傾いた午後の光が窓から手の上に差し込んできた。
もうこんな時間なのかとセレスは顔を上げる。一時間ほど前から続けていた刺繍は、全体の半分まで出来上がっていた。
(エンデ……大丈夫かな……)
今も十三訃塔にいるだろう青年の事を考えて、途端に胸に湧き上がる言い様のない不安感を振り払うようにセレスは首を振る。
「大丈夫、エンデは強いもの」
わざと声に出して自分を勇気付けると、セレスは改めて己の頬を軽く手で叩いた。
(こんな顔、エンデに見せられない)
自分のために危険な場所に赴く彼に、ここにいる間だけでも安心感を与えられるように。そのためにはセレスが暗い顔をしていてはいけないのだ。
せめて、自分に出来る事はしよう。それがここに来て初日の内に誓った事だった。
それならもうひと頑張り、と再度刺繍に手を付けようとしたセレスは、扉が開く音を耳にして顔を上げる。
エンデが帰ってきたのだろうかと刺繍を持ったまま慌てて立ち上がり階下を見下ろすが、開いた扉は正面玄関ではなく階段横の小さな扉で、そこから入って来たのは大きな壷を背負った老婆であった。
「グライアイ」
名を呼ぶと、老婆は顔を上げてセレスを見た。老婆の背負う壷の中から、骸骨のような姿をした老人もセレスを見上げてくる。
「悪いが、ちょいと台所を借りるよ。あたしらの食事を作りたくてね」
「食事、まだなの? 色々お世話になっているし、わたしが作ろうか?」
刺繍を持ったまま階段を下りていくと、グライアイは夫の入った壷をテーブルの傍に下ろしニヤと笑った。
「おや、あたしらの……特に爺さんの食事はちょっと変わっているが、あんた作ってくれるのかい? ほれ、これが材料だよ」
笑いながらグライアイが差し出したのは、奇妙な形をした何かの実と粒が荒い何かの粉、そして濁った緑と青の入り混じったようなぬめりのある液体。まるで沼の水をそのまま汲んできたような代物だ。
それを見て、うっとセレスは顔を引き攣らせる。
「ご、ごめんなさい、やっぱり、無理かも……」
「そうだろうねぇ……ヒッヒッヒ」
沼色の液体が獣の肉の汁を思い出させて余計に拒否反応が出てしまい、セレスは引き攣った顔を横に振った。グライアイは予想していたらしくただ笑い、材料を手にして竈に向かう。
素早く何かの実を切り分けて粉と混ぜているグライアイの背中を眺めながら、セレスは手持ち無沙汰にテーブルの椅子に腰掛けた。上に置いていた、やりかけの刺繍を再度手に取る。
すると、セレスの隣に壷ごと置かれていたグライアイの夫が枯れ木のような腕でセレスの刺繍を指差してきた。
「♯$%&」
「おじいちゃん?」
「何をしているのかって聞いているよ」
振り向かないままでグライアイが老人の言葉を訳する。
「これ? これはね、刺繍よ。まだ途中なんだけど……」
柄がよく見えるように刺繍の表を傾けると、老人はしげしげとそれを眺めてきた。最も、目玉があるのかどうかも外見からはよく判らないので、恐らくそう、という曖昧なものなのだが。
「青い花の模様なの。完成したら、花が三つ咲いている模様になるんだよ」
「$@%*」
セレスの刺繍に老人がまた何かを言う。
「あんたの刺繍に興味があるみたいだねぇ」
「そうなの? それなら、やり方を見てみる?」
前半はグライアイに、後半は老人に向かって言うと、セレスは布を老人によく見えるよう傾けたまま、針を手に取った。
「こっちに針を通して……ここに絡めて、今度はここに……」
ひとつひとつ説明しながら針を動かしていくと、老人はじっとセレスの手元を見下ろす。グライアイは今度は切ったものを鍋に入れて素早く炒めているようで、ジャッジャッと小気味のいい音を立てながら手元を動かしていた。
料理に集中しているグライアイをちらりと見ると、セレスは老人に顔を近付けて小声で訊ねる。
「あのね、おじいちゃん……おじいちゃんは合成が出来るのよね?」
「$@%*」
老人が頷きながら答えた。そんな反応くらいならセレスにも理解できる。頷き返しながら、セレスは更に声を潜めて訊ねた。
「その、……惚れ薬とかも、出来たり、する?」
「#$……」
「あっ、答えなくていいの! しーっ!」
律儀に返事をしようとする老人の口元に、セレスは慌てて人差し指を立てる。
「作って欲しい訳じゃないの、ただ、本当に出来るかどうか聞きたいだけで……」
「…………」
「惚れ薬じゃなくても、例えば……もっと思っている事を言ってくれる薬とか、……少し積極的になってくれる薬とか」
老人が軽く首を傾げると、頬骨が壷の端に当たってこつりと音を立てた。
その音で我に返ったように、セレスは慌てて首と手を振る。
「ご、ごめんなさい、何でもない! 何でもないの!」
小声でそう捲くし立てると、セレスはやりかけの刺繍を握り締めて真っ赤な顔を俯けた。
そしてそのタイミングで、グライアイが振り返ってくる。
「爺さん、食事が出来たよ」
皿に盛り付けられた料理は、あの材料からとは思えないほどに普通の料理の外見と匂いをしていた。炒めた麦のような粒と、火を通し軽く焦げがついた実が器に盛り付けられている。
何の香りかは判らないがかぐわしく匂い立つその料理を不思議に思いつつも、セレスは気まずさに立ち上がった。
「そうだ私、お花に水をあげなくちゃ……」
わざとらしく口にしながらそそくさとその場を離れようとするセレスに、木のスプーンを用意しながらグライアイが声をかけてくる。
「後片付けはあたしでやっとくよ」
「う、うん」
頷くセレスに、そうそう、とグライアイは言葉を続けた。
「積極的になる薬なんてないけどね、活力剤なら出来るよ」
「――え、」
グライアイの言葉にセレスが凍り付いた。
そのセレスの顔を楽しげに眺めて、グライアイはまた笑って言う。
「それよりは、あんたから積極的に行った方が早いんじゃないかねぇ?」
「…………!!」
「ヒッヒッヒ……」
ぶわっと赤くなるセレスにグライアイは低く笑い、己も木のスプーンを使い料理を食べ始めた。
更にはまたそのタイミングで、玄関が開く。
「ただいま」
そこから入って来たのは、今度こそ正真正銘のエンデ。
良すぎるそのタイミングに、セレスは思わず飛び上がりかけ、そして慌ててエンデを振り返った。
「エッエンデ!!?」
「ちょいと借りてるよ」
真っ赤な顔であわあわと妙に慌てているセレスと、平然と食事をしているグライアイ夫妻に、エンデは不思議そうな顔でとりあえずセレスを見やる。
「……どうかした?」
「えっ、な何が!?」
あからさまに眼が泳いでいるセレスに、エンデは不思議そうに眉を潜めたままそっと手を上げた。
「顔が赤いけど……」
その手でセレスの額に触れて熱の有無を確かめるエンデに、セレスは一瞬眼を丸く見開くが次いでそっとエンデの手に己の手を重ねる。
「ごめんなさい、何でもないの」
「……そう?」
「うん。――お花にお水、あげてこなくちゃ」
すり抜けるようにエンデの傍らから走り去っていくセレスを、エンデは首を傾げつつ見送った。
一度扉から出て行ったセレスは、しかし僅かしてすぐにまた扉を開くと顔を覗かせる。
「エンデ、……おかえりなさい。無事で良かった」
まだ頬を赤く染めたまま、しかし心から安堵したようにそう言うセレスに、エンデも頬を緩めた。
無言で頷くと、セレスも小さく笑ってまた扉の外に出て行く。
そんな二人を眼の端に映しながら、グライアイは小さく笑った。
壷の中に納まったまま、老人も笑っていた。
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と、ほんのりエンデ。パンドラの塔、大樹~湧水辺りの、まだ最初の頃なイメージ。エンデが留守の間もセレスは時々グライアイ夫婦とこんな風に過ごしていたらいいなーという話。