まだうっすらとした闇の残滓が密やかに地面から数センチほど上に横たわっている。一人で暮らすにはいささか広く感じられる屋敷の中には、多分自分が認識できないような闇は沢山あって、そういうものが夜中に、屋敷の主人に気付かれぬように這い回り、夜明けとともにどこかへ、あるべき場所へと還ってゆく。すれば、夜と昼の丁度中間地点のようなこの静寂だけが世界の主である刻限に目覚めてどこぞへ戻ろうとする小さなこの世のものならざる闇の気配を感じて、ぞくりと背中に寒さを感じることは別段めずらしい事ではないのかもしれない。そんな時間に起きて行動している人間は帝都ザーフィアス内に決して少なくはないけれど、多くもないわけだから。
重ね着をしているとはいえ決して防寒性に優れているわけではない寝巻き姿で体を起こして毛布の温もりがわだかまる場所から体を引き離せば、当然のことだけれども冷気にぶるりと震える。手近にある毛糸で編まれたショールを肩にひっかけて、エステリーゼはまだ闇の空気がそこはかとなく残る早暁の薄闇へ、足を踏み出した。
意識はきっぱりと目覚めている。眠る前は大分感情が昂ぶってしまって、ジュディスを客人用の寝室に見送ってからも、部屋の中にほんのり名残を残す暖炉の空気が夜中の冷気に飲み込まれてしまうまで、エステリーゼは床につけなかった。
―――それはね、多分誰にも治療なんて出来ないものよ。治癒術も、薬も、何も。
静かにのたまうジュディスの声色と表情の柔らかさと、言葉の意味をゆっくりと理解した瞬間は、自分でも意外な程に冷静だったと思う。なんとなくそうなのだろう。おかしい、とは思いながらも、けれどもこうして心の中に在る己の感情の正体を第三者の口から告げられて成る程と納得するくらいにはエステリーゼには自覚があった。幸か不幸か、それはひとまず差し置いて。
だってそんな風に見たことはなかったし。――それは、自覚が無ければ見るわけもない。
だって、ずっと、お友達だと思っていたし。大切な、大切なお友達。――それが本当に正確な認識だったという確証は、エステリーゼ自身の中にははっきりと存在しているわけではない。
だって、リタは女の子だもの。ちょっと変わり者で、魔導器に夢中で、小さくて可愛くて、ひたむきで、真っ直ぐな。――だから違う?違う、そう断言する判断基準は漠然としていて曖昧だ。リタは可愛らしい。一言で表現すれば。くるくると猫みたいに変わる表情とか態度とか、素直になりきれなくって、感情を持て余してしまって、一生懸命で、照れながら名前を呼んでくれる声とか仕草とか表情とか、すべてが。
だから彼女が「友達だ」ということを認めてくれた日はうきうきと心が弾んで少し眠れなかった。恥ずかしそうに認めてくれた事が本当に嬉しかった。ほんとうに、あの時はその感情を感じたときのまま、ふわふわとくすぐったくて楽しいままにずっと保てるものなのだ、と思っていた。
結論は分かっている。ジュディスに促されずとも、多分どこかでは気付いていたのだと、今にしてみれば思える。
けれどどこかでまだ遠慮めいたものが、遠慮であるのか配慮であるのか、己の真意を誰かに、それこそ当の本人リタに告げたところで一体どうなるかということを想像すると、この早暁の寒さとは別の、もっと切実で悪寒めいたぽっかりと開いた闇の居場所への入り口に引き寄せられてしまうような恐怖感が一気に体中を、感覚を、感情を、支配してしまう。
だから、認めた所で、何も変わらない。
リタは大切な友人であることは、とても大切な事実だから。
本当はもっと一緒に過ごしたいと思う。手紙に記しているようなとても些細で日常的なことを共有したいと思う。そういう時の、エステリーゼにはちょっと想像もつかないような(リタはいつだってエステリーゼに沢山の驚きと喜びを提供してくれる)言動とか、表情だとか、本当にずっと見ていても飽きないのだからいっそ側にいて欲しいと願う。例えば、こんな風に自分の側には誰もいなくて息が苦しくなるくらいに静かな時間に。ちくりと胸の奥に刺さる痛みのことを話してみたら、どんな顔をするだろう。あたしも一緒にいるから!慌ててそんなことを言ってくれるのだろうか。そんなどうにもならない、意味のない、馬鹿馬鹿しい想像をするなと怒るだろうか。呆れるだろうか。
リタのことを考えると、エステリーゼの思考は突然活性化する。逆の時もある。ひどく落ち込んで苦しくなったり辛かったりもするし、次の瞬間にはふわふわと夢心地の中で空も飛べそうなほどに楽しかったりして、気付けば夕暮れ時の広い部屋の中でたった一人で佇んでいるように切なくなったりする。
例えばお姫様が素敵な王子様に出会う。それはとても運命的で、けれども二人の幸福を約束させる神様の悪戯心を発端にした偶発的な、二人の間に少しばかりの焦燥と苦悩とそれからとびきりのハッピーエンドを齎してくれる、プレゼント。
現実にエステリーゼは姫君で、けれどもそんな夢物語は夢物語だと知っていた。お姫様は望み少なく望まれることはとても多いのだ。きらびやかなドレスや柔らかくて上品な甘さのシフォンケーキの代償は、そんなに単純で楽で優しい夢の世界なんかでは、決してない。
お姫様は王子様と出会う。それは、もしかしたら運命的だったのかもしれない。けれどもそれは偶発的ではなくて多分必然。エステリーゼ自身が、ずっとずっと望んでいた、誰か、誰か側にいてほしいと、静かに自制をしつづけなければならない世界の中のお姫様の、感情の楔を解き放ってくれるようなそんな人が、世界の中にただ一人存在して欲しかったただそれだけ。
王子様は王子様ではなくて、世界一変わり者かもしれない気難しい魔導士少女だったことそれだけは、この世界のどこかにいたのかもしれない神様の悪戯心かもしれないけれど。
そんな悪戯心は、けれども恋心を自覚したエステリーゼにさした戸惑いを与えることは出来なかった。
少なくとも、以前の自分ならば、「どうしても完璧に構成しなければならない術式」が目の前にあったとすれば、そのような理由が背景になくとも、ひたすらに術式の完成に時間を費やしていただろう。余計なことも、考えなかったに違いない。
少女の唇から声にならないほどの音が漏れて、溜息になる。
季節は春。ふわりと鼻先をくすぐる、植物由来の淡くて甘やかな薫り。今年もまた、ハルルの空を覆う桃色の花が咲く季節。
アスピオという学術研究の街が失われてもう大分経っていて、それはつまりリタがハルルという街を拠点にしてから大分経っているということになる。大分、というのは、そもそもリタの時間の感覚が常人よりも大分ずれているから正確な時間を記憶していないというだけなのだ。曰く、余計なことに頭を使いたくない。
つまり、彼女にしてみれば、研究に没頭するあまり時間感覚を失うことなどは、日常茶飯事であった。
が、めずらしく。ハルルの街を象徴する巨大な樹――結界魔導器としての効用こそ失われたが、魔導器と融合し成長した巨木はこうして尚も生き続けている。その中に、確かに新たなる精霊の息吹を宿しながら――の側に居を構え、ふと視線を外し、最低限の採光を目的とした出窓へと視線を向ければ。
何時の間に開けたのか、少しばかり開いた窓から外気が入り込み、ろくろく整頓もされず散らかりっぱなしでその上空気がわだかまったまま濃度を増して植物でも生やしそうな、とても人が住まう空間ではないような部屋にも、わずかな季節の便りを届けている。
季節の移ろいや気候の変化に心を動かされることは、多くはなかった。研究対象としての価値があるからこそ、このハルルの樹の側に居を構えたという目的はあれども、己の研究目的以外の事柄には頓着などしようとも思わない。というよりも、少女という年齢や言葉に相応しくないほどに、リタはそもそもそういう発想自体が欠如しており、かつ認識もしない。
けれども、ここ最近の頭の中に靄がかかったような、この思考の鈍りぶりはどうだろう。少なくとも半年前はもう少し思考回路は明瞭だった。
術式の完成が未だ成らぬ理由の全てがそんな自分自身に纏わる些細なことだなどとは思わないが、遠因であるようには感じる。実際、思考が鈍っている実感はあった。以前ほど一心不乱に研究に取り組めない。ふと、息をついてしまうことがある。そういう時は思考は同じところを何度も繰り返しぐるぐると回るだけで、一向に解決には結びつかない。
そう、こんな風に息をついてしまうのだ。埒もないような物事に、意識をさらわれてしまうのだ。無意味なのに。役にだって、立たないのに。
いつの間にか入り込んでいた、清涼ですこし甘を感じさせる匂いとうっすらと淡い色のちいさなちいさな花弁。先ほどから、この鄙びた薄暗がりにたゆたう甘い匂いの正体はきっとこれだ。理屈が先に来る少女にしては珍しく、ひどく感覚的な思い付き。直前までかじりついていた書物も、頭の中にみっちりと詰まっていた計算式や仮定や理論も、ふわりと香る季節の便りに浚われて、そうするとリタ・モルディオという少女の脳裏に浮かぶものは、(それは基本的に唐突に訪れる)決まっていた。
まるでこの季節のような、まるでこの小さな花びらのような、甘くて柔らかくて優しい面影。
―――そういえば、あのコはいつだってそうだった。突然目の前に現れた。突然、手を取った。突然笑って、突然いなくなって、突然、突然、突然、そう、やることなすこと全部が突然。予想なんて出来ない。想像がつかない。理解も出来ない。
指先で小さな花弁を玩びながら、いささかの憤りと共に思い出を反芻する。
あれから、結構会ってない。多分、半年以上。
そう思ったとたん、半年、という具体的な時間感覚が突然リタを襲った。
半年。一年の半分も、会っていない。その事に根拠も分からず、けれども愕然とした。半年。手紙のやりとりは一方的なことが多かった、けど、結構していたけれど、でも。元気だろうか。帝都ザーフィアスとハルルの街は、デイドン砦を越えればすぐの距離。クオイの森を迂回するか魔物の徘徊する平野をつっきらねばならないけれど、それでも、徒歩にしたって数日という距離。行き来できない距離ではない。なのに、半年も。
半年、という時間の感覚がどんどんとリタの中で存在感を増してゆく。半年も直接会っていなかったという事実が、急に物理的な重さを伴ってのしかかってくるようだ。
先ほどまで何故だかはっきりと覚えていた少女の面影だとか、声だとか、名前を呼んでは嬉しそうに手を振る仕草だとかを思い出そうとするのに、肝心要のそれら全てに、どこからか湧き出す正体不明の不安の霧が覆いかぶさって記憶を曖昧にしてしまう。
「エステル」
せめてもと名前を呼んでみた。口にすると、リタの中に存在する稀少な感情がゆらりと蠢くのを感じた。慣れない感覚を誤魔化すように、もう一度。「エステル、元気にしてるのかな…」この、春になればハルルの街を覆いつくさんばかりに咲き誇る桜色の髪をした少女の面影を見出さんとするかのように、理解不能な焦燥感と共に、リタはじっと小さな窓の外に眼を向ける。
けれども、そこに彼女の姿があるわけもなく。現実を視界に認めた瞬間に、胸の奥で疼くものはにぶい痛みを切々と訴えだす。自ずと唇が戦慄いて、鼻の奥がつんとしてくる。
先ほどまで頭の中の殆どを占めていた数値と計算、術式の構成は不安定な感情の前にすっかり存在を潜めてしまっていて、代わりにワケもなく感情が飽和したような、苦しくて忙しくて混乱する感覚が思考回路一杯に充満している。指先で弄っていた花びらのことを考える余力も無く、リタは自分が一番理解できない自分自身に揺らいでいた。
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