No.216671 天使達の祝福(後編)小市民さん 2011-05-14 15:20:52 投稿 / 全2ページ 総閲覧数:492 閲覧ユーザー数:476 |
ふと、逸人は瞳に怒りとも侮蔑もつかぬ複雑なさざ波をたたえると、
「法学部の学生なんて真っ平だからな」
日本最大の難関校と言われる国立の帝国大学を受験するに際し、当然、有名予備校の現役高校生を対象とした授業に通わされた。
その授業中、講師から聞いた話によると、ある私立大学の法学部の学生数名が、深夜に騒ぎながら住宅街を通りかかると、付近の民家の窓に投石があったとして、警察官二名が職務質問をしてきたのだった。
そうした警察官に対し、学生の一人が、警職法第2条3項で答弁を要求されない、と言ってのけ、友人達を感心させた出来事があったという。
このように、法律に明るくなれば、公権に利用や強制されそうになったとき、法的根拠に基づいて拒否することが出来ると、講師は受講生達に法律学の「面白さ」を印象づけたのだった。
しかし、学生が職務中の警察官に懇ろに尋ねられていて、何ら罪科がないのなら、職務に協力するべき、というのが、素直な性格の逸人個人の考えだった。
なまじ法律を学べば理詰め一辺倒になり礼儀、礼節を失っていく、そんな人間になりたくない、というのが逸人が帝大の法学部を蹴った理由の建前だった。智絵理は怪訝そうに、
「それなら、どうしてわざわざ受験したの?」
尋ねた。逸人はふと文字通り五月晴れとなった青空を見上げ、
「母親への復讐……かな。いや、津島には関係のないことだ」
にべもなく言うと、智絵理は、
「じゃ、スポーツ飲料とサンドイッチとオレンジジュース、返してよ。男子なら一宿一飯の義理は果たしなさいよ」
五百ミリリットルのスポーツ飲料と勧められて口にした軽食だけで、どうしてここまで根掘り葉掘り聞かれるのか、それ以前に、どうして津島がここにいるのか、と逸人は言い返しかけたが、智絵理の善意は粗末に出来ず、
「俺の親父は、建設会社で現場監督をやっていたが、俺が中学三年生、妹が中学一年生の夏に、クレーンが横倒しになる事故に巻き込まれて亡くなったんだ。
その後、お袋は建設会社を嫌い、俺を帝国大学に入れるためにと、医療事務を学び始めた。この医療事務というのが、かなり複雑な分野らしく、人材派遣会社直営の専門学校でみっちりと学ばなければ、高度な資格は取れないらしい。
そうした中で、厚生労働省が認可する診療報酬請求事務能力の他、もう二つぐらい認定試験を受け、合格したらしい。
すると、今まで専業主婦だったお袋が、一転して大学病院の医事課に派遣され、キャリアウーマンになって行ったんだ。
お袋はそれが楽しかったらしく、俺や妹に勉強以外の家事に関しても、
『ママに出来ること、あんた達に出来ないわけないじゃない』
と、無理強いを始めるようになったんだ。お袋も自分の実績を示し、子供達に発破をかけるつもりで言っていることは解ったが、やがて、度を超し始め、
『ママなんて、職場では五つも六つもの仕事を同時にこなしているのよ。若いあんた達に出来ないわけないじゃない』
と、まるで超人か全知全能の神を気取り始めたんだ。人間が同時に何人もの相手と会話したり、忍者コミックの主人公よろしく、五つも六つもの分身を出して、それぞれにまるで異なる作業をさせるなど、出来るはずがない。
はったりだと解れば解るほど、こんな思い上がった愚か者が自分の母その人かと思うと、亡くなった親父が哀れで、不憫で涙が出たよ。
そこで俺は、母親に自分がどれほど思い上がった愚者であるか思い知らせてやろうと考えたんだ。
母親の言いなりになって、帝大の法学部を志望する芝居を始めたんだ。もともと勉強が嫌いではなかったのは幸いだった。予備校の講師にも受講生にも虫ずは走ったけどな。
帝大の合格発表のその日、お袋が入学金や一年次前期の授業料を帝大に振り込んだその一時間後、俺自身が帝大に合格辞退の申し出をし、行き先もつけずにぶらりと家を出て行く、という計画は絵に描いたように成功したよ。
後は、お袋の前では素振りも見せずに願書を出しておいた京浜クリエイター学園に入学した、というわけだ」
「お金がもったいないじゃない」
智絵理は予備校の授業料の他に、帝大の受験料、入学金、前納しなければならない授業料全てを逸人の母に不意にさせたことを惜しんだが、逸人はけろりとして、
「帝大は国立だ。私立大と比べて大した金がかかるわけじゃない。それより、自分の子供の人生が、自分の目先の欲と同一という思い込みを心の奥底から反省するべきなんだ。反省出来るだけの頭があるんなら、俺も少しは考えてやる」
逸人が母親の顔を思い浮かべ、憎々しく言うと、智絵理は一口タイプのストロベリーチョコレートを逸人の口の中に放り込み、
「大分、調子が出てきたね。でもさ、京浜クリエイター学園の入学金や戸部本町だかのアパートの礼金や敷金、お家賃、それに生活費はどうしているの? 課題を次々と出されるカリキュラムで、バイトなんてとても無理だよね」
「親父の兄弟に助けてもらっているんだ。親父は三人兄弟の真ん中で、長男の就一おじさんは伊東で旅館をやっていて、三男の誠三おじさんは伊豆高原で寿司屋をやっている。親父の家系は、じいさんの代まで伊豆の漁師だったそうだ。
この二人のおじさんが、親父の三回忌法要のとき、法事の始めから最後まで携帯電話で話し込んでいたお袋に激怒して、俺の家出に賛成し、二年間の期限付きながら、面倒を見てくれることになったんだ。
とりあえず、京浜クリエイター学園に在学中は、安アパート暮らしは保証されたが、留年は許されないし、卒業後は必ずどこかの優れた企業に就職出来ていなければならない。
親を捨てた報いはいつかやってくるだろうが、俺にも俺の言い分があるんだ」
「それで、クラスメートの誰ともうち解けず、一人黙々と課題に打ち込んでいるんだね」
智絵理はどこか不自然な逸人の佇まいの原因を知ると、腕組みをし、うんうんと頷いた。
逸人はむっとして黙り込んだ。
逸人にとって、長男が、男親を失った女親を捨て、家を出たことに対する責めは、この先の人生で思いもかけなかった形で負うことを覚悟し、悩みに悩み、迷いに迷ったあげくの果ての家出であった。
逸人をそこまで追い詰めたのは、顧みるに、月日を追うごとに増長していく母の言動であった。
聞くところ、母は公立の大学病院に派遣された二年後には、恩師財団が経営する皇族ゆかりの医療機関に異動になるなど、キャリアを積み、医療事務専門の人材派遣会社の同僚約二十名のリーダー的な役割を担っているということだった。
特に、毎月十日に前月一か月分の診療内容をまとめ、患者ごとに診療報酬明細書を作成し、各関係機関に提出するレセプトと呼ばれる業務を行う時期は、連日、母の帰りは遅く、妹と侘びしい夕食を摂る月日が続いている。
母子家庭が生きて行く上での悲哀、と言えばそれまでだが、普段、風呂を沸かし忘れたり、予約録画も出来ない母が、超人や全知全能神を気取る物言いは何としても許せなかった。
また、将来、今回の逸人の決断が功を奏して、第一線で活躍するデジタル絵師へと成長させるかもしれないし、あるいは全てに失敗し、横浜スタジアムの軒下で浮浪者になっているかもしれない。
人生の結果は、数年後の未来に、他者によって評価されるもので、慣習どころかきれい事で第三者に弾劾されることは、逸人には不愉快だった。
智絵理も五月晴れに晴れ渡った横浜の空を見上げ、
「わたしは卯月君がいいか、悪いのかを言いたいんじゃないよ。でもね、今までの卯月君の話を聞いていると、自分のことばかりを言っている。妹さんの立場でこの先のこと、考えてみたことある?」
逸人の脳裏に妹の誓恵(ちかえ)の姿がよぎった。高校二年生になっても幼稚園児のような舌足らずの話し方しか出来ず、母に対する不満の半分も言えない。東北東日本大震災の被害報道を見聞きし、余震があるたびに、がたがたと震えては、涙を浮かべるどうにも頼りない妹だった。
逸人は思わず智絵理から目を背け、
「誓恵の人生だ。県立の高校に通っているんだし、自分で何とかするだろう」
「学歴だけの話じゃないよ。おとうさんを亡くし、おにいさんまで突然にいなくなっちゃったんだよ。その後は、大嫌いなおかあさんと二人暮らしだなんて、わたしだったら三日で頭おかしくなっちゃうかも」
誓恵の心中を代弁する智絵理には説得力があったが、逸人は、
「その家の子供が成長すれば、独立して行くのは当たり前じゃないか。それがたまたま一か月前だっただけだ」
用意しておいた切り返しを持ち出した。
智絵理はひたと逸人の瞳の奥を見つめると、
「進学や就職、結婚といった人生の節目に当たって、家族同士がよく話し合い、納得の上で新居を構えるのと、ある日、突然に死人や家出人が出るのとは、意味が全然、違うよ」
逸人は、もはや返答に窮した。
確かに、このまま家出を続け、仮に二人のおじのどちらかが病に倒れたら、逸人は経済的な背景を失うことになる。
また、この先は七回忌、十三回忌と続く父の法事に参列することも出来なければ、妹の結婚式に招待されることもなくなる。将来、母が亡くなっても、そのことすら知らず、生活しているのだろうか……正に孤独のどん底で、こうした兄をもった誓恵もまた生涯、重荷を背負い続けるのだろう。
逸人は初めて置き去りにされたがごとくの誓恵の恐怖に近い感情が理解出来、
「どうしろってんだ。家出はもうやっちまったんだぞ」
思わず尋ねると、智絵理は、
「おじさん達の手前、今日、明日には無理だろうけれど、卯月君と妹さんとおかあさんの三人でじっくりと話し合う機会をもつところから始めたらどうだろう。
この話し合いを経ても、おかあさんが今までと同じ態度を続けるのなら、卯月君は妹さんを連れて、そのまま別居を続ければいいし、おかあさんが態度を改めてくれたら、また同居すればいい。
自分が気付かなければならないことに、正しく気付けたときが、もう物事が好転するきっかけになっているんだって。おばあちゃんが教えてくれた」
逸人が約四年間、どうにも出来なかった問題に、指針をもたらせたのだった。
逸人は目を丸くし、
「津島ってすごいんだな」
息を呑むと、智絵理は苦笑いをし、
「うちもね……おとうさんが絵描きになる夢を諦めきれなくて、画材店をやっているって言ったでしょう。おにいちゃんもその道に進ませたかったんだけど、おにいちゃんがヴァイオリンをやりたいと言って、音楽大学に進んでからは、家の中の雰囲気がすっかり悪くなっちゃって」
智絵理の家庭にも、負った問題があるのだった。しかし、いつか解決出来ることを信じている智絵理の佇まいは輝いて見える。
智絵理が、軽食と共に逸人に与えたのは、生命力であった。逸人は、
「津島に何か礼をしなきゃいけないな」
生来の素直な心で言うと、智絵理は待ってましたとばかり、
「それじゃ、デジタルイラスト制作ソフトの使い方を教えて。それから、人体解剖学も」
「お安いご用でよかった」
逸人が笑って答えたとき、逸人自身が手にしたスケッチブックに描かれた愛らしい天使達は、五月の澄んだ陽に照らされた。それは、逸人が不幸に立ち向かう決意を抱けたことを祝福しているかのようであった。(完)
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ゴールデンウィーク中の横浜バラクライングリッシュガーデンで、専門学校生の卯月(うづき)逸人(はやと)が出会った津島(つしま)智絵理(ちえり)に与えられた一言は……小市民の短編「天使達の祝福」(後編)です。
劇中で女主人公が「自分が気付かなければならないことに、正しく気付けたときが、もう物事が好転するきっかけになっている」という台詞を言っていますが、あくまで「正しく気付けたとき」です。どうかお考え違いのないように。
時期外れの作品ですが、ご感想をお待ちしています!