煙巻く沙漠の街、
一人の男が、壁の作りだす長大な影に沿って歩いていた。時は夕方、未だ冷めやらぬ太陽の熱気を倦んでいるのだろう。鈍色の硬そうな短髪に鋭い印象を持つ容貌と、その上鍛えたことが分かる体つきで、見るものに威圧感を与える容姿である。
暫く男が歩くと、一軒の店に着いた。小さな長屋の隅である。慣れた様子でその店の戸を引き中に入る。狭い店内には長卓が一つと椅子が数個置かれているだけで、あまり流行っている様子ではなかった。店内にただ一人いる男は長卓の向こうに座っていて、店主のようである。店主は入ってきた彼を見て声をかけた。
「おう
「よぉ」
駁已と呼ばれた男は、さして興味もなさそうに返答し、置かれてた椅子に腰かけもしない。店主は駁已の態度には介さずに尚も話しかけてくる。
「一年ぶりくらいじゃねぇか? ……ってことは近場でふらふらしてたんだろ?もっと顔出してくれりゃいいのに。お前のお陰で街のお偉いさんたちから誉められてしょうがねぇ」
「いや、西に遠出してたんだが今度は東に出るんで中継で寄っただけだ。そいつぁ良かったな」
「おうともよ。へぇ、東へね……帝国にでも行くつもりか。で。お前が此処に来たってことは、何かデカイ獲物でも捕ってきたんだろ」
「ま、な。こいつだ。首だけだが、こいつなら十分だろ?」
どうやら看板もかかっていなかったこの店は、倒した魔物などの報奨を出す場所であるらしい。店主の背後に、申し訳程度に街の公認を証明する書類が貼られていた。
駁已は脇に抱えていた包みを店主に投げてよこした。駁已が軽々と持っていたそれは、受け取った店主には十分に重く、椅子の上でよろめくほどであった。
首と聞いて恐る恐ると言った感で店主が包みを覗きこむと、獣の首と目が合った。馬の頭部よりも大きく、狼に似た首である。黒い長毛の毛皮で、太い二本の角が切り落とされて一緒に入っていた。
店主は目を丸くした。この魔物は、最近とみに現れる、街を守る壁のすぐ向こうで人々を待ち伏せして襲う、人を好んで食べる魔物である。人を食らうが故に、余りに被害が甚大で街の自警団では太刀打ちできず、この沙漠の一帯を治めている国の軍隊を要請した、という話であった。実際、店主も所用で街から外へ出かけたときにこの魔物に襲われかけていた。あの阿鼻叫喚の絵図は思い出すだに身震いがする。けれども、駁已はたった一人でその魔物を倒してしまったというのである。店主は最早呆れるしかなかった。
「相変わらず人間離れした強さだなお前……」
「お誉めに預かりどーも。幾らだ?」
「ちょっと待ってろ。こいつなら軍から報奨がでるかもしれねぇ」
店主が人を呼ぶのか店の奥に行こうとするのを見て、駁已は渋い顔をした。その顔を見て、店主は動きを止める。
「どうした?」
「そいつはまずいな。お前んとこが今出せるだけでいい」
その物言いに店主も納得したようで、相槌を打った。
「一応お前、お尋ね者だったな」
「まぁな」
にやりと駁已は笑んだ。その獰猛な笑みに内心でひやりとしながらも、店主は小切手を切った。
「うちで出せるだけでも高額だよ、なんせ街から直接依頼が来てたからな。ほれ」
小切手を受け取りながら、駁已は言う。
「もし軍の方から報奨なんかが出たら、その辺にいる奴らで分けて使ってくれ」
「おう、悪いな」
微塵も悪いと思ってないような口ぶりで、店主は言う。駁已が扉へ向かうのを見て、店主は思い出したように口を開いた。
「あ、そういやお前、前に猫飼ってるって言ってたが、元気か?」
「猫?」
店主の質問に、駁已は扉に掛けた手を止め、しばし考え込み、数瞬置いて笑んだ。
「あぁ、そいつならいつだか出てったきりだよ」
「そうか。ま、猫なんてそんなもんだよ」
「じゃあな」
「またデカい獲物仕留めて来いよ」
振り返らずに駁已は店を出た。
先ほどよりも幾分か空は暗くなったが、相変わらずの暑さに、知らず眉が顰められる。泉のあるこの街は、昼夜問わず沙漠を渡ってきた人々で溢れる。大通りに出て今夜の宿を探そうとした駁已は、その人いきれにうんざりしながら歩いていた。長身の為、視界をあまり遮られないという点だけが救いである。
沙漠と同じ土色をした低い建物と、市場の様を成し、色とりどりの天蓋をかけた露店が道脇に立ち並んでいる。随分と向こうまで、その光景と人混みは続いているようだ。
この人出では宿も取れるかどうか。取れなかったら面倒だと思案しながら駁已が人の群れを割って進んでいると、僅か残った夕映えに、銀の光が煌めいた気がした。
(あいつ)
駁已は思わず首を巡らせて、その光を追う。夜闇でも輝いて目立つであろうその銀の髪は、人だかりの往来でもすぐに見つかった。
下の方でくくった長い髪、背に二本の大きな扇を十字に留めて背負っている。細い体躯に丸い頭。背はあまり高い方ではない。足取りは、駁已が知っているときよりもしっかりしている。真向かいから見れば、淡い海の浅瀬のような碧の瞳を持っているのがわかるのだろう。
知らず、駁已は駆けだした。いつのまに伸びた長い髪を引っ張ってやれ、と大人げなく思う。すぐに目的の人物まで追い付きその髪に駁已の指が触れる瞬間、眼前の人物が動いた。振り向きざまに背負っていた扇の一本を引き抜いて、一瞬の内に開いて駁已の喉元にかざそうとした。駁已もすかさず腰に帯びていた二本の曲刀を瞬時に抜いて、一本は扇の妨げに、もう一本を相手の首筋に当てて威嚇する。
雑踏での突然の抜刀に、周囲はざわめいた。そのざわめきと、駁已の威嚇さえ無いものかのような態度で、駁已に対峙した人物が口を開いた。
「何か、ご用事ですか?血の臭いをさせながら聖職者に近寄るなんて、いい度胸してますね」
相手を挑発するような口ぶりである。しかし駁已はそれには乗らず、これもまた何もなかったかのように話しかけた。
「よぉ、
扇越しに構えた上に曲刀に阻まれて、駁已の顔が見えないらしい。駁已に朱夜と呼ばれた対峙者は首を捻る様子を見せた。駁已が曲刀で扇を下げて唇の端を吊り上げるように笑ってやれば、朱夜は目を丸くした。
「駁已!?」
「他の誰かに見えるか?」
茶化して応答してやれば、朱夜は苦虫を噛み潰したような顔をする。
朱夜とは、二年程一緒に旅をしていた。駁已が旅で道連れを作るのは珍しいことだった。駁已の鉄色の髪とは違う貴金属の輝きは、人の視線を集めて止まない。駁已は朱夜の髪を気に入っていたが、人と違う者を忌む者は何処にでもいる。その髪の所為で騒動に巻き込まれているところを助けて以来の仲だったが、ほんの些細なことで喧嘩をして三年前に袂を分った。それきり会っていなかったが、駁已は朱夜を半ば突き放すようにして別れたことを、一応気にかけていた。
駁已と旅をしていた頃の朱夜は、子供であり人に甘く、弱かった。勿論駁已からすれば大抵の人間は自分より弱いのであるが、一人で放り出して生きていけるのか、駁已でも些か心配をする程弱かった。しかし、すぐ後に弱いが故の強かさを思い出し、心配する必要がないことに駁已は思い当ったのだった。
駁已の脳内で朱夜と別れた直後が思い出され、駁已は心中で過去の自分を笑い飛ばした。馬鹿馬鹿しく下らない心配をしたものである。
駁已に対峙していた朱夜が、声を発した。
「……っ、何で、こんなところに」
朱夜のその問いに、駁已は獣の笑みを浮かべた。朱夜の持っていた扇を曲刀の背で弾き飛ばすと、間合いを詰めて朱夜の耳許で囁いた。
「ん? そりゃあ、お前が忘れられなくて追いかけてきたに決まってるじゃねぇか」
首筋に当てた曲刀はそのままに、扇を弾いた方の曲刀は腰に納め、駁已は睨んでくる朱夜の顎を空いた片手ですいと持ち上げた。瞬間、朱夜の手が動いて背に残されたもう一本の扇を広げようとする。またも、それより早く駁已が残された一本の曲刀を腰に納め、朱夜の両手を朱夜の背の側で一まとめにし、下手に拘束した。
朱夜は背後に寄った駁已を、捕まっているとは思えない気迫で睨んでいる。
「相変わらず綺麗な顔だな」
「うるさい」
「んな見詰めなくてもいいだろ?」
「そういう悪ふざけを止めてくれれば、目から光線が出ればいいのに、とか思わずに済むんだけど」
「殺したい程愛してる、ってか?嬉しいぜぇ」
「誰が!」
朱夜の首筋に鳥肌が立っている。それを見て、駁已は朱夜から手を離した。朱夜はいきなり解放され、よろめく。
「そんないきりなさんな。相変わらず、からかわれてるって分かっててもムキになる」
「駁已こそ、相変わらず最悪。よく真顔であんなこと言える」
怖気が走る、と朱夜は身振りで現わす。弾かれた扇を拾い、土を払うと、朱夜はそれを元あったように組んで背負い直した。続いて駁已との競り合いで多少なりとも乱れた服を直していく。
「お互い様だろ。近付いた瞬間攻撃してきやがって」
駁已の弁に、朱夜は顔を顰めた。
「あんな血臭させときながら退魔師に近寄る方が悪い。怨みも買ってるみたいだし。どんな大物かと思ったじゃないか」
「それはま、あれだ。さっきまで狩った魔物の首を担いでたからだな」
朱夜の顰めた顔が、更に曇った。まさか。
「それって、街の外に出るって噂の……」
「ああ」
「相変わらず、でたらめな強さ」
報奨屋の店主と同じに大いに呆れながら、最後に服の裾をはたはたと叩いて朱夜は居直った。
周囲に何時の間にか出来ていた見物人の人垣も、何もなかったかのように解散していく。
「駁已」
「何だ」
「しばらく養って」
「……は?」
「大体、退魔師になったんだろ?何で懐が寂しいなんて事態になるんだよ」
言いつつ、駁已は肉を切り分け、口へ運ぶ。
夕刻のやり取りの後、言い争いが続いた。夜の帳が下りてしばらくして、日が落ちたことに気が付き、二人は一時休戦して宿を先に取ることにしたのだった。なんとか宿を取れた二人は、今その宿の食堂で夕食を取っている。木で出来た食卓を挟んで、向い合うように駁已と朱夜は座っていた。石造りの椅子は固く、座り心地は悪い。
駁已は豪勢に、捌かれたばかりの分厚く切った肉を焼いたものを頼んでいた。
「別に食うに困るほど寂しい訳じゃないけど。それはね、君があの魔物を倒してしまったからだ。わかった?」
朱夜も同じように肉を切り分け、しかし口には運ばずに食器をかたりと皿に置いた。
朱夜曰く、駁已が仕留めた魔物を倒すために、辺りを統治している国からは一個旅団が派遣される予定であった。そして、派遣されるはずであった旅団には、傷を癒す能力を持った者が居なかった為、近場で集められる退魔師や神官を雇うという計画がされていた。
「お前もその為に来たのに、街に着いた日早々に俺があれを倒してしまっていた、と。なるほどねぇ」
長くもない朱夜の話が終わると、駁已の皿に最早肉は残っていなかった。物足りなそうな顔をしている駁已に、朱夜は別の皿に自分の食べる分だけの肉を除けて、残りの肉の乗った皿を駁已の前に置く。
「あげる」
「わりぃな」
遠慮もなく、駁已は食事を再開した。朱夜もそれを気にすることはなく、会話を続ける。
「君のお陰で向こう三ヶ月の予定が水の泡になるところだったんだからな」
「いいじゃねぇか、お前は俺と知り合いだったお陰で、タダメシにありつけるんだ。同じような顛末で路頭に迷う奴もいただろうよ」
「まぁ、ね」
視線を落とし、朱夜は頷く。とり分けた肉は、一向に減らない。
「ズルしてる気分だ……」
「そういうとこも相変わらずだな、お前。運が良かった、くらいに思っとけよそこは。しょうがねぇからしばらく養ってやる。あと冷めるから早く食え」
「ん。ありがと」
気落ちした体で、それでも朱夜は食事を再開した。黙々と塊肉を食べていると、外が騒がしいことに気付いた。
「うるせぇな」
駁已が目を細めて呟いた。外の喧噪はますます大きくなるばかりで、一向に収まる様子がない。うるさげにしていただけの駁已も、流石に訝しみはじめた。軽い動作で席を立つ。
「ちょっと見てくるぜぇ」
駁已が食堂の外に出ようと戸の取手に手をかけたその時、今しがた食堂に入ってきた男が駁已を止めた。男は荒い息の下で言う。
「外は……ダメだ。死ぬぞ……」
「何があった?」
駁已の眉根が寄る。何かよくないことが起こっているのは確かである。男に話しの先を促した。
「ま、魔物の首が、空を飛んで……」
「首?」
「街の外に出る奴だ……そいつが……人を襲ってるんだよ!」
男の大声での説明に、食堂中が騒然とした。人を食らう魔物が、街の壁の中に入り込んでいる。ならば外の事態にも納得がいく。
「おい、外がダメってことは中なら大丈夫なのか!?」
「どういうことだ!魔物が壁を越えてくるなんて!」
「人を食う魔物だっていうじゃないか! 危険すぎるだろ、自警団は何してんだよ!!」
「自警団じゃダメだったんだろう!? 軍を早く呼べ!」
食堂から慌ただしく出ていく者、恐怖を堪え食堂に留まる者、宿の部屋へと逃げ帰る者など、多くの人が食堂内を動き回っている。その中で、駁已は食堂の戸の前で黙して立っていた。朱夜は立ち尽くしている駁已に声をかける。
「駁已」
数秒して、駁已はそれに応えた。
「行くぞ」
「え!?」
「多分、俺が昼間狩ったヤツだ。責任くらいとらねぇとな」
「待って、お会計」
「……お前な」
食事の支払いを済ませた二人は、人の流れに逆らって魔物の首の元へと駆けていた。人の行く先と逆方向に行けば、魔物の首のあるところまで辿り着けるはずである。
日が落ちた沙漠、夜は寒い。煌々と月が輝いて、明るいのが救いだろう。
朱夜は駁已を睨めつける。非難の目である。
「何やってるのさ」
本当に死んだのか確認もしないで、と言外に及する。
「フツー首だけで飛ばねぇだろ、獣型の魔物が。っても、ぬかったのは否定できねぇな」
「ホントにね」
人が途切れた。丁度、大通りの交差する広場に出たようだ。周りの建物は破壊され、瓦礫が散乱している。露店を彩る天蓋も、無残に破られていた。街の自警団は早々に太刀打ちできないと踏んで退却したようだった。あるいは、食われてしまったのかもしれない。
「あれ?」
「あれ、だな」
魔物の首は、紛れもなくその空中に浮遊していた。駁已が討ち取ったその魔物であった。狼に似た大きな頭部に、水牛のような角が二本生えている。
「あいつ……。角が、戻ってやがる」
「角?」
「仕留めた後、運ぶのに邪魔だったんで確かに落としてきたんだが」
駁已は驚愕を隠せないようである。駁已は首を取り、角を落としたはずであった。なのに。
「治癒力が半端じゃないってこと?」
「さあな。何にしたって厄介な相手だぜぇ」
「仕方ないから援護してあげる」
「恩着せがましいな」
「処世術!」
「あぁ、そう」
駁已が腰に佩びていた二本の曲刀を抜いた。と、同時に朱夜が扇を広げて何事かを呟く。扇を駁已に向けると、駁已は魔物の首と同じ高さに飛翔した。
「君が踏むところ全てが足場だ」
「へぇ、面白ぇ」
軽口を叩きながら、駁已は思案していた。その内に、魔物の方が自分と同じ高さにいる者に気付いて、駁已に襲いかかってきた。巨大な口腔と、鋭い牙が剥き出しになる。
「おっと」
ひょいと後ろに飛びずさるだけで、駁已はその攻撃を躱す。二撃三撃と、全てを避けた。駁已を噛みそこねて勢い余って口を閉じた魔物の鼻っ柱に、駁已は撫でるように一太刀を浴びせた。悲鳴を上げたはずの魔物の首は、しかし首から下がないので鳴きようがなく、虚しく空気の漏れる音がした。
駁已は魔物の首と戦いながら、地上を見ていた。近くに人がいないかと探していたのである。勿論、避難し損ねた者を探している訳ではない。
「朱夜、其処から真直ぐ行って一つ目の路地を右、走れ!」
「何?」
「早く!」
駁已に急かされた朱夜は、事態を飲みこめないながらも言われた場所へと走った。無残な街並みがすぐに視界を逸れていく。駁已は再び魔物の首と交戦しているようであった。
辿り着いた、其処で朱夜が見たのは、慌ただしく逃げようとする砂色の衣を纏った人物の背中だった。一瞬見ただけでは、衣が保護色になって、人がいるとはわからない。保護色になる衣を頭から被っているとは、見るからに怪しい訳である。捕まえろということだろう。朱夜は、背を向けるその人物に向かって扇を一振りした。たちまち風が生まれ、風圧に押された逃亡者は前向きに転んだ。顔でも打ったのか、呻き声をあげる彼の者に朱夜は片膝を立てて乗り、片手を捻りあげ、扇の弧の部分を顔の脇に立てて言い放った。
「この扇、弧のところが全部刃になってるんだ。動くと喉笛かっ切るよ」
「お前、やっぱ強くなったな」
上空で戦っているはずの駁已が、朱夜たちの前に降り立った。
「駁已、魔物の首は?」
「そいつが捕まったときに、あいつも落ちたぜ」
己の背後を親指で指し示し、駁已は事もなげに言った。朱夜の眉が上がる。
「え、じゃあこの人が操ってたってこと?」
「そうなる」
「っ……離せ……」
逃亡者が朱夜の下で苦しげな声を出した。背に乗っている朱夜の片膝が丁度肺の辺りに来ているらしい。
「離さない」
「お前には喋ってもらわにゃいけないことがあるからなぁ?」
駁已が笑んだ。まるで狩りをするものの笑みである。朱夜はそれを見て、嫌な顔はしたものの、発言はしなかった。
「話す、ものか」
「ま、それでもいいんだぜぇ?話さないってんなら、それでも。そうだな、まず足の爪を全部剥がすところから始めようか?それから手の爪で、次はどこか切ってやろうか……」
聞くだに恐ろしい拷問を持ちだされ、逃亡者は青ざめた。朱夜には、身震いまで伝わってきていた。誰だってこんなことを言われれば、恐ろしくなる。しかも、駁已の表情はまるで捕食者の笑みである。脅しでなさそうな顔が、より恐怖を煽る。
「ひっ、話します、話しますから!」
逃亡者が屈したのを受けて、駁已は彼の眼前に腰を落とした。声音低く問う。
「何でこんなことした?」
「お、俺はただ、人に言われてっ」
「誰に言われた?」
「……」
「足の爪からだったなぁ?」
「ちょっ、ちょっと待て、今言う!」
逃亡者が言い淀むと、駁已は愉快そうに唇の端を吊り上げて脅しをかけた。朱夜は呆れ果てている。
「な、名前は知らねぇ。ただ、そいつは、指輪をしてた。紋章の入ったヤツだ。鳥の絵だった」
「鳥って、鷲?」
朱夜が思わず聞き返す。
「わかんねぇよ、そんなこたぁ」
「よく思い出して。駁已、場所代わって」
「おう」
何をするのか、朱夜は駁已に逃亡者の確保を任せ、逃亡者の前まで来て、指で地の砂をなぞり始めた。すぐさま、翼を広げた鷲の紋章が書きあがる。
「こういうの?」
朱夜の強い眼差しにたじろぎながらも、逃亡者は頷いた。
「そうだ、これだ。これだとなんかあるのかよ?」
「駁已」
「あぁ、まずいぜ」
砂の上に描かれた紋章を見詰めながら、駁已と朱夜は黙考している。逃亡者は一人訳が分からず取り押さえられたままである。
突然、駁已が弾かれるように一方に目をやった。同時に、駁已が目を向けた方向の夜闇から人の大群が出で来て駁已たちを取り囲んだ。
「来たか」
「気付いてたの?」
「ったりめーだろ」
駁已たちを取り囲んだのは武装した集団だった。彼らは街の自警団などとは違う、本格的な武具や防具を着けている。駁已と朱夜が呟くように会話をしていると、人垣が割れて二人の男が現れた。
一人は怜悧な顔立ちをした、長い黒髪を後ろで高く括った男である。もう一人も金髪を高く括ってはいるのだが、黒髪の男ほど長さはなく、此方の男はもう一人より何処となく幼く見えた。二人とも、駁已たちを取り囲んでいる集団とは明らかに違う軍服を纏っている。白を基調としたものだが、沙漠において実用的ではなく、彼らが普段現場に出ないことが分かる。それでも腰に剣を佩いているので、軍職に就いているのだろう。二人ともが首から鼻まで覆う覆面をしていたのを、首元まで外して駁已たちを見据えた。
黒髪の男は、駁已の目を見て話しかけてきた。
「治安維持軍だ。兇暴な魔物が出るとの嘆願あって此方に来たが、それは一般人に狩られた後で、しかも今その魔物の首が飛んでいると聞いた。今その首が彼処に落ちているのを見たが、君たちの状況から見るに魔物の首を飛ばした犯人はその男か?」
「……ええ」
軍人らしい饒舌な状況確認に、少したじろぎながら朱夜が頷く。
「そうか、ではその男を引き渡してもらおう」
「手柄はてめぇらが持ってく、ってか?やっすい商売だな」
駁已が皮肉げに口元を歪めて嘲るも、軍人二人は眉一つ動かさない。
「
「なんだと?
「ああ」
前に進み出てから暫く難しい顔をしていた金髪の男が、おもむろに口を開いた。榴司と呼ばれた黒髪の男が、金髪の男を見返って反駁する。
「俺のこと知ってるたぁ、なかなかお偉いさんたちなんだなあんたら」
茶化すような駁已の発言には答えず、二人の軍人はただただ驚いている。呆然と、金髪の男が呟く。
「あの指名手配犯が、なんでこんなとこに」
「指名手配!? 駁已、何したの?」
「お前の誘拐だろ、教会所有建造物の破壊だろ、国宝級宝物窃盗、兵士への敵対行為、あと護送中の逃亡に、それから……」
「君、いろんな意味で心底凄いよね」
「まぁな」
「褒めてない」
暢気なやりとりをする駁已と朱夜を、しばらく眺めていた二人の軍人は、我に返ったように口を開いた。
「とりあえず、その男だ。お前のことは見なかったことにしてやる。任務じゃないからな」
「そら、ありがてぇこって……とか言うと思ったか」
駁已は得意の獣の笑みを浮かべると、榴司と呼ばれていた黒髪の男の方へと飛びかかった。朱夜の悲鳴が後を追う。
「駁已!」
「お前、なかなか強そうだな? 余興に一戦、どうだ?」
「遠慮する」
駁已の曲刀を、腰に佩いていた剣で受け流し、榴司はふいと視線を外した。視線の先は、駁已の背後である。
「終わった。行くぞ」
「へ?」
駁已が間抜けな声を出して榴司の視線を追うと、先刻まで自分が取り押さえていた逃亡者が、周囲にいた集団に捕まっているのが目に入った。傍にいた朱夜も、突然のことで動けなかったようである。
「……あー……」
「何やってるの駁已!」
思わず額をおさえて、駁已は溜息を吐いた。紛れもなく自分の過ちである。武装した集団は、早くも撤収に取りかかっていた。
今度は駁已たちが呆然とする番である。こうも事があっさりと片付いてしまうとは。目まぐるしく辺りの人々が動いていく中、二人は立ち尽くしていた。
「お前が逃げ続けるのなら、いずれまた会うだろう。ではな」
引きあげる際、榴司は駁已に向かって言い放った。そして、結った長い髪を靡かせて、彼は去って行った。
「珍しいね、駁已がうっかりするなんて」
榴司たちの去った方向を眺めながら、朱夜は漏らした。
「……」
「駁已?」
「気に入らねぇ」
「あ、そ」
座り込んで拗ねた子供のような態度を取る駁已を、朱夜は一瞥した。戦えなかったのが不満なのだろう。仕方なく、朱夜は話題を変えようと、再び駁已に話しかけようとした。瞬間、駁已が立ちあがって朱夜の方を向いた。射るような目つきである。
「朱夜、あの男が言ってたことはどう思う」
「あの紋章の付いた指輪のこと?」
「ああ」
「あの紋章は、それこそこの国の紋章でしょう? 紋章付きの指輪なんて、大概国の中枢にいるような人しか持ってないはず。国がこの事件を動かしているってこと? だからさっきの二人があの人を回収に来た……」
黒髪と金髪の、白い軍服を着た二人。黒髪も金髪も、茶以外の髪色が珍しいこの大陸において貴族の間で持て囃される髪色である。彼らが高官に就いているのは、そもそもの格好で明らかであった。
「この国の頭はあいつだ。嫌な予感しかしねぇな」
朱夜と駁已の想像は、段々に悪い方向に傾いていく。
「彼が動いてるんだとしたら、……ねぇ、どうやっても結末がまずい事態にしかならないんだけど」
自分たちの予想するものに、不安ばかりが混ざって、駁已と朱夜は浮かない顔をしたまま暫く沈黙した。やがて駁已が切りだした。
「確かめてみるか」
朱夜は大きく頷く。目を細めて、微笑んだ。
「元々駁已がまいた種だからね」
「そうだな」
笑みに笑みを返して、駁已も頷く。
既に明けかけた空の元、二人は歩み始めた。
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ジャンルは一応ラノベが適当でしょうか。女の子向けの作品です。一応前中後三部作の前篇ですが、単体で楽しめるようになっているつもりです。