空から女の子がふってきた。何を言っているのかわからないが、とにかくそうなのだ。唐突な事なのにも関わらず俺は冷静だった。だって、同じような事は過去にもあったから。
どこにでもある学園。どこにでもある人間模様。
どこにでもある風景。どこにでもない、リゾーム。
下半身に力を込め、大地に根付く大樹のように身構える。よし、これなら大丈―――
「ぶっ!?」
胸部にぶつかる衝撃に、強制的に息が吐き出される。押しつぶされる肺、そして後方部に倒れ込む身体。あ、やばい。決死の思いで首を前方に傾ける。だってここ、コンクリートだもの。
「あだっ!」
今度は倒れた衝撃が背部から全身を駆け巡る。打ち付けられる寸前に身体が身構えたのか、自然と閉じられていた瞼を開く。「は?」
ここは屋外だった。ぽかぽかとした陽気、時たま頬をなぞる桜の花びら、そんないかにも春らしいごく普通の通学路のはず。しかし今の状況は違う、何か布のようなものが俺の頭をすっぽりと包んでいて、そこから足が……あし?
「ミツ……」
「ええと、釈明の余地は」
「一ピクセルもないっ!!」
なんだその単位は、デジタルっ子めははは。俺は死を覚悟した。
「だからあれは事故で」
「いいわけカッコ悪い」
「というかそもそもはお前が階段からジャンプして飛び込んでくるから!」
数分後、俺と俺に向かって飛び込んできた女は隣り合って歩いていた。この破天荒な女は俺の幼なじみなのだ。名前を二ノ瀬 静香というが、名は体を全く表していないどころか正反対。幼なじみと言ったらもっとおしとやかで献身的な女性だと俺は思うのだが。
「何か言った?」
条件反射の如く首を横に振る。こいつは俺の心すら読むことが出来るのかっ!?
「で、なんでボクらは学校に向かっているのでしょうか」
そう言いながら俺は自分の携帯電話の画面を再度確認する。今日の日付は赤い文字で表示されていた。
「だからぁ、昨日言ったじゃん。図書室の蔵書整理だって」
「それは聞いたがな。問題は、俺が図書委員でもなんでもないというところだ」
「私が図書委員なんだけど、それのどこが問題なの?」
「お前は日本語を正しくキャッチする練習をした方がいい」
確かに委員会に属していない俺は、何回か静香の手伝いをした事がある。もちろんそれらは全て平日の話であって、放課後たまたま暇であったからだ。まさかわざわざ休みを狙って潰しにかかってくるとは静香は俺に恨みでもあるのだろうか。ちらり、と静香の横顔を見る。黙ってさえいれば俺だって何も言えないくらいのレベルなのだが、言動がナチュラルに破綻している以上、俺が人間の世界の常識を教えてあげなくてはいけない。
「お前は俺をお手伝いさんかなにかと勘違いしていないか」
「そんな事無いよー。あ、でも幼なじみだから多少無茶言ってるかも」
「だったら少しその無茶をセーブするとか」
「えー、なんで? ミツにしか頼めないから言ってるんじゃん」
けらけら、と笑いながら俺の期待を一刀の元に切り伏せる静香。
「……だからぁ、パンツ見たじゃん。それでおあいこ」
俺とは反対方向に顔を向けて、ぽつり、と静香は言った。卑怯だ、女って卑怯すぎる。いや、女と括るのは良くないな、こいつが卑怯すぎるだけだ。
「……わかったよ」
途端、風が俺たちの間を吹き抜けた。ふわりとたなびく静香の髪、春の景色と相成って、幼馴染みながらその姿を可愛いと思ってしまった。
「流石に休みの日は生徒も少ないね」
俺と静香は職員室で図書委員会の顧問から図書室の鍵を貰って、廊下を歩いていた。うちの学校は無駄に図書関係が充実していて、図書室も広いが蔵書もかなり多い。そのため図書委員はそれぞれジャンルなどで担当を決められ、新刊の入れ替えやタグのチェック等々を一手に引き受けているそうだ。ちなみに静香は精神学や心理学の担当だという。分野が細分化され過ぎやしないだろうか。
「わかってるくせに、細分化して十分すぎるって」
静香にそれを聞くと、ため息をつきながらそんな答えが返ってきた。言わんとすることはわかる、図書室ではなくうちの学校は図書館として校舎と少し離れた場所に一棟丸々その機能を果たす建築物があるのだ。それを図書委員だけで管理、運営していくというのがそもそも間違いな気がするが……。
「一業君」
妖艶な声。俺はこの声を知っている。声のした方向、背後を振り返ると予想通り声の主である四ツ路さんがいた。
「おはよう、四ツ路さん」
「おはよう。一業君を休みの学校で見かけるなんて珍しいわ」
「こいつの手伝いでちょっと」
俺は隣にいた静香を指差す。ちらり、と四ツ路さんの視線が静香を捉え、そしてすぐに俺の方に戻った。スッとそこに立つ四ツ路さんは女性にしては高身長であり、腰付近にまで伸びたロングヘアがそれをより一層際立たせていた。凛として、それでいて艶やかなのだ。
「四ツ路さんは生徒会?」
「そんなところね。そろそろ行かないと、じゃあね」
俺らを追い越して、すぐ先の階段を四ツ路さんは上がっていった。四ツ路さんが階段を上がるまで、俺らは追い抜かされた場所にぼーっと立っていた。しばらくして、静香が口を開く。
「あの人、確か副生徒会長さん?」
「相当やり手で、実際はあの人がほとんどを動かしてるらしい……それよりも」
俺は一呼吸置いて。
「お前、一緒の学年だろうが」
確かに四ツ路さんは目立つタイプでもないが、せめて生徒会の顔ぐらいは覚えておくべきではないか。
「そっか、同じ学年だったのね。うーん、でも、悪いけど私あの人苦手」
四ツ路さんが上がっていった階段をじっと見つめながら、それでいて声色は変えずに静香はそう言い放った。
「珍しいな、お前がはっきりと苦手なタイプだというなんて」
「結構好き嫌い激しいよ、私。嫌いなタイプもそれなりに多いんだけど、あの人は嫌いとかじゃなくて苦手」
よくわからん。じゃあ苦手じゃないけど嫌いなタイプとかもいるのか。そこら辺何にも考えてないやつかと思ったけど、結構考えているものだ。顔に出ないだけなのか。
「俺は別に苦手でもなんでもないんだけどなぁ」
「だから苦手なのよ」
「なんだって?」
なんでもない、と静香は言って再び廊下を歩き始める。心なしかその足取りは先ほどよりも急いでいるかのようだった。
「で、俺は何をすればいい?」
図書館に二人きり。聞こえはいいが当の俺はまったくときめかない。これからやることはボランティアという名のただ働きだし、相手は昔っからよく知ってる幼馴染だし。
「まずは私が指示した本を棚から引き抜いて。その後逆に入れてもらう作業も待ってるけど」
「あれね、台の代わりなのね俺は」
ふざけて静香の頭頂部をぽんぽんと軽くたたいた。威勢が良いくせに相当のちびっ子だから、何も知らない人から見たら年の離れた兄妹のように見られるかもしれない。
「……? 静香?」
反応がない。なんか俯いてるけど。
「おい、作業するんだろ?」
「わひゃっ!? そ、そうね、そうよ、作業作業!」
はははー、と浮ついた笑い声を漏らしながら静香は自分の担当する棚の方へ駆けていってしまった。図書館ではお静かに、じゃなかったのか。
「ほらあ、早く来て!」
自分から駆けていったくせになんという言い草だ。こんな扱いにも慣れている俺は、別に急いだりしないで悠々と歩いて静香の元へ行く。案の定、棚の上の方の本を必死になって取ろうともがいている静香の姿があった。
「ほら、どれだ?」
「あ……えっと、一番上の左から二つ目、ちがう、それじゃない。そう、それそれ」
引き抜いた本を渡す。自分で取れる本は静香自身で回収してしまうため、俺は呼ばれるまで出番がない。だからそういう時以外は静香の後姿をただ眺めていることになる。
「今、エロい目で見てたでしょ」
「残念、正反対だ」
「これでも少しは成長したんだけど」
「少しは、と予防線を張るのは良くないぞ。素直に言え、まったく変わってないと」
「変わってないって、見たこともないくせに」
「えっ」
思わぬ切り返しに、俺は言葉を詰まらせてしまった。
「あっ……」
俺の動揺が移ったかのように、静香も押し黙る。気まずい。
「ほ、ほら手が止まってるぞ」
「そ、それならそこに回収したやつがあるでしょ。それを蔵書棚の同じコーナーに入れてきて。順番は関係ないから!」
今はこの場に居づらいので、大人しく静香の指示に従う。本は何冊も持てばそれなりの重さになる、ちょっとした肉体労働だ。蔵書棚は図書館と隣接した部屋にあるので、距離も多少だがある。何度か往復しているうちに、だんだんと心が落ち着いてきた。あんなのは一種の気の迷いだ、そんな気さえしてくる。
「そういえば」
蔵書棚に本をぽいぽいと収めながら、ふと、今まで気にしなかった疑問が湧いてきた。確か、静香が図書委員になって担当が決まった時、自分の希望が通ったと言っていた。まったく気にも留めていながったが、つまりは精神、心理系の担当を静香は希望したということだ。
「えー?」
んなアホな、と自身の仮説に突っ込む。あの静香が?心理系?あいつのことは他の人よりも知ってると自負するが、まったくそんなのに興味があるとは思えない。
「大方誰かと交代させられたんだろ」
そう結論付けないと、俺の持つ静香のイメージと乖離してしまう。そんなことを考えていながらも手はルーチンワークをこなしていたようで、いつの間にか腕が軽くなっていた。
「まだ本は残っていたはず……」
そう思って図書館へ戻る。そして、静香の元へと近づくにつれ、なんか変な音が聞こえる事に気づく。音と同時に少しはなれたところからでもわかるくらい荒く、熱のある息遣いも聞こえる。不思議に思って早歩きで静香の見えるところまで歩みを進めると、そこには、そんな想像を遥かに超えた現実が待っていた。
「あいつが、あいつが、あいつが」
息を荒げながら、意味の分からないつぶやきとともに静香が本棚を己の爪で引っ掻いていた。がりり、がりり、という耳慣れない音が、木が削れる音だと理解するのに数秒もかからなかった。明らかに変だ。何かに取り憑かれてるのではないだろうかと思うくらいの変貌振りに、俺は慌てて静香の元に駆けつける。
「おいっ!」
背後からの俺の声に静香の体が跳ねる。顔の見えない位置だったので、一体どんな表情なのか俺には見当もつかなかった。
「あ、ミツ、早かったね」
にこやかに、何事も無かったかのように静香は俺の方に振り向いた。いつも見ている表情が、なんだかべったりと静香に貼り付いているような気がして恐ろしかった。
「お前、何してたんだよ。本棚なんて引っ掻いて」
見ると、静香自身の爪も削れていて、指先まで赤くなっていた。
「四ツ路さんだっけ、あの女の事を考えてたらつい。てへ」
「てへ、じゃねぇ。おかしいぞお前」
「ミツだって悪いんだよ。あんな女にへらへらしちゃって。好きなの?好きなんでしょ?どうなの?」
矢継ぎ早に言葉を発する静香に対し、俺もつい声を荒げてしまった。
「なんで急にそんな話になるんだよ!大体俺が四ツ路さんをどう思っていようがお前には関係ないだろ!」
静香の表情が険しくなる、がすぐに普段の朗らかな顔に戻った。
「うわ、ひどーい。ずっと幼馴染みやってきて全然気づかなかったんだ」
「え、どういう事?」
「だからぁ、ほら、えっと」
急にもじもじしだした静香の姿を見て、何が言いたいかどことなく分かってしまった。分かってしまったが、それを口に出してはいけない気もした。それは別に今の関係が壊れるから、とか言った陳腐なものでなく、単純に静香に乗せられてしまう事への恐怖感からくるものだった。
「わかってるくせにぃ」
猫なで声で、俺に体を寄せる静香。まるで金縛りにあったように俺自身の体は動かない。俺を見上げながら、静香が俺の代わりに言葉を紡ぐ。
「ミツは私のものだってこと」
「そういえば、聞こうと思ってたんだが」
俺たちは何事もなかったかのように作業を続けていた。あの後、静香は俺に危害を加えるような事もせず、話を蒸し返したりもしなかった。それが逆に俺の恐怖心を煽る。真綿で首を絞められているような、逃げ場を少しずつ潰されていく感覚だった。だから俺も必死にどうでも良い話題を振り続けた。
「確かこのジャンルの担当って希望制だったんだろ?お前が精神、心理系希望なんてなんかイメージと違うなーと思ってさ。誰かと変わったのか?」
ぴたり、と静香の動きが止まる。そしてしばらくの間肩を震わせていたかと思うと、
「あっははははは!!そっかぁ、イメージと違うかぁ!」
ひとしきり笑った後、静香は答えた。
「相手の心を掌握する術、知ってると便利じゃない?他にも相手の反応からどんな事考えてるかとか、どんな行動が良いかとか知ってるとすごーく便利なんだよ。ま、もう必要ないかな」
それは、つまり、もしかして。
「俺のためだった」
「正解ー!」
あはははは、と笑う静香。ようやく理解した、静香は俺の知らないうちから壊れていたんだと。俺の知らない場所で着々と俺を籠絡する策を練っていたんだ。
「だからね、私に断りなく他の女になびいたらダメなんだぞ」
普段通りの声色だったが、俺はナイフを突きつけられる感覚すらあった。表裏のない狂気の前に、俺は頷くしかなかった。
季節は進む。
彼は悩み、彼女は誘う。
空から少女がふってきた。僕はその軽い体をなんとか受け止め、床に足をつけさせてあげる。少女は思わぬ展開に目をぱちくりとさせるだけで、未だ状況を理解していないようだった。それもそのはず、別に少女は自らの意思で駅の階段から飛び降りたわけでなく、つまりはただ単に足を滑らせただけだったからだ。
「だ、大丈夫でしたか?」
受け止めた僕自身も思わず声がうわずってしまう。声をかけられた事で少女はようやく我を取り戻したようで、くる、とこちらを振り向いた。身長は僕よりずっと低い。制服を見る限り僕と同じ学校だ。
「あ、ありがとう、ございます」
恥ずかしそうに俯く少女からお礼を言われる。少女の隣にいた男の子も続いて僕にお礼を言ってきた。成り行き上受け止めただけなので、こんなに感謝されるとは思わなかった僕がなんだか恥ずかしくなってしまう。とはいえ僕が受け止めなかったら少女は今頃救急車コースかもしれない。そう考えると人助けをした……のかもしれない。
「怪我はないですか?」
「はい、おかげさまで!」
それは良かった。駅は朝の通勤ラッシュも相成って人の流れが今も途切れない。立ち止まっているのも他の人たちに迷惑なので、二言三言会話を交わして僕は少女達と別れた。その日、初めての委員会活動で僕と同じ新入生達の中に少女を見つけた。
これが一年前の春。彼女は僕の前を今もふわふわと飛び続ける。
「はぁ」
ため息が多くなった、と自覚する。とはいえこのため息はその、なんというかある種の絶望から来るものだった。春に見た、あのときの光景は夏になっても僕の網膜に焼き付いて離れない。
「まさか、彼女が……」
別に覗き見するつもりは無かったんだ、と自分に言い聞かせる。実際にあの現場に居合わせてしまったのは偶然と言っても良い。担当している本棚の整理をするために学校の図書館へ向かい、そこで見てしまったのだ。彼女の普段からは想像もできないような言動と、その言葉を突きつけられる男性の姿を。
「どうしたもんかな」
彼女への気持ちが宙ぶらりんになってしまった感覚。そりゃそうだ、あんなの見せられたら思わず引いてしまう。でも、一概に引いているわけでもない自分がいることにも驚いている。あの時の彼女は、普段の健康的な可愛さとは違う、淫美な妖しさがあった。それを、美しいと僕は思ってしまったのだ。だからこそ、ため息が止まらないでいた。
「はぁ……」
僕は教室で頭を抱えていた。放課後ということもあって、教室には誰もいなかった。外のグラウンドからは蝉の鳴き声と人の声がひっきりなしに聞こえる、なんとか自分の気持ちを落ち着けるため、僕は必死にグラウンドの喧噪に耳を傾けていた。だから、教室に向かってくる足音に気づくことが出来なかった。
「珍しいわね、こんな時間に教室に人がいるなんて」
「!?」
廊下側を振り向くと、教室の入り口に女の子が立っていた。腰当たりまで伸びる真っ黒な髪は、クラスでも目立っていた。
「四ツ路さんか」
彼女、四ツ路さんは僕のクラスメイトだ。話した事は数少ないけど、生徒会の副会長ということもあり、委員会単位ではお世話になっている。四ツ路さんは笑みを浮かべながら僕の近くまでやってきて、隣の机に腰掛けた。
「生徒会副会長が机に座るだなんて、いいのかい?」
「そんな些細な問題、興味ないわ」
彼女はそう言って、足を組む。足やスカートの布が擦れる音が教室内に響く。うう、ようやく気持ちが落ち着いてきたのに。
「三条君、だったかしら。こんなところでどうしたの?」
「委員会の作業をするつもりだったんだけど、気があまり乗らなくて……」
僕の言葉はそこで途切れてしまった。あの光景を上手く言葉にできないし、言葉にして良いのかも躊躇われる。黙っている僕を見て、四ツ路さんは何かを察したようだった。
「私も、生徒会の作業をやってたんだけど、丁度終わって。良かったら、準備室でお茶でも飲まない?」
あの四ツ路さんが誰かを誘うなんて珍しい。クラス内では四ツ路さんはビューティークールで通っていて、玉砕した男は数しれずと言う伝説まであるのに。でもまぁ、気分を晴らすには丁度良いし、四ツ路さん程の美人に誘われたらそれは断れない。
「ありがとう、それじゃ、お言葉に甘えようかな」
僕は席を立ち、四ツ路さんについて教室を後にした。
「はい、どうぞ」
目の前に出されるティーカップには、紅茶が注がれていた。口に含み喉を伝わらせると、鼻の奥をふくよかな香りが抜けていく。暑い時期に、熱い紅茶も乙なものだ。
「流石、ティーバッグとはワケが違うなぁ」
四ツ路さんはわざわざ紅茶をいれてくれたのだ。彼女曰く、時間が出来た時にはこうしていれて飲んでいるそうだが、まだまだ加減が難しいらしい。
「お口にあったかしら?」
「もちろん。こんな美味い紅茶は久々だよ、ありがとう」
「大げさ。でも、気に入ってくれて嬉しいわ」
柔らかな笑みを浮かべる四ツ路さん。ゆっくりと流れる時間に身を委ねていると気分が落ち着く。春に見た光景も目撃者は僕だけだし、このまま忘れるのが得策なのかもしれない。そう思いながら紅茶をちびちびと飲んでいると、不意に四ツ路さんが僕の顔を見つめながら訊いてきた。
「三条君、悩み事があるんでしょう?」
「え」
「さっき、凄い思い詰めた顔をしていたもの」
ああもう、なんてタイミングの悪い。せっかく忘れようとしていたのに。四ツ路さんへの感謝の念が薄れていくのを感じた。一方、四ツ路さんは真剣に僕の方を見ていた。その真面目さとタイミングの悪さのギャップが僕を余計いらだたせる。
「大した事じゃないよ」
素っ気なく僕は答える。本当に?と四ツ路さんは食い下がらない。本当に、と僕は念押しして返答するが、それでも四ツ路さんは諦めず、同じようなやりとりが数回続いた。
「随分としつこいね。何か心当たりでもあるの?」
四ツ路さんは黙ってしまった。もしかして、触れてはいけない部分に触れてしまったのだろうか。なんだか急に申し訳ない事をしてしまった気がして、尖っていた気持ちが萎んでいく。
「三条君、貴方は『堕ちる』ってどういう事だと思う?」
四ツ路さんが手元の紙に『堕』の字を書く。いきなりの抽象的な質問に、僕は首をひねる。堕ちる、とはなんだろうか。四ツ路さんの求めている答えはおそらく、イメージ的なものだろう。
「難しい質問だね……印象でしか答えられないけど、僕にはどうも『堕ちる』ことはマイナスイメージ的なものが付いてまわるもののように聞こえるよ」
「それも正しいと言えるかもしれないわね。でも、私は『堕ちる』ことはとても美しい事だと思うの。正確には『堕ち続けている』姿こそが美しいわ。堕ちる事を止めて、何かにしがみついたり地面を這っている姿は奇麗とは思えないけど」
『堕ちる』ことが奇麗なものだと四ツ路さんは言う。全く概念的な事過ぎて僕にはいまいち理解が出来ない。けど、言いたい事は何となくわかる気がする。あくまで気がするだけで、それがどうしてかはわからないんだけど、心のどこかで四ツ路さんの言葉に感心する自分がいた。
「面白い考えだね。ちょっとだけ、わかるかもしれない」
「貴方が私に悩みを言ってくれないから、私からはこんなヒントしか言えないわ。少しでも参考になれば嬉しいのだけど」
にっこりと微笑む四ツ路さんに、僕はなんだか末恐ろしいものを感じた。なんというか、その笑顔は本当なのか、そういった疑いを持ってしまうような雰囲気なのだ。おかしな雰囲気になりつつあったので、僕は長居するのもアレだと当たり障りの無い言い訳を言って、準備室を後にすることにした。僕が準備室のドアを開けたとき、背後から四ツ路さんの声が聞こえた。
「また、お茶しましょうね」
僕は振り返る事無く、部屋から出ていった。夏は日が短い、気づかなかったが、太陽は既に半分くらいまで沈んでいた。
翌週の委員会活動、僕は今まで通りに彼女に接することが出来ないでいた。彼女の一挙手一投足がなんだかその裏に何かを隠しているのではないだろうかという猜疑心を持ち、自然と距離をとってしまう。それでも彼女の姿を目で追いかけてしまう以上、どうにも諦めきれない自分がいる事もまた理解していた。
そして、それと同時にあの日から四ツ路さんに誘われる度、僕は準備室でお茶の相手をしていた。準備室の四ツ路さんは表情豊かで、どこにでもいる女の子だった。対して、僕は日に日に考え込む事が多くなっていった。僕の頭を悩ませる原因はもちろん彼女の事であり、彼女のことを考えると同時に四ツ路さんの言葉を思い出していた。
「『堕ちる』か……」
彼女が何を考えてあんな行動を取るのか、僕にはいまいち理解が出来なかった。彼女は『堕ちて』いるのだろうか。だとしたら、僕も『堕ちる』べきなのだろうか。そんな事を考える様になった。相手が何を考えているかわからない場合は、その相手になりきると理解がしやすいのではないか。
「とまぁ、仮の話だけど、精神的にも『堕ちる』ことは出来るんじゃないかってね」
あくまで架空の出来事として僕は四ツ路さんに話す。四ツ路さんは興味深そうに僕の話を真剣に聞いていた。ひとしきり話し終えて、四ツ路さんのいれてくれた紅茶で喉を潤す。前よりも最近の方が格段に美味しい。前のも美味しかったけれど、なんというか、より洗練された味だ。
「男の子って、本当に面白いわね」
四ツ路さんは僕の事をくすくすと笑った。なんだよ、そっちが僕に変なアドバイスをするからだろう。
「あくまで実験さ。それに言っただろ、これは仮定の話だって」
「そうね、ごめんなさい。ただ、彼を思い出してしまったわ」
椅子から立ち上がり、四ツ路さんは窓の方に向かう。窓から外を眺めながら、ぽつり、ぽつりと四ツ路さんは話始めた。彼女にも、昔好きな人がいたらしい。その男の人も、どこか脆さがあって、彼女は『堕ちる』ことをアドバイスしたそうだ。男の人は四ツ路さんに心酔し、彼女の言いなりになるかのように落ちていった。
「あの人は強い人よ。三条君以上に強く、そして脆い人だったわ」
強ければ強い程、脆さも逆に際立ってくる。その男の人はいつしか四ツ路さんに依存する様になってしまい、四ツ路さんはその人が怖くなっていったそうだ。もちろんそんな事はその男の人の前で言えるはずも無く、四ツ路さんはその男の人の前では気丈に振る舞うしか出来なかったらしい。
「でもね、ここ数ヶ月かしら。彼が私を避けるようになったのは」
「四ツ路さんを避ける?その人は四ツ路さんに依存していたはずなのに?」
「うん。彼からの連絡も途絶えてしまったし、どうしてそうなったのかもわからないの。だから、私はどうしていいかわからなかった。そんな時よ、貴方を教室で見かけたのは」
あの時か。僕はすぐに思った。あの日、教室で僕が悩んでいたとき、四ツ路さんも悩んでいたのだ。だから少しでも気を紛らわせるため、僕をお茶に誘ったのか。普段からは考えられないような行動に、ようやく合点がいった。
「僕は、四ツ路さんの寂しさを紛らわすことはできたかい?」
なんだか四ツ路さんの背中がとても小さく見える。何を考えているかわからないと周囲からは思われているが、何の事は無い、四ツ路さんだって少し変わったところがあるだけの普通の女の子だったのだ。
「三条君も、私の前からいなくなるのかしら」
「いなくなることなんてないさ」
「それは私が誘っているからでしょ。私は、『堕ちていく』人に心惹かれるの。でも、その人から私自身を求められるとどうしていいかわからない。あまのじゃくなのよ、私」
自重気味に笑う四ツ路さん。なんだ、彼女だって十分に『堕ちている』ではないか。僕ははっきりと口に出して言った。
「大丈夫、僕は四ツ路さんを好きになる事は無いよ。だって、僕の中には四ツ路さんじゃない他の人がいて、その人のために僕は『堕ちる』ことを考えていたんだから。でも、四ツ路さんが僕に対して好意を抱いているのなら、それは受け止める。だって、そんなに寂しい四ツ路さんを放ってはおけないからね」
自分でも身勝手だと思う。でも、多分これで正解。きっと四ツ路さんは人付き合いがとても苦手で、それを隠す事でしか自分を保てない人なのだ。そんなのは可哀想だ、四ツ路さんが『堕ちている』人間ならば、僕も『堕ちている』人間になれば、きっと四ツ路さんの寂しさをもっと理解出来る。四ツ路さんが普通に接することが僕にしか出来ないなら、僕は今の関係を崩す事はしたくなかった。
「……嬉しい。三条君がもっと『堕ちる』ことを望むなら、私はなんだって協力するわ。だから、私の前からいなくならないでね。私、三条君の事、好きになっちゃったのかな」
「さぁ、どうだろう。もしそうだとしても、僕はお断りするけどね。それでいいんだろ?」
「そのとおり。私は見ているだけ、想っているだけで良いの。一方通行を受け止めてくれる人じゃないとダメ」
歪んでいる。普通の人ならばそう思うだろう。でも、『落ちる』事を選んだ僕は、そんな愛の形もアリなんじゃないかと思った。
準備室に笑い声。僕と四ツ路さんの笑い声は、どこか空虚で、でも、僕たち自身は確かに満たされていた。
季節は戻る。
凍てつく空気の中、全てが始まる。
空から女の子がふってきた。空、と言うにはいささか語弊があった。夕日が差し込む階段の踊り場、少女は突如歩みを止め、たん、とそれまで上ってきた階段に背を向けて宙に身を投げたのだ。でも、彼女の後ろを歩いていた少年にとっては、まさしくその光景は空から女の子がふってきた、と呼ぶにふさわしい状況だった。
「え」
体感時間にしておよそ何時間も経ったかのように少年は感じた。言葉を発する事もなく、自然と体が少女に吸い寄せられていく。まるで少女の落下地点が分かるかのように。まるで、少女が最初から少年がそうする事を分かっていたかのように。
少女、とはいえ落下エネルギーによる衝撃が少年の腕、及び上半身にぶつけられる。必死に足を地面に縫い付け、少年は全身で少女を受け止めた。先ほどまで地平線の際にあった太陽は沈んでいて、あたりは蛍光灯の人工的な光に移り変わっていた。
「だ、大丈夫か?……って、四ツ路さん?」
何故、このような真似をしたのか少年には理解出来なかった。しかし、今は抱きかかえた少女の安否を気遣う事で精一杯だった。背中から抱きかかえた状態なので、少女の顔は見えない。どんな表情をしているのか、少年には全く持って想像できる由も無かった。
「あたたかい」
ぽつり、と少女がつぶやく。少年がその意味を問いただす前に、少年の腕の中からするり、と少女は抜け出していた。背丈は自分より少し低いくらいだろうか、少年は目の前の未だ背中を向けている少女を見てそんな事を考えていた。
くるっ、と少女が向きを変えた。ふあさ、少女の長い髪がたなびく。少年の鼻にふれた髪の先は甘く香り、どこか妖しさを秘めていた。
「貴方、知っている」
そのセリフは少年も同じであった。なぜなら、二人は同じクラスであったから。それでも少年はその言葉にドキッと胸を打たれる。少年は、目の前の少女を何度となく目にかけていたからであった。どうしてそんなに気になっているのか、自身にも分からない。分からないという事に、惹かれていたのかもしれなかった。少女は訊いた「私の事、知りたいの?」
―――。少年は何も言えなかった。何を言って良いかも分からず、急な少女の問いかけに反応さえおぼつかない様子であった。そんな彼の唇に、暖かいものが触れた。粘膜質のそれは少年の口内に侵入し、場違いな音を奏でる。少年はなすがままであり、少女の前ではなすがままにされるしか出来なかった。幼なじみのおかげで女性のあしらい方には幾ばくかの自信のあった少年でさえ、少女は見た事もない生物のように感じた。
「…ふぅっ」
唇が解放される。二人の間には朝露に濡れるクモの巣のような糸が一本。あっけにとられる少年とは対称に、少女の目は細く、口角も上がっており、この状況を愉しんでいるようであった。
「私の事を知りたいのなら、堕ちなさい。私にはわかるの、貴方の脆さが」
少女の言葉の一語一語が少年の心の奥底を揺さぶった。気丈で知られる少年を、まるで赦すかのような少女の微笑み。少年は思わず少女の肩を掴み、そこで少女に制止された。
「獣になれ、とは言っていないわ」
肩にかけられた手を、振りほどく少女。少女より背丈の大きい少年だが、その光景はまるで主人がペットを躾けるかのような姿であった。少年の心は、この時から、少女の前でのみ堕ちていく事になる。
「どうして最近私と一緒に帰ってくれないのよー」
ここ数週間で、少年の幼なじみの少女は彼の変化を如実に感じ取っていた。少女もまた壊れた人間、同類への鼻は利いていた。「どうしてもだ。お前だって一人で帰る事ぐらい出来るだろ」
「ふぅんだ。ミツのことは私が一番良く分かってるんだから」
少女は頬を膨らませる。少々オーバーリアクション気味だが、その仕草は小柄な少女によく似合っていた。
「担任に呼ばれているんだよ」
「え、ほんと?」
「マジマジ。一緒に行くか、職員室?」
職員室、と言う単語に少女は眉をしかめる。口を尖らせながらも、少女は彼と別れて帰る事を承諾した。悪いな、と少年は去り際の少女の頭を撫でる。くしゃっと髪を撫でる少年の手の暖かさを十分に味わって、少女は教室を一人後にした。
少女がいなくなった事を確認すると、彼の目の色が変わる。先ほどまでの保護者のような目は全くと言っていいほど影を潜め、代わりに誰かを探し求める子犬のような、むしろ狂犬のような目になっていた。教室を後にし、職員室―――の隣、準備室に彼は飛び込んだ。中には、窓からグラウンドを見下ろす少年の主人とも言うべき少女が待っていた。
少年の中で先ほどまで一緒にいた少女と、目の前の少女が比較される。小柄で幼く、にぎやかすぎる少女。対して目の前の少女は同じ年とは思えない妖艶な空気を纏い、それに負けない体つきをしている。
「遅かったわね」
幼なじみがしつこくて、と少年は言い捨てる。既に少年の心は目の前の少女にがんじがらめにされていた。しかし、それは少年自身が望んでそうなった結果であり、少年自身も自らが病んでいる事を理解はしていた。堕ちている自分に酔ってさえいたかもしれない。
「今日は何をすれば良い? 靴を舐める? 椅子になる? それともここでシてみせる?」
少年の愛情表現、それは少女への完全なる屈服によって体現されていた。気丈に振るわなければいけない、という世間体を排して、少女の前でのみ少年は自らを取り戻していた。少女はそんな少年を見いだし、受け入れることで愛情を受け止めていた。
「狂ってるわね。私は貴方のありのままの姿を見ていたいだけなのに」
はぁ、とため息をつく少女。しかしその顔は全くと言っていいほど困っていなかった。だから、少女は退屈をしのぐために少年を突き放す事にしてみた。少年が堕ちる最後のプロセスは、少年自らで狂気のドアをこじ開けるしかないからだ。
「私は帰るわ。また明日、ここで会いましょう」
それだけ言い残して、固まった少年の脇を通り過ぎていく。少年は振り返る事すら出来ず、生徒会室に一人取り残された。グラウンドでは未だに運動部が元気なかけ声とともに運動に精を出している。
「どうして」
少女のいなくなった部屋で、ぽつり、と少年は言葉を漏らした。堰を切ったように、言葉が溢れ出してくる。
「どうして、どうして、どうして、どうして。なんでもやる、なんでもやってきたのに。命令してくれないと、俺は何をしていいかわからない! 君だけが、俺の心を解き放ってくれるのに、俺だけが、君を理解できるのに。理解しているはずなのに、君の壊れた心も、君の完成された体も、君の足も、指も、髪も、口も、全て俺だけが知っているのに! どうして君は俺を見てくれない? 俺はこんなにも君を見ているのに」
鞄を机の上にぶちまける。携帯のカメラで撮ったおびただしい写真の数々がプリントされた紙が出てくる。全て少女が写っていた。後ろ姿、他人としゃべっている姿、廊下を一人で歩く姿、図書室で探し物をしている姿、授業中に居眠りをしている姿、ありとあらゆる場所で、少年は少女をデータに収めていた。
「なぁ、どうして君は俺の方に向いてくれないんだい」
いくら写真の数が多かろうが、少女が少年のカメラの方を見ている写真はその中に無かった。少年がカメラを向けると、少女はそれを制止していたからだ。だから、少年にとって少女を正面から見る事が出来るのは、己の目のみであった。
「こっちを向いてくれよ、なぁ、お願いだよ」
写真に向かって語りかける。それは延々と続いた。
澄み切った空気の中、朝が来た事すら意も介さず、少年は待ち続けていた。準備室は人の出入りが少なく、入り口のドアにカーテンがかかっているため、誰にも見つかる事なく少年は立ち尽くしていた。まだ、人の気配が少ない廊下に、こつ、こつと足音がした。しかし少年の目に光は宿らなかった。なぜなら、少年が待っている人の足音とは違ったからだ。
足音は準備室の前で止まった。足跡の主は鍵がかかっていない事を確認して、静かにドアを開けた。
「ミツ」
「なんだ、静香か」
少年は振り返り、何事もなかったかのように言う。少女は多少声に怒りが混ざっていたが、それでも努めて冷静であった。
「なんでこんなところにいるの?」
「昨日職員室に行った後、四ツ路さんに生徒会の手伝いを頼まれて。他の人がいなかったみたいだから俺が手伝ったんだよ。それでも終わらなくてさ、仕方ないから朝来てやってたわけ」
臆面もなくそう少年は言い放つ。あまりにも堂々とした態度に、少女は何も言えなくなってしまった。
「とはいえ寝不足だからなんかふらふらするな…保健室空いてたらちょっと寝てくる。お前は気にしないで教室行けよ」
立ち尽くす少女の横を、ふわり、と少年は通り過ぎていく。
誰もいなくなった準備室。少女の手は堅く握りしめられていた。
「あいつが、あいつが、あいつが……」
結局、少年は授業に姿を現さなかった。
ぽっかりと空いた少年の席は、まるで少年の心そのものであった。少女はその光景を目の当たりにし、ぞくぞくと、身震いを感じた。授業が終わり、少女は脇目もふれず準備室を目指す。自分の予見が正しければ、きっと待ち望んだ光景が待っているに違いない、少女は半ば確信を得ていた。
ドアに手をかけ、勢い良く開ける。その先には、昨日置いてきぼりにした少年が待っていた。少年はグラウンドを見下ろしていたが、少女の方を振り返る。
「ようやく来てくれた」
まるで何年も会っていなかったかのように、少年は喉の奥から声を絞り出した。
「また明日、って言ってくれたから、ずっと待っていたんだ」
疑うことを知らない少年の視線に、少女は恍惚とした表情を浮かべ、彼に近づき、そして両腕で少年を抱きしめた。
「一業君は、自分が病んでいると理解しているかしら」
「俺は、俺の意思に素直なだけだよ」
「それを、病んでいるというの」
少年は一線を越えた。越えてしまうと、もはやそれまで見ていた景色は全く違ったものとなる。正常でありながら異常である少年の目には、今は少女しか映っていなかった。
「俺は、君に憧れていたんだ」
少年は、ようやく少女に惹かれた理由を理解した。気丈に振る舞い続ける日常に、どこかで救いを求めていた。そんな少年の目に、少女の奇特性が羨望の対象になるのは至って正常であったのだ。しかし、奇特性に憧れた先に在るのは異常そのものだ。だから、少年は異常すら正常の中に取り込む事で、少女を理解したのだった。
少年の目は子犬のような救いを求める脆弱さも、気丈に振る舞う気丈さもない。人間としての輝きを失い、淀んだ眼の奥には少女の姿が刻み込まれているだけだった。
秋、病は進行する。
人は人を求め、人を憎み、独り堕ちていく。
空から少女がふってきた。多分、周りから見たらそういう風に見えるんだろうなぁ。私はそんなことをぼーっと考えつつ、窮地に陥ると時間がゆっくり進むというのを実感していた。それにしても、駅の階段で足を滑らせて背中から落下って、本当にドジ。私の視線の先には私の名前を叫ぶ幼なじみの姿が見えるけど、彼との距離はぐんぐん遠くなっていく。随分高いところから落ちちゃったんだなぁ。
「!?」
どん、と何かにぶつかる音。しかしその衝撃はコンクリートにしてはあまりにも柔らかい。ぶつかった時に思わず目をつぶってしまった私だったが、自分の身の安全を理解して、ゆっくりと目を開けた。最初に飛び込んできたのは見たことも無い男の人の顔。なんでこんなに近いんだろう、と思った。だって、身体も密着してるし、そもそも私は密着を許した覚えも無いし。
「だ、大丈夫でしたか?」
男の人が、私の方を向いて言っている。まぁ、大丈夫っちゃ大丈夫だけど、だから貴方はなんで……ん?もしかして?
私は今一度冷静になって自分の動きを脳内でシミュレートする。駅の階段から足を滑らせて、階下に落ちていくとこまでは理解。そして何かにぶつかる衝撃があって、目を閉じた。その後、目を開けたらなんか知らない男の人が目の前に……って、これってつまりアレじゃん!受け止めてくれたんじゃん!
知らない人、とか他人行儀に思っていたことが恥ずかしくなる。助けてくれたことを理解した瞬間、かぁーっと顔が熱くなっていくのを感じた。多分、今耳まで真っ赤だ。
「あ、ありがとう、ございます」
なんとか絞り出した言葉も、うわずってしまって余計に恥ずかしい。男の人の顔が見れなくなり、俯いてしまう。
「怪我は無いですか?」
「は、はい、おかげさまで!」
ああもう、声量すらコントロール出来ない!顔をなんとか上げるが、目だけは彼の方を向けることが出来ずにキョロキョロとせわしなく周囲を見渡す。
「それは良かった。その制服、僕と同じですね。僕は三条と言います、もし学校で会えたら仲良くしてやってください。では」
さっと彼の姿が私の視界から消える。ええっと、彼、なんて言ってたっけ。言葉を聞く準備ができていなかったせいで、断片的にしか覚えてない。
気づくと、隣には幼馴染みがいた。まったく、いざって時に使えない奴なんだから!
「ミツのバカ」
「え、なんで」
「なんでもよ」
助けてくれたことに関して、彼には感謝している。しかし、私に触れていいのはミツだけで、当のミツは中々触れてくれない。だからだろうか、私は助けてくれた彼の顔を、もう、忘れてしまっていた。
「はっ……」
鼻に飛び込んでくるインクと紙と埃の匂い、そして肌寒さで、私は自分の居場所を理解。どうやら居眠りをしてしまっていたっぽい、疲れてたわけじゃないのに……。最終下校時刻はまだらしく、かろうじて外からは声も聞こえている。それにしても夢を見るなんて珍しいかも。しかも実際にあった事を夢に見るだなんて、何かの予兆なのかなぁ。
「って、それはさておき。作業、どこまでやったんだっけ……」
慌てて自分の担当の本棚を確認しにいくけど、うん、私の予想はあっていた。つまり、全然進んでなかったのだ。というか図書館の広さに対して図書委員の人数が少ない!不公平だ!
「なーんて、愚痴ったところで人がドバーッと増えるわけじゃないんだけどさぁ。ミツも手伝ってくれないし、もう」
でも良いのだ、ミツは私のモノだから、いざとなれば絶対に助けてくれる。助けてくれなかったら、その時はお仕置きしちゃうんだから。休みの日に一日中私の部屋に閉じ込めて、私がいないとダメな事をみっちりと教えてあげる……キャー、素敵!
「は、また妄想に耽っていた」
別にミツが他の女になびく事はもう無いと思うけど、それでも心配なのは変わらない。以前、そうなりかけた事があるから余計だ。あの女は悪魔で、ミツにある事無い事言っていたようだ。ぶっちゃけパンチの一発でもくれてやりたいところだけど、そんな事してミツに嫌われる方がイヤだからしない。
「電話しちゃおっかな」
寝起きってなんでかテンション上がる。この時間に蔵書室に足を運ぶ人もいないだろう。私は鞄の中から携帯電話を取り出し、唯一電話帳に登録されている番号に発信した。三コール後、私の大好きな声が耳に飛び込んでくるはず。一コール、二コール。
ガチャリ。蔵書室のドアがいきなり開いた。そして三コール。電話越しに声が聞こえた。
「どうしたんだ、いきなり」
「えーっとね、ちょ、ちょっと、学校きて!」
「は、はぁ?」
「いいから!来てくれるよね?」
「う……わ、わかったよ」
電話が切れる。なんというタイミングの悪さ。私のイライラは頂点に達しそうだった。
「こんな時間に、どうしたんですか?」
蔵書室に入ってきたのは、同じ委員会の三条君だった。私はどうも彼を好きになれなかった。もちろんこの場合の好きは恋愛対象としてではなく、人間としての好きだ。なんというか、三条君は自分の底を見せないくせに、他人の底を非常に気にしている気がする。それがいけ好かない。
「本棚の整理ですよ。二宮さんもその予定だったんでしょう?」
む、つまりは私が寝ていたところを見ていたわけか。それなのに起こしもしなかったなんて、どういう事なの。
「起こしてくれれば良かったのに」
「凄く気持ち良さそうに寝ていたから、起こすのが忍びなくて。すみません」
申し訳なさそうに謝られると、流石の私も責められない。別に三条君に起こしてくれと頼んでいたわけでもないし、まぁ、これはしょうがないね。
「あと、電話中に入ってしまって、これもすみませんでした」
「良いのよ、そんなのタイミングの問題じゃない」
ああもう、一々謝らなくても良いのに。細かさも度が過ぎればただめんどくさいだけ。なんというか、三条君って色々と不器用だと思う。実務的な能力は全然あるんだから、あとは人間性をもうちょっとなんとかすればきっとモテるはずよ。まぁ言わないけど。こういうのは自分で気づいた方が良いしね。
「二宮さんは、本棚の整理は終わったのですか?」
柔らかな笑みを浮かべて三条君が訊いてくる。その言葉で私は現実に引き戻される気がした。
「あー、えっと、まだ全然」
蔵書をちらりと確認して、私は頭を痛める。今日中にパパッと片付ける予定だったのに、何をやってるんだか。三条君は私の担当の蔵書棚を見て、ふんふんと頷くような、確かめるかのような仕草。
「これならすぐに終わりそうですね」
「え、この量ですけど」
かなり量あると思うんだけど、三条君は一体何を思ってそんな事を口走ったのだろう。
「僕の担当の三分の一程度じゃないですか」
「は!? あー、そっか。三条君の担当って文芸とかだっけ?」
ええ、と三条君は答える。私の担当は精神、心理系の専門書籍。一方三条君の担当は文芸といった一般書籍。人気があるのはもちろん一般書籍だし、その分一ヶ月の仕入れも回転も速い。なるほど、彼にしてみれば私の作業量なんて大した事無いのか。なんかがっくり。
「今からでも手伝いましょうか?」
三条君の提案を、私は断った。この程度の作業量、手伝わせてしまうのはなんだか申し訳ない。それに、どうせ手伝ってもらうなら私はミツと作業したいし。
「まぁ、もうそろそろ最終下校時刻ですからね。程々に切り上げて帰った方が良いですよ」
「え、もうそんな時間?」
時計を見る、最終下校時刻まであと15分ぐらいか。そんな短時間じゃろくに作業なんて出来やしないと判断し、私は仕方なく仕度をして外に出た。既に日は落ちていて、深い藍色の夜が広がっていた。
「ここまで遅く残っていたのは久しぶりだなぁ」
誰に対していったわけでもなく、ぽつりと呟く。真っ暗なグラウンドは地面があるんだけど、酷く不安定に感じて、一歩一歩確かめながら校門近くまで歩みを進めていくと、人影が見えた。
「こんな遅くに呼び出して、それ相応の言葉はあるんだろうな」
ミツが、怒っていた。こりゃ地元の駅に着くまでは謝りっぱなしかな。いくらミツは私のモノだからといって、振り回すのは流石に悪い事してる自覚はあるんだから。
「あんな遅くまで残って、何してたんだ?」
地元の駅から家に帰るまでの道の間、案の定私は謝りっぱなしだった。ようやくミツから話をしてくれたのは、私の予想通り、地元に着いてから。住宅街とはいえ、この時間だと道を照らすのは街灯のみで、そこに虫が集まっていてなんだか気味が悪い。虫が街灯に炙られるジジ、バチッという音も虚しく聞こえる。
「それが、蔵書の整理をしようと思ったら疲れてたのか蔵書室で寝ちゃって……あはは、失敗失敗」
うう、恥ずかしい。他の友達になら笑い話で済むんだけど、ミツの前だとどうしても声がうわずっちゃう。なんというか、もっとかっこ良くありたいのだ、ミツの前では。ちなみに、私の話を聞いたミツは心底呆れた顔をしていた。そのアクションに私は温度差を感じる。私はミツにとって大切な人でありたいのに、ミツはまだ、私に対して保護者みたいな目で見てくる。まるで一歩引いたような、よそよそしい感じ。今も秋の夜だから冷えるはずなのに、私たちの間には人が半分入るぐらいのスペース。なんでこんなよそよそしいんだろう。イライラするよ。
「無駄に夜中起きてるんじゃないのか? ちなみに俺が電話に出なかったらどうしてたんだよ?」
へぇ。そんな事言うんだ。
「ミツが電話に出ない選択肢なんか無いよ。でしょ?」
がりっ。気づくと、私は自分の爪を噛んでいた。ミツの答えは、「そ、そうだな」だって。ほらね、わかってるんじゃん。
「そんなことより、ミツは今日の放課後は何してたの?」
「え? ああ、ちょっと……な」
がりっ。
「ほら、四ツ路さんの手伝いをしてたんだよ。ホント、手伝いだけだって」
「まだあの女のとこに行ってるの!? 信じられない! 人良すぎ!」
がりっ、がりっ、いたっ。あ、血、出ちゃった。
「どうにも断れなくって、すまん」
謝られちゃった。うーん、ミツったら私の事ホントよくわかってる。そう出られたら許してあげるしかない。むかつくけど。
「ま、ミツがお人好しなのはわかってるからね。仕方ないよね」
「悪かったって……お、もうここか」
話題を逸らすかの様に、大げさにミツが言った。丁度私たちが別れる十字路だ。ミツは右、私はまっすぐ。
「明日の朝は一緒に登校するんだからね」
念押し。これで明日の朝まですっぽかされたら私どうにかなっちゃいそう。
「毎日してるだろ……じゃあな」
ミツの姿が離れていく。そして私は自分の家―――の先にある小さな公園まで足を進めた。明かりの乏しい公園、ブランコに腰掛ける。きぃこ、きぃこという軋む音は、なんだかブランコの泣き声みたい。さすがにこの時期は日が暮れると途端に寒くなるので、私は真っ暗闇に向かって言った。
「で、どこの誰? 気づいていないわけないじゃない。ほら、今、私苛ついてんの。さっさと出てきてよ」
がさり、と木が揺れ、その陰から人影が見えた。学校を出てからずっと感じてた。誰が私をつけてるのかわからなかったし、ミツは気づいてなさそうだったからここまで我慢したけど気持ち悪いったらありゃしない。変なオッサンだったらどうしようとか言う心配はあったけど、それよりもミツとの時間を邪魔された事が許せなかった。
「ん? あなた、三条君?」
以外だった。てっきり不審者かと思っていた人影は、よく知る人物だった。それにしても、三条君がどうしてここに?
「すみません、中々声をかけづらくて」
「まったく、不審者かと思ってたわ。で、用事は何?」
三条君は鞄から何かを取り出した。暗くて良く見えなかったが、何か手帳のようなものだった。
「これ、落としてたから渡そうかと」
「へ、わたしの? ……あ、ホントだ。わざわざそのために? 明日でも良かったのに」
三条君から手帳を受け取る。手帳の表面には確かに私の名前が入っていた。しかし律儀と言うか変な人。三条君は近くのベンチに腰掛け、空を見上げていた。そのまま、私の方を見ずに、でも私に向かって話しかける。
「あの男の人と随分仲がいいんですね。羨ましいな」
「昔っからの付き合いですから。ミツが何か?」
なんだろう、三条君の言葉の端々に刺を感じる。せっかく不審者じゃないから緊張が解かれていたのに、そんな言い方されたらそりゃ苛ついてくるのは当然ってものでしょ。
「いえ、よく一緒にいるのを見るので。彼の名前は」
「ミツ。一業 頼光、ですけど」
ミツの名前を言った瞬間、三条君の口から「あいつがそうだったのか」と微かな声が漏れた事を私は聞き逃さなかった。何か思い当たる事でもあるのかな。そのまま暫く三条君は黙っていたけど、不意に立ち上がり、公園の出口に向かって歩き始めた。
「今日は夜遅くにすみませんでした。では、また明日」
「あの、さっきミツの名前言った時に驚いてたけど、どうかしましたか?」
「いいえ、何でも無いですよ」
何くわぬ顔でそう言い残して、三条君はサッとどこかへ行ってしまった。ぽつり、と公園に一人残された私。なんだか腑に落ちなかったが、時間も時間なので一先ず家に帰ることにした。公園の葉っぱはもう殆どが散ってしまっている。枯れた風景だと思うけど、私はこの虚しさが結構好きだ。
ふー、さっぱり。お風呂って最高、身体の汚れもそうだけど、心にこびりついたものも洗い流せる気がする。ドライヤーをかけ、自分の部屋でもう寝たいのは山々なんだけど、明日の用意はしておかなきゃね。鞄の中をごそごそと漁りながら、渡された学生手帳を制服のポケットに入れっぱなしだったことに気づく。クローゼットの中にかけておいた制服のポケットを探り、学生手帳を取り出す。そのまま鞄の中に投げ込もうとした矢先、ぽろり、と何かが落ちたのに気づいた。床に落ちた紙切れのようなものを拾い上げる。真っ白な裏側をひっくり返して、私は言葉を失った。
「なに、これ」
写っていたのは一人の女子生徒。その顔は私も知っていた。だって、こいつ、ミツを誑かしていた、あいつじゃん。
「四ツ路……?」
うん、絶対にそう。この顔、忘れるもんか。どうしてこいつの写真がこんなとこにあるの? はらわたが煮えくり返りそうになり、思わず写真を引き裂きそうになった。でも、寸でのところでその手が止まる。そう、どうしてこの写真がここに……? 私は経緯を辿ってみることにした。
「まず、私がこの写真を自分から手に入れた覚えは無い」
当たり前だ。ぶっちゃけただでくれても貰うもんか。てことは何かに紛れていたことになる。しかし、この学生手帳は数時間前に三条君から渡されたもので……もしかして!
「もしかして、もしかするとだよ」
この写真、三条君のものなんじゃないだろうか。ううん、私の直感がそう言ってる。三条君のものだ。そう決まってしまえばなんだかこの写真を冷静に見つめることが出来る気がした。さらに踏み込んで、私はこの写真から読み取れる情報を片っ端から集める。この場所はどこだろう……あっ、あの準備室だ。三条君は、あの部屋でこの女の写真を撮ったのだろうか。それは隠し撮り?
「では、なさそう」
だって、この写真の中の女、シャッターの方を向いてるもの。しかもかなり近い。そして、今更気づいたけど、笑ってる。この女がこんな笑顔を浮かべるなんて想像出来ない。でも、ということは、三条君とあの女はかなり親密な関係なのかもしれない。そう思った瞬間、再び苛立ちがこみ上げる。
「なにこいつ、二股?」
澄ました顔して本当に性悪な女がいたものだ。こんな奴に使われるミツが可哀想だし、こんな奴と一緒にいたらミツはきっと後悔する。でも、ミツは優しいからこの事を知っても何もしないだろうな。ホント誰にでも優しくて、それだからミツに対してもイライラしちゃう。この事実を知っているのが私だけなら、この女に罰を下せるのも私だけなのだ。イライラが収まってくる、同時に沸々とした冷たい感情がこみ上げてくるのがわかる。あー、やばい、掻いちゃう、掻いちゃう、掻き、毟っちゃう。
がり、がり、がり、がり。
自分の部屋の本棚は、一部分の塗装が剥げていた。そこをまたしても爪で掻きむしる。痛いけど、気持ちいい。こうすると落ち着くんだもの。がり、がり、がりと爪を立てながら、明日の準備も忘れてこの女への罰をどうするかひたすらに考えた。
『今日も蔵書整理が終わらなそうー。今日こそガンバって三十分以内に終わらせるから、ごめん、先に帰って大丈夫だよ!』
これでよしっと。私は送信ボタンを押して電子の手紙を投函する。十秒に満たない時間で、メールは届くだろう。万が一という事もあり得る、念には念をいれて、私の計画に支障が出そうなモノは遠ざけておかなきゃね。さてと、あとは先に送った相手がうまく動いてくれれば良いんだけど。
私は蔵書室で本の整理をしながら待つことにした。作業をしながら、ちらりと文芸の蔵書棚を覗く。本屋で平積みされていたり、テレビで紹介されているような本が並んでいた。たとえどんなに分厚い本でも、私には薄っぺらく見えてしまう。作り物ってのはすぐにバレちゃうんだよ、そんなことを考えていた。
ガチャリ。蔵書室のドアを開いて中に入ってきたのは、息を切らした三条君だった。そんなに急がなくても良いのに、
「はぁ、はぁ、メール見たよ」
「それでそんなに慌てているの? そんなに大事なものだったの、アレ?」
可笑しい。可笑しすぎるよ。そんなに大事なものなら、肌身離さず持っておきなさいな。
「二宮さん! なんでアレを僕に返すの?」
「なんでって……私が持っていても意味ないし」
「あんなに上手く撮れているのに?」
「そりゃ確かに上手いけど、私が貰って喜ぶとでも思ったの? というか、その口ぶり、もしかしてわざと?」
三条君のテンション、なんか思っていたのと違う。もっと焦っているかと思ったんだけど、なんというか落胆してると言うか想定外の出来事に驚いてると言うか、とにかく私が想像していた三条君じゃない。
「とにかく! 返すわよ」
「待ってくれ!」
三条君の言葉に遮られ、鞄の中に手を入れたままで私の身体の動きが止まった。そして、落ち着いたそぶりで三条君は自分の鞄を漁り始めた。何かを掴んだらしく、それを鞄から引き抜いて一気に机にぶちまける。
「……!?」
一瞬、なんだかわからなかったけど、すぐにそれがなんだかわかった私は全身から血の気が引く音を聞いた。形は昨日の写真と似ていた、しかし、そこに写っていたのは、まぎれも無い私自身だった。なにこれ、何枚あるの?何時撮ったの?誰が撮ったの?あまりに唐突な出来事とそれ自身が発するどす黒い雰囲気が私の気分を悪くさせる。
「気に入らなかったなら謝る! でも、この中ならきっと二宮さんが気に入るものもあるはず。ほら、これなんか上手く撮れてると思わない?」
笑顔で三条君は写真の山から一枚の写真を取り上げる。一体何時撮られたのか私に見覚えが無いけど、これは多分下校時の写真だろう。私の隣に立っていると思われる人物は、黒で塗りつぶされていた。その塗りつぶされた黒があまりにも醜悪で、私は顔をしかめる。
「な、なんなのよこれ……どういう事よ」
「どういう事って、昨日の写真が気に入らなかったんだろ?」
あっけらかんと言い放つ三条君に、流石の私も我慢の限界だった。私は鞄の中から昨日の写真をつまみ上げて、三条君の眼前に突きつける。本当は持つ事すら嫌なのに、三条君は何か勘違いしているんじゃないかな。
「あれ、え、なんで二宮さんがこれを?」
訊きたいのはこっちのセリフだ。反応を見るにやっぱり三条君は勘違いをしていたっぽい。確かに昨日渡された写真が自分の写真で、それを返すと言ったら最初のテンションになるのは頷ける……いいや、頷けるわけないじゃない!
「あなた、盗撮癖でもあるわけ? この女然り、私然り。そんな事ばかりしてると今に捕まるわよ」
自分の計画を棚に上げて何を言ってるんだろう。私は心の中でそうぼやいた。ただ、三条君は肩を振るわせて、私から写真を奪い取った後に一喝するかのように声を張り上げた。
「君に何がわかる! 君に奪われたものの悲しみと、君を求めるものの渇望を! ……やっぱり君には直接言わないとわからないみたいだね」
「きゃっ」
私は三条君に腕を掴まれ、そのまま引っ張られる。まるで重さのないものを引っ張るかの如く、軽々と三条君は私を引き寄せた。近くで見る三条君の目は濁っていて、その口元には笑みを浮かべていた。ヤバい、ヤバすぎる。
「君は自分が狂ってる事を自覚してない」
いきなり狂ってるだなんて、言ってくれるじゃない。それにその通りで、私は自分が狂ってるとはこれっぽっちも思ってない。むしろ三条君の方が狂ってるんじゃないの?
「春に、君の本性を見たんだ。偶然だったけど、僕はその姿に惹かれた」
なにそれ?覚えが無いんだけど。ていうかそれが原因でこんな盗撮まがいな事をしてたの?ストーカーって言うんだよそれ?
「君を知りたかったんだ。でも、僕は君と違って元は狂っていないからね。だから協力してもらったんだ、彼女に」
「彼女って、あの女のこと?」
「そう、だから彼女も僕にとっては大事な人だ。 だから彼女をバカにする発言は許さないけど、それ以外なら僕は君を許すよ」
「許す許さないとか、私の意志は無視なわけ?」
まったくもって勝手な話だ。でも、今の言葉で三条君とあの女の繋がりの確証を得た。私の最終目標はあの女をミツから遠ざける事が一番。私知ってるんだから、自分よりも、自分と親しい人に危害を加えられた方がよーっぽどダメージでかいってこと。私を痛めつけてくれたあの女に、今こそ復讐のチャンス!
「二宮さんは僕が狂ってるって思う?」
「ええ、十分に思うわ」
「じゃあ、僕を認めてくれる?」
そーっと、そーっと私は鞄の中に手を伸ばす。元々はミツのお仕置き用に買ったオモチャがこんなところで役に立つとはね。ミツは良い子だから未だに使った事無いんだけどなぁ。
「残念、私が認めているのはただ一人だけ、よっ!」
鞄から取り出したのは催涙スプレー。近距離で思いっきり三条君の顔面に向かって吹き付けた。
「ぐああああ!」
おー、本当に効くんだ。流石にミツに使う時はもうちょっと離れた位置から使ってあげよっと。膝をついて呻いている三条君に対し、私は更に鞄の中から黒光りする機械を取り出した。スイッチは……よし、入った。どこに当てれば良いんだろう、どこもそんな変わらないかなぁ。でも、余り痕に残らないところの方が良いよね。てことは服の上? まぁいいや、何発かやる予定だし。
「三条君、ごめんねー」
バチッ。閃光とともに、三条君の身体が跳ねた。
『ミツ今どこにいる? もう帰っちゃった?』
夕暮れの準備室。三条君の鞄の中にあった鍵で入ろうと思ったけど無防備にも戸の鍵はかかっていなかったし、あの女もいなかった。準備室の机の上には、大量のポラロイド写真。三条君の苦悶に歪む表情だったり、私と一緒に写っている無理矢理作らせた笑顔だったり、みんな改心の一枚だ。これらを見たら、あの女はどんな反応をするかな、考えただけで心が昂ってくる。
『三十分て言ってたから、学校出てすぐのマックにいるよ』
さすがミツ。わかってるんだから。それにしてもここってこんなモノが充実してたっけ? ティーセットからなにから、冬にミツを見に来た時とはえらい変わり様ね。
『終わったから、校門で待ち合わせしよ』
ま、どうでもいいか。ささっと返信をして、私は準備室を出た。
心が軽い。心が軽いと、足取りも軽くなる。小気味よいステップで階段を下り、下駄箱で靴を履き替え、秋空の下に駆け出す。目指すは校門、そこに、ミツがいるから。私だけのモノが、私だけを待っているから。ぐんぐんとスピードが上がる。校門近くに人影、この距離でわかる。雰囲気だけで、ミツだとわかる。
「おまたせっ!」
飛びつく様に、思いっきり腕を掴む。ミツは驚いていたけど、すぐに普段通りの静かな顔に戻る。
「なんかテンション高いな。何か良い事でもあったのか?」
「うふふ、秘密」
ぎゅー。ミツの腕の温かさ、匂い、その全てを愉しむ。幸せすぎて生きてていいの!?って思っちゃう。
こんな私が、狂ってなんかいるわけないじゃない!
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