リジ:リーヴァ。
誰がつけたか解らない。
誰も知らない場所にある、誰も知らない小さな森の名前。
それは世界の果ての果て――。
ここには何もありません。
森と言っても草木は焼け焦げ、大地は枯れ果てていました。
空は真っ赤に燃えていました。
鳥のさえずりなど聴こえるはずもありません。
さみしいさみしい、無色無音の世界なのです。
しかしそこに、たったひとつだけ生命が存在していました。
それは一匹の虎。
しなやかで美しいけれど、全てを拒絶するような鋭い眼孔でした。
そんな虎がたった一匹、ここで生きていたのです。
ある日、眠っていた虎は"音"を聞きました。
誰もいるはずがない、誰も来るはずがないのに……。
虎は起きあがると、音の方へ歩いてゆきました。
"音"はたった一度きり。
それでも何故か虎の歩みには、迷いがありませんでした。
直感なのか、確信なのか。
まるで場所を知っているかのように、歩を進めます。
やがて辿り着いた場所は、水が枯れてしまった、かつては湖だった場所。
そこに一人の女性が、背を向けて座っていました。
真っ黒い髪に黒いワンピース。
何をするでもなく、ただそこに座っていました。
何故ここに人間が?
虎は酷く動揺しました。
虎は人間に対してよい感情をもってはいません。
それは過去に何かあったから、もしくは特に意味はないかもしれません。
理由は曖昧なのです。
何故なら虎には、この森で目覚める前の記憶がないのですから。
自分でも説明できないココロのまま、虎は女性に近づいてゆきました。
気配に気付いた女性は、ゆっくりと虎の方へ振り返りました。
しかし驚いたそぶりも見せず、臆することもなく、ぼんやりと見ているだけ――。
虎は女性より5歩手前で、歩みを止めました。
暫くお互い、相手の姿を見ていました。
眼が、よく似ていました。
違いは、その奥に隠されているものが虎は炎で、女性が水であること。
総てを拒絶し、なにもかも焼き尽くそうとする虎。
総てに絶望し、ただ水の流れに身を任せようとする女性。
「ココは、貴方の森?」
ようやく女性が口をひらきました。
森は誰の物でもありません。
ただ、虎しか生きていなかっただけなのです。
けれど説明することは出来ません。
人間のコトバを理解することが出来ても、声に出来ないのですから――。
「誰もいないのね、ココには貴方以外。」
「でもよかった。もうアタシは、誰も要らないもの。」
女性はそう言うと安心したのか、膝を抱えて眠ってしまいました。
虎は暫く見ていましたがやがて、もう一歩だけ近づくとそこで眠ってしまいました。
夢か現か――。
虎は水の流れる音を聞きました。
優しい優しい音を、聞いたのです――。
目を覚ますと、女性は昨日と同じように座って虎を見ていました。
自分ではない何処かを見ている、虎にはそう見えました。
それから虎と女性はこの森で生きました。
女性は今まで誰にも話せなかった沢山のことを、虎に話しました。
心にある闇を、少しずつ、吐き出していきました。
「虎さん、コトバってとても難しいの。たった一言で相手を殺すことも出来るの。」
「ねぇ虎さん、だからアタシね、コトバはもういらないのよ。」
虎はただ聞いて、ただ受け止めました。
苦痛などありません。
聞くことによって少しずつ開いていくココロ。
近くなってゆく距離。
それが虎にはたまらなく、嬉しかったのです。
いつしか女性は、虎に寄り添って眠るようになりました。
穏やかな眠り顔を見て、虎も安心して眠りました。
虎にとってこの地上で唯一の、癒しになったのです。
気付くと湖に、涙のような美しい水があらわれていました。
そう、この森は虎のココロをうつす鏡だったのです。
二人の距離は近くなりました。
お互いがお互いを必要とするようになりました。
しかし、そうなればそうなるほど、虎は自分がイヤになりました。
コトバなどいらない、女性は確かにそういいました。
けれどそれがココロの底からの声ではないことに、虎は気付いていたのです。
「故郷に残してきたママは、どうしているかしら……。」
眠りに落ちる間際つぶやいた其の言葉に、虎はココロを痛めました。
何も伝えられない。
ここから出して、母親に会わせてやることは出来るのに、其れを伝えられない。
なにより自分の側から、女性を離したくなかったのです。
自分が虎であることに、そして自分のエゴイズムに絶望しました。
そしてその日、初めて泣きました。
声をあげて、泣きました――。
『何故自分は彼女と同じではない?』
『何故私はこんな身体なんだ。』
『嗚呼、声が欲しい……彼女の名前を呼ぶための声が……。』
泣きながらあてもなく歩いていると、小屋を見つけました。
虎はこの森じゅうを知っていました。
だからこの小屋に、気付かないわけがないのです。
女性と出会ったことで現れた、古い小屋。
入ってみると、中はヒトが住んでいた形跡がありました。
ぽつんと置かれたテーブルと一脚のイス。
その上にはたくさんの原稿用紙と、写真立て。
写っているのは……。
嗚呼、何故忘れていたんだろう。
私はこの女性を愛していた。
けれど彼女は死んでしまった。
私の心も、死んでしまったんだ。
誰もいない世界を望んだ。
総てを拒絶して、何もない世界を望んだ。
人間は、儚い。
愛しい人が先に死ぬのを、もう見たくなかった。
けれど強くありたかった、虎のように。
私の書いたあの物語に出てくる、虎のように――――。
虎は真実を知ってしまいました。
宿命から、現実から、虎に姿をかえて逃げ続けてきたこと。
今こうしている自分が、本来存在しえないものであることを……。
虎は女性の元へ帰りました。
そして眠りから起こすと、森の出口へと引っ張ってゆきました。
「どうしたの、なにかあったの?」
虎は眼を見ようとしませんでした。
ただ拒絶するように、女性に向かって大きく吼えました。
まるで出て行けと、いわんばかりに――。
「ここは貴方の森だものね……。」
「ママの所へ、行くわ。遠く離れて気付いたことが、あるから……。」
「今まで、有り難う。」
また独りになった虎は、女性と初めて逢ったあの湖へ向かいました。
森は虎のココロを映す鏡。
みるみるうちに、芽吹きはじめていた草木は枯れ、元の森へ戻ってゆきます。
ただ湖だけを残して――。
虎にとって女性は、優しい水でした。
虎は湖の中へ入ってゆきました。
深さはまだ、脚が丁度つかるほどでした。
優しい水に包まれて、虎は静かに息を引き取りました。
女性の幸せを、ただ祈って――。
一週間後。
戻ってきた女性は、冷たくなった虎を見て泣き崩れました。
あの時の虎の淋しそうな眼に気付いていたのです。
女性にとって虎は、とてもとても大切な存在だったのです。
だからこうして、またこの森に帰ってきたのに……。
水は湖いっぱいになっていました。
水面には厚い氷が張っていました。
もう触れることすら、叶わないのです。
眠っているかのような虎。
女性は自分を悔いました。
戻らない生命、かけがえのない存在。
手を離してしまった自分を、心底悔いました。
「まだ貴方の名前も知らないのに、ごめんなさい、ごめんなさい……。」
何度も何度もそう呟き続けました。
氷ごしに、届かない手を伸ばして――。
「私が貴方に、名前を付けてもいいかしら。」
「……ライモンがいいわ。」
「私が一番好きなお話に出てくる、みんなに慶びを伝える、虎の姿をした神様の名前なの。」
「タイトルはね……リジ:リーヴァ……。」
「素敵でしょう、貴方にぴったりだわ。ねぇ……ライモン。」
リジ[名詞:透明な水、涙]
リーヴァ[名詞:最後の楽園]
Fin……
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【リジ:リーヴァ】
誰がつけたか解らない。
誰も知らない場所にある、誰も知らない小さな森の名前。
それは世界の果ての果て――。