥の二人のところへと進んだ。

「だいじょうぶですか? 何とかしますから。」

「ええ。」

少女の茶色の瞳がライトに照らされて、せいいっぱい見開いているようすが見て取れたので、リュウは、手の中のライトを、少女に差し出した。

「これ、持ってて。あちこち、好きなところを照らしてていいよ。」

少女が手をのばさないので、リュウは身をかがめて、少女の右手に細長いライトを握らせた。

ライトから細長く伸びた白い光が、ぴかり、とリュウの顔を照らした。

「オイ、手を貸せよ、リュウ!」

「わかった。」

相棒の声に応えて、リュウは、エレベータの操作パネルの方へ取って返した。

驚いたことに、ボッシュは、細長いドライバーを器用に使って、操作パネルの蓋をはずしてしまっていた。

「このライトをお前が持って、手元を照らせ。」

「直りそう……?」

「主電源が原因じゃ、ここから動かすことはできないさ、でも、こっちのコンピュータの電源で接続すれば、連絡はとれるかもな。」

ボッシュは、いつも持っているコンピュータにつながった導線を、パネルの奥の配線へとつなぎ、キーボードを叩き始めた。

何度か打ち間違い、いらいらして革の手袋の指先に噛み付くと、無理矢理引き剥がした。

リュウは、ボッシュの肌の上に、じんわりと汗がにじんでいるのに気がつき、そこまで暑くはないのに、と不思議に思った。

「くそッ!! どうやら、停止してるのは、この箱だけらしい。しかも警報が出ているようすがない。連絡もとれない。」

「地下に降りる箱は7つもあるから。どれかひとつは、いつも故障してるから、気がついてないかもね。」

「気がつかないじゃないだろ。閉じこめられてるんだぜ?!」

「落ち着けよ、ボッシュ、」 リュウは、声を小さくした。「あの子が怯えるだろ。」

「そうだな、それじゃ、もっといいことを教えてやるよ。」 ボッシュが、リュウの耳元に顔を寄せて、囁いた。

「ここに、ゲージがあるだろ、この箱のまわりの空気を測定してるんだ。

そのガスゲージがさっきから、ゆっくり、上昇してる。」

「それで?」 リュウがのぞきこんだゲージは、確かに、赤い横線がわずかずつ、上がっていくようだ。

「いまいるこの辺の地層から、おそらくガスが出てるんだ。30分かそこらならもつが、何時間もここに閉じこめられたら、間違いなく、全員息をしなくなるぜ。」

「どうにか、管理システムに連絡できない?」

「いま、警報システムのシグナルを解読して、同じ信号を管理側へ送れないか、やっている。」

リュウは、念のため、身につけている本部への無線を試してみるが、やはり下へ降りすぎていて、回線がつながらない。

しかたないので、モニターに集中しているボッシュに管理システムへの侵入は任せて、手にしたライトで、箱の中をくまなく調べまわった。

扉正面の細い窓からは、赤黒く濡れた岩壁が見えている。床を一通り照らしてまわり、壁にパネルや隙間がないか、しらみつぶしに調べた後で、天井に明かりを向けてみる。

天井の隅に、四角い筋があった。

「リュウ!」

ボッシュの制止の声が響く前に、リュウは、エレベータの内壁を蹴って身軽にジャンプし、天井の隅を手のひらで押し上げていた。

四角い筋は、やがて赤黒い裂け目となって、人一人ぶん通れるほどのパネルが、外へと押し開いた。

「勝手な真似をするな。」

「ゴメン。ちょっと、外を見てみるよ。」

リュウは、四角く開いた天井の穴のふちに指をかけると、勢いをつけて、体を持ち上げようとした。

そのとき、ざざっ、と機械のノイズが、パネルの方から聞こえ、応答ランプが赤く灯るのが見えた。

「ボッシュ!」

リュウは、天井の穴にあがるのを中止し、ボッシュの隣へと飛び降りた。だが、ボッシュは、体を硬くしたまま、無言でリュウに静止のジェスチャーをしている。

全員の目が、パネルの上部にあるスピーカーへと注がれた。

「……か、いるか。返事を……。」

明らかに、スピーカーから聞こえてきた男の音声に、リュウがパネルに飛びつき、声をはりあげた。

「こちら、最下層行き7番エレベータ、地下1075地点で緊急停止、4人が閉じ込められています。至急救助をこう。」

「…もう一度、繰り返せ……。」

「7番エレベータ、地下1075地点で緊急停止中、至急救助を! 4人閉じ込められているんだ!」

「…お前…は…。」

「リュウ1/8192、サードレンジャー。パートナーのボッシュ1/64と、あと民間人2名が閉じこめられている。聞こえるか?」

「…了解…そのまま、待機せよ…。」

「オイ!」 と、ボッシュが割り込んだ。「ふざけるな。このあたりの地層でガスが噴き出してる。現在メタン濃度2%だ、すぐ上下どちらかに動かせ!」

「………。」 しばらく返答はなく、ホワイトノイズだけが、続いたかと思うと、唐突に、ぷちん、と通信が途切れた。

リュウは唖然として、赤いランプの消えてゆくスピーカーを見つめ、ボッシュは、握りこぶしで、思い切りパネルを殴りつけた。

だあん、という音が、静まり返った外の岩壁に反射して、戻ってくるとほぼ同時に、エレベータが落下しはじめた。

心臓が上に持ち上がるような不快な浮遊感が数秒続いたかとおもうと、落ち始めたときと同じように、エレベータは唐突に、がくんと停止した。

押し開けた天井のパネルが、完全に外側に跳ね飛ばされ、そこからの明かりで、リュウは、なんとか、全員の無事を見て取ることができた。

ふたたび箱は沈黙し、奥で震えていた親子は、もう言葉もなく、隅に追い詰められたように、へたり込んでいる。

「だいじょうぶですか?」 とリュウが声をかけても、母親はうなづくのが精一杯、少女にいたっては、顔を母親の腕の中に埋めて、こちらを見ることもできない。

それでも、2人にけががないことがわかり、リュウは、ほっとした。

「……さっきのつづきだ、天井へ登れ、リュウ。」

パネルと格闘していたボッシュが、端末を放り出し、上に向けて顔を振ったので、リュウは、黙ってうなづき、ぽっかりと開いた天井の四角い穴のふちに手をかけて、身軽に体を引き上げた。

エレベータの四角い箱の上に乗り、赤く錆びた太いワイアに手をかけて、箱の中を覗き込むと、中にいたボッシュが、つづいて穴に手をかけたので、腕をつかんで、なんとか引き出した。

下から数百メートルの高さに吊られた金属の箱は、反動で不気味に揺れ、その上に乗った下っ端レンジャー2人の肝をひやりと冷やした。

あたりを見回すと、上下ともに真っ暗な空間の中に、てんてんとにじんだような赤いランプが、遠くにあるものほど次第に小さくなり、闇に溶けているようすが見て取れた。

まわりの岩壁までは、近いところで1.5メートル、遠いところでは10メートルほどの距離があり、そのすきまを風が吹き上がってきていた。

ボッシュの手には、パネルから取り外したガスセンサーが握られている。

「どう?」

「すこしましになったて程度だな。それより、あいつらに、話を聞かせたくないんだろ?」

「聞かせたくないような話が、あるんだね。」

「さっきの通信、接続したのは、俺じゃない。」 ボッシュは、リュウの顔を見ずに、遠い方の岩壁をにらみつけている。

「あっちからつないで、あっちから勝手に切ったんだ。その上、この箱を動かしてみせた。」

「だから?」

「このエレベータは、誰かが操作してる。しかも、俺たちを殺す気が、あるかもしれない。」

「まさか。どうして、そんなことまでわかるの?」

「よく考えろよ、主電源は落ちてないのに、この箱だけ、管理系統から切り離されてる。

ガス濃度が上昇してると言ったら、箱の位置を少し、変えただろ。

俺たちを、すぐには死なせたくないんだ。

しかし、途中で止めるんじゃ、助ける気もなさそうだ。

自分の都合にあわせて、いいときに、箱を落としたい。

そのときまで、無事に生かしておきたいのかもしれない。」

「それじゃ、意見は一致?」

「ああ、一刻も早く、この箱を離れた方がいい。相手の目的も、正体もわからない。

このままじゃ、いつ落とされるか、わからないぜ。」

リュウは、1.5メートルの距離のある一番近い岩壁を、見ていた。ボッシュもその視線の先を見た。

岩壁に、赤いペンキで塗られた四角いバーが、数十センチおきに、打ち込まれている。

「あいつ、梯子、登れたっけ?」  風の吹き上げる底のない隙間を見ながら、ボッシュが、つぶやいた。

 

 

 

 

3.

 

 最初に、その通信を受け取ったのは、ゼノの補佐役をしているファーストレンジャーのヒッグスだった。

目の前のディスプレイに要約された報告内容は、おおよそ信じがたいものだったが、長年の勘にひっかかるものを感じ、すぐさま隊長室へのコールボタンを押していた。

「ヒッグス、どうしました。」

「ゼノ隊長。発信元不明の通信が入っています。下層街Z地区より地下掘削抗へ下降するエレベータ内に、人質を取っているという内容です。発信者は、隊長と直接つなげと要求しています。これまでの通信内容は、いま電送いたしました。」

「…受け取りました。現状確認は?」

「近くを巡回中のレンジャーを向かわせましたが、1基のエレベータが故障中で、中間の地下1350メートル地点で停止したまま、連絡がとれません。数分前いったん350メートル下降しましたが、その後は宙に浮いたままです。念のため、ほかのエレベータも保守点検中ということで止めるよう指示を出し、あやしい人間が乗っていなかったか、調べさせています。」

「そちらは、任せる。いま、通信が入っているのですね? すぐ、ここへつなぎなさい。」

隊長室のデスクに置かれた通信機に、新たに赤いライトが灯った。ゼノは、ライトのついたボタンを押す。

「下層街レンジャー隊長、ゼノです。……あなたは、どなたですか?」

「私の名前など、どうでもいい、奪われた者、とでも言っておこう。そちらの関心は、ほかにあるはずだ。ちがうかね?」

返事を待たずにいきなり決めつけるような、尊大な態度の男の声が、回線のはざまにいるように、くぐもって、聞こえてくる。

ゼノは、通信機に耳を当てたまま、デスクの前の椅子をくるりと回し、そこへ腰掛けた。

「奪われた? なにを奪われたのです?」

「そうだな。下層街では、多くのものが、毎日奪われている。いま、こうして、われわれが話している間にもだ。

たとえば、時間だ。だれかの命の時間が、こうしている間にも、奪われてしまうことも、ある。よくわかっているのでは、ないかね?」

「だれの時間が、うばわれているというのですか?」

「そろそろ単刀直入に行こう。地下へ降りる、7番エレベータの中に、いま、4人の人間が乗っている。そのエレベータだけは管理系統から切り離して、こちらからコントロールできるように、ちょっとした仕掛けを施した。現在の状況は、そちらでも、確認済みだろう。こちらにある手元のスイッチで、上昇も、下降もできる仕掛けになっている。その4人は、いま地下1700メートル地点で、そちらの決断を待っている。以上だ。」

「決断と言いましたね。あなたの目的は?」

「ようやく、本題に入ってくれたようだ。」

男が、言葉の間をあけた。ゼノには、男が座っている椅子を回して、体の向きを変えるようすが目に見えるようだった。

「先日、集積庫を襲ったわれわれの仲間を、解放してほしい。仲間のデータは転送した。2時間後に、仲間が解放されない場合、もしくは、エレベータに対してなんらかの細工がされた場合、遠慮なく、落とさせてもらうよ。解放が確認されたら、エレベータは、何事もなかったように、地下へと降りる。要求は、それだけだ。」

「待ちなさい。」 通信を切ろうとする相手の空気を読んで、ゼノが制止の声を上げた。

「中に誰が乗っているというのです? 内部カメラも、そちらが制御しているのです、こちらでは、知りようがないでしょう。エレベータの中が、からっぽではないことを、あなたは、証明できますか。」

「エレベータが停止する前に、内部カメラで撮影した画像がある。それも送ろう。」 今度は、制止する間もなく、通信は途切れた。

ゼノは、目の前のスクリーンに展開する画像を見ていた。眼鏡の前面のガラスに、画像から漏れる光が、ちらちらと映った。

すぐに、ヒッグスから、連絡が入る。

「発信源、探知できません。解放を要求された襲撃犯のデータは確認しました。エレベータの内部画像は……」 ヒッグスは息をついだ。「確認中です。どうしますか、隊長。ほかの連中に、このことを知らせますか?」

「人質が誰かは、まだ伏せて、4人が人質になっていることだけを伝えるように。それより、子供を含む残り2人の人物特定を急ぎなさい。同時に、技術課と救急隊チームの編成、E班に襲撃犯解放の準備を。1時間に作戦会議。こちらの意図を気取られないよう、最終指示があるまで、勝手な言動は禁止します。」

「…あいつらは、まだひよっこです。現場に出たばかりだ。襲撃犯の解放の可能性は……。」 ヒッグスが、珍しく余計な口をさしはさむ。口にしないほうが、苦しかったのだろう。部下思いの男だ、とゼノは思った。

「わかっていると思いますが、政府は絶対に、取引は、しない、」 ゼノは、眼鏡を押し上げ、つぶやいた。 

「……反政府組織とは、な……。」

 

 

 

 

「跳べるかな?」 宙ぶらりんのエレベータから一番近い岩壁に等間隔に取り付けられた、金属の四角いバーを見ながら、リュウがたずねた。

「俺たちは、な。残りをどうするか。」

リュウは、ボッシュが振り返った先の、四角い穴のところへいき、ひょい、と中をのぞきこんだ。

リュウの頭の影の分だけ、暗くなったエレベータ内部で、まっすぐな光がちらちらと動き、リュウのいる天井のほうにおずおずと伸びてきた。

「いま、中にもどりますから、動かないでくださいね。」

うなづくようにライトの光が揺れ、リュウは、四角い穴に足をさしこんで、ふちに手をかけてぶら下がり、エレベータ内部の床に降りた。

少女を後ろにおいたまま、母親が、飛び降りたリュウのもとへと、一歩、近づいた。

「どうなっているんでしょう。故障は、直るのでしょうか…?」

「直るでしょうが、時間がかかるかもしれません。パートナーと相談して、箱から外に出て、どこか避難できる場所まで移動しようということになりました。さっきのようなことがあると、心配でしょう? 外に梯子があります。マップによれば、その梯子をしばらく昇ると、横穴に通じています。少し冷えますが、そこへ避難して、助けを待ちましょう。」

「でも…いつ動き出すか、わからないし、ここにいたほうが……。」

「助けを待つのなら、どちらでも、同じです。エレベータの中に、メモを残しておきますから、もしも箱が無事に動き出したときは、メモを見て、われわれの仲間が助けにきてくれますよ。どちらにしろ、今日の夕食には、戻れます。」

しかし、赤茶色の髪と眼をした母親は、片隅に穴の開いたエレベータの天井を見て、かたくなに頭を振った。

「無理だわ…、この子はとても、あんなところへ上がれるわけがない……。」

リュウは、身をかがめて、母親の履いた厚い暗色のズボンを、ぎゅっとつかんでいる少女の顔を見た。

耳のすぐ下あたりで切りそろえた褐色の髪は、風に吹かれたようにあちこちにやわらかくなびいていて、同じ色の大きな瞳が、まっすぐに、リュウを見上げている。

エキゾチックな二重の瞳と、ふんわりとして横に平べったい唇、幼いなりに鼻筋が通っていて、大人になればかなり美人になりそうだ。

天井の穴から漏れたオレンジの光が、少女の瞳にさしこんで、その瞳の底をぴかりと照らした。

リュウは、この無口な少女が、少しも恐れていないことを確信し、強い子だと思った。

「だいじょうぶ、怖くないよね?」

「この子、まだ7つなのよ。こんなところで、外に出るなんて、無理。さっき連絡があったじゃない、私たちは、何時間でも、ここで助けを待ちます。」

「…そういうわけにもいかなくて、じつは、あまり、このあたりでじっとしていられないんです。この付近のガス濃度が上昇していて、箱の中は密閉されているでしょう? できるだけ空気のいいところへ移動したいんです。」

少女が首を回して、初めて不安そうに、母親を見上げた。その母親は、言葉に詰まったように、タートルネックの喉の回りに右手を回している。

「平気ですよ、何時間も先の話ですから。梯子を5分も昇れば、横穴に着く。そこで、助けを待ちませんか?」

「…ねぇ、疑うわけじゃない、あなたはレンジャーだけど、いったい、いくつなの…?」

「必要な訓練は、受けています。それより、お2人の名前をきかせていただけませんか?」

「…私は、マリス。この子は、アイーシャよ。」

「俺はリュウ、上にいる相棒の名前は、ボッシュ。――アイーシャ、すばしっこいのは知ってるよ、よろしく。」

リュウの差し出した手を、少女はたっぷり5秒は見つめ、おずおずと右手をのばしかけたが、「おい!」と、そのとき、エレベータの上からボッシュの声がかかり、びくりとして、そのまま引っ込めてしまった。

リュウは、箱の外から差し込んでいた眩しいライトをさえぎったボッシュを、振り仰ぐ。

「ちんたらやってる場合かよ。急げよ。」

「わかった。……マリスさん、まず先に上がってください。そのあとすぐ俺がアイーシャといっしょにのぼりますから。」

「え、ええ。いい? アイーシャ?」

少女が強くうなづいたのを見て、母親はリュウのほうに向き直って、天井の穴の下へと進み、頭上1メートルほどの四角い穴のふちへと手を伸ばした。

リュウが、指と指を組んでかがみ、組んだ手のひらの上に母親の右の靴先を乗せると、細身の母親は、エレベータの壁に左手をつき、案外身軽に、穴のふちに指をかけた。

バランスをとったまま、リュウが勢いをつけて押し上げると、なんとか母親の上半身が外に出た。

落ちないよう、二つ折りに身を折って体勢を立て直した母親は、足で何度か宙を蹴ると、腕の力で身を起こし、ようやく箱の中から上へと抜け出た。

リュウは、ボッシュのいる箱の外へと声をかけ、母親の無事を確認すると、少女の方へとゆっくり近づいた。

「ほら、肩に乗って、登るんだ、いいかい?」

少女は驚くほど軽く、リュウは、肩車で持ち上げたあと、両手のひらで、少女の履いたワークブーツの底を押し上げた。

アイーシャが、天井の四角い穴から上へと登りついたので、最後にリュウが、はずみをつけて、天井の穴に跳びつき、ようやく閉鎖された箱の中から、上へと全員が這い出した。

吹き上げる風の壁に四角く区切られたエレベータの上では、母子がすくみあがって、エレベータを吊るしている太いワイアに掴まっている。

一番近い岩壁の方へと、頭をつき出したボッシュの金髪が、上へと流れていた。

躊躇することもなく、すぐさま、エレベータの上から、約1.5メートルの距離を、たん、と身軽に、ボッシュが跳んだ。

岩壁から突き出した幅50センチほどの四角い金属のバーを、両手でつかみ、右足をその数段下のバーにからませて、エレベータの上にいるリュウへと、首を振る。

「ほら、だいじょうぶでしょう? マリスさん、先に跳んでください。俺がアイーシャをおぶって跳びますから。」

リュウが背中に手をかけると、母親は、びくりと体を硬くした。無理もない。

「下を見ないで、さっき彼がやったみたいに、バーを掴むことだけ考えるんです。掴んだらすぐ、腕をからませてください。」

「ええ。……先に行くから。」

少女が無言でうなづくと、マリスは、四つんばいのまま、端まで進むと、風に押されてふらつきながらも、なんとか立ち上がった。

岩壁にとりつけられた金属のバーを、数段登ったところで、ボッシュが待ち受ける。

マリスは、思い切りよく、いきなり、ふわりと、跳んだ。

一番近くのバーを掴み損ねたところを、ボッシュが手首を掴んで、梯子に引き寄せる。

それで、母親のほうは、壁から突き出した数十センチのバーに、しがみついた。

リュウが、思わずつめた息を吐き出し、心配して少女のほうを見ると、アイーシャは、あいかわらず感情の浮かばない瞳を見開いたまま、虚空の向こうの母親の背中を見つめている。

リュウは、自分のジャケットから腕を抜き、少女の背中にかけた。

暗くて深い道のりを昇ってきた風が、中身のないジャケットの腕の部分をはためかせている。

「きみは、ずいぶん強い子なんだね。次は、俺たちの番だ。背中につかまって。」

おずおずと細い腕が、かがんだリュウの首の周りに回された。

それでも体をあずけようとしない少女を、乗っけるように背負いなおして、リュウは背後に手を回し、はためいていたジャケットの左右のすそを、自分の前までひっぱってくると、腰の位置できつく結び合わせた。

顔を上げて、前を向くと、ボッシュが母親を誘導して、岩肌にとりつけられた梯子を十段ほど、先に上へと登っていくのが見える。

リュウが、少女を背負ったまま、立ち上がると、背中の少女が、リュウの首の辺りに顔を埋めるのを、感じた。

セーターの首の辺りが、小さな手でぎゅっと握り締められて、急に息が苦しくなる。

そのまま、反対側の端まで歩くと、数メートルの助走をつけて、少女をおぶったリュウは、岩肌へと跳びつこうと、エレベータを蹴った。

そのとき、「がこん」という音とともに、足もとのエレベータが、突然、なくなった感じがした。

リュウの背後で、しゅるしゅる、とワイアが鳴る音がして、エレベータとともに下向きに落ちる風に、虚空に出たリュウは下へと引っ張り込まれた。

「リュウ!」 ボッシュの鋭い声が飛び、上へと遠ざかっていく。

掴むつもりだったバーが、目の前から上へと流れるのを見ながら、リュウは、突き出た梯子に体をぶつけ、数段分の距離を落ちて、ようやく右手で、バーを掴んだ。

少女の重みが、重心を後ろの虚空へと引っ張っている。

少女を落とすまいと梯子にしがみついたリュウの背後で、ふたたび動き出したエレベータが、底のない暗闇へと降りていった。

 

(後編 へと続きます)


 
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