No.243275

邂逅

漱木幽さん

.

2011-07-29 09:20:50 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:339   閲覧ユーザー数:335

 

 

◆ 邂逅

 

 

 

 その日はぬるい湿った風が吹く、曇りの日だった。

 男はけだるげな街中を、一人颯爽と歩いていた。意気揚々と肩で風を切ってゆく。すれ違う人々は男を視線だけで掴まえて、あれやこれやと噂をする。

 ――あら、素敵な人。ぬるくて気持ちの悪い風も、そんな憧れの言葉を運んで来てくれるのなら悪くはない。彼は上機嫌で、街を行く。

 

 

 少し生臭い、潮風が吹いている。女は風に吹かれて流れる分厚い雲を憎々しげに睨んだ。

 午前中は晴れていたのに、なぜ今になって曇るのだろう。ウインドウショッピングのはずが、洒落た日傘を見つけて買ってしまった。せっかく買ったのだから、街中を散歩したかったのに。白いレースの日傘。きっと活躍できなくて、嘆いていることだろう。

 女はすこぶる不機嫌だった。きっとこの生ぬるい風が、あの忌々しい雲をこちらへ流して寄越したのだ。そうに違いない。彼女はぷりぷり怒りながらそう決めつけて、肩をいからせ街を行く。

 

 

 男は三番通りの大きな道の曲がり角で、バスを待っていた。

 今日の仕事は住んだから、早く帰ってゆっくりしよう。……そうだ。たしか、三か月前に買っておいたワインがまだ一本残っていたはずだ。舌触りの滑らかな白ワイン。白身魚の料理を作って、少し早目の晩酌としゃれこもうじゃあないか。

 男は帰ってからの瀟洒なひと時に胸を躍らせ、わくわくとした気持ちでバスを待った。しかし、どうだろう。バスは待てど暮らせどきやしない。そばの柱についている時計を見上げれば、もうバスが到着してもいい時間になっている。

「はて、おかしい」

 バスを待つ客は、男しかいなかった。少し時間が早いとはいえ、誰も客がいないというのはおかしな話だ。男はだんだん、不安な気持ちになってきた。

「さて、僕はいったい、どうすればいいんだろうね」

 このまま待ち続けても、バスが来る気配はない。もう一度時計を見てみると、もう男が待ち始めてから三台目のバスが到着してもいいぐらいの時間になっている。これはどうだ。もう来ないんじゃないのか。男は革靴で石畳をパタパタと叩き、指を顎に這わせて唸り声をあげる。

 と、その時だった。

「やあ、兄さん」

 男のスーツの裾を、無遠慮に掴んで引く者があった。ふっと視線を向けると、そこには浮浪者の少年が立っていた。

「バスを待っているの?」

「ああ、そうだが。なぜか一向にきてくれないんだ」

 男が困ったように肩をすくめると、少年は鼻の頭をこすって「へへっ」と笑い、言った。

「今日はストライキなんだ。バスの運転手のね」

「なんだって」

 男は愕然とした。そういえば、昨日の新聞にそんなことが載っていたような気がする。今朝は寝坊をして危うく遅刻しそうになったから、バスではなくタクシーを使ったのだった。だから気付かなかったのか!

「役に立っただろ?」

 鼻をこすって顔を見上げてくる少年に、男は苦笑いを零した。それからポケットに手を突っ込んで、出てきた銅貨を二枚、少年の小さな手に握らせた。少年は大喜びしてその場から走り去っていく。もう返さないぞ。もう返さないからな、と大声で叫びながら。男はその背中に小さく手を振って見送ることにした。

「……仕方ない。歩いて帰ろう」

 街から男の住む郊外までは、二キロほどの距離がある。一時間もあれば着けるだろう。晩酌の時間は少し遅くなりそうだが。

 少年の姿が雑踏に消えた後、男はやれやれと首を振って、ストリートを肩を揺らして歩き始めた。

 

 

 結局その日は、再び太陽の顔を拝むことはできなかった。

 気持ちの悪い風に機嫌を損ねたらしい天気は、女の都合を無視して厚ぼったいカーテンで空を閉ざしてしまっている。

 まったく、私を何だと思ってるの。女はすこぶる不機嫌だった。携えた真新しい傘が、さびしそうに見えるのは気のせいなのだろうか。せっかく買ってもらったんだ。すぐにでも使ってもらいたい、と思ってるんじゃなかろうか。だというのに、この空ときたら――

 見渡す限り、どこまでも灰色の空。本当に気が滅入る思いだ。これで雨なんか降りださなければいいのだが。女は盛大に溜息をつくと、ゆらゆらと三番街に向かった。今日はもう帰ろう。夫も子も待っているんだから。そう自分に言い聞かせながら、お踊りの角を曲がる。すると、

「おっと、失礼」

 ちょうど死角から歩いてきた紳士と、肩と腕が触れ合った。

 背の高い、みなりのいい紳士だった。女は「いいえ、こちらこそ」と言って相手の顔を見上げると、途端に悲鳴をあげそうになった。相手の男も女を見て、目を丸く向いている。

「……驚いた。こんなところで出逢うとはね」

 男がにっこりとほほ笑むと、女もつられて頬がほころんだ。

「ええ、本当に。何年ぶりかしら」

 女も男も、互いのことをよく知っていた。しかし、何の因果だろう。こんなに時間が経ってから再び会うなんて。

 二人はしばらく曲がり角に立って、見つめあっていた。互いにいい歳になったものだ。若々しいエネルギーはもうどこかへ置き去りにしてしまったようだが、相応に熟れた色香を纏うようになっている。

 昔の輝きが真夏の昼の太陽のようであるなら、今の輝きは春の朝日のようである。落ちついた雰囲気。熱さは無いが、ぬるくもない。そんな空気が二人の合間を保っていた。

「たぶん十年振りだろう。……どうだい。時間が許すなら、少し僕と話していかないか」

 男がそう誘いをかけてくる。女は少し逡巡して、

「残念だけど、今から帰るところなのよ。子どもを待たしているの」

 本当は夜まで帰れない、と言い含めてあったから、帰るには少し早いくらいなのだが。貞淑な女性として、誘いに乗ることはできないと考えた。

 そんな女の考えを見抜いたか、男はすぐ近くのバス停を指して、おどけた様子で訊ねた。

「バスに乗って、かい?」

「そうよ」

「それは残念だ」

 肩をすくめ、首をひょいとかしげる。

「今日はストライキなんだ。バスの運転手の、ね」

「まあ、本当なの」

 女は驚きのため息を洩らした。彼女は新聞を読まないので、今日のストライキをまったく知らなかったのだ。

「どうだい。役に立ったろう?」

 男が鼻をこするふりをして、ウインクをする。その姿に昔の彼の姿を思い出し、女は思わず微笑んだ。この人ったら、まだ子どもっぽさが抜けてないのね、と。

「ええ、とっても」

 男は上機嫌だ。女がさっきまで不機嫌だったのが馬鹿らしく思えるくらいに。

「もう少し経ったら雨が降りそうだ。でも、傘があるなら歩いて帰っても平気かな?」

 しまいには、おどけてそんなことを言う。女は笑った。見ればわかる癖に。

「これは日傘よ。雨傘じゃないわ」

「そりゃ大変だ。日傘を雨傘にするわけにはいかないよね」

 もう一度ウインク。女は思わず昔の記憶を掘り起こした。彼は昔、もっとウインクが下手だったはずだ。

「雨宿りをしないかい。少しの間だけ」

「仕方ないわね。少しだけよ」

 女は灰色の空を見上げ、雨の気配を探った。心なしか、雲の厚みが増したような気がした。再び、昔のことを思い出す。そういえば彼は、昔から建前と本音を混ぜ込んで話すのが、得意だった――

 

 

 空が涙を落とし始めたのは、男と女が喫茶に入って注文を店員に告げたころだった。

 ざあざあと勢いよく、それこそ風呂桶をひっくり返したように激しい雨が降り出して外をすっかり覆ってしまったので、街はいよいよ夜のような暗さになった。

 二人は淡い明かりの下で、それぞれが頼んだコーヒーと紅茶が立てる湯気をフィルタにし、あれこれと昔話に花を咲かせていた。

 彼と彼女の関係が男女のそれであったのは、もはや十年も昔の話である。両者とも後腐れのない別れ方をしたと思ったものだが、実際しこりは残るというもので、なかなか顔を合わせづらい。そのまま一年二年と時が積み重なっていって、気付けばこれだけの時間が経っていたのだ。

「あの頃の君はもう、それは情熱的だったね。そのくせいつも気高くて、僕はいつも気おくれを起こしていたよ」

 男はそう言って、顎を引いて遠い過去を見つめるような仕草をした。女は彼のそんな姿を始めて見る。以前は常に前しか向いていないような性格だったのに。

「あなたは昔みたいにアグレッシブね。でも、雰囲気はずっと変わったわ」

「そうかな。自分ではずっと落ち着いたと―― いや、衰えたというのか」

 コーヒをひと啜り。男は懐かしさと寂しさが滲んだ溜息を洩らした。

「もう昔には戻れないのだなぁ、とふと考えることがあるよ」

「あら、あなた〝でも〟?」

「そうさ。僕でも、だよ」

 二人は笑いあった。どうやら、昔を酷く懐かしく、そして二度と戻らない宝石のようなものだと捉えているのは同じのようだった。

「そういえば君、子どもがいると聞いたけど」

 唐突に、男がそう切り出した。

「結婚していたんだね。僕はまだなんだ。どうしてもする気になれなくてね」

「ええ、結婚しているわ。あなたはもしかして、私にまだ未練があるのかしら?」

 女が男の独身をからかえば、苦笑が返ってくる。

「はは、そうかもしれないね」

 男はすっと笑顔を引っ込めて、憂鬱そうな、不快が窮まった表情を一度覗かせた。彼の端正な顔。切れ長の眉が逆立ち、怜悧な双眸が怪しい光を湛える。なにを考えているのかわからない表情だった。少なくとも、目の前の彼女と結婚出来ていたなら、どんなにか幸せだっただろう―― と考えている表情ではなさそうだ。

 女は少し面白くない気がしたが、彼だけあんな顔で居させるわけにはいかないと思ったのか、

「結婚、と言っても二度目なんだけれど」

「え、そうなのかい?」

 男の表情が戻った。彼は純粋に驚いているようだった。

「そうなの。前の夫は―― そう、ダメな人間だったわ」

 きっぱりと吐き捨てるように言いきった女は、自分がどういう表情をしているか少しもわかっていないようだった。男には彼女が酷く青ざめて、何かに脅えているように見えたのだ。もちろん、それがなんであるかはわからない。

「夫の浮気が原因で、別れたの」

「それは酷いね。どうして浮気されているってわかったんだい」

 それが野暮な質問であることはわかりきったことだった。しかし、女の表情の正体がどうしても知りたかった。他の人間にとっては瑣末なことかもしれないが、見逃さなかった以上、それをつきとめるべきだ、という究明心が男の脳裏を掠めたのである。

 女は少し迷っていたが、やがて諦めたように話し始めた。

「あるとき、いつも冷酷で淡々としていた夫がすごく取り乱していたの。彼は繕っていたつもりだったんだろうけど、私にはわかったの」

 女の瞳には感情の光がないように見えた。

「ずっと前からそういう気配はあったわ。でも、その時はあからさまだった。きっと外の女と何かあったのね、って思った。だから問い詰めたのよ。そしたら――」

「そしたら?」

「……愛人が殺された、って。そう言ったのよ、彼。私なんかよりも大切な人が殺された、と言わんばかりに。そりゃもう、腹が立ったわ」

 腹が立った、という割にはやはり彼女の眼には光がない。

 ――本当に夫に浮気されて悔しかったのだろうか。そんな思いが喉元をせり上がってきたが、彼はそれを言葉にすることはしなかった。見ればわかることだったからだ。

「そんなことがあったのか。こんなことを訊くのはおかしいとは思うけれど、その愛人の女性はどうして殺されてしまったんだい」

「知らない。でも、愛人の元恋人が捕まったって聞いたわ。今も裁判中ですって。彼は無罪を主張しているけど、警察は彼が犯人だと決めてかかっている―― って」

 淡々と語る女の不気味さは、どこか狂気じみて見えた。昔はこんな話し方をする人ではなかったのにな、と男は思う。十年という時間は、こんなにも人を変えてしまうのだろうか。

「でも、今はいい人と暮らしているんだろう?」

 男がそう訊ねると、女はようやく笑顔を見せた。しかしその笑顔もまた、どこか影を感じさせるようなものだ。それが離婚経験者の女性が背負う特有の影とは、どうしても思えない。どうも別の種類のものだ。

「そうね。本当にいい人よ。今の彼は」

 男には女が幸せを感じているのかどうか、よくわからなかった。しかし少なくとも、今の夫のことは嫌っているわけではなさそうだ。

「まだ少し、怖いけど」

 そう呟く女を、男はコーヒーカップを傾けたまま見ていた。何か言おうとしているのだが、いよいよ未熟な言葉しかみつからない。彼はコーヒーで言葉を胃の中に流し込もうとしているのだった。

 

「あなたはどうなの? 結構いい恰好をしているけど」

 不意に女がそんなことを訊くので、男は自分の着ているものを見下ろした。

 仕立てのいいスーツ。なめらかな生地の、傍から見てもすぐに高級品であるとわかる程のものだ。頭髪の手入れにも金をかけているし、割合見えない場所にもこだわっている。

 ――昔では考えられないことだな。自分でそう思った。

「あの頃は考えもしなかったね。今は恵まれているよ。独りで暮らす分には」

「そう。安心したわ。私といたころは、あなたとっても貧乏だったから」

「手厳しいなぁ。確かに貧乏だったけれどね」

 男はもともと酷く貧乏だった。借金を要するほどではなかったが、生活はいつでも極限にまで切り詰められていた。男にとっても、昔の彼を知る女にとっても、彼が身なりを調える余裕を得たことは小さからぬ驚きだった。

「実は一度借金をするまでに金に困ったんだ。その時に友人に助けてもらってね。なんとか持ち直して、それから思わぬところで金が入ったんだ。それを元手に身の周りを調えて、いい仕事にも廻り逢えて、ってね」

「思わぬところ?」

 そこを訊かれると、男は少し寂しそうに笑った。

「ほら、母の形見のペンダントがあっただろう? あれが実はかなり有名な職人の作品だということがわかって、好事家に引きとってもらったんだ」

「え、あのペンダントを?」

 女はその事実にもひどく驚いた。彼女と付き合いを持っていたころは、彼は話題のペンダントを大事にしていた。これは大切なものなんだ。どれだけ金を積まれても渡すつもりはないよ。たとえ僕が野たれ死のうとね。女は印象に残っていたそれらの言葉を思い起こす。

 あのペンダントを手放した? 信じられない――

「うん…… どうしてもその当時の状況を変えたくてね。それと、僕があのペンダントを持っていたくなくなってしまったんだ」

「どうして。あんなに大切にしていたのに」

「僕にはふさわしくないと思ったからさ」

 そう言って笑う男は、やはりどこか寂しそうだった。ペンダントを手放したことに関して、彼の意志は確かに存在していたようだが、それが本意というわけではないということがひしひしと伝わってくる。女にはそれが不思議でたまらない。

「ふさわしくない、ってどういうこと?」

「つまり、そういうことなんだよ。君」

 問いかけに、男は曖昧に答えて俯いた。

 そういうこと、とはどういうことなのだろうか。ひとえに自分が「ふさわしくない存在」とでも言いたいのだろうか。女は俯いた男の顔を、さらに下から覗きこんでみようとした。健康そうな頬が、少し青ざめて見えるのは気のせいだろうか。

「とにかく」

 次に顔をあげた時、男の顔はもとの血色を取り戻していた。

「そういうわけで、僕はなんとか今の生活を手に入れることができたのさ」

 女は「自分の半身のようなものを犠牲にしても?」と訊ねそうになったが、結局黙っていた。

 言ったところで昔の彼が蘇るわけではない。それに、今更蘇らせたところでなんになるというのだろう。彼は自分に君は変わったと言ったが、変わったのは彼の方ではないのか。私はただ〝知った〟だけなのだ――

「そう。あなたも色々あったのね」

「君の方こそ。大変な思いをしたらしいじゃないか」

 お互い、探り合うような眼をしていた。瞳を覗きこみあい、わずかな揺らぎをも見逃すまいとしている。

 あるいは緊迫した雰囲気がそこに存在していたかのように思えるが、険呑かつ険悪なものはその場に一切なく、むしろこの時彼らの姿を見た者は「愛を確かめ合っているようだった」と語るかもしれなかった。

 陽の当らぬ場所で育まれた、深窓の愛。切なく、脆く、そしてどこか禁断めいた雰囲気を、その時の彼らは持っていたのだ。そしてそれは、若い彼らがかつて恋人だった時に纏っていた空気とは、まったく正反対のものだったのである。

 しかし、情熱とはかけ離れた雰囲気を醸す二人は、周りの視線はどうあれ愛を語らっているわけではなかった。ただ二人が腹の底に抱えているものが同じだったから、そう見えたに過ぎない。

 光が奔り、店の中まで聞こえるような轟音がとどろく。雷だった。

 その自然からの一喝に呼び覚まされ、二人は同時に窓の外を見遣った。雨は勢いを増している。窓ガラスを穿つ水滴は留まるところを知らず、表面を伝う様はさながら滝のようだ。

 彼らはしばらく窓の外の世界に思いをはせ、それからもう一度ゆっくりと視線を繋ぎ合せた。

「ちょっと変なことを訊いてもいいかな」

 男がそう言うと、女は黙って頷いた。男は視線を窓の外、すでに浅い川のようになっている路面に向けながら切りだす。

「――例えば大切な誰かに裏切られて、それから君はどうする?」

 ある意味、男は女の解答を知っているはずだった。それまでの会話から、この質問の答えは容易に引き出すことができる。

 女は簡潔に、この問いかけに応えることができた。ただ「さっきの話を聞いてなかったの?」と返すだけで良かった。

「私は裏切られた理由をなんとしても探すわ。その原因が自分にあるのか、それともその誰かにあるのか。はたまた別のどこかにあるのか―― とにかく、探し回る。見つけるまで諦めない」

 そうはせず女が応えて見せると、男はどこか納得したように頷いた。

「そうか。君ならそうするのか。僕ならきっと、裏切った相手が許せなくて、理由なんてどうでも良くなってしまうだろうね」

 それを最後に、二人は何も話さなくなってしまった。

 雨は降り続いている。ざあざあという音は、いつまでも途切れない。ティーカップの熱も、とっくに冷めていた。

 

 

 結局雨は止まなかった。

 男が完全に日が没した後、おもむろに立ちあがった。

「少しのつもりだったけど、随分引き止めてしまったね。これでタクシーを呼んで帰るといいよ。電話は店が貸してくれるだろう」

 そう言って数枚の紙幣とメモ用紙のようなものを机の上に置く。

「悪いわ」

「いいんだ。元はといえば、僕がここに連れ込んだんだからね。君の子どもも寂しがっているだろう。これはおわびの印さ」

 男は最後にウインクをすると、自分の席にさらにコーヒーと紅茶代を置き、店を出て行こうとする。外は相も変わらず雨模様。勢いは先ほどより弱まってはいたが、濡れて帰るには激し過ぎる。

「あなたは?」

「僕はこのまま帰るよ。心配ない」

 女に向かって手を振り、次の瞬間男の姿は暗い戸外にすっと消えてしまった。

 開け放たれたドアが閉まるまで、雨が石を殴りつける音だけが響いていた。あとに幽かに残った鈴の音を聞きながら、女は立ちあがる。

「マスター、電話をお借り出来るかしら」

「どうぞマダム。ご自由に」

 壮年のマスターに導かれ、店の隅の小さな電話機のところまでやってくる。男が寄越したメモ用紙には、律儀に電話番号が書かれていた。

「……もしもし」

 女はタクシーを呼ぶ電話をかけながら、男の言葉を思い出していた。

『――例えば大切な誰かに裏切られて、それから君はどうする?』

『そうか。君ならそうするのか。僕ならきっと、裏切った相手が許せなくて、理由なんてどうでも良くなってしまうだろうね』

 ……あまりに浅慮な問いかけだ。女は怒りとも悲しみともつかない感情に身を震わせる。

 彼女は前の夫の浮気を知った時、裏切られたことよりも、夫を裏切りへと差し向けた者への強い憎しみを感じた。だから先ほど男に言ったように、地を這うような執念で夫の相手をつきとめたのだ。

 正直、つきとめた後にどうしようかなどということは考えていなかった。体の中でのたうちまわる怒りに流されて、とにもかくにも相手がどんな人間で、なぜ自分が裏切られなければならなかったのか知らなければいけない気になっていた。

 そして―― 気付けば見知らぬ部屋の中。目の前に倒れる女性がいた。

 自分がなにをしたのか、そんなことはすぐにわかった。自らを突き動かしていた憑きものが溶けてなくなったのを感じたと同時に、途方もなく冷静にその死体を見つめている自分に気付く。

 それは恐ろしいことだった。あまりに無感動過ぎる。自分がしてしまったことに対しての恐怖や罪悪感がまったくなかった。

 名前も良く覚えていない。エミリーだったか、メアリーだったか―― もはやすべてが終わってしまった今、それらはどうでもいいことだ。女は黙って、どこまでも冷徹に夫の裏切りの元凶を見下ろす。

 結局、その手で終わらせてしまってわかったことといえば、ひとつの愛の決定的な終焉と、そして自分が非理性的で野獣のような人間だった、ということだけだ。

 割に合わないとは思わなかった。ひとつ賢くなった。そう考えられる自分が嫌いでもあった。

 女はその後、自分の証拠を残らず処分して、なんの動揺もなく家に帰った。そして夫の無様な醜態を目撃し、呆れ、自ら離婚を切り出すに至った。それからしばらくはひとりで生きていこうとも思ったのだが、どういう経緯か今の夫と暮らすことになっていた。子どももいる。今でも不思議に思うことがあるくらいだ。

 女は今が幸せかどうか、自分ではわからない。

 見知らぬ女性を殺してしまったことは、女に罪悪感をもたらすものではなかった。〝そんなことよりも〟、彼女は非理性的であると発覚した自分がひどく恐ろしくてしかたない。

 今の夫は優しい男だ。おそらく女を裏切ることはないだろう。しかし、そう万が一にも〝そういう可能性〟があったなら、女は自分が何をしでかすか考えただけでも恐ろしかったのである。

 また裏切りの種を摘み取るか、もしくは裏切りの花を刈り取るか。

 それらの行動がすべて、強い自愛によるものであることは、うすうす勘付いている。はたして人間というのは、かくあるべきなのだろうが。おそらくこれが最後の理性の砦なのだ。もう一度過ちを侵すことがあれば、人間ではない個人になってしまうだろう。そんな気がしていた。

 だから、今の生活が恐ろしくてたまらない。表面上は幸せでも、ずっと脅えている。それも自分に。他でもない自分を愛する自分を恐れているのだ。こんなに馬鹿な話もあるまい。

 女は受話器を置いて、もう一度男の顔を思い出した。

 彼もまた、自分に脅えているのだろう。彼の顔を見ていると、鏡を間近で覗きこんでいるような錯覚に囚われた。だから、彼もわたしと同じ。自分の罪に脅える可哀想な人。

「きっと天罰ね」

 雨は何も答えない。

 

 

 男は雨に霞む路上を疾走していた。

 天気のせいか、路上には人も自動車もない。

 視界すらきちんと確保できないこの悪天候の中、どうして自分は傘も差さずに走っているのだろう。彼女は同じ方面のバスに乗ろうとしていた。帰る方向が同じなら、彼女と行ける所までタクシーで一緒に帰ればよかったんだ。男はとうに意味を成さない文句を自分に向けながら、数え切らないほど目の前を過る雨粒から顔をかばって走り続ける。

 一張羅は台無しだ。やはり意地を張らず自分もタクシーに乗るべきだった。――なぜ意地を張った?

 疑問が過る。ふと足を止めると、小さな軒が見えた。男は素早くその軒下に入り込むと、滴る雨のしずくに体を震わせる。寒い。

「どうして僕は」

 走って帰ろうとしたのだろう。自分に問いかけてみる。

 しかし、男はすでに答えを知っていた。女と居るのが辛くて仕方がなかったのである。彼女の雰囲気が、取り巻く空気がまるごと男を憂鬱に絡みとって離そうとしなかった。

 さながら、自分を鏡で見ているようなものだった。男と女は違う人間で、違う感性を持っている。けれどもはらわたの中に抱えているものが共通していた。

 せっかくセットした髪型も、雨の所為でぐしゃぐしゃになっている。男は濡れて額に張り付いた前髪を払いのけ、女の言葉を思い出した。

『私は裏切られた理由をなんとしても探すわ。その原因が自分にあるのか、それともその誰かにあるのか。はたまた別のどこかにあるのか―― とにかく、探し回る。見つけるまで諦めない』

 男は女と違った。彼は女のように執念深く、物事を探ることができなかった。

 それまでずっと一番に自分をわかってくれて、友情に厚い人間と思っていた友が、急に「借金を二倍にして返せ」と言ってきた時、男は何もかもわからなくなって激昂してしまったのだ。

 それが単純な搾取だったのか、それとも彼なりの事情があってのことだったのか、今となってはわからない。なぜなら、友人は激昂した男によって既に殴り殺されているからだ。

 あの時のことはよく覚えている。一番苦しい冬の時期で、無理に金を返そうものなら飢死が目に見えた。男は何度も友人に「冗談だろう?」と訊き返したが、友人はつき放すだけで取りつく島もなかった。

 期限も猶予も与えない。今すぐ返せ。それがいっぺんどうな友人の主張である。男は自分の胃袋の中で、友人への不信が次第に憎悪に昇華されていくのを感じていた。そこで油断した友人が背中を見せた時、殴りかかったのだ。

 凶器は四角い古木の置時計だった。感触はあまりに軽かった。音は感触とは裏腹に重々しく、いつまでも耳に残っていそうなものだったと記憶している。

 腕を振るった瞬間は、目の前に赤い閃光が奔った。今にしてみれば、あれが狂気に違いない、と男は思っている。とにかく理性を取り戻した時には、友人は床に転がって血だまりをつくっていた。

 男は後悔と、それに反する爽快さとに心の底に穴を穿たれた気分だった。それは嘔吐をした時の気分に似ていた。最悪のものに違いなのだが、同時に胸がすっきりとする感覚がある。なんとも不可思議なものだ。

 男は少し経ってから、先ほどからずっと首から下げていたペンダントを握りしめていたことに気付いた。左手で包み込んだペンダントは、ほんのり熱を持っている。その瞬間だろう。男がそのペンダントを持っていることに激しい後ろめたさを感じるようになったのは。

 昔から、極度に緊張したりした時、ペンダントを握りしめるのが男の癖だった。そうすると母がどこかで見守ってくれている気がして安心したものだ。母はペンダントに宿っていて、いつでも自分を見守ってくれているのだと感じていた。だからこそ、人を殺したその時、ペンダントを必死に握りしめていた自分に激しい怒りを覚えた。

 ――この後におよんで、僕はまだ母さんに助けを求めるというのか!

 男はペンダントから手を離し、やり場のない怒りをぶつけるために地団太を踏みそうになるのを必死でこらえた。母はこんな愚かな行いをした息子でも、きっと助けてくれるに違いない。しかし、それではだめなのだ。ここで母に頼ることがあれば、自分は母の愛を穢すことになる。それだけは許すことができない。

 最初は自首することも考えた。だが、この時の男の腹には、友人への憎悪が残っていた。先に裏切ったのは彼の方だ。自分は彼の裏切りに裏切りで以て応えたに過ぎない。そう思えば思うほど、自分への怒りと比例して憎悪が勢いを取り戻してくる。

 結局男は、自分への怒りを自分の罪として呑みこむことによって、そのまま生きていくことを決めた。証拠の隠滅や偽装工作は入念に行った。友人の死は強盗のものとされ、そのまま数年の時を踏んでも、幻の犯人は見つかることがない。

 罪を隠して生きることになった男は、ほどなくして母のペンダントを売ってしまった。男にペンダントを売るという彼にとって最大級のタブーを侵させるほど、生への欲求は深く暗かったのだ。

 しかし、それから先の人生は順風満帆と言って良い。

 ペンダントの加護を無くした男は常に笑顔を張り付けるようになり、浮薄の体がずっと強くなった。しかし、裏ではいつでも誰かの裏切りに脅えている。

 社交的な人格は偽りになってしまった。浮薄な態度はそこの浅さを盾にして、深入りを避けるための苦肉の策となった。

 誰かにこの苦しみをわかってもらいたいと願いつつ、それとは逆にいつまでもばれないでいてほしいと願うものであるから、それは複雑なディレンマとなっていつでも隣に立って男を見下ろしている。男はそれを自覚するたび、深い後悔と苦しみに苛まれることになるのだ。

 順風満帆の人生と、それにいつでも寄り添っている過去の罪。後悔。彼の現実と非現実はあまりに近すぎた。

 男は勢いの弱まることのない雨を見上げつつ、暗闇に女の顔を思い描いた。

 彼女もまた、今の夫が信用できないでいるのだろう。いくら善良な人間でも、完全に信じきることはできない。いつか裏切られるかもしれない。そんな恐怖に脅えているのだろう。今は―― 今宵はただ、人目のない場所に消え去りたかった。

「これはきっと、天罰なんだな」

 彼の呟きは、街灯の明かりをも包み込む漆黒の闇に呑まれて消えた。

 

 

 

 

 

 
このエントリーをはてなブックマークに追加
 
 
0
0

コメントの閲覧と書き込みにはログインが必要です。

この作品について報告する

追加するフォルダを選択