No.228671

康太と愛子と香美ちゃんアルバイト始末記

ムッツリーニ×愛子の第四弾。
愛子があんまり出て来ないですが、最終話を前にして王道に逃げる。そんな展開。
しかし、シリーズ化などかけらも考えずに作っていたので、今までの適当な伏線の収拾に困る。
後付設定の神様、私をお助け下さい。

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2011-07-18 12:42:14 投稿 / 全7ページ    総閲覧数:3905   閲覧ユーザー数:3595

康太と愛子と香美ちゃんアルバイト始末記

 

 

『…………やり直しには応じられない』

『……エイプリルフールの冗談だよ』

『あれっ? 何でボク、泣いちゃってるんだろ? 泣く理由なんて何もないのに』

『急に、花粉症に掛かっちゃったのかな? あの、ボク、今日はこれで帰るね』

『…………待て、工藤……っ』

『…………俺は一体、何をやってるんだ? 何がやりたいんだ?』

 

 

 4月2日の土屋康太の目覚めは最悪だった。

 いや、目覚めという単語はこの場合適当ではないかもしれなかった。

「…………結局、一睡もできなかった」

 何度も目を瞑ってみたものの、結局眠りが訪れることもなく朝を迎えていた。

 そして康太が眠れなかった原因は明白だった。

「…………畜生。昨日から腹の虫が収まらない。俺の、大バカ」

 激しい自己嫌悪の念により少しも眠気を呼び起こさなかった。

 何故激しい自己嫌悪に駆られているかと言えば康太はもはや考えるまでもなかった。

 昨日工藤愛子と別れた時からその別れ際のシーンが延々と頭の中で繰り返されていた。

「…………俺は、工藤愛子にどうするべきだった?」

 あの別れから12時間以上が過ぎ、ずっと同じ問題を問い続けても康太に答えは出なかった。いや、出せなかった。

 康太が自分の気持ちを持て余し、愛子の想いを受け止めきれないことが問題の発端であり結果だった。

 だから康太自身が変わらない限り、幾ら問い続けた所で新しい選択肢が出てくるはずがなかった。

 

 気が付けば時計は午前7時30分を回っていた。

「…………仕方ない、起きるか」

 正確には寝ていないのだから起きるも何もない。

 しかし康太は気分を変えるためにベッドから起き上がることにした。

 

 ムッツリ商会に休みは存在しない。

 365日24時間営業を続けるのがムッツリ商会のポリシー。

 しかし、昨日は24時間一切の商売活動を行わなかった。

 営業はおろか、1枚の仕入れ(写真撮影)も行っていなかった。

 こんなこと、文月学園に入学して以来初めてのことだった。

「…………2日も連続で仕事を休めない」

 康太は文月学園の生徒であり勤め人ではない。

 しかし、康太は仕事中毒と呼べるような状態であり、毎日何かしら働いていないと落ち着かなかった。

 もっともそれは、ムッツリ商会の経済活動が康太の趣味と完全に一致しているからという前提条件が付くものであるからだったが。

「…………まっ、仕事をしていれば少しは気分も晴れるだろう」

 康太にとって働くことは逃避の時間でもあった。

 熱心に営利活動に励んでいれば他のことを忘れることができる。

 そして今日は愛子のことを一時的とは忘れることができる。

 そう考えて康太は本日の業務に入ろうとしたその時康太の携帯が大きな音を奏で始めた。

「…………誰だ、こんな朝早くから?」

 春休み中であることを考えれば、まだ8時前にも関わらず電話が掛かって来るのは奇妙な話だった。

 しかも番号は見たことがないものだった。

 間違い電話かもしれないと思った。

 もしくはキャッチセールスか、ワン切りによる情報収集か。

 しかし、30秒以上鳴っても電話はまだ存在感を訴え続けている。

「…………仕方ない、出るか」

 面倒だと思いながら受話器を手にとって通話ボタンを押す。

 すると──

「電話に出るだけで一体どれだけ時間が掛かっているんですの!」

 大きな怒鳴り声が康太の耳に届いた。

 受話器を遠ざけ耳を押さえる。

 寝ていない頭に痛みを催す声だった。

「…………その甲高い煩い声は……清水美春か」

「そうですわよ。何で美春が朝っぱらからこんな豚野郎に電話しないといけないのだか」

 美春は如何にも不満そうな声を隠さずに康太に正体を述べる。

 美春は男嫌いであり康太に対しても良い感情を抱いていなかった。

 そして否定的な感情を抱いているのは康太も同じだった。

「…………何故、お前が俺の番号を知っている?」

 康太の声にも不満の声が隠されていない。

「あなたはこの間、うちのお店でアルバイトしたじゃありませんの。その際に連絡先は頂いておりますわ」

 言われてみればその通りだった。

 康太は先月末、美春の実家の喫茶店でバイトをしたことがあった。

 その際、履歴書と似たようなものを細々と書いた訳だったが、当然その中には電話番号もあった。

 オーナーの娘であり、店員でもある美春が康太のデータを目にしていてもおかしいはなかった。機密保持の観点からの問題はあるが。

「…………それで、俺に何の用だ?」

 どうせろくなことじゃないと思った。

 自分と美春は互いに嫌いあっている。

 今まで連絡を取り合ったこともない。取りたいと思ったこともない。

 それは美春も同じ筈。

 なのにその美春から連絡が来た。

 それは双方にとって不幸となる連絡で間違いなかった。

「今日、うちの喫茶店の方で人が足りません。来てくださいます?」

「…………断る」

 第一次交渉はわずか5秒で決裂した。

「今日、うちの喫茶店の方で工藤さんが病欠すると連絡して来たので人が足りません。来てくださいます?」

「………………………………断る」

 第二次交渉は決裂まで20秒掛かった。

 康太の額に一筋の汗が落ちる。

「今日、うちの喫茶店の方できっと土屋康太が何かしたせいで工藤さんが病欠すると連絡して来たので人が足りません。来てくださいます?」

「………………………………………………………………何時に向かえば良い?」

 第三次交渉は40秒の沈黙の末に合意に達した。

 

 

 

 30分後、康太はつい先日代理店長を務めた洋風喫茶店の入口に立っていた。

「…………入りたく、ないな」

 昨日の今日で愛子と縁の深い場所は正直尋ねたくなかった。

「…………しかし、入らねば」

 しかし、入らないわけにもいかなかった。愛子がアルバイトを病欠すると語ったのが自分のせいなのはほぼ間違いなかったのだから。

「…………よぉ」

 店内に入るとモップ掛けをしながらあからさまに不機嫌な顔をした美春の姿があった。

 美春は康太にまるで反応を示さない。

 もっともその方が康太にとっては都合が良かった。

 美春と会話するのは康太にとって苦痛でしかないのだから。

 康太は反応を示さない美春を無視して先日担当した厨房に入ろうとした。

「待ちなさい、土屋康太」

 しかし美春を通り過ぎようとした所で彼女に呼び止められた。

「…………何だ?」

 美春に邪魔をするなという不満の瞳を向ける。

「本日あなたをお呼びしたのは厨房を担当していただく為ではありません」

「…………はぁ?」

 康太は首を傾げた。

「美春は言ったはずですわ。工藤さんが病欠するので人が足りないと」

「…………それがどうした?」

 康太は再び首を捻る。

「鈍い男ですわね。美春は工藤さんの代わり、ウエイトレスとして従事してくれる人を求めているのですわ」

「…………俺にウエイターをやれと?」

 康太は目を細めた。

 接客はコミュニケーションが苦手な康太にとってあまりやりたい作業ではない。

 しかし、康太に厨房に入るなということは、専門の調理師が中で仕込みを行っている可能性がある。

 他人の作業を奪うのも邪魔するのも本意ではない。

 康太はウエイターとして働くかどうか思案していた。

「土屋康太。貴方は頭だけでなく耳も悪いようですね」

「…………どういうことだ?」

 康太に対して呆れ顔で呆れ声を隠さない美春。

「美春が欲しているのはウエイターではなくウエイトレスとして働く貴方ですわ、土屋康太」

「…………なっ? 頭に悪い虫でも湧いたか?」

 驚き、そして軽蔑の視線を送る康太。

 そんな康太を不愉快な瞳で見返す美春。

「それで、ウエイトレスになるのをお受け頂けますか?」

「…………断るに決まっているだろ」

 第四次交渉は3秒で決裂。

 康太と美春が激しく視線で火花を散らす。

 だが、美春は視線を外すと、寂しそうに呟いた。

「一昨日、工藤さんは仕事が終わった後に貴方にデートに誘われたと楽しそうに話しておりました」

「…………うっ」

 愛子の名前を出されて康太はそれ以上二の句を告げられなくなった。

「それで、ウエイトレスになるのをお受け頂けますか?」

 それは先ほどと同じ言葉。

「…………わかった」

 けれど、康太は第五次交渉を飲まないわけにはいかなかった。

 

 

 

 

「土屋康太、貴方はやけに化粧慣れていませんか?」

 美春は無駄のない手つきでテキパキと自らの顔に化粧を施していく康太を見ながら、半ば感心し半ば呆れていた。

「…………ムッツリ商会は潜入困難な場所に入り込む為に特殊メイクを施す場合もある」

 康太は手を止めずに答える。

「要するに、女装して女子更衣室に忍び込んでいるのですね、この変態」

「…………労力削減の為の合理性追求だ。資本主義の原理に即したまでだ」

 昨年の夏まで康太には女装の趣味は欠片もなかった。

 しかし、夏に明久たちと泊り掛けで海に遊びに行った時、瑞希たちの命令で女装させられた。そして明久に正体を悟られずにナンパされた。

更に女装させられ強制参加させられた美人コンテストでは男だとバレるどころか優勝さえ狙えそうなほどに大きな声援を受けた。

 それ以来康太は自分の女装姿に自信を持つようになっていた。

 女装はムッツリ商会の商品入荷における新たなる武器になった。

代わりに何か重要なものを失った気がしたが。

「女装趣味の盗撮魔だなんて、まさしく全女性の敵ですわね」

「…………うるさい」

 康太もその辺はさすがに自覚していた。

 美春の言葉が耳に痛い。

「工藤さんもこんな男と係わり合いを持ったりするから不幸に陥るのです」

「……………………うるさい」

 康太は乱暴に美春から借りた化粧セットをテーブルに置く。

「…………完成だ」

 そこにはこの喫茶店の女子の制服を着た、どこからどう見ても女性にしか見えない土屋康太の姿があった。

「み、みっ、美春より綺麗っ!?」

 美春が驚きながら仰け反る。

 ウィッグをつけて髪を伸ばした康太はそこらの雑誌の下手なモデルよりも遥かに綺麗だった。清楚で物静かな雰囲気を漂わせる深層の令嬢を思わせる美女と化していた。

「ちょっとぐらい美春より美人で、美春好みのぺったんこな胸をしているからって、調子に乗らないでください。この女装盗撮魔変態っ!」

 文句を言う美春の口元からは涎が垂れていた。鼻血も出ている。

「…………変態ならお前も負けてない」

 康太は美春の顔を見ながら引いていた。

 

 

「それじゃあ、はりきって接客をお願いしますわね、香美さん♪」

「…………その名で呼ぶな」

 心底嫌そうな顔を見せる康太改め香美。

「あらっ? でも、お姉さまは土屋康太の女装姿は香美さんと呼ぶのが正しいと断言しておられましたわ」

「…………おのれ、島田め」

 舌打ちする康太。

 美春にその名が知られているということは、他の女子にも女装の件が知られている可能性が高かった。

「まあ、そういう訳ですので、女装して働いていることをばらされたくないのなら、張り切って働いて頂きますわ」

「…………それは激励ではなく脅迫だ」

 康太にはウェイトレスとして働く以外の選択肢はなかった。

 

「ほらっ、最初のお客様がいらっしゃいましたわ。対応してください」

「…………お前が行けば良いだろうが」

 愚痴を垂らしながら客の元へと近付いていく香美。

 客は20歳前後の若い女性だった。

「…………いらっしゃいませ。お一人様ですか?」

 喋ってから気付く。

 外見は完全に女となっているものの、声は男のままであることに。

「えっ? あっ、はい」

 女性は香美の声に驚いていたようだった。

「…………おタバコはお吸いになりますか?」

 今度は気を付けて、出来るだけトーンを高く、だが声量は抑えながら喋る。可能な限り女性っぽい声を出すように心がける。

「いえ、吸わないです」

 女性は今度は普通に対応してくれた。

「…………それではお席にご案内致します」

 香美は声と歩き方に気を付けながら女性客を案内する。

 苦手な接客以上に、男だとばれない方に神経を使わないといけないと康太は思った。

 

 

 

 香美がウェイトレスとして接客を始めてから2時間が経過した。

 女装姿の接客にもだいぶ慣れて来た。実は男であることも誰にもばれていない。

「なあ、あの新人の子、可愛くねえ?」

「ああ、この店で一番可愛いんじゃねえ? 特にあの控えめな所がグッと来るよな」

 それどころか僅かな時間に香美は店の看板娘として大人気の地位を獲得しつつあった。

「どうして美春よりこんな女装変態豚野郎の方が人気あるのですの?」

 明らかに1人労働意欲を失っている者もいたが。

 

「ほらっ、次のお客様がいらっしゃいましたわ。……ゲッ」

 美春が新しくやって来た客を見るなり表情を引き攣らせた。

「…………一体どうした? ……ウッ」

 そして香美も客の顔を見るなり表情を引き攣らせた。

「いやぁ~午前中逃げ回ってばかりだったから疲れちゃったよ」

 肩で息をしながら独り言を呟く少年はどう見ても吉井明久に間違いなかった。

「…………清水、お前が行け。明久にはばれる」

 明久には香美姿を何度も見られている。化粧の仕方を変えているとはいえ、ばれてしまう可能性は高かった。

「あの豚野郎はお姉さまを狙っている悪しき存在なので美春は喋りたくありません」

「…………島田が明久を狙っているの間違いだろうが」

 反論はするものの美春の言葉には逆らえない。

 香美はゆっくりと明久に近付いていく。そして正体がばれないように俯きながら話し掛ける。

「…………お客様はお一人様でしょうか?」

 内心ビクビクしながら明久の反応を待つ。

「一緒に来てくれる女の子がいれば良いんだけど、僕は生まれてこの方女の子と縁が全然なくてね。まあ、そんな訳で1人なんだ」

 明久は尋ねてもいないことをやたら丁寧に答えた。

「…………お前、その戯言を姫路たちに聞かれたら確実に消されるぞ」

 香美はつい小声でツッコミを入れてしまう。

「えっ?」

「…………何でもありません。お席にどうぞ」

 誤魔化しながら明久を窓側の席へと案内する。

 案内する最中、香美は後ろからやたらと明久の視線を感じた。

「…………あの、何か?」

 席に到着して明久を座らせながら香美は尋ねた。

「いや、君、可愛いなって思って」

 明久は何の臆面もなくそう言い切った。

「…………そんなことを言われても困ります」

「ははは。照れちゃって可愛いなあ」

 明久は香美に爽やかに笑ってみせる。

 そんな明久の反応を見ながら香美は思い出した。

 明久は瑞希や美波以外の女子には割りと簡単に可愛いとか綺麗だとか口にすることを。

 姫路と美波が報われないなと彼女たちの悲恋を心の中で嘆きながら接客を続ける。

 香美は一旦席を離れ、水を運んで来る。

 

「…………ご注文はお決まりでしょうか?」

 香美が明久の手前にコップを置いた瞬間だった。

「君、本当に可愛いね」

 明久は香美の手を握りながらそっと口説き始めた。

「…………お客様、困ります」

 香美は本気で全身から鳥肌が立つ思いだった。

「いやぁ~。ごめんごめん。今朝さ、姫路さんと美波と優子さんと葉月ちゃんに僕にはナンパなんてできないって言われてついカッとなってね。いや、何でもない。こっちの話なんだ」

「…………進歩のないヤツめ」

 明久は去年の夏のあの悪夢から何も学んでいない。

 バカは死ななきゃ治らない。

 香美は心の中で舌打ちした。

「…………それで、ご注文は?」

 平常心を心掛けながら再び尋ねる。

「君のとっておきのスマイルを全部」

 明久は白い歯を爽やかに光らせながら微笑んだ。

「…………ウッ」

 香美は本気で吐きそうになった。

「はっはっは。君は本当に可愛い反応をするなあ」

 俯いた香美の肩に明久が手を乗せてきた。

「へ~。思ったよりもしっかりした骨格しているんだね。まるで美波だよ」

 美波が聞いたら怒りそうなことをさらっと述べる明久。

「…………あの、本当に困ります」

「美波たちに思い知らせてやるんだ。僕だって女の子と仲良くできるってことを! モテない男なんかじゃ決してないことをっ!」

 意気高々に決意表明をしてみせる明久。

 そんな明久を見ながら香美は溜め息を吐いた。

 明久に正体がばれてないのは助かる。

 正体がばれれば今日をもって土屋康太の社会的生命は終わりかねない。

 明久は嘘がつけないバカなので、ポロッと自分の女装アルバイトを口にするに違いない。

 しかし、正体がばれていないが故の問題が今生じていた。

「それにさ、君って僕の好みのタイプなんだよね~♪ 顔が好みなのは勿論のこと、慎ましくておしとやかで大人しくて何か守ってあげたくなっちゃうんだよね」

「…………お客様、店内でその様な行為はお止めください」

 男にナンパされることがこんなにも気持ち悪いことだと香美は初めて実感した。

「僕さ、このお店を出たら君と結婚するんだ。そして姫路さんたちに僕がモテるんだってことを証明するんだ。なんちゃって♪」

 明久は楽しそうに笑っている。

「…………明久、そんなにも死亡フラグを連発してどうする?」

「えっ? 今何て?」

「…………いえ、何でもありません」

 香美絶体絶命の危機。

 香美は色々な意味で大ピンチを迎えていた。

 だが、そんな香美に意外な所から救いの手が差し伸べられることになった。

 

 

 

「ちょっと豚野郎お客様。うちの店員にちょっかい出さないで下さいますか、豚野郎」

 美春は丁寧に豚野郎と2回繰り返しながら香美と明久に近付いてきた。

「…………おお、助けてくれるのか、清水美春」

 そして香美の肩に乗っている明久の手をつねりあげた。

「痛てててぇっ! 痛いってば、清水さんっ!」

「警察を呼ばれないだけありがたく思ってください。セクハラに加えて営業妨害ですわ」

 痛がる明久に痛烈な視線を送る美春。

 だが、今日の明久は一味違った。

 いつも以上にバカだった。

「セクハラ? 営業妨害? 清水さんは一体何を言っているんだい?」

 明久は前髪を掻き揚げた。

 格好付けているつもりらしかった。

「僕はこのお嬢さんと愛し合っているんだ。だからセクハラなんかじゃ決してないのさ」

 そして明久は寝言をほざき始めた。

「何をほざいてますの、この豚野郎お客様は?」

 美春が汚物を見る瞳で明久を見る。

「この香美様と美春は将来を誓い合った仲なのですわっ!」

 そして美春も寝言をほざき始めた。

「…………おっ、おいっ!?」

「しっ。貴方はちょっと黙っていて下さい」

 香美は美春に口を押さえられた。

「美春と香美様は将来を誓い合った仲。その香美様にちょっかいを出そうなどこの店の従業員としても美春個人としても許せませんわっ!」

「…………ふぉ」

 口を押さえられながら歓喜の声を上げる香美。

 将来を誓った仲云々はともかく、美春が明久を止めようとしてくれるのは嬉しかった。

 だが、今日の明久は昨日までと違い過ぎていた。

「女同士で将来を誓い合うなんて不毛すぎるよっ!」

 明久は血涙を流しながら漢の抗議を行う。

「香美さんっ! 女同士の非生産的な愛ではなく、僕と真実の愛を育もうよ。ジュテーム~~っ!」

 そして義久は香美に向かって唇を突き出してきた。

「ひぃいいいいいぃっ!?」

 恐怖に身の毛がよだつ。

 体が硬直して動かない。

 迫る明久の唇。

 大きくなる鼻息の荒々しくて生々しい音。

 土屋康太、人生史上最大級の危機だった。

 

「この豚野郎がぁあああああぁっ! ティロ・フィナーレ物理っ!」

 だが、香美の唇がケダモノによって蹂躙されてしまう直前、彼女を救ったのは1発のビンタだった。

「う~お う~お う~お う~お う~お う~~お~~~~」

 悲鳴というか奇声を上げながら吹き飛んでいく明久。

 カウンターにぶつかって地面に落ちてようやく空中浮遊を終える。

「…………助かったぞ、清水美春」

 香美は肩で息をしながら美春に礼を述べた。

 後ほんの少しで大切なものを失ってしまう所だった。

「女性への配慮を欠いたケダモノの様な行動。だから男なんて美春は大っ嫌いなのですわっ!」

 美春は明久を向きながらまだ怒り満ちた視線を向けていた。

 だが、今日の明久は意志力、行動力共にマックスバージョンだった。

「まだだっ! まだ僕は倒れてしまう訳にはいかないんだっ!」

 明久は頭から血をピューピュー吐きながら気合を込めて立ち上がった。

 無限の可能性を今の明久は見せていた。

「僕はまだ諦めないっ! 香美さんの口から直接僕と清水さんのどちらを好きか確かめるまではっ!」

 まるでラノベかアニメの主人公のように熱く燃え上がる明久。

「さあっ、香美さん。僕か清水さんか好きな方を選んでくださいっ!」

 熱く熱く頭を下げながら右手を差し出す明久。

 展開に合理性がないとか、2人はまだ知り合って間もないとか、フラグの類が一切存在していなかったとか、そんな理由は燃える展開の前には通用しない。

 燃えは萌えを凌駕する。

 少なくとも明久の中では。

「豚野郎には負けませんわ、香美様っ! さあ、美春のことが好きだと言ってください!」

 美春も負けじと頭を下げながら右手を差し出す。

「…………何故ねるとん?」

 80年代を知らない者を置き去りにする告白方法に驚きを隠せない香美。

「さあっ!」

「さあさあっ!」

 だが2人は真剣でどちらかを選ばなければ血を見そうだった。。

 

 そして、香美が選んだ答えは──

 

「………………男は、無理」

 香美が握ったのは美春の手だった。

「よっしゃぁああああああああぁですわぁあああああああぁっ!」

 歓喜の声を上げながらガッツポーズを取って全身で喜びを表現する美春。

「何故、何故なんだぁあああぁっ!? 僕は、ラノベの主人公みたいに決めるべき所では常勝不敗の男だと思っていたのにぃいいいいぃっ!」

 一方、地面に突っ伏して両手で床を叩きながら涙を流し悔しがる明久。

 勝者と敗者の格差はかくも無残だった。

 そして、敗者に与えられる罰はそれだけではなかった。

 

「…………いらっしゃいませ。……いっ?」

 香美は新たに入店した客を見ながら驚きの声を上げた。

 客は全身黒のスーツに黒の帽子を被り、口にはマスクを嵌めたサングラス4人組だった。

 4人組というか、どう見ても姫路瑞希、島田美波、木下優子、島田葉月の4人でしかなかった。変装してもいつもと同じ髪型をしていた。

「な、何者なんですの、貴方たちはっ!?」

 美春は驚きの声を上げた。どうやら本気で正体がわからないらしい。

「全く見ず知らずの君たちは一体何者なんだっ!?」

 明久も4人の正体に全く気付いていないようだった。

 普段あれだけ側にいるのに気付かないなんて美春も明久も酷いと香美は思った。

「君たち一体、この店に何の用で……うわぁああああああぁっ!?」

 1人目(木下優子)が明久の関節を瞬時に決めて動けなくし、2人目(島田美波)が明久をあっという間に縛り上げ、3人目(姫路瑞希)が明久をひょいっと担ぎ上げ、4人目(島田葉月)の誘導の下明久は軽快に運び出されていく。

 まるで普段から拉致監禁拷問に手馴れている様なチームワークの良さだった。

「一体僕をどうするつもりなんだぁああああぁっ!?」

 変装した姫路の右手で担がれながら店を去っていく明久。

「明久くんには香美さんのことで聞きたいことがいっぱいいっぱいあるんです!」

「何故僕の名前を!?」

「星は何でも知っているのよっ!」

 何で帰国子女の美波がそんな昭和30年代の古い歌の題名を知っているのか不自然に思いつつ、呆然と黒服軍団+明久を見送る香美。

「香美さんっ! 助けてぇええええええぇっ!」

 明久の必死の、必死の助けを求める声。

「…………短い間だったけど、楽しかった」

 香美は俯き涙を流しながら去っていく明久を見送った。

 香美にはもうわかっていた。

 明久に待ち受けるこの後の運命を。

 生きて吉井明久に会うことがもう二度と訪れないのは明白だった。

 もし会えたとしてもそれは吉井明久に似た何か別の存在になっているに違いなかった。

「…………明久っ、ナイスガッツ。そして…………大バカ」

 香美が窓から外を見上げる。

 明久が笑顔で白い歯を光らせながら香美を見守っていた。

 

 

「はぁ? それでは先ほどあの豚野郎を連れ去ったのはお姉さまたちだったわけですの?」

「…………ああ、そうだ」

 警察に電話しようとする美春を止め、忙しい昼時を切り抜けようやく訪れた小休止的時間帯。

 香美と美春はテーブルを拭きながら先ほどの顛末について話し合っていた。

「それじゃあ大騒ぎする必要はありませんでしたのね」

 美春が手を止めて大きく安堵の息を吐く。

「…………お前が明久の安否を気遣うとは意外だったな」

 香美はテーブルを拭き続けながら首を捻る。

 美春であれば明久の不幸を願いこそすれ、救出に懸命になるのはどうしても違和感があった。

「ここで人攫い事件が起きたとなれば、この店の営業に悪影響を及ぼしますから」

「…………ああ、なるほど」

 その理由は非常に納得がいった。

「それに、こんな微妙な時期に事件など起きようものならこのお店が本当に終わってしまいかねません」

 けれど、次の一言は聞き逃せるようなものではなかった。

「…………おい、今のはどういうことだ?」

 香美が顔を上げ手を止めて美春に聞き直す。

「何でもありません」

 美春はそっぽを向いて香美の質問を拒絶した。

「…………そう言えば先日のバイトで急に店長代理を任されたのも今考えれば妙だ。一体、どうなっている?」

 詰め寄る香美に対して美春は無言のまま背を向けた。

 

 

 それから10分ほどの時が過ぎた。

 香美は黙々と仕事を続けていた。

 喫茶店には何か厄介な事情があるのかもしれないと思い触れないことにした。

 美春にも話し掛けないようにしていた。

 下手に声を掛ければトラブルを招くことはわかりきっていたから。

 だが、そのトラブルは意外にも美春の方からやってきた。

「ねえ、香美さん?」

「…………何だ?」

 客は2人の遠方に耳の良くなさそうな老紳士がいるのみ。

 香美も少し安心して男声で喋る。

「先ほど、あの豚野郎と美春の告白の内で美春を選びましたよね?」

 美春がチラリと視線を向けて来た。

「…………ああ」

 何故か気まずいものを感じて力弱く返答する香美。

「それは何故です?」

 美春の顔が少しだけ近付く。

 近付いてくる美春に圧迫を覚える香美。

「…………俺に男の告白を受け入れる趣味はない」

 逃げ腰になる香美。

「つまりそれは、将来を誓い合う仲という美春の告白を受け入れたということになりますわね?」

「…………はっ?」

 香美の時が一瞬止まった。

「つまり、香美さんは美春と婚約を結んだ。ということでよろしいですのね?」

 心臓の鼓動さえも止まっていそうな世界の中で聞こえてきた美春の次の言葉。

 それは先ほどよりも遥かに直接的でぶっ飛んだ内容だった。

「…………ちょっと待て?」

 あまりの事の大きさに香美の脳は停止している。

 美春の発言の内容を上手く頭の中で整理できない。

 けれど、混乱に任せてこのまま聞き流してしまうと後でとんでもないことになることだけはわかった。

 だから断片的にでも疑問を聞いてみる。

「…………清水美春。お前、男が嫌いだったよな?」

 美春についてまず思い浮かぶ情報を尋ねてみる。

「ええ。お客様以外の男性は大嫌いです」

 美春は極めてあっさりと認めた。

「…………じゃあ、何故俺と婚約なんて話が出る?」

 続いてかなり核心に迫る質問。

「美春が婚約するのは豚野郎の土屋康太ではなく、可憐でキュートで超美人な香美さんですわ」

「…………はぁ?」

 今度の答えはよく意味が飲み込めなかった。

「…………俺と香美は同一人物だが?」

 香美は首を大きく捻る。

「何をおっしゃるのですの? 香美さんは下衆で助平でバカな土屋康太と違い、どこからどう見ても完璧な美しい女性です。役所が性別を間違えて登録したに違いありません」

「…………俺は秀吉とは違う」

 身近に該当例があった。が、香美の場合は明らかに女装であり秀吉とは違う。

「ですが、重要なのは香美さんの性別が男として登録されていることです。つまりそれは、美春と香美さんが結婚できるということなのです」

「…………待て。だからそこで理論が飛躍している」

 香美は顎に手を置きながら頭を捻る。

「ですから、香美さんが一生女の子の格好でいてくれるなら、美春はあなたと結婚しても良いと言っているのですわ!」

 美春は言い切った。

「…………フゥ。だから何故、清水は香美と結婚したがるんだ?」

 香美と美春の相性は最悪。

 香美になった所で康太の性格が変わる訳ではない。

 美春は女装してから康太への待遇が改善したのは確か。だが、それにしても突然結婚という話が出て来るのは理解できない。

 香美はジッと美春の顔を覗き込んだ。

 美春は大きな溜め息を吐いた。

「この店を存続させる為には、喫茶店の運営も任せられる有能な婚約者が美春には必要になった。ただ、それだけのことです」

 美春は目を瞑りながら口を結んだ。

「…………清水に婚約者ができると店が存続させられるという話がよくわからん」

 香美は続きを聞かざるを得ないと思った。

 今のままだと話が曖昧すぎて気持ち悪かった。

「……このお店、表向きのマスターは父ですが、この建物の土地も店の営業権も実際に持っているのは母の父、要するに祖父なのです。祖父はまあ、結構な資産家でして」

 美春が2度溜め息を吐いた。

「昔はそれでも何の支障もなかったのですが、両親が不仲になってから祖父がこの店の経営を快く思わなくなって……まあ、存続条件やら何やらで揉め始めたわけです」

 美春は腹立たしそうに自分の縦ロールを引っ張った。

「…………先月末、清水とマスターが同時にいなくなったのはその祖父に会いにいった、と」

「そうです。祖父がこの店をカジュアル衣料品店に替えるって急に言い出したものですから文句を言いに行きましたわ」

 美春の頬は膨らんでいる。

「美春は父のことをあまり好きではありません。けれど、このお店は大好きです。そのお店を祖父に好き勝手に潰されるのは我慢なりません」

 美春の瞳は怒りに満ちていた。

「…………それで、祖父が要求した条件というのが」

「美春に喫茶店の経営を任せられる婚約者を連れてこいと。将来的に美春とその夫に経営を委ねられる様なら存続して良いと」

「…………なるほど」

 香美と香美の口から共に重い溜め息が漏れ出る。

「…………それでお前が婚約者に目を付けたのが」

「ええ。香美さんだったというわけです」

 それでようやく合点がいった。

「香美さんなら、もう既にマスター代理を務めた経験も有りますし、どこからどう見ても可愛い女の子ですから美春としては何の不満もありません」

 美春はにっこにっこ顔を香美に向ける。

 だが──

「…………お前との婚約は俺に何のメリットもない。断る」

 香美は美春の提案を一刀両断した。

 けれど、そんな返答に怯む美春でもなかった。

「あら、そんなことはないと思いますわよ」

 瞳を細めて美春を眺める。

「このお店がなくなってしまったら工藤さん、困るんじゃありませんの?」

「…………なっ?」

 突然愛子の名前が出て来て驚く。

「工藤さん、ご両親とお世話になっている方にプレゼントを贈るんだって頑張っていますのに。このまま店が潰されてしまうのではお給料も払えずに……うっうっ。可哀想な工藤さん。香美さんが薄情なばかりに」

 嘘泣きしてみせる美春。

 ツッコミたいことは色々あった。

 けれど……

「…………工藤」

 先月末、楽しそうに両親にプレゼントを贈ると語っていた愛子のことを思い出してしまい、口からそれ以上の言葉が出て来ない。

「それとも何ですの? 香美さんと工藤さんは昨日のデートを通じて既に恋人同士になっていると? 工藤さんが今日来られないのも、本当は2人の仲が進み過ぎて、工藤さんの足腰が立たなくなってしまったからなのですか?」

「そんな訳があるかっ!」

 香美は間髪入れずに反論していた。

「俺と工藤は……恋人同士じゃ、な、い」

 だが、すぐに言葉に詰まった。

「やっぱり。デートの最中にヘタレたのですね」

「…………うるさい」

 事実だけにそれ以上言い返せない。

「まあ、デートが失敗に終わったのなら美春にはむしろ好都合です。さあ、美春と婚約してください。このお店を守る為に」

「だからそれはお前の都合であって俺の都合ではない」

 香美は美春を突っ撥ねる。

「工藤さんの為でもあるのに?」

「…………春休みが終わるまでぐらいは営業できるだろ」

 香美は答えを微妙にはぐらかした。

「工藤さんは新学期が始まってもこの店で続けてバイトすることを希望なさってますわ」

 美春の言葉にハッとする。

 春休みのはじめに愛子と話した内容を思い出して。

 愛子の家は経済的に厳しくて愛子は家計をどうにか助けたいと思っていることを。

「…………この店がなくなれば、工藤が困る……」

 愛子は校内では愛想がとても良いが、接客業はまだまだ初心者レベル。

 この店がなくなるとなれば新しいバイト先をみつけ出すのは骨が折れるかもしれない。

新しい仕事環境に慣れるには時間が掛かるかもしれない。少なくともそれは無駄な労力を費やす行為。

 それは学費・居住費免除の優待でなければ大学には行けないと言っていた愛子にとって厳しいロスになるに違いなかった。

「…………工藤は頑張っている。だから、報われないとダメなんだ」

 香美は大きく瞳を見開いた。

「…………婚約ってのは形だけの偽装でも大丈夫なのか?」

 そして1歩を踏み出した。

 贖罪と考える1歩を。

 愛子を救えると考える1歩を。

 

 

 

「ええ。婚約者の体裁だけ守って下されば、その間に美春が祖父を説得しておかしな考えを撤回させますわ」

「…………この店、絶対に潰すなよ」

 香美と美春が意気投合していると店の扉が開いた。

「あの……」

 短い髪の少女が控えめに顔を出す。

 しかし、この店の将来について真剣に思いを描いている2人は少女の存在に気付かない。

「あ、あの……やっぱりお仕事なのに、その、胸が痛いなんて理由で休んじゃダメだよねって思って……って、えっ? ムッツリーニくん?」

 少女、工藤愛子は自分がこの店を訪れた理由を誰に訊かれてもいないのに喋っているととても不思議な光景に気が付いた。

 愛子の視界に香美が映っていた。

「何で? しかも、ウェイトレスの格好までして?」

 愛子は以前海に行った時に香美の女装姿を見たことがある。あの時とは化粧の仕方が変わり髪型も弄られてはいるが見間違いようがなかった。

 好きな少年の顔だから見間違える筈がなかった。

 と、なると、何故康太が女装してアルバイトしているのか理由を考えてみる。

 深く考えるまでもなかった。

「やっぱり……ボクのせい、だよね」

 香美がバイトしているのは美春がそうさせているからに違いなかった。

 では、何故そんな事態に陥っているのかといえば、自分が今日急に欠勤したからに違いなかった。

「ムッツリーニくんに女装なんてやめさせなくちゃ」

 康太のことを考えると胸が苦しくて仕方ない。

 まだまともに会話する自信もない。

 けれど、康太がこのまま貶められた格好を続けるのは嫌だと思った。

 自分より美人なのも女としてちょっと悲しかった。

「あ、あの……」

 愛子が声を掛けながら2人に近づいて行く。

 すると──

「では、美春との婚約成立ということで良いですわね」

「…………ああ、構わん」

 愛子の耳ににわかには信じられない話が入ってきた。

「へっ? 婚約? 清水さんとムッツリーニくんが?」

 冗談だと思った。思いたかった。

 けれど、次に聞こえて来た言葉が彼女を更なる負の淵へと追い落とす。

「美春との婚約の件、祖父に報告させてもらいますわ」

「…………問題ない」

 愛子の肩が小刻みに震え出す。

「婚約を家族に報告って……ふ、2人とも本気、なの?」

 愛子の視界が回り出す。

 視界と共に頭の中もグルグルと回り出す。

「もしかして、昨日のデートでムッツリーニくんがあんまり乗り気じゃなかったのも既に清水さんと付き合っていたから、なの……?」

 忘れたい筈の昨日の出来事が鮮明に像を結んでしまう。

「もしかして、ボク……お邪魔虫、だったの?」

 膝がガクガクと笑い出す。

 立っているのも辛い。

 目の前の2人をまともに見られない。

「それでは、せっかく婚約を認めて頂いたわけですし、可愛い香美さんに美春がご褒美を差し上げますわ」

「…………ご褒美?」

 康太が首を傾げた。

「そうですわ。お姉さまよりも綺麗でお姉さまよりもペッタンコな美春好みな香美さんに精一杯のお礼ですわ」

 そう言って美春は顔を康太に近づけ──

 

 その唇に“キス”をした。

 

「…………お、おおお、お前っ!? 一体、何をするんだ!?」

 驚愕する康太。

「ふふふ。だから、ご褒美です。美春の前ではずっと香美さんでいてくださいね」

 楽しそうに笑う美春。

 けれど、その頬はトマトよりも赤く茹で上がっていた。

「あはは。やっぱり、そうだったんだ……」

 愛子の中の世界が崩れて行く。

 足元が崩壊して黒い大きな穴の中へと吸い込まれて行く。

 自分が闇の中へと呑まれていく。

「ボクが、お邪魔虫。だったんだね」

 視界が滲んで利かなくなる。

 もう、限界だった。

「うっ、うっ、うわぁああああああああぁっ!」

 気が付くと走り出していた。

「工藤っ!?」

「工藤さんっ!?」

 後ろから声が聞こえた。

 けれど、振り返るなんてできなかった。

 2人が並んでいる姿なんて見たい筈がなかった。

 涙でほとんど何も見えなくなった瞳で遠くへ向けてただひたすらに駆け続けた。

 まだ昼間の筈なのに深夜よりも暗く感じられた。

 

 

 最終話に続く

 

 

 


 
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