No.213375

言えない言葉(後編)

小市民さん

横浜赤レンガ倉庫で開催されるゆめのいぶきの原画展とサイン会の会場で、中学二年生の女の子春日みらいが見たものは……「言えない言葉(後編)」です。
物語の時間軸は、四月十一日の午後四時から午後六時過ぎという設定で、午後五時前に余震がきていますが、実際には午後五時十六分で、横浜は震度三でした。まあ、創作と言うことで、一つ、はい。
それからゆめのいぶきのモデルはバレバレですが、まあ、気づかない振りしてお楽しみ下さい。ご感想お待ちしています!

2011-04-25 08:18:42 投稿 / 全2ページ    総閲覧数:580   閲覧ユーザー数:562

 みらいは夢を見ていた。

 なぜか自分は横浜の開港時代、外国人居留地と定められ、現在でも教会や洋館が建ち並ぶなど、エキゾチックな雰囲気を伝える山手へ上がる谷戸坂の上り口に立っている。

 周囲は逃げ惑う人々でごった返し、正に阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。一体、皆、何から逃げているのか、と辺りを見回すと、臨海公園である山下公園を瞬時にのみ込んだ巨大な津波が眼前に迫っていた。

 みらいは弾かれたように群衆と共に山手へ伸びる谷戸坂を駆け上った。

 不意に、すぐ傍らで足が不自由そうな老婆が転んだ。みらいは老婆を助け起こそうとしたが、

「みらいちゃん!」

「駄目!」

 すぐ目の前を走るクラスメートの毬香と千瑞に怒鳴られた。みらいは為す術もなく、老婆を見捨てた。

 老婆はその後、どうなったのか解らず、次の瞬間、みらいは着の身着のままで逃げた群衆と共に港の見える丘公園に立っていた。

 普段は穏やかな群青の海面に、白く光るさざ波をたたえる横浜港が、突然に正気を失い、立ち上がったがごとくの巨大な津波の破壊力は圧倒的で、横浜の市街地を情け容赦もなく破壊し、なお内陸へと押し寄せていく光景をみらいは茫然と見つめていた。横浜市街は全滅であった。

 いつの間にか、千瑞と毬香ともはぐれ、スカートのポケットに入れておいた携帯電話をなくしている。

 巨大な津波は、灰色のしぶきと不気味なうなりを上げ、開港時代に度重なる異人狩りから居留者を守るため、フランス軍が駐留したことからフランス山と呼ばれる高台の斜面を覆う木々をなぎ倒して駆け上り、ようやくに逃げ延びた群衆までものみ尽くそうと、眼前に迫ったとき、みらいははっと夢から覚めた。

 再三再四、ニュース番組で報道されている三陸地方の津波の被害と自分が暮らす横浜の市街地が、睡眠不足の頭の中で入り乱れ、不吉な夢となったのだろうか……

 間もなく始まるゆめのいぶきを名乗る母のサイン会の会場であるみなとみらいの赤レンガ倉庫一号館に早めに着いたものの、みらいは進路を相談したい母とは会えず、一緒に訪れたクラスメート達も遊び気分で別行動となっている。

 二号館の館内を母とクラスメートを捜し回っている間に疲れが出、居眠りをしてしまったようだった。

 「あ、起きちゃった」

 不意に、チーズと呼んでいるクラスメートの柿岡千瑞の声がすると、みらいは顔を上げたそのとき、自分の目を疑った。

 母が、千瑞ともう一人のクラスメートで、マリカと呼んでいる服部毬香にのぞき込まれながら、自分の寝姿を自分のスケッチブックに熱心にスケッチしているのだった。

 みらいは思わず、

「ママ! 何をしているの!」

 母に声を上げると、母はスケッチブックに向けた真剣なまなざしを離さず、

「動いちゃ駄目、あんた、次の仕事のモデルにぴったりなんだから」

 次の仕事とは、ライトノベルのカバーに使うカラーイラストか本文中に入れるモノクロイラストなどを描くことであったが、みらいをモデルに使える、ということは、一朝事あったときだけ、中学生の殺し屋だの、複雑な過去をもった少女剣士か女魔導士だの、本領を発揮するものの、日常は相当な天然、という役所で、これで猫耳のカチューシャでもつけていれば、百点満点であろう。

 みらいは、よりにもよってクラスメートの面前で、しかも商業施設で居眠りをしてしまった娘の寝姿を、娘が使っているスケッチブックにスケッチを始める気遣いのない母に、かっと腹を立て、

「バカにして!」

 スケッチブックを取り上げようと手を伸ばしたそのとき、不意に赤レンガ倉庫二号館が風に吹かれた草木のように揺れ出した。

 東北東日本大震災の余震であったが、かなり揺れは激しい。

 館内を行き交う市民や観光客達も青ざめた顔を見合わせて、千瑞と毬香の表情からも笑いが消えた。

 唯一、母だけはこの建物が九十年前の関東大震災に耐え抜いたことを知っているだけに、落ち着き払っている。

 みらいは反射的に母に抱きつくと、涙を浮かべ、がたがたと震えた。

 

 横浜赤レンガ倉庫一号館を会場に使った、人気絵師ゆめのいぶきのサイン会は盛況だった。

 ターゲットとしている女子中高生ばかりか、女子大生、OL、男子学生や若手サラリーマンも押しかけ、文庫本と比べればはるかに高額な新刊の画集を、瞳を輝かせ、出版社に派遣されたアルバイトから買い求め、見返しにせっせとサインをしているゆめのいぶきの前へと並んで行く。

 そうした熱心なファンの列を、みらいは千瑞と毬香と共に会場の片隅から見つめていた。

 東京・目白にある名門私立校の制服であるセーラー服のまま会場に駆けつけた女子高生は、ゆめのいぶきにサインをもらいながら、

「あの……先生が使っているイラスト制作ソフトは何ですか? やっぱり業務用の……」

 待ちかねていたように質問すると、ゆめのいぶきは、

「とんでもない。コミックステージPROですよ。本当はEXがほしいんだけど。コミステで線画を描いてから、イラストステージで色を塗っています」

 気さくに答えた。女子高生は真剣な瞳でうなずき、手渡された画集を胸に押し抱き、深く一礼すると、退いた。

 次にゆめのいぶきに買い求めたばかりの画集を差し出したのは、目つきが悪く、爆発したような頭髪を赤く染めた若者で、いわゆるパンクだった。

 みらいは思わず、母の身をあんじたが、ゆめのいぶきは営業スマイルを一糸として乱すことなく、応対している。

 若者はサインをしているゆめのいぶきの手許を見つめ、

「俺……先生の絵、好きっス。かわいいっス……俺もバンドがんばるっス」

 見た目とは大違いの希望にあふれた声を詰まらせた。

 ファンの列はなおも延々と続き、それぞれにゆめのいぶきが描く可憐なキャラと透明感のある色使いに共感する思いを打ち明けるように口にしては去って行った。

 みらいは圧倒的な支持を受けている母がただ嬉しく、熱っぽいまなざしを送り続けた。

 

 サイン会を終えると、ゆめのいぶきこと春日怜子は、一人娘のみらいとその友人の千瑞と毬香に赤レンガ倉庫二号館の中国料理店で夕食を振る舞っていた。

「あのね、みらいちゃんね、地震があった日、あたしん家(ち)に泊まって行ったんだけど、ニュース見ながら泣き出しちゃったんだよ」

 毬香が、東北東日本大震災が起きた三月十一日、停電により自宅のマンションに入館することすら出来なくなったみらいを、宿泊させたときの出来事を、担々麺を食べながら怜子に告げ口するように言った。

 みらいはどうにもばつが悪い思いとなった。怜子は地震当日にみらいが一晩どうやって過ごしていたのか、何も言わず、怪訝に思っていたのだが、やはり友人宅に泊まっていたことに安心した。怜子はみらいに申し訳なさそうに、

「あの日ね、携帯電話が繋がらなくて、本当に困ったのよ。わたしもみらいが心配で、飛んで帰りたかったんだけど、結局、帰宅難民になっちゃって」

 一か月前から背負っていた重荷を下ろすように言った。みらいはサンマーメンを口に運ぶ手を思わず止め、

「えっ? ママ、心配していたの?」

 確かめるように聞き返した。怜子は一人きりの娘が、母親を一体どう捉えているのか、あきれながら、

「当たり前でしょう」

 言うと、先ほど居眠りをしているみらいのスケッチブックを目にしたとき、中学二年生にしてはあまりに下手なデッサンの数々に情けなくなったことを思い出した。

 キャラのアップを描いた作品でも、顔とは頭蓋骨のほんの一部に過ぎないことを理解出来ていないことから、まるでバランスがちぐはぐとなり、目鼻の位置に至ってはでたらめだった。

 頭部からこの有様では、全身を描いた作品は目も当てられなかった。八頭身キャラも三頭身キャラもなく、まるで宇宙人を描いているようで、これでは未就学児童以下だった。

 人体解剖学以前のレベルでは、キャラの性格どころか、男女の描き分けや建築設計分野になる遠近法を用いた人物デッサンなど、夢のまた夢だった。

 とても出版社で働く父とデジタル絵師の母の子とは思えぬ恥ずかしさを覚えた。

 怜子は、こんな娘をこのまま世間に出したら、とんでもないことになる、と考えたとき、はっとして、

「そうそう、みらい、あんた、ママに話があるんじゃなかったの、何?」

 娘に聞くと、みらいは先ほどの母のサイン会を目にしたときに得た、自らの根源である両親を敬う心をもつだけで、自分の人生がたちまちに輝き始めるという気づきを胸に、

「うん、あのね」

 母からデジタルイラストを学びたい、母と同じ仕事に就きたい、という未来を、素直な思いで語り始めた。(完)


 
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