いつものように授業を抜けだし、気ままに校内をうろつく。
芽月輪 累(めつきわ るい)はいわゆる不良生徒として認知されている。
無理矢理入れられたこのお嬢様学校に、累の居場所など無かった。
最初は誰もが甘い言葉で近づいてくる。でも最初だけだ。すぐに「不良」や「乱暴者」のレッテルが貼られる。善意や同情の瞳の奥にあるものはいつだって侮蔑だ。
誰も壁を越えてきたりはしない。それに嘘を付かれて騙されるぐらいなら最初から誰もいない方がいい。
あたしはどうせ、出来損ないだ。
残りかすだ。
親から貰ったものなど全部ぶちこわしてやりたかった。
髪の色も顔も何もかも嫌いだった。
皆が寝静まったと思い込んだ両親が話しているのを聞いたことがある。
「あいつは出来損ないだ」と。
親でさえ見放した自分を、誰が拾い上げる?
あいつらには姉さんだけがいればそれでいいんだ。
それに、ここの女たちはみんな腑抜けだ。
一時の慰めや快楽を享受して、それが愛だの友情なのだと思っている。
偽善そのものだ。偽りと虚飾の腐敗した園だ。
だからあたしは逃げ出す。せめて、広い場所に。
屋上は出入り禁止になっているが、累には関係ない。
昔自殺した生徒が居たとか色々言われているせいで、屋上への扉には頑丈な南京錠と鎖が掛けてあったが、そんなものはペンチが一つあれば簡単にもぎ取れる。一度壊してしまえばそこはもうフリーパスだ。誰も立ち入ることのない、累にだけ許された聖域。
誰にも干渉されないこの場所は、この世のしがらみから解放される唯一の場所だ。
授業が終わるまで時間をつぶして、それからまた何処かへ出かけよう。
累は扉を開けた。
微かに紫煙の香りが漂っている。
無人のはずの屋上には、すでに人が来ていた。
隙無くスーツを着込み、フェンスの向こうを眺めながら立つその姿は一種の威厳を放っていた。角度のせいでちらりと横顔が見える。
すらりとした鼻梁の描く鋭角的な稜線は、物語に出てくる厳格な女教師そのものだ。そして右目を覆う青い眼帯がその仮面に異質な彩りを添えている。
知ってる。
蒼崎 冥閃。始業式の時にチラリと見た顔だ。
眼帯をした教師なんてこいつ一人しかいない。
どうしてここにいるのか判らないが、物憂げな表情でタバコを吹かす冥閃が
彼女の領地を侵す侵入者であることに違いはない。
「ここは立ち入り禁止だよ」
低い声で絡んでみるものの、冥閃はフェンス越しに外を見たままだ。
「聞こえないのか? ここから出てけって言ってんだよ」
物憂げな表情は変わらず、視線だけ動かして冥閃は言った。
「私がどこにいようと私の勝手でしょう」
「ここはあたしの場所なんだよ。目障りだから出て行きな」
「いやよ。職員室は禁煙なんだもの」
「テメエの都合なんて関係ねえ」
冥閃はため息をついて、累に向き直った。
「貴女はまるで、わめくだけの子犬ね」
「なんだとっ」
今まで彼女にそんな口を利いた人間は誰一人としておらず、累は鼻白んだ。
「気に入らないことには吠え立てて、筋が通らなければ噛みつく。
拗ねていれば誰かが同情してくれるとでも? 貴女、ずいぶん幸せな家庭に生まれたみたいね」
冥閃の言葉はどこまでも辛辣だ。
「お前なんかに何が判るって言うんだよ!」
「貴女だって、私のことを何も知りはしないでしょう?」
苛立つ。
大人って奴はいつもこうだ。金とか力とか、経験とかを振りかざす。
押さえつけるだけだ。理解も歩み寄りもしない。
そして「自分に都合の良いもの」だけを迎え入れる。
期待に添わないもの、枠からはみ出た者を顧みることはない。
大人だけじゃない。この世界の全ての人間がそうだ。
浮ついた姉妹ごっこも、男目当てに街に繰り出す女どもも全部そうだ。
仲良しゲームの裏にある、汚れた部分を累は知っている。
思えば両親からしてそうだ。
あの二人の汚れた血が自分には流れている。
吐き気がする。
学園に来て手に入れた束の間の自由。
他者を排除して得た自分だけの場所。この女はそれすらも奪おうという。
ならばいつもどおりにするだけ。
「出て居かねえんなら―――」
力はルールだ。
教師に手を挙げるのは少し気が引けるが、痛い目を見て貰う。
拳を握り締め、冥閃の頬に向かって繰り出す。
だが。
振り上げた拳はその場所で停止した。
「なっ……!?」
まるでコンクリートで固められたかのようだった。
いつの間にか伸びていた冥閃の手が、逆に累の手首を掴んでいる。
「数学教師だから暴力で何とかできると思った? お生憎様」
「離せ、離せよっ」
その華奢な腕のどこにそんな力があるのか、振り上げた腕は捕まれたまま微動だにしない。
手首に食い込む冥閃の握力はまるで万力のようだ。
「口の利き方がなってないわね……そんなに黙らせて欲しいの?」
平手打ちでも来るのか。
思わず目をつぶった累に、しかし痛みは来ない。
代わりに来たのは、柔らかな感触。
タバコの味がする。
それは胸がむせかえるようで、けれども冥閃から漂う甘い体臭がそれを不快なものではなくしている。
異性同性を問わず、累はこれほど近くに人を感じたことがなかった。
しかも何を思っているのか、冥閃は累に舌を差し込んできたのだ。
突然の感覚に、はたして唇を離したのが自分だったのか冥閃だったのかも覚えがない。
思えば、他人に触れられたのは一体どれくらい前のことだったか。
蠱惑的な表情で唇を濡らすと、冥閃はキスの感想を述べる。
「態度は辛口だけど、キスは甘いわね。チョコレートかしら」
呆然とする累に冥閃は続けた。
「自分の人生を駄目にするのも良くするのも全部自分次第よ。
今すぐ改めろなんて説教するつもりはないけどね」
蒼崎 冥閃は無口な教師だと聞いていたのを思い出した。
学園でも孤立した存在だと。
「でも決して取り戻せないものがあるって事を少しは知ったほうが良いわよ」
それがこれほどまでに穏やかな言葉を自分に掛けてくるとは。
けれども、冥閃はそれ以上何も言わなかった。
急速に興味を失ったかのように新しい煙草に火を付け、またぼんやりと吹かし始める。
累は弾かれたように駆け出した。
廊下に続く扉を乱暴に蹴り開け、一目散に屋上から逃げた。
「ちくしょう…………ちくしょう!」
軽蔑された方がマシだった。
なんだって。
なんだって、あの教師は、あんな哀しい目で自分を見るのか。
自分が酷く矮小な存在に感じる。
胸が痛い。
嗚咽が込み上げてくる。
累は校舎を彷徨い、人知れず泣いた。
空はどこまでも青い。
流れる雲はいい、と思う。
誰にも束縛されない。その形を幽玄に変えながら、ただ漂う。
雲は何にもなれるが、何者でなくてもいい。
一人で居ることには慣れていた。
この世には誰も、自分を気に掛ける者などいないのだ。
屋上はどこにも居場所のない自分の、たった一つの聖地。
自分が何者でなくても良い場所。安全地帯。
けれども。
「なんでまた居るんだよ……」
自分の聖地にはまたしても先客が居た。
冥閃は例によって物憂げな顔でタバコを吹かし、ぼんやりとフェンスの向こう側を見つめている。
「言ったでしょう、職員室は禁煙だって」
「不良教師」
「不良生徒に言われたくはないわ」
「あたしはタバコなんて吸わねーよ」
いつも口にくわえているのはシガレットチョコだ。
「授業サボってるじゃない」
「学校に金は払ってるんだ、あたしがどこにいようと勝手だろ」
「反抗的ね。また黙らせて欲しいの?」
その台詞に累は思わず飛び退いた。
「ば、ばかっ! あんたのキスはタバコの味がしてマジいんだよっ」
顔を赤らめた累へ、冥閃は僅かに笑みを浮かべる。
「甘くないのよ、年上は」
―終―
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某スレに投下した創作百合物。不良教師と不良少女のちょっとした出会いの物語です。