<1>
そこには二種の絶景が同時に存在していた。
西には、青々とした草が美しく萌え茂る草原が広がっていた。そして、その先にあるのは、太陽の光を浴びた木々は実る黄金色の果実によって神々しい輝きを放ち、その甘い香りに誘われ、七色の羽を持つ小鳥が集い上品な声で囀る森林。
これを左手に臨む小道を挟み、東の崖の向こうに存在するのは、 落ち口から滝壺まで一気に落下する瀑布。清水の幕は幾重にも織り成す虹に彩られ、滝壺よりあがる轟音は豪快にして静穏の極み。
これら二つの情景を縦断する小道の両脇には様々な彩色から成る草花が咲き、穏やかな風に揺られ、さやさやと静かな音を奏でていた。
その多彩なる小道の先には、木造の小屋があった。
建てられてから幾月も経ってはいないであろうそれに設けられた一室。部屋には特別あつらえの寝台が備えられており、これは小屋の主がそれを必要としていたが為に与えられたもの。
寝台に腰をかけているのは一人の女。その腹にはしかと子種が宿り、誰の目にもそれと分かるほどに迫り出していた。
頃は黄昏。寝室の窓より傾きかけた陽の光が差し込み、俯いた姿勢のまま、ただ只管に沈黙を続ける女の姿を静かに照らし出した。
褐色の肌を持つ女であった。
銀色に輝く長い髪は、一切の手入れをされた様子はなく無造作に荒れ、項垂れた彼女の額や目を覆い隠す。無論、その表情を視認することは出来ない。
彼女の足許の床には、難解な理論や数式の数々を記した書物が乱雑に重ねられ、または読み捨てられ、打ち遣られていた。
室内の様相たるや、女の荒れた心情を象徴しているかのよう。
その時、何かが輝きを放った。女の前髪、その隙間より発したかと思うと、それは頬を伝い、やがて顎の先より零れ落ちた。
黄昏の陽光に反射する一筋の涙であった。
表情を変えず、静かに涙する女──彼女の名はカレン。
神聖ソレイア公国の君主ソレイア直属の部下にして、国内最高位の錬金術師である。
「兄様……」
その口より掠れた声が発せられた。口惜しげな呟きであった。
主君ソレイアより暇を与えられ、公国の西に聳える高山──霊峰と称される山の中腹に建てられたこの小屋の中で静養していた彼女は半月程前、悲報に接した。
それは、最愛の兄ヴェクターが戦死したとの報であった。
敵は西の公国を打倒すべく、東の王都騎士団より送られた一師団。その進軍を阻止する為の戦いであったという。
その戦の中で、兄は壮絶な死を遂げた。
「ああ……我が子よ。貴方に父様の顔を見せてやれない事を許しておくれ」
カレンは迫り出た腹をさすり、胎内に宿る子に声をかけた。
「兄様……貴方の忘れ形見は、この私が必ず無事に産んでみせます」
呟き、天を仰ぐ。「……もう、失敗は許されないのですから」
カレンの胎内に宿っているのは、彼女の実兄であるヴェクターとの間に出来た子。無論、不義の子である。
他の土地ならいざ知らず、この大陸において、このような血縁者同士の縁組は法で禁じられていると同時に、最大級の宗教的禁忌として扱われ、到底容認出来ぬもの。
その根拠は、これらの縁組によって出来た子供には死産や乳児期死亡、先天的奇形、知的障害などといった、様々な障害が発現する確率が高くなるとも言われており、それ故に神より授かる神聖なる生命を濫りに歪める悪行であると説いているからである。
事実、カレンが実兄たるヴェクターの子を宿したのは、過去に三度あり、これらは全て死産という結果に終わっている。
だが、その因果関係や明確な論拠は示されてはいない。無論、解決法など解明されてはいない。
──故に、解明させねばならぬ。
それこそが、カレンを錬金術の道へ歩ませた唯一の動機にして、生涯の研究課題であった。
全ては最愛の兄ヴェクターに対する、純粋にして歪みきった思いゆえ。
その執念──或いは妄執、はたまた邪執と称すべき感情に支配された彼女は、長きに亘る研究や考察の末、ある一つの活路を見出した。
それが、この霊峰にある。
霊峰とは、その山頂には聖獣グリフォンの魂が宿り、祀られている聖域。
西の高山地帯の中でも最高峰と称される山。本来の自然の法則に従うのであれば、これらの標高にある山々は、その悉くにおいて冠雪し、寒風吹き荒ぶ冬の嵐であり、外の──まるで神の御園かと錯覚してしまうような穏やかな光景など有り得ぬ。
それこそが、この霊峰に聖獣グリフォンの魂の存在を裏付ける確固たる証。
霊峰の自然は、山頂に祀られている聖獣グリフォンの魂はより漏れ出でる強大な『力』によって狂わされ、そして新たに構築された法則に従っているのだ。
従来の方法であれば、健全な命を宿す事すら許されぬ子であっても、グリフォンの魂より与えられる『力』にあてられ、自然の──命の法則すらも捻じ曲げられるのならば或いは──
それはまさに、狂人の理論であった。
だが、狂人たる錬金術師は、おのが理論を確立する為に利用したのが、今では主君として仕えるソレイアである。
聖都の司祭にして一派閥の領袖に過ぎなかったソレイアを、一国の主へと変貌させたのは、ヴェクターとカレンの錬金術の力によるものと称しても過言ではなく、その多大なる働きを評価され、建国の際、国内第二位の地位を約束された。
そう、霊峰を管轄する地の要人としての地位を。
全ての準備は整った。
最後の子種を宿した錬金術師による生体実験は最終段階へと至っていた。
だが、カレンには一つだけ不安要素──実験の成功を阻害する不純物の存在を認識していた。
それは、今の彼女の精神状態にある。
最愛の兄を失いしカレンの心は愁傷によって酷く落胆していた。
悲報より一ヶ月の間、毎日の食事の量も激減しており、胎内の子への悪影響も懸念される。
一日も早く、この沈鬱な感情より脱却せねばならなかった。
悲しみに暮れる狂人の心を満たす手段は唯一つ──ヴェクターを直接死に追いやった者どもへの復讐。
即ち、グリフォン・クラヴィスの地にて、兄と戦った王都騎士団の派兵部隊に対する復讐であり、その求心力となっていたと言われている『双翼の騎士』レヴィンとエリスに対する復讐でもあった。
だが、身重な今のカレンには剣を手に戦う事など許されぬ。霊峰の心寂しい小屋の一室で、毎日を憤怒と哀悼との往復だけに費やし、いずれやってくる分娩の日を漫然と待つ事しか出来なかった。
「──まるで自滅への道ですな」
声が聞こえた。彼女の背後、窓の向こうにある小屋の裏庭の物陰より、それは己の気配を悟られぬよう、細心の注意をもって発せられた。
男の声であった。カレンにとって聞きなれた声。
「かつて霊術師の領域と言われていた霊峰も、今は我が公国の領地。ソレイア様の情夫たる貴方が、この敵なき地で闇に紛れる必要などあろうか? 堂々と姿を晒すといい」
「暗殺を生業とする者として濫りに姿を晒すわけにはいかぬゆえ」
「では、その暗殺者様が、この私に何の用かしら?」カレンの声に微かな苛立ちの感情が帯びる。陰鬱な気分に浸っていた彼女にとって、この男の軽薄な態度が癪に障った。
「これ以上、私の神経を逆撫でしようものならば、喩えソレイア様の恩情に与っている貴方であろうと──」
「そう怒るな。腹の子に障るぞ」男は鼻を鳴らし、その怒りを一笑に付した。「今回は、そのソレイア様より至急の使いとして馳せ参じた次第よ」
「使いですって?」錬金術師は怪訝する。「私は今、ソレイア様より暇を与えられている身。そんな私に火急の用とは奇妙」
「事情が変わった」
声が発せられた刹那、窓の外より何かが投げ込まれた。
それは、カレンが腰掛ける寝台の毛布の上を弾んで床へと転げ落ち、やがて動きを止めた。
一本の小瓶、黒い液体の詰められた瓶であった。
「これは、兄様の──」
カレンの目が見開かれる。
「左様、ヴェクター殿の遺作よ」
この黒い液体こそ、ヴェクターが最期に開発した新薬であった。
服用した者の脳に作用、凶暴性を増し、暴力的な身体能力を著しく増進させるという効果がある。
それは、ヴェクターとカレンの師レーヴェンデの手によって創り出され、錬金術師兄妹の手によって改良を重ねられた『蟲』の技術──その応用によって作られた薬であった。
『蟲』を脳に蟲を移植された者は、他者の意のままに操られるようになると同時に、凶暴性を増し暴力的な身体能力を著しく増進させるという効果がある。
それ故、この『蟲』によって、人間のみならず様々な魔物を統率のとれた軍勢へと作りかえる事を可能としていた。事実、神聖ソレイア公国が建国される以前、この地──西の聖都グリフォン・テイルは、この『蟲』の力を用いて作られた幾多もの魔物から成る軍勢をもって蹂躙されたのだ。
その実績ゆえ、『蟲』とは極めて強力な代物であった。
だが、その『蟲』には致命的な欠点が存在していた。
それは「『蟲』自体が破壊されること」である。
『蟲』は無数の触手を脳に突き刺し、温床とする性質を持つ。そして、移植者の思考へと干渉することにより、行動や言動を支配する働きをする。
そういった性質ゆえ、『蟲』に強い打撃を与えると、衝撃を伝播した触手が移植者の脳を破壊し、移植者の命を奪う。
ましてや、体外に露出している『蟲』に打撃を加えるのは容易く、その弱点を知る者にとって『蟲』の存在は最早脅威に値するものではなかった。
その致命的な弱点を克服する為に、カレンの兄にして夫であるヴェクターが開発したものが、この薬である。
それは、たとえ戦いの素人であろうと、最強の戦士へと変貌させる魔性の薬であった。
「グリフォン・クラヴィスが攻略され、フラムとグリフォン・リブで孤立を余儀なくされた神官戦士団は、再び騎士団と手を組むこととなるであろう。そうなれば、勢力を回復した彼らが起こす行動とは──」
「西の最後の拠点グリフォン・ブラッドの攻略──」
カレンの表情が一際険しくなる。
それは、今後の戦局面において大きな意味を持つものであった。
グリフォン・ブラッドの攻略──その理由の第一に挙げられるのは、現騎士団長シェティリーゼ卿の救出にある。
数ヶ月前、シェティリーゼ卿が構築した包囲網の間隙を縫い、ソレイアがグリフォン・ブラッドへ送り込んだ軍勢を阻止せんと、自ら騎兵を率い──そして敗北し、ソレイアの手に落ちた。
今、その主なき騎士団の指導者は副総帥アルファードが代理を務めている。だが、騎士団内ではシェティリーゼ卿の生存を絶望視する者も多く、拭い去れぬ不安が蔓延しているのが現状。今後の士気に暗い影を落とす材料となるのは言うまでもない。
故に、騎士団にとってシェティリーゼ卿の安否確認は目下の最優先事項であると思われた。
そして第二に挙げられるのは、数ヶ月前に構築しようとして、ソレイアの手によって頓挫を余儀なくされたソレイア公国に対する包囲網の再構築である。
前回、王都よりシェティリーゼ卿自ら率いて西に送られた軍勢は、騎士団、神官戦士団、そして議会の有力議員より有志として派遣された私兵団による混成軍。
比較的思想が近い騎士団と神官戦士団と、規律や戒律、または慣習などの面に大きな相違のある私兵団との間には隔たりがあり、これらは一枚岩の団結があったとは到底言えるものではなかった。
極めて脆い基盤の上に成立している実情、その『匂い』を素早く嗅ぎ分けたソレイアの手によって、これら混成軍は悉く攻略され、同時に公国の発展への大きな契機ともなった。
だが、今は違う。
この度、王都より送られたのは王都騎士団の一師団。前回の混成軍と比べ、その勢力と統率力たるや比較にならぬ。
その証拠として一月前のグリフォン・クラヴィスの戦闘においての被害は然程でもなかったという。
そして、あの戦いにおける勝利は、大陸中に燻っていた反ソレイア派に属する貴族や宗教派閥が一斉決起する絶好の契機となり、公国の拡大を不安視する民衆もそれに賛同の意思を示している今、騎士団に対して吹く風は、追い風の様相を呈していた。
噂では、内部告発や密告を奨励し、親ソレイア派議員の放逐に乗り出している地域もあると聞く。
このような社会情勢のもと、鉄の結束を誇る軍勢に包囲されてしまったとなっては、希代の悪女と評されるソレイアであっても攻略は困難であろう。
「それと兄様の遺した薬と、何の因果関係が?」
「ソレイア様は、この薬の量産を望んでおられる」
錬金術師の女は返答の意図を瞬時に理解し、そして戦慄した。
「もう『蟲』と魔物は信用出来ぬと仰るのか──」
「左様」男の声は、夕闇の中で冷淡に響いた。「先の戦いで『蟲』による軍勢は最早通用せぬことは証明された以上、新たな手立てを講じなければならぬとの御判断だ」
「それで、この薬を──か」カレンは足許に転がった薬瓶を拾い上げ、そして顔に苛立ちの感情を浮かべた。
「訪問の真意を話せ、暗殺者殿」
錬金術の知識を持ち、かつ薬師としての心得がある者ならば、資料を辿ることによって殆どの薬の調合や精製は可能──これは、錬金術の世界では常識とも言える事項である。
そして、その資料も兄の研究所を探せば幾らでも見つかるはず。
即ち、多数の錬金術師を抱えるソレイア公国が、たかがこの程度の事で──喩え、有能な錬金術師であれど──身重な者のもとを訪れる必要はない。
故にカレンは、ここまでの口上が全て前置きであると考え至る。
「その洞察力──流石は公国第二位の地位に有らせられる御方」
「世辞はいい」
彼女の声は鋼の如く響いた。
「この薬を本国の錬金術師団ではなく、私のところに持参したのか──その理由を説明しろと言っている」
「改良だ」
「──改良?」
「左様」暗殺者の男が告げた。「ヴェクター殿の研究室より発見した資料を本国の錬金術師に解読させたところ、この薬は試作品であるが故、様々な改良の余地があるとのこと。だが、極めて難解な理論に基づく代物である故、誰も改良に着手しようとはせぬ。ヴェクター殿と共に『蟲』の改良に携わり、その構造や理論に造詣が深い貴殿ならば或いは──と思い至った次第」
「なるほど──ね」カレンは嘆息した。「公国が誇る錬金術の技術力というものも、然程進歩はなかったということね」
これでは大金を叩いてまで、錬金術師を手厚く保護したソレイア様に申し訳が立たぬではないか──
「では、兄様の遺した資料をここに」
カレンは、人の気配なき窓の外へ向かい声を発した。
だが、ソレイアの情夫たる男からの返答はない。
既に行動を開始したのだろう。軽薄でいけ好かない男であるが、国の為に──いや、ソレイアの為かも知れぬが──起こす行動の早さは、評価に値する。
そう、カレンは思った。
「ならば見せてくれよう──錬金術の粋を集めた最強の軍勢を」狂いし錬金術師は呟いた。「貴様らが騎士であるが故に、勝つことの出来ぬ最強の軍勢を、な」
<2>
威厳に満ちた表情を浮かべた神像と、穏やかな表情を浮かべた天使の像が静かに見下ろしていた。
それらに、霞む目を向ける者がいる。
赤と白を基調とした神官衣を纏った翁だった。
その衣を身に纏うことを許されているのは、この国では唯一人。
司教と呼ばれる高位の僧。司祭たちを管轄し、束ねる役目を担う。故に、司教は国政にも意見できる権限を持ち、政教の繋がりの深さを示す象徴的な存在でもあった。
グリフォン・リブと呼ばれる西方の街の中心に建つ神殿、その敷地内に併設されている聖職者の居住棟。一番奥にある部屋に置かれた寝台の上に横たわり、司教は時が来るのを静かに待っていた。
翁の名はウェズバルド。
普段では小奇麗に手入れが施されているはずの顎鬚には乱れが目立っていた。長さも不揃い、そして所々抜け落ちている。
聖職者の長たる司教位を持つ者としての威厳を更に高める装飾の役目を果たしていた顔皺も、今となっては老いの象徴に他ならず、肉体を纏う、かつての覇気めいたものは一切感じ取る事は出来なかった。
「神よ──間もなく御許へと参ります」
司教は、静かに呟いた。
空気が張り詰めていた。わずかに触れただけでも切れてしまいそうな緊張感が室内を支配する。
「生命とは『歴史』という名の織物を構成する一本の絹糸に過ぎぬ。この世に無限に続く絹糸が存在せぬように、人もまたいつかは死ぬ運命よ」
翁は、傍らに控えて自分の脈を取っている初老の司祭に微笑みかけた。
司祭位を持つ聖職者にして、旧聖都の下級議員であった女──カミーラに向けて。
だが、カミーラは何も答えなかった。三晩眠らず憔悴しきった顔をしながらも、司教を冒す病による苦痛を取り除こうと、様々な手を講じ──そして遂に気力を使い果たしていたのだ。
ウェズバルドが病に倒れたのは二ヶ月前の事。
西の包囲網を突破され、三拠点の一つグリフォン・ブラッドと、大陸中央部の玄関口と言われているグリフォン・クラヴィスがソレイアの勢力下に置かれた事により、孤立を余儀なくされた神官戦士団を統率していた最中での事。
敵の勢力の中で孤立する軍勢を管理・統率するには、既に齢八十を迎えた老体にとって負担は計り知れぬ。程なく彼は心身ともに参らせ、病に伏した。老いて病に対する抵抗力の衰えた彼の肉体は、一度冒されては抗う術はなく、瞬く間に悪化──そして遂に死病へと化した。
故に、カミーラの努力が無益である事を、司教は理解している。だが、如何様な言葉をもって諭そうとも、カミーラは治療の手を止めようとはしなかった。
だから、司教は彼女の思うようにさせた。
その時、部屋へと立ち入る複数の足音が聞こえた。
カミーラの表情が緊張の為に引き締まる。だが、それは一瞬の事、部屋に現れた足音の主が姿を現すと、その表情は一変、喜びと安堵の混ざったものへと変じた。
「皆さん──」
最初に現れたのは、東の主要都市に拠点を置くグリフォン・フェザー騎士隊の鎧を纏い、背に両手持ちの大剣を背負った黒髪の青年。けして絶世の美青年という訳ではない。だが、彼の瞳の奥に宿るのは気高さと雄々しさ。その眼差しに魅入られれば、ある者は好感を抱き、またある者は慄然と立ち尽くす事だろう。それはまさに猛者の様相であった。
彼の名はレヴィン。『双翼の騎士』の称号を持つ騎士。主なき騎士団の新たな求心力として期待の寄せられる若者。
そのレヴィンの次に現れたのは、短く切り揃えた活発的な印象を与える赤い髪と、美しい額飾りが印象的な女性。帯剣し、肩当てと胸当て、金属製の靴のみといった、簡素な鎧に身を包んでいた。
そして、彼女の胸当てにも同じくグリフォン・フェザー騎士隊の紋章が刻まれていた。
彼女の名はエリス。レヴィンと同じく『双翼の騎士』の称号を持つ騎士にして、敵の手に落ちたとされるシェティリーゼ卿の正当なる嫡女。由緒正しき武の血統の末裔であった。
『双翼の騎士』と称される二人の騎士に続いて現れたのは、二人の女性。
一人は金色の長い髪の女。白と青を基調とした神官衣を身に纏い、首からは巡礼の僧らが好んで身につける略式の聖印が下げられていた。
そして、もう一人は長く伸ばされた赤い髪を、髪留めを用いて後ろに束ね上げ、身に纏うは、まるで砂漠の国の貴婦人の如き衣装。胸を純白の布で覆い、腰を覆うは腰布のみという薄着。比較的温暖なこの地方で暮らすにしても、やや不向きとも思われた。だが、この薄着は、己が霊術士であるという事を表す印──両の腕と脚、そして腹部に刻まれた刺青を周囲に示すという意味が込められた、言わば伝統的な衣装であるという。
神官セティと、霊術士にしてカミーラの娘リリアの姿であった。
グリフォン・クラヴィス西の平原での戦いにおいて、その勝利に貢献し、戦勝の報を西に伝える使者として送られ、つい先刻、この街に到着した四人の若者の姿であった。
その姿を視認したウェズバルドとカミーラは驚きながらも、その無事な姿に喜び、穏やかに微笑みを浮かべて勇者の来訪を歓迎した。
上体を起こそうと、体を動かそうとする司教の背中に、カミーラが手を回して支える。
「よくぞ無事で」翁は喉の奥より感嘆の声を絞り出した。
「間もなく神の御許へと旅立つであろう私の見送り人が貴殿らであったとは。これも神の──最後の御加護ということか」
言葉の意味を察し、四人が寝台の傍へと駆け寄った。そして、セティが跪くと神に祈りを捧げ、眼前の翁の延命を必死に願う。
司教は優しく制し、それをやめさせた。
「神に祈っても、死にゆく者の延命は出来ぬ。如何に長き糸にも終わりがあるように、人の命もまたいつか終える。そして、その命という名の糸は、神が織り成す『歴史』という織物の一部として、確かに縫いこまれるのだから」
「しかし……」
そう言い、戸惑いの表情を浮かべるレヴィンを、司教は穏やかな眼差しによる一瞥によって制した。
「……貴方達に引き継がねばならぬ──我が遺志を」
「聖都の奪還ですね?」
エリスの返答に対し、司教は静かに頷いた。
「そして、伝えねばならぬ事がある」
「……」
「そんな神妙な顔をせぬともよい。話とは、あの西の地を聖都として人々に崇められている本当の理由についてじゃ」
司教は掠れた声で、ただの蘊蓄だ、と付け加えた。そして、静かに語り始めた。
しかし、話を聞くにつれ、四人はどこがただの蘊蓄だ、と思わずにはいられなかった。
レヴィンが驚かされたのは、聖都グリフォン・テイルの成り立ちについてだった。
人類と、異常発生した魔物らとの間で起こった千年前の戦争──
この国の主要都市は、その長きに亘る戦の中で、腐り果てた大地に四散したグリフォンの肉体の一部が降り立ち、その部位に因んだ奇跡が起こり復興した事が発祥とされ、これらの地には必ずグリフォンの身体、その部位を模した名がつけられている。
この伝承ゆえ、聖都グリフォン・テイルも同様に、その名が示す通り、千年前にグリフォンの尾が降り立ち、復興したと思われていた。
尾がなければ、獣は身体の平衡感覚を保てぬ──即ち尾とは均衡と調和の象徴。それ故に、いつ如何なる時も決して揺らいではならぬ心、即ち信仰を象徴する宗教都市としての発展を遂げたのだと。
これが、世間での通説である。
だが、真実はそうではなかった。
聖都グリフォン・テイルは、戦の後、聖獣グリフォンの尾が降り立ち、奇跡が発現した事により、復興したわけではない。
魔物の死肉によって腐り果て汚れた土を、人の手によって取り除き、遥か遠くの麓に赴いては真新しい土を運び込むという作業を幾年にも十幾年もかけて繰り返し、再生させた地であるのだ。
全ては、霊峰に聖獣の魂を祀り、徒に人の手が介入せぬよう見守る為に。
その働きに感服した当時の国王は、特例としてその地にグリフォンの名を冠する事を許したのだ。
それが、西の聖都の始まりである。
神の奇跡も、聖獣グリフォンの力も借りず、全て人の手によって復興させた地。
人と神、そして聖獣との対等な対話が許される、唯一の地として。
それ故に、聖都では聖職者らも参政権を持つ事が許され、他地域では避忌されるであろう信仰そのものについての議論、そして霊峰についての議論が許されている。
聖都の聖職者に関する様々な風習が、他地域のそれと異なるのは、こういった事情に起因する。
その為、人は聖都に対する思い入れは何よりも強い。
四人の若者は、改めて怒りを覚えた。
人が独力で再生を成し遂げた偉業の地は今、悪僧ソレイアによって蹂躙され支配下に置かれている。その誇り高き聖都の名も、ソレイアの名を冠したものに変えられている有様。
レヴィンは、自分が英雄や勇者と讃えられる人間ではないということを痛切に感じていた。すぐ西の地にて、このような許しがたき所業を行う者がいるにも関わらず、何も出来ぬ自分に苛立ちさえ覚えていた。
話が終わった事を告げるかのごとく、司教は再び微笑む。
「レヴィン、エリス、セティにリリアよ。どうか聖都をお救い下さい。聖都を救い、この戦いを終わらせることが出来るのは、貴方達しかいないのです……」
そう言うと、司教は不意に顔を伏せた。口元に手を当て、幾度も幾度も激しく咳き込む。
「司教様!」
堪らず、セティが駆け寄り、苦しそうに咳き込む司教の背中をさする。だが、神官は見た。司教が咳とともに大量に血を吐いていることを。
伸ばされた顎髭に、赤黒い斑模様が作られていく。
──もう、もたない。
セティは、そう直感した。
かつてグリフォン・フェザーの施療院に勤め、人の死というものに幾度となく立ち会ってきた経験が、彼女にそう告げる。
神官は幾度も頭を横に振った。眼前の現実を否定しようと懸命になっているかのように。
そんなセティの姿を横目に、苦しみに咽びながらも、翁は続けた。
「シェティリーゼ卿をお探しするのだ……騎士団には、まだあの男の力を必要としている。きっと彼は、皆の力となってくれるであろう……」
「もう、喋らないで!」
エリスは泣いていた。リリアも静かに涙を流していた。
死の床につく司教の最後の命の灯火が消え尽きようとしているのが、司教の老いた肉体より魂が脱離しようとしているのがわかったからだ。
その灯火が一分でも、一秒でも長く続くよう、心の底より願いながら、肉体に負担が及ぶ会話の類を止めるよう、幾度も懇願する。
──だが、ウェズバルドは続けた。
「貴殿らよ、未来への礎となれ。荒れた大地の如き現実をしかと見据え、舗装されぬ道に石畳を敷き詰めるかのように。人々が各々の幸福の為に歩む為の、確かなる道を──」
そして──司教ウェズバルドは、全ての力を使い果たしたかのように、静かに息を吐くと、カミーラとセティに支えられながら、静かにその背を寝台に戻し、そしてゆっくりと瞼を閉じた。
その目は、二度と開くことは無かった。
二時間程が経った。
司教の部屋には今、人が慌ただしく出入りをしている。このグリフォン・リブに滞在する神官戦士団の神官らであった。
彼らは亡骸となった翁の枕元までやってきては、ある者は故人の冥福を祈り、またある者はこの突然の訃報に嘆き悲しみ、そしてまたある者は打倒ソレイアを誓う口上を述べる。
レヴィンら四人は、休憩の為に与えられた部屋──司教の隣の部屋でその様子を聞くとはなしに聞きながらも、彼らもまた涙に暮れていた。
「カミーラさん……これから大変だろうな」
エリスの呟きに、セティが頷いた。
ソレイアとの戦いが本格化して以来、神官戦士団を統率する司教を補佐し続けていたのはリリアの母カミーラに他ならない。
事実上、彼女は神官戦士団の中で司教に次ぐ権限を有しており、指導者たる司教亡き今、新たな指導者として立つ事を最も期待されている人物である。
だが、司教の死という訃報に、打倒ソレイアへと逸る者も数多く出ることだろう。そんな血気盛んな者たちを元聖都の下級議員──一介の弁士に過ぎぬカミーラに制御することなど出来るだろうか?
先の戦いの傷を癒すべく、グリフォン・クラヴィスで留まっている騎士団が西に到着すれば、その指揮下に入る事で事態が収まるであろうが、万が一、抑えきれず神官戦士団で単独行動を起こさねばならぬ事態になったとき、戦での指揮経験を持たぬ彼女に何が出来るであろうか?
無論、レヴィンらは助力を惜しまぬつもりでいる。だが、それだけで事態が好転する保障など、どこにもない。
学問を修め、数多な知識を蓄えしレヴィンとて、未来や他者の感情までを完璧に計算することなど出来はしないのだから。
「──今はそのような者が現れない事を祈るしかない」
故に、彼の声はどこか不安げであった。
その言葉が、四人の心に重く圧し掛かる。
司教ウェズバルドが息を引き取った事により、彼の持っていた大いなる権限は、カミーラを始めとした若き世代へと引き継がれていくであろう。
即ち今日の出来事は、大いなる世代交代の象徴であるとも言える。
無論、レヴィンら青年達にとっても、無縁の話ではない。
特に、神官であるセティにとっては──
ソレイアの手によって聖都を蹂躙され、その魔手より逃れる際、カミーラの片腕となって働き、またソレイアとの戦いの中でも、神殿勢力──聖職者らの中心となって戦いに参じたという功績は決して無視の出来るものではない。
「悲しんでいる暇は……ないようですね」神官衣の袖で涙を拭ったセティが顔をあげた。「カミーラさんを助けないと」
まだ赤い目を、真摯な眼差しへと変え、彼女は決意の言葉を口にする。
「お願いします」リリアが頷いた。「母は繊細な人ですから」
「辛いものよね──人の死を悲しむ暇すらない、なんてさ」
エリスが俯いた。
そろそろソレイアの占領下にある各地に送り込んだ密偵が戻ってくる頃合い。
密偵からの情報をもとに、カミーラは判断を下さねばならない。
司教に保護されて以来、短い間であれど、その恩に報いようと一生懸命となって働き続けている最中での訃報。最も悲しみに暮れているはずのカミーラ。
彼女の判断が、神官戦士団は今後の命運を決めるのだ。
本当に悲しんでいる暇などないのだろう。だから、辛いのだ。
「騎士団の到着を待つまで事態が変わらなければいいんだけど」
エリスが天を仰ぎ、祈るような気持ちで呟いた。
先の戦で、大きな被害を与えたとはいえ、ソレイア側の主戦力は、繁殖力も高く、成体になる時間も比較的短い魔物らが中心となっている軍勢である。敵の戦力の回復力は侮る事は出来ない。
方や、戦に勝ち、比較的軽微な被害で済んだ騎士団の派兵部隊の傷はいまだ癒えず、グリフォン・クラヴィスでの長期滞在を余儀なくされている。無論、西への出立の目途は立っていない模様。
そう、先の戦に敗れしソレイアが先んじて動いてくる可能性も否定出来ない。
故に、レヴィンらは密偵からの情報を待ち焦がれていた。
それが、彼らの予想を遥かに超える事態をもたらす事も知らずに。
<3>
グリフォン・リブより南西に七日程の距離にある都。旧聖都グリフォン・テイル。
かつては代々の太守が住まう城。
今では、神聖ソレイア公国と呼ばれる地に聳える君主の居城の最上階。
部屋の奥、絢爛な椅子に深く腰を掛けている部屋の主である黒衣の女は、二人の訪問者を迎えていた。
顔まで黒き布で覆われている装束を纏う人影。
「そう──」黒装束よりもたらされた情報を耳にし、彼女──城の主にして、神聖ソレイア公国の君主ソレイアは口元に笑みを浮かべた。「司教ウェズバルドが死んだのね」
「御意に御座います」黒装束のうち、右側が答えた。「よって神官戦士団の長の地位は空位。代理としてカミーラ氏が代理を務めておりますが、彼女は元来、旧聖都の下級議員に過ぎぬ。神官戦士団という武力集団を統率する力があるかどうかは疑問」
隣の黒装束の話が終わるのを待っていたかのように、左の黒装束が「──だが」と続けた。
「先の戦いで勝利した王都騎士団に先んじて『双翼の騎士』の二人と、神官セティ、そしてカミーラ氏の娘にして霊術士リリアの四名がグリフォン・リブに入った模様。恐らく、戦勝の報をもたらす為と、カミーラ氏の補佐に入る為と思われますが」
「『双翼の騎士』が、カミーラの糞婆の補佐に……ね」ソレイアの表情は、厳しいものへと変じる。「私の夢を悉く打ち砕いてきた──まるで悪性腫瘍とも称すべき連中。これを除去せねば、私に平穏は訪れぬ」
「御意に御座います」二人の黒装束の声が同調した。
その言葉を聞いてか、公国の君主たる女の表情に笑みが戻る。
「だけど、力無き者が神官戦士団を統率している以上、彼らが動き出すのは先の戦いの傷を癒やした王都騎士団がグリフォン・リブに入ってからとなるわね」
そして彼女は、王都騎士団と神官戦士団が合流するまで、約半月程であるだろうと予測した。
──ならば、手の打ちようがあるというもの。
次いで、ソレイアは配下たる装束姿に問うた。
「以前よりお願いしております『あれ』の生産と実験の進捗は?」
「カレン様より届きました資料に記されている解析の内容が至極明確であるお陰で、生産は順調にございます。並行して行われている実験のほうも、実戦に用いるに問題はないと結論が出ております」
「それは良かった」報告を聞き、ソレイアはその顔に穏やかな微笑を浮かべた。
だが、それは精巧に作られた仮面。その仮面の下──瞳の奥に渦巻くのは、闇よりも暗く、汚泥よりも汚れた悪意の光であった。
「ですが、こちらの体勢が整うまで漫然と待つわけにはいきません。敵に揺さぶりをかけ、足並みを乱さねば、我々に明日の勝利は約束されませんから」
そして、彼女は司教亡き今日より『総大司教』を名乗るという事を表明した。
総大司教──それは各教区の主たる司教を統括する聖職者の最高位の地位である。
だが、この大陸では教区という概念は存在せぬ。即ち大陸の全神殿、全聖職者は司教ウェズバルドの管轄下に置かれているのだ。その特性上、複数の司教を統括する総大司教の地位は意味は為さぬ。
それ故に千数百年前──聖職における地位の構図が現在の形になって以来、総大司教の地位は空位であるのが常であり、変わって、その下にある司教位がこの大陸での最高位の聖職者として扱われてきた。
「この大陸の中で、我が神聖ソレイア公国が独立を宣言した事により、教区もまた分割したと判断するのが妥当。ならば、総大司教の地位を空位にしておく訳にはいかぬでしょう?」
くすりと笑う。そして聴衆たる黒装束、覆面に隠された表情──怯えや驚愕の感情の匂いを察知した彼女は、その反応を楽しむかの如く、数呼吸ほど時間を置く。
そして、続けた。
「ならば、その地位に誰が相応しいか? 最有力たる司教ウェズバルド亡き今、聖職者にして一国の主たる地位を確立した私にこそ、初代の総大司教位を授かるに相応しいと思いませんか?」
聴衆たる黒装束の二人は戦慄し、汗が覆面の隙間より滴り落ちた。
──深潭の闇より滲み出るかのような悪知恵に、二人は背筋の凍る思いがしていた。
彼女の、地位や身分に関する邪執とも言うべき執念。目下の敵が聖職者から成る神官戦士団であるが故の挑発。
その双方を同時に満たすという最高にして最大の奇策を、いとも簡単に考案する発想力。
眼前の女は、まさに狂人。それも桁の外れた咎人である。
それ故、黒装束の二人は、己の長たる男に改めて畏怖の念を抱く。
何故、このような女──いや、この悪魔の情夫を務めているのだろうか、と。
戦慄は、その者より時の流れを奪い去る。主君たる女に対する畏怖、または恐怖により、黒装束の二人の時間を凍結させていた。
「さて──」
故に、ソレイアが次の言葉を紡ぐまで、どの程度の時が経ったのかすら、わからなかった。
「『あれ』の準備が整い、実験も滞りなく行われているのならば、早速実践せねばなりませんね」
そう言い、黒衣の女は天を仰いだ。その表情は限りなく晴れやかであり、まるで恋人に思いを馳せる少女のよう。
その無垢な笑みに、黒装束の二人にとって限りなく不気味な印象を抱いた。背中に冷たい汗が伝うのを感じた。
あの笑みの中、ソレイアの脳内を満たすのは、無限とも言えるであろう己の欲望を満たす為の冷徹な計算である事を、二人は知っていたからだ。
「ラメラという名の村があったでしょう?」彼女は不意に近隣の農村の名を出した。
「ラメラ村……ですか?」
「ええ──」
聞き返す部下の言葉に頷いた刹那、ソレイアの顔は悪鬼の形相へと変じた。
「私がこの地を支配した日──粛清の手より逃げ出した聖都住民に食糧の提供や、一時の休息の地を提供した村。公国の王となった私を第一に裏切った愚か者どもの集落よ」
「……」
主君たる女の急激な変貌に傍聴者たる二人は三度凍りついた。その心を支配しているのは驚愕と畏怖、そして恐怖。
暗殺を生業としている者にとって、第一に捨て去らねばならぬ感情の筈であった。にも関わらず、それは胸中に呼び起された。
まさに蛇に睨まれし蛙。または獅子に狙われし兎の如し。
恐れ慄く聴衆の反応など一切意にも介さず、ソレイアは続けた。
「報いを与えねばならぬ。故に、あのラメラ村こそが、我が最強の軍勢の華やかな初陣に相応しい──そうは思いませんか?」
「……御意に、御座います」
黒装束のうち、右が必死に声を絞り出す。
「ならば、出陣の準備に取り掛かりなさい」その反応に満足したのか、ソレイアは微笑を浮かべ、眼前の二人に命令を下した。
「三日以内に、ラメラ村を焦土へと変える事──いいですね?」
<4>
司教の葬儀は半月に亘って行われた。
大陸中より敬虔な聖職者が、そして沢山の民が、このグリフォン・リブに集い、偉大なる神殿勢力の最高指導者の死を悼んだ。
そして、その棺は大陸中を巡り、王都グリフォン・ハートの地にて無言の帰還を果たし、その地にて永久の眠りにつくことであろう。
司教の棺が、このグリフォン・リブより発って数日後、街に一時の落ち着きを取り戻した頃、カミーラの執務室に、扉を激しく打つ音が鳴り響いた。
「何事ですか?」
その様に徒ならぬ気配を察したカミーラは慌てて入室を許可した。
扉の向こうより現れたのは、金色の長い髪をした若き女神官──セティであった。
ここまで全力で走って来たのだろうか? 彼女は肩で息をし、吐く息も荒い。
神官戦士として訓練を積んでいるが、普段は穏やかな物腰で振る舞う女性である。そんな彼女からは到底想像のつかぬほどの状態。
カミーラの胸中に暗雲が垂れ込める。
セティは、先程偵察隊の者が帰還した旨を伝え、その偵察隊の掴んだ情報──即ち、話の核心に触れんとする際、彼女の表情が険しいものへと変じた。
そして「カミーラさん、落ち着いて聞いてください」と前置きし、女神官は続けた。
旧聖都──神聖ソレイア公国の南にある農村、ラメラ村が何者かに襲われたとの事を。
「──なんですって?」カミーラは思わず立ち上がった。
その顔からは、一気に血の気が引いていた。「それは本当ですか?」
「本当です」セティは頷いた。「偵察隊の話によると、彼らがソレイア公国への侵入を試みようと思い、近隣のラメラ村に立ち寄った際、その惨状を目の当たりにしたそうです。多くの惨殺死体が地に横たわり、村は焼かれ、それはまさに焦土の様相であったと聞きました」
「酷い……」
そう言ったのは、カミーラの後ろから姿を現した彼女の娘、リリアであった。
この徒ならぬ状況を察したのだろうか、先刻まで耽っていた瞑想を中断し、母とセティのもとへとやってきた。
「確かラメラ村と言えば、ソレイアに蹂躙されんとしていた聖都の住民らを我々がグリフォン・ブラッドへと逃がそうとした際、食糧の提供や野営の為の場所を提供して頂いた農村でしたね」
「……となると、やはりソレイアの仕業と見て間違いはありませんね。我々への見せしめであると同時に、揺さぶりを掛ける為に襲撃なのでしょう」カミーラは口惜しげに言い捨てた。
「司教様亡き今、グリフォン・リブ、そしてフラムに駐在している神官戦士団を陣頭指揮出来る者はおりません。そこを算段に入れた上での計略でしょう。騎士団長シェティリーゼ卿と、司教ウェズバルド様の二大巨頭による武と教の統治が長きに亘って行われて来た事の弊害が、こんな時に顕在化するとは、我々も迂闊であったかもしれませんね」
そう言うと、カミーラは色々と考えを巡らせている様子で、視線を宙に泳がせる。執務用の机のもとへと戻ると、先刻まで座っていた椅子に再び深く腰を掛けた。
「罪もなき者たちを手にかけるなど、為政者とは思えぬ振る舞いですね──」
落ち着いた母とは裏腹、娘たるリリアの声は怒りに震えていた。胸のところで組んだ両手に力を込め、聖獣グリフォンの名を唱える。
カミーラは一言、落ち着くようにと娘を諭すと、セティを室内へと招き入れ、事情の詳細を尋ねた。
神官は、帰還した偵察隊よりかなり詳細な情報を聞き出していた。
死体の配置、またそれらに刻まれた傷から察するに、抵抗する事も、女や子供を逃がす事すらも殆ど満足に行えなかったようであった。
婦女子や年端のいかぬ子供に対する乱暴の後、惨殺されたと思しき遺体もあったという。
それだけではない。田畑や家屋を荒らされ野盗の如く掠奪された後、これらに火を放たれた形跡も見受けられた。
村長の一家の生死は杳として知れず。だが、恐らく絶望的であろうとのことであった。
カミーラとリリアの母娘は、それらの話を苦悶の表情を浮かべながら聞いていた。そして、話を聞き終えると、セティに労いの言葉をかける。
「不愉快な役目でしたでしょうが、よくぞ聞きだして下さいました。主力たる食人鬼兵団の殆どを、グリフォン・クラヴィスでの敗戦によって失ったソレイアが、戦力の回復の早さを誇示するという狙いもあるでしょう。ですが、挑発に乗ってはなりません。その他者の怒りなどといった心の乱れにつけ入る術こそが、あの悪女ソレイアの最も得意とする事なのですから──」
「──その事なのですが」
不意にセティがカミーラの言葉を遮った。
「調査隊の報告によりますと、惨殺された者らは全て鋭利な刃による傷によるものであったとのことです。力任せに武器を扱う事しか知らぬ魔物らによるものとは到底思えぬとのことでした」
「では……人間の手による襲撃である、と?」
「恐らくは」神官は頷いた。「また、それ以外の痕跡や、襲撃者のものと思しき遺留品の類が発見されなかったところをみると、相応な手練なる者による所業であるのではないかと思われます」
憎々しげにセティが言う。清楚な風貌に似合わず正義感に溢れたこの女性にとって、ソレイアが仕掛けたと思しき仕打ちに我慢ならぬといった様子。放っておけば、今すぐにでも西の公国へと飛び出していきそうな気配さえ伺えた。
ソレイアは元来セティやカミーラと同じ聖職者の出身である。
そう、彼女の存在や所業の全ては、この世の全ての聖職者にとって大いなる恥に他ならぬ。カミーラにとって、セティの胸中に渦巻く激情を理解するに難しくなかった。
だが、今は自重こそが肝要な時である。それ故、セティもカミーラも、霊術師──また人の魂を見透かす事を可能とする異能者リリアでさえも、この事に言及しなかった。
「そう言えば、エリスさんの姿が見えませんが──」
カミーラが不意に口を開いた。まるで、話題を変えるように。
「エリスさんなら、調査隊の報告を聞くや、周辺の村の様子を見に行くと言って、レヴィンさんを連れて出かけていきましたよ」
セティが溜息とともに答えると、カミーラは少し俯いた。
「相変わらずと言うべきなのでしょうか、エリスさんらしいと言うべきなのでしょうか。シェティリーゼ卿の御子息であり、次世代の騎士団を担うかも知れぬ身であるのですから、もう少し慎重になってもらいたいものなのですが……」
「大丈夫だと思います。エリスさんも流石に分別を心得ているでしょうし、何よりレヴィンさんが一緒なのですから……」
リリアが苦笑いを浮かべながらも嘆く母を宥める。
無論、霊術師の言葉には何の保証もない。
賢者の如き知性を持つレヴィンも、一度怒りに火がつくと、常人の目には無謀にも見える行動に出るときがある。
彼が言うには、それらの行動は全て緻密な計算の上に成立しているとのこと。だが、凡庸凡夫たるセティらにとって、それは理解出来ぬ高次元の世界より導き出された思考である故、到底理解には至らぬ。
セティらは、レヴィンが冷静さを保ち、その知性を自重の為に使ってくれる事を祈るのみであった。
<5>
焼け野原となった農村の真ん中に、ふたつの人影があった。
一組の男女であった。
双方とも鎧を纏い、男は銀色に輝く太刀を、女は同じ輝きを放つ長剣を抜き放ち、落ち着きなく周囲を伺っていた。
『双翼の騎士』レヴィンとエリスの二人であった。
二人は偵察隊からの報告を聞くと、他の村も同様の被害に遭っている可能性が高いと考え、グリフォン・リブより南に半日ほどの場所にある農村──アリアという名の村へ向かった。
その悪しき予感は的中していた。
今、二人の騎士の眼前にあるのは、変わり果てたアリア村の姿があった。
ここで平和な暮らしが営まれていたなど、到底信じられぬ惨状。家屋は焼け落ち、田畑は荒らされ、村民の骸は打ち捨てられたままで、そのいずれも今際の際の苦悶めいた表情を晒したままであった。
「酷い……」
声は抑えられていたが、エリスの怒りは激しかった。
どこかに、襲撃者が潜んでいるのかも知れない。その可能性を考えた上の配慮であったが、この凄惨な景色とは裏腹、周囲は水を打ったかのような静けさが支配している。
その様相たるや、嵐が通り過ぎたかのよう。
だが、横たわる村民の骸に刻まれるは、無数の刀傷。故にこれらは全て人の手によるものに他ならぬ。
まるで、襲撃者らは殺戮のみを愉しみ、村民を皆殺しにした事を知るや、興が失せ、立ち去ったかのようですらあった。
この常軌を逸した光景から目を背けたい。一刻もこの場から立ち去りたい──彼女の心は、その思いによって占められていた。
だが、その彼女とは違い、相棒のレヴィンはその場に佇み、微動だにしなかった。
その視線の先には、山と積まれたアリア村民の亡骸である。
「レヴィン、どうしたの?」
エリスから声がかかる。
だが、彼は動かなかった。
「これを見ろ」
彼は眼前にある死体の山を見遣り、そう言っただけであった。
「ただの死体の山じゃない、何を今更──」
「全て胴体への一撃、または心臓への一撃が致命傷となった遺体ばかり──奇妙とは思わないか?」
「──え?」
心臓や胴体に対する刃での一撃は、大量の出血を促す。無論、傷の処置を行わねば、瞬く間に人は失血死をする。
その的確さゆえに、彼は奇妙だと言う。
人を死に至らしめるもう一つの有効打──頭部を破壊されたと思しき死体が皆無であったこと。この明らかなる偏頗がレヴィンに疑問を抱かせる真因となっていた。
「ここは農村。戦闘に熟練した者など皆無。故に、この手の暴漢に襲われた時、戦いの素人は、どういった行動を取ると思う?」
「一目散に逃げるはずね」
「では、恐怖の余りに足が竦んで震え、動くことすら叶わなかったら? その際、刃が振り下ろされたら?」
「──!」
刹那、エリスは相棒より投げかけられた問いの真意を知り、彼女はその裏に隠された真理の輪郭を捉えた。
目を見開き、息をのむ。
その気配を察するや、隣に立つレヴィンが静かに頷いた。そして、彼は続けた。
「咄嗟に腕で、急所たる頭部を庇うはず──だが横たわる遺体を見れば、庇い傷と思しき腕の損傷は殆ど残されてはいない」
即ち、この村を襲った者らの正体は、これら人間の防衛反応に関して一定の知識を持つ者らであるという証に他ならぬ。
「恐らく、一度は頭部への攻撃と見せかけて、実は心臓、または胴体を狙っての斬撃によって仕留められた。そう考えるのが自然」
「フェイントの初歩ね」一流の剣士にして、フェイントの名手たるエリスが得心して頷いた。
これら牽制攻撃の剣技の数々は、騎士団に所属する者。或いは各地の名士が剣術教師を雇い入れるか、高名な剣士が現役を引退後に開いた私塾に通わぬ限り習得することは出来ない。
そう、これらの暴挙は、一定の訓練を受けた数百人規模の戦力があれば可能であると、レヴィンは推察していた。
「だけど、一体誰が──」
「わからない」レヴィンは首を横に振った。
「ソレイアの配下にある軍勢の殆どは魔物らだ。力任せの戦術しかとれぬ奴らに、このような芸当など到底不可能。考えられる事と言えば、かつてソレイアと密約を結んだ周辺地域の名士が、先のソレイアの敗戦に抗議する為に、配下の私兵らを送り込んだのかもしれないが──」
だが、その可能性も、然程高いものではなかった。
ソレイアが抱える錬金術師らによって脳を弄られ、自我を奪われた肉人形と化した旧聖都の少女らをホムンクルスと称し、各地の有力者の高値で売られていたという事件。
レヴィンらの手によって真相を白日のもとに晒され、その報を受けたシェティリーゼ卿の号令のもと、各地での一斉摘発が行われた。
その経緯で、ソレイアの息のかかった有力者、または議会の議員らの殆どは国の要職からは罷免、または捕縛されており、そんな彼らに直属の配下たる私兵団の維持を可能とする程の権力や財力など残されてはいない。
身辺警護に必要な最低限の──十数人規模の戦力程度ならば、なんとか所有している者もいるであろうが、その程度の戦力で、これら周辺の村々を次々と焦土と化す事など到底不可能である。
同志を集い数少なき戦力を寄せ集めて事を為そうにも、この時世、騎士団の監視の目が厳しい状況下では、それすらも困難。
ふと、レヴィンは死体の山から視線を外し、目を瞑った。
全ての光を、光景を遮断し、彼は思考の世界へと耽り始め、そして、決断した。
「──グリフォン・リブへ戻る」と。
各地へ派遣した神官戦士団と偵察隊の帰還を待ち、被害の傾向や規模など、極力多く情報を収集し、考察を経た後に対策を打たねばならない。
ましてや、今の騎士団、および神官戦士団は主が不在であるという現状、これらの求心力となっているのは『双翼の騎士』として名を馳せソレイアとの戦において様々な大功を成し遂げたレヴィンとエリスであり、また司教ウェズバルドの片腕として内政や外交に力を発揮したカミーラに他ならない。
故に、今まで以上に慎重に、そして軽率な行動は自重せねばならぬ。この少数の現象のみで大局を判断することは、極めて危険な行為であるのだ、と。
そう、彼の知性が告げる。
彼らの行動、言動が、東の騎士団からの派兵された八千騎から成る師団。及び西に駐在する千騎程の神官戦士団の命運に直結するのだから。
闇雲な前進を選択する蛮勇よりも、着実なる退却を決断する勇気を──
この賢者の如き知性こそが、レヴィンを今の騎士団を牽引する中心核として評価される所以。彼の体得した剣術と勝るとも劣らぬ、まさに『第二の剣』であった。
そして、グリフォン・リブへ帰還を果たした二人は、驚くべき報を耳に入れる事となる。
南のグリフォン・ブラッド方面へ送った派遣隊が、誰一人として生還を果たす事が出来なかったという事実を──
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