【佐竹説とその欠陥】
この義帝暗殺の一件に関して、佐竹靖彦氏が著書『項羽』にて考察を行っている。まず佐竹氏は
「『史記』に記された漢初の歴史は、まさに進行中のあるいはごく最近に起こった歴史について、事態を最大限に劉邦集団に有利なように書き換えた陸賈の『楚漢春秋』に主として依拠している」1
とし、本紀にて劉邦集団の都合のよい記述がなされ、それに対応するように列伝以下の書き換えが行われるとする。そして、その本紀での書き換えが列伝におよばないこともあると述べる。そして佐竹氏はこのような観点から以下のような推測を導き出した。
「劉邦集団の正当性を支える大きな言い分は、楚の懐王がさきに関中に入ったものを関中王にすると約したとする主張である。したがって、楚の懐王を殺したものは、臨江王のような項羽側に立って劉邦に敵対した悪者でなければならない。一方、黥布の場合はのちに劉邦に反抗することになるが、それは劉邦の晩年のことであり、陸賈が御前講義として『新語』すなわちのちの『楚漢春秋』を著したときには、黥布はいまだ有力諸侯の一員であった。本紀の記述は、黥布の懐王殺害を隠すための細工であったと推測される。しかし、この黥布ものちには劉邦に反抗して挙兵した。そこで、その段階でかれの「悪行」の記述が、かれの列伝において復活したか、あるいは、そもそも歴史の書き換えが列伝にまでおよばなかったのかのいずれかであろう」。2
だがこの結論には大きな欠陥がある。確かに臨江王は項羽死後も漢に反抗した「悪者」であるが、義帝暗殺時に衡山王であった呉芮はどうであろうか。呉芮は漢帝国成立時に長沙王に分封されており、しかも長沙国は「劉氏でなければ王たらず」という「白馬の盟」が交わされた後も例外的に存在し続けた異姓諸侯王国である。つまり陸賈が『楚漢春秋』を執筆した際も間違いなく有力諸侯の一人であり、佐竹氏が述べるような理由で英布の罪を隠蔽しようとしているのならば、衡山王の名をわざわざ本紀に付け加えるはずはない。そういうわけでこの推論が当たっている可能性は限りなく低いといわざるを得ない。
筆者はこの真相を解く鍵は『漢書』と「呉芮」の分析にあると目を付け、佐竹氏とはまったく逆の結論にいきついた。ではその分析の過程を説明していくとしよう。
1)佐竹靖彦 『項羽』 中央公論社 2010年 p217
2)佐竹 p218
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