昼の熱気は何処へやら、夕暮れ時の風は既に量を過ぎて肌寒いほどだった。真正面にそびえる都の外郭にあたる黄色い土壁が、歩むにつれて近付いてくる。太陽の光は土壁に遮られ、長く影が出来ていた。
「楽師のあんちゃん、今日はもう終いかい?」
「ああ、今日は冷えそうだし、そろそろ都を離れようと思っていたところでさ。だから、今日で終いなんだ」
外郭の方向へ向かう少年に、都の大通りに店を構える饂飩屋の店主が声をかけた。楽師の、と呼ばれた少年は店の前で立ち止まり、店主の方を向くと顔を歪めるように笑ってみせた。嫌味のない笑顔だ。
「おっ、そうなのか。お前さんの二胡、好きだったんだが残念だな」
「また春頃を過ぎたら戻ってくるよ。俺は渡り鳥と同じだからさ」
「そうかい、じゃあ春来るのを楽しみにするとしよう」
「それじゃあ冬の間にもっと腕を磨かなきゃいけないな」
「期待してるよ。一寸待ちな……ほれ、餞別だ」
饂飩屋の店主は不意に店の奥に消えたと思うと、すぐに戻ってきて楽師の少年に向かって拳三つ分程ある包みを投げてよこした。
「麺麭(パン)と蜂蜜が入ってる。少しは腹の足しになるだろ」
「大爷、ありがとう。再見!」
話をしている間に都の城門が閉まる刻が迫ってきたらしい。太鼓が鳴り出し、少年は走り出した。
「しかし、何だって夜に出掛けるかね……」
饂飩屋の店主は二胡を背負って走る少年が、都の表門の方向に消えていくのを見送った。
駆けている当の少年といえば、背の二胡を気にしつつも全速力で南にある城門へと向かっていた。東の方からは夜の気配が漂ってくる。駆けている内に城門が見えてきて、少年は走るのを止め、早足で歩くことにした。再び太鼓が鳴り出すまでは余裕を見てよさそうだった。やがて城門まで辿り着くと、門番が交代を控えて気怠そうに立っていた。陽は暮ゆき、空の橙は暗い青色になりつつある。
「坊主、用事か?」
急き込んでやってきた少年に、門番は片眉を上げて尋ねた。こんな時間に、成人もしていないような少年が何の用事があるというのだろうか。
「いや、都から出るだけだから……」
「こんな時間に子どもが都の外なぞ出るもんじゃない。家に帰りな」
門番は仏心でもって少年を諭そうとした。夜が更けると、都の外では夜盗や山賊が跋扈する。そんな時刻、そんな場所に楽器を背負っただけの少年を行かせられるはずもない。
「俺は流しの楽師だ。名は紅。ちゃんと通行手形もあるし、身を守る術もある。どの道一番近くの邑で宿を乞うつもりだが、どうしても今日中に都を出たいんだ。許可してくれ」
手形を見せつつ、眉根を寄せて紅と名乗る少年が頼み込めば、門番も渋々、という顔をしかけた。ふと、問いかける。
「身を守る術、って言うが、見たところ武器になりそうなものを何も持っていないな」
「……知りたいのか?」
「今のままじゃ都の外に出すわけにいかないからな」
「そうだよな……ちょっと、離れてもらえるか? 危ないから」
「? ああ……」
門番が二、三歩後ろへ下がる。紅は抱えていた包みを門番に投げ寄越してから、ずっと背に負っていた二胡と弓を下ろして、構えた。弾き始めた途端、紅の周囲に異変が起きた。風がうねり渦巻き始めた。数瞬奏でて弾き止めると、何事もなかったかのように辺りは静まった。
「大丈夫そうだろ?」
紅が得意げに笑って言う。光景を目の当たりにした門番は、二の句も継げずただ頷くばかりである。
「谢谢。早く門閉めろよ」
紅は二胡を背負い直し門番の手から包みを奪った上で、丁寧に挨拶をしてから都の外へと出ていった。その様子を、門番は未だに呆然として見送る。彼が城門の上の方で鳴り響く太鼓の音に気付いたのは、一筋残っていた太陽の光が夕闇に飲み込まれてからだった。
紅は都から伸びる道を、都から逃げるように進んでいた。近くの邑まで、最低でも半刻はかかる。
「あんな魑魅魍魎が現れるとこに何時までも居られるかってんだ」
紅の傍らを満月が付き添う。煌々とした明かりは、夜の道行きを照らしている。そんな中、紅は一人ごちる。城壁の外の風景は物寂しいものがある。戦乱の爪痕である荒涼とした土地に、朝廷が指導した開墾令によって漸く作物を蒔けるようにまでなったところだった。しかしどの道冬も近いこの時期であるから、金の稲穂も緑の芽吹きも見えるはずがない。
「都の周りがこんな殺風景でいいもんなのかね」
両の手を組んで後ろ頭にあてがう。足も前に突き出すように振りあげ振りあげ歩いていて、まるきり子どもの仕草である。そのまましばらく歩いていると、長い一本道でこれまでなかった人影が見えた。
その瞬間、風が騒いだのを紅は感じ取った。先程まで松明のように明るかった月を、突然黒雲が覆い隠す。一層冷気を帯びた風が一陣吹いて、紅の体を震わせていった。人影のある辺りに何かありそうである。
紅は気のない風を装って、その人影の辺りまで寄っていった。傍まで来ると、人影が老人であることが分かった。それから、老人のいる場所のすぐ先に邑があることも。ということは、老人は邑の人間だろうか。紅は思考した。
「晩上好、爷爷」
「晩上好。坊主、都から歩いてきたのか?」
紅が近付いても老人は全く気付く様子がなかった。話しかけてみれば、目を丸くして驚かれた。
「ああ、うん」
「わざわざ夕暮れに出てきたのかい? 見たところ旅芸人みたいだが、いくら何でも……」
「俺は強いから平気なんだ。爷爷こそ、夜にもなってどうしてこんな道端に佇んでるんだ?」
問いかけながら、紅は老人の見やる方向へと目を向けた。紅が話しかけて振り返ったとき以外、老人はずっとそちらを見ている。
そこには闇に黒く静まる水面があった。場所柄から、溜池であることはすぐに分かった。先程の叢雲はあっさりと晴れてしまい、再び月が輝きだしている。だのに、池は闇色に沈んで、水面に何も映さない。背筋を這うような気が立ち上がってくるのを、紅は僅かに感じた。
「特に、何があるというわけでもないんだがね。つい夜になると、此処でぼんやりしてしまってな。……時に坊主、今日はまだ歩くのか? 休むんだったら家に来たらいい」
「えっ、いいのか!?」
老人の言葉に、紅は目を輝かせた。図らずも今夜の宿を得られることになりそうである。ふと、手にずっと持っていた包みを改めて見る。
「あ、じゃあこれ半分食べてくれよ。貰った麺麭と蜂蜜なんだけど」
「美味そうだな。では、ご相伴に預かるとしよう」
家はこっちだ、と老人に手招きされ、紅は老人の後を付いていく。邑に入る前に振り返って見た池は、やはり真黒に染まっていた。
案内された家は、邑の外れにあった。他の家に比べてみすぼらしく見えるのは気の所為だろうか。闇の深まる中でも、煤けているような印象を受ける。やはり招かれて家の中に入ると、灯したばかりの燭台の明かりで、長年一人住まいだということがありありとわかった。剥き出しの土の上に小さな円卓が一台と背の低い椅子が一脚だけ置かれている。寝台の上にある蒲団は薄く、乾している様子もない。竈の辺りもは雑然としてまともな料理をしていそうにない。
隅に置かれていた小さな椅子を用意され、ずっと持っていた包みを円卓の上で開いた。麺麭は貰ったときのような温かさはなかったが、冷めていても美味しそうである。竹筒に入った蜂蜜は黄金色をしている。
「おお、美味そうだな。今茶を入れるから、少し待ってろ」
老人は火の落ちていた竈にあっという間に火を入れると、甕から水を汲んで土瓶に入れ沸かし始めた。老人が茶器を用意し始めたので、紅は湯が沸くまで番をした。気泡が十分に出てきたところで、傍にあった布巾を使い竈から下ろした。既に茶葉の入った急須に湯を注ぎ、小さな湯呑にも湯を注ぐ。土瓶を円卓の上に置いて、小さな方の椅子にようやく腰掛けた。
「お前さん、手際いいな」
「職業柄、こういう場面に合うことが多いから」
感心したように言う老人に、嫌味なく紅は笑う。笑いながらも湯呑の方に注いだ湯を土瓶に戻して、温まった湯呑に急須から茶を注いだ。二人で食事を始めると、無言の時間が続いた。三つほどあった麺麭はあっという間になくなり、茶を啜るのみになる。
「爷爷は此処にずっと一人で住んでるのか?」
家に入ってからずっと疑問だったことを、紅は尋ねた。
「ああ、十年前に息子が死んでからはずっと一人だ」
「……悪いこと聞いちまったか?」
「いや、昔のことだ」
少し寂しげな目をして、老人は答えた。紅はその目が先程溜池を見ているときと同じだということに気付いた。あの池は、息子の死と何か関係があるのだろうか。湯呑を口元に運ぶ老人の手が止まった。逡巡するようなそぶりを見せた後、口を開く。
「あの池に入って、二度と浮かんでこなかった。死体も上がらないから、どうにもそれからあの池が気になってしまってな」
「そっか……」
同情するように頷きながら、紅は心中で他のことを考えていた。最初に老人を見かけたときに感じた風や、老人の視線を辿って見たときの池から立ち上る気配がどういう意味を持っていたのか。紅はあることを思いついた。
「爷爷、泊めてもらうお礼に二胡弾くってのはどうかな。今の麺麭は貰いものだし、自分の手で礼がしたいんだけど、今銭もないから……」
「ああ、気にせんでいいのに。だがまあ、聞かせて貰えるのなら嬉しいな」
「俺の二胡は都一だぜ?」
「そりゃ楽しみだ」
さらりとほらを吹く紅に、老人も笑ってみせる。紅はすぐに扉近くに立てかけていた二胡と弓を取り、椅子に腰掛け直す。一弾きすると、燭台の火がふっと消えた。それに驚く間もなく、紅によって音が紡がれていく。緩やかな曲だった。哀しげな旋律が鳴り響く。二胡一つで奏でられているとは思えないほど上等な技術を、紅は駆使してそれを弾いた。
明かりが消えて闇が支配する家内に、やがて柔らかな光が現れた。淡く光るそれは玉状だったのが拡大して、人の半身程の大きさになった。
紅はまだ弾き続けている。一方老人は、その光に目を奪われていた。光はゆらゆらと揺れた後、燃え尽きる蝋燭の火のように落ちて消えた。しばらくして、紅が弾き終えた。そのまま立ち上がり、入口の扉を開ける。紅が池の傍に寄った時に感じた冷気が家の中を駆け抜けた。
「ごめん、火消えた」
「……いや」
老人は光が漂っていた辺りをまだ見つめ続けている。紅はそれを目を細めて見ると、静かに扉の外へと消えた。そのまま邑の入り口に戻って相変わらず暗闇のような池の水面を見つめると、先程と同じような光が池の上空に浮かんできた。先程のように消え落ちず、夜空へと溶けていった。
「逢えたみたいだな」
「坊主……」
紅が呟くと、背後から声がかかった。老人が追ってきたのだろう。
「爷爷、こんなお礼で良かったか?」
「あれは、幻ではないのか?」
老人は様々な感情を含んだ目をして紅に問いかけた。哀切、困惑、懐古。
「……俺の二胡は、夜に弾くと死者のところに風を呼んで招くんだ。後悔を残したところへ行くようになってる」
「ああ……確かに、そうだったな。こんなに時が経って、姿を見られるとは……」
「悲しませたのなら、謝るよ」
「いや、……嬉しかった」
老人が正確に何を見たのか、紅は知らない。恐らく言葉も伝えていたのだろうが、それも聞いていない。老人が満足だったようなので、追及もしないことにした。
「なら良かった」
そう言って紅は笑うと、歩き出した。
「やっぱり、夜通し歩くことにする。谢谢、爷爷」
「あ……ああ、此方こそ」
唐突な行動に老人は驚いたが、遠ざかる紅を見て得心した。
雲のはれた空から月明かりが注いで、紅の後ろ姿を照らしている。
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大学の課題で書いた作品です。
中華ファンタジー的な雰囲気を目指しました。