こんな雨の日
俺は参っていた。
「………まいったなぁ」
それに気づいたのは、本日最後の授業を終えて大学の講義棟を出ようとした時だった。
今日は金曜日。ようやく1週間が終わったと周りで騒ぐ学生の群れを避けながら教室を出て、棟の入口へと向かう。
「どうしたものか………」
俺と反対向きに動く学生たちは、おそらく部活かサークルにでも行くのだろう。俺も部活に入らされてはいるが(×入っている)、確か今日は霞のいる薙刀部の部活の日だ。そうそう、4月から同じ大学に入った愛紗も入部し、霞といい勝負を繰り広げている。特訓と称して2対1でかかってこられた時にはつい本気を出してしまったが、その話はまた今度にしよう。
「外れてるじゃねぇか」
そう。はずれたのだ。朝のニュースでは今日は降らないと予報が出ていた筈が、外では土砂降りの雨。要するに――――――
「傘がない」
――――――どうやって帰ろうか。
5限まで授業だった俺と違って3限までだった恋は、バイトへと向かった。学年も変わって授業数に余裕が生まれた為、幼稚園まで璃々ちゃんを迎えに行き、それから紫苑さんが帰るまで璃々ちゃんの面倒を見ている。
「さすがに呼び出す訳にもいかないし………」
連絡すれば迎えに来てくれるだろうが、この雨のなかを璃々ちゃんに歩かせる訳にはいかない。なんだかんだ言って彼女の仕事だし。
購買は5限の途中でしまり、傘は買えない。コンビニは若干距離があるし、この雨のなかを走りたくない。
「仕方がないか」
雨が止むかどうかはわからないが、俺は大学附属の図書館へと向かった。
こんな日もあるさ。
※
まだ授業の課題が出されているわけでもないので、いますぐ読まなければならない本もない。俺は適当に小説の棚をうろつきながらタイトルに目を通していく。さすが大学の図書館だ。歴史の浅いアメリカ文学だけでも数えきれないほどおいてある。
適当に上下巻の文庫本を手に取って踵を返したところで、ひとつの影が目に入った。その影は図書館であるにも関わらず、ぴょんぴょんと跳ねている。身長は俺よりだいぶ低い。見た感じ本棚の上の方の書をとろうとしているようだ。
「………とりあえず助けるか」
誰にかけるともなく呟くと、俺はその小さな影の方へと向かった。
「どれだ?」
「へっ!?あ、あの………」
やっぱりいきなり声をかけるのは拙かったか。少し気まずい雰囲気になったが、ここで引くわけにもいかない。俺はいまだ上へと手を伸ばしたままの人物に再度口を開く。
「本、とれないんだろ?とってやるよ、どれだ?」
「その……1番上の列の、右端の2冊です」
「了解」
言葉通りに右腕を上げて2冊を取ると、俺はそのままその子に手渡した。そこでようやく、俺はその、この場で見るにはおかしいと思える格好に目がいった。
その人物―――少女は、紺に近い黒のミニスカートに白いシャツを着て、その上にクリーム色の長袖のサマーセーターを着ていた。サイズが合っていないのか、袖がだいぶ余っている。
要するに、ぱっと見た感じ、女子高生のようだった。
「あの、その……」
「ん?」
ジロジロ見すぎたかもしれない。少し失礼だったかな。オドオドと何かを言おうと口籠る少女の顔に視線を戻すと、セーターの余った袖で隠しきれていない顔は真っ赤に染まっている。
「あ、ありがとうございましたっ!」
図書館で大きい声は出さないように。そんなどうでもいい事が浮かぶ間もなく、本を抱えたまま走り去って行った。
「………図書館で走ってはいけません」
本を抱えた両手で顔を隠したまま走るその背を見送りながら、俺は呟いた。
『間もなく、閉館の時刻となります――――――』
館内放送が聞こえてきた。壁にかかっている時計を見上げれば、短針は9を指そうとしている。
「もうそんな時間か………」
読んでいた本をパタンと閉じた。下巻までは読み進めたが、いい場面で帰宅を促される。周囲を見渡せば、10人にも満たない生徒が各々帰り支度をしていた。
「………俺も帰るかな」
机に置いてあった上下巻の片割れを手に取ると鞄を持ち、俺は立ち上がった。
※
階段を降りて図書館の出口をくぐる。外は真っ暗だが、自動ドアをくぐれば相変わらず水滴が地面や屋根を打つ連続音が聞こえていた。
「………結局止まず仕舞いか」
どうやって帰ろうか。そんな事を考えながら、入り口に立ち止まったまま俺は空を見上げた。
図書館に残っていた生徒たちが次々と出てきて傘を広げる様子を見ながら知り合いを探すも、どうやら俺のまわりの人間はそれほどやる気もないようだ。いや、俺も勉強をしていた訳ではないが。
そんな事を考えながら再び空を見上げる。真っ暗な空の下には、講義棟の非常灯の薄暗い光がある。と、そんな時――――――。
「あれ…さっきの………」
どこかで聞いた声。だが、記憶を探っても俺の知り合いの中にはいない。俺の事ではないだろうと空から視線を外さずにいると、視界の下に茶色い頭が入り込んだ。
「………ん?」
視線を下げれば、その人物と目が合う。茶色いロングの髪は後頭部よりやや下でくるりとまとめられ、この季節でも暑くはなさそうだ。髪と同様に茶色がかった瞳は、視力が悪いのか、あるいはファッションか、右眼だけ眼鏡をかけている。モノクルとか言ったっけ。
「あの……」
そして、その服装を見てようやく思い出す。先ほど本を取ってあげた少女だった。
「さっきの………」
「はい。その、先ほどはありがとうございました」
「いやいや、気にしなくていいさ」
「そうですか……」
セリフを間違っただろうか。俺の言葉に少女は少し俯く。先ほどの様に顔を真っ赤にする事はないが、どうにも緊張しているようだった。
「――――――あの、帰らないのですか?」
「傘を忘れちゃってね。どうしようか考えているところだ」
少しの沈黙が続いた後、少女が話しかけてきた。そういえばこの娘も帰らないのだろうか。俺の返答に少し俯いたかと思うと、彼女はばっと顔を上げて口を開いた。
「よかったら……よかったら一緒に帰りませんか?」
「………………………へ?」
どうしてこうなった………。
俺はいま、今日出会ったばかりの少女と一緒に雨のなかを歩いている。傘はもちろんひとつ。要するにだ、いわゆる相合傘状態となっていた。俺の方が背も高いので、傘は俺が持っている。少し左に寄せ気味で支えている為、右肩が冷たい。
「………………」
そして俺の左隣にいる少女はと言えば、自分で言い出した癖に緊張しているのか、俯いたまま何も喋らない。どうにかしないと………。
「あー…君って学部はどこ?」
苦し紛れに出てきた言葉は、何とも言えない質問だった。仕方がないだろう。何かしら共通の話題でなければ、会話を続けられる気がしない。だが、少女の口から出てきたのは予想外の返事だった。
「学部…ですか?」
「えぇと………学部」
俺の問いに質問で返す。言葉の意味は理解しているよな。どう返したものかと悩んでいると、今度は彼女の方から声をかけてくる。
「その、私はここの生徒ではないんです」
「そうなのか?」
「はい―――」
少女の口から出てきたのは、確かこの近くの高校の名前だった。
「という事はアレか?君はまだ高校生なんだ?」
「はい」
確かに、彼女の服装は高校の制服と表しても差し支えない。というか制服そのまんまだ。
「なんでまたウチの図書館に?」
「あの、市の図書館は少し遠くて………。ここの方が近いんですよ」
「そうなんだ」
他所はどうか知らないが、この大学の図書館は、身分証さえ提示すれば誰でも利用できる。もちろん貸出に制限はかかるが、館内であれば問題ない。
「えぇと、その……お兄さんは………」
「あぁ。俺は北郷一刀。ここの学生だよ」
いくらか迷って出てきた言葉に、俺は自己紹介した。お兄さんと呼ばれるのは何だか変な気分だったからだ。
雨の降るなか、俺は少女―――亞莎と歩いている。大きい通りからはすでに外れて住宅街を歩いていた。ここからなら俺の家も近いから、走ればそこまで濡れる事もないだろう。
雑談をするうちに、いろいろと彼女の事が聞けた。近所の高校生だという事は最初に聞いたが、読書が好きで、家庭教師をしてもらっている人がここのあの大学の生徒だという事、その先生から図書館を利用できると聞いた事、あの大学が第一志望だという事――――――。
「あの、一刀さんの家はどのあたりなんですか?」
「この辺りだよ。川沿いにアパートがいくつかあるだろう?あのうちのひとつなんだ」
「じゃぁ、ご近所さんですね」
そう言って、にこっと微笑む。気付けば呼称が名になっていた。俺も亞莎と呼び捨てにしているし別段気にはならないが、あまり人見知りしない娘だ。最初の光景が嘘のようだった。
――――――と、T字路に差し掛かったところで、横合いから声がかけられる。
※
「あーっ!一刀お兄ちゃんだぁ!」
幼い子特有の元気な高い声。その方向を向けば、璃々ちゃんが駆け寄ってくるところだった。黄色い雨合羽を被り、足元はピンクの長靴を履いている。
「―――っと、璃々ちゃんじゃないか。こんな所でどうしたんだ?」
バシャバシャと水溜りをものともせずに駆け寄り、抱き着いてくる小さな身体を片手で受け止める。うん、右半身がどんどん冷たくなっていく。久しぶりに会うから興奮しているのか、俺の右脚に抱き着いたまま顔を上げて、答える。
「うん!恋お姉ちゃんが、一刀お兄ちゃんは今日傘を持ってなかったって言ってたから、迎えに来たの」
そこでようやく、璃々ちゃんの後ろからゆっくり歩いてくる存在に気がついた。
「一刀、おむかえ……」
「そっか、ありがとな」
見れば、青い傘をさした恋もいた。さすがに璃々ちゃんひとりで来るわけもないしな。と、恋が俺の隣をじっと見つめている。
「―――あぁ、この娘は亞莎。図書館で知り合ったんだが、途中まで傘を貸してくれる、って言ってくれてな」
「ひぇっ!?あ、あの、その……初めまして………」
突然の振りに、亞莎は袖で顔を隠す。やはり人見知りが激しいようだ。恋はと言えば、じっと亞莎を見つめたかと思うと、ゆっくりと歩を進め、俺の隣に寄り添うように並ぶ。………恋さん、傘から水滴が垂れてます。
俺の手から亞莎の傘を取り、元の所有者に手渡す。そして、亞莎をじっと見つめながら、ゆっくりと口を開いた。
「はじめまして……うちの旦那がお世話になってます………………ニヤリ」
「ふへぇっ!?」
恋が俺の腕を抱きながら、普段なら言わないようなセリフを吐き出す………最後に擬音語をつけながら。全然ニヤリって顔になってないぞ。
だが、亞莎には効果があったらしい。確かに台詞だけ見れば、本妻が旦那にちょっかいを出す新参者に余裕を見せつけている光景が浮かばなくもない。
「あの、その……私は別に不倫なんて………確かに一刀さんはカッコいいですけど…って、そんな事が言いたいわけじゃなくて――――――」
慌てふためく亞莎を他所に、恋が今度は璃々ちゃんに耳打ちをしている。きょとんとした表情の璃々ちゃんだったが、恋の言葉にうん!と元気よく頷くと、俺と亞莎に向き直った。
「はやく帰ってお風呂に入ろーよ!お父さん!」
「ちょ!?」
「お、おとっ―――!?」
いやいやいやいや待て待て待て待て!俺はまだ子どもを作ったりなんかしてないぞ!?
なんとか亞莎を宥めようとする前に、亞莎は少しずつ後ずさっていく。
「一刀さん……一刀さんの………………」
「いや、待て。誤解――――――」
そして。
「一刀さんの、妻帯者ぁぁあああっ!!」
「此処ご近所ぉぉおおおおおっ!!」
壮大な誤解を残したまま、亞莎は走り去っていくのだった。
しばらくの間、その場で亞莎が走り去った方角を見ていたが、裾を引っ張る手に気づく。
「一刀お兄ちゃん、帰ろ?」
「………そうだな」
見れば、璃々ちゃんが俺を見上げていた。確かに少々遅い時間帯だ。早く帰らせてあげないといけない。俺は恋が持っていた男物の傘を受け取ると、それを広げた。
※
三人で手を繋ぎながら帰る。俺と恋の手が濡れてしまうが、寒いわけではないから大した問題ではない。
「………ところで恋。さっきはなんであんな事言ったんだ?」
「………あんなこと?」
「『旦那』とか」
「あれは……雪蓮に教えてもらった」
「は?」
何故ここで雪蓮が出てくる。
「一刀が、知らない女の子と一緒にいたら、あぁ言えばいい、って雪蓮が言ってた」
「………あのアマ」
よし、今度盛大にお仕置きをしてやろう。相変わらず変な事を吹き込みやがって。………って、待てよ?
「じゃぁ、璃々ちゃんの『お父さん』ってのは?」
「お母さんが言ってた!」
次の問いに、今度は璃々ちゃんが応える。
「紫苑さんが?」
「うん!一刀お兄ちゃんが、知らない女の人と一緒にいたら、『お父さん』って呼んでみなさい、だってさ」
「………あのおばさ―――お姉さんめ!」
理由も分からず寒気を感じた俺は、なんとなく文末を変える。
「あー……2人とも」
「………?」
「なぁに?」
無垢な2対の視線が俺を打つ。
「………今度から、それは禁止な?」
「なんで?」
「………どうして?」
「なんでもだ!」
雨の所為以上に疲れた俺は、恋と共に璃々ちゃんを送っていくのだった。
おまけ
そして―――。
「お、亞莎じゃないか。勉強熱心だな」
「一刀さん!?………あの、お子さんはお元気ですか?」
「………………」
誤解を解くまでの数日間、こんな質問をされ続けるのだった。
あとがき
というわけで、亞莎の登場でした。
相合傘してーよぅ。
制服にお団子頭って最高だと思うのは一郎太だけではないはずだ。
そして日に日に恋ちゃんが黒くなっていくのが悲しい………orz
こんな感じでまた次回お会いしましょう。
バイバイ。
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季節もの。
梅雨なんてさっさと終わってしまえ。
ではどぞ。