雨の日だった。空は薄暗い。しかし雨は降り出してはおらずただ湿気が纏わりついた。
彼は大学での授業を終え、帰路に着いていた。夕刻になろうというこの時間、ぐずついている天気だのに傘を持って出なかった彼は、いつもは友人と遊んで帰るところをやめて早い内に家に帰ることにしたのだった。出掛けに洗濯物を外に干したままにしてしまっていたからであった。彼の家は、下宿している多くの学生と同じで、御多分に洩れず大学から徒歩で行ける距離にある。更に言えば、学生向けの貸しアパートや学生寮の多く立つ中にあった。遅い時間にやる授業を多く取っている上、早く帰れる日には友人と遊び歩いてから帰宅する彼には、家の周辺の、特に帰り道は帳が覆う風景しか知らない。普段暗い中でしか見ない道並みは、明るい内に見ると新鮮に映る。知らず、歩く速度が緩まった。
見渡す景色には、彼が思っていたより緑が多い。細いながらも悠と立つ街路樹の槐、その下に植わるツツジ、それから道沿いの家々で育てられている花や草の鉢植え。それらの街の緑は、のしかかるような曇天に押されてか、あまり生気が見えない。晴天の元で見たならば実に艶々しかろう青い葉も、たまに咲いている色鮮やかなはずの花も、曇り空の灰色が薄く覆っているかのように色褪せている。生気の代わりに、ふと雨の匂いが立ち込めてきた。それは緑の下、土から香ってきているようだった。雨の日に特有の、湿った土と空気の気配だから、土が源でもなんら不思議はない。しかし彼はそれがあまりに濃いように感じて、思わずむせそうになった。強すぎる、その湿りを帯びた気は畳みかけるように彼の鼻腔に入り込んできた。
濃密な臭気に耐えかねて、彼は急いで自分の家の方向へと角を曲がった。そのとき、一陣の風が吹いて、速足になっていた彼の脚をせき止めた。向かい風にあい思わず立ち止った彼は、刹那目を瞑ってその風をやり過ごした。風が止んで、彼は再び歩き出した。もう、雨の匂いはしない。
一体さっきの匂いは何だったのだろうか、と彼が首をひねって考えていると、向かいから異様な風体の男が歩いてくるのが目に入った。その男は背が高く痩せぎすで、雨も降っていないのに、柄の長い透明のビニール傘を差していた。更にもうじき夏だと言うのに紺色をした立襟の外套を羽織り、黒いつば広の帽子をかぶっていた。顔は、傘と帽子に隠れて見えない。傘を差している手ではない、もう片方の手で、男は持てるだけ、大小も色も様々な傘の束を脇に抱えていた。
異様すぎる男を見て、彼の表情は緊張した。変質者の類だろうか、何もなかったような顔をして通り過ぎていいものだろうか。彼は戸惑った。男は勿論、彼も互いに歩みを止めもせず、緩めもしないので、二人の距離はどんどん縮まっていく。やがて彼と男との距離が殆どなくなり、すれ違う段になると彼は怖々と、何もないようにと祈りながら歩を進めた。
道に線が引いてあるとしたら、丁度彼と男がその線を同時に踏む時だった。すれ違い様に、彼は男が漏らした言葉を聞いた。
「傘は、いるかい?」
彼は立ち止まった。先程から見ていた限り、周りには、他に人がいない。ということは、自分に話しかけたのだろうか。男の方も、立ち止まっていた。男の方を見る。
「もう雨が降り出すよ。お前さん、傘はいらないのかい?」
男はもう一度、今度ははっきりと彼に向かって話しかけてきた。向かいから歩いてくるときより変わらず、顔は傘と帽子に隠れて見えない。話し言葉に反して、声は案外若そうな印象である。
「なんならやるよ。たくさんあるから」
「あ……はい」
突然のことに驚いている彼が、なんとか声をひねり出すと、男は脇に抱えていた傘から一本を抜き出して彼に差しだした。
「ありがとうございます」
戸惑いながらも受け取って礼を言うと、男の口元が笑みを作ったのがわかった。そして、何も言わずに男は再び歩き出した。男は何もしてこなかった。それどころか、雨が降るからと傘まで彼にくれた。彼は安堵と、それから男を疑ってしまった罪悪感を覚えた。
その時である。過ぎ去った男から、先程嗅いだ、あの匂いがした。男が行った方を見やると、男は居らず、彼の頬を雨粒がぽたり、と打った。慌ててつい先ほど貰った傘を開く。傘は群青色で、開くと普通の傘よりも大きいことが分かった。男が居なかったということは、彼が雨の匂いに負けて思わず逃げ出した角を曲がったのだろう、と益体のないことを思案しながら、彼は家へと歩き出した。
しばらく歩いて、彼は奇妙なことに気付いた。角を曲がったところから五分も行けば、彼の住むアパートに着くはずである。確実に五分以上道なりに歩いているのに、彼の住処は一向に見えてこない。歩みを止めて辺りを見回すと、丁度先程異様な風体をした男から傘を貰った場所だった。男の方を見やったときに、男の背後に蔦性の植物が壁を這い下り、白く丸い、可憐な花を咲かせていたのを覚えていた。丁度、同じ蔦の這い方に、同じ花である。
「……なんで」
呆然と彼は呟いた。雨は段々に激しくなってきて、白い糸のように住宅街を染めていた。
その場に突っ立ったまま、花を眺めるともなく動かずにいると、彼と蔦の這う壁との間に人影が入り込んだ。彼よりも少し背の低いその人影は、蝙蝠傘と言っていい真黒な傘を差し、詰襟の学生服をきっちりと着込み、学生帽を被っていた。今では使わないような学生鞄を手に提げている。顔立ちに、大人になりきらない幼さを残していた。
「兄さん、先刻から其処で立ち止まったままだけど、どうかした?」
「え、いや……」
彼は答えに窮した。理由を底深く話すと、頭が正常なのかとまで疑われかねない。彼が口を開く前に、古めかしい格好をした学生がまた話しだした。
「兄さん、事情が呑み込めていないみたいだね」
「事情?」
「傘屋さんから貰った傘だろう、其れ」
傘、と言われて彼は手にしていた傘の柄を見た。よくよく見れば、小さな彫りこみがある。その文字は流麗に筆で書かれたもののようで、書道の嗜みも心得もない彼にはとても読めない文字であった。
「この傘が、何かあるのか」
学生の言の真意がわからず、彼が学生に聞き返すと、学生は無邪気に悪戯っぽく笑った。笑うと、顔立ちに残っていた幼さが増した。
「もう少し歩けば解かるよ。……僕はもう行かなくてはいけないから、此れで失礼するね」
軽い会釈をして学生は彼の目の前を通り過ぎて行った。学生の言葉も加わって、謎ばかりが彼の頭を巡る。一頻り彼の考え付く範囲で今の境遇の理由を考えてはみたものの、突飛なことや夢想でしかありえないようなことばかりが思いつくので、彼は思考を止めた。
とりあえず、と彼は動いた。学生の言葉が確かなら、歩いていれば何かが解かるのだろう。
歩き出した彼の足先が、既に雨に浸食され始めてきた。靴を買い替えるのが勿体ない気がして、いつまでも古くなったものを履き続けていた所為で、彼の靴は普通の靴よりも雨に弱い。水音を含んできて不快な足元を、それでもと励ましながら彼は歩みを止めない。
何か、が解かるまでは家に帰り着かないことだけが、学生と会う前の経験で明らかだった。
歩いていると、段々に様子が解かってきた。彼は傘を貰った場所から、自分のアパートに着くすぐ手前の住宅までの道を延々と繰り返しているようだった。そうすると、真直ぐに歩いても何もない、ということになる。途中、道角とも呼べない小道が一ヶ所あることにも、歩いている内に気付いた。彼は丁度その道まで来て、脇へ逸れた。
その小道は、まさしく小道で、アスファルトで舗装されていない土のままの道だった。両脇には羊歯の植物が植えられ、白く背の低い柵で羊歯植物が道に侵入するのを防いでいるように見えた。羊歯植物の植わっている土からは、彼があまりに濃い臭気に逃げ出した、またあの男の纏う、今日彼が幾度嗅いだともしれない例の匂いの残滓が漂ってきた。と、言うのも、降っている雨自身がその匂いを地面へ押さえつけているので、残り香のようにしてしか彼の元へとはその香りはやってこなかったのである。
「あ、れ」
匂いに気を取られていた彼が、歩んでいる方向へ視線を戻すと、目の前に小さな家が見えてきた。その家は古い日本家屋で、入口の扉は木枠で固めた引き戸だった。入口以外は家の前に立つ小さな、けれどいっぱいに葉を茂らせた樹に遮られて判然としない。
彼が家の前まで辿り着くと、独りでに引き戸がからり、と開いた。扉の向こうに立っていたのは、先程傘をくれた男だった。家の中から出てきたので傘も差しておらず、帽子も被っていない。初めに会った時に見えなかった顔立ちは、驚くべきことに先程の学生とよく似ていた。
「おや、さっきの人かい。弟が道を教えちまったんだね。あれもつくづく私と似たやつだな」
「どういう……」
「ま、今日のところはお帰んなさい。其の内また、会うだろうよ」
男は傘を貰ったときに口元だけ見えた、あの笑みをした。凍るような瞳に、彼の体は怖気に駆け巡られた。
瞬きをすると、蔦の這い白い花の咲く壁の前に立っていた。雨は降っていない。視線を落とすと、畳まれた傘だけが濡れていた。彼は立ち竦んだ。しばらくして降り出した雨は段々と激しくなり、彼の全身を余すことなく濡らしていった。
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大学の課題として書いた作品です。
雨の降り込める雰囲気と、古い仮名遣いで話す登場人物は果たして異物のように感じられるのか、という試みがありました。