――二日目
件名『リョウ兄さん』本文『起きてる?』
件名『RE,リョウ兄さん』本文『これから寝るところだが』
件名『(無題)』本文『ちょっと不味い事になった。家族は頼れない、助けてくれ』
件名『RE,』本文『分かった、何処で落ち合う?』
件名『とりあえず』本文『俺ん家の前まで来てくれ、詳しいことはそれから話す』
俺の携帯電話に残るメール履歴をみて、リョウ兄さんの到着を待つ。外は既に夏が近いことを知らせていたが、俺はマスクにニット帽、そして体の輪郭が分からないようにダブダブしたトレーナーと長ズボンを履いていた。
女物の服を着るのは嫌だし、かといって薄手の服を下着無しで着ている女もかなり怪しまれる。同じ怪しまれるなら男として見えたほうがマシだという事だ。
今の時間は携帯の液晶が正しければ二時少し前、そしてリョウ兄さんからの返信は一時半が最終だ。早く来てくれることを祈るが、同時にこの体のことをどう説明したものかと不安になった。
幸いなのは姉貴も妹も起きて来ていないというところか、あいつらが居たら絶対にややこしい事になるし、俺だと信じてくれる事も無いだろう。下手をすれば警察を呼ばれる可能性もあるし、ここは黙って出てきて正解だったと思う。
ただちょっとこの格好は目立ちすぎたかもしれないな、この暑い夜にこの格好は汗がヤバイし、正直息苦しいくらいだ。脱いでしまいたいが、身体を晒してしまうと俺が俺だとリョウ兄さんにさえ信じてもらえるか微妙なところだ。
しかし流石はリョウ兄さんだ、理由も聞かずにこんな深夜の呼び出しにも応じてくれるとは。
さて、そろそろ来ても良い頃だけど……そう思った時、長い道路の向こうで歩く巨体が見えた。
「リョウ兄さん、こっちこっち」
俺が手を上げて自己主張をすると、リョウ兄さんは怪訝そうな顔をしながらも俺のほうへ近づいてきた。
「いや参った、まさかこんな事になるなんてさ……?」
何か違う、いや身長の変化による物だとかそういうものもあるが、それ以上になんというか、距離感が。
「……誰だ?」
「ん? いやいや、俺だって」
分かるだろ、と言おうとして重大な事に気付いた。外見が変わっただけではなく、声も変わったという事に。
益々怪訝そうな顔になったリョウ兄さんを前にして、唐突に訪れた危機的状況に焦る。
「アキラだよ! 何か知らないけど起きたらこんなになってたんだって!」
といっても信じてもらえるはずも無く、顎に手を当ててリョウ兄さんは考え込んでしまう。不味いぞ、いきなりこの信憑性のかけらも無い今の状況は。
「つまりお前はアキで、起きたら女みたいな声になっていたというわけか?」
「そ、そう! いや、違う、なんと言うか、な……」
マスクと帽子を取る。もう声の時点で俺だって言うのは信じてもらえそうにないのが分かったので、もう隠す必要は無いと思ったからだ。
キューティクル全開の黒髪と整った顔を空気に晒す。髪が長いのは意識しなければ気にならなかいので、そのままにしていた。切った髪を捨てる場所も考えないといけなかったしな。
「こういうわけで……」
俺の姿を見て、リョウ兄さんはほんの少し眉毛を動かしただけで、小さく唸ると、眉間のしわをさらに深くした。分かってる、信用されないだろうって事はよく分かってるからそんな目で俺を見ないで。
「そうだな……俺ん家に来い、しばらく置いてやるくらいは出来るから」
疑いの目を向けたまま、とりあえずは兄貴肌を発揮してくれたようで何よりだった。
どこかの時代劇か国民的アニメでしか見たことないような木造平屋建て、その前に俺とリョウ兄さんは立っていた。
たしか記憶では中庭には白い石の敷き詰められた大きな庭とか今時極道物の映画セットでも見ないような景色があったりしたはずだ。
「お前がアキって言う前提で聞くけど、俺の家に夜中上がりこむ時の決まりは覚えているよな?」
観音開きの門を見ながらリョウ兄さんは呟くように言った。
たしか「家の人間を起こすな」だったか、詳しい理由は聞いていないが、リョウ兄さんの言い方だとか素振りを考えて類推すると以前こっ酷く怒られたのだろうと俺は考えている。
「ああ覚えてる、とりあえず俺は静かにしておけば良いんだろ?」
リョウ兄さんに釣られて俺も小声になる。何か知らないけど辺りに物音がないというのに誰かに見られているような気がしたし。
「本当に頼むよ、特にお前がその状態で見つかると本当に厄介な事になるからな」
「一体誰に見つかると厄介なんですか?」
唐突に声がしたので俺は驚いて閉じたままの入り口を見た。しかしそこにはただ静かな木製の重厚な扉があるだけだ。
一体どうなっている、と思ってリョウ兄さんを見ると嫌に苦い顔をして俺の頭上を見つめていた。
「リョウ兄さん?」
声を掛けても反応がない、一体どうしたのだろうか。そう思って兄さんの視線を追うと、ちょっと名状しがたい光景が広がっていた。
「おお、随分とお美しいお方ですね、若とお似合いですよ」
声の主からのお世辞に引きつった笑いで返す。お似合い、と言われても外見はともかく中身男だし、それを面と向かって言われても全く嬉しくないのだが。
「カナメ、このことは俺とお前だけの秘密だ、絶対に他言するなよ」
リョウ兄さんは苦い顔のまま、門の屋根に張り付いている男に向かってそう言った。
「分かっていますよ、特に父さんには内密に、ですね」
リョウ兄さんにカナメと呼ばれた男は、月光の下で人なつっこい笑みを浮かべた。
彼の容姿は、今の俺が言うのもなんだがかなり奇抜というかこの建物自体にはマッチしていたが、現在の世界観ではかなり場違いな格好だった。
顔自体だけを見れば、いかにも女好きしそうな今風の優男だが、その服装がいけなかった。祭りでもないのに和服姿というのは少なくとも俺の住む近所ではかなり人目を惹く容姿だ。
あるいはこの門の先は開港以前の時代につながっていると考えてみるのはどうだろう。俺が以前来たときにはそんなことはなかったが、最近世界的に起きている異常現象が俺以外にも起きているのかもしれない。
「ああアキ、コイツは気にしなくて良い、空気みたいな物だと思ってくれ」
「え? ああ、リョウ兄さんがそういうならそうするけどさ」
これはちょっと自己主張が激しすぎる空気ですね。と言ってみたくなった。
少し待っていたが、俺を含めて三人は動く気配がなかった。もういい加減この服装も鬱陶しいので勝手に門を開けて中に入ってしまおうかと思い始めた時、リョウ兄さんが口を開いた。
「ああそうだカナメ、お前が門開けてくれ、音を立てないようにな」
そういえばこの門、相当古そうだし蝶番とか軋みそうだ。安易に開けなくて良かった。
「もうやってありますよ、油を多めに差しておきました」
「そうか……アキ、行くぞ」
そう言って門を押すと、大きさの割に不自然なほど静かに門が開いた。自転車こいでる時とかも思うけど、油って本当にすごいな。
音を立てないようにそそくさと門をくぐって門を閉じようとしているリョウ兄さんを手伝って、仕上げにかんぬきを通す。
「証拠の隠滅はやっておくので若は気にせずお楽しみください」
お、お楽しみって、ちょっと反論しようかとも思ったが、兄さんが短く「ご苦労」といって俺を引っ張っていったので、言いそびれてしまった。
俺はリョウ兄さんに引かれるまま、玄関からではなく庭の方面へ連れて来られた。なるほど、玄関の引き戸を開ける時ガラガラ言うからな。
「こっちこっち」
庭に面した廊下は、リョウ兄さんが出てくるときに使ったのか一つだけ雨戸が開いていて、中に入れるようになっていた。まず最初に兄さんが自分の靴を手に持って、丁寧に掃除されているニス塗りの廊下にこっそりと音を立てないように乗る。
合図と共に俺も兄さんに習ってお邪魔させていただく。内部はかなり暗かったが、リョウ兄さんのポケットにペンライト(先端にティッシュが何層か巻きつけてあって明るすぎないように調節した物)が見えたのでほっとした。
「部屋に行こう」
兄さんは極力音を立てないように雨戸を閉じると、ポケットのペンライトを取り出して電気をつけた。ティッシュ越しの光ではあまり明るくはないが、何とか見えないことはないくらいには明るくなった。
俺は忍び足でついて行きつつ、なんともいえない不安を感じていた。暗い場所ってこんなに恐怖を感じるような場所だったかな。
もしかしたら外見的な問題だけでなく、精神的にも女へ引っ張られているのかもしれないな。しかし何故よりによってこんな姿になってしまったのか、そんな願望を毛ほども持っていない、むしろ意識の中にそれが居ると不愉快な気分になる俺としては本当に勘弁して欲しい状況だ。
角を曲がった先に、小さな光が漏れている引き戸を見つけた。そこがリョウ兄さんの部屋らしい。俺は何故かその光が、とても安心感のあるもののように感じて、兄さんに寄りかかってしまった。
「うおっと、どうした?」
「い、いや、なんかさ、気が抜けちゃって」
気を抜くなら部屋についてからにしろよ、という意図であろう苦笑いを俺に向けるとリョウ兄さんは俺の手を掴んで歩き始めた。あ、ちょっと惚れそうかも、とか一瞬思ったような気がしたが、それは恐らく色々ありすぎて混乱している中で兄さんがいつもどおりの感触を与えてくれたからだろう。
部屋の中にある光は天井にぶら下がっている電燈についているだけだったが、それでも周りを確認するには十分な明るさだった。
今、リョウ兄さんは自分の靴を玄関へ戻しに行っている。つまり今、この部屋に居るのは俺一人ということだ。
兄さんは押入れに隠れてろといっていたが、なんとなく落ち着かなかったので俺は今、少し部屋を見回している。そういえばリョウ兄さんの部屋をこうしてまじまじと見るのは初めてだな。
家具を一つ一つ見ていると、ふと机に乗っている写真が眼に入った。少し暗くて見づらいものの、多分三人の人影が写っていた。
「?」
少し気になったのでその写真を手にとって詳しく眺めてみる。
背の高い人影はリョウ兄さんだろうが、あとの二人は誰だかわからなかった。二人とも道着に袖を通していて、リョウ兄さんは中学時代のものらしい学生服に身を包んで並んでいた。
「人のを勝手に見るのは感心しないな」
「ひゃっ」
この二人は一体誰なのだろうか、そう思ったとき唐突に背後から声がして、女みたいな声が出てしまった。いや見た目的には俺っていう一人称自体がおかしいんだろうけどさ。
「りょ、リョウ兄さん、早かったね」
「そんなに時間を掛けたつもりはないんだがな……それはそうと俺は眠いからそろそろ寝かせて欲しいんだが良いか? 何か行動を起こすにも日が昇るまで待ったほうが良いだろうしな」
そう言われて部屋にかかった時計を見ると、既に三時を周っていた。家を出る前まで寝ていた俺はそうでもないがリョウ兄さんはかなり眠たそうだった。
「あ、ああ、そうだな、俺は押入れで隠れながら寝ていれば良いか?」
俺の問いかけに、リョウ兄さんは軽く頷き、すぐに布団の中に入って行った。
そしてほとんど間を置かずに、兄さんの方向から寝息が聞こえてきた。図太いというかなんと言うか、他人が自分の部屋に居るというのに堂々と寝られるっていうのはすごいと思う。真似したいかどうかは別として。
「んー……」
俺は今すぐに寝るという気分ではないな。まあ寝た時間を考えれば妥当か。
そして、ようやく状況が落ち着いた。俺の知識だけでは不十分だろうが、少し状況の整理をしてみようと思う。
とりあえず今、俺が置かれている状況は全世界で起こっている超常現象の一つだろう。しかしよりによってこの姿とはなあ。釈然としないまま、布団が畳んである押入れの中に身体をねじ込んだ。
押入れの引き戸を裏側から半ば無理矢理に閉じて、外からバレないようにする。それと同時に視界が真っ黒に塗りつぶされて、目を開けているのか閉じているのか分からなくなった。少し怖いが、考え事をするのには丁度良いだろう。
問題はいくつもあるが、一番の問題は、俺という存在が社会から消えかねないという事だろうな。リョウ兄さんは当面信じてくれるみたいだけど、テッちゃんとか姉貴と妹に関しては、俺が夜中に家出したとか思っていそうだ。
いや、行動的にはそうなんだが、俺の意図は家出じゃない、こういう状況で頼りになる人を考えたらリョウ兄さんだっただけで、別に家出をする意図はなかった。
だがちょっと今考えたんだけども、普通に朝まで寝てたことにして起きれば何とか信じてもらえたんじゃないだろうか。いや、でもあの姉貴と妹だからな……信じてもらえたかどうか分からない、この行動でよかったような気もする。
それにしてもリョウ兄さんは頼りになるな、やっぱり女の人に人気があったりするんだろうか。なんとなくそんなことが頭に浮かんだ。
「……ん?」
いやいや、なんで俺がそんなことを気にしなきゃいけないんだ。他人の女性遍歴なんて今まで一番興味の薄かった事じゃないか。
どうにもこの身体になってからは思考が逸れるな、まだ平静を取り戻していないのか、それとも本当に思考が「身体側」に引っ張られているのだろうか。
だとすれば俺はちょっと困るというか、先日社会科の教師が言っていた、アイデンティティとやらの崩壊につながりそうで怖いな。
俺が俺じゃなくなる感覚って言うのはこういうものなんだろう。しかし今まで持っていた自意識が崩れ去る恐怖よりも、新しい価値観を受け入れ始めている不安の方が大きいのは普通なんだろうか。
「んぐー……」
身体が変質して小さくなったとはいえ流石にこの年齢じゃ布団と同居しての押入れは窮屈だ。それに熱がこもって息苦しくなってきた、明日は真っ先にシャワーを借りよう。
そのためにはまず、さっさと寝てしまうのが得策だが、やはりこの暑さと異常な暗さは少々耐え難い、目立つかと思って止めておいたが、やっぱり押入れを少し開けてみよう。
手探りで布団を這うように手先を動かして、押入れ独特のやわらかい厚紙が指先に触れたので、俺は油圧式のジャッキみたいにゆっくりと力強く押入れの戸をずらした。
風自体はすぐには入ってこなかったが、光は十分に入ってきた。俺を気遣ったのかただ単に消し忘れたのかは定かではないが、兄さんは電燈についている豆電球はつけっぱなしで寝てくれていた。
片側を開けたところで風は通らない、という事で俺はもう片方の引き戸もほんの少し開けて、風が通るように調整した。もしリョウ兄さん以外が注意深くここを見たなら俺がここに居るという事がばれてしまうが、そうなったらその時、とりあえずは快適に眠れる環境を作るのが大事だ。
そして俺は満足して、隙間の側に口元を持っていくと、静かに目を瞑った。
顔を下に向けて水を被ると、濡れた髪は枝垂れ柳を思わせるほどしなやかに頭から垂れ下がった。身体が冷たさに反応してビクリと跳ねる。しかし一昨日以来のシャワーは中々の爽快感をもたらしてくれた。
「……」
だが、未だに違和感がある、髪の毛の事もそうだが、筋力が弱くなってることや、股関節辺りの骨格が似ているようで全く別のものになっているような感覚、そして腰のくびれも胸の膨らみもすべてが俺の物じゃないような気がしている。
夜の間は目が利かないこともあってそこまで気にしていなかったが、視覚的に俺の身体が変わっているのをはっきりと見せ付けられると、やっぱり気になる。
女の裸自体は子供の頃から姉貴の影響で頻繁に見ていたから特に感慨も何もないが、これから先は色々と苦労しそうだな。
「っ……クシュンッ!」
ごちゃごちゃとした考えがまとまらずに居ると、夏が近いとはいえ流石に冷える。早々に身体を拭いて服を着る事にしよう。
「どうぞ、メイ様」
「うおっ」
風呂場のドアを開けると、目の前にエプロンドレスを着た俺と同い年くらいの女性がバスタオルを持って控えていた。確か名前は綾芽さんだったか、一人じゃ何かと不便だろうとリョウ兄さんが付けてくれた家政婦だ。
あまり気乗りはしないが「お前は嫌かもしれないけど、そっちの方が何かと便利だろ」ということなので、それについては目を瞑っておくとしよう。
「あ、ありがとう、綾芽さん」
無表情な綾芽さんからバスタオルを受け取って身体を隠し、彼女が出て行くのを確認してから髪の毛をゴシゴシ拭いて湿り気を飛ばしていく。髪の毛が長いって面倒だな。
身体も適当に拭くと、洗濯している服の代わりに置いてある道着に袖を通す。学校の授業以外で着た事は無いので少し手間取ったが、右が上か左が上かも含めてとりあえずは着る事が出来た。
一応おかしいところが無いか鏡を見てみると、見慣れない誰かの顔、じゃ無くて現在の俺が写った。
うーん、髪の毛を結んだ方がすっきりするかな、後でリョウ兄さんに何とかしてもらおう。
「よし、これで良いか」
とりあえず手櫛でタオルで拭いた髪を見苦しくない程度に整えて、俺は扉を開けた。
「メイ様、若より言伝を預かっております『二人で洋服買いに行くと良いよ』とのことです」
脱衣場を出てすぐの場所で控えていた綾芽さんが声を掛けてきた。明らかな日本家屋だというのにエプロンドレスなのは改めて見ると違和感がものすごいな。
ちなみにメイというのはとりあえずの偽名だ。名前の読み方を変えただけだがそれなりに違和感なさそうで複雑な気持ちだ。
「リョウ兄さんは?」
「学び舎で勉学に励んでおられるはずです」
無機質な声で綾芽さんは答える。こういう事務的な女性が相手なら俺も精神的に楽だな。リョウ兄さんのはからいに感謝だ。
後は服装か、女物を着るのははっきり言って抵抗があるが、鏡を見た時点で男物というかズボン自体似合わないという事を俺は理解している。やりたくは無いが仕方ない、か。
「じゃあとりあえず近所の服屋に行けば良いのか?」
近所の服屋か、ブランド志向の場所じゃなくて良いからとりあえずこの道着は着替えてしまいたいな。
「下着なども用意させて欲しいとの言伝ですのでご容赦くださいませ」
「……は?」
唐突な一言で思わず間抜けな声が出てしまった。
「ちょ、ちょっとまった。まさか俺に女性用下着売り場に……」
「問題ないでしょう、まさかその年齢で一度も言った事が無いというわけでもないでしょうし」
そういえば、どうせ信用されないだろうから俺は「家出少女」という設定で綾芽さんに紹介されたんだったな。やむを得ないとはいえ、絶対に縁が無いと思っていた場所に自分の用事で行くハメになるとは。
まあ、この身体で男物の服を着るのは何かと不便だろうなとは思うし、流石にノーブラでこの季節は辛い。そして一瞬見たくもない姉貴の透け乳を思い出してげんなりとした。
しかし、考えていても動くたびに胸が擦れて気になるのは我慢ならない、サイズだけ測って綾芽さんに買ってきてもらうのは無理だろうか。
「あ、綾芽さん、代わりに買ってきてもらうってのは」
「申し訳ありませんが、メイ様に女性用品売り場へ一通り連れて行ってくれとのことですので」
何の意図があるのかは分かりませんが、と綾芽さんは付け加えた。
まあ理屈としては分かる。この先元に戻る保証はないし、万一戻れなくなったとしたらいつかは下着売り場にも行かなければ行けないだろう。そのために慣れておくというのは、まあ分かる。
だが、人間には本能というかそういう理屈だけで語れない部分があるのも確かなわけで、つまり、俺としては男に戻る希望がほぼ潰えてからでも良いだろう。というのが正直なところだ。
「んー」
どうするか、このままで居るわけにも行かないがあんなに女のにおいが充満した場所に行けば恐らく蕁麻疹程度ではすまないだろう。
「さあメイ様、参りましょう」
「え、ちょ、ちょっと何? なんなの!? いやいや、俺はちゃんと歩けるから! そっとしておいて!」
唐突に襟をむんずと掴まれて引きずられるようにして俺の身体は動かされ始めた。
「姉さん、お出かけですか?」
何とか体勢を立て直そうと躍起になりつつ、綾芽さんに変わらないペースで引っ張られつつ、俺は聞き覚えのある声がしたのを聞いた。
「要、私はすこし出てきます、義父様のお世話をお願いします」
誰だっけ……ああ、そうだ思い出した。寝る前に会った変な格好の男だったか、姉さんって事は二人とも兄弟なのか。
「それは良いですけど……手は離してあげたらどうですか? 確か彼女は若の客人だったはずですよ」
そう言われて「ああ、そうだった」と思い出したように綾芽さんは手を離す、なんか怒られるような事をしただろうか。急に手が離れた拍子に思いっきり打った腰を摩りながらそう考えた。
辺りの空気は湿気を含みつつ、強い日差しを浴びて俺の不快指数を確実に上げている。
結局半ば無理矢理に道着のまま外に連れ出されてしまった。そういうわけで、俺と綾芽さんは駅から少し離れたスーパーに向かっていた。
「この時間は流石に人少ないな」
辺りには昼食の買出しに来ている主婦が殆どで、エプロンドレスと道着の二人組はさぞ目立っているであろう事が想像できた。
だが、それでもエプロンドレス姿の綾芽さんは動じることなく歩いている。いつも着ているだけあって慣れているのだろうか。
「メイ様、あまりオドオドしていると逆に目立ちますよ」
俺の考えを読んだかのように綾芽さんは一言囁くように忠告してきた。それはそうなんだが、ただでさえ本能というか羞恥に耐えなければ行けない場所へ行くのに、さらにこの格好というのは中々に恥ずかしい。
「まあそうは言ってもな……この身体でこの格好だと」
女で、しかもこんな物を着ているとなると、やはり周りの視線が気になる。まあ元から女なら楽なんだろうけどな。
「胸くらい見せ付ければ良いじゃないですか、減るものでもありませんし」
胸? そう言われて自分の胸と綾芽さんの胸を見ると、なにか圧倒的な違いがあった。まさかこんな所で元々女の人に勝ってしまうとは思わなかった。
俺は大体いつも見ている姉貴と妹くらいだから普通サイズなのだろうが、綾芽さんは昨日までの俺とそんなに変わらない膨らみ、性格もあったかもしれないけど、この部分で俺は安心する事が出来たのかもしれない。
「大丈夫だよ綾芽さん、小さい方が好きな人とか居るかぐえっ!?」
そう言って励ました瞬間、胃の部分に貫手が飛んできた。
ま、まあちょっとデリカシーなかったかもだけど、いきなり貫手はご勘弁願いたかったな。
「痛たた……」
腹筋へのダメージも含めて内蔵へのダメージは甚大だ、手が離れてもジンジンとした痛みが残る。それはもう周りの視線が気にならなくなるレベルで。
「……」
恐らく指の第二関節くらいまで刺された腹部をさすって何とか体勢を直すと、何故か不思議そうな顔で俺を見る綾芽さんが居た。何か変な事でもあったのだろうか。いや、変な事って言うと俺の身体がそうなんだけど。
「ヤッホー綾芽さーん、今日もお使い?」
そう思っていると、背後から聞きなれた声が聞こえてきた。そうか、俺じゃなくて後ろの奴に向けた視線だったんだな。振り返るまでもなく、この軽薄そうな口調は誰だかわかる。
「哲也様、学校はどうなされましたか?」
「ブッチした!」
テッちゃんはフヒヒと特徴的な笑いをこぼした。しかし綾芽さんと知り合いとはな、まあ俺とは人付き合いの方向性が逆だし、知り合いが共通の人間だけというわけでもないとは思うが。
「あれ? この可愛い子は誰?」
振り返って挨拶をしようとしたらそんなことを言われた。やっぱり気付かないよな。
とりあえずダメ元で名前を言っておくか。
「俺だって、ア」
「彼女はメイ様、私は今、若より彼女の世話を申し付けられています」
「……」
綾芽さんの事務的かつはっきりとした声に流されて、言いそびれてしまった。それに気付いてくれれば良いのだが、俺の悲観的想像通りテッちゃんにそんな技量は無いようなので、話はそのまま進んでしまう。
もしかして、俺はこのまま戸籍不明の少女メイとしてこれから生きなければいけないんだろうか。なんとなくだがそんな言い知れぬ恐怖を感じた。
「へぇー師匠のか、手出したら殺されそうだなー」
といいつつも俺は感じていた。テッちゃんの視線が値踏みするように足、腰、胸、顔ときてまた胸へと戻るのを、女も嫌いだけど人をこういう目で見る人間も俺はあんまり好きじゃないな。例えそれが昨日まで普通に話してた友人でも。
俺の不快そうな顔を察知したのか、テッちゃんは慌てて視線を元に戻した。バレバレだっつうの。
「そ、そうだ、女の子二人じゃ荷物重いでしょ、俺が荷物もちやろうか?」
何とか自分の視線をごまかそうと話題を変えてくるが、それもやはり変な方向にいく話題な訳であって、いわゆる墓穴というやつだ。
「俺たちがこれから行く先って下着コーナーなんだけど、来るのか?」
「え、下着……それはちょっと、ていうか綺麗なのに随分男勝りだなあメイちゃんは」
メイちゃん、と呼ばれて身の毛がよだつような思いをした。止めろって外見はともかく心は男なんだから。
そう思ったのが顔に出たのか、テッちゃんはまた地雷を踏んだと勘違いしたらしく、余計にあたふたとし始めた。
なんだかその様子が滑稽だったので、笑いをこらえつつ見ていると、丁度その後ろから大きな人影が現れた。
「テッちゃん、合流場所に来ないから生活指導に捕まったかと……うげ」
生活指導の教師連中よりも厄介な物と出くわしちまった。リョウ兄さんの顔にはそう書いてある。
「あ、ごめん師匠、ちょっと綾芽さんとかわいこちゃんを見かけたからさー」
「か、かわいこちゃん?」
おもわず素っ頓狂な声が出てしまった。ただでさえ虫唾が走りそうな褒め言葉なんだからいい加減自重してくれよ。
そんな俺の心中を察したのか察してないのか、あるいは会話の違和感を取り除くためかすかさず言葉を挟んだ。
「ああ、コイツは男兄弟の中で育ったからそういうこと言われるの苦手なんだ、察してやってくれ」
出任せも良いところだよ全く。そう心の中で皮肉った。俺が男兄弟に囲まれてたら女に幻滅せずに済んでいただろうになあ。
「さて、若が何故ここに居るのかについてお教え戴きたいのですが」
なんとなく緩い空気で会話していると、突如絶対零度の声が響いた。屋外で、かつ少ないとはいえ車どおりのある道にもかかわらず、だ。
「あーっと、それは、だなアヤメ、簡単に言うと、サボりなんだが……ちょっとまった、親父に連絡するのは止めてくれ」
サボり、という言葉を聞いた時点で綾芽さんの右手に黒檀色の携帯電話が出現していた。
「ご安心ください若、義父様の側で控えている要への連絡です、義父様は携帯を持っていませんので」
「変わんないぞそれ、おい」
その言葉を聞き流すように粛々と綾芽さんは携帯電話をいじり続ける。
「まあ、綾芽さん、勘弁してやってよ」
一応恩はあるわけだからな、そう思って助け舟を出した。綾芽さんからは敵意に満ちた、リョウ兄さんからは感謝に満ちた視線が飛んでくる。テッちゃんの「コイツ、ノーブラじゃね?」という視線もあったような気もしたが、それは気にしないことにした。
「お言葉ですがメイ様、これは我が家庭内の問題ですので……」
家庭内の問題でも、昨晩要さんは見逃してくれたわけだし、条件次第では何とかなりそうだな、俺はそう判断した。
ならば彼女を楽しませるか、彼女に利益をもたらすかすれば良いわけだが、俺は残念ながら両方出来そうに無い。
「あ、そうだ、今から買出しだろ? 手伝うからさ、頼むよ」
「師匠、それはやめたほうが……」
ついさっき同じことを言って辞退したテッちゃんが控えめに兄さんの墓穴を掘る行為を止めようとした。
しかし違う人が短い間隔で同じことを言うとか珍しいなあ、まあ行くように仕向けた張本人だからフォローしなくても良いか。
「成る程、ならば私達とご一緒していただきましょうか、下着コーナーまで」
「し、下着!?」
やっちまった、という顔だ。自分で言ったことくらい覚えておこうよ兄さん。ついでにテッちゃんもあきれ返ったように目をそむけている。テッちゃんと違ってリョウ兄さんは拒否できないだろうから哀れだ。
「さあ、早く行きましょう若、それとも連絡して欲しいんですか?」
そう言う綾芽さんは確実に嗜虐の悦びを感じているようだった。
そのコーナーに入った時、鼻につく香水の臭いが俺の脳にガツンと襲ってきた。やはり性別が変わったとしても臭いの好き嫌いは変わらないようだ。
「マ、マジで行かないとダメか?」
リョウ兄さんはもう既に入り口まできているというのに未だに行きたくなさそうに俺たちから少し距離をとっていた。
ちなみにテッちゃんは早々に撤退して他校の女の子と遊びに行ってしまった。要領が良いというかなんと言うか、逃げ足の速さは素直に尊敬したいな。
「ここまで来て今更引き返す、なんて事は致しませんよね?」
綾芽さんは笑みを浮かべてそう言った。それを見てリョウ兄さんは溜息をついて「アヤメ、お前怒ってるだろ」と小さな声で言った。
「リョウ兄さん、観念しようぜ」
まあ俺もこんなコーナーに外見は女だとしても綾芽さんと二人というのは何かいたたまれない気持ちになる。こんな場所に差し向けたリョウ兄さんにはせめてお付き合いしていただいて恥ずかしさを共有してもらおう。
「メイ、お前もか……」
そんなカエサルみたいなこと言われても困るんだが、とりあえずは店員さんに声を掛ければいいのか?
「え、えーっと、綾芽さん? ちょっとこういう店って初めてなんだけど」
とりあえずなんか知ったかぶりで恥をかくのもいやだし、ここは「女歴」=年齢の人に聞いたほうが良いだろう。
「なら店員へその旨を伝えると良いでしょう、私は待っていますので」
ちょ、綾芽さん?
「じゃあ俺も待ってるわ」
リョウ兄さんまで、俺はそんな度胸無いってば……
「いえ、メイ様は若を頼ってこられたのでしょうから、ついていってあげるべきだと思います」
ナイスだ綾芽さん、でもそのままだと中身的には男二人で下着売り場に突入というものすごい珍妙な事に、ただでさえ視線が痛いんだから出来ればついてきて欲しい。
「アヤメ、もしかして怒ってるのか?」
「いえ別に」
うわあ、あんまり付き合いが長くない俺からも感じ取れる不快感の塊みたいな声だ。こりゃ相当機嫌悪いなあ。
「そうか、なら良いんだ……じゃあメイ、行くか」
だが、リョウ兄さんはそんなことを気にしないでさっきまでグダグダ言っていたのが嘘のようにすんなりと引き下がった。
そして俺は、兄さんに引かれるまま記憶に残る限りでははじめて下着売り場という場所に足を踏み入れる事になった。
右を向いても左を向いてもパステルカラーの布が目に入る。それ以外の色を探せばどうやって使うのか分からないような、いわゆる「過激」な下着の原色が目に入った。
「リョウ兄さん、何か綾芽さんは怒ってたみたいだけど、それもかなりのボルテージで」
棚の陰に隠れて綾芽さんが見えなくなってから、俺はようやく口を開いた。別に彼女の機嫌をとりたいわけじゃないけど、この先俺の目から見て「まともな」女性とは、関係を悪くしたくなかった。
「ああ、お前が気にするような事じゃない、あいつは俺がこうやって他人をかくまう時、たまに機嫌が悪くなるんだ」
「たまに?」
「どうも親父のごまかしが大変なんだろう、基本的に放任主義の癖してこういうところは異様に何かと言ってくるからな」
困ったもんだ、と言って肩をすくめる。その動作は、早くもこの下着売り場と言う羞恥の場所に慣れたかのように自然な動きだった。
俺の予想ではリョウ兄さんの父親は綾芽さんと要さんの姉弟に兄さんの世話を任せて、必要な時に本人が声を掛ける。みたいな家庭なんだろうと思う。
「大変なんだな、リョウ兄さんも」
俺の姉妹介護も大変だが、お互いに何かと自由にならないと言う点では一緒なんだろう。だから「俺のほうが大変だよ」とは言わないでおいた。
「痛っ……」
いかん、女の身体って乳首擦れやすいのか、ちょっとヒリヒリしてきた。これは恥ずかしいとか言ってる場合じゃなくなってきたな。それに股も下着が無いからかスースーするし、適当に店員さんに頼んで見繕ってもらおう。
散々俺の体を図りまわってよく分からない算出方法で身体に合う下着を選んで適当に見繕った物を三セットほど売ってもらった。代金についてはリョウ兄さん達が立て替えてくれるらしいのでお言葉に甘えようと思う。
「しかし女物ってさ、結構窮屈なのな」
道着を着なおして試着室から出たところで、手持ち無沙汰にしていたリョウ兄さんにそんなことを言ってみる。
まあ、家で散乱している下着類が軒並み丸まってるところから考えても結構ゴムは強いんだろうなーとは思っていたが、身体のラインを固定化させるためなのか、あっちこっちの方向へ突っ張った感じがした。
「後は洋服か、早く行こう」
リョウ兄さんは顔を少し赤くして俺から目を逸らす。下着はどうも兄さんにとって女性として意識してしまう要素らしい。
とは言うものの、俺も下着をつけた自分の身体を鏡越しに見たとき、何か吹っ切れたというか、越えてはいけない一線を踏み越えてしまったような感じだ。
具体的には、女に対する気持ちは変わらないものの、自分の身体が女になったと言う事態については「まあいいか」と思えるようになっている。
「リョウ兄さん見てよこのブラジャー、めっちゃ寄せて上げてるぜ」
「ん? ってうわっ、見せんなそんな物!」
だからこんな感じで自分の身体を使ってリョウ兄さんをからかうのもなんか楽しくやれた。マズいかな、この傾向。
「そんな物とか言うなよ、元々を考えればそんな過剰反応するもんじゃないだろ?」
わざとらしく胸部のふくらみを押し付けるとリョウ兄さんは顔を真っ赤にして慌てる。なんかそれが可愛く思えてきてちょっとエスカレートさせても良いかなーとか思った。
「若」
ビシリ、と空気が凍った音が聞こえたような気がした。
一言、文字としては二文字だというのにそう聞こえたのは、やはり青筋付きの綾芽さんが視線の先に居る所為だろう。
「あ、アヤ……メ?」
即座に綾芽さんは携帯を取り出し、ものすごい速さで携帯の文字盤を滑らせ、再度携帯電話をポケットにしまった。
「要へ連絡させていただきました。では、次に洋服売り場へ参りましょう」
「お、おい、ちょっと待てってば、俺は別に……」
リョウ兄さんの顔が垢から段々と土気色に変わっていく、よっぽど知られたくなかったらしいと言う事が手に取るように分かる。
「『別に』とはどういうことでしょう。もう意味はありませんが弁明なさいますか?」
綾芽さんは意外と言うかやはりと言うか、俺に対しても怒っているらしい。射抜くような視線が俺のほうにも投げかけられた。
うん、ちょっとやりすぎたかな……綾芽さんってこういうの嫌いそうだし、機嫌を損ねるのも必然かなと。
俺が気まずくなって胸を離すと、リョウ兄さんは頭を掻きながら「ごめんなさい」と割と素直な謝罪をした。
多分兄さんとしては「なんで俺が怒られるんだよ、怒るならメイの方だろ」と言いたかったんだろうけど、綾芽さんの眼力に負けたらしい。喧嘩は強いのにこういうところは弱いんだな。
「いいでしょう、『私は』この件に関して目を瞑ります。」
私は、を強調して綾芽さんはふぅ、と溜息をついた。と言う事は兄さんは父親に何か小言を言われるのだろう。それがもうすぐか家に帰ってからかは分からないが。
「やっぱり、親父に報告したのはマジだったんだな」
綾芽さんより大きな溜息が、リョウ兄さんの口から零れる。下着売り場で溜息をつく男とエプロンドレスの女性、そして道着姿の俺、変な空間過ぎて周りの目がまた痛くなってきた。
「と、とりあえず俺、まともな服を着たいなー……なんて」
なんか陰気な空気が立ち込めそうだったので、右手を軽く挙げて提案してみる。この空気を何とかしたい、と言うのもあったが、一番の理由は衆人環境からの脱出だったりする。
「そうだな、とりあえずはそれを済ませるか」
額に手を当てて兄さんはそう言った。
下着と比べれば、まだ女物の洋服をそろえるのは苦痛ではなかった。まあなんか男物と違って胸元が大きめに開いてたり、スカートの所為で股が不安になるが、それは許容範囲だ。
「しかしまあ、こうなっちゃうと完璧に『女の子』だよなあ」
胸元の開いたTシャツとデニム地のスカートを身に着けた自分を鏡に写して呟く。
昨日までの俺なら発狂しそうなレベルで女の子らしい姿になってしまったが、いまはそんなに抵抗無く受け入れてしまっているのがちょっと怖い。
「着替え終わったかー?」
「ん、大丈夫、何とかなった」
カーテンを引くと、リョウ兄さんと綾芽さんが待っていた。
俺の姿を見て兄さんは曖昧な笑みをうけべて頷き、綾芽さんは「お似合いです」と頭を恭しく下げた。
「似合ってる……って言って良いのか?」
「た、多分」
正直言って俺としてもどういう反応されると嬉しいかは全くと言って良いほど分からなくなっている。
褒められたらそれは俺が女だって事を完全に意識しての台詞だからあんまり嬉しい気はしない。
だからと言って似合ってないと言われるのも複雑だ。うーむ、「普通」とかそこら辺がベストアンサーかもしれない。
「そうか、とりあえず俺はこの後家に帰るかな、どうせもう土曜で終業時間過ぎてるし」
近くで纏まってる女子生徒たちを見てリョウ兄さんは言う、そういえば俺も特に用事はないしこのまま帰ろうかな。と、あの集団の中に自分が居る事を想像してちょっと嫌な気分になりつつそんなことを考えた。
「あ、シショー!」
そんなことを考えた時、遠くの方にあった女子学生の集団から声が上がった。この声は聞き覚えがあるな、たしか昨日も聞いたはずだ。
声の主は、小さい身体で集団から抜け出すと、ショートヘアーを振り乱して走ってくる。
「奇遇ですね! 今日はこんな所でどうしたんで……うわっ!?」
中学生くらいの身長で弾丸みたいに勢い良く店内を駆け抜けてきた女子生徒は、綾芽さんに足を引っ掛けられて盛大に転んだ。
足を引っ掛けた時に綾芽さんが辺りに配慮したおかげか、中一くらいに小さい女子生徒は近くの棚に積まれた洋服を崩すことなく綺麗に地面と額を突き合わせる。
「千穂様、店内で走り回りますと、お客様の迷惑となりますよ」
「痛つつ、姉さんはいつでも容赦ないっすね……」
乱れた栗毛をそのままにして、そうとう強くぶつけたであろう鼻を押さえつつ坂田は立ち上がった。涙ぐんではいるものの、気丈に振舞っている。
もうちょっと落ち着きを持てば良いのに、とか鼻声のちびっ子を見て思ったが、それに気付くくらいなら初めからこんな性格になってないだろうなと思い直した。
「っと、それよりシショー、言われた事ちゃんと調べてきましたよ」
気を取り直して、手櫛でぱぱっと髪形を整えたあと、ショートヘアーの一年生は姿勢を正して話し始めた。ちなみに鼻はやはり赤くなっている。
「そうか、どうだった?」
その赤鼻を気にしていないように、兄さんはその報告を促した。
報告って何を調べさせてたんだろう、と思いつつも、俺は頭の片隅で大男一人、女(?)一人、エプロンドレス一人、ちびっ子一人の組み合わせで婦人服売り場って言うのも目立つな。とか考えていた。
「真奈美ちゃん曰く、やっぱり明先輩は昨日の晩に失踪しちゃったみたいです。今日起きた時にはもうもぬけの空だったみたいで『このまま帰ってこなかったらどうしよう千穂……』との事です」
真奈美、と聞いて俺の意識は周りの視線から兄さんとちびっ子の会話に移った。同じ学校に通ってる一年の真奈美と言えば俺の妹だ。
「なるほど、とりあえずお前の言葉は信用して良さそうだな」
そう言ってリョウ兄さんは俺の肩を叩いた。どうやらまだ俺を信じてくれていなかったらしい、まあ俺も兄さんの立場だったら信じてなかっただろうし酷いとは思わないけど。
「若?」
話の状況がつかめないのか、綾芽さんは首をかしげて兄さんを見た。
「ああ、こっちの話だ、お前は気にしなくて良い」
手を振って合図すると、綾芽さんは頭を下げて一歩下がった。さっきまで尻にしかれたような状態だったのに、別人になったのかと思うような立場の逆転っぷりだ。
「他には? 何か言ってたか?」
「心配だとか早く帰ってきて欲しいとかですね、真奈美ちゃん自身、かなり精神的に消耗してるみたいです」
俺は大きく溜息をついた。もちろんそれの内訳は安堵よりも呆れた、と言う気持ちのほうが強かったが。
相変わらずあいつらは俺に頼りっきりか、そう思うと頭の片隅にこのまま男の時持ってたしがらみとか全部捨ててしまいたいという考えが浮かんだ。
もちろん数秒で頭から振り払ったが、その選択肢は少しばかり魅力的だったのを否めない。
「リョウ兄さん、この話は?」
「ああ、ちょっとした事実確認と状況の把握だ……心配されてて良かったな」
兄さんは俺に笑みを向けてくれるが、俺としてはさっきの考えも含めて、素直に喜べなかった。
「いや、あいつらは家事担当の人間が居なくなったから『めんどくさいな』程度の理由だろ、俺には関係ない」
少し悲しいような気がするけど、俺の価値なんてあいつらの中ではそんなものだろう。こんな風に思うこと自体が馬鹿馬鹿しい。
「ん、シショー、こっちの女性は?」
「ちょっと家で預かってるだけだ」
適当にはぐらかすと、兄さんは踵を返した。
「じゃ、俺はこのまま帰るから、お前もあんまり寄り道しないで帰れよ」
そうちびっ子に言って、綾芽さんと一緒に兄さんは歩き始めた。
「シショー、ちょっと待って下さいよー」
それを追うように俺も身体を反転させると、真後ろで声が上がった。
「ん、どうかした?」
ちびっ子の声に応えてリョウ兄さんは足を止めて振り返る。それに釣られるように綾芽さんと俺も振り返った。
「えーっと、土曜日でもお腹空くかなと思って今日も弁当作って来たんですけど……」
午前授業なのに作ってくるとか兄さんは好かれてるな、うらやましいと言うわけじゃないけどちょっとそういう類のなんともいえない気持ちが俺の中にあった。
そして、多分兄さんの性格からして、食べるんだろうな、と思う。まあそれに関しては、そういう性格のおかげで俺は助かったわけだからとやかく言うのはダメなんだろうけど。
ん、あれ? 俺って今嫉妬してるのか?
「いや、食べるよ、じゃあアヤメ、悪いけどそういう風にしてもらえるかな」
「分かりました、ですが義父様には報告させていただきます」
ちょっとした思考回路の混乱に戸惑っているうちに話は進んでいた。このまま一旦リョウ兄さんの家に帰らせてもらうのが普通なんだろうけど、現在俺の気分としては兄さんと同席したい気分だった。
「げ、マジかよ、しょうがないな……」
綾芽さんの言葉に兄さんは困ったように頭を掻いた。さっき立場が逆転したかと思ったらまた元に戻っている。この二人の関係はどうなっているんだろうか。
「では、私はこのまま買出しを続けさせていただきますので、若とメイ様はご自由にどうぞ」
機械的な調子で言うと、綾芽さんは一礼と共にくだりのエスカレーターの方向へ歩いていってしまった。
さて、これからどう理由をつけてリョウ兄さんと同席しようかな。そう考えて当人の顔を見ると「どっちにする?」みたいな顔だったので、満面の笑みで「行きたいな」と言う意思を伝えてみた。
とりあえず場所に困ったら公園。兄さんやテッちゃんとつるみ始めた頃からそれが定番になっていた。
「どうですシショー、美味しいですか?」
「ん、ああ」
俺は昼食を持っていなかったので近所のコンビニでサンドイッチを買ってきて食べているのだが、どうにも隣が気になって職が進まない。
「今日は頑張ったんですよ、この煮物なんか昨日の夜から出汁を……」
まあ確かに弁当の中身を横目で覗くと、かなり手の込んだ中身だって事は理解できた。
毎日ご飯を作っている視点から見れば、色味とバランス等も理想的な形に収まっていて、嫁にもらう男は相当幸せなんだろうなと思う。
「ああ、とりあえず静かに食べさせてくれよサカタ」
「良いじゃないですか、どうせなら食べさせてあげますよ」
だからこそ、だろうか。俺の隣で一方的にハートマークの混じった尊敬のまなざしを発しながら喚くちびっ子と、少し困った素振りを見せつつも否定をしない兄さんにちょっとした苛立ちを感じた。
昨日までの俺なら苛立ちと言うよりは同情を感じたはずなんだが、俺の体が女になった事と何か関係があるのだろうか。
「……」
思考がこんがらがったのをサンドイッチにかぶりついて口の中に詰め込む事で誤魔化した。
「むぐっ、ぐ?」
「ん、どうした?」
いかん、喉に……パン類を一気食いしたのがマズかったか。ドンドンと胸の辺りを叩いてみても中々下がってくれそうにない。
そうだ、こういう時は水を飲めば良いんだが、コンビニでケチったんだった。
「兄さん、み、水……」
ここは背に腹はかえられない。兄さんの買ったお茶を分けてもらおう。
差し出されたお茶のペットボトルを引っつかむと、口をつけて一気に半分ほど飲み下す。冷たい感触と共に喉につかえた固形物が流れていくのを感じて俺は口を離した。
「ぷはっ、助かった……」
ふぅ、死ぬかと思った。飲み物を買っていたリョウ兄さんに感謝だな、これは。
「む、シショー、私にも飲み物くださいよ」
詰まりかけた喉が通ってほっとしていると、近くでその様子を見ていたちびっ子が何故か不機嫌そうな声を上げた。
「おいおい、お前の分は買ってやっただろ」
「シショーのが飲みたいんですってば。私も……その、か、間接キスとかしてみたいんです」
間接キス? まあ行動としてはそうだけど男同士でそんなのを意識しないだろ。
「あ」
そういや俺、必死で考える余裕無かったけど外見上は女だったな、ちょっと切羽詰りすぎてそれをすっかり忘れていた。
ちょっと悪い事したかな。まあそれでも気付いた後、さっきまでのイライラが少し薄れたのは否定しない。
「うーん、そう言われても困るんだがな、とりあえず腹減ってるから食い終わった後で良いか?」
手作りの弁当についてきたピンク色で可愛いデザインをした箸をもってリョウ兄さんは空腹をアピールする。
「うーん、仕方ないですね、じゃあこの玉子焼きも……」
ちびっ子はそこまでくいさがることなく、弁当の具を解説する作業を再開させた。
俺自身、ちびっ子の行動にはもう苛立ちを感じなくなっていた。もしかして俺は嫉妬していたのか?
いや、そうだとしても誰にどういう理由で嫉妬したんだろう。別にこんなちびっ子の事は好きになるはずが無いし、リョウ兄さん相手でも俺はそういう趣味は無いはずだ。
そのはず、なんだが、外見的にはごく普通なんだし、女と付き合っている将来なんて俺には想像できない。
……もしかして俺はそうなのか?
脳裏に一瞬そんな思考がよぎった。女嫌いという性格は昔からだが、俺はひょっとして男が好きなのか。だとすると、この身体になったのは精神の方に身体が合わせたような状態なのかもしれない。
「サカタ、旨かったぞ」
「もうその言葉だけで頑張った甲斐があります! 次は月曜日に持ってきますね!」
いやまさか、俺は男と付き合うのも同じくらいありえない事だって思ってる。そんなはずはない俺は心はまだ男だ、服装には抵抗なくなっていようとも。
だが、もしこのまま元に戻れないとしたらどうしよう。
「メイ、帰ろうか」
それにこの服装みたいに段々と男を好きになる事への嫌悪感が薄れていくとしたら、俺はどうなるのだろうか。
「メイ?」
そうだ、例えそのまま戻らなくても、アキラからメイに読み方が変わるだけ、もう俺、アキラは「何処にもいない」んじゃないか。
「アキ!」
「うおっ!?」
耳元で自分の名前を呼ばれてはっと我に返る。
「リョウ、兄さん?」
「どうしたんだよ、さっきから変だぞお前」
心配そうな顔で俺を見る兄さん。
兄さんの中で俺はまだ男なのだろうか。それとももう女として認識されているのだろうか。
「なあ兄さん、俺って男なのかな、それとも……」
「男女以前にお前はアキだろ、今ちょっと変な事になってるだけだ」
そうか、兄さんに言われると安心できるな、確かに俺の記憶は連続してるし、俺が俺以外の誰かなんて訳がないもんな。
「でもさ俺、男に戻れるかな?」
ぴくっとリョウ兄さんの身体が動く。答えにくいよな、俺も同じ質問されたらそんな反応をするって想像できる。
なった原因も分からなければ戻る方法も分からない、大げさに言えばこれから先、どうすれば良いか全く分からないのだ。
「そうだな、それは分からない、でもどうにかしてお前がアキだって皆に知らせないとまずいのは確かだ。お前が嫌だとしても、せめて家族には信用して貰わないとな」
たしかに、今やらなきゃいけない事は女か男か考える事じゃない。
いや、それも大事なんだが、俺がアキラだと周りに知らせて信じさせないと俺は学校にもいけない。
「だからな、今日か明日、お前はお前の家に行って家族と話して来い」
「う……」
どうしようか、リョウ兄さんの言うことはもっともだが、正直言ってあまり気乗りはしない。特にあのちびっ子の報告を聞いた所為で。
「わかった、明日の昼行ってくるよ」
だが、行かないわけにもいかない、腹をくくる事にした。
「ふう」
家、といってもリョウ兄さんの家だが、そこに帰って、俺は客間へ通された。兄さんは説教を受けているが、少なくとも俺はこの二、三日の間は居られる事になった。
部屋の間取りは四畳半かそこら辺だが、縁側の廊下から庭が見えたし、家具の少なさを考えれば十分に広かった。
買ってきた洋服を畳んで部屋の隅においてある箪笥の二段目に詰め込むと、俺は部屋の中央にある小さなちゃぶ台に置かれた煎餅を庭の景色を楽しみながらかじった。
ようやく一息つけたな。そう思って思い切り伸びをすると身体の中にあったモヤモヤとした疲れが吐く息と共に出て行くのを感じた。
箪笥とちゃぶ台以外は押入れだけでテレビも何もないが、逆に言えば静かで落ち着く空間だった。
「失礼します」
声が聞こえるのとほぼ同時に俺の背後でふすまが開いた。振り返ると綾芽さんが正座して頭を下げていた。
「若からの依頼で世話を任されました。よろしくお願いいたします」
「え、あ、はい」
なんかついさっき昼食前に別れるまで脅威の対象だった物がいきなり敬語を使って「よろしくお願いいたします」とか言ってくるとは思わなくて面食らってしまった。
「では、私は側で控えておりますので御用があれば何なりと」
「あ、じゃあちょっと聞きたい事があるんだけどいいかな」
女でもこういう生真面目そうな人はそんなに苦手じゃないし、ちょっと気になった事を聞いておこうと」思った。
「なんでしょうか」
いかにも事務的な口調だが、前までにじみ出ていたとげとげしさのような物は消えていた。腹の中ではどう思っているか知らないが、少なくとも俺の気分は軽くなった。
「リョウ兄さんと綾芽さんってどっちが主従関係で上なんだ?」
一見するとリョウ兄さんは綾芽さんの尻に敷かれている印象があるが、俺の素性に関して追求があった時、リョウ兄さんは一言で綾芽さんを黙らせていた。
所詮は主人と従者と言われればそれまでだが、俺はそれが少し気になっていたのだ。
「……そうですね、一言で言ってしまえば私は若の使用人ですから、下です」
少し考えるような素振りを見せた後、綾芽さんは話し始めた。少し話が長くなりそうなので、俺は手振りで座布団に座る事を進めたが、綾芽さんは手のひらをこちらに向けただけでその場から動かなかった。
「ですが、若はただの使用人ではなく、友人として扱っています。つまり、若自身から普通に振舞って欲しいと言われています」
変わってるというかなんと言うか、まあ兄さんらしいと言えばらしいかな。誰かを下に置く事があんまり好きじゃないからこそ俺とかテッちゃんみたいな変な奴を友人として扱ってくれるわけだし。
「だからといって主従がないわけではなく、若が必要とした場合、特定の呼び方で呼ばれるのでその時私達は従う事にしています」
「私達?」
一人ではない、という事だろうか。
少なくとも俺が思いつくのはん昨日の夜に門を開けてくれた要さんだが。もしかしたら他にも居るかもしれない。
「私と要、そしてこの家に住む一部の門下生……若は現在破門されていますが、それでも慕う人間は少なくありません」
え、リョウ兄さんって喧嘩強いとは聞いてたけどそんな状況なんだ。
兄さんの意外な事実を知った時点で、俺は少し好奇心が出てきた。どうしてあんなに良い性格しているのに破門されたのだろうか。
「リョウ兄さんはどうして破門に?」
「それは若個人の事情なので私の口からお伝えする事は出来ません。使用人としても、友人としても」
そう言われると余計に気になるな。だけど綾芽さんは性格からして食い下がったところで教えてくれそうになかったので、俺は機械があれば本人から聞く事にした。
「ありがとう綾芽さん。ああ、それと最後に一ついいかな?」
首を縦に振る、大丈夫という事か。
「俺については何処まで教えてもらってるんだ?」
「家出をした、若のご友人と聞いています」
簡潔に、そして嘘は言わずに俺の境遇を普通の人が信じられる範囲で教えているらしい。
俺は綾芽さんに礼を言うと、ふすまが閉じて一人になった部屋で庭を眺めた。
障子の下にある雪見窓から白い砂利が敷き詰められた。いかにもな日本庭園が見えた。こんな都市部にこういう庭を持てるリョウ兄さんの家って金持ちなんだろうなあ。そういうことをバリバリと煎餅をかじりながら考えた。
さて、このまま何もやることなくボーっとして時間を浪費していても仕方ない。何か暇つぶしを探そう。
そうは言ってもあるのはちゃぶ台と箪笥、それとお茶請けの煎餅くらいだ。自宅から何も持ってこなかったのが今頃になって悔やまれる。
俺の家といえば、明日帰るんだったっけ、正直なところ気が進まないけど、兄さんが言う事も一理ある。
俺自身が俺だと証明するのは難しいけど、少なくとも自分の家族には信じてもらえなければ社会的な生活へ復帰する事は難しいだろうと俺は思っている。
「ふぅ、どうしたもんかねえ」
誰に向かって言うわけでもなく、自分自身に言い聞かせるわけでもなく、そんな言葉が出た。
どうやって信じてもらうか、兄さんのときは状況証拠とちびっ子の証言から信じてくれたみたいな感じだったけど、あの二人はどうやったら信じてくれるのだろうか。
家族の絆で分かり合える。なんていうのはありえないだろうし、そういう奇跡は好きじゃない。
現実的に言えば、何か俺しか知りえない事を言う事だが、そんな秘密を言ったところで仲が悪かった俺では秘密をバラしたとか思われそうだ。
「んー、ダメだ」
全然思いつかない、俺は体を倒して天井を眺めた。綺麗な木目の並んだ板が貼ってあり、照明がそこから周りと比べて安っぽいコードを垂れてぶら下がっていた。
このまま考える事を続けて時間を浪費するのも良いが、やはり慣れてきたとはいえこの下着と服装の所為か身体の節々が痛むので少し姿勢を楽にして休む事にした。
髪の毛とかそういう部分は合わせて変化したくせにこういうところは変化していないんだな。まあそれもいつまで残っているのか怪しいところだけど。
「ふぁ……」
寝そべるとほぼ同時に眠気が襲ってきた。抵抗する事も無いだろう。もてあました時間なんだし寝て過ごしてしまうのも良いかな。
目が覚めた頃には丁度日が沈みきった頃で、蒸すような湿気も夕涼みの心地よい空気に変わっていた。
寝起き特有の気だるさを感じながら起き上がると、庭が群青色の夜気に包まれていた。
部屋の隅に欠けてある時計を確認すると丁度七時を回ったところだった。寝起きで空腹感はあまり感じないけど、多分少しすれば腹が捻れるような空腹感が襲ってくるだろう。
「ん、んー……」
フローリングより柔らかいとはいえ、畳に直接寝るのは身体に負担が掛かったのか、腰が少し痛む、着慣れない服と相まって体中が懲りそうだ。
「いるかー?」
ふすまの向こうからリョウ兄さんの声が聞こえる。夕飯の呼び出しかな。そう思って座ったまま手を伸ばしてふすまを開ける。
「おはよっす、リョウ兄さん」
ほんの少しやつれたように見える兄さんへおはようの挨拶をした。なんか相当長い間説教受けたんだろうな。というのがなんとなく伝わってくる。
「ったくお前寝てたのかよ、俺はその間……いや、何も言うまい」
よっぽど酷かったんだろうな。道場破門されたとかで仲も悪いだろうし、寝てたのはちょっと申し訳なかったかもしれない。
「と、それより飯だ、家の連中全員に居る事ばれたし普通の客としてもてなしたいとか親父が言い出してな」
「え?」
なんか話を聞く限りかなりしつけに厳しい頑固一徹を地で行くようないかつい白髪混じりの豪傑みたいなイメージだったんだが、ちがうのか。
まあ本人がどういう人かは聞いていなかったからどんな人でも驚く事じゃないんだが。
「『え?』と言われてもな、うちの親父は礼儀だとか決まり事にうるさいんだよ」
なんでそんなにこだわるのかね。とリョウ兄さんは付け足した。
礼儀にうるさいってことはつまり、さっきまで怒られた理由は、客人を押入れで一泊させたことに対して怒られてたのか。
昨日の内に父親にばれてたら深夜だって言うのに全力でもてなすために住み込みの家政婦さんたちを総動員したんだろうな。その人たちのことを考えれば、昨日押入れで寝かされたことで怒られるのは兄さんが少しかわいそうだ。
「うん、じゃあ俺も食わせてもらうかな……っ!」
なれない身体の所為でギシギシ痛む身体を立ち上がろうとした時、強い痛みが腰と肩甲骨を襲った。
「いってー……なれない服着た所為か知らないけど筋肉痛が酷いな」
身体の力を抜いて腰を落とす。こんなにまで体が痛くなったのは走るつもりの無かった長距離走をさせられた翌日以来じゃないか?
動けないわけじゃないけどこのまま身体の数箇所がつっぱったような感じで動くのは辛いな。
「風呂入ったときにでも身体をほぐせば良いんじゃないか? 俺は整体師でもなんでもないから詳しいことは分からないけどな」
そう言って兄さんは右手を俺に差し出した。その手を掴むと俺は歯を食いしばって起き上がる。
適当に話していたら、丁度良い具合に腹も減ってきたな、ここは早いとこ夕食をご馳走になってしまいたいところだな。
「サンキュ、じゃあ飯食いにいこうぜ」
「ははっ、現金な奴だな、じゃあついて来いよ、案内するからさ」
頑強なエナメル質でコーティングされた歯を見せて兄さんは笑った。人懐っこいというか頼り甲斐のありそうなその表情はまさしく兄さんらしい表情だ。
「若、人を呼ぶだけなのに時間掛けすぎですよ」
絹を滑るかのような声で誰かがふすまの陰からリョウ兄さんを呼んだ。この声は要さんかな。
「ああ、悪いカナメ、すぐに行く……まあ、そうだな、俺も今日の夜、少しお前の身体を含めて何が起きているのか、治すのにはどうすれば良いのかを出来る範囲で調べてみる。お前も明日の事を少し考えてみてくれ」
そう言って兄さんは廊下を歩き始めた。俺も遅れないようにしないとな、廊下に出たところで控えていたと要さんに挨拶をして、空腹に耐えかねて音を上げそうな腹部をさすった。
「ぷはっ」
風呂上りの冷たい飲み物は格別だな。特にこういう暑い時期は。
綾芽さんが気を利かせてくれて買って来てくれたイチゴミルクを部屋に戻って飲みながら思った。
好みについては何も言ってないし聞かれてなかったんだけど、家政婦とかそういう職業の人ってそういうことに対しては敏感になるのだろうか。
「ま、俺が分かるはず無いんだけどな」
そんな割とどうでも良いことよりも、気にすべき事は明日の事だ。
明日家族と会うとして、何をどう話せば俺を俺だと分かってもらえるのだろうか。
俺しか知りえない秘密を話したところで、それが偶然や俺が他人にばらしたと、捉えられかねない。なら俺にしか出来ないことをすれば良いんじゃないか。
だとしたら家事全般をすれば……いや、家事が出来る人間なんて一杯居るだろう。それ自体が俺だって言う証明にはならないな。
じゃあ俺が俺だって言うのは証明しようがないのか。そんなはずは無いと思うが、現状ではそれが思いつかない。
「あー、もう」
イチゴミルクを飲み干すと、それをちゃぶ台の上において、天井から下がる紐を三回引き、部屋を暗くして布団に倒れこんだ。
俺は今まで、何でも出来て自分が何者かって言うのは誰にでも分かるようなことだと思っていた。
だけど実際は、外見が変わるだけでこんなにも不安定になるってことは、自分は未だに未熟なんだろう。そう思う。
だめだ、今はそういうことを考える時間じゃない。
そう言い聞かせてどうにかして男だった時と変わらない部分と、それが誰にでもわかって確実に分かってもらえる何かを探さないと。
出来る事、やっぱり俺には家事しかないと思う、俺の料理の癖だとか、独自のアレンジとかを精一杯して信じてもらうしかないのかもしれない。
そうだな、それに俺が元々男だとかそういうことを言わないでそういうアレンジに気付いてくれるなら、多分俺は元の生活に戻れると思う。
問題はあいつらが気付いてくれるかどうか……気付いてくれるって信じたいな、家族の絆とかじゃなく、いつも食べている料理とかそういう味を覚えていて欲しい、そういう考えだ。
「ふぁ……あーあ」
ああ、もう眠くなってきたな、明日に備えて寝ておこう。俺は既に重くなっている瞼を下げてそう考えた。
Tweet |
|
|
0
|
0
|
追加するフォルダを選択
続き