No.22647

Maylily(前編)

陽樹海月さん

真っ白い鈴のようなその花が、何故だか輝いているように見えて――そっと、手を伸ばした。
すると白い花は、まるで初めからそこには無かったかのように――春の陽光に混ざり、光の一部となって――
そっと、消えてしまった。

なくしたものは、心と名前。

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2008-07-31 23:18:41 投稿 / 全2ページ    総閲覧数:657   閲覧ユーザー数:636

 

ただ、どこまでも広い花畑に居た。

 

どうして、こんな所に来てしまったんだろう。

特に用も無いのに、当ても無く歩いたら――いつの間にか、こんな所に来てしまった。

 

風が暖かい。冷たい冬の空気に当たる穏やかな春の風が、ふと、耳の横を通り過ぎて行った。

どうしてだろう。

 

何かの音楽に聞こえた。それは、柔らかな歌声のような。

心地よい音色は、後ろから流れてきた。そのまま俺の両脇を通り過ぎて――やがて、ただの風の音となる。

ふと、その音色の先を知りたくなって振り返った。

 

ここだ、聞こえる。

この花から、音楽が聞こえる。

 

この花の名前を知っている。スズランという花だ。

どうして音楽が聞こえてくるのだろう。

でも、不思議とその花は輝いているように見えた。

真っ白い鈴のようなその花が、何故だか輝いているように見えて――そっと、手を伸ばした。

 

すると白い花は、まるで初めからそこには無かったかのように――春の陽光に混ざり、光の一部となって――

 

そっと、消えてしまった。

 

~Maylily~

 

 

 どうして、何も言ってくれないんだろう。

 私は男の子と花畑にいた。聞きたかった筈の言葉を待っていて、男の子はそれを言おうとしていた。

 ずっと、その言葉が男の子の口から出てくるのを待っていた。でも、男の子はいつまで経っても何も言ってくれなかった。男の子は驚きと悲しみの入り混じった瞳を私に向けていたけれど、きっと私を引き止めてくれる筈だと思っていた。

 

 男の子がその言葉を言うのを諦めようとしたとき、私は言った。

 

『……さよなら』

 

 後ろを振り返って、走って逃げていく『わたし』。

 『わたし』が走って逃げていく。男の子の居ない世界へ。

 ……あれ?私、取り残されちゃうの?

 

 声を張り上げて呼び止めたの。

 でも、『わたし』は止まってくれなかった。

 

 男の子が大好きな私は、ここに取り残されてしまった。もう男の子に声をかけることも出来ない。男の子は暗い顔で、今にも泣き出してしまいそうだというのに。

 名前を思い出す事すらできない。

 

 私の名前は、『わたし』が持って行ってしまったの。

 

 目が覚めると、気だるい朝を迎えた事をカーテン越しに差す光が教えてくれた。今日もなんでもない穏やかな一日の始まりという事だ。

 朝起きたら自分が別人になっていたら良いな――なんて、考えた事はないだろうか。もしも自分が起きたとき別人になっていたら、こんな誰も居ない気だるい朝ではなく、もう少し楽しい朝を迎えられていただろうか――最近よく、そんな事を考える。

 

 朝は美味しそうなサクサクのトーストを焼いてくれる母親がもう台所に立っていて、楽しそうに朝食を作っている。そんな母親の鼻歌を聴きながら、父と姉と三人で朝の会話を楽しむ。そんな一見どこにでもありふれた日常というものが、もし自分にもあったなら。

 

 だけど、理想と現実との境は時に大きな壁として目の前に立ちはだかるものだ。ここにはサクサクのトーストを焼いてくれる母親は泊りがけの仕事で居ない。父は離婚してとうに家には居ないし、姉は一人暮らしを始めてもうここに戻ってくる事はない。

 

「……つまんね」

 

 そんな事を考えながら誰にも届かない独り言を呟いて、ベッドから重い腰を上げる。タートルネックのTシャツを着て、茶色いスラックスにベージュのフリースを合わせる。

 

「……学校、行きたくねぇな」

 

 高校に入ってからは「誰かに苛められる」とか、流石にそういう事はなくなった。周りも大人になったのかもしれない。でもそれが無くなったからといって、学校に何か生きる目的なんて、たかだか十六歳の自分には見付かる筈もない。結局、毎朝こうやって学校に行くのをどこか渋る自分がいる。もちろん休んだところでやる事なんて無いのだけれど、学校に行って暇を潰すのと家で暇を潰すのでは、少しだけ自由度が上がる気がする。実際にやる事は見付からなくてもだ。

 そんな事をだらだらと考えていたら、家の中に自分以外の、何か別の存在を感じた。懐かしい感じ。まるで、母親がまだ家で主婦をやっていた時のような――何故だろう、家の中に誰か居るような気がするのは。

 

「…………」

 

 自然と耳をすます。どこからか聞こえてくる鼻歌は家の中から聞こえてくるものだということに気付くまで、さほどの時間はかからなかった。

 

「……の…………を…………しょう……」

 

 前にもどこかで聴いた事のあるようなメロディー。音のする方へと歩いていくと、その声は台所から聞こえていた。誰かが家の中に居る? そう思って、俺は階段を下りるペースを速めた。それも、自分の事を知っている誰か――まさか、母さんが帰って来た? 仕事を途中で切り上げて来たのだろうか。次に帰って来るのは来週だと言っていた。

 母さんにしては声がやたら高いような……気はするが、多分ずっと会っていないせいで声を忘れているのだろう。姉は一人暮らしを始める前は親父に付いて行ったのだから、間違ってもここに来ている筈はない。

 家に居る可能性があるのは母親だけなので、俺は母親であると確信した。だから台所のドアを開けるなり、俺は言った。

 

「全く、帰って来るなら来るで、事前に連絡ぐらいしろよな」

「おはよう、椿君! よく寝てたね」

「……え?」

 

 台所に立っている母さんは、想像を絶するほど若かった。

 

「…………」

「どうしたの? まだ眠いのかな」

 

 どう見ても、俺と同い年に見える。……いや、多分同い年だろう。

 

「へへ、昨日遅くまで起きてたんでしょー。顔色悪いぞっ」

 

 いや、違う。あまりの唐突な出来事に一瞬思考が固まったが、母さんじゃない。別の誰かだ。さも当然のようにここに居るけど、母さんの髪はこんなに長くない。というか、まず顔が全然違う。

 

「……誰?」

「はいはい、とりあえず顔洗って来ましょうねー」

 

 背中を押されて、手洗い場へと連れて行かれるが……そうじゃない。

 

「ちょっと待て、俺の話を聞けって」

「なぁに?」

 

 その場で振り返ったら、目の前に彼女の顔があった。随分と綺麗な二重だな。やっぱり母さんとは似ても似つかない……そうじゃなくて。俺は一息ついて、彼女に尋ねた。

 

「だから、あんたは誰」

「寝惚けてるんじゃなくて、本気で言ってるの? それ」

「本気で言ってる」

 

 すると彼女はその場で腕組みをして、何かを考えているようだった。そもそも疑問が多すぎてうまく会話ができない。どうしてここに居るのか、どうやってここに入れたのか。

 

「まぁ、とりあえずご飯できてるから、顔洗って来なよ」

「えぇ!?」

「食べながらでも良いでしょ?」

「いや……」

 

 そんな場合かと言いかけたが、別に時間を急いでいる訳ではないので断る理由が無かった。

 言われたとおりに顔を洗って戻って来ると、トーストが既に焼けていた。紅茶もある。彼女は既に椅子に座って俺を待っていた。

 

「さぁ、召し上がれー」

「……ありがと」

 

 勢いに流されて朝食を黙々と食べているが、一体この女の子は誰なんだろう。明るい茶色の長い髪に、黄色いセーター、薄桃色のスカート。ちょっと面食らうくらいに美人だ。こんな知り合いは学校にはいない。

 そういえば、さっきこの子は俺の事を名前で呼ばなかったか?

 

「……母さんの差し金かなんか?」

「そういえば、椿君のお母さんは居ないの?」

「……今は泊りがけの仕事に行ってるんだ」

「そうなんだ」

 

 その時、はっと気付いて俺は彼女をまじまじと見た。今、彼女は俺の事を「椿君」と呼んだ。

 【高堂 椿(たかどう つばき)】。確かに俺の名だ。どうやら母さんの差し金ではないみたいだけど、俺の事を名前で呼ぶのはおかしいだろう。俺は詮索を続けた。

 

「どうやって家の中に入って来たんだ?」

「うん、それなんだけどね。何だか花畑が力を貸してくれたみたいなの。気が付いたらここに居て」

「…………はぁ?」

「ほら、昨日。会ったでしょ? 花畑で」

 

 花畑には行ったけど、こんな女の子と会った記憶はない。……そういえば、昨日あれからどうしたっけ? 思い出せない。

 彼女は椅子から立って、目を輝かせながら言った。

 

「まさか、こんなに時間が経ってから見付かるとは思ってなかったんだけどね。私はずっと椿君に見付けて貰える時を待ってたから、これも巡り合わせかな」

「……花畑で? 見付けた? 俺が?」

「うん」

 

 まるで何を言ってるのか分からない。いや、そもそも彼女が誰かを聞くのが先だった。嬉しそうなところに水を差すのも悪いけど、さっきからずっと聞いているんだからこれくらいは答えてくれても良いだろう。

 

「……まぁ、それはいいや。それで、君は誰なんだよ。何で俺の名前を知ってるんだ」

「……もしかして椿君、本当に私の事覚えてないの?」

「覚えてないも何も、今日の朝会ったのが初めてだよ」

 

 彼女は一転して驚いた様子で俺を見つめる。暫く俺を見つめて、俺が冗談を言っていない事を確認すると、彼女は急に寂しそうな表情になって椅子に座り直した。

 

「……そっか、もう椿君は私のこと、覚えてないんだ?」

 

 何でそんなに急に悲しそうになるんだろう。何かおかしな事を言っただろうか……そう思っていたら、彼女はそのまま続けた。

 

「流石に時間が経っちゃったな、とは思ったんだけどね。忘れられてるとは思ってなかったよ」

「……最後に会ったの、いつだ?」

「ずっと昔。子供のころ」

「どこで?」

「花畑で」

 

 ずっと昔の花畑といったら、思い出せるのは自分が泣いていた記憶だけだ。思い出したくもない、苦い過去が蘇る。そんな風に塞ぎ込んでいた時期に誰かと話した記憶はなかった。

 

「ごめん、思い出せない」

「……」

「ごめん」

 

 思い出せないのは仕方無いが、謝るしかない。誰なのかも覚えていないが、きっと幼い頃仲良くした女の子なのだろう。彼女はずっと黙っていたが、やがて顔を上げて、言った。

 

「ううん。一緒にいたら多分思い出せるよ。やっと願いを叶えられると思ったけど、椿君が私のことを思い出すまでもう少し待ってあげる」

「……そうか、ありがとう。それで、本当に君は誰なんだ。名前は?」

「椿君の友達。名前は……思い出せないの」

「……えぇ?」

 

 辛そうに彼女はそう言った。それじゃあ彼女が何者なのか、彼女自身も分からないということにならないか? そう思った俺は、質問を続けた。

 

「家はどこにあるんだ?」

「昔はこの近くだったよ。引っ越しちゃってからは分からない」

「分からないって、じゃあ今までどこに居たんだよ」

「花畑で待ってたの、椿君を」

 

 意味が分からなかった。そんな子供の頃から何年も花畑で飲まず食わずで待ち続けたって? そんな奴が居たらとっくに誰かに発見されてるか、死んでる。ひょっとして記憶喪失なのか? ここに来るときに何らかの強いショックを受けて、今までの事を忘れているんだろうか。

 そんな事を考えていたら、ふいにインターフォンが鳴った。

 

「やべ、勝林だ。もうそんな時間か」

「勝林?」

 

 彼女が不思議そうに聞いてきたので、俺は答える。

 

「高校の友達だよ」

「……友達?」

 

 彼女はその言葉に強く反応してきた。

 

「椿君、友達できたんだ?」

「え? ……あぁ、うん」

 

 違う、記憶喪失なんかじゃない。俺は根拠こそ無かったが、そう確信した。彼女がもし自分の記憶を失くしているんだとしたら――こんなに俺の事を知っているはずがない。友達が居なかった頃の俺の事なんて。

 

「良かったねー……」

 

 嬉しそうに微笑む彼女を見て、俺はよく分からない懐かしさを感じた。と同時に、何に対してかもよく分からない不気味さも感じていた。彼女はふと思い出したように、俺に聞いてきた。

 

「そういえば、椿君の部屋にね、引き出しがあるでしょ?」

「え? ……うん」

「あの引き出し、中に何が入ってるのかすごく気になって。何だか嫌な感じがしたから……でも、開かないんだね」

「……あぁ、鍵、失くしちゃったからさ。中に何が入ってるのかも、もう覚えてない」

「そっか。ごめんね、学校行くのに変な事聞いちゃって」

「いや、それはいいけど……」

 

 どうして彼女は俺の事をこんなに知っているんだろう、と俺は思った。でも、その疑問は彼女に投げかけられる事は無かった。勝林も待っているし、学校も遅刻してしまう。

 昔どこかで会ったのかもしれない。……でもそれなら、どうして自分は彼女のことを何も覚えていないのか。

 

「……ごめん、もう行く」

「あ、うん。分かった」

 

 家が分からない以上、帰す場所も無かった。彼女から逃げるように、俺は家を飛び出した。

 家のドアを開けると、【勝林 正人(かつばやし まさと)】がいつもの調子で話しかけてきた。

 

「高堂さんや、随分遅かったじゃないかい?」

「あぁ、ごめん」

「いや別に謝らなくてもいいけどさ。ひょっとして高堂にも彼女とかできたのかなぁ、なんて思ってたよ。へっへっへ」

 

 勝林が話しかけているが、俺は突然現れた彼女の事で頭がいっぱいだった。

 どこから来たのか、どうして来たのか、どうして俺の名前を知っているのか。自分の名前は随分前から封印してあって、誰にも呼ばせていない筈なのに。

 

「おーい。高堂さん? 聞いてる?」

 

 自分の名前を隠しているせいなのかどうかは分からないが――幼い頃からずっと、自分の人生が自分自身のものでないような、そんな変な違和感が続いている。

 自分が感じる感情や感動はいつもどこか遠くで光っているようで、心まで響いてくることがない。感動する心なんてものが、元より自分にあったかどうかすら怪しい。でも、それは仕方の無い事だった。

 

『椿なんて女の子みたいな名前の奴、仲間に入れてやらねーよ!』

 

 そう言われたのは、いつだっただろう。まだ小学校にも入っていなかったはずだから、幼稚園の頃だろうか。いつも行っている公園で、同い年くらいの男の子からそう言われた。

 

『椿ちゃんは女の子なんだから、あっちで遊べよ!』

『ジャングルジムは俺たちが使うんだから!』

 

 椿は花の名前。花の名前は女の子に使うものだからお前は男じゃない、そう言われた。名前が理由で仲間に入れてもらえなくて、公園の遊具は何も使わせて貰えなかった。

 当時の自分にしてみれば仲間はずれにされるのはとても辛くて、そのうち公園で遊ぶのをやめて、一人で遠くに行くようになった。

 そうして見付けたのがあの花畑で、次第にそこに居る時間は増えていった。公園で遊ぶフリをして帰る時刻までそこに居れば、誰にも何も言われる事は無かったから。

 

『でも、どうして自分は仲間に入れて貰えないんだろう』

 

 それだけが幼い頃はずっと疑問で、公園の他に幼稚園と家しか行く場所のない、小さい行動範囲の自分にとっては、そのうち一つが楽しくない場所になるのは致命的だった。

 考えれば考えるほどに、自分の名前のせいで苛められているという現実が自分を苦しめた。名前で苛められるなんて、そんなの一体どうしたら良いんだろう?

 でもその悩みはある日、唐突に解決することになる。

 

『そうだ……自分の名前のせいで苛められるんだったら、自分の名前を変えてしまえばいいんだよ! そうだ!』

 

 自分の名前を隠す。それが幼い自分にできる、たった一つの回避方法だった。

 

『椿ちゃん、お前は仲間に入れてやらないって言ってるだろ!』

『……椿じゃない』

『何言ってんだよ。じゃあお前の名前は何なんだよ』

『つば……さ』

『……翼?』

『翼! 僕の名前は、高堂翼だよ!』

 

 思えば、あの頃咄嗟に考えた名前にしては良く出来ていたと思う。誰も俺が嘘を付いていると思わなかったのだから。それから彼等は俺の事を名前で呼ばなくなったし、暫くは「翼」と呼んでいた。

 でも、気分が良かったのは最初だけ。「翼」と呼ばれると、自分が返事をしている筈なのに、まるで別の誰かがそこに居るような奇妙な錯覚を覚えるようになった。

 「高堂椿」はそこにはいない。自分が自分の名前を隠したせいで、まるで自分自身がそこに居なくなってしまったかのような――奇妙な感覚。ちっとも楽しくなんてなかった。

 

 公園を抜け出して花畑に一人で座っていた時、「高堂翼」は自分ではないということに気が付いた。

 その日はずっと泣いていたのを覚えている。ただ、自分は自分の名前を捨ててしまったのだと。そんな事が出来ないのは後に分かるようになったが、今度は自分が「高堂椿」である実感も持てなくなっていた。

 

 そんな事があったから、俺は「椿」と呼ばれるのを嫌う。あの時の思い出が蘇ってくるからだ。だからこそ、誰にも呼ばせていないのに――どうして彼女は俺の事を名前で呼ぶのだろう。

 やっぱり過去を思い出してみても、彼女が居る記憶は一つも出てこなかった。

 

「……おーい。たかどうさーん」

 

 そんな事を考えていたら、いつの間にか学校に居た。気を取り直して勝林の言葉に反応する。

 

「あぁ、ごめん」

「あぁ、ごめん。じゃねーよ! 俺はお前の家出てからずっとお前に話しかけてるんだぞ!」

「え……マジで? そいつは悪かった……」

「全く……お前大丈夫か? ずっと考え込んでよ」

「……別に何でもねーよ」

「あ! もしかしてあれだ、この前転校してきたすみれ先輩にお熱なんだな? そうだな?」

 

 別に嫌いな訳ではないが、この勝林正人という男はどうにもやかましい。元々の喋り声が大きいのに近くで離すからか、横に並んで歩いていると勝林に近い方の耳を塞いでようやくまともに会話ができるくらいだ。おまけに話す内容はどれを取ってもほぼ意味のないものときてる。

 俺がいつも無口で暗いイメージだから、気を使って――というのはあるのかもしれないけれど。

 とりあえずいつも通りに、やかましい勝林に一発チョップをかまして、いつもの朝の挨拶を交わす。

 

「ちげーよ。うるせーよ。今日も朝から元気だなお前」

「あ、やーっと言ってくれたよ。高堂のそれ聞かないと朝が始まらないんだよな」

「……つまんね」

「つまんなくねーよ!」

 

 よく周りの人たちに「どうして二人は仲良いの?」と聞かれることがある。勝林はどちらかというとやかましい方だし、俺はどちらかというと大人しい方だからだ。

 

「それにしても、すみれ先輩すごいよなぁ。転校してまだ一ヶ月も経たないのに、もう生徒会長なんか立候補してさ。流石、できる女は違うよ」

「あぁ、そうだな」

「背筋もピッとして、こうなんというか……しなやかに? 歩くんだよ。どうやったらああいう風に歩けるんだろうな」

「知らない」

「あー、俺にもあんな美人な彼女居たらなぁー。今度遊園地に誘ってみようかな」

「……まぁ頑張れよ」

「……お前、人の話真面目に聞いてないだろ」

「……つまんね」

「つまんなくねーよ!」

 

 普段こういったようなやり取りばかりしているものだから誤解されても仕方無いが、別に勝林が嫌いな訳ではない。真面目な話をしている時はちゃんと会話するし、興味があれば話に乗る事もある。ただちょっと普段やかましいから、適当に相槌を打っている事が多いだけだ。……「ちょっと」を「かなり」に変更しても良いかもしれないけど。

 でも、やっぱり俺が普段喋らないから余計にうるさくなるんだろうな、とは思う。

 その日の授業が終わって昼休みごろ、そのいつもやかましい勝林が無駄話の合間に言った。

 

「そういえば校門前にさ、すっげぇ美少女が居るんだって噂になってるんだよ」

「へぇ」

「誰が話しかけても怯えちゃってさ、ちっとも話さないんだけど。きっと可愛い声してるんだろうなー」

「そうだといいな」

「茶色い長い髪でさ、変わった帽子を被ってるんだよ。麦藁帽子みたいにつばの長いやつ」

「へぇ」

 

 茶色い長い髪? そういえば、今朝の彼女はどうしているだろうか。何も言わずに逃げてきてしまったけど……確かに、彼女は端正な顔立ちをしていた。

 俺の前の席に座って俺の方に顔を向けている勝林に、俺は尋ねた。

 

「……なぁ、勝林」

「お、反応した」

「その子、どんな服装してた?」

「服装? ……えぇと、黄色いセーター……Vネックのやつ。それから、ピンクのスカートだったな、確か。足下まである長めのやつ。風が吹いたら広がりそうな」

 

 …………まさかとは思う。まさかとは思ったが……俺は一応確認してみることにした。席を立つと、不思議そうに勝林がこちらを見上げてきた。

 

「んで、それがどうした? っと、どこ行くんだよ」

「校門前」

「マジで? もう居ないかもしれないぞ?」

「……だといいんだけど」

「え? どういう意味だよそれ」

 

 勝林が頭に疑問符を浮かべながら付いて来る。もし彼女がここに来ていたら、ひょっとして俺を待っているのかもしれない。どんな理由でかは分からないが、今勝林が言った身体的特徴に彼女は当てはまり過ぎている。違うのは帽子くらいだ。我が家にそんなつばの長い帽子は無かった気がするが、きっと彼女が元から持っていたものだろう。

 

「あ、つばきくーん!」

 

 校門前に着いたら、そう言われた。

 一瞬意識が飛びそうになった。ふざけるな。そんな大声で名前を呼ばれたら、クラスの俺を知っている奴以外にも名前がバレてしまうだろう。名前で呼ぶ奴が現れたりしたらとんでもない。

 ……いや、それよりも彼女をずっと注目していた何名かの生徒がぎょっとした顔で俺の方を見ている、この現状の方がまずいのかもしれないけど。

 

「つぅばァき君だァァ!?」

 

 いつもの通りハイテンションにオーバーリアクションをしている勝林はとりあえず無視。俺は全力で走って行って、彼女の腕を掴んで他の生徒から見えない校門の裏に連れて行く。

 

「良かった、ひょっとして学校間違えちゃったかと思ったよ」

「いや、良く分かったな。ここが正に俺の学校……って、そうじゃないだろうが! 何でこんな所に居るんだ」

「椿君の友達に会ってみたくて……」

「会うなら家でもできるだろ」

「学校で話してるところを見たかったんだよ!」

 

 どうしてそんな希望を持つのか疑問だけど、それよりも彼女の行動が気になる。彼女はここでずっと待っていたと言うのだろうか。制服も無い訳だし、どうにも目立つ。周囲の視線を浴びながら、どうしてそんな事のためにここまで来たのだろう。

 

「それに、椿君の友達だったら私も仲良くなれるかな、って思ったから」

 

 そう言った彼女の表情はちょっと寂しそうだった。彼女には友達が居ないとでも言うのだろうか? 相変わらず彼女の事は何一つ思い出せない自分だけど、もしそうだとしたら学校に来てみたい、なんて思うのだろうか。

 そんな事を考えていたら、脇から勝林が顔を出した。

 

「ヘイガール。高堂の知り合いだったとは意外だったよ」

「えーと……どちら様ですか?」

 

 突然話し掛けられて、彼女が動揺している。余程嬉しいのか、何だかテンションが上がっているようだ。顔は強烈に緩んでいるし、何だか言ってる事がおかしい。

 

「俺は高堂のベスト・フレンド!」

「違う」

「自分、勝林正人と申します」

 

 突然紳士のような振る舞いをして、彼女に名刺を出す勝林。少し呆然としていたけど、これは一体どういう展開だ? そんな俺の気持ちも知らず、彼女はおそるおそる、その名刺を受け取った。

 

「べすとふれんど……?」

「そう。今日から君も正人ファンクラブの一員だぜ!」

 

 だが、もちろんそんなものはない。

 

「椿君のお友達ですか?」

「うん、だからそういう意味。これからお昼ご飯なんだけど、一緒にどう?」

 

 冗談混じりに勝林が言った。俺は混乱していた。一体それはどういう意味だ。学食に連れて行く訳にはいかないし、弁当なんて持ってない。まして学校の中に入れるつもりか? そんな事を考えていたら、彼女は目を輝かせて言った。

 

「いいんですか……? 私が付いて行っても」

「もちろんだ! むしろ色々君に聞きたい事がある」

 

 軽快に親指を立てて言う勝林に軽い頭痛を感じた。我慢ならなくなった俺は勝林に向かってこう問いかけた。

 

「昼飯を一緒にったって、どうすんだよ」

「何が?」

「こいつを学校の中に入れる訳にいかないだろ」

「何で学校に入れるんだ?」

 

 勝林はニヤニヤしながら話している。実に嫌な気分だ。何を企んでいるのか分からないが、学校に入れるなんて言語道断だ。見付かったら先生に説教くらうか、下手をすると停学にされてしまうかもしれない。こいつは一体何を考えているんだろう。

 

「昼飯を食べるからだろ」

「何で昼飯を食べるのに学校の中に居なきゃいけないんだよ」

「いやだから学校には購買と学食しかなくてだな、昼飯を食べようと思ったら……え?」

「さぁ、サボりに行こうかベスト・フレンド!」

 

 困った事に、勝林は俺の考えている事よりも遥か先を行っていた。確かに学校に居なければ怒られる事は無いが、たったそれだけのために早退するのか? だが、勝林はやると言ったらやる男だ。今回もそれの例外ではなく、本当に早退届を出して来た。……二人分。

 

「俺、別に早退しようと思ってない……」

「なーに言ってるんだよ! 午前中からずっとこの子はお前を待ってたんだぞ! サボって飯食いに行くぐらい男を見せろって」

 

 ずるずると勝林のペースに引き摺られながら、そして実際に勝林の右腕に引き摺られながら、俺は朝の事を考えていた。今とても嬉しそうにしている彼女も、どうしてここに居るのか、何で俺の事を知っているのか全く分からないのだ。彼女の名前すらも。

 その名前を覚えていないほど面識が薄いはずの彼女が学校まで来ていて、何故か勝林と三人で食事に行こうとしている。一体これはどういう事だ。何か悪い夢でも見ているのだろうか?

 そんな事を考えていたら、先程学校で注意しようと思っていた事を思い出した。勝林に聞こえないように、彼女にそっと耳打ちする。

 

「なぁ、ちょっと」

「え? 何かな」

「学校では――というより、誰か他の人が周りに居る時は、俺の事は名前で呼ばないで欲しいんだけど」

 

 本当は二人っきりの時も勘弁して欲しいが、これだけ親しみをこめて呼んで貰っているのにそれはあんまりだ、と思ったので妥協した。

 ところが彼女は、心底意外だとばかりに俺を見た。

 

「――どうして?」

「え? いや、ほら……俺、自分の名前あんまり好きじゃなくて」

「――え?」

 

 何を言っているのか分からない、といった顔だ。余程俺の言った事が意味不明なのか、目を見開いて驚いている。

 

「昔ちょっと嫌な事があったんだ」

 

 それを聞いて、彼女はずっと俺の目を見ていたが――やがて何かを悟ったように目を伏せ、ぽつりと呟いた。

 

「……そうだよね。椿君はもう昔のこと、何も覚えてないんだよね」

「俺、何かおかしな事言ったか?」

 

 彼女は首を振って、苦笑いを浮かべた。

 

「ううん。何でもない。何でもないよ。ただ、覚えてないのがちょっと悲しかっただけ」

「……ごめんな。でも、まだ何も」

「私の、ことも」

 

 目を伏せたまま、彼女はそう言った。これほどまでに悲しい思いをさせるほど、昔は仲良くしていたと言うのだろうか。全く現実味が持てないまま、俺は「ああ」と頷いた。

 

「はやく、思い出して欲しい……な」

 

 彼女が一瞬泣いているように見えた。でもそれは本当に一瞬のことで、顔を上げた時はもう笑顔を浮かべていた。勝林が心配そうにこっちを見ていたからだ。

 

「どうかしたの?」

「んーん。何でもないよ」

 

 俺はここまできて始めて、もしもあるなら彼女との記憶を思い出したいと、自分の思い描いている過去が全てでは無いはずだと――少し、思った。

 

 勝林が選んだのはやかましいファミレスではなく、静かなイタリア料理の店だった。主張しすぎず、かつ暗すぎない照明が人を落ち着いた気分にさせる。流石と言うべきか、女の子の好きそうな店だ。入るのは三人なんだけど。

 料理を頼むと、開口一番勝林は聞いた。

 

「それでさ」

「何?」

「いや、高堂じゃなくて」

 

 そこまで話してようやく自分に話しかけられていると気付いた彼女に向かって、勝林は聞いた。

 

「君の名前をまだ聞いてなくてさ」

 

 まずい、と思った。考えてみれば当たり前だったのに。普通は初対面の人間には一番最初に名前を尋ねる。むしろこれまで聞かれなかったことの方が不思議なくらいだ。

 でも彼女は自分の名前を覚えてない。それは俺が聞いた時もそうだったし、まさか午前中、俺のことを校門前で待っていたその間に自分の名前を思い出した、なんて都合の良い事がある訳がない。

 

「あ……えっと……」

 

 案の定、彼女も困っているようだった。苦しげに視線を逸らして、俺に助けを求める。かといって俺だって、出会ったその日も思い出せないのに彼女の名前を思い出している訳ではないし……一体どうしたものか。

 

「どうしたの?」

「いや、えっと……その……私の、名前は――」

「スズラン、っていうんだ」

 

 咄嗟に思い付いた名前だった。横から割って俺の口から自然に出た花の名前。どうしてかは分からないけど、彼女はなんとなくスズランのイメージが強かった。

 

「鈴蘭……ちゃん?」

「な、鈴蘭」

 

 そんな名前じゃないことは彼女の反応を見ても百も承知だったが、まさか名前を知りません、なんて言わせる事もできない。彼女も苦笑いして、勝林に向かって頷いた。

 

「へぇ……まぁ、いいか」

 

 勝林も納得していないようだったが、その話はそこで終わった。今度は彼女が俺と勝林のことを聞いてきたからだ。

 

「勝林さんって、つばきく……高堂君と、いつから友達なんですか?」

 

 名前を出さないように気を使ったのだろう。彼女は俺のことを「高堂君」と呼んだ。

 

「小学校でてすぐ……くらいかな? 中学校で同じクラスで、って感じ」

 

 今と変わらず暗い俺に勝林が食いかかってきて、気が付いたら友達扱いになっていた、というのは言うまでもない事だが。

 

「一目見てビビっときたね。俺はこいつと友達にならないといけない! って感じで」

「お前だけな。俺は別にお前と友達になろうとか思わなかったぞ」

「なんだよう高堂君よう、俺とは友達になれないって言うのかよう」

「……つまんね」

「お前その口癖やめた方がいいぞ!? 芸人殺しもいいとこだぞ!」

「誰が芸人だ」

 

 そんなやり取りを見ていた彼女はくすっと笑った。

 

「仲、いいんだね」

「まぁ、勝林の言う通り中学からの付き合いだからな。腐れ縁ってやつかもしれないけどさ」

「そんなことねーよ! 高堂と俺はベストフレンドだろ!」

「神に誓って違う」

「ガビョーン! 正人ちゃんショックだわ」

 

 勝林は顔が縦に伸びてるんじゃないかと思うくらいオーバーリアクションをしていたが、何を疑問に感じたか突然真面目になって、俺と彼女に問いかけた。

 

「そういえば、逆にさ。高堂と鈴蘭ちゃん? は、いつから知り合いな訳?」

 

 その質問には彼女が答えた。

 

「ずっと昔だよ」

「昔って、どれくらいさ?」

「小学校より前くらいかな」

「そんなにか……すごいな」

 

 勝林は俺にも質問していたことを思い出したのか、改めて俺の方にも顔を向けた。俺と彼女を交互に見比べて、なんだか一人で納得しているようだった。

 

「それじゃあさ、二人はどこで会ったの?」

 

 どこで――と言っても、今朝の状況をもう一度思い出しても、都合の良い答えは見付からなかった。納得されないのは承知で、俺は勝林にこう言った。

 

「気が付いたら家に居たんだ」

「花畑で会ったの」

 

 俺の声に重なって彼女は答えたが、解答は違うものだった。だけど心のどこかで俺は「また」と思っていた。今朝、彼女は「花畑でずっと待っていた」と言った。それが一体どういう意味だったのか、俺には分からなかったけれど――やっぱり、俺と彼女は花畑で会ったのだろうか。

 勝林は俺達二人の違う解答に少し戸惑っていたが、彼女の方が信憑性が高いと感じたのだろう。彼女に向かって、勝林は聞いた。

 

「その時の話、聞かせてよ」

「うん、いいよ」

 

 それは、彼女が知っていて俺が知らない過去の事だろうか。彼女は一瞬俺の方を見て、目を瞑って昔のことを思い出しているようだった。

 

「その時の椿君は、自分の名前が嫌いだったから――」

 

 彼女はそこまで言いかけて急に我に返ったのか、目を開いた。突然椅子を蹴って立ち上がると、笑顔で俺にこう言った。

 

「そうだ! そうだよ!」

「え? ……何?」

「行ってみようよ! 花畑に!」

「花畑に……」

 

 というと、あの花畑のことだろうか。俺が昨日行った、彼女と出会ったらしい花畑。昨日花畑に行って、今日突然彼女が現れたところを見ても、きっとあの花畑なんじゃないかとは思うが。

 あの花畑に一体何があるというのだろう。第一、昨日はあの場所で誰とも会っていない筈なのに。

 

「花畑に行けば、何か思い出すかもしれない!」

 

 嬉しそうにしている彼女とは対照的に、俺と勝林は訳が分かっていなかった。彼女に手を引かれるまま店を出て、そのまま俺は連れて行かれた。

 

「一体何なんだ……?」

 

 そう勝林が呟いたが、彼女の耳に届くことはなかった。

 走って行く彼女に離されないように、俺と勝林は彼女を追いかけた。迷う事無く目的地に向かう足が、この前俺が行った花畑に向かっている事を教えてくれた。彼女の足は少し鈍そうな外見とは裏腹に速く、息が切れる様子もなかった。

 

「彼女、一体どうしたんだ?」

 

 走りながら、勝林がそう俺に問いかける。俺自身が分かっていなかったから、何も答える事はできなかった。やがて花畑に近付くごとに、どこからかメロディーが聞こえてきた。

 

「……聞こえる」

 

 自然とそう呟いていた。春の風を全身に受けながら走っているその瞬間に、確かに音楽のようなものが聞こえてきた。

 

「何が?」

 

 勝林はその音楽が聞こえないのか、俺の言ったことがまるで分からないようだった。だけど確かにその音楽は俺の知っているもので、不思議とメロディーの先を頭で追いかけていた。

 段々とその音楽は強くなって、やがて――その花畑に、着いた。

 

「ここだよ」

 

 彼女がそう言って、振り返る。ただどこまでも広い花畑のひとつひとつの花たちが、春の風を受けて、まるで波のように揺れていた。

 俺の中から音楽が止むことは無かった。懐かしい気持ちを感じながら、俺はその花畑の真ん中へと歩いて行った。

 

「……何だか、悲しいな」

 

 勝林がそう言った。意味があって呟いた言葉なのかどうかは分からなかったけれど、勝林はこの場所に悲しさを感じているようだった。

 彼女が勝林の方を向いて、言った。

 

「分かるの?」

「いや……なんとなく」

「……でも、分かるかもしれないよね」

 

 彼女は一体何を知っているのか。俺は花畑の真ん中に居たから、後ろに居る勝林と彼女からは背を向けていたけれど、きっと彼女は微笑んだ。そう思った。彼女の足音が、やがて俺の方に近付いてきて、そして――彼女は俺の横を通り過ぎた。

 

「何か、思い出した?」

 

 そう言って微笑む彼女。俺は段々と強くなる音楽に心を奪われて、何も言えなかったけれど――春の風がふと、俺達の横を通り過ぎた時。俺に異変が起こった。

 何か、ある。そう俺は確信した。この場所で俺は一体何をしたんだ? 泣いていただけじゃない。そこにはきっと別の記憶があるはずだ。

 

 見せて欲しい、と俺は願った。その願いは誰に対するものでもなく、ただこの場所に。そう強く願えば願うほど、音楽は俺の周りを回って――そして。

 

『じゃあ、一緒に遊ぼう』

 

 そこには、少女がいた。

 当時の俺と同じくらいの、まだとても小さな少女。やたらと長いつばのある帽子を被り、嬉しそうに俺の周りを回っていた。俺もまだとても小さくて、背丈は今の身長の半分くらいしかなかった。

 

『私、あなたと遊びたいな』

『どうして?』

 

 俺は本当は彼女と遊びたかったのに、そう言っていた。さっきまでは話したくなかったのに、気が付くと俺は彼女に心を開いていた。彼女は俺の目の前に走って来て、目の前で止まった。

 

『私、友達、居ないの』

『どうして?』

 

 質問はさっきと同じだったけど、他に言葉も思い付かなかった。話をしたこともない全くの他人に突然話しかけるくらいだから、彼女の友達はきっと多いのだと思っていた。

 俺の目の前で彼女は振り返り、しゃがみこんだ。きっとそこに花があるのだろう。

 

『おとうさん、仕事ですぐお引越しするから。私はそれに付いて行かないといけないから』

 

 そうか、彼女はその名前のせいで友達が居ない訳じゃないんだ。そう思ったら、少し悲しくなった。俺が悲しい顔をしていることをすぐに気付いた彼女は、また俺の傍に駆け寄ってきた。

 

『だから、私と遊ぼう』

『……どうして』

 

 今度はさっきの「どうして」とは違う、拒絶の意思を含んでいた。彼女は俺とは違う。俺は自分のせいで友達がいないのだから、きっと彼女も俺のことを嫌いになると思った。

 

『友達』

『え?』

『私とあなた、友達』

 

 順番に彼女は自分と俺を交互に指差して、微笑んだ。こんな事を言ってくれた人は他にはいなくて、それで――俺は嬉しかった。

 

『ね?』

『……うん』

『あのね、追いかけっこするの。このひろーい花畑で、お日様が沈むまで。あのお日様が沈むまでに鬼だった方が負けだよ』

『負けたら、どうなるの?』

『勝った方のお願いを叶えるの』

『……』

『できないことは、だめ』

『……もし僕が負けたら、どうするの?』

 

 彼女は「うーん」と言いながら俺の周りをぐるぐる回って、今度は坂になっている地面を駆け下りて、振り返った。

 

『あなたの名前、教えて欲しいな』

 

 それはできない。もし自分の名前を教えたら、彼女もきっと俺のことを嫌いになるはずだから。でも俺は彼女と追いかけっこがしたかったから、これは負けられないと思っていた。

 

『いいよ』

 

 ちっとも良くは無かったが、まさか自分が女の子に負ける事は無いだろうと思ったので、そう言った。

 すると彼女は嬉しそうに飛び跳ねて、俺の方に駆け寄ってきた。同時に吹いた風が、嬉しそうな彼女の前髪をなびかせた。

 

『それじゃあ、最初は私が鬼。十だけ数えるから、がんばって逃げてね』

『わかった』

『いくよ……いーち!』

 

 彼女が数え始めるのと同時に、本気で逃げる。少しやりすぎかなと思うくらい、本気で逃げた。これだけ広い花畑なのだから、距離さえ離せば捕まる事は無いだろうと思っていた。

 

『じゅう!』

 

 言うが早いか、彼女は同時にとんでもないスピードで走ってきた。走り慣れているのだろうか、柔らかい地面を蹴る足は軽やかだった。

 これは負けていられないと思い、必死で逃げる。もしも負けたら自分の名前を教えないといけないのだ。それだけは避けないといけないと思い、俺も本気で走った。

 既に夕方だったから、太陽はもう地平線に触れそうな位置にあった。だが、走れば走るほど距離は縮まっていった。

 

 どうしようもないほど、彼女と俺では体力に差がありすぎた。走り続けてバテる俺に対して、彼女はまだ息すら切らしていない。

 

『タッチ!』

 

 彼女はそう言いながら俺の肩を叩く。ぜえぜえと息を切らしながら振り返ると、そこには彼女の満面の笑みがあった。

 これは勝てない。

 そう思った。

 

『早く捕まえないと、日が暮れちゃうよっ』

 

 そう笑いながら、彼女はまたとんでもないスピードで走って行った。全力疾走を一体何分間続けられるというんだ、と俺は思っていた。

 息を切らしながらも追いかけるが、一度止まってしまったらもう全力で走る事なんてできなかった。日が暮れるのと同時に、俺は大の字になって花畑に突っ伏した。

 笑いながら駆け寄ってくる彼女。全然平気、といった具合で俺の方に歩いてきた。

 

『私の勝ち!』

『……なんでそんなに速いんだよ……』

『かけっこ、好きなんだよ』

 

 勝てる自信がもとからあったのか、彼女は当然と言わんばかりの態度だった。

 

『大丈夫? すごく辛そう』

『いや……ちょっと……バテただけ……』

 

 俺はそう喋るのも精一杯で、うつ伏せに倒れていたのをなんとか座り直したものの、また仰向けになって倒れた。

 彼女は微笑んで、俺の隣に座った。俺の顔を覗き込む彼女がなんだか母親のように見えて、ちょっと恥ずかしかった。

 

『私、ずっと友達が欲しかった』

『……うん』

『沢山友達を作って、こうやって追いかけっこがしたかったの』

 

 暗くなりつつある空を見上げて、彼女はそう言った。伸びた彼女の影が、いつのまにか俺の顔を隠していた。

 

『ずっと……』

 

 彼女は彼女で、辛い思いをしていたのだろう。次々と変わる居場所の途中で、彼女は一体何を考えたのだろうか。もしかしたら、それは誰かに自分の名前をバカにされることよりも、もっとずっと――辛い事だったのかもしれない。だって彼女は、自分の名前をバカにされるほど長く一緒に居た人さえ、居なかったのかもしれないから。

 

『だから、あなたは友達一号!』

『……そうだね。僕、友達一号』

『うん。だからあなたの名前、教えて欲しいな』

 

 そう言われて、ドキっとした。自分が追いかけっこに負けたのだということさえ、今の今まで忘れていた。ただ、もしかしたらこの少女になら自分の名前を教えても大丈夫なんじゃないかと、バカにはされないんじゃないかと――そう思った。

 

『絶対に笑ったりするなよ』

『笑わないよ』

『…………椿』

『つばき、くん?』

『高堂、椿。花の名前で、椿って書くんだ』

 

 椿は花の名前で、花の名前は男に付けるものじゃない。そんな事を言われて、もうすっかり嫌になっていたその名前を、もう一度だけ口にした。

 

『つばき、くん』

『うん』

『良い名前だねー……』

 

 何だか幸せそうに、彼女はそう言った。俺の名前が気に入ったのかどうかは分からないけど、幸せに浸っているようで、彼女はどこか惚けているようだった。顔がふにゃふにゃだ。暫くすると彼女は我に返って、言った。

 

『いけない、今日はもう帰らなきゃ。日が暮れたら帰る約束なの』

『うん、分かった』

『また明日、ここで遊ぼうね』

 

 彼女は嬉しそうに、俺に向かってそう言った。自分に遊ぶ相手ができるなんて、なんだか夢のようだったけど――

 

『また明日、ここに来るよ』

 

 そう、言った。

 出会った時に彼女に渡されたスズランの花が、静かにその存在を主張していた。やがて意識がぼんやりとしてきて、そして――気が付くと俺は、戻っていた。

 一体どれだけの時間過去を思い出していたのだろう。仰向けになって倒れている俺の隣で勝林が缶コーヒーを飲んでいた。

 

「おぉ、起きたか」

「……勝林?」

「お前突然倒れるんだもんよ。びっくりしたぞ」

 

 本当に心配していたようで、勝林はいつになく真剣だった。

 

「スズランちゃんが大丈夫だって言うから、何もしないで待ってたけどな」

 

 勝林にそう言われて右を向いたら、彼女がいた。隣で俺の顔を覗き込む姿は、記憶の中の少女とよく似ている。そのまま大人になったかのような――

 

「……俺は、忘れていたのか」

 

 誰に対してという訳ではなく、俺はそう言った。彼女は微笑みを崩さずに、横になっている俺を見下ろした。今思い出した追いかけっこの記憶とだぶって見えた。

 一日泣き明かして、忘れた筈の自分の名前。でも記憶の中の自分は、どこか自分の名前を好きになれそうな、そんな予感がしていた。現実と思い出した記憶が一致せずに、俺は混乱していた。

 

「お前は、これを思い出させるために……俺をここに、連れてきたのか……?」

 

 何も言わずに、彼女は微笑んでいた。まるで全て分かっている、と言っているかのように。

 

「何か、思い出したのか?」

 

 勝林はよく分かっていないようで、俺に対してそう聞いた。現状に付いて行けず、困っているようだった。

 

「……あぁ。何かとんでもない事を忘れているような――そんな気がする」

「思い出したんだろ?」

「まだ、足りないんだ」

「……そうか」

 

 勝林はそれ以上、何も言わなかった。俺の表情が真剣だったから、察したのだろう。ただ、俺の頭が整理されるのを待ってくれているようだった。

 

「友達が欲しいから、学校に来たのか」

「……うん。ごめんね、悪いことだとは思わなかったの」

「いや、そんな事はないけど――だったらお前、どうして――」

 

 どうして今まで居なかったのか。過去の記憶の中で遊んでいた筈の、お前は今までどこに行っていたのか。その疑問は、口に出す事は無かった。

 俺はまだ全てを思い出していなかったから。彼女との全てを思い出すまで、この疑問は胸の内にしまっておこうと思った。

 

「……帰ろうか」

「いいのか? 高堂」

「今日は、もういいかな」

「……そうか。お前の記憶、戻るといいな」

 

 今までの俺の言葉から状況を汲み取ったのか、勝林はそう言った。記憶の中では沈んだ太陽だけが、変わらずに地平線の少し上で光っていた。

 その日から、彼女は暫く母親のいない我が家に住む事になった。結局どこから来たのかは分からないままだったけれど、俺が記憶を思い出せば解決することなのかもしれない。そう信じて、俺が記憶を取り戻すまでは彼女は俺の傍にいることになった。

 

「つばきくん、朝御飯できたよ」

 

 彼女があの花畑で彼女自身の「願い」を叶えようとしている事は、学校に来た事と花畑の記憶で分かっていた。でも、俺が思い出したのはそこまでだ。おそらくまだ続きがあるであろう俺の記憶の中で、一体彼女がどれだけの「願い」を持っていたのかはまだ分からない。

 

「……せっかくの休日なのにな」

 

 せっかくの休日なのに、その彼女の「願い」とやらを叶えないという選択肢はないだろう。彼女が自分の願いを叶えようとする事で俺の記憶も戻るかもしれないし。

 

「なぁ」

「何?」

「何かしたいことないのか?」

「え? 何で?」

「今日、学校休みだからさ」

「椿君、暇なの?」

「暇っていうか……何かしたいことがあるんだったら、それを積極的に叶えようっていう心構えっていうか」

「私のしたいこと、していいの?」

「まぁ……できる範囲なら」

「本当? やった!」

 

 それを言うと彼女はとても嬉しそうにして、ふやけた顔で何かを呟きながら揺れていた。頭の中で今日一日のプランを立てているようだった。それをのんびりと眺めていると、急にふやけた顔が元に戻って彼女が言った。

 

「でも、どうしてそんな事してくれるの?」

 

 確かに、ただ彼女の願いを叶えよう、というだけだったら疑問に持つのも無理はないだろう。でも、俺には俺なりのメリットがある訳だ。

 

「この前はお前が学校に来たから、結果的に俺が昔の記憶を取り戻したんじゃないか」

「うん」

「だから、お前の願いを叶えることで記憶がまた戻るかもしれない、なんて思ってるんだよ」

「なるほどー……」

 

 彼女は大げさにうんうん、と頷いて、ふと何かに気付いたかのように顔を上げた。

 

「じゃあ私の願いを叶えるのはついでってこと?」

 

 いや、別にそんなつもりでは無かったのだが。言い換えると確かにそう取られても仕方無いかもしれない。

 

「まぁ、それはいいじゃないか」

「えー……うー、何か騙されてる気がするよ」

「気のせいだ」

 

 彼女は暫くごねていたが、自分のやりたい事ができるということには変わりないということに気付いたのか、「まぁいいや」と言って再び考え始めた。よくふやける顔だな。なんかおばあちゃんみたいだぞ。

 

「じゃあね、どこか遠くに行きたいな」

「遠く?」

「椿君と。どこでもいいから」

「どこか遠くねぇ……あの花畑よりは遠いんだよな?」

「当たり前だよっ!」

 

 どこか遠くと言っても、適当にどこかに行くのでは記憶と繋がりそうにない。一体どうしたものか……と考えていたら、丁度その時に電話がかかってきた。

 廊下に出て電話を取ると、その声の主は勝林だった。

 

「もしもし」

「もしもーっし! 正人君だよっ」

「何だお前か。切るぞ」

「あーっ! ちょっと待て! 早まるなっ」

 

 いつも通りの大げさなリアクションで返す勝林。声の主はやっぱり勝林だ、と当たり前の事を納得して勝林に用件を聞く。

 

「それで、どうしたんだよ」

「あぁ、そうそう。お前のアメリカンジョークで忘れるところだったよ」

「一体今のやり取りのどこらへんにアメリカンな要素があったのか教えてくれないか」

「ふっふーん、聞いて驚くなよ」

「なんだよ」

 

 全く会話が成立していないが、これも電話ではいつものことだ。相手の姿が見えないからか、勝林は電話になると調子に乗る癖がある。

 

「実は俺、すみれ先輩を遊園地に誘っちゃったんだーっ」

「全然アメリカンじゃなかったな」

「アメリカンアメリカンとうるさい奴だな! 人の話を聞けよ!」

「お前が最初に言ったんだろ」

「案外彼女ノリが良くてさ、12時間くらいでOKしてくれたよ」

「……まさかお前その間ずっとメールしてたんじゃないだろうな」

「気のせいだって。それで、入場チケット四枚取ったからさぁ」

「行かない」

「ちょっと待てよ! 最後まで人の話を聞けって!」

 

 思わず反射的に行かないと答えていたが、ひょっとしてこれはチャンスかもしれない、と俺は思った。遊園地なら、きっと彼女も喜んでくれるだろう。つまり、どこか遠くへ行きたいという彼女の願いが叶えられるじゃないか、という事だ。俺自身には別に何も無いけど。

 

「彼女を連れて行けばいいのか?」

「そうだよん、物分りがいいねえ高堂君」

「……行く保証はしないぞ」

「そう言っていつも来てくれるもんね、高堂君は」

「さあな」

「ところでさ、高堂」

 

 急に勝林が真面目になって俺に質問した。いつもの事だけど、テンションの切り替えが早い奴だ。

 

「記憶、戻りそうか?」

「……わかんねえ。実際のところ、記憶なのかどうかも分からないしな」

 

 この前花畑で思い出した記憶は、過去に覚えている自分の記憶とも、現在生きている自分自身とも一致しないからだ。何かの間違いなんじゃないかとさえ思うくらいに。

 

「俺には何もわかんないけどさ。これで高堂がちょっと変わってくれたらいいな、って思うよ」

「それ、どういう意味だよ」

「それじゃあ、昼の一時に現地で待ってるからな! バイビー」

 

 電話は一方的に切れた。気が付けば、勝林のテンションに乗せられていたみたいだ。

 

「あ、おかえりー。随分長い電話だったね」

「さっきの話なんだけど」

「うん?」

「遊園地でもいいか?」

「遊園地!? あのくまさんとか、うさぎさんとか、戦隊ヒーローのいる、あの!?」

「いや、その発言はどうかと……」

 

 思ったよりすごい反応だった。

 

「それで、行くのか?」

「行く!」

「分かった……」

 

 それから昼過ぎに家を出て、電車に少し揺られて約束の遊園地へと向かう。遠いと言うほど遠くはなかったけど、彼女は嬉しそうだったから多分良いのだろう。

 暖かい休日だからか、遊園地は沢山の人で賑わっていた。遊園地の入り口近くにいる勝林を発見するのに結構な時間がかかったくらいに。

 

「おはよう高堂。スズランちゃんも」

「よう。すみれ先輩はまだ来てないのか?」

「うん、もうすぐ来る筈だけど」

 

 噂をすれば、すみれ先輩も時間ぴったりに現れた。少し青みがかった色の髪は後ろで一つにまとめられ、涼しそうな柄物のワンピースにカーディガンを羽織っている。どこか大人っぽいイメージを感じさせる人だった。

 

「こんにちは。皆早いのね」

「先輩、紹介するよ。高堂とその彼女」

 

 妙な紹介をされて、彼女の顔が赤く染まる。別に悪い気はしないが、こうやってセットで紹介されるのも少し心外だ。というか別に俺の彼女じゃない。だけど、だからといって訂正するのも場合によっては彼女に悪い……いや、何を考えてるんだ。なんて考えていたら、先にすみれ先輩が挨拶してきた。

 

「初めまして。七夕すみれ(たなばた すみれ)っていうの。宜しくね」

「あ、初めまして。高堂って言います」

 

 穏やかな笑みを浮かべて、すみれ先輩が彼女の方を向く。さっきの勝林の紹介が効いているのか、彼女はまだ顔を上げようとしなかった。

 

「初めまして。あなたは?」

「あ……えっと、鈴蘭、です」

 

 彼女の名前は未だに思い出せないみたいだ。まぁ考えてみればあれから進展もないので当たり前といえばそうだが。

 だが、すみれ先輩もどうにもしっくりこないようだ。

 

「スズランちゃん?」

「はい」

 

 今更ながら、もっと自然な名前を思い付けば良かったと後悔する。

 すみれ先輩は顔を上げた彼女を見るなり、はっと息を飲んで驚きの表情を浮かべた。

 

「どうかしたんですか?」

 

 暫くすみれ先輩は彼女を見ていたが、やがて表情を元の穏やかな笑顔に戻した。

 

「いいえ、なんでもないの」

 

 疑問は消えないようで、戻した筈の表情からどこか意味深な雰囲気が感じられたけど。すみれ先輩は何も聞かなかった。

 その日は勝林を先頭にして歩き周り、色々楽しんで、終始飽きる事は無かった。特に彼女は遊園地は初めてだと言って、とてもはしゃいでいた。ジェットコースターに乗って、バンジーをやって、絶叫系ばかりの勝林のチョイスに少し気分を悪くしながらも、次第に時間は無くなっていった。

 

「じゃあ、あの観覧車で最後にしようぜ」

 

 そう勝林が口にして、今日の遊園地もいよいよ閉幕を迎えようとしていた。

 遊びきって、気が付けば高揚した気持ちも一周して疲れが見え始めていた。こういうイベントが好きな勝林はその「満足感」を消さずに終える事を忘れない。まだ日も出ていたが、そろそろ解散時だろう。

 

「四人居るから、二人ずつに別れよう。俺は先輩と二人で乗りたいから、お前らは仲良く乗って来いよ」

 

 気を使ってか、はたまたからかってか、勝林はそう言った。異論も無く、俺と彼女が二人で乗る事になった。順番が近付いて来て、先頭の俺と彼女が観覧車に乗る手前、すみれ先輩が彼女に向かって呟いた。

 

「ねぇ、あなた」

「はい?」

「あなたは、やっぱり――」

 

 高揚した気持ちが抜けないまま、満面の笑顔で彼女は振り返った。するとすみれ先輩は、暫く硬直したまま――やがてため息を一つつくと、

 

「いいえ。何でもないわ」

 

 そう言って、それ以上何も聞かなかった。一体何を言おうとしたのだろう、と思ったが、順番が回ってきたので止まっている事もできなかった。

 観覧車に乗ると、次第に小さくなっていく風景。その圧倒的な迫力に、彼女はとても喜んでいた。

 

「すごいすごい、こんなに高く上がるんだ!」

「観覧車だからね」

 

 子供のようにはしゃぐ彼女に少し苦笑いをしつつ、俺も外を見た。勝林の突然の誘いだったけど、意外と楽しめたな――と心の中では思っていたけれど、俺は彼女のように気持ちをありのままに表す事ができなくなっていた。

 

「今日は楽しめた?」

 

 彼女から肯定の言葉が返ってくるのは分かっていたけれど、何だかそう聞きたくなった。彼女は俺の予想通りに満面の笑みで振り返った。

 

「うん、とても楽しかったよ」

「そうだな。予想外の誘いだったけど、来て良かったよな」

「うん!」

 

 彼女は再び外を眺めだした。観覧車が一番高く上がる頃、彼女がふと呟いた。

 

「本当に高く上がるんだね、観覧車」

「ああ、そうだな」

「このままずっと、遠くまで。行けたら、いいのに」

 

 その言葉には重みが感じられた。今までの彼女とは違う態度だったので、少し驚いた。

 

「疲れた?」

「ううん? そうでもないよ」

「そうか、ならいいんだけど――」

 

 彼女は振り返って、俺の目を見つめる。突然どうしたんだろう、と思っていたら、彼女は少し間を空けて、その口を開いた。

 

「椿君」

「何?」

「ううん。今日は一度も遊園地で名前を呼んでないな、と思って」

 

 まぁ確かに、彼女には俺を名前で呼ぶなと言ってあるのだから、それはそうだろう。でもそれを確認したら、急に彼女の周りを包む雰囲気が暗いものになっていった。

 一体何があったというのだろう。俺はただ、戸惑う事しかできなかった。

 

「ねぇ、椿君。どうして、誰かが居る時は椿君って呼んだらいけないの?」

「それは――」

 

 自分の名前が嫌いだから。……あるいは、嫌いだったから。いつの間にか自分の中での暗黙の了解になってしまっているその言葉をもう一度彼女に言おうとした時、先に彼女は口を開いた。

 

「どうして、私は私の名前を覚えていないんだろう」

 

 今度は、自分自身に対する問いかけだった。俺は訳が分からず、ただ呆然としていたが――耐えかねたのか、彼女は突然泣き出してしまった。

 

「分かってるけど、どうしてだろ。私は、誰なんだろう」

「……泣くなよ。急に一体どうしたんだよ」

「私はずっと、椿君を待ってたのに。椿君を待っていた私は一体誰なんだろう。教えて、椿君。私の名前、呼んでよ」

 

 彼女の名前はまだ思い出せない。彼女が自分の名前を覚えていない事を悲しく思っているのはなんとなく分かっていたが、まさかこんなに思い詰めているとは思わなかった。いや、そもそもどうして彼女は自分の名前を覚えていないんだろう。

 

「泣くなよ。ごめんな、名前はまだ思い出せなくて……絶対、思い出すからさ」

「ううん。違うの、そういう意味じゃないの」

 

 彼女自身が混乱してきているのか、それ以上言葉は出なかった。彼女は俺にしがみつくように泣いていた。ずっとそのままで、観覧車が終わる頃、彼女はぽつりと言った。

 

「ごめんなさい」

 

 ドアが開くなり、どこかに駆け出して行く彼女。どうする事も出来ないまま、俺は観覧車を降りて立ち尽くしていた。一体どうして泣き出したのか。ただそれを考えていたら、ある条件が俺の中に浮かんできた。

 

「……そうだ、名前だ」

 

 彼女の名前に関わる話題が出た時。それから、俺が自分の名前を嫌いだと言った時。彼女は悲しそうな表情をしていたこと。何も言わなかったし、一瞬しか辛そうな素振りも見せなかったから、気に留めていなかったけれど――彼女は名前が絡むと悲しそうな顔をする。

 でも、どうして急に気持ちが爆発したのか。観覧車での会話を頭の中で繰り返していたら、自然と口にしていた。

 

「このままずっと、遠くまで行けたら――」

 

 直感的に聞いた事がある、と思った。どうしてかは分からないけど、昔彼女から同じ言葉を聞いた気がする。いつだっただろう。思い出せない消えた記憶の欠片を引っ張り出すように、俺は彼女のことを考えていた。

 すると、やがて前に聞いたことのあるメロディーが頭の中を流れ出した。思い出せる、思い出したい。教えて欲しい――そう願うと、また花畑が視界いっぱいに広がった。


 
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