「敏明くーん! こっちこっち、ほら、洞窟があるよ!」
少女に呼ばれ、敏明はえっちらおっちらそちらへ向かう。
行った先の岩陰には、なるほどおとな数人が並んで通れるくらいに大きな洞窟が、ぽっかり入り口を開けていた。
「入ってみよう!」
好奇心を満面ににじませて、少女は言う。
「大丈夫? 危なくない?」
対照的に、警戒心をあらわにする敏明。
「大丈夫だって。危なかったら、立て札立てるなりロープを張るなりするだろうし。さ、行こう!」
敏明の手を引いて、少女はなかへと進んでいく。
「わわっ、ちょっと待ってよ、由理!」
つんのめりそうになりながらも、敏明は由理に続く。
洞窟は、入り口の広さに比して奥行きはあまりなく、数十mを歩いたところで行き止まりとなっていた。最奥には小さな社が設けられており、比較的新しい花やお菓子が供えられている。
「きっと、この洞窟そのものが神様として祭られているんだろうね」
興味深そうに言うのは、敏明ではなく由理の方だ。
「洞窟が神様なの? ここにいるとかじゃなくて?」
意外そうに聞き返す敏明。
「うん。洞窟そのものを信仰の対象にするっていうのは、昔からよくあったみたいだよ」
「へえ、そうなのか」
感心したように言う敏明。
それを受ける由理も、まんざらではない様子である。
「それにしても、ここは涼しくて気持ちいいな」
「そうだね。少し休んでいこうか」
「そうしますか」
薄暗い洞窟の壁際に、並んで腰を下ろすふたり。
あたりに流れるのは波の音、風の音、それから遠くに聞こえる人々の声。
先ほどまで人々の集まりのなかにいたというのに、それから少し外れただけで、浮き世から隔絶された異世界へと迷い込んだかのような不思議な感覚があった。
「洞窟と言えばさ」
由理が向かい側の壁面を見つめながら切り出し、
「日本で一番長い洞窟、どこか知ってる?」
振り向いて敏明に視線を向けて、問い掛けた。
「日本一か。秋芳洞だっけ?」
ひとまず思いついた名前を挙げてみる敏明。
「それは三番目。鍾乳洞としては日本一どころか、アジアでも最大規模なんだけどね」
「鍾乳洞って、洞窟とは違うの?」
不思議そうに敏明が問う。
「洞窟というジャンルのなかに、『鍾乳洞』って区分けがあるの。石灰質を多く含む土壌が水の浸食によって削られてできたのが、鍾乳洞って呼ばれる洞窟なんだよ」
「なるほどなあ」
思わず感嘆の息を漏らす敏明。
「で、日本で一番長い洞窟は、岩手県の安家洞。ひとつの入り口から木の根のように枝分かれしてる洞窟で、総延長は23,700m以上にもなるんだって」
「23,700mって、23km!? そんなに長い洞窟が日本にあったのか」
「人一人がやっと通れるような狭い穴や、地底湖なんかも無数にあるらしいよ。ちょっと行ってみたいよね」
「僕はやだなあ。なんか恐そう……」
もう、敏明くんは恐がりなんだからと由理が笑う。
それに釣られて、敏明も笑った。
「由理はいろんなことを知ってるんだな」
お世辞でも、子供相手の褒め言葉でもなく、本心をにじませて敏明は言う。
「そうでもないよ。興味のあることしか調べないし」
だが言われた側の由理はといえば、そっけないものである。
「それを言ったら、僕の方こそ偏りまくってるよ。ろくでもない知識ばかりだ」
「たとえばどんな?」
「えっ? えーっと……」
洞窟の天井を見上げて考え込む敏明。
ふとなにかを思いついたように、視線を下げる。
「コンドームって穴が空いてると困るよね」
「えっ、こん……えっ!?」
由理が目を丸くして聞き返す。
それはそうだろう。洞窟の話がいきなりコンドームに変わったら、彼女でなくとも驚くに決まっている。
敏明もそれに今更ながら気付いたものの、もはやあとの祭りだった。
返す言葉のない少女。引っ込みのつかない男。
あたりを満たすのは、痛々しい沈黙と静かな波音のみ。
「え、えっと、それで?」
沈黙の闇を照らすかのように、由理が改めて聞き返した。おとな顔負けの心遣い。
自分より一回り以上も年下の少女にそのような気遣いをさせてしまったことを大いに恥じ入りながら、それでもありがたいと感じつつ敏明は言葉をつむぐ。
「ああ、うん。えっと、何の話だっけ……」
考える敏明。
じっと待つ由理。
「ああそうそう。コンドームに穴が空いていたら、困るわけだよ」
由理が反射的に吹き出した。
「ゆ、由理?」
「ごっ、ごめんなさい、でも敏明くんが、真面目そうにそんな話しようとしてるのがおかしくって……」
口元を手で抑えながらも、漏れ出る笑い声を消すことはできない。上下する肩を隠すこともできない。
敏明は、できることならこの洞窟の奥底に埋まりたいと半ば本気で考えてしまうほどの情けなさを味わいながらも、笑い話になってしまったことを僥倖だとも思っていた。
「まあなんだ、要するに避妊は大切だよって話だから、それがわかってもらえれば、僕はいいよ」
苦笑しながら言う敏明。
由理は目のふちに涙の珠を作り、それを指の背でぬぐいながら、
「はぁい先生、わかりました」
と、悪戯っぽい声音で答えた。
少し強めの風が吹いて、由理が肩を震わせた。
洞窟のなかは涼しいが、薄着でずっといるにはいささか気温が低すぎるようだ。
「少し寒くなってきたね。そろそろ出ようか」
「うん」
先を行く敏明に、自分の肩を抱きつつ続く由理。
洞窟の外へ一歩出てみれば、かんかん照りの真夏日だった。
「外は暑いね」
「だなあ。洞窟のなかが夢かまぼろしだったみたいだ」
焼けるように熱い砂を、ビーチサンダルで踏みしめて歩く敏明。
由理はその隣に並ぶと、彼の腕を取って自分のそれと絡めた。
「ね、敏明くん。どうしてコンドームの話なんてしようとしたの?」
「そっ、それはだな……」
とりあえず思いついたことを、考えなしに言ってしまった。それだけのはずである。
やましい気持ちなんて、これっぽっちもなかった。誓ってもいい。
敏明は、誰に言うでもなく内心で釈明する。
しかし、なら、それならば、咎められるかのような、追求されるかのような今のこの空気は、いったいどういうことなのだろうと敏明は思う。日差しの下にいるにもかかわらず、彼の背を伝うのは冷たい汗だ。
「敏明くんは、コンドームに詳しいんだ?」
「まあその、人並み程度には……」
年端もいかぬ少女と密着し、そのうえで避妊具の名前を連呼されて、敏明は見る間にしどろもどろになりつつあった。
そんな敏明の姿を見て、由理がまた相好を崩す。
「はあー、もう好きなだけ笑ってろよ」
しょげかえり、視線を落として歩く敏明。
由理が慌ててなだめに入る。
「ごめんごめん、敏明くんが可愛くてさ、つい」
敏明からしてみれば、親子ほど歳の違う少女に可愛いなどと言われても、情けなさ以外に募る感情はない。踏んだり蹴ったりだと思いつつも、すべての非の所在をよくわきまえている敏明としては、ただ黙って肩を落とすことしかできないでいた。
そんな彼の耳元に、内緒話をするみたいに唇を寄せて、そっとささやきかける由理。
「ねえ、敏明くん」
「ん?」
「いつかコンドームについて、あたしにちゃんと教えてね」
<了>
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あれからもう2年。