風見幽香は花を愛している。
花があるところならどこにでも出向き、咲き誇るそれを眺めて過ごす。
自身も季節の花が植えてある畑を持っていて、それの世話に精を出していた。
間引いた花を、人間の里の花屋に卸すということもやっている。
自分の育てた花が賛辞の言葉を受けるのを見て、思わず顔をほころばせる。
そんな幽香は人里へ買い物に出た際、気になる噂を耳にしていた。
悪魔の棲む赤い館の一角に花壇があり、それをあの館の住人が世話をしていると言うのだ。
それがまた素朴だが、素晴らしい出来だという。
「そういえば前に天狗の新聞に載ってたような気がするわね」
だいぶ前のことだろうか。花壇にミステリーサークルが出来た、と奇妙な見出しが紙面に踊っていた事を思い出した。
ついでに、照れを含んだ苦笑いを見せるチャイナ服姿の少女もである。
ちょうど手持ち無沙汰になったこともあり、幽香は紅魔館へ向かうことにした。
満点の青空のもと、チャイナ服の少女が奇妙な動きをしていた。
両手を上げたり体の前で重ねたり、足もその都度動いているが、いかんせんスローモーションであるために不思議な振付の踊りのようにも見えた。
だが心得のある者が見れば、それがただの踊りではないことは何となくでも分かる。力の入れ方が踊りとは全く違う。
彼女を空から見ている幽香も、「ふぅん……」と物珍しげな声を出した。あんなもの、今まで見たこともない。
奇妙な動きが止まるのを見てから、幽香は少女の元へと降りて行った。
「ふぅ~……」
美鈴が静かに息を吐き、その動きを止める。それから少しして構えを解くと、空を見た。
自分のもとへと降りてきている幽香と目が合った。今までに感じたことのない気配を察知して、太極拳の演舞をする傍らその様子を伺っていたのだ。
ただの通りすがりの妖怪ならばそれでよし、狼藉者であれば全力で排除する。
よくサボタージュをする彼女だったが、腐っても門番である。主や、館の住人たちに危害を加えるつもりなら、食らいついてでも阻止する心構えであった。
だが彼女は自分のもとへと向かってきている。美鈴は怪訝な表情を見せてから、腕組みをした。
狼藉者であるなら自分を素通りか、遠方からの射撃で攻撃してくるだろう。さて、それらと違うなら自分への挑戦者か……。
「なんだろう。誰かへのお客かな」
それならよく出かける咲夜さんか、時たま出かけているお嬢様のお客様だろう。間違っても引きこもり気味のパチュリー様や、館の中で過ごしている妹様ではない。
幽香は足元を見ながらゆっくりと降り立ち、それからこちらを見た。ドキリと美鈴の心臓が跳ねる。
「ごきげんよう」
たった一言。それだけで体中の毛が逆立ったかのように思えた。息が詰まるかと思うほどの緊張感が美鈴を襲う。
殺気ではないが、圧倒的な威圧感。それだけで思わず後ずさりしてしまいそうになる。
だが彼女は踏ん張った。門番としての意地だ。
そしてその姿を見て幽香も驚いていた。わざと威圧感を与えたのだが、なるほど流石は悪魔の棲む館の門番だ。
「自己紹介をしないとね、私の名前は風見幽香。所謂花の妖怪よ」
「紅美鈴です……その花の妖怪さんが、この館の誰かに用があるんですか?」
努めて平然に訊ねた。威圧感は感じるが、殺気ではないのが救いである。
「いいえ、ここの誰かに用があるわけじゃないわ」
「それなら、どうして?」警戒心は解くこと無く、探るように訊ねた。
「花壇を観に来たのよ。あるんでしょう?」
予想外の言葉に、美鈴は目を丸くした。
ぎぃー、と金属が軋む音を立てながら門が開いていく。必死に門を押す美鈴を尻目に、幽香は紅魔館を眺めていた。
真っ赤な館から漂ってくる雰囲気は、なるほど悪魔の館にふさわしいものがある。普通の人間ならすくみ上がるだろうが、幽香にとっては屁でもない。
「どうぞ入ってください」
美鈴は人一人が入れるほどの隙間を開け、幽香を招き入れる。そしてまた門を閉め始めた。重そうな門が軋みながら閉まっていく。
門を押すその後姿を見ながら、幽香は先程から気になっていた奇妙な踊りのことを聞いてみた。
「さっき貴女が踊っていたのはなんだったのかしら? 見たことがないから良ければ教えて欲しいんだけど」
「あれですか? あれは太極拳の演舞ですよ。古くから伝わるものです」美鈴が汗をぬぐいながら答えた。「外の世界の中国で、ですけど。幻想郷で私以外に使える者が居るとは聞いたことがありません」と続ける。
「拳、という事は拳法の一種なの? 中国拳法の一種だからアチョーとかやるのかしら」
「アチョーとは言いませんが確かに拳法ですね。私の場合は健康法の一つとしてやってますけど」花壇へ向かいながら答えた。後ろからは幽香が付いてきている。
「ふぅん」と幽香は短く言ってから「まぁあんなゆっくりな動きじゃ、戦うことには向いてないわよね」と付け加えた。
それに美鈴は少しムッとした表情を見せてから歩みを止め、幽香へと向き直った。
「幽香さん、思いっきり正拳突きをしてみてください」
「……良いのかしら?」と言う幽香に「大丈夫ですよ」と美鈴が答える。
言われたとおり傘を左手に持ち替え、右手で全力の正拳突きを美鈴の顔面に叩き込んだ……はずだった。
その手は伸びきる前に美鈴の左手によって止められ、逆に彼女の右手が幽香の眼前に突き出されていた。
幽香は目をぱちくりとやってからニヤリと哂うと、右手を引っ込めた。
「それが太極拳なのね?」
凄味を含んだ笑顔をみせるが、美鈴は意にも介せず「そうですよ」と答えた。
油断していたとはいえ、美鈴の反撃が見えなかった。健康法の一つとして、という美鈴の言葉が頭をよぎる。
太極拳が格闘術として優秀なのか、それとも目の前に居る門番が優秀なのか……。幽香はそれが無性に気になり始めていた。
すこしばかり歩くと、花の香りが幽香の鼻孔をくすぐった。
いろんな花の匂いが混じって種類までははっきりと分からないが、期待で胸が膨らむ。
「そこですよ」美鈴に続いて紅魔館の角を曲がったところで足を止めた。
「へぇ……中々凄いじゃない」
紅魔館の裏手にレンガで仕切られた花壇が四つ並び、そのうちの一つに夏に咲く花が咲き乱れていた。
美鈴と共に側まで行くと、屈んで花の状態を確かめ、満足気に頷いてから周りの様子を確かめる。
風通しは良く、紅魔館の位置から見ても花たちが太陽に隠れることはない。
なるほど素人にしては良く出来ている。雑多な種類が植えられているのはご愛嬌だろうし、こういった花壇に口うるさく言うつもりはない。
結局は花が元気に咲いていてくれれば良いのだから、この花壇は幽香にとっては合格である。
咲き誇る花の姿と匂いを散々堪能し、幽香の顔が緩む。やはり綺麗に咲き誇る花を見るのはいいものだ。
屈んだままずりずりと移動し、様々な角度から花壇を観察していく。それから立ち上がって、パンパンとスカートに付いた埃をはたき落とした。
「さて、そろそろ御暇しようかしらね」
「もういいんですか?」
「ええ。私はこの花壇は良いものだと思うから、いっぺんに見たら勿体無いしね。また見に来てもいいかしら?」
「何時でもいいですよ。館やお嬢様たちに何かしないなら、顔パスってヤツです」
警戒心を何処においてきたのか、美鈴はけらけら笑いながら答えた。
果たして門番としてそれでいいのだろうかと思ったが「何かしないなら」であり、何かするのなら容赦なく排除しにかかるのだろう。
流石は悪魔の棲む館の門番だ。そういう苛烈さというか、しっかりとした区別があってこそ務まるのだろう、と幽香は勝手に納得していた。
そして、そんな門番により一層興味を持った。
「ありがとう。じゃあ最後に一つ、お願いがあるんだけど良いかしら?」
「どうかしましたか?」と美鈴が首を傾げる。
「先刻のことで貴女の力が知りたくなったのよ。一つお手合わせしてもらえないかしら」
頼みながらも、その笑顔には有無を言わせない何かが含まれていた。
紅魔館の正門前にて、二人は対峙していた。
「スペルカードは五枚。……それを全部使いきる前に終わっちゃうかもしれないわね」幽香は余裕たっぷりの笑顔を見せた。
「分かりませんよ、大番狂わせってのもあるかもしれません」腰を落として拳を構えるその姿は、まさしく拳士だ。
「じゃあ、行くわよ」
言うが早いか幽香は地面を蹴って一息に美鈴へと肉薄した。最初から撃ちあうつもりはなく、まずは先程のお返しである。
美鈴は一瞬驚きの表情を見せたが、繰り出される傘を右手を使い、左下へ弾いた。そしてそのまま体を捻り、胴体目がけて右足で蹴りを放つ。
幽香はそれを左手で受け止め、足首を肉が引きちぎれんばかりの力で引っつかみ空へと放り投げた。
放り投げられた美鈴はクルンと空中で回転すると、着地してから顔をしかめた。その足首にはくっきりと、幽香の手形が付いている。
その間、幽香は蹴りを受け止めた掌をジッと見ていた。真っ赤に腫れ上がったそれは、美鈴の脚力をよく表している。
にぃぃ、と口角が上がる。先刻の蹴りは人間なら、受け止めていてもタダでは済まなかっただろう。
幽香自身も足首を圧し折るつもりだったのだが、少々のダメージこそあれど問題はないようだ。
「伊達に門番を任されてはいないってことね」
今度は美鈴から仕掛けてきた。重心を低くして痛む足などお構いなしで、まるで目一杯押し込んでから離したバネのように両足を使って飛び込む。
拳か、足か。飛び込んでくるスピードは確かに凄まじいが、反応できないほどのものではない。攻撃を受け止めて、それからカウンターを叩き込んでやろうと身構えた。
美鈴はそのまま飛び込み、だが体を更に低くすると、幽香の脛へと足払いの要領で蹴りを叩き込んだ。ひるむ幽香を見て、さらに一回転してからその体へと全力を込めて、体重を載せた拳を叩き込む。
「がえっ……」
幽香はニ、三回バウンドしてから地面に這いつくばった。その手にあったはずの傘は大分離れている場所に転がっている。
それをやった美鈴の息も荒い。最初は間違い無く、勢いに任せた拳か足による攻撃を行うつもりだった。だがカウンター狙いであろう幽香の反応を見て、慌てて足への攻撃に切り替えたのだ。普通の腕の者には出来上ない芸当である。
筋肉を無理やり動かしたのだから、余計に消耗してしまった。
だが全力で打ち抜いた感触はあるし、それが正しいからこそ幽香は地面に横たわっている。
だがまだ気配は消えていない。それどころか、背筋が凍るような威圧感がふくれあがっていく。
次の瞬間にそれが爆発して、美鈴が構えるのとほぼ同時に幽香の拳が叩きつけられた。
「ぎ、うぅぅぅぅぅ!?」
ガードは出来たし、突きもインパクトが完全ではなかった。だが、叩きつけられた箇所が熱を帯びて、腕がしびれる。
熱が猛烈な痛みへと変わってから、美鈴は勝負を受けたことを少しだけ後悔していた。だが一度受けた勝負で引くわけにはいかない。
しかしガードしてコレなのだ。まともに貰えばただでは済まない。
美鈴はガードを解くと、幽香の懐へと踏み込んだ。それに合わせて幽香が右手を付き出してくるが、それを左手で上に弾いて無理矢理に隙を作らせる。
がら空きになった胴体に、渾身の力を込めたレバーブローを叩き込んだ。普通の人間なら内臓を押しつぶすほどの力を込めた打撃で、これでお仕舞いなはず。
「これで……やっと捕まえた……」耳元で幽香の声がした。血の気が引き、右手に激痛が走る。見れば、叩き込んだ右手を幽香が左手で握り締めていた。ビキビキと骨が悲鳴をあげる。
「今のでも……! そんな!」頭が真っ白になる。慌てて右手を引き戻そうとするが、幽香がそれを許すはずがない。
「達人でも、止めを差したと思えば油断するものね」
振りかぶる腕が見えたかと思うと、それは狼狽する美鈴に直撃し、鉄板を叩いたような轟音が辺り一帯に鳴り響かせた。
条件反射で衝撃を和らげようと、殴られる方向へ体を動かしたはずだ。だがそれは気休めにもならず、美鈴の体は十メートル程は吹き飛び、数回地面でバウンドしてから止まった。
あまりに重すぎる一撃。自分とは比べ物にならない。ああ、体中が痛い、とてつもなく巨大な鉄球を叩きつけられたようだ。特に殴られた部分、穴でも空いたか、抉られたのかと思うほど痛い。
血反吐を吐いて、それでも美鈴は立ち上がった。足は震えているが、まだ体力はある。ここで無様に倒れては幽香に失礼だし、自分が許さない。
だがたった一撃でこのダメージだ。次はないかもしれない。
「これでやっと一撃ね! あはははははっ! 良いわね貴女、まだ立ち上がるの!」幽香が子供のように純粋な笑顔を見せた。「ねぇ、貴女も楽しいでしょう!」と続ける。
「ええ、確かにそうですね……」
呼吸を整え、ゆっくりとまた拳を構え答えた。プライドもあるが、全力で拳を打ち合うことが楽しい。美鈴もそういう種類の存在である。
どれだけ痛かろうと、どんな大怪我を負おうと、万が一死んでしまっても、強敵と戦うことは拳士として最高の贅沢だ。
こうやって会話をしている時でも、美鈴は気を練り上げていた。恥ずかしい攻撃をしてしまわないように、次の幽香からの一撃でノックアウトされないように。
美鈴の言葉と構えを見て、幽香は破顔してから大地を蹴った。十メートル以上は離れていたはずの間合いを一瞬にして詰める。
「―――!!」
また速度が上がっていた。だが、準備は出来ていたおかげで捉えきれないほどでもない。重心を落とし、カウンターを決めてやろうと身構える。
突きならば腕を、蹴りならば足を破壊する。仮にそうなっても幽香ほどの相手なら一日かそこらで治るだろうし、何の文句もないだろう。
そうでもしなければ終わらない。負けるのは嫌だ。
しかし幽香は嗤っていた。美鈴に肉薄してから、顔を上げる。
それに美鈴が気がついたときにはもう遅かった。ぐん、と美鈴がしたように更に体を屈めて、懐に飛び込んだ。
「意匠返しで良いのかしら」
言うが早いか、美鈴の鳩尾に拳が叩き込まれた。そのまま上へと打ち上げる。
「ぐげ、げぼっ……」
空中で反吐をぶちまける美鈴へと掌を向け「これを受け止められたら大したものよね」と呟いた。
手に魔力を集中させ、放つ。美鈴の霞む視界が真っ白に染まる。あんなものに当たってしまったら一溜まりもない、避けなければと思うが、体が付いてこない。
次の瞬間には、その体は魔力の奔流の中に消え去った。
「結局一枚使ってしまったわ」
光が消えきる前に、美鈴の体が弾き飛ばされたようにその中から飛び出してきた。砂埃をまき散らしながら地面に降り立つ。
左半身だけで受け止めたのか、一部が痛々しく焼け爛れている。
気を使って体を硬化させてなければ、間違いなく今ので終わっていただろう。
「あら、すごいわね。あれに当たってその程度で済んでるなんて」
「その程度って、どの口が言うんですか」
「でも嘘じゃないわよ、多分さっきのあれは普通だと死ぬ一歩手前ぐらいになってるはずだから」
「殺すつもりだったんですか」
「言葉のあやよ」
美鈴は苦笑してみせたが、それを見た幽香は朗らかな笑顔を見せた。それでもその身から放つ殺気に似た異様な雰囲気はそのままだ。
拳を構える幽香を見て、美鈴も重心を低くして構えた。射撃ではないのかと首をひねる。
あの射撃を耐え切ったのだから、いっそ打撃でねじ伏せてやろう。そう幽香は考えた。あと一撃でも叩き込んでやれば終わるだろう。
幽香が突っ込んできた。空気を切り裂き繰り出された拳による突きを、美鈴は避けること無く顔面で受け止めた。
頭が吹き飛んだような痛みが走り、首がひん曲がるかのような衝撃もセットにやってきて、美鈴の意識が飛びかけた。
だが必死に意識をつなぎとめる。目を丸くする幽香の胸に手を当てた。次の瞬間、体の中で何かが爆発した。本当に爆発したわけではないが、そう例えるしか無い痛みが襲ってくる。
まずい、まずいまずい! 体を引裂かんばかりの痛みの中で頭の中で警鐘が打ち鳴らされるが、体が動かない。
さらにパン、と肩を当てられた。全く力の入ってないそれですら、激痛が走り膝から崩れ落ちそうになる。
幽香の鳩尾に拳がめり込んだ。押し上げるようにねじ込み、空中へ打ち上げる。
熾撃「大鵬墜撃拳」
「げごぁっ……。ぐ、げぼっ……」
今度は、幽香が反吐をぶちまける番になった。自分の体が空中に舞い上がるのを認識してから、幽香の意識は吹き飛んだ。
幽香の意識が覚醒したとき、目の前に美鈴の顔があった。彼女は木に背中を預けている。
後頭部に柔らかくて、温かい感触がする。
美鈴は幽香が意識を取り戻したのを見て、顔をほころばせた。
「あー、やっと起きましたね。大丈夫ですか? 凄くやり過ぎたような気がするんですけど……」
「ううん、良いのよ。下手に手加減をされたほうがイラッとくるからね。そんなことをした日には、本当に殺していたわよ」
「え、あ、ははは……」
幽香の言葉に思わず苦笑いを浮かべた。
この人ならやりかねない。いや、間違い無くやるだろう。言葉にそれほどの凄味があるし、実際にそれをするだけの力もある。
「ああ、でも楽しかったわ。貴女があんなに強いとは思いもよらなかった。今日は良い収穫ばっかりよ」
「実のところ私もそうでした。あれだけ全力で拳を叩き込んでも立ち上がってくる相手ってのは、そうそう居ませんから」
互いにクスリとやってから笑いあう。
しばらく笑い合ってから、幽香がおもむろに拳を突き上げた。
言葉で言われるより先に幽香が何をしたいか、美鈴は理解した。ようは拳をぶつけ合って生まれる友情である。
「今度やったときは負けないわよ」
「今度も私が勝ちますよ」
こつん、と拳をぶつけ合う。全力でぶつかり合った者同士だけが分かる感覚が二人の間には確かにあった。
そうしてから、また幽香は目を閉じた。「幽香さん?」と美鈴が訊ねる。
「もう少しだけ、ね。なんでしょうね、この後頭部の感覚がすごく気持ちいいのよ」
「……はい」と美鈴が顔を真っ赤にして答えた。
それからたっぷり、太陽が山の向こうに消えそうになるまで幽香は眠り続けた。
次に目を覚ましたとき、すでに空はオレンジ色に染まっていた。
綺麗な夕焼けと、項垂れるように眠る美鈴を見て自然と顔がほころんだ。
帰らなければと起き上がって、自分が美鈴に膝枕してもらっていたことに気がついた。そりゃあ柔らかくて暖かい感じである。
夕日のオレンジに負けないほど顔を真っ赤にした幽香が、美鈴の頭をぺしぺしと叩いた。
訳のわからない寝言をなんべんか口にしてから、寝ぼけ眼の美鈴が幽香を見た。「あ、おはよーございます」すっかり不抜けきっている。
これに私は負けたのか、と幽香は頭を抱えたくなった。
「私はそろそろ帰るわよ」
「あー……あ、はい!」
慌てて跳ね起きた。周囲と空を見渡して、「もうこんな時間なんですか!?」と叫ぶ。
呆れ顔でそれを見て「ええ、もうこんな時間よ。もうすぐ夜になるわね」と返してやった。
「うわああああ、寝過ごしたー! 怒られます、これは絶対怒られますって!」
美鈴が蹲って頭をかかえる。自分を打ち負かした相手がこんなに恐れるとは、やはり悪魔の館の主人はとんでもない妖怪なのだと幽香は一人納得した。
そして何時かそれとも戦ってみたいという欲望が鎌首をもたげる。
「ねぇ美鈴、やっぱり貴女の主人って貴女より強いのかしら?」
「ええまぁ……お嬢様はお強いですよ。本気の幽香さんでも五分五分くらいかもしれません」勿論お世辞である。
「へ、え……。それは是非、いつか手合わせ願いたいものね」
しかしその前に力任せの接近戦を何とかしなくてはならない。射撃には自信があるが、それだけでは駄目なのだ。
そして館の主人に挑む前に美鈴へのリベンジを果たさなければ。
そう考えて、幽香はジッと目の前の少女を見た。少しして、あることを思いつく。
そうだ、格闘術の達人が目の前に居るではないか。この娘に習えば、先刻喰らったあの技も出来るようになるかもしれない。
「ねぇ、美鈴。一つ、頼みたいことがあるんだけど?」
「なんですか? お嬢様と戦わせろってのは駄目ですよ」
「そうじゃないのよ。私に稽古をつけてほしいの」
「……えぇ!?」
「ね、お願い。朝から昼までで良いから。門番の仕事を放り出せとは言わないわ。そのついでで良いのよ」
「は、はぁ……」
そう言われて美鈴は考え込んだ。この言葉に威圧感はなく、純粋な「お願い」だ。
それから少しだけ考えて美鈴は結論を出した。
「分かりました。じゃあ明日から来てくださいね」
「ええ、ありがとうね」
幽香はニッコリと微笑んだ。
「で、これはなんなのよ」
「形からというヤツですよ」
次の日、門の前で手渡された物を広げてみて、幽香は怪訝な表情を見せた。
それと対照的に美鈴はニコニコと笑っている。わざわざこれを着る必要があるのかと、幽香は首を捻った。
表情から着る必要があるのか探ろうとするが笑顔を崩さずに居るのでさっぱり分からない。
ふぅ、と溜息を吐いてから「分かったわよ、着れば良いんでしょう」と言うと、美鈴の笑顔がより一層輝いた。
恥ずかしさのあまり、顔がゆでダコのようになっている。
服のサイズはぴったりだが、いざ自分が切ると恥ずかしくてたまらない。美鈴をジロリと見てから、また溜息を吐いた。
よくもまぁ、こんな服を着れるものだと思う。どれだけ自分の体に自信があるのだろうか。
確かに美鈴のスタイルは良い。豊満な胸も、健康的な太腿も、着ている服によってより強調されている。だが決していやらしくはない。
それに比べて自分はどちらかと言えばスレンダーで、美鈴に比べれば幾分が見劣りしているように思えてしまう。
実際はそれぞれに違う魅力があるのだが。
「恥ずかしがってちゃ駄目ですよ~」
コイツ、わざとやってるな!
幽香が着ているのは、所謂チャイナドレスである。色は緑で、向日葵の刺繍が施されている。
動きやすさを重視しているのか、やたら体にぴったりと張り付いてくるしスリットも両側にバッサリと開けられている。
成程これなら動きやすさも放熱もしっかりしているし、蹴り技なんかもやり易いだろう。
だがとにかく恥ずかしい。スリットを思わず両手で押さえてしまう。
「なんなのよこれ。このデザインは一体なんなのよ」
「なにって、動き易くないですか?」
「いや、確かに動き易いんじゃないかとは思うわよ。でもこれスリットとか、体のラインはハッキリ出るし、どうなってるのよ」
「人から見られるじゃないですか。だから自然と、みっともないモノを見せないようにーって意識が引き締まろうとするんですよ」
「本当に? 貴女の趣味とかそう言うのじゃなくて?」
「……違いますよ。そんなわけないじゃないですか」
一瞬口ごもったのが気になるが、実際美鈴がそう言うのなら本当なのかもしれない。
幽香が観念したかのような表情を見せて、スリットから手を離すのを見て美鈴は満足そうに頷き、盛大にニヤけた。
やっぱりコイツ、自分が見たかったから着せたんじゃないのか?
疑いのまなざしを無視して拳を構えて見せる。
「じゃあとりあえず、私と同じように動いてくださいね」
「……よろしくね、えーっと師匠?」
「それ、むず痒いんで辞めてくださいよ~」
二人は笑いあいながら、太極拳の練習を始めた。
美鈴が先にゆるゆると動き、幽香がそれをちらちらと見ながら続く。
流石に見よう見まねといった感じだが、動きそのものは一致している。
そもそも格闘のセンスはあるのだ。そんなに苦労せず接近戦のコツを掴めるかもしれない、と美鈴は思っていた。
そんな二人を館から見つめている人影が居た。
十六夜咲夜である。
美鈴に稽古をつけてもらい始めてから、はや一週間が経とうとしていた。
今日も鶏が目覚めるより早くベッドから起き上がり、身支度を始める。
冷水で顔を洗い意識を覚醒させると、早速朝食を摂る。手っ取り早く、卵納豆かけごはんだ。
ずいぶんと和風だが簡単だし、栄養もよく摂れる。糸を引くご飯をかきこむその姿は何処かイメージぶち壊しだが、幽香はそんな事を気にすることもない。
ザバーッと食器を洗ってからチャイナ服に着替え始めた。向こうで着るのも億劫だしね、と美鈴には言ってある。
着替え終わったところで、誰かが肩を叩いた。
振り向けばスキマからよく見知った手が伸びていて、それが何故かぶんぶんと揺れている。
それをがっしりとつかみ、引っ張るとずるりと紫の上半身が引き摺り出されてきた。
「はぁい」
「あんたそれ、ホラーみたいで心臓に悪いからやめてくれない?」
「あらあら……。風見幽香ともあろう者が怖いものに驚くのかしら?」
「そんなわけないでしょう」と腕組みをした。「で、なんの用よ。紫が意味もなく私のところまでくるはずがないでしょう? さっさと言いなさい」
「え? いや、ほら。貴女がチャイナドレスを着てるって聞いたものだからね」幽香の姿を上から下までまじまじと見てから、ニンマリとする。「それに最初の目的をすっかり何処かに置いてきて、もうあの娘にお熱なのね」と続けた。
「ぶっ飛ばすわよ」拳を付きだすと「おお怖い怖い」と紫がスキマへと引っ込む。事実を指摘されて、少々ムッとした。
紫は手をひらひらとさせながら「忠告よ」と言った。
「あのねぇ、嫉妬してる人間がそろそろ動きそうよ」
「……誰よ、それ」
「貴女が今お熱な門番の、結構近くに居ますわね」
そう言い残してスキマが閉じた。呆れかえって溜息を吐く。
あれは何を言いたかったんだ。でもまぁ紫はそういうものだしね、と一人納得する。
身支度を整えてから、幽香は紅魔館へと向かった。
紅魔館へ着くなり、幽香は身構え、周囲の状況を探りだした。門の辺りに漂うのは明らかな殺気で、それもこの瞬間も誰かが放ち続けている。
美鈴と稽古を始めてから、こういうモノを察知する能力が随分と鍛えられている。
「成程ね」と思わず口角が上がる。紫の言っていたのはこの事ね、と納得した。
美鈴は何処なのだろう。顔の見えない彼女を探すが見当たらない。もしやもうやられてしまったのかと、不安にかられてしまう。
その瞬間、殺気がはじけた。
幽香が反応するより先に、彼女の周囲に大量のナイフが現れた。誰が投げたか見えなかったが、とにかくそこに現れたのだ。
慌てて地面を蹴ってナイフのない上空へと飛び上がる。もう少し遅ければ、今頃幽香はハリネズミになっていただろう。
「小癪なまねをするわね」苛立ちが声に出る。
意図的だ。間違い無く、先程の攻撃は自分を飛ばせるための物。
ならば飛び上がった先には当然それが居るだろう。
「あら、やっぱりあれじゃ終わるわけがなかったようですね」
「あれで終わると思うだなんて、随分と舐められたものじゃない」
果たしてそこには、幽香が想像した通りの人物が居た。
十六夜咲夜。彼女なら時間を止めて、ナイフを大量に配置することができる。知らなければ一瞬でナイフが出現したように見えるだろう。まるで手品だ。
だがそれは手品という生易しいものではない。
紫の言っていた相手はコイツだろう。確かに人間だし、美鈴の近くにも居る。
理由は何だろう。美鈴と一緒にいる時間が減ったせいだろうか、それとも自分が彼女の近くに居ることだろうか。
「美鈴はどうしたのかしら」
「他人の心配をする余裕があるのですか?」
「ええ。あんな手品に引っかかるわけがないし」
「へ、え……。先程の質問ですが、彼女は無事よ。でも貴女はもう会えない」
「どうしてかしらね。理由を言ってもらってもいいかしら」
「来るたび来るたび、私が追い返すからよ!」
言うが早いか、咲夜はナイフを投擲した。
それは幽香の眉間を正確に狙っていて、身を捻って回避した。追い返すなんてものではない、殺すつもりじゃないか。
此方も幾つかの射撃を撃った後、肉薄しようとした。しかしもうそこには咲夜の姿はなく思わず舌打ちをする。
今度は上から降ってきたナイフを撃ち落とした。能力の出し惜しみは無いようで、さてどうしたものだろうと考える。
撃とうが近寄ろうが、時を止めて処理されてしまう。一瞬の隙を見逃さないか、若しくは無理やりそれを作らせることが必要だ。
「さて、速く終わらせたいので遠慮はしませんよ」
それほど自分が邪魔だったか、そして美鈴と一緒に居たいのか。だがそれは幽香も同じである。
あちらから勝負を急いてくれるなら好都合だ。
勝利を確信できるような攻撃を仕掛けてくるだろうし、そこに隙が出来る。そこに致命的な一撃を叩き込む。
しばし睨み合ってから咲夜はナイフを取り出し、そして時を止めた。その少しの動作にも幽香は反応し動いていた。
もう目と鼻の先にいる幽香の、爆発的な加速力に舌を巻く。だがそれは咲夜にとってチャンスであった。
幽香の周りにナイフを投げていく。四方八方、逃げ場など与えない。
ミリの隙間もないほどにナイフを投げてから再び時を動かし始めた。これであとはハリネズミの出来上がりである。
目の前に大量のナイフが現れたものだから幽香は目を丸くして驚き、だが直ぐ様行動に移った。
何かに弾かれたように、全力で後ろに飛び退いたのだ。
背中にナイフが突き刺さるが、それに構うこと無く地面を揺るがさんばかりの勢いで着地する。
貰った服を穴だらけにしてごめんね、と心のなかで美鈴に謝った。
そして間髪入れず、驚いた顔をみせている咲夜へ魔力の塊であるレーザーを二つ放った。
「う、くぅぅぅ!!」
慌てて時を止める。
振れなくても吹き飛ばされそうな魔力の塊。あまりにも暴力的だ。
とにかくこれを回避しなければ、これで終わってしまいかねない。だがそれは二つあって、自分を飲み込まんとする一つと、その右側にもう一つ。
左側へと逃げるしか無いが、それは幽香も分かっているだろう。しかし彼女は今地面に足を付けていて、今の自分の位置まで飛んでくるには距離が離れすぎている。
ならば気にせず左へ逃げてもいいじゃないか、そう考えて左へ移動する。そこで限界が来て、時がまた動き出した。
その瞬間、幽香は左足で思い切り大地を踏み切った。
咲夜の姿を見ずともその位置は「気」で分かる。これも美鈴との特訓の結果だ。
気を纏わせた右足が空気を裂く音がして、刹那その音と一緒に爪先が咲夜の体へと突き刺さった。
地面で伸びている咲夜を尻目に、美鈴を探す。
美鈴は門の裏でロープで体をぐるぐる巻きにされ、猿轡を噛まされて転がされていた。
猿轡を外してやると美鈴は一回大きく息を吸ってから、笑顔を見せた。
「幽香さんありがとうございますー。あー、苦しかった……」
「大丈夫?」と言いながら縄を外してやる。
「ええ、もう大丈夫ですよ。誰がやったのか分からないのが残念ですけど……」立ち上がるとペコリと頭を下げた。
「あー……。それなんだけどねぇ、一応その相手は私が張り倒しておいたわ」
「わぁ、凄いです。流石は幽香さん!」
「それがね、一応見てみる?」
「勿論です!」
目を輝かせる美鈴を見て、何故だかバツが悪くなった幽香は思わず顔をしかめた。
咲夜と向きあっている美鈴の顔は暗い。
そして、そこに居る幽香も居心地が悪そうにしていた。こうなることは薄々分かってはいたが、逃げ出すわけにもいかなかった。
「咲夜さん、どうしてこんなことを……」
「だって貴女、最近ずっとこればっかり見てて、私なんて眼中になかったじゃない!」
「これって……」これ呼ばわりされた幽香が怪訝な表情を見せた。
「いや、だって幽香さんはわざわざ習いに来てくれるんですから……。それに咲夜さんはその後でも十分一緒にいるじゃないですか」
「それじゃ足りないのよ!」その言葉に幽香は耳を疑った。
「えぇ~……。あー、うーん。どうしましょう……」
美鈴は思わず頭を抱え、それからしばらくして「あ」と何かをひらめいた顔をした。
今日も文はペンとメモ帳を手にして空を飛ぶ。
なにか面白そうなネタはないかとキョロキョロやっていると、紅魔館が目に入った。
「……何あれ」
そこには門の前でゆるーい踊りをおどっている人影が居た。
それも三人。門番と紅魔館のメイド長と、四季のフラワーマスターだ。
二人は緑、一人は青のチャイナドレスを着ていて、やたら目立っている。
「え、え? どういう事でしょう」
少しばかり気になった文は、三人に話を聞くべく紅魔館へと降りて行った。
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そそわにry