万人を助けるなんてご都合主義。
そうでなくても周りはしきりに何ももたない自分を甘やかしたがるのだから。
周囲の期待が身に余るほどのそれなのか、そうでないのか。
そもそも何を期待されているのか。
城壁の外側は乾いた砂を巻き上げるだけの殺風景な景色が広がっている。
太守の統治する圏の内と外の違いを見ると、本当にこの広大な領土を国としての単位で見ていいのか疑いたくなる。
それほどまでに何もない、不毛な風景だった。
相変わらず過ぎるその情景は、否応無しにこの世界の情勢を語っているようで、平和なあの世界とのギャップに眩暈を起こすこともとうとうなくなった。
いい加減慣れてきたということなのだろうが、それでも危険なことには変わらない。
黄砂に紛れるようなあの黄色い布の軍勢を、跳ね除けるほどの個人武力をもっているわけでもないし。
人の束を一息に切り伏せるなんて自体がそもそも常識の外の話だ。
それが通じないこの場所でおかしいのは、はたして自分なのか世界なのか。
手に持ったその花の名前は知らない。
もともとそういう趣味はないし、時代も場所も違うところに咲く花だ。
みすぼらしいかもしれないけれど、手持ち無沙汰ではなんだと野に咲いているのを摘んできたのだ。
根のない花は、地面に置けば無粋な風にさらわれて、飛んでいってしまう。
行方知れずのそれを見送って、広すぎる空を仰いだ。
幾百幾千の死者を弔うには、両手一杯の花では足りない。
まして片手に握り締めたほんの一束の花では、どれほどの慰めになるんだろうか。
両手を合わせて瞑目する。傍から見れば意味不明な行動だろう。
思い浮かべる人の顔もわからないから、実際意味のないことなのかもしれない。
強いて意味づけをするなら、気休めだ。
「付き合わせてゴメンな」
もともと1人で来るつもりだったのだが、見つかってしまってからはいつも通りの過保護な展開。
つくづく自分の立場の不相応さに苦笑をしてしまう。
本来の世界では人ごみに紛れるような一般人だと知ったら、いったいどう思われるのやら。
やることも終わったし、背後で控えていた少女へと振り返る。
その先に居たのは――
鈴の音の少女 P2へ
紗の髪の少女 P3へ
桃の花の少女 P4へ
だっておかしいのだ。
納得できないと主張するように、鈴々は眉を歪める。
もともと考えることが得意ではない鈴々にとって、一刀の話は混迷を極めた。
「そいつらはお兄ちゃんを殺そうとした悪い奴なのだ。
そんな奴にお兄ちゃんがお墓参りする必要はないのだ」
そもそもこの場所にお墓なんて無い。
何もない風景が広がるだけで、せっかく摘んだお花だって飛んでっちゃった。
「そうかもしれないね」
もしかしたら、鈴々をからかっているだけかもしれない。
そんな考えを自己否定する。
あのとき、城の中のお墓の前でしていた動作をするお兄ちゃんは真剣そのもので、声をかけることさえできなかった。
手持ち無沙汰を紛らわすように、周囲に気を配ってはいたけど、この場所はちょっと前に戦いがあったばかりで、黄巾の奴らもしばらくは表れることはないから、本当に暇で暇で仕方なかったけど、声をかけることだけは躊躇われた。
「だったら、どうしてそんなことするのだ?」
「うーん。結局、俺がしたいからってことになっちゃうのかな?」
「だからどうして、お兄ちゃんはそんなことするのだ?」
話が思うように前に進まなくて、癇癪を起こしそうになる。
難しい話は嫌いだったけど、こればかりはどうしても知りたいと思った。
どうしてかといわれたら、上手く説明できないけど。
「鈴々は、やっぱりおかしいと思うか?」
「あったり前なのだ!」
これもさっき同じことを言った気がする。
うーん、と本題までの時間を引き延ばす一刀に、焦れたような感情がいっそう大きくなっていった。
一刀からすれば、はぐらかそうとしているわけじゃない、説明に窮しているのだが、その違いを理解できるほどに鈴々は成長していない。
「鈴々は、前、蛇矛は武器だっていったよね」
「そうなのだ、蛇矛は鈴々の武器なのだ」
話としては通っているが、ニュアンスが伝わったのかは疑問だ。
修練の最中に一刀を見つけるやいなや、愛武器を放り投げてやってきた鈴々に苦笑しながら嗜めたときの話。
武器は武器でそれ以上でもそれ以下でもないと、当たり前のようにいう鈴々に思わず笑ってしまった。
全く以ってそのとおりなのだ。
「それと一緒だよ。死んでしまった人は死んでしまった人で、それ以上でもそれ以下でもない」
「でも、そいつは悪人だったのだ。それなら、悪人で死んだ人なのだ」
「いくら悪人だったとしても、死んでから悪事はできないだろ?
だったら、もうそれは変わらないんじゃないかな?」
蛇矛でも、なまくらの剣でも武器が武器であるように。
とどのつまりそういうことだ。
未だ難しい顔をしている鈴々の頭を撫でる。
いつものように荒あらしくではなく、梳くような指ざわりに、猫のように目を細めた。
「今はまだわからなくてもいいよ。
いつか、もう少し大人になったら、思い出してくれれば良い」
きっと今はまだ理解できる時ではないのだ。この世界も、鈴々自身も。
「そのためにも、頑張って世の中を良くしないとな」
「おうなのだ! 鈴々、頑張るのだ!」
けれどいつか、武器は武器と言い切ってくれたこの娘が、すべての死者に一緒に手を合わせてくれるようになったなら。
それはきっと、世界が変わる第一歩なのだと思う。
ふらりと消えたご主人様が向かった先は、本来護衛をつけるべき城門の外だった。
桃香さま然り、ご主人様然り、自分がどれほどの存在かわかっていない節がある。
危機管理のなさに頭が痛くなる。
仕える身としては、もう少しばかり身の危険というものを理解して欲しい。
「だから愛紗はついてこなくていいっていったのに」
なんて愚痴は目の前の姿に霧散していた。
空に散った手向けの花と、墓石のない場所で祈りを捧げることの意味を、渋る当人から半ば無理やり口を割らせて。
名も知らぬ罪状を突きつけられているような気分になった。
困ったようなご主人様の言葉が、私を気遣っての発言だと思い至るのは、今となっては容易いことだった。
「私には、理解できません」
匪賊にかける情けなど存在しない。
彼らは己が欲が侭に他者をその手にかけ、財産はもとより命すら奪っていく者たち。
仲間たちを手厚く葬ることはあれ、敵の屍は一箇所にまとめて焼き払うくらいが関の山だった。
悪はどこまでいっても悪で、屍になれどそれは同じ。
当然の報いと思えど、そこに同情など。
「それでいいと思うよ」
「えっ?」
自分の信念を曲げる気に離れない。
曲げてしまえば、今まで信じていた価値観が根底からぐらつきそうで。
けれど言い訳じみた道理をあっさりと肯定されて、戸惑ったのは私のほうだった。
「俺が勝手にしたいと思ったからしただけだよ。
別に愛紗に理解してもらえると思ってもいなかったし、愛紗はきっと理解しちゃいけないことだとも思う」
それはそれで突き放されたような気分になって、面白くない。
死者への敬意が、そのまま生ける賊徒に突きつける偃月刀を鈍らせるとしたら、それこそ本末転倒な話だ。
頭の中で、必死に自分の正当性を確認する。
そうすればするほど、落ちる影を頭を振り乱して無理やり振り払った
拗ねたように目を伏せると、困ったような笑い声が耳朶を打った。
「いつまでもそうであれと思っているわけじゃないよ。
それ自体は寂しい考えだと俺は思うから。
いつかこの世界が平和になったら、変わってくれたらと思う。
けれど今はその厳しさが、前線に立つ愛紗には必要だ」
死にゆく者への同情心だけでいえば、このご主人様は過敏すぎるほどに過敏だ。
それが彼の世界の常識で、私たちの常識とはかけ離れた概念。
そういった姿を見続けていると、本当に麻痺をしているのはこちらなのかと思うこともある。
「愛紗は桃香の目指す理想のために、戦って良い。戦わなくちゃならない。
そのときに敵を討ち取るその罪を背負わなければいけないのは、命令しておきながら後方でふんぞり返っている主の役目だろう」
まかりなりとも、君たちの主だからね。
慰めというよりも、彼自身の決意に似た語調に、顔を上げる。
仕えて当初、本当は見るのも辛い戦場を白くなるほどに拳を握り締めて、それでも逸らさない瞳に、強さを感じた。
あの目と全く同じな不思議な吸引力に、息を呑む。
守りたいと思った。
自分の命を賭しても。
そういってしまえば、命を大事にしろと、彼はまた悲しそうな顔をするから、喉の奥に決意を押しとどめる。
いつか彼のいう平和な世界がやってきて、世界が変わったときには。
ご主人様のいうとおり、私も変わることができるのだろうか。
黄巾賊との争いは依然続いていた。
頻発する戦は未だ徒党を組んだ賊徒たちの暴虐が続いていることを教えていた。
あの山並みの向こう側で、まだ誰かが泣いている。
そう思うと、急かされるような感覚になる。
両手を胸の前で合わせて目を閉じるその一連の動作は、死者を弔うための礼儀なのだと教わったのは、出会って間もなくだった。
「流石に一緒に弔うことはできないけれどさ」
安定した戦いを続ける中で、戦果も決して少なくはない。
苦しくなることもあるけれど、歩みは少しずつでも理想に向かっていると信じたい。
愛紗ちゃんや鈴々ちゃんが先陣切ってくれている分、兵の損失も抑えられている。
それでもゼロにはならない。
昨日生きていた人がいなくなる。一緒に戦ってきた命が散ってしまうときに、挫けそうになることがあっても、そう思うことで立っていられた。
戦死者の弔いもまた、彼らを纏めるものとしての勤めだろう。
ただ霊園は邑のはずれにあるし、もっというなら先ほどまで見てまわっていたのだ。
その次にふらりといなくなったご主人様を見つけて付いていけば、この虚ろな風景に花を置き、死者を祭っている。
いつも温かく笑うご主人様が、触れることも叶わないほど遠く感じるのはこういうときだ。
ご主人様がこの世界のことを知らないように、私たちもご主人様の世界の常識を知らない。
戦争で死ぬのは、何も味方だけではない。
私たちが勝ったというのなら、むしろ敵の死者数のほうが多いということなのだ。
気づかなかったのではない。ただその考えは押し込むしかなかった。
黄巾の賊徒たちも、元は困窮した農民だと、救うべき民だと。
直に向き合うには、重すぎる現実だ。
「できれば救いたかったけれど、救えない。
こんな乱れた世の中じゃ、あたりまえのことなんだ。
超えなければ、何も掴めないことも自覚してる」
高い空の向こうに何かを探すように、青を仰いでいた。
けどさ、と繋いだ声をそのまま雲に放り投げて、再び赤銅の瞳に囚われる。
「俺はできる限り、忘れたくないんだ。
それぐらいしかできないかもしれないけれど、それすらできない人間になりたくない。
自己満足かもしれない。辛いだけかもしれない。
けれどそれが、少なくとも俺にとって大切なことなんだって思うから」
踏み越えるべき屍すら背負い、作るために壊さなければいけない矛盾を背負って歩いて行く。
見方によっては、嘲笑の的にすらなる考えだ。
きっとそれが、戦乱の世で義を貫くということ。
口先と指先の矛盾を抱えたまま、放り投げることをせず、過去になった人を忘れずに未来を繋いでいく。
「もしかしたら――」
「えっ?」
帰りしな、ご主人様の口先が音を転がした。
それは本人すら意図せず零れたようなものみたいで、驚いたような表情は慌ててなんでもないよと手を振った。
「俺が戦うべき相手は、この世界なのかもしれないな」
思わず聞き返してしまったけど、本当は聞こえてしまっていたその声を頭の中で反芻する。
言葉の真意はわからない。
けれど同じ方向を見ていても、ご主人様が見ている景色と私の景色は異なっていて、ときどきそれを痛烈に自覚しては、どうしようもない溝に感じてしまう。
同じ景色を見たい、とは思わないけれど、知りたいと思う。
同時に、知って欲しいとも思う。
ご主人様が隣に居てくれたら、私の理想も、世界も、変わっていくのだろうか?
その私は、今の私をどう思うのだろうか?
「ご主人様」
「ん?」
「早く、みんなが笑顔になるような世の中になればいいね」
もっと違う何かをいいたかったはずだけど、結局口を吐いたのは月並みな決意だった。
特に不審に思うこともなく、彼は小さく応えると、柔らかく微笑む。
彼の色に染まり始めた世界を、誰よりも早く感知できるようになりたいと思った。
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