あれから、どのくらいの日々が経ったのだろう。あの、自分の人生を変えてしまった惨劇か
ら、幾時が経ったのか。
背は伸び、体つきも大人になって来た。しかし、それは良家の一人娘としての成長ではなく、
放浪する身となった、哀れな娘の成長としてのものだった。
長かった金色の髪も、結局長いだけの代物になり、今は伸びたい放題。白くて艶のあった肌
も、長い旅の最中に薄汚れる。顔の肌も荒れ掛かっていた。
ガラスのように繊細だった娘の体には、ここまでの旅はあまりに乱暴過ぎていた。何よりも、
心の中が痛んできていた。
これから一体、何をしたら良いのか。ただ当ても無く、その日その日を過ごして行くしかない
のだろうか。
両親と過ごしたあの日々が懐かしい。だが、それももう戻らないのだと思うと、少女の青い瞳
を持つ眼からは涙が溢れた。
寝れずに泣き明かした夜が何度あっただろうか。
そんな時は、自分の愛馬に体を寄せ、その体の温かみを感じながら慰めてもらうのだった。
少女が白い馬と共に体を寄せ合っていると、再び新しい朝が明けた。
彼女達は森の中にいた。山中にある森の中。人気に付かない場所にいるのは、あまり人と
出会いたくないから。誰かから逃げているのではなく、ただ、そういう気分ではないから。
森の中で迷ってしまったのだろうか。地図を広げても、居場所が良く分からない。何しろ広い
森で、人も住んでいない。
ただ一人、まだ14歳という若い少女は、たった一人で生きている。それも、人目の付かない
ような場所でこっそりと。
森の中の泉で顔を洗い、再び新しい日がやって来た事を体に教える。そして、腰に剣を吊る
すと、彼女は馬に跨った。
年端もいかない少女が武装しているのは、自分がただの女ではない事の証。ただ、重い武
具は身につけられないから、かなり軽いものばかり。
ここまで一年かかっている。ずっと旅をして来た事もあり、生きていくための術も身につけて
いた。自分の身を守るための術ももちろん。
だから、今までやって来れた。
目指していたのは、『リキテインブルグ』の《シレーネ・フォート》。大陸のずっと南の方にある。
故郷からここまで、北方出身の彼女にとっては長い旅になっていた。
時々、人里へ立ち寄る事もある。そこで、生きるために必要なものを稼ぐ。
でも、普段は大抵、人もいないような場所に隠れるように住んでいた。
生きる為の目的はあった。今はそれに一歩でも近付きたい。その為には、《シレーネ・フォー
ト》まで行く必要があった。
そう決心してから、すでに数ヶ月が経つ。北から南の国々へ、彼女は一人、誰に頼る事も無く
馬を駆っている。
夜な夜な、人里離れた山に、剣を打つ音が響いていた。その場所は、毎日確実に南の方へ
と移動して行っていた。
緊張した肌が、敏感に周囲の空気を嗅ぎ取り、ほんのわずかな気配までも読み取る。辺りは
無音。しかし、そこには幾つもの気配がある。
夜の闇の中での木の位置。夜行性の生物の気配まで、ぼんやりとだが読み取る事ができる
ようになっていた。
山の中の森に入って数日が経つ。手にした剣は、自分で作った木の剣で、ただの練習用。し
かし、柄にははっきりと使い込んでいる汚れがあった。
だが、重要なのは剣の腕前や強さよりも、気配を感じ取り、落ち着いた精神力で相手の何手
も先を行く事。
そう、いつか読んだ本に書いてあった。
月明かりで照らされる森の中に、一人の少女がいる。まだあどけなさの残る顔。そして、成熟
しきっていない体。
年の頃は、10代前半。剣を握るその顔は、真剣そのものだったが、眼と瞳は大きいし、顔に
はそばかすさえあった。
こんな顔で真剣勝負をしても、多分笑われてしまうだろうな。いつも少女はそう思う。自分はま
だ、女に成り切っていない、小さな娘でしかない。
突然、少女は緊張の糸が解けたかのように、息を切らせ、その場に座り込んだ。
体中を汗が流れている。着ている服も薄汚れていて、肌も荒れていた。
山で育ったかのような風貌、少女の姿は遠目に見ても、そのようには見えない。明らかに育
ちの良い娘だった。
数ヶ月も放浪して来たから、髪は伸び放題だったが、金色の糸のようであるし、薄汚れた肌
にも、透き通るような白い肌の面影はある。顔立ちも粗野なものではない。高い鼻、大きめの
眼は、恵まれた環境で育った事を意味していた。
この地方としては、顔彫りが少し浅いし、青い瞳の青さも薄く、緑が入りかけている程。それ
は、より北方の出身であるという事を示していた。
今はどの辺りにいる? 静かな森だ。とりあえず地図で見た限りでは《シレーネ・フォートまで
半分以上は来ているはずだった。
地図を広げれば、北方の国々はとうに越え、沿岸三カ国の呼ばれる国々の内陸部に彼女は
いた。
だが、まだ先は長そうだ。これからも国境を越えなければならないし、山があり谷もある。ま
ずはこの森を抜けなければならない。今の居場所はどの辺りか。深い森のお陰で、自分の居
場所さえも見失いそうになる。
とにかく南へと向かえば、どのみち森は抜けられるはずだった。森には沢山食べられるもの
があるし、獣にさえ注意していれば何とかなる。
あと、何ヶ月くらいかかるのだろう。そう思いながら、彼女は森の泉の中で顔を洗っていた。
夜は更け、人は眠っている時間だ。そうは言っても、この森の中には人が住んでいるような
気配は無いけれども。彼女もうとうとなりかけていた。
と、少女が顔を洗っていると、背後から物音が聞えて来たのだ、思わず彼女は悲鳴を上げ
る。
「誰?」
少女は声を発するのよりも前に剣を手にしており、それを自分の背後へと向けた。練習用の
剣ではなく、本物の刃の入った剣だった。
ほんの少し物音が聞えただけで、後は静まり返っている。夜の静かな闇だ。
思わず少女はため息をつき、剣に入った力を緩めた。
多分、小さな動物か何かだったのだろう。警戒するまでも無い事。たった一人で、しかも森の
中で迷いかけているのだ。些細な事でも心配になってしまうのは仕方の無い事。
だが、次に聞えてきた音には、少女は更に警戒した。
森のどこからか、それは、木々や小鳥の囀りのようにも聞えるが、違う音が聞こえてきてい
た。
それは、子供の笑い声のようなもの。
こんな森の奥深くに子供がいるとでも言うのか。しかも、こんなに夜に。
「誰? 誰よ?」
その声が、自分を取り囲んできているかのように聞えてきていたので、少女は思わず立ち上
がり、周りを警戒していた。
幾つもの子供達の声が、自分を取り巻いて聞えてきている。それがはっきりと本物の声だと
分かるまでに長い時間はかからなかった。
それには男の子の声もあったし、女の子の声もあった。
少女が、警戒も露にその場に立っていると、声はだんだんと彼女の方へと集まってきている。
「にんげんだ」
「にんげんよ」
「にんげんが、こんな所に来ているわ!」
声がはっきりと意味を成して来た。それは、少女のすぐ側から聞えて来ている。しかし、誰も
そこにはいない。
最初は何も見えてはいなかった。しかし、薄っすらと靄のかかったようなものが見えて来る。
さっき、そこにはそんなものは無かったのに。
やがて姿を現した声の正体に、少女は腰を抜かした。
薄っすらとかかっていた霧のような靄が、小さな子供達の姿となって、彼女の周りに姿を見せ
たからだ。
様々な容姿の子供達がいた。それは、男の子であったり女の子であったりして、着ている服
装もまちまち。そんな子供達が、少女の周りに10人ほど姿を見せていた。
皆が、少女よりも何歳も歳は下だろう、6歳か、7歳かの小さな子供達がここにいる。そして、
そのまま周囲の光景と同化してしまいそうなくらい、肌が透き通っている。
子供達の中の一人の女の子が、少女の方へと近付いてきた。そして、驚いている彼女の顔
のすぐ側まで顔を近づけてくる。
「やーね。この子、女の子だわ!」
「女の子が、こーんな所まで来ているの」
「珍しーい!」
子供達は口々に声を上げた。良く聞けばその声はそこら中に反射して聞えてきている。まる
で、もっと多くの子供達がこの場にいるかのように。
「剣を持っているけど、女の子よ。あなたお名前は?」
まだ驚きを隠せないまま、少女が何も答えられないでいると、目の前の子供は、再び少女に
話しかけてきた。
「あなたお名前は?」
「ブ…、ブラダマンテ…」
少女は答えていた。
「そっか、ブラダマンテちゃんか…」
ブラダマンテと名乗った少女は、眼を見開いて、目の前の子供の姿を見ていた。
「あ、あなた達は、一体…?」
彼女は尋ねる。しかし、周りの子供達は、ただ笑っているだけだ。
「そーんな事、どうだっていいから、ねえ? わたし達と、楽しい事しない?」
「た…、楽しい…、事…?」
息も絶え絶えな程に驚きながら、ブラダマンテと名乗った少女は言っていた。
目の前の女の子は、地面にへたり込んでいる彼女に顔を近づけて来ている。そんな女の子
の姿は、絹のような素材のドレスごと向こう側が透けて見えていた。
「そう、楽しい事。あたし達と一緒に遊ぼうよ!」
女の子はブラダマンテに迫った。だが、彼女はすっと立ち上がり、女の子の方から背を向け
る。
「そ…、そんな事をしている暇なんてない」
どもりながらも、きっぱりと言った彼女。周りを取り囲んでいる子供達に、どことなく恐れを抱
き始めている。
「メリッサ、行こうよ!」
ブラダマンテは辺りを見回した。メリッサとは、彼女の愛馬の白い馬の事だった。
「メリッサ!」
ブラダマンテは叫ぶが、自分の近くには愛馬の影は無い。
「メリッサってだーれ?」
女の子が聞いて来る。だが、ブラダマンテは構わず愛馬を探した。
「どこ? どこなの?」
ますます慌てた様子を見せる彼女。だが、やがてはっとしたように木々の先を見つめた。
「メリッサ!」
ブラダマンテは叫んだ。彼女が見た方向には、多くの子供達に囲まれた自分の愛馬がいる。
得体の知れない子供達に囲まれている自分のパートナーに、彼女は慌て、走り出した。
「駄目、駄目。その子達に近付かないで!」
彼女は駆け寄ろうとするものの、愛馬、メリッサは、自分の周りを取り囲んでいる子供達を恐
れる様子も無く、むしろ懐いてさえいるようだった。
背中に、一人の男の子を乗せようとさえしている。普段は人見知りが激しく、他人には心を許
さない馬だと言うのに。
「この子、あの女の子の友達だよ」
背中に跨った男の子が言った。
「あの子も女の子で、この子も女の子だよ」
「女の子同士の、お友達だ」
「でも、あっちの子は人間で、こっちの子はお馬さんだよ。お話とかできないんじゃあない?」
口々に話している子供達。夜の闇の中に、ぼうっと光る姿でいる子供達に、ブラダマンテは
慌てた。
「メリッサ! その子から離れて!」
彼女は叫んだが、メリッサの方は何も聞えていないという様子で、自分の背中に子供達を乗
せ、ブラダマンテとは逆の方向に走って行ってしまった。
「メリッサ! 待って!」
ブラダマンテは叫び、自分の愛馬の後を追った。子供の馬だとは言え、相手は馬なので彼女
の脚では到底追いつかない。しかも、足場は森の地面。木の根や蔦が張っていたりして、思う
ように走れなかった。
それでもブラダマンテは、愛馬の名前を叫びながら走った。
だが、幾ら呼んでも、メリッサの方は、自分の方を振り向いたり、足を止めたりはしようとしな
い、子供達を背中に乗せたまま、どんどん森の向こうへと走って行ってしまう。
「待って! 待って!」
ブラダマンテは叫んだ。木の根に足を取られてその場に転んだりもした。しかしそれでも走っ
た。だが追い付けない。
さんざん走った後で、ブラダマンテの視界の中にはメリッサの姿は見えなくなってしまった。
息を切らせ、胸を押さえながら、周囲を見回す少女。自分は夜の森の中にただ一人いるだけ
の存在になってしまった。
「メリッサ!」
愛馬の名前を再び叫ぶものの、これも反応が無かった。
主人である自分を差し置いて、メリッサはどこへ行ってしまったのだろう。
「メリッサーッ!」
今度は精一杯の声を出して、ブラダマンテは愛馬の名前を叫んだ。しかし何も返事が無い。
暗い夜の森の中にただ一人のブラダマンテ。もはや自分は一人ぼっち、どうする事もできな
い。疲れてしまい、その場にへたりこんでしまった。
やがて、どこからか、森の木々の葉が囀る音が聞こえてきた。
「誰…?」
疲れた声でブラダマンテは言った。しかし、人が近付いているという気配は無い。そうではな
く、風が吹いている。
一方向から吹いてくる風。長い髪がなびくので、ブラダマンテにはすぐに分かった。木々の間
からやって来る風は、不自然なほどに勢いを増し、ブラダマンテの目の前に集結して行く。
「な、何…?」
奇妙な風だった。空気の流れは、ブラダマンテの目の前に集まっていくに従い、それがだん
だんと形を成しているようだった。
やがて、集まっていく風は、白い靄のような姿となり、だんだんと実体を現していく。
そして、ブラダマンテの目の前に現れたのは、一人の女性の姿だった。
眼を見開いてその姿を見ていると、風の中から姿を現した女性は、ブラダマンテの顔を見つ
めてきた。
ブラダマンテが何も口に出せずにいると、相手側から話しかけてくる。
「こんにちは、お嬢ちゃん。こんな所で何をしているのかしら?」
不思議な姿だった。明らかに女性の姿をしているが、靄がかかっているかのようで、さっきの
子供達のように、着ている服ごと向こう側の景色が透けて見える。そして、夜の中でもぼうっと
輝いているのでその姿を見る事ができる。
更にその姿は風のように揺らいでいた。
「あ…、あ…、そ、その…、あなた…、は?」
「わたしは、シルキアナよ…」
そう名乗った女性の声は、森の中に反響して聞こえてくるようだった。しかも声が揺らぎ、うね
った音階で聞える。
「シ…、シルキアナ…って…、シルフ? か、風の精霊の事ですか…?」
驚いた声でブラダマンテは言った。
「ええ、そう…。少なくともこの地方の世界ではわたしの事をそう呼ぶわね…? その訛り方と
あなたの顔立ちからして、大分北から来たみたいねえ…」
風の中に揺らいで見えるその姿は、ローブを纏った髪の長い女性の姿。それには人間離れ
をした美しさがあり、どこか神秘的な匂いを漂わせる。そして常に彼女の周りではそよ風が流
れていた。それは荒々しいものではなく、感じるだけでどこか安心させるというもの。
ブラダマンテはしばらくその姿に見とれていた。彼女は、自分が今までに見た事も無い存在、
その不思議な感覚に、意識を奪われたかのような感覚に陥っていた。
だがやがて、はっとしたかのように彼女は言った。
「そうだ! あ、あの! 私の馬を知りませんか!? あの、真っ白で、牝馬のポニーなんです
けど!」
慌てた声のブラダマンテ。だが、風の精は変わらない落ち着いた声で言った。
「ああ…、さっきのあの子の事ね…。シルフ達が一緒に遊んでいたみたいだけれども…、わた
しが呼べば戻って来るわ」
「シルフ達…、ですか…?」
「そう…、シルフだったりニンフだったり…、わたし達の中では別に区別をしていないけれども、
自然の中には大抵いるものよ…。ほら、戻って来て、この女の子にお友達を返してあげなさ
い」
そうシルキアナなる風の精が言った時、その呼びかけはまるで風に乗ったかのように遠くへ
と運ばれた。森の中へと響き渡り、まるで遠くへと飛んで行ったかのようだった。
「今のは…?」
声の飛んで行った方を見て、ブラダマンテが尋ねた。
「ほら…、すぐに戻って来るわよ」
そう言った彼女の方を向いたブラダマンテは、ぼうっとした光がその方向からやって来るのを
見ていた。木々の隙間を縫って走ってくる一つの姿、それはメリッサだった。
「メリッサ!」
ブラダマンテは思わず駆け寄ろうとしたが、愛馬の背中の上には、まだあの子供達が跨って
いた。彼女は思わずためらう。
「平気よ。悪戯好きかもしれないけれども、悪さはしない子達だから…」
と、シルキアナは言った。
疑いたくなりそうだったが、ブラダマンテはそろそろと、メリッサの方へと近寄っていった。
すると、子供達は、その場からどいた。
「この子、普通のお馬とは違うから、大事にするんだよ」
メリッサに抱きつくブラダマンテに、子供の一人がそのように言った。だが彼女には何の事だ
かさっぱり分からなかった。
「もう、勝手に走っていったりしないでよ。いい?」
と、ブラダマンテが言うと、メリッサは息を唸らせた。
「あなた、剣を使えるのね?」
突然、風の精、シルキアナはブラダマンテに尋ねてきた。
一振りの剣を抱えるように持っているブラダマンテは、彼女の方を向くと、
「え…? いえ、それは、使えるといったほどじゃあ、ありませんけれども…」
自信なさげにそのように言う。
「あなたみたいな、見るからにお嬢様出の女の子が、こんな森深くで剣を握っているなんて、普
通じゃあないわね…? 何か、目的があるんでしょう?」
ブラダマンテの眼を覗き込むようにして、シルキアナは言って来る。
「べ、別に、目的なんてありません…!」
「嘘は、言わなくても良いのよ。あなたの眼が言っているもの」
そこまで言われてしまうと、ブラダマンテにはどうしようもなかった。だが、彼女にとっては詮索されるのは嫌だった。
旅する少女、ブラダマンテと、彼女が通り抜けようとしている森の中に住む精霊達は、しばら
く一緒にいる事で、少しずつだが打ち解け出した。
ブラダマンテはあくまで人間の少女であり、今まで精霊と出会った事も無ければ、話した事も
ない。出会ったその晩は戸惑いも隠せず、寝付くこともできなかった。
幻だったのかとも彼女は考えた。だが翌朝、彼女の視界に、昨晩見たものと同じ者達がいた
事で、だんだんと精霊という存在を受け入れ出していた。
ぼうっとした姿、向こう側の景色が透けて見えてしまうような姿の子供達は、シルフと呼ばれ
る精霊だと名乗ってくれた。しかし正体を明かされたとはいえ、何をするにしてもじろじろと見ら
れていては、ブラダマンテは落ち着かない。
ろくに水浴びもできないだろう。
ブラダマンテは戸惑いを隠せないでいたが、やがて一人の女の子のシルフが、彼女に自分
達の存在について話をしてくれた。
「あたし達はね。森そのものなの」
「それって、どういう事?」
岩の上に座っているブラダマンテ。彼女は木々の隙間から差し込んでくる光に照らされてい
る。彼女の傍らには、女の子のシルフが座っている。そこにははっきりと存在感があり、幻では
ない事を感じさせる。
女の子はブラダマンテの目の前に飛び出し、体全体を使って表現を始めた。
「森の中にいろんなものがあるでしょう? 木は沢山立っているし、草も生えていて、お花も一
杯ある。泉や小川だってあるわ。その中の一部があたしなの」
「つまり、あなたは、森の中のどこかに住んでいるって事…?」
よく分からないと言った様子でブラダマンテは言った。
「確かに住んでいるけどね…。あたしは、草やお花、そのものなの。ただ、草やお花ではあなた
とお話できないでしょ? だからこうやってあなたと同じような姿になってあげてるってだけな
の」
シルフは説明したが、ブラダマンテはとても信じられないと言った顔だった。
幾日かが過ぎた。ブラダマンテはその間、精霊達に囲まれて森の中にいた。確かにそういう
生活も初めて体験するもの。他人にこの事を話しても信じてもらいないような事。
だが、いつまでもここにいるわけにもいかない。
それに、そろそろ旅を続けたかった。この精霊達なら、森を抜ける方法を知っているに違い
ない。
「もう行っちゃうの?」
自分達の事を説明してくれたシルフの女の子が、出かける素振りを見せるブラダマンテに尋
ねてきた。
「いつまでもここに居ても、やる事無いし…、そろそろ行かなきゃ…。できれば、道、教えてもら
える?」
「夜まで待ってくれないかな?」
いきなり話しかけられ、ブラダマンテははっとして背後を振り返った。そこには、男の子のシ
ルフがいた。
「ど、どうして…?」
「シルキアナが話があるんだって」
結局、ブラダマンテは夜まで待っていた。何も、今日中に街まで降りて行く必要もなかった。
今まで自分が出会った事も無かった存在、精霊の話となれば、聞かないわけにもいかない。
夜の森の闇の中でブラダマンテがシルフ達に囲まれて待っていると、やがて、彼女の周りを
包み込むようにそよ風が流れ始めた。そしてぼうっとした光が、現われ、ゆっくりと女の人型の
姿が出来上がる。
「こんばんは」
風の中から現れたシルキアナは、優しい声でブラダマンテにそう言った。
「こ…、こんばんは…。あの、お話というのは何でしょう?」
ブラダマンテがシルキアナと直接話すのは、初めて出会った時とこれで二回目だった。ブラダ
マンテは、この女性の姿をした風の精霊が、ただそこに存在しているというだけで、大きな存在
として感じられるその気配を、身をもって感じていた。
「お話…、お話ね…。待っていてくれてありがとうね…。わたし達精霊から見込んで、あなたに
大事なお話なのよ」
少し考える素振りを見せながらシルキアナは言った。
「あなたは、もともと、こんな所にいるような子じゃあない。もっと育ちの良い子のはずよ。両親
からの愛情をたっぷりと注いでもらって生きている。そのはずじゃあないの?」
「ええ…、まあ…。そうですけれども…」
「でも今は、一人で生きていくしかない。そうでしょう?」
ブラダマンテは何も言わなかった。
「ただ、一人でひっそりと生きて、惨めに終わるのだけは嫌だ。何か、自分には生きる目的が
あってもいいはず。そう思ってあなたは旅に出た。そして、今も続いている…」
「そう…、かもしれませんね…。自分でも良く分かっていません…。今は、行く場所はありますけ
ど、何か目処があるわけでもないですし…」
「あなたは剣を手に取っている? なぜ?」
「ただの護身の為ですよ」
「あなたの脚と体型を見ると、剣に対しての才能が無くは無いわね…? 年頃の女の子より
も、脚が長くてその割に小柄だから動きが身軽そうよ…」
「それは、どうも…」
「そんなあなたを見込んでの話よ。わたし達が、剣の修行をさせてあげる」
「え…?」
「言った通りよ。剣の修行をさせてあげるって言ったの。
このご時勢じゃあ、一人で世を渡っていくには、多少なりとも剣が使えた方が身のためという
ものよ。あなたは運が良いわよ。まさか、人間が精霊に剣の稽古をつけてもらえるなんてね」
シルキアナはそのように言って、ブラダマンテが、どうするかも決断しないままに、精霊は勝
手に事を進めてしまうのだった。
「あなたは、何かを探して旅をしているのね? でも、例えそれを見つけたとしても、自分が解
放される事は無い、それもよく分かっている。だけれども行動せざるを得なかった。とにかく、
動いて、色々な事を忘れたかった。そんな所かしらね…?」
暗闇の中にぼうっとした光と共に立っているシルキアナ。彼女は自分とあまり目線を合わせ
て来ようとしないブラダマンテに、話しかけていた。
「…、よく、そこまで言い当てられますね?」
森のそこら中から反響してくるかのような声に、ブラダマンテは答えていた。
「わたしは、精霊よ。あなたの眼と、姿を見れば大体分かるわ」
さきほどまでの子供達は、シルキアナの側に寄って来て、彼女と一緒にブラダマンテの方を
見ていた。
「もし、私が、それは全て間違っている、あなたの思い込みだって言ったら、どうします?」
「そうなの?」
「いえ…」
「じゃあ、当たりね」
自分を引っ掛けようとした少女を、まるで楽しいものを見ているかのように、シルキアナは風
を纏わり付かせた。
彼女の方から湧き出るような風が、ブラダマンテの体を包み込んでいる。
「剣の修行をしてくれるって、なぜですか? 突然な話ですね?」
そんな事をしてくるシルキアナに、ブラダマンテはそっぽを向いたまま言っていた。
「あなたがまだ、か弱い女の子にしか見えないからよ」
「自分の身ぐらい、自分で守れます」
「そうかしら? 自分の馬も守れなかったかもしれないって言うのに?」
そう言われてしまうと、ブラダマンテには何も答えられなかった。彼女のすぐ近くでは、メリッ
サがこちらをじっと見つめている。
「修行って、あなたが教えてくれるんですか?」
「そう。それと、この子達も一緒に」
そう言ってシルキアナが指し示したのは、側にいる何人かのシルフ達だった。
「どんな事を教えてくれるんですか?」
「それはやってからのお楽しみよ」
ブラダマンテは、少し考える姿を見せた。彼女の目線はメリッサの方へと向かい、彼女とじっ
と見つめ合う。
「やって見る…? もし精霊に修行をしてもらう事ができたならば、あなたは、ほんの数日で見
違えるようになれるわ」
シルキアナは、そうブラダマンテの背後から話しかけるのだった。
「そんな事をして、一体、あなた達に何の得があるって言うんです?」
「暇が無くなるわ」
「それだけなんですか?」
「あらら、精霊の望みなんてそんなものよ」
ブラダマンテはまた再び考えた。精霊のいる方をちらちらと振り返りながら、考えを巡らせる。
少しの時間の後、ブラダマンテは結論を出した。
「じゃあ、とりあえず少しだけやって見ます。今は、そんなに急ぐ理由もありませんし、何かの巡
り合わせかもしれませんから」
「そう…、それは良かったわ」
「それで、一体、何をすればいいんです?」
「まあまあ、そう焦らないで」
剣を手に、背伸びと準備体操をする素振りを見せるブラダマンテに、シルキアナは笑いかけ
た。
そして、彼女は一つの方向を指し示す。
「この先に、大きな木があるの。幹に風の精を示す印があるからすぐに分かると思うわ。そこま
で、できるだけ早く行きなさい。そう。夜明け前までにね」
「夜明け前って…。その木って、どのくらい遠いんです…?」
「そうねえ。あなた達の言い方をすると、大体20キロくらいって所じゃあないかしら?」
「にじゅ…、20キロですか…? 平地なんじゃあなくって、ここは森の中なんですよ…? それ
を一晩で…?」
ブラダマンテは声を上げて言った。
「か弱い女の子の脚じゃあ無理? 言っておくけど、あなたの力だけでやるのよ。あなたのお友
達は、シルフ達がちゃんと見守っているから大丈夫。先に目的地まで行っていてもらうわ」
メリッサの方を見ると、先ほどの子供達が、彼女の周りを取り囲んでいる。彼女の愛馬もそ
れで安心しているようだ。見知らぬ者達が側にいる事を恐れていたりはしない。
「…、よ、夜明け前までに、ですね…?」
まだ、その距離に怯えながらも、ブラダマンテはもう一度確認した。
「そうよ。やるって決めたんなら、すぐに始めましょう。ほら、初め」
「え…?」
突然の始まりにブラダマンテが分からないでいると、精霊は促して来た。
「ほら、早く行きなさいよ」
「は、はい…!」
まだ訳が分からずにいたが、ブラダマンテはシルキアナに言われるがままにその場から走り
出した。
「わたし達は先に行って待っているからね。早く来なさい」
走り出したブラダマンテの背後で、突風のようなものが沸き起こり、それが彼女を一気に追い
抜いていった。
後には何も残らない。さっきまで、ぼうっとした光のシルキアナがいた場所には、今では何も
残っていなかった。
「い…、急ごう…」
ブラダマンテは自分にそう言い聞かせ、再び真っ暗になった森の中を駆け出した。
彼女はシルキアナに言われた通り、大きな木があるという方向に向かって走っていく。だが夜
の闇は、彼女の行く手を阻んでいた。
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少女の航跡の主人公であるブラダマンテが、カテリーナ達と出会うまでどのような旅を辿って来たかが語られます。