No.206248

痛みの道化とガラスの姫君

J・Jさん

前作「ガラスの涙と痛みの樹」から一か月後。
元の関係より一歩進んだ事で深まった桂と硝子の絆。
しかし一か月の間、桂は更にもう一歩進む事をせずにいた。
桂の心に棲む罰へ、硝子の想いは届くのだろうか……。

2011-03-13 18:59:47 投稿 / 全4ページ    総閲覧数:483   閲覧ユーザー数:477

 

むかしむかし、あるところに。ピエロが王様の小さな国がありました。

サーカスにいた頃、世界中を旅してまわった王様は、国中の人にその頃の話をするのが大好きでした……

 

 

「おっはろーんっ! 皆の衆、今日もはっぴぃかーい?」

早朝、五時ちょうど。鏡の前でする私の日常。変人たる自分を演ずる準備。

寝起きの悪い「私」を少しづつ起こしながら、私を沈める作業。

「……今ひとつ、か」

鏡の前で奇行を繰り返す。変人というよりは変態と言った方が正しいだろう事は私がよく知っている。

……が。私はこの作業を欠かさない。欠かしてはいけない。

悲しくても決して泣かず。苦しさと絶望の中でも、誰かの笑顔の為に愚か者であり続ける。永遠のピエロのような生き方の為に。

「こんにちは……はちにんこ……」

永遠のピエロ。なんとも理想的な響きを持つ言葉だ。

もしも硝子と出会っていなかったら。これから出会う誰にも私を見せずに生涯を全うした事だろう。

「はち……にゃんこ」

可愛くて、優しくて。そんな硝子を傷つけたのが十年前。それを償おうとして、新たな傷をつける所だったのが一ヶ月前。

自分の浅はかさが今になって憎い。あの子は、私なんかがいなくなる事さえ悲しんでくれるのに。どうして、あの時それを考えられなかったのか。

「はちにゃん! おっけいこれだぁ!!」

思惑とは裏腹に、鏡の前の「私」は、出来上がった挨拶の確認に執心していた。どうやら納得のいく出来になったらしい。

「さてさてほんじゃあ学校にレッツらゴウだぜベイベー! ファザーと顔を合わせる前にぃ!」

長い時間をかけて作り上げた「私」という人格は、本物となって今日も生きていく。

同じ家に住みながら、顔もほとんど忘れてしまった父さんを残して、今日も「私」が外へ出る。

「けほっ……」

私はずっと一人のまま。それが、私に与えられた罰なのだ。

 

 

痛みの道化とガラスの姫君

 

 

国の皆も王様の話を聞くのが大好きで、お城にはいつも国中から、時には国の外からも沢山の人達が集まります。

その為、世界中の人々が王様の事を知っていましたが、誰もが王様の顔を知りませんでした。

なぜなら。王様はいつも、お顔にピエロのお化粧をしていたのです……

 

 

……思えば、あの時既に兆候はあったのだ。

ぐらぐらと考え事をする授業中。出かけ前の自分の行動を思い出しながら、私はそんな結論を胸に抱いていた。

「……っ」

堰の気配が止まらない。頭がぼんやりとして熱っぽい。それと変わって体全体に悪寒がする。どう誤魔化そうにも風邪の症状だった。

『風邪薬を飲んでくるべきだった』

授業を聞きながら、つれづれとそんな事をノートに書き綴り、すぐに消す。振り返って後悔した所で過去は帰ってこない。

考えるべきは、今。そして今日一日におけるこれからの事だ。授業終了一分前。鐘がなった時点で昼休み。すぐにでも硝子は私の所へ来るだろう。二人分のお弁当を持って。

『今日のお弁当は』

あの日から数えて一ヶ月。硝子は、登校日にお弁当を作って来てくれるようになった。「自分に素直に」なった結果なのだと言う。

「自分で出来るから」と一度は断ったものの、最終的に押し切られてしまったのは。偏に、おこがましくも、私がそれを望んでしまったからで……。

ノートの文字を消す。些細な事であっても、私が幸せを感じていい訳がない。

気取られない様に堰の気配を潰しながら、丁度鳴り出した終了の鐘の音を聞き流す。

今日は。今日こそは、お弁当を断らないと……。

「けーいっ!」

「っわ、と……」

確認するまでもない。後ろから聞こえてきたのは硝子の声だ。予想通りの展開にもかかわらず、驚いてしまった。

「あ、ごめんね。お昼食べようと思って」

一つの事を考えるだけで周りが見えなくなっている。思った以上に風邪は深刻らしい。

「いやいや大丈夫じゃよ~。ちょっと大地が裂けるくらい驚いただけさな」

しかし、会話が始まれば「私」の領分となる。滅裂とした言動に意識を集中させて、それ以外の印象を薄くする。

「それ、ちょっとなの?」

「ちょっと過ぎて世界が終わるさー」

弱点として、ここ一ヶ月で硝子には効き難くなっている事がある。だからどこまで誤魔化せているかは判らない。

眼球と眉の動きを察するに、違和感くらいは持たれたらしい。

「で? 今日のしょ~こすぺさる弁当の中身はなんだイ?」

どうすべきか、と私が考えるよりも早く。「私」が硝子と話を進めている。

「あ、うん。今日はね……」

硝子の視線がお弁当に移る。表情からは訝しげな雰囲気が消えていく。

「けいちゃんスーパーテレパシーが卵焼きの気配を感知したぜっ!」

「テレパシーも何も昨日桂がリクエストしてたじゃない」

単純な会話だが効果はあった。こういう時に「私」はとても役に立つ。

風邪に気付かれる事もなく、これで安心して昼休みを過ごす事が……。

「けいちゃん一億の奥義の一つ。リクエストテレパシーさっ!」

って、馬鹿。そうじゃないだろう。

「私の家の味で、だったよね。甘くてびっくりするかもよ?」

「望む所さぁ!」

今後のお弁当を断るはずが何をやっているんだ。リクエストテレパシーとか言ってる場合か。

頭の中で一度「私」をどかす。タイミングとして少しおかしいけれど、先延ばしをするのは良くない。

「しょう……」

言うなら……。

「あ、桂さん。今日も硝子さんのお弁当なんですね」

口を開いて一秒未満。聞こえる声に口を閉じたのは咄嗟の事だった。

「おうさー! しょーこの愛とかラヴがたっぷりつまってんぜ!!」

「あ、それいいなぁ」

振り向く間に、どかした「私」を元に戻す。

二人とも私に気付いてはいない様。硝子も、何も言わない。

「ね、さっちん。私にもお弁当……」

「死ぬ気か?」

佐倉 夏夜と、縁 皐月。

互いの家が近い訳でも趣味が合う訳でもないこの二人は、それにも関わらず仲が良い。

何の巡り合わせか、幼稚園の頃から一度も別のクラスになった事がないらしく。気付けば何をするにも二人でいたと聞いた事がある。

彼女らとの付き合いは中学の頃からで、その時には既に熟年夫婦と呼ばれていた二人を、「この年でか」と思ったのは記憶に新しい。

「あまり生き急いでくれるな。大体、料理なら夏夜が出来よう?」

「さっちんの愛が欲しいんだよぅ」

結局は、付き合っていく中で納得した訳なのだけど。

何と言うか、この二人だからこそ存在しえる安定感を感じる。言外にある互いへの信頼が伝わると言うべきか。正直、とても羨ましい。

「はいはい、夫婦漫才はその辺にしてね。お昼終わっちゃうよ?」

笑いながら硝子が言う。

「はーい」

「ああ、すまんな」

中学の頃から、この二人を止めるのは硝子の役どころだった。誰が決めた訳でもないが、私達四人の中で言えば消去法でそうなったとも言える。

「しかし、七海にまで夫婦と呼ばれるようになるとはな」

あの頃はまだ硝子の笑顔に作り物の影が見えていた。けど、今は。

「そうだね。硝子さん、最近ちょっと変わりましたよね」

仮面が外れた、とでも言えばいいだろうか。笑顔に妙な靄がなくなったように思える。

「恋でもしたのか?」

緑茶のペットボトルから口を離して皐月が言う。

「え?」

女三人寄らば、という所を四人も集まっている。その手の話になるのは必然か。

そう考えながらも、穏やかな気持ちでいられない私がいるのは何故だろう。

「うーん……」

素直になれ、と。そう言ったのは私だ。

素直になって、その結果。この一ヶ月で誰かに浅からぬ想いを抱いたかも知れない。

……喜ばしい事じゃないか。そうならば、私はその想いを支えるべきだ。

硝子の、幸せの為に……。

「……桂?」

「えっ?」

いけない。私が出てしまった。戻さないと。

「私」らしからぬ間抜けな声に、夏夜と皐月の視線がこちらへ向いた。

「箸が進んでないみたいだけど……美味しくなかったかな?」

「私」が出遅れたのは初めてじゃないだろうか。風邪の所為か、それとも……。

「おぅソーリィだぜ。お弁当から来るしょーこのラブオーラ・ビームが凄くて意識が宇宙に行ってたさー」

とにかく、どうにも本調子には程遠い。時間が経てば少しはましになるかもなんて、甘すぎる妄想だった。

むしろ背中や脛の辺りを這うざわざわとした悪寒は強まっていく。

「意識も戻った事だしイートイットろーかなー……マッハで玉子焼き!」

頭が重い……いや、これは痛いに分けられる感覚だろうか。よく、判らない。

「うん、さっすがしょーこっ! けいちゃん好みのスゥイートな玉子焼きだねっ!」

本当は、味もよく判らない。聞いた話に合わせて言っているだけ。

折角硝子が私の為に作ってくれたのに。……最低だ。

「桂……?」

夏夜と皐月さえ聞こえない程の囁き声が耳に刺さる。ごめんなさい硝子。……ごめん。

甘いはずの玉子焼きなのに。愚かな舌の所為で味は消え、偽った自分の数だけ苦い。泣きたくなるほど悲しい味。

幾つもの罪悪感の中、それでも「私」は馬鹿みたいに笑っていた。

 

「どうして王様はお化粧をしているの?」町の子供が尋ねました。

「それはね、僕がとんでもない愚か者だからだよ」王様は笑いながら答えました。

「色んな事を知っているのに?」子供はまた尋ねました。

「そんな事はないよ」そう答える王様の顔はやっぱり笑っていましたが、子供にはどこか寂しそうに見えました。

 

 

何をやっているんだか。進路調査のプリントを前にして、考える事はそればかり。

授業時間の大半を使って漸く書いた「進学希望」の文字に愛着が湧く気配はない。

 

『ごちそうサマーセーター暑い!! いやー今日も堪能したぜ~』

『うん……お粗末さま』

 

結局、何一つとして味の認識ができなかった硝子のお弁当。「私」に白々しさを感じたのは初めてだった。

……何より。

 

『それで……明日は何がいいかな?』

『え……あ……。そ、だね……』

『ん?』

『こ、コロッケ、とか! どーかなーなんてねぇ?!』

 

断りを入れる所か明日のリクエストさえ。本当に、私は何をやっている。

『笑顔が綺麗に』

ほぼ無意識に走らせたペン先を見れば、そんな事を書いていた。

気付いた時点で止まったペンをどけると左上に小さく「十」の文字。私の無意識は「笑顔が綺麗になった」と書きたかったようだ。

昼休みの話を思い出すまでもなく。本当に、綺麗になったと思う。

「…………」

……違う、か。

『本当の硝子が』

戻って来ただけだ。十年も、私が閉じ込めてしまった「おひめさま」が。私がいなければ、十年間同じ笑顔でいられたはずの「七海硝子」が。

……戻ってきただけ、だ。

「……」

ぐしゃぐしゃと文字を消す。

手元を見るのが嫌で窓に目を向ければ、冷たそうな冬の景色が静かに佇んでいる。

特に何を思う訳でもない。数秒で乾く目に熱の深刻さを感じながら、無感動に時を過ごす。

目を閉じれば、まぶたの裏には先ほどまでの景色が無駄に残っている。

それが。ああ、何故だろうか。時刻も季節も違う目の中の光景が、妙にあの日の夕暮に重なるのだ。

思い出すあの日の風景、あの日の風。あの日の、言葉……。

 

―― 私はもう、死んだ方がいいと思うんだ。

 

思いに嘘はなかった。言葉にするのは初めてだったけれど、ずっと考えていた事だ。

どうして私は生きているんだろう、と。……どうして、私が残ってしまったんだろう、と。

毎日、目を覚ます度に自分に失望する。私なんて、二度と目覚めなければ……。

「……たみ。伊丹」

「ん……?」

いつから呼ばれていたのか。皐月の声に気付き、後ろを向く。

「さつ……、さーにゃんじゃないかい。いけないぜ授業中に立っちゃ……」

「もう終わっている。体育館に行くぞ」

「あ、れ……」

いつ、鐘が鳴っただろうか。思い出せない。

「あ、あいやー、そうそう。六時間目は体育だったよねー。アタシ様うっかりさー」

思い出す間を作る暇はない。鞄に手を伸ばし、ほどなくジャージを取り出して立ち上がる。

「おまー。さーにゃん、わざわざ待っててくれたんねぇ。ごめんさー」

「夏夜と七海も待つと言ったのだがな。私の我儘で先に行って貰った」

見降ろした涼しげな横顔からは、皐月の意図は読めない。

でも、私に向いた視線がどこか寂しそうに見えるのは。

「……なあ、伊丹」

多分、間違いではないと思う。

「うん? なーんだい? さーにゃん」

腰を屈めながら、二度ほどステップを踏んでの移動。ふらつく足取りに自分で不安になる。

離れた距離を皐月は無理に縮めようとはせず、音のない歩みを止める事無く言葉を紡ぐ。

「お前とは中学からの付き合いだな」

「そだねー。もうちょいで二年くらいかにゃん?」

何度か転びそうになるのを誤魔化しながら跳ね動く。皐月の視線の意味を探りながら。

「そうだな、……まだ二年も経っていない。関係としては浅い方だ」

本当は、気付いてはいる。互いに。

皐月は、私の存在に。

「だが……。何も言ってくれないのは、寂しいものだ」

私は、皐月のそんな思いに。

「調子が悪いのだろう? ならそう言ってくれればいい。出来る事があるならしてやりたい」

私のいない世界で、皐月は私に語りかけてくれている。それは、とても幸せな事だと思う。

「……それに、な」

「大丈夫だよ」

けど。だけど、それは駄目だ。

「けいちゃんいずさいきょーだからねっ! たとえ調子が悪くても二秒で治るんさっ!!」

私は嫌な人間だ。人の幸せを奪う人間だ。傍にいれば不幸を呼ぶ疫病神だ。

皐月が、夏夜が、硝子が。この学校の、この町の皆が大切で大好きで。

「そんな感じでどーんとうぉーりーなのさー」

私になんか近づいて、幸せを逃してなんか欲しくないから。「私」だけを見ていてくれればいい。

「そう、か……」

ほら。「私」はこんなに元気だから。大声あげて大げさに踊り回って、先生から軽く注意を受けて謝って。

ほら、ね? 大丈夫だから。皐月が悲しい顔をする必要なんてないから。

「お前がそう言うなら今は引こう。それでもな……」

辛い事も、苦しい事も。言わなければ、存在しない事と一緒だから。

「……伊丹?」

そう……。想いは、言葉にするほどに苦しい。

「伊丹っ!!」

だから私は、嘘だけをついていこうと思う。

「伊丹、伊丹っ! ……誰か肩を貸してくれっ!! こいつを保健室まで運ぶっ!!」

時々痛いけど、痛くない。言葉にしないから、痛くない。

 

 

王様は孤独でした。沢山の人に囲まれても、皆の笑顔に囲まれても、泣きたくなる程の寂しさを感じていました。

世界中から集まる人達は王様に会いに来る訳じゃなく、旅の話を聞きにきているだけだと思っていたのです。

「ぼくは自分の笑わせ方も知らないんだ」

夜になって、一人になった王様は自分の部屋でそう呟きました。

 

今でもはっきりと覚えている。初めて流れ星を見た日の事。

母さんに手を引かれる幼い私。振り返れば、数歩後ろを歩く父さんの姿。

ただそれだけの、幸せな夜の帰り道。もう何度目かも忘れてしまった母さんの退院日。

『おかあさん、ほしがおちたよ』

空を見上げたのは偶然だった。光の筋が闇色の空を駆けていく様を見て、私は母さんの手を引いた。

『あら、桂。流れ星を見たのね。願い事はできたかしら?』

『ねがいごと?』

指差した空に消えた光を探す私に母さんはそう言った。

『星が見えてる間に願い事を三回言うと、願いが叶うんだ』

静かな笑顔を湛えて父さんが言う。頭に触れる大きな手の感触がくすぐったい。

『ねがいごと……』

父さん達に向いていた私の視線は再び空へ。頭を過る数秒前の記憶を反芻しながら、願いを三回言う自分を想像する。

「おかあさんがずっとげんきでいられますように」決まり切った願いを言おうとしているのに、わたわたと慌てる自分ばかりが浮かんでは消えていく。

『むずかしいね?』

結果は言うまでもなく私の全敗。心底残念な顔をしていただろう私を母さんは微笑ましそうに見ていた。

『そうねぇ、お母さんも早口言葉は苦手だわ』

言葉とは裏腹に、母さんの笑顔は揺らがない。

『だからね、桂。お母さんは考えたの』

その笑顔は、どんな困難でも跳ね返してくれる無敵の笑顔。

『三人で一回づつ「幸せにして下さい」って言えば、三回になるわ、って』

その笑顔が、沢山の人の幸せに繋がった事を私は知っている。

『お母さんと、お父さん。そして、桂。ちょうど三人ね』

『すごいっ! おかあさん!!』

母さんは人を幸せにする天才だった。身体が弱い分、心の強い人だった。

『それじゃあ、それじゃあさっ。こんどながれぼしみたら、みんなでおねがいしようねっ!』

『そうね……櫻さん、頑張ってね』

『……早口言葉の練習でもしとくか』

そんな、誰からも愛された私の母さんが。世界中から愛された絵本作家「伊丹圭子」が永遠に失われてしまったのは。それから一週間後の事。

私の誕生日だった。

 

かみさま、かみさま。どうか、ながれぼしをおとしてください。なんどもなんどもねがえるように。

 

『桂にはまだ大きいけど……。すぐにその帽子が似合うくらいになるものね』

大きな帽子の入った箱を抱え、私は母さんの声を聞く。

 

街中で見た、季節外れの白い帽子。まるで風を形にしたような、ふちの広い流線型が目に入った瞬間、私は心を奪われた。

それはまさに。そう、母さんが描いた絵本の少女がかぶっていた帽子だった。

『これ?』

母さんも、私が立ち止まった理由がすぐに解ったらしく、そう聞いてくれた。

『う……ん。でも……』

見上げる白い帽子はどう見ても大き過ぎた。あの頃の私がかぶったならば、きっとすぐに風に飛ばされてしまっただろう。

そんな気持ちで振り返れば、帽子の店へ入っていく母さんの姿。

慌ててその後に続く私。にこにことあの白い帽子を手に取る母さん。

『あの……。あのね、おかあさん……』

嬉しい事のはずなのに。私は、困ってしまった。

大きさもそうだけれど。私には、絵本の少女のようになれる自信がなかったからだ。

帽子をかぶって、鏡を見て。理想とあまりにかけ離れた自分にがっかりするんじゃないか。

そんな私の気持ちを見通すかのように、母さんは私の頭を撫でてくれた。

『桂は自慢の娘ですもの』

冬の空気に触れて、ひんやりと冷たい母さんの手。ゆらゆらとする心が静まっていく。

『だから、大丈夫よ』

私の背丈に合わせてしゃがんでくれた母さんの顔は。……笑って、いたと思う。

母さんの事なら何だって、いつまでも覚えていられる。そう思っていたあの頃の私。

……けれど。

 

『ねえ、おかあさん』

中抜けを挟んで店から出た後の記憶が現れる。

今の私には、もう刻まれたフィルムを机に広げるようにしか思い出す事が出来ない。

『おかあさんは、どうしていつもわらっていられるの?』

この時の記憶だって、私にとっては大事なものだったはずなのに。

『……それ……ね、桂……』

思い出す度に母さんの声がかすれていく。周囲のざわめきに消えていくように。

段々だんだんと私から「母さん」が抜け落ちて、ぼやけて、にじんで。

『……でいれ……かならず…………から』

繋いだ手から伝わる柔らかな感覚すら、冷たい風の記憶が遠くへ連れて行く。

『………………いちば……大切なひとが……』

ねぇ、教えて。あの頃の私。

あの時。母さんは、何と言って……。

 

『おかあさんっ!!』

悲鳴に似た幼い私の声に胸が跳ねた。問う声はいとも簡単に虚空へと消えていく。

それは、一瞬のできごと。強い風が吹いて、帽子の入った箱が飛ばされた。

繋いだ手を離し、横断歩道を引き返す私。視界の端に映った赤信号。クラクションの音。駆けてくる母さん。

小さく小さく時間が圧縮されたかのように、全てがゆっくりに感じて。全てを、一つに感じた。その、最後に。

おおきな、音がした。

『だれか、だれかおかあさんをたすけてっ!』

ああ……。ああ、私の所為だ。

『だれかぁぁああああああっ!!』

大切な人が、いなくなってしまった。

 

かみさま、かみさま。どうか、ねがいをかなえてください。かわりにわたしがきえてもいいの。

 

ぼんやりとした日だった。「その時」が朝なのか、昼なのか。はたまた夜なのか。寝ても覚めてもくらくらと頭が揺れる。

黒い服装の大人の人、同じ色の服を着た私、父さん。誰がどんな人だったかなんて覚えてはいない。……ただ。皆、泣いていた。

みんな、みんな私の所為。私が、母さんを亡くしてしまった。だから、私は泣けなかった。涙を流す資格なんて、私には。

 

意識の浮き沈みが何度起きた事か。妙に意識がはっきりとした「その時」は、誰もが寝静まった深い夜。

私は、母さんの許へと赴いていた。吹き抜けの窓から射す月明かりを頼りにしつつ、自分でも不思議なほど静かな歩みで棺へと。

『……おかあさん』

まだ蓋のされていない棺の中を覗けば、「当然」そこには母さんの姿がある。

『ごめんなさい……。ごめん、なさい……』

そこにいるのは私のはずだった。そうじゃなくなった理由を考えるほど、自分を殺したくなる。

『ごめんなさい、ごめんなさい……』

赦してほしい訳じゃない。ただ、どうすればいいのか分からない。

何処を見ても、誰に聞いても。見つかる答えは探せない。それはまるで、針の落ちた時計の時間を読むような。

『……っ』

見上げた空から月が消えた頃、私はその音を聞いた。誰かの足音。こっちにまっすぐ向かって来る。

月が傾き、光の静まったそこで。誰かも判らないその人が、何故だか怖くて。私は棺の向こう側へ回り込んだ。

(だれ……?)

悪い事をしていた訳じゃないし、悪い人が来た訳でもない。なのに、私は「恐れて」いた。胸が酷くうるさかった。

『……圭子』

来た人が父さんであると判っても。むしろ、より強く。より、速く。

(おとう、さ……)

『お前は……幸せだったのか?』

今、思えば。きっと私は「その時」を恐れていた。そんな気がするのだ。

(……え)

立ち上がろうとする足が止まる。頬をざわりとした冷たさが横切り、凍りついたように身体が動かなくなる。

『子供は幸せの証だって、いつも言っていたけどな』

無感情な父さんの声が耳で震える。

『桂を産んでから一カ月……。圭子が、意識を無くした時も、こんな……やり切れない気持ちだった』

静かな言葉がゆっくりと。心に深く、重く。錆びついたナイフが胸を刺していくような。

『愛してない訳じゃない……。けど俺は。誰よりもお前が……』

次第に、声色が寂しさに色めき立って、ナイフが鋭利になって。

『約束、守れなかった。幸せの証のはずが、まるで……』

息が詰まるほど、声なき悲鳴で喉が潰れるほどの痛みを与え続け。

『疫病神じゃないか……』

(…………っ!)

遂には、私の胸を貫いた。

『……馬鹿か、俺は』

ああ、聞かなければよかった。知らなければよかった。せめて。せめてそこさえ聞きさえしなければ。

違う。これは聞くべき私の罪。知るべき私の咎。出来る事なら正面から言われるべき事で。

『自分の娘に、なんて事を……』

いやだ。そんな事を、大好きな父さんからなんて。考えるだけで痛い、死にたい。むしろ誰か私を。今すぐにでも、私を。

ぐちゃぐちゃと思考が暴れだし、体中から冷汗は止まらず。当時、「その言葉」の意味は解らなかったはずなのに。

ああ……。ああ、ああ。殺して下さい。壊して下さい。消して下さい。私を、私を。

『ごめんなさい……。おとうさん、ごめんなさい……』

かみさま、かみさま。どうか、こたえをきかせてください。どうして……。

『わたしがしななくて、ごめんなさい……!』

 

どうして。私が死ななかったんですか?

 

 

「……桂?」

「泣いて……る、の?」

 

 

旅の話が尽きたら、きっと皆自分に会いに来なくなる。

旅の話に皆が飽きたら、きっと皆自分を嫌いになる。

夜になると、王様はいつもそんな事を考えてました。

何日も何日も眠れない夜を過ごした王様は、ついに病気になってしまったのです。

 

どうして私は今日まで生きてきたんだろう。どうして今まで死ねなかったんだろう。

母さんが守ってくれた命を簡単に捨てられないとか、母さんの分まで生きないとなんて。そんな事を言い訳にして、私は死ぬ事から逃げてきた。

何事かある度に「死」を口にして、周りの同情を引くような人間とは違うけれど、最低である事に変わりはない。

かの夢の終わりから目が覚めるまでの間。私は闇の中、一人でたゆたう夢にいる。

その中で、一つ。聞こえてくるのは空気が震えるような小さな音。少し経つまでそれが「声」である事に気付かない程。

私は、声を追いかける。地面の感覚の薄い闇の中で、それでも力の限り駆ける。

叫んでも「声」に届かない。声が、出ない。喉には張り裂けそうなほどの痛みがあるのに。

走る…………。走る。「声」のそこにいる影を求めて。

『母……っ!』

やがて、ようやく後ろ姿と共に、私の声も現れる。その肩に触れようと手を伸ばす。

『……さ』

「声」は振り返る。見えた顔は私の聞いた「声」の主ではなく。

『……あの時、手を伸ばさなければよかった』

硝子だった。

夢への理解が追いつかないまま、私は硝子と対峙する。

痺れるような冷たい声に、目の前の私すら曇る虚ろな目。私の知る硝子とは似ても似つかない。

『ねぇ、桂……?』

その表情で私に触れる手は、弱弱しくも絶対の拒絶を表すように。

『どうして、まだ生きてるの?』

私を「突き落とした」。

今まで地面だと思っていたそこへ落ちていく。愉悦も蔑みもないまま、落ちる私を見届ける事もなく硝子は去っていく。

落ちていく。……堕ちていく。

深い深い所へ。意識もまた、そこに……。

 

「…………あ」

光と共に感じる「落ちた」感覚。じっとりとした汗の感覚に生を捉え、私はそれまでの光景を夢だと知った。

おかしなものだと思う。夢の中で私はどれだけあの世界を「夢」と言った事か。

間隔を空けながら大きく息を吸い、潰れた肺に空気を送る。その度、裂けた喉に風が触れ、痛く。けれど何故か心地いい。

一瞬か、数秒か、数分か。ただ呼吸だけを繰り返し、最後に一つ、ゆっくりと息を抜いた。

「……しょう、こ」

夢に理屈はない。あるがままの私がそこにいるだけだ。

何度も何度も繰り返す父さんの言葉。そして、触れるだけで痛みを覚えるような、冷たい硝子。私が望むもの。

愛してくれた人達に忘れられる事が、大切な人達から疎まれる事が。私の、罰。

母さんを無くしてしまった罪への、私が生涯を捧げて受ける罰。

……ああ。だけど。

『どうして、まだ生きてるの?』

夢とは言っても……。

「ちょほーっちきっついにゃーん……」

誰に向けてでもなく、おどけてみる。

「なんて、ね」

病床にふせたピエロの王様も一人でこんな事をしていただろうか。

孤独になる事を恐れる癖に、孤独になる為の笑顔を作って……。

「……桂?」

「っ!」

体が凍る。聞こえてきた声に連れられるように、夢の景色が脳裏を過ぎる。

「しょ、しょーこ?」

「大丈夫。私以外には誰もいないよ」

「……そう」

今更ながら、ここが保健室だと気付く。

私が倒れたのが6時間目。時間は判らないけれど、カーテンの向こうに硝子の影と紅い世界が見える。

「今まで、いてくれたんだ?」

「……心配したよ」

言葉とは別に、硝子の声はどこか寂しそうだ。

体育の時間に何かあったのか。そう聞くよりも先に、硝子の手がカーテンの端へ伸びた。

「あっ、硝子。まっ……」

強めに引かれたカーテンの音。声を出そうとする意志と共に、私の声はかき消えた。

いつもの硝子らしくない雰囲気を感じながら顔を覗けば。黄昏に照らされながら、声の通りに寂しげで、けれど静かに怒っているような。そんな複雑な表情が見えた。

「しょう……」

「桂」

重い声を聞く。私の声は再び止まる。

私が止まれば硝子が動く。投げつけるようにカーテンを開いた右手が私の左目に伸びる。

小指は顎をくすぐり、薬指は頬を撫で、中指は耳たぶにかかり、人差し指は髪に触れ。そして。

「……涙の痕」

親指は、私の目じりを静かにぬぐった。

「え……」

「悲しい夢、見たんでしょ?」

胸の締まる思いがする。夢と現で全く違う顔の硝子が、全く違う言葉で、全く違う距離にいる。

唯一同じなのは。

「ち、ちがっ……」

「違わない」

その、言葉の強さ。

「どうしてかな……。さっちゃんにも、夏夜さんにも……私にも、何も言ってくれない」

寂しさなのか。それとも、純粋な憤りなのか。震える硝子の唇から言葉が零れていく。

「今日の卵焼き、失敗してたんだよ? お砂糖とお塩、置き場所が逆になってたみたいで」

「…………っ」

 

『けいちゃん好みのスゥイートな玉子焼きだねっ!』

『桂……?』

 

ああ、そう言う事だったのか。「私」は、あの時……。

「調子、悪かったんだよね。食べ物の味が判らないくらい」

「そこまでの事じゃ……」

「そんなに」

茜色に染まった小さな世界に、静かな声が不思議と響いた。初めてかも知れない色の硝子の声。

「そんなに……、信用できないの? 私達の…………私の、こと」

落胆めいた悲しみや、やりどころのない色んな感情。余りにも混ざりすぎて、かえって白くなって。

まるであの時の父さんのような色が見えた。

「……違うよ」

違うのに。私は、ただ。受けるべき罰を受けたいだけなのに。硝子にそんな思いを抱かせたかったわけじゃないのに。

それなのに。

「誰も。くれないから」

お前の所為だ、と。誰も責めてくれない。

お前なんていなくなれ、と。誰もそう言ってくれない。

「私は誰からも知られる事なく。知られた時には嫌われて、一人で。そうでなくちゃいけないのに」

可哀想に、と。誰もが私を慰めてくれる。

辛かったね、と。誰もが私に優しさをくれる。

「あの日もそうだった。硝子は、嫌ってくれなかった」

私が「私」を演じるほどに、あの日母さんを見送ってくれた人達は、皆。

「……だから。私は死のうと思ったんだ」

私を知らないで欲しい。知ったならば嫌って欲しい。嫌ってくれないなら。

「あの真っ赤な空の下へ落ちて」

せめて、この世界から消えてしまいたくて。

 

 

『…………さむいな』

落ち葉の詰まった袋を抱え、屋上より一つ高い場所で人を待つ。大好きな「おひめさま」を。

どうして呼び出したんだろう。どうして待っているんだろう。

死ぬ気なら今すぐにでもここから飛び下りればいい。それが迷惑だと感じているなら別の場所くらいいくらでもある。

それを、何故。私は、こんな目立つ場所で、手紙で人を呼びつけて。

『私は……。何が、したい?』

問いかける。思考は何度も繰り返す。行き着くところは同じ場所。

それはさながら砂時計。元からある答えは形を変えずに流れるだけ。

無駄に過ごす時間にふと頭が重くなり、首が小さく傾いた。

『十年、か』

目の前に映る遠くの空と、あの頃公園から見上げた空と。目線も時間も違う二つの景色が不思議と重なる。

……違う。重なっているのは景色じゃない。私の気持ちだ。

硝子を傷つけた私。子供の頃と同じ事を繰り返した「私」。

私は何も変わってはいなかった。十年の間に成長したのは「私」だけだった。

『随分、無駄に生きたなぁ……』

どの時点で死んでおくのがベストだったか。「私」を生み出す前にはもう消えておくべきだったのかもしれない。

 

母さんが死んでから三年。私には何もなかった。空っぽのまま生きていた。

友達もいなく、作る気もせず。ふらふらと一人で小さな公園を訪れてはぼんやりと砂山を作っていた。

そんな時、口ずさむのは決まって一つのおとぎ話。

「えがおのくにのピエロおう」冊子になっていない母さんの遺作だ。

話自体は最後まで出来ていて、母さんが聞かせてくれたはずなのに。どうしても、物語がどのように終わったのかを思い出せなかった。

私が覚えているのは、国民から嫌われる事を恐れた王様が病気になってしまった所まで。

思い出そうとすると……「頭の奥」がちりちりと熱くなって、痛んで。

その先に映る母さんの笑顔が見えた時。いつも、そこで私は考えるのをやめる。

「その日」も、そうやって熱くなった頭をぐらぐらと振っていた。

いつもは長めにかかる冷却時間。だけど、ふと、ぼやけた視界の端に人影を捉えた瞬間。熱と意識が同時に「さめた」。

そこにいたのは一人の女の子だった。栗色のふわふわな髪の毛に、真っ白な肌をして。まるで、絵本の中のお姫様のようで。

彼女の周りだけ、世界が輝いているように見えて。

『かみのけ、ふわふわ。おひめさまみたいだね』

気付けば、私は彼女にそう話しかけていた。三年の間、自分から誰かと関わろうとしなかった私が。

『わたしはね、ぴえろさんなの。よろしくね』

あの時の気持ちは恋だった。あの一瞬に私の初恋が詰まっている。迷いなくそう言える。……何故なら。

 

あの日の気持ちは、今もなお私の中で息づいているからだ。

私のままでは必ず誰かを傷つけると知ったあの日。硝子を突き放してしまったあの日に生まれた、「私」と言う名の恋心。

人の痛みから決して逃げない。二度と硝子を傷つけない。次に会う日には、そんな「私」でいようと誓いを立てて。

それなのに、あっさりと硝子を傷つけたこの恋を、私は殺す事が出来ないでいた。

 

『……ああ』

考えていく中で、自分の中だけの「当たり前」に気付く。私が硝子を呼んだ理由。

『続いてるんだ、この恋は』

失わないから恋が生き続ける。それなら、失えば、きっと。

『私は、硝子に嫌われる為に……』

 

 

「色々考えたんだ。どうすれば硝子は私を嫌ってくれるだろうって」

あの日、硝子に肩を貸しながら言ったあの言葉は。私の本心だけど、違う。

なるべく硝子が傷つかないように、だけど確実に硝子が私を嫌ってくれる理由が欲しかった。

「言いたかった」のは、そんな自分勝手な理由を伝える言葉だ。

「私が桂を嫌いになる事は、ないよ」

強い言葉。優しい言葉。どんな言葉を告げてもそう言ってくれてしまう気がして。

「それじゃあ……硝子。これはあの日、硝子に言えなかった事なんだけど」

だけど、これならきっと。……きっと、硝子でも。私を嫌いに……。

「私はね、硝子の事が好きなんだ」

なって、くれるはず……だ。

「恋愛の対象として見てる」

「…………え」

胸が痛い。話し始めたばかりなのに、もう、硝子の顔は見る事が出来ない。

私のどこかで、何かの想いが叫んでいる。

「硝子を見つけたのは偶然だけど、中学に入学した頃から硝子の事を知ってた。3年の時にクラスが一緒になった時は本当に嬉しくて」

シーツに隠れた右手が震えている。こぶしを握る力が強まるほど、じっとりとした汗の感触が煩わしい。

「でも、すぐに苦しくなった」

鼻の奥が痛い。胸が苦しい。喉でつかえたかのように、上手く声が出ない。

「声を掛けたくて、髪に触りたくて、手を繋ぎたくて、抱きしめたくて」

叫びはどんどん大きくなる。聞こえない声が頭で強く響いていく。

「そんな風に硝子を見てた」

あの日、嫌われる為に用意した重たい言葉が何一つ出て来ない。

言わなきゃいけないと思うほど、私の声は喉から出ない大きさになって。

「……ずっと」

どうしてか、言葉ではなく涙が出た。

「……桂」

「気持ち悪いでしょ? 自分の傍で、そんな事を考えて」

硝子の方は向けない。相変わらず顔を見る事なんてできないし、何より涙を見られたくなかった。

口元だけ笑わせてみても、ぎこちない事が自分でですらはっきり分かる。

「私」はどうやって笑っていただろう。どんな風に笑っていただろう。

「それでも、硝子は私を嫌わないって言える?」

思い出せない。……思い出せない。

「言えるって言うなら、キスでもしてくれる……?」

ぐしゃぐしゃの頭の中で、せめて涙を止めようと。半ば祈るような気持ちで目を閉じた。

どうか、硝子が無言で立ち去りますように。そうすればきっと、そんなに痛くないから……。

 

いやだな、嫌われたくないな。

 

言い切ったと。気が抜けたそこに、考えないようにしていた言葉が埋まる。

急に血の気が引いて行く。体が冷たく感じる。望んでいたはずの事が怖くて、目を開けない。

硝子はもういなくなってしまっただろうか。硝子はもう私を嫌ってしまっただろうか。時間は戻せない。もうどうしようもない。

今ならまだ間に合うかも。せめて、せめて硝子の後姿だけでも。

 

ありもしない勇気を奮い立たせ、振り絞り。私は必死に目を開く。

「しょ……」

すぐさま、去っていく途中だろう背中を呼びとめようと、大好きな名前を口にしようとして、私は気付いた。

「う……?」

硝子は、私の目の前にいた。頬に一筋涙を伝わせて、笑っていた。

近づいてくる。止まらない。私は、固まったまま。唇の距離が、ゼロに……。

 

「あやまらないよ」

私の人生の中の、どの瞬間よりも長い一瞬の後。ゆっくりと離れた硝子は、そう言った。

「桂がしてって、言ったんだからね」

真っ白な頭で今起こった事を理解しようとする。けれど、何一つ解らない。

硝子の涙の理由も、笑顔の意味も。何より……。

「どう、して……」

唇に残る例えようのない温かさ。それをくれた硝子の気持ちが、解らない。

「わからないの?」

私の様子を見て渋い顔の硝子。ややあって、小さく息を整え、軽めに息を吸い込んで。

「桂はずるいなぁ!!」

また、私の知らない声で叫んだ。

「何でもかんでも自分の中で終わらせようとして、誰にも何も言わないで。

やっと本当の事を話してくれたと思ったら私に嫌われる為なんて、そんなのおかしいよっ!」

未だ真っ白な頭に次々と硝子の言葉が流れてくる。それは、私の後悔と同じ場所にあって。

「同じ気持ちだって解って嬉しかったのに!」

同じ、気持ち、で……?

「私は……。私だって、桂の事が好きだよ? 髪に触りたくて、手を繋ぎたくて、抱きしめたくて」

私は大きく目を見開く。硝子が。硝子も、私を?

「いつからなんて判らないけど、キスだって……」

硝子から目を離せない。さっきとは、まるで、違う。

「同じ気持ちだよ? 気持ち悪いなんて思わないよ? だから……」

理解の出来ない胸の高まりが抑えられない。何かがこみ上げる感覚を止める事が出来ない。

「もっと桂の気持ち、見せてよ」

これは……な、に……。

 

『おかあさんは、どうしていつもわらっていられるの?』

『それはね、桂。笑顔でいれば、必ず幸せがやってくるからよ』

 

「…………っ」

 

『でもね、どうしても泣きたくなった時は』

 

母さんの言葉が頭をめぐる。思い出した。母さんがいつでも笑っていられる理由。

 

『あなたの傍にいる一番大切な人が、それを受け止めてくれるわ』

 

 

でも。だけど。

 

『だから、桂。いっぱい泣いた後は、その大切な人に、あなただけの笑顔を見せてあげるのよ』

 

私は。母さんを亡くして。大切な人も傷つけて。

だから、幸せになってはいけないと。そう思って。

 

『そうすれば、あなただけの幸せが、あなたの傍に来てくれるわ』

 

だから私は、「私」の影で生きて。

 

『……流れ星なんて待たなくても、ね』

 

だから……。

「私は……」

ひとりぼっちは、もう慣れた。

「私は、笑ってもいいのかな」

「うん。もっと私に笑って見せてよ」

自分を騙すのにも慣れた。

「泣いても、許されるのかな」

「うん。誰が許さなくても、私が」

失う事にだって慣れた。

「私は……っ!」

だから平気。私は大丈夫。

「私のままでも、いいのかなぁ!?」

「……うん。いいんだよ」

 

うそだ。

 

「…………っ」

「……桂」

抑える事すら忘れた一粒の涙と共に、体中の力が抜けていく。

ぐらりと前に倒れる私を、硝子が受け止めてくれた。

「……しょう、こ」

「なに? 桂」

優しい声がすぐそばで聞こえる。……ああ、私はゆるされるのか。

「しばらく、とまらないかも」

 

ゆるされても、いいんだ。

 

 

「少し、眠いな」

頭がぼんやりとする。風邪の所為か、それともあまりに長く泣きすぎたか。

「泣き疲れた?」

「かもね」

軽く、弾むような声をして、硝子が私の顔を覗き込む。

「何?」

「桂の顔、見たくて」

声とは変わって愛おしげな表情が見える。

「泣き腫らした顔なんて見て楽しい?」

私の心は穏やかだ。数時間前まで、誰にも見られたくなかった顔を見せても。

「楽しいというか……。嬉しい、かな」

言葉を聞いた瞬間に共感を覚えた。そうだ、この穏やかさは。

「……うれしい」

うれしい。……嬉しい。私は、「嬉しい」んだ。

無くなってしまえばいいと思っていた自分を受け止めてくれる人がいて。それが硝子で。

「うん。桂が、やっと桂を見せてくれて」

今も、傍にいてくれて。

「……っ」

私は今、世界一の幸せ者なんじゃないか。そんな思いが頭を過ぎり、鼻の奥がツンと痺れた。

それを見て薄く眼の色を変えた硝子に、「大丈夫」と手を揺らす。

「強がり」でないと判ってくれたのか、私の目に集めた視線をほどき、すぐさまその目を丸くした。

「硝子?」

どうしたのだろう。何か、とても珍しい物を見たような、そんな顔をしている。

「桂、今自分がどんな顔してるか、わかる?」

「私の……顔?」

よく解らない。随分長い事泣いていた所為か、顔の感覚が薄れていて。

硝子はそれを知ってか知らずか、先ほどの表情から今日一番の幸せな顔をして。

「すごくきれいな顔で笑ってるよ」

そんな事を言うのだ。

「お化粧の落ちた「ピエロさん」は、きっとそんな風に笑うんだろうね」

続く言葉にこもった沢山の感情が見える気がする。

「うまく……笑えてる?」

そのどれもが、とても暖かく。

「わかんない」

私の胸を満たしてくれて。

「上手な笑い方なんて、私は知らないから。……でも」

「それ」を表す言葉が見つからないけれど、例えるなら。

「その笑顔は、桂だけの物だから」

それはまるで、魔法のようで。

「……うん」

胸いっぱいの気持ちから、なんとかそれだけを引き出して。ふと、赤色の過ぎ去った空を見る。

「……ね、硝子」

「なに? 桂」

そこには、流れ星はなかったけれど。大丈夫。

「ずっと、一緒にいてくれる?」

もう、流れ星には願わない。

「もちろんだよっ」

一番大事なものが、私だけの幸せが。こんなにも、私のすぐそばに。

 

 

 

「王様、王様。どうか窓の外をご覧ください」

病気になって一人で眠る王様に、お城の兵隊さんが言いました。

「どうしたんだろう?」よたよたと窓の外を見た王様は、目を丸くします。

そこには国中の人達が、いいえ、世界中の人達が王様が病気だと聞いて駆けつけていたのです。

心配する皆の声の中には、一つとして王様の話が聞けない事への不満はありませんでした。

「ああ、ぼくはこんなにも皆に愛されていたんだね」

そう言って、王様は嬉しくなって泣き出してしまいました。

それからというもの。笑えるようになった王様は、病気が治った後もお化粧をする事はなくなったとさ。

 

 

END


 
このエントリーをはてなブックマークに追加
 
 
1
0

コメントの閲覧と書き込みにはログインが必要です。

この作品について報告する

追加するフォルダを選択