新学期が始まっていくらも経たない、4月半ばの土曜日の夕方、俺は名雪と一緒に、商店街の本屋へ向かっていた。
2年の1月に転入した今の学校は、前の学校とは授業の進み方がだいぶ違っていた。転入からしばらくの間、体育以外の授業はちんぷんかんぷんだったものだ。
そんなだから、1月末の実力テストの時もその後の期末試験の時も、毎日のように、放課後は図書室で香里と北川の3人で勉強会をし、夜は名雪と2人で試験勉強に励んだにもかかわらず──結果は正直に言って、かなりひどいものだった。
通知表を見ても秋子さんは何も言わなかったが、これは本気で勉強しないとさすがにまずいことになると思って、春休みが始まるとすぐ、参考書を買って本格的に独習することにした。
俺が参考書を買い込んできたことを聞いた時、名雪はいつもの口癖、
「ふぁいとっ、だよ」
を言ったが、その時の名雪はいつになく嬉しそうだったのを覚えている。
だが、やっぱり俺には、いきなり独習は無理だった。まともに勉強できたのは、春休みの前半の1週間だけだった。気負いすぎて、選んだ参考書が難しすぎたのかもしれない、と思う。
新学期が始まってからそれを聞いた北川が香里に頼み込んで(俺、名雪、香里、北川の4人は、今年も同じクラスになった)、学校がある土曜日の放課後は、名雪の部活が終わるまで、香里、北川と3人で勉強会をすることになった。
勉強会といっても前の時と同じように、俺と北川が香里に勉強を教えてもらうばかりだが。ちなみに香里は、1月の実力テストも3学期の期末試験も学年首席だった。
そして、さっき終わった新学期最初の勉強会の時に香里に薦められた参考書のリストを持って、本屋へ向かっている、というわけだ。
不意に、俺の後を歩いていた名雪が言った。
「イチゴサンデーあと6つ、祐一のおごりだね~」
1月のあの夜、「イチゴサンデー7つで許してあげるよ」と名雪に言われた、あのことだ。
勉強会の後、名雪も一緒に4人で百花屋へ行った。そこで今日の勉強会のことや、とりとめもない雑談をしたのだったが、その時俺は名雪に、あの時の約束の分は、これから勉強会の後に名雪と一緒に帰る時、1杯ずつおごることにすると提案した。
名雪はもちろん喜んで了承して、その場で生徒手帳を開いて、4月と5月のカレンダーにマルをつけ始めた。どうしてそんな約束をすることになったのかと、しつこく俺を追求しようとした北川を、香里がどうやって黙らせたか──いや、世の中には、見なかったことにしておいた方がいい事もある、うん。
俺たちが本屋に入っていくと、暇そうな様子でレジカウンター内の椅子に座っていた店員が顔を上げた。そして俺たちを見るなり、
「いらっしゃ…なーんだ、祐一じゃない」
客に向かって、なーんだ、はないだろう、なーんだ、は。
普通ならそう思うところだが、今は相手が相手だ。俺はいつもの調子で応酬した。
「おう、祐一だ。真琴が仕事をさぼってないか、見に来てやったぞ」
「ふんっ、だ」
俺が水瀬家に厄介になるようになってすぐ、水瀬家に転がり込んできた真琴は、今はこの本屋でアルバイトをしている。本屋の主人と秋子さんが古い知り合い、という縁で紹介してもらったのだ。
もちろん、本屋のアルバイトと聞いた時に真琴が期待していた、仕事中にマンガを読んでいてもいい仕事というわけではなかったのは当たり前だ。
だが、保育所の手伝いもろくに務まらなかった真琴に、こんなアルバイトはとうてい務まらないだろうという俺の予想に反して、真琴はもう2ヶ月も、曲がりなりにもアルバイトを続けている。それというのも、どうやらマンガやライトノベルが店員割引価格で買えるから、らしい。初めての給料日の夕食の時、真琴は嬉しそうに、秋子さんにそう言っていた。
俺が参考書の書棚の所へ行って、香里から渡されたリストを見ながら参考書を探している間、名雪はレジカウンターで真琴と喋っている。
「えー、祐一、また、参考書を買いに来たの?」
あからさまに「また」を強調しながら声をあげた真琴に名雪が答えるよりも早く、真琴の得意げな声が聞こえる。
「あはははっ、やっぱり祐一ってバカだったんだぁ。真琴の記憶が戻ったら、真琴が祐一に勉強を教えてあげよっかなぁ」
くっ……!
そうだ。
そもそも俺が本気で勉強しようと思い立ったのは、いつの間にか通知表を盗み見ていた真琴に馬鹿にされたのが癪に障ったから、というのが多少──いや、かなり、ある。
それにしても……。
「記憶が戻ったら、勉強を教えてあげる」と真琴が言ったのは、いつのことだったろう。
そんなに前のことを覚えているなんて、もしかすると真琴は、人間としてもただ者じゃないのかもしれない。
・ ・ ・
香里から渡されたリストに載っていた参考書のうち、書棚にあった5冊ほどを選んでレジカウンターへ持って行き、真琴に渡そうとした時。
外から入ってきたらしい客が、いきなり俺の前に割り込んできた。
「! ちょっ、ちょっと……」
俺が出しかけた声を気に留めた様子もなく、割り込んできたあまり身なりの良くない中年の男性客は、ズボンのポケットから右手を出すと、カウンターに何かを叩きつけるようにしながら、ぶっきらぼうに真琴に言った。
「1万円札に替えてくれ」
「えっ?」
聞き返した真琴に、その客は苛立ったように繰り返す。
「1万円札に替えてくれ、って言ったんだよ!」
真琴の前に投げ出されていたのは、普通にはあまり見ないくらいの枚数の、500円玉だった。
「は、はい……。1、2、3、4……」
すっかり気おされた真琴が、500円玉を1枚ずつ数える間、その客はずっと苛立った様子で、こつこつと床を踏み鳴らしていた。
「…16、17、18、あれ? あぅーっ……」
あの一時期と違って今の真琴は、手先は人並みに動くはずだ。それなのに数え間違えるなんて、よほどのことじゃないだろうか。
客はさらにいらいらしているようだ。客から目を逸らしてちらっと横を見ると、真琴を見ている名雪が、心配そうな顔をしている。
「…19、20。…………はい、1万円ですね」
500円玉を2回数えて、20枚あることを確認し終わった真琴が、レジを開けて、奥の方にしまってある1万円札を取り出して客に差し出すと、
「……」
客は1万円札を真琴の手から引ったくるように取ると、礼も言わずに、走るように店を出て行った。
「…何だったんだ、今の客?」
思わず口をついて出た言葉に、
「いやな感じだったね」
名雪も心底嫌そうに言う。
「しょうがないわよ。両替だけのお客もお客様だって、店長が言ってたもん……」
と言って真琴は、少し肩を落として目を伏せた。
「それにしても態度が悪すぎるぞ、あれは……。どうにかならないのかな」
すると真琴は顔を上げ、いつもの口調に戻って口を尖らす。
「祐一に相談したってどうにもならないわよぅ」
やれやれ。でもいつも通りのこんな憎まれ口が出るくらいなら、そんなに応えてもいないだろう──と自分に言い聞かせようとしたはしから真琴は、
「真琴、いやな事があったら、お店の人か、お母さんに相談するんだよ」
と言った名雪には、
「うん……そうする……」
しおらしい声でこう答えるときたもんだ。
「真琴っ、これ買うぞ。いくらだ?」
俺が、買おうとしていた参考書を真琴に渡すと、
「えっ? うん、えっと、800円が1点、1000円が1点、」
真琴は慣れない手つきでバーコードリーダーを本に当てては、機械に表示される金額を読み上げる。
「1100円が1点、2点、700円が1点で、お会計は4960円になりまぁす」
「おっ、ちゃんとお客相手の言葉遣いができるんだな。感心、感心」
俺が少しからかうように言うと、真琴は、あからさまにむっとした。1万円札を出した俺に、
「1万円から、お預かりしましたぁ。……お釣りは5040円になりますぅ、お確かめ下さいー」
と、いかにもマニュアルに書かれている通りに言いながら真琴が返した釣り銭は、500円玉10枚と10円玉4枚だった。
「毎度ありがとうございましたー」
「新手のイタズラか、これは?」
本屋の外で、10枚の500円玉を掌に広げた俺に、
「あのお客さんから受け取った500円玉が、いつまでもそこにあるのが、いやだったんだよ、きっと。やっぱり真琴、いやな思いをしてるんだよ……」
名雪が俺の掌を覗き込みながら、わずかに顔をしかめて言った。
「10枚でも重いな、500円玉って。……これが20枚、か……」
釣り銭を入れた財布をポケットに入れながら、俺はつぶやいた。
商店街からの帰り道。
「わたし、500円玉を20枚も見たの、初めてだよ」
本屋での出来事は、名雪も印象に残っていたのだろう。
「ん? ……ああ、俺もだな」
「学食でAランチを食べて、お釣りを500円玉でもらったら、普通は次の日にAランチを食べる時に使っちゃうし」
「その『普通』はお前だけだろうが。2日続けてAランチを食べるのは」
「そうかなぁ、わたし、10日続けてAランチを食べても平気だよ?」
名雪の返事はどこかずれている気がするが、いつものことだ。それに名雪がここまでAランチにこだわる理由は、俺にはわかりきっている。
「……でも、そうだな、俺もたい焼きや肉まんの金を払う時に、千円札と500円玉があったら、500円玉から使う方だから……500円玉は普通は、そんなに何枚も財布には入ってないな」
「そうだね。わたしも」
と言いながら名雪は財布を取り出そうとする。
「顔見知りの本屋のバイト店員が、5000円の釣り銭を500円玉でよこさない限り、な」
「……もう、祐一……」
・ ・ ・
俺たちより少し遅れて真琴も帰ってきて、全員が揃った夕食の時。
いつも通りの団らんの中で、20枚の500円玉を1万円札に両替していった例の客のことを真琴が口に出した時、俺は、秋子さんが茶碗をテーブルに置いて、頬に指を当てたのに気がついた。
「真琴。たしか先週の土曜日も、500円玉を20枚、1万円札に両替していったお客さんがいた、って言わなかった?」
秋子さんが尋ねると、
「え? あ、うん……そうだっ、思い出した、そのお客、この前の土曜日にも来たんだった。500円玉を1万円札に替えてくれって」
真琴は意外なことを言い出す。
「そう……」
頬に指を当てて考え込んでいた秋子さんは、やがて何か得心したようにうなずいた。
「……わかったわ。ありがとう、真琴」
何がわかったんだろう?
「え? え?」
真琴も、何が何だか全然わかっていないようだ。なぜ秋子さんにお礼を言われたのか、も。
「なんか気になるな……」
食後、しばらく考えた俺は、夕食の後片づけを終えて台所から出てきた名雪に言った。
「名雪。来週の土曜日、今日と同じくらいの時間に、真琴がバイトしている本屋へ行こう」
「また行くの?」
「ああ」
「わざわざ土曜日に? 来週の土曜日って、学校、お休みだよ…」
名雪は、いかにも気が進まないという顔をしている。休みの日はここを先途と寝続けるのが、名雪の休みの過ごし方だというのは、俺は百も承知だが。
「イチゴサンデー1杯」
「行くよっ」
名雪は何も詮索せず、満面の笑顔で快諾した。この間、1秒未満。
「じゃ、決まりだな」
しかし、これでたいていの交渉が成立する俺たちって、いったい……。
「先に百花屋へ行こうね」
「……ああ」
・ ・ ・
翌週の土曜日の夕方。俺と名雪は百花屋を出て、真琴がアルバイトしている本屋へ入っていった。俺を見た真琴は開口一番、
「祐一、またまた参考書を買いに来たの?」
今度は「またまた」かよ。俺は首を振った。
「いいや」
「ふーん、あ、じゃ、エロ本?」
とんでもない単語を言ってのけるヤツだ。
「えっ…!?」
案の定、名雪がどぎまぎしている。真琴の方はいたって平気で、
「今日は学校の制服着てないんだから、買えるよねぇ」
こんなことを平気で口にするようになってしまうのでは、アルバイトをして社会経験を積むのも良し悪しだ。俺は溜息をついた。
「あのなぁ、どこの世界に、女連れでエロ本を買いに来るヤツがいるんだよ……」
「じゃ何を買いに来たのよぅ」
「うるさいな、無駄口叩いてないで店番しろよ」
実のところ、今月は金欠気味で、本屋に来ても何も買う当てがない。そうなった理由はもちろん……だ。ついさっき百花屋で、幸せそうな顔でイチゴサンデーを食べている名雪の向かいで、店員に白い眼で見られながら水を飲んでいた時の、居心地の悪さときたら……。
「ふーんだ、マンガの立ち読みはお断りよぅっ」
レジカウンターから少し離れた書棚の前へ行って、並んでいる本の背表紙を眺め始めた俺に、名雪がささやいた。
「祐一、ほんとに今日、何しに来たの? 真琴の仕事を邪魔しに来たんだったら、わたし、怒るよ」
「わざわざそんな事するかよ、貴重な休みを潰して」
「じゃ、何しに来たの?」
「ああ……」
曖昧に答えながら名雪を振り返った時、名雪の肩越しに、見覚えのあるものが見えた。
外から入ってきて足早にカウンターに向かう、あまり身なりの良くない中年の男性客の姿が。
「来たぞ」
俺は声をひそめて名雪にささやいた。
「えっ?」
「500円玉の客だ」
「あ、いらっしゃいませ…」
少し離れていても、真琴の声が動揺しているのがわかる。
先週のあの時と同じように、その客がカウンターに硬い物を叩きつけるようにしながら、
「1万円札に替えてくれ」
と真琴に言ったその時。
見るからに屈強な2人組の男性が、その客に駆け寄った。
「*○■%~!」
例の客が、俺にわからない言葉で何か叫んだ。
「えっ!?」
「わ」
「な、何よぅっ!?」
逃げ出そうとした客は、俺たちの目の前で、屈強な2人組に組み伏せられた。
あっという間の出来事だった。
組み伏せられた客を外へ連れ出していく2人組──いや、現行犯逮捕した容疑者を連行していく私服刑事を見送りながら、真琴が言った。
「……マンガみたい」
「…あれ」
名雪がかがみ込むと、カウンターの前の床から何かを拾い上げた。
「わ。何、これ?」
名雪が拾い上げたそれは、大きさも色も500円玉によく似た丸い物で──しかし500円玉ではなかった。刻まれた文字がほとんど読めないほど、ドリルか何かで表面を醜くえぐられた──。
「偽の500円玉よ」
俺の後ろから、よく知っている声が聞こえた。
振り返った俺の目の前には──。
買い物かごを下げ、いつもの微笑みを浮かべた、秋子さんが立っていた。
・ ・ ・
「今月に入って、この商店街の自動販売機から、偽の500円玉がたくさん見つかっていたのよ。こんな具合に、○国の500×××硬貨を削って500円玉と同じ重さにしたのが」
秋子さんはそう言いながら、名雪の掌からその「偽の500円玉」をつまみ上げた──いつの間にか秋子さんの手には、警察物のドラマで鑑識係の職員がはめているような手袋がはめられていた。
「500×××硬貨の価値は、日本円にすれば100円にも満たないから、これを自動販売機に入れて返却レバーを押して500円玉をだまし取れば、一回で400円以上の儲けになるわ。
でも、そうやって手に入れた本物の500円玉は、何万円分も集めるとけっこうな重さになるし、持ち運ぶにしても使うにしても不便でしょう? だからきっとどこか、それも足がつきやすい銀行の窓口ではない場所で、お札に替えているはず、と考えていたの。
それがちょうど、真琴がアルバイトしていたここだった、ということなのよ」
「これは証拠物件として、私が預かっておくわ」
そう言うと秋子さんは、買い物かごから取り出したチャック付きのポリ袋に「偽の500円玉」を入れた。そしてポリ袋を買い物かごにしまうと、
「帰りはちょっと遅くなると思うから、夕ご飯、先に食べていてね」
と名雪に言って、何事もなかったかのように店を出て行った。
「……なあ、名雪」
「なに?」
「……秋子さんの仕事って……」
「……そうみたいだね……わたしも、初めて知ったよ……」
(終)
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“毎週土曜日の夕方、本屋のレジに、20枚の500円玉を1万円札に両替しに来る客がいる。”
日本推理小説界の有名な問題「五十円玉二十枚」の、Kanon世界でのパロディです。