赤白に塗り分けられた飛行服に身を包み、同じ色の機体、五栗(いつぐり)工業製「斑鳩(いかるが)」を背負って、ネオンはテラスに立っていた。
高度な機動の許可されるアマチュアスタントライセンスの教習を受け、この日初めて実技に挑む。
後ろには指導教官と、ネオンに比べてずっとがっしりした男の受講生たちが待機している。
気象条件確認。他機飛行状況確認。機体異常有無、充電量確認。脳波-制御系照合。離陸許可取得。各翼展開。推進系起動。
推進力を背中に受け止める。ここまではシミュレーターで練習したのと全く変わらない。
唾を飲み込む。息を吸って吐く。
三歩踏み出して離陸。そのとき、ネオンは気付いた。
シミュレーターとはわずかずつ違う加速度、気流、光。
何より、室内の設備から出て現実に戻らなくてもいい、今これが現実だということ。
空を飛んでいることを示す全て。
生きた風の中、本物の陽光の下で、実際にどこまでも広がった空にいる。
緩い左旋回で戻るだけの単純な航路。しかしそれが、ネオンの中を真っさらな歓喜で満たした。
教習が終わり着替えたネオンは、真っ直ぐ帰らず飛行場にいた。
休憩用のカフェに飛び込むと、平日の店内にはワタルたった一人。
「ヒムカイさん、あの、私今日、初めて自分で飛びました!」
上ずった声で叫びながらワタルに駆け寄る。ワタルは日下氏の元でのフライトを終え、日課である鍛練の記録を確認していた。
ワタルは立体画像を操作する手を止めて顔をこちらに向けた。
「上手くいったか?」
「はい、練習通りに。でも、やっぱりシミュレーターとは全然違いました」
「ああ、シミュレーターとは違う。これから先、複雑なことをするたびにそうなっていくからな。それはよく覚えておけよ」
ワタルの口調は優しかったが、眼差しは真剣だった。
「しばらく作業が増えるからあまりここに顔出せなくなるけど、連絡すれば質問には答えるよ。しっかりやれよ」
「はいっ」
二週間後。
ネオンは基本的な操縦の実技を済ませ、いよいよ曲技の実習のために空中にいた。
シミュレータの練習でならループにロール、ナイフエッジやインメルマンターンまで。いくらでも練習に没頭し、どんどん上達していく楽しみを得ていた。
今度も同じように綺麗なループをイメージして機体に命令すれば、上手くいくはずだった。
頭を上げて加速し、弧を描きはじめたとき。
何者かに頭蓋をつかまれ、無理矢理引っ張られた。
シミュレータでは再現できない現実の遠心力。
ネオンにはその実態がわからない。
意識は操縦から引きはがされる。
制御系がネオンの異常を察知した。機体は強制的に水平に戻る。
失敗。
ネオンは許される限り何度も挑戦したが、機体が輪を描くことはなかった。
教習の時間が終わり解散すると、他の受講生に声をかけられた。
「よー、お嬢ちゃん。今日はひょろっちい体でよく頑張ったなあ。でもやっぱ体力ないとキツいんじゃねーの?」
「馬鹿お前っ、止めとけって」
連れの男が低い早口で制したが、放っておいてくれたほうがよかった。
籠の鳥でしかないお前の細い足首には、解きようのない枷がはめられている。そう告げられたも同然だった。
ワタルがいないとはわかっていたが、ネオンは飛行場行きのトラムに乗った。
できることなら家に帰りたくはなかった。それに、飛行場にいればワタルと日下氏が行っている新型機の試験飛行を見ることができる。
飛行場に着くと、ずっと遠くの日下氏の工房から青緑の試験機が飛び立つのが見えた。
ワタルは飛び上がるなり急激にターン。左右両方に、五回ずつ。
素早いロール、これも左右に数回ずつ。
いともたやすくループ。それも、休まず連続で。
ネオンを何回気絶させても足りないような、強引な機動が続く。
ネオンには知らされていないが、この日から激しい機動を行うときの操縦性を確かめ、改良するテストに入ったところだった。
ネオンはカフェを素通りして日下氏の工房に向かっていた。もっと近くで見れば、ワタルに会えば、何か光明が得られる気がした。
日差しは少しずつ傾いていく。
ワタルはたびたび降りてはまた飛び立ち、空中の際どいラインをひたすら渡り続けた。
ネオンはそれを見上げたまま、草をかき分け歩き続けた。
日が真っ赤に焼けて落ちる頃。
全て終えたワタルは機体を外し、脚を棒にしたネオンは工房にたどり着いていた。
「こんばんはー……」
「あっ、お前飛行場の駅から歩いてきたのか?」
「ははは、草ぼうぼうの野原をここまで歩くとは大儀だったね。お茶をいれてさしあげよう。少々お待ちを」
古めかしい白衣姿をした日下氏の背中が工房に入っていく。
夢中で歩いていたのが気遣われることでかえって疲れを自覚してしまい、ネオンは足元の草地にへたり込んだ。
ワタルがその隣にあぐらをかく。
「ここの裏に駅があるから、トラムで帰れよ」
「はい。ヒムカイさん、私ヒムカイさんが飛ぶところ見てました」
「そうか、テストなんて作業こなすだけで見てても面白くないだろ」
「いえ!そんなことないです!」
つい力一杯首を振り、大声を出してしまった。ワタルの機動に希望を見たからこそネオンはここまでやって来たのだ。
ワタルとの差を思い、ネオンは肩を落とした。
「曲技の教習だったのか」
これだけでワタルは見抜いてしまった。どんな失敗をしたかもお見通しなのだろう。ネオンは膝を抱いてうずくまる。
工房から日下氏が現れ、ネオンにマグカップを差し出した。
「ほら、どうぞ」
「すいません、ありがとうございます」
両手でカップを受け取り、一口すする。レモンティーに蜂蜜をたっぷり入れてくれていた。日下氏は作業に戻っていく。
もう一度お茶をすすり、黙って茶の面を見つめた。
「どうした?」
「やっぱり、私には無理なんじゃないかって……、ちょっとだけ思っちゃったんです」
それを聞いたワタルの表情が曇る。やはり失望させただろうか。
「どうしてそう思う」
不満そうな、しかし不安の隠れる声。
「私、こんな体ですけど、ひ弱な体質っていうわけではないんです。でもやっぱり華奢だし、何か運動してたこともないし……、他の人にも、体力がないと駄目だって言われて」
「なんだ、そんなことか」
ワタルの眉間が緩み、軽いため息がもれた。思ってもみない返しにネオンは顔を上げた。
「多少は体力も必要だけどな、ここまで歩いてこれりゃ充分だ」
そう言ってワタルは立ち上がり、手足を大の字に伸ばしてみせた。
「人間の体の中で、飛ぶのに役立つ部分はどこだと思う?」
突拍子もない質問で、意味がよくわからない。少し考えてそれらしいことを言ってみた。
「脚は離着陸に使いますよね……、手も操縦把を操作しますし」
「ああ、でもそれはほとんど離着陸のときだけだ。一度飛び立ったら、本当に役に立つのはな」
ワタルは手刀を作り、首筋に当てる。
「首から上。判断して命令する脳味噌と、感覚器官の目と耳と肌だけだ。後は全部、重り」
これでワタルの言わんとしていることの一つ目はネオンに察せられた。
「あ、じゃあ体力は」
「最低限でいい。むしろ重りの少ないお前の体がうらやましいな、俺は。……あ、悪い。セクハラか」
不意を突かれたネオンは目を見開いて赤くなるばかりだった。
「いえ」
ワタルは飄々としている。今の言葉に本当に何の含みもなかったらしい。体のことを言われたのに嫌な感じがしない。
「とにかく、人間はフリヴァーにとってはただの脳味噌だ。元々空を飛ばない人間の脳で上手く飛ぶには、慣れと、冷静さ」
「冷静さ?」
「ああ、脳が慌ててたら体は動かないだろ?どんな力を受けても、地面がどこにあっても、自分が体を動かしたせいなら当たり前。自分の操縦の内容と結果。それを冷静に判断する役目を忘れないことだ」
今度のはネオンにはまだよく分からなかったが、少なくとも、
「何が悪かったか、分かったような気がします」
そう言うとワタルが苦笑する。
「そうか、まあそれならいいや。あ、お前もう帰らないとまずいだろ」
気付けば太陽の光は夕空の縁にわずかに残るばかりだった。
「あっ、はい!」
慌ててネオンは工房の裏手に駆け出したが、気が付いて一旦踵を返した。
「ありがとうございましたっ」
一礼してまた走る。
家に着いたらネオンの帰りが遅いことで両親が口論しているだろう。ネオンは部屋に閉じこもって耳をふさいで過ごす。
そんなことは忘れて、ワタルの言ったことを反芻したかった。
次の教習。再びループに挑戦する日だった。
冷静さ、冷静さ、冷静さ。頭の中でワタルの声を繰り返す。そして、ループでどんな力が自分に加わるか必死で考える。
「次ー」教官の声がかかる。
準備して飛び立ち、タワーから離れた。
高機動許可空域。
頭上げ。出力増。
脳と体が締め付けられる。
地平線が逃げ出す。
これは当たり前だ、そういう操縦を自分でしたんだ。
必死で自分に言い聞かせる。
当たり前の力が当たり前に加わって当たり前の向きになり、
地面が頭上に現れた。
下を向きすぎ、軌道がずれる。
気にせず水平に戻していく。
最後に強烈な引っ張りが待っていた。
冷静さ、冷静さ、冷静さ。
なんとか制御系を黙らせたまま一周できた。
欠け始めた月のような妙な形の輪だったが、そんな歪んだ軌跡を額に入れて飾りたいとすら思えた。
ネオンの前には二週間前よりも新しい空と、さらに苦しませてくれる曲技の数々が待っている。
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二十二世紀初頭、一面の草原と化した東京。
主人公の少女・ネオンは黒いパイロット・ワタルの導きにより飛行装置「フリヴァー」を身に着け、タワー都市を飛び出してスポーツとして行われる空中戦の腕を磨く。
空を駆ける男女のライトSF。
◆第一話を除いて初めて主人公が飛びます。