朝食を済ませた後、蓮華は自室に籠もってぼんやりと過ごしていた。手には、昨夜書いた紹介状がある。
「はあ……」
深く溜息を漏らし、蓮華は紹介状を何度も読み返した。特別な内容が書かれているわけではない。ただ、何となく手放し難い気持ちになっていたのだ。
(これを渡してしまえば、もう、関係なくなってしまうのね)
北郷一刀の顔を思い浮かべ、再び溜息を吐く。どうしてこんな気持ちになるのか、蓮華にもわからない。会っていた時は平気だったのに、帰る姿を見たとたん、心が揺らいだのだ。
(天の御遣い……姉様の手紙にも、時々、その名前が出てきた)
黄巾の戦いでの一刀の様子は、雪蓮からの手紙で知っていた。
(あの姉様が褒めるほどの強さを持つ人……そして)
街の噂に聞く、曹操救出の武勇。それ以前だって、洛陽での噂は聞いていた。あの時、まだ見ぬ姿を思って胸をときめかせていたのだ。
(ちょっと軽い感じはしたけれど、仲間を思う優しさもあったわ。誰にでも分け隔てなく接する、器の大きさもある)
蓮華は、自分が一刀を意識していることを自覚していた。だがその気持ちが、どんなものなのかはまだ定まっていない。良い噂ばかりが耳に飛び込むから、少し特別に見えてしまうのかも知れない。
(王者たるもの、冷静に物事を見なければいけないわ。人の本質を見抜く力も必要なはず。姉様がいない今、私がもっとしっかりしなくちゃ)
迷いを払うように、蓮華は紹介状を机に置いた。今は他に、やらなければならない事がある。私情は捨てなければいけない――そう自分に言い聞かせ、蓮華は仕事に取りかかろうと筆を取った。その時である。
「蓮華様、周瑜殿より使者が来ております」
戸の外から思春の声が、そう伝えて来た。
出発の準備をしていた一刀たちの元に、孫権から使いの者がやって来た。紹介状をわざわざ持ってきてくれたのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。
「お急ぎ、お越しいただきたいとのお言葉です」
それだけ伝えると、使者は帰って行った。仕方なく、一刀と稟の二人は出発の準備を霞たちに任せて、孫権の屋敷へと急いだのである。
到着すると昨日と同じ客間に通され、すぐに孫権が姿を見せた。
「呼び立ててごめんなさい。内密に伝えたいことがあったの」
「構いませんが、何かあったのですか?」
「状況が変わってしまって、紹介状を渡せなくなったわ」
「えっ?」
思わず、一刀と稟は顔を見合わせる。
「あの、どうしてですか?」
「実はつい先程、連絡があったの。寿春の門が閉ざされ、通行禁止になったそうよ。今は誰も、あの街に入ることも出ることも出来ない」
「そんな……どうしてですか?」
「何者かによって、袁術が誘拐されたらしいわ。その責任を問われ、張勲は謹慎。現在は、偶然に街の中にいた雷薄が兵をまとめて犯人の捜索をしているようよ」
あまりの事態に、一刀も稟も言葉がなかった。やって来る時に通った時は、いたって平和だったのに。
「でもそれじゃ、なおさら風が心配です。俺たちは、すぐに寿春に向かいます」
稟も頷いて、二人は部屋を出て行こうとする。だが、孫権がそんな二人を呼び止めた。
「待って、まだ続きがあるの。ここからがきっと、あなたたちには重要なはずよ」
その言葉に、はやる気持ちを抑えて二人は再び椅子に腰掛けた。
「落ち着いて聞いてちょうだい。程昱は袁術誘拐を手引きした疑いで、その首に賞金が掛けられ手配されているの」
思わず、稟は立ち上がっていた。
「風に限って、そのようなことをするはずはありません!」
「稟!」
落ち着かせるように、一刀は稟の腕を掴んだ。稟は強く拳を握って、ゆっくりと腰をおろす。
「私だって人を見る目はあるつもりよ。程昱と顔を合わせたのは一度きりだけれど、信頼できると思ったからこそ、姉様に口添えしてくれるよう頼んだのだもの。それに今回の件を知らせてくれた軍師の周瑜も、程昱が手引きしたとは考えられないと書いていたわ」
「周瑜さんは、寿春に?」
「ええ。けれど袁術が誘拐された直後くらいに、程昱も姿を消しているの。犯人でないにせよ、事件について何か知っている可能性はあるわ」
「風……」
項垂れる稟を、一刀は心配そうに見つめる。どうすればいいのか、風の身を案じればじっとなどしてはいられない。稟の気持ちが痛いほどわかった一刀は、決意する。
「寿春に行こう、稟」
「危険よ! 今は近づかない方がいいわ」
孫権が一刀の言葉に、強く反対した。
「でも、じっとしてられない!」
「あなたたちの気持ちはわかるわ。でももう少し、待ってちょうだい。程昱の行方は、私たちの方でも捜してみるから」
「孫権さん……心配してくれて、ありがとうございます。けれどやっぱり、俺たちは行きます」
困ったように溜息を漏らす孫権は、少し考え、意を決したように一刀に言う。
「本当は秘密なのだけれど、あなたはまったく無関係というわけじゃないし、話しておくわ。明命を知っているでしょ? あなたが洛陽で、姉様の事を忠告してくれたと聞いているわ」
「明命――そうか、孫策さん事……。もしかして!?」
「ええ。本当に襲われたの。亡くなってはいないけれど、あの事件の後、姿を消してしまったのよ」
悲痛な表情で、孫権は自分が知る一部始終を一刀たちに話して聞かせた。
「そういうことだったのか」
「これは一部の者しか知らない事よ。表向きはあくまでも、病ということになっているわ」
一呼吸置き、孫権は話を続ける。
「姉様の暗殺事件、そして袁術誘拐。これほど大きな事件が短期間に続けて起きる、周瑜は不自然と断定するほどではないけれど、何だか小さな違和感があると手紙に書いていたわ」
「まさか、二つの事件が関係あると?」
「そこまでは思わないけれど、不自然と言われればそんな気もするの」
すると、それまで黙っていた稟が口を開く。
「確かに、邪魔者を排除しているようにも思えますね」
「邪魔者って……誰が、そんな事を?」
稟の言葉に、一刀が首を傾げて訊ねた。
「普通ならば他の勢力でしょうが、現在、有力な勢力といえば華琳様くらいですからね。さすがにそれは、ないでしょうが……」
「まあ、そうだな」
それを聞きながら、ふと、呟くように孫権が言う。
「もしかすると、豪族の誰かなのかも知れない……」
「内輪もめって事? うーん」
一刀の知る君主は月や華琳くらいなので、自分の主人を裏切ってその座に着くという発想が、どうにも腑に落ちなかった。
「袁術の領内は、必ずしも一枚岩ではないの。一応、外からはまとまって見えるかも知れないけれど、中は個々の事情と打算で繋がっているだけ。実際、私たちも反乱を考えているくらいだしね」
「複雑なんだな」
「ええ。ともかく、何日もとは言わない。せめてあと2日でいいから、寿春に行くのは待っていて。私の方でも、もう少し情報を集めてみるわ」
「……わかった」
孫権の必死さに一刀は待機することを決め、稟もまた同意するように頷いた。だが、風の居場所がわかれば、すぐにでも飛んでいく決意は変わらない。今はただ、無事でいてくれることを祈るしかなかった。
薄暗い地下室のベッドに、両手足を拘束された雪蓮の姿があった。雪蓮は苦しそうに呻きながら、身動きの取れない体をよじって暴れている。
「う、腕を、抑えるんだ」
白衣姿の痩せこけた老人が、仮面の男――是空に言う。言われるままに、暴れる雪蓮の腕を押さえた是空の横で、白衣の老人が注射器を取り出した。
「ち、鎮静剤だ。す、少しは、お、おとなしくなる」
「……」
老人は、押さえつけられて動けない雪蓮の腕に、注射の針を刺して薬剤を流し込んだ。すると、あれほど暴れていた雪蓮の様子が落ち着き、静かな寝息をたてはじめた。
「こ、これでいい」
「助かった……」
「な、なあに、雷薄様の命令だからな」
そう言うと老人は、鞄を持って地下室を出た。是空はそれを見送らず、ただ、雪蓮を見つめている。
「や、やれやれ。ず、ずいぶんとご執心だな」
老人は呟き、歯の抜けた口でニッと笑った。
(注射の中身を知ったら、どう思うかね? 雷薄様から言われているのは、あの女の意志を奪うこと。薬で正気を失わせることさ。儂も新しい薬の人体実験が出来て、金ももらえるから一石二鳥だよ)
笑い声が出るのを堪えながら、老人は自分に与えられた部屋に戻って行く。
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恋姫の世界観をファンタジー風にしました。
楽しんでもらえれば、幸いです。