No.231849

忘却の島

遠野義景さん

テスト投稿その②。ヤンデレを書こうと思って病んでるお話を書いてみました。という感じです。はい。

2011-07-25 23:48:07 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:588   閲覧ユーザー数:576

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 目を覚ますと女がこちらの顔をじっと覗き込んでいた。見覚えのない顔だ。目は大きくアーモンド形で、鼻筋がすっと通っていて活動写真のなかの女優のような華がある。一度見ればそうそう忘れられるような顔立ちではない。恐らくまったくの他人なのだろう。

「大丈夫ですか?」

 女の声は、気遣うような口調であった。大丈夫だと答えようとして、私は何故こんなところで寝ていたのかという気味の悪い疑念に襲われた。周囲を見渡してみる。特に変わったことはない普通の民家の一室だ。

「どこか悪いところでも?」

 こちらが答えないので、女は心配そうに瞳を揺らしながらそういって、顔を近づけてきた。

 私は顔を引きながら、「ここはどこですか?」と訊ねた。

 すると女はきょとんとした表情を浮かべて、それから首をゆっくりと横に振った。私はその所作の意味が判らずもう一度同じ事を訊ねたが、女は答えなかった。

「あとでお話しいたします」

 女はすっくと立ち上がった。手に包丁を握っていてぎょっとしたが、部屋を出て行ったあとにまな板をとんとんと叩くリズムが聞こえてきて、なるほどと得心した。

 しばらくすると女に呼ばれて居間へ向かった。卓の上には質素な朝食が並んでいた。随分長い間眠っていたのだろう、料理の皿を見た途端腹が鳴って口のなかに唾液が溢れてきた。

 この食卓の席で女が先ほどの疑問に答えてくるのだろうと思っていたが、しかし食卓は水を打ったように静かだった。こちらからもう一度話を切り出すのもなんだか野暮な気がして、私も黙って食事をとった。

 食事を終えると女は「着いて来てください」といって私を家の外へと誘った。

 家の外の光景を見た私は愕然とした。何もなかったのだ。人工的な建造物などない。周囲は雑草が伸びっぱなしで、まるで未開の地のようだ。しっかりと整備された家の敷地と外では世界が違う。そんな確かな予感があった。呆然と辺りを見渡していると、草の間を縫うように走っている道が見えた。女はそちらへ向かっている。

 草の切通を抜けると、途端に視界が開けた。空がこれでもかというくらいに青い。降り注ぐ太陽の光は慈愛に満ちていて、いまにも異国の神がこの地に降臨せんばかりに眩しい。

 女は少し先にいったところで立ち止まった。そして出てこちらへ来るように招いている。私は慌ててそちらに向かおうとして、耳に余り馴染みのない音が聞こえてくることに気がついた。ざあざあと、まるでざるの上で小豆を転がすような。そう、波音だ。風もどこか塩辛い。

 女のそばに立つとその理由が判った。

 すぐ足元ががけになっていた。打ち寄せる白波が、どこか男性的な向きだのしの岩にぶつかり砕け、波音を撒き散らす。

「ここは忘却の島です」

 女の声は絹のように繊細で、柔らかな海風の一部と勘違いして、危うく聞き逃してしまいそうだった。

「忘却の島?」

 私が聞き返すと女は静かに頷いた。

「あちらを見てください」

 女の白魚のように透き通った指が遥か彼方を指し示す。そこには女の肌に負けぬほど純潔な砂浜が広がっていた。

「あなたはあそこに流れ着いたのです」

「私が、あそこに?」

「はい。この島に流れ着いた者は、皆それ以前の記憶をなくしています」

「記憶をなくす?」

「あなたは誰ですか?」

 女の質問に、私は答えることが出来なかった。困惑していると女はくすくすと笑って「ごめんなさい」といった。

「意地悪な質問でしたね」

「あなたも、名前を知らないのですか?」

「ええ。私も、自分が誰だか判りません」

 女はまるでなんでもないことのように答えた。

「恐ろしくないのですか?」

「恐ろしい? どうして?」

「私は、先ほどあなたに自分の記憶をなくしていることを指摘されたときからもう、恐ろしくて堪りません。まるで自分が霧のようになって、いまにも雲散霧消してしまいそうな気がして、恐ろしいです」

「けど、私は生きていますわ」

 月見草のように微笑む女の笑顔に、私は心を奪われた。なんと強い人か。可憐で儚げな容姿のその内奥には強かな根を張る笹百合が咲いている。

「あまり何かを考えすぎてはいけません。ここはそういうところなのです。そういう生き方をしていれば、ここは楽園なのです。しかし――」

 そういって女は海に背を向け、山を指差した。

「それはあの山よりこちら側での話です」

「山の向こうになにかあるのですか?」

 私がそう問いかけた途端、女の目に激情の炎が燃え上がり、少し早口になりながらいっきにまくし立てた。

「卑しい獣たちが住んでいます。山を越えた途端、あの獣たちは牙をむいて襲ってきます。血肉をむさぼられ、海に投げ捨てられ、肉の一片まで卑しい生き物たちの腹の肥やしとなってしまいます。ですから、決してあの山を越えぬよう、肝に銘じていてください」

 同じ目をしたまま、女が微笑みこちらを見たので、私は怯えを覚えながら何度も首肯した。

 ならばいいのです。と視線を和らげるその一瞬まで、まるで蛇ににらまれた蛙のような心持だった。

 

 それから私と彼女の、奇妙な同居生活が始まった。元は食料などの心配をしていたが、いつも彼女はどこからともなく食料を調達してきて、質素ながらとてもおいしい食事に変えていった。本来ならば、男は働きにでなければならないのだろうが、生憎することといえば巻き割り程度しかなく、それ以外の時はずっと家にいて、彼女の縫い物を手伝ったりした。

 だらだらと過しながら生きながらえる。さながら天人のような生活であった。時折、本当はこの島は空に浮かんでいるのではないかと思うようなときもあった。その度にあの断崖まで駆けて行って、うねる海面を見て安心しつつどこか落胆した。

「この島に私たち以外の誰かはいないのですか?」

 ある雨が降る朝、縫い物の合間に私は尋ねた。

「いましたが、もう皆いなくなってしまいました」

「どうしていなくなったのですか?」

「心に卑しい獣を飼っていたからです。卑しい獣を飼うものたちは皆、清らかなものには聞こえない穢れた声を聴き、山の向こうへといってしまいました。残ったのは私だけです」

「それは、一人でさぞ寂しかったでしょう」

「そんな風に思ってた時期も私にはありましたが、いまはあなたがここにいます」

 そういって彼女はあの月見草のような笑みを浮かべた。私は気がつくとそんな彼女を抱きしめていた。そして愛の言葉を告げた。いささか強引な告白であったが、彼女は私を拒まず受け入れてくれた。

「旧約聖書というものをご存知ですか?」

 彼女は耳元で囁いた。

「何故だかは判りませんが知っています」

 私は答えた。自分の氏素性ついては、まったく思い出せないが、かつて頭の中に叩き込んだ知識だけは覚えていた。だから、私は彼女のその言葉の意味を理解し、そして深い愛をぶつけ合った。それは契りに等しいものであった。その日を境に私と彼女の精神的な距離は限りなく接近した。それは夫婦といって差し支えない、いやこの楽園に於いて生きることを赦された唯一絶対の創造神の如き一心同体の身となった。

 それからしばらくして、彼女は体調の不良を訴えた。しかし、私の胸には春の息吹のような瑞々しい予感があった。月の物がもうしばらく来ていないと彼女がいい、予感は確信へと変わった。私は嬉しくなって、彼女の大切な体を抱きしめながら二人で喜び合った。

 生命の営みとはなんと美しきものだろうか。次第に膨らんでいく彼女の腹を見るたびに、私は胸の奥から突き上げてくるような感情がこみ上げて、その度に彼女の腹に耳を当てて、小さな命の息吹を探すのだった。

 十月十日が近づくに連れて彼女のつわりは酷くなり、食事がろくに喉を通らなくなった。

「すみません。つわりが辛くて食事が喉を通りません。けれどこの子のため食べないわけにはいきません。ですので、若布を採ってきていただけませんか」

「七尋ほどですか?」

 そういうと彼女はおかしそうにころころ笑った。

「私を鬼にしないでくださいね」

 判りましたと頷いて、私は海へ向かった。

 いつもより少し海が荒れているような気がする。嵐が近いのだろうか、風に雨の臭いが混じっている。時間をかけていると若布を採るどころの話ではなくなってしまう。籠を持ってざぶざぶと海のなかへ入っていった。

 若布を集めているとだんだん波が強くなってきた。風が出てきて、気が付けば空は鈍色の雲が立ち込めていた。これはもう戻らなければならない。そう思って戻ろうとしたそのときだった。一際高い波が押し寄せて、私は足元を掬われた。とっさに伸ばした手は空をつかんだまま、私は波に飲まれた。波にもまれながら意識は黒く閉ざされた。

 嫌に大きな波音に目を覚ますと、そこは見知らぬ浜だった。空は墨のように黒い雲と、明け方の藍色の半々に分けられていた。

 どうやら波に流されてここまでやってきたらしい。しかし、私はどれくらいの時間意識を失っていたのだろうか。きっと彼女は心配しているに違いない。早く帰らなければ。

 とりあえずここがどこなのか把握しようと周囲を見渡していると、見覚えのあるシルエットを見つけた。

 あの山だ。直感的にそう思った。しかし、妙だ。いつもと違う。まるで鏡に映したような。そこまで考えたとき、その理由に思い至った。と、同時になんともいえない恐ろしさがこみ上げてきた。

 あの山の向こう側に来てしまったらしい。ここには獣がいるという。もし見つかってしまったら、私は食われてしまう。

 逃げなければ。しかし後ろの海は荒れたままだ。海に出て、島の外周を回ることは自殺行為に違い。けれど、山を越えようとするのもまた危険だ。途中で獣に見つかったりしたら私の命はない。

 しばらく考えてから、敢えて私は山を越えることにした。まだ明け方だ。獣たちはまだ眠っているかもしれない。そっと静かに行動すれば気付かれないはずだ。

 覚悟を決めた私は、山のほうへ向かって歩き出した。

 しばらく歩いて、奇妙なことに気が付いた。道があるのだ。獣道などではない、しっかりと舗装された。私の住んでいた側にはそんなものはまったくなかった。何かおかしい。そんな予感を抱きながら歩いていると、更に驚くべき光景に行き会った。村があった。幻を見ているのではないだろうかと思った。だが間違いないく目の前に、幾棟もの、海辺特有の背の低い民家が立ち並んでいた。

 私の頭は混乱していた。どうしてこんなものがあるのか。獣たちはこんな立派な住まいに潜んでいるのだろうか。

 気が付くと好奇心に背中を押され、民家の玄関先までやってきていた。そっと耳を澄ましてみるが、中から音はしない。まだ眠っているのだろう。

 だが、それも少し妙だった。この村には、まるで海の底のように生気がなかった。村全体が死んでしまっているような。

 そんなことを考えていると、急に家のなかを探索したくなってきた。何故だろう、獣はこのなかにはいないという根拠のない自信があった。だから、派手に玄関扉を開けてみた。

 瞬間、むっとする獣の臭いがした。やっぱり、どこかに恐ろしい獣が潜んでいるのだろうか。恐る恐る様子を窺ったが、なかから誰か出てくる様子はない。床板を軋ませながら、土足で家のなかへ入った。

 もうしばらく誰も住んでいないのか、家のなかは荒れ放題だった。壁や床には、どす黒い染みや、なにか鋭利なもので抉ったような傷が沢山あった。まるで卑しい獣同士が争ったような。そうか。獣たちは共食いをしたんだ。きっとヤフーのように野蛮な獣たちだったのだろう。他の家も同じような傷や染みが沢山あった。けれど獣はどこにもいなかった。私は安心して、村を抜けると山へ入った。山のなかにはちゃんとした登山道があった。まるで渡りに船だ。早足で山を抜け、反対側に降りたときにはすっかり日が高くなっていた。

 家の前まで戻ってきた私は、ふと足を止めて、山の向こう側へ行ったことを彼女に話すべきかどうか考えた。何故だか私にはこのことを彼女に話すべきでない、という確かな予感があった。

 そのことは隠すと決めて、私は家のなかへ入った。

「すみません。いま帰りました」

 家の奥へ向かって少し大きな声でいうと、彼女が柱の影からそっと顔を出した。それからぽろぽろと涙を流しながらその場に崩れ落ちた。私はすぐに彼女のそばに駆け寄って、抱きしめてやった。それから山の向こう側へいったことだけを隠して、それ以外の出来事はありのままに話した。籠のなかのすっかり乾いてしまった若布を彼女に見せると、大馬鹿者だと涙混じりに叱られてしまった。

 あの一件以来、私の胸中には僅かな疑惑のしこりが表れていた。この島にやってきてすぐ、彼女が話したこと。それがいまは少しだけ信じられなくなっていた。もしかしたら彼女は私に何か大きな嘘をついているのかもしれない。

 煮え切らない思いを抱いたまま、私はいつものように薪を割るために、倉庫へと入った。いつもの場所に置いた鉈を手に取って、薪割りに向かおうと私は、ふとあるものに気が付いて足を止めた。倉庫の奥の方に、箱があった。こんなものあっただろうか。近づいてみると、近くに木の板が倒れていた。恐らくいままではこの板が箱を隠していたのだろう。嵐で隙間風が入り込んだか、倉自体が揺れたからなのか、それが原因で倒れてしまったのかもしれない。

 私は箱の蓋に手をかけた。なかに何が入っているのか、気になって仕方がなかったのだ。そっと蓋を開けると、なかには斧が閉まってあった。どうしてこんなところに斧があるのだろうか。手にとって持ち上げてみると、いっそう疑問は大きくなった。斧の刃は、もう使えないほどに刃こぼれしていて、罅も入っていた。どうしてこんなものを箱に入れて大事に保管しているのか。斧をじっと見詰めていると何か薄ら寒い感覚が背筋を舐めて、慌てて斧を箱に戻して、箱を板で隠した。

 翌日、私は彼女の目を盗んで山の向こう側に行った。あの斧を見てからずっと、そこへ行かなければならないような、どこからともなく聞こえてくる声に呼ばれているような気がしたからだ。

 明るくなってから見る村は、また印象が違っていた。生命力に満ち溢れた太陽の下では、日陰のように死んだ村は余計に侘しく見えた。

 あてどなく村のなかを彷徨った。時折民家のなかを覗いては、何かいないか探した。そうこうしているうちに太陽も空の真ん中までやってきて、山を越える時間を考えるとそろそろ帰らなければならない。そんなことを考えて歩いていると、ふと何かに呼ばれたような気がして立ち止まり、振り向いた。そこには一件の家があった。いままで見てきた民家よりも大きくて、立派なお屋敷だった。

 どういうわけか、その佇まいに私は見覚えがあった。

 門の通用口は開いていた。私は意を決して、敷地のなかへ入った。

 もうずいぶん手入れされていないのか、立派な庭は雑草が生えて荒れ放題だった。玄関の前に立って、私は不思議な感情に包まれていた。まるでここが長年暮らした我が家のような、そんな安心感と、同時に荒れ果てたこの様子に不快感を抱いていた。

 玄関を空けて家のなかに入る。なかは埃っぽくて、じめじめとしていた。まるで洞窟の奥に入り込んだ気分だ。土足のまま廊下を歩いていく。不思議なことに、この家ではあの傷や染みがまったく見つけられなかった。ただ埃や塵が積もっているだけで、ちゃんと掃除をすれば今日からでも住めそうなほどだ。まるである日忽然とこの家から家主が消えてしまったかのような、そんな感じがした。

 廊下をずっと歩いていると、行き止まりのところに扉があった。私は何の迷いもなく扉を開けて、部屋のなかへ入った。そして何かに導かれるように、部屋の隅にあったテーブルの元へと向かった。

「……なんだろう?」

 写真立てが臥せられていた。それを持ち上げようとした瞬間、止めておけと頭のどこかで声が聞こえてきた。いまの暮らしを、幸せを守りたければこの写真立てに手を伸ばしてはいけない。それは予感ではなく、確信だった。失った記憶が確かに語りかけてくる。けれど、私は好奇心に勝てなかった。いや、もしかしたらそれを見ることで失った何かを取り戻せると思ったからなのかもしれない。

 そして私は伏せてあった写真立てを手に持って、恐る恐る裏返した。

 写真には、私と彼女と、それからもう一人見知らぬ女が写っていた。彼女はいまよりも少しだけ顔立ちがあどけなく、まだ少女の名残を残していた。見知らぬ女は、美人ではないけれど愛嬌のある可愛らしい顔立ちをしていて、寄り添い合って立つ私と彼女から少し離れたところで、遠慮がちに微笑んでいた。背景に映り込んでいるのは、この家だろうか。

 これは一体、どういうことだ。私と彼女はこの家に住んでいたということなのだろうか。それだったらこの女は一体――。

 まるでこの不気味な現実が纏わり付いて締め付けるような、頭痛に見舞われた。視界がぐにゃりと歪んで、黒く侵食されていく視界には、知らない自分の姿が移っていた。

         ※※※

 たった一夜限りの過ち。あの女と私は床を共にしてしまった。彼女がいたにも関わらず。けれど、断りきれなかった。泣きつかれ、その純粋な思いのたけをぶつけられて、逃げることなど出来なかった。

 それが惨劇の幕開けだった。数ヶ月してあの女が身ごもったことを知った。私は、それが露見しないように島の外に逃げることをすすめた。けれど、浅海は――そうだあの女は浅海というのだった――私と一緒に居たいと泣きついてきた。だが私はそれを冷たく突き放した。それで一度浅海は引き下がった。小百合――あぁ、どうして忘れていたのだろ。それが彼女の名だ――への背信行為が露呈せずにすむ。そう思って私は安堵していた。だが、その夜。浅海はうちへ乗り込んできた。運悪く、浅海を出迎えたのは小百合だった。そして、浅海は私の子を身ごもったという事実を小百合にたたきつけた。

 しばらく呆然としてから、小百合は私に詰め寄った。私はしどろもどろになりながら、しかし己が罪を認めた。

 小百合は泣き崩れた。対照的に、浅海はどこか勝ち誇った様子に見えた。

「恭介さんは私のものよ」

 小百合はそういい放つと家の奥に駆けて行った。追いかけることも出来ず呆然としていると、すぐに彼女は戻ってきた。その手に斧を持って。

 それからのことは断片的にしか覚えていない。悲鳴を上げながら逃げる浅海を追いかける小百合。私は小百合を止めるため追いかけたが、間に合わなかった。小百合は、村の真ん中で浅海を殺した。そればかりではない。殺人がばれないために、村人を悉く鏖殺したのだ。ちょうど浅海が尋ねてきたのが夜中だったから、村人たちはその時間すっかり眠っていた。だから、殺すのは容易かったのだろう。

 全身を真っ赤に染め、血塗れの斧を持った小百合は私の元へやってきた。

「すべては恭介さんがいけないのです」

 私は悲鳴を上げて逃げ出した。すぐ後を斧を持って彼女が追いかけてくる。話し合う予知などなかった。光を失った彼女の目には、ただ狂気の業火が燃え盛っていて、私の声が届くはずもない。だから逃げた。この期に及んで己の命が惜しくて。

 しかし、ついに追い詰められた。気が付くと私は断崖絶壁にいた。目の前には彼女が幽鬼のごと、立ち尽くしている。

 そして、じりじりと距離を詰めてくる。私はそのあまりにも凄まじい形相に怯え、後退った。一歩、二歩。彼女が一歩進めば私が一歩下がる。そうやっていればいつまでも逃げ切れると、焦った私は思い込んでいた。だが、すぐ後ろは断崖絶壁である。不意に、後退した足が、空を切った。空がぐるりと回って、月明かりの浮かぶ水平線が見えた。その瞬間、私の体は重力の虜となり、漆黒の海へ吸い込まれていった。

 それから先の記憶はない。恐らく意識を失っていたのだろう。そして、私は彼女に再び出会った。

          ※※※

 すべてを思い出した私は、茫然自失としながらふらふらと帰宅した。出迎えてくれた彼女は、幸せそうに微笑んでいる。

 どうして私を殺そうとしたのに、こんな笑顔が出来るのか。憎くないのだろうか。どうして幸せそうなんだ。混乱したまま彼女の笑顔を見ていた私は、私が彼女に再び出会った日のことを思い出した。

 そうだ。私の顔を覗き込む彼女の手には包丁が握られていた。もしかしたら、私が記憶を失っていなければ、あの場で刺し殺されていたのかもしれない。

 きっと、私が記憶を取り戻したことを告げても結果は同じだ。彼女は私を殺そうとするに違いない。けれど、そんなことをしたら彼女の幸せそうな笑顔が見れなくなる。私を殺そうとしたとはいえ、いままたこうして愛し合えている。この平穏を、幸福を、壊すことなんて、出来やしない。

 そう。だから私は思い出した記憶を胸の奥底へとしまいこむことにした。こうして、名前のない私として、彼女を幸せにすることが、唯一私に残された罪滅ぼしなのだろう。

「どうされたのですか?」

 黙り込んだままの私の顔を、心配そうに覗き込んでくる。

 私は彼女を抱きしめた。

「私はずっとあなたと一緒です」

 私はそう囁いた。

 艶やかに、彼女は耳元で笑った。

「当然です。あなたは誰のものでもありません。ずっと私と一緒なのです」

 

 

                

 

 

       

 

                      了


 
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