No.20500

黒金のまろうど

RAYGAHさん

白銀一族代々に伝わる風習、禁断の愛、遭難した異国の少年。
全てが繋がる時ヌートの呪は解かれ、妹は歌に隠された兄の真意を知る。

2008-07-21 12:20:33 投稿 / 全5ページ    総閲覧数:737   閲覧ユーザー数:707

 

 少年の足の感覚はすでに無かった。

(本当に誰かこんなところに住んでいるのかよ)

初めて知る雪の冷たさ、この寒さに彼は舌打ちした。

薄い日よけの外套一枚で耐え切れる気温ではない。体温を逃さないように汗腺は縮まり、筋肉も強張っている。

あたり一面銀色に輝いて眩しく、目が熱砂に当てられたように痛くなっていた。

彼が住んでいた温かい地域から山を一つ二つ越えただけだというのに、そこは人が住めるような所には見えなかった。

 細雪が混じった風が強くなり、目指していた山の形が霞んできた。

太陽の位置は雲に隠され、最後に休憩をとってからどれくらい時間が経ったのか解らない。

無理やり動かしていた足も言う事を聞かなくなってきていた。

(怒ってんのか、ヌート。地割れなんか起こさないでくれよ)

彼は北の大地を支配するという精霊に祈った。

 岩山の間を通り抜ける風が恐ろしい轟音を奏でている。

ヌートの叫び声を絶え間なく聞いているうちに、少年は眠気を感じ始めていた。

 

 自然には精霊が宿っており、人々はその力に守られていると信じていた時代があった。

時に猛吹雪を起こして荒れ狂う風、雪崩れる山、凍る大地。空から降り注ぐ雪は精霊のいたずらとされた。

カストヴァール大陸北部の降雪量は少ないが、これから半年の間に寒さは一層厳しくなる。

大地の精霊ヌートの冷たい懐で育つ芋類は数少ない収穫物の一つであり、白銀部族の人々は彼女の機嫌を損ねることの無いよう最も敬うと共に畏れていた。

 村落に点在する円形の天幕は中心にある二本の柱を基盤とし、屋根の中心から放射状に木を組んで毛織の布を被せている。

天幕の屋根部分から部屋の中央に置かれた炉の煙突が外に出ており、絶えない煙は冬の風物詩であった。

 吐く息が白くなり岩山の頂上付近に雪が積もり始める頃、ある一定の年齢に達した娘達は共有の住居に篭りがちになる。

歩いて半日の距離にある隣の部族の市場で買い求めた布に、想いを込めた刺繍をするのだ。

来月の祭りで着る晴れ着であった。

 五人の娘達が一族に伝わる歌を口ずさみながら、天幕の中で縫い物をしていた。

 

蒼天を切り裂く閃光

孤高の頂に天下るは 母たるヌート

銀に咲く 紅の守護者は誰ぞ

そはしろがねの しろがねの御子

 

「あの人、私のこと覚えていてくれてるかしら」

焚き木の一番近くに座っている少女がそばかすのある顔を上げ、うっとりとしながら言った。

どうやら歌を聴きながら妄想していたようだ。

「どのヴォルフ族の男?」

隣に座る少女がそう言って応えるが、手元から目を離さない。

「ほら、銀髪で長くて、ちょっとうちの長に似た品のある人」

「でもあんまり品が良くても私達とつり合わないわよねぇ」

手鏡を覗き込みながら化粧の練習をする少女が言った。

「どうしよう、緊張してきた。ねぇ、この間言ってた香水、手に入れたんだけどさ」

陽気な村娘たちは和やかに談笑しながら各々刺繍を続ける。

何時間縫い続けても飽きないのは、それだけ着物に込める想いが強いからである。

ヌートの祭りで花嫁の晴れ着を着る事が、幼い頃よりの少女達の憧れだったのだ。

 春と冬に行われるヌートの祭りは人と精霊の絆を確かめ合うと同時に、男女の結合を祝福する。

長より参加を許された男女が一年の内で唯一婚姻を許される、神聖視な日でもあった。

夫婦の固い結びつきは自然の均衡を保っている精霊たちに精を与えると、村人は信じていた。

準備に費やされる一ヶ月の間、娘達は付き合いのある相手から申し込まれる結婚を心待ちにし、更に意中の相手以外の男性からも伴侶として求められることを夢見ている。

 この祭りには売れ残りが全く無いという事実も、祭りが盛り上がる理由の一つだ。

必ず祭りの後で部族間での話し合いがあり、それぞれの長が独身のままでいる者同士を引き合わせることになっていた。

彼らの先祖がアヴァス大陸より移り住んで五世代も経ておらず、隣のヴォルフ族、ヴレード族に別れて居住しても遠い親戚も同然である。

一族の繁栄にはまず人口を増やさねばならず、こうしてヌートの祭りは交際相手のいない少女でも期待せずにはいられない日となっていったのである。

 藍色の服を着た銀髪の少女が、無言で縫っていた着物を突然放り投げた。

彼女が朱色の生地に縫い付けた金の丸十字模様が炎に照らされて光っている。

一族の長の直系だけが身に纏う事を許された丸十字と羽模様の豪奢な刺繍は、立体的に浮き上がって見事だ。

「もうだめ休憩っ」

彼女は後ろ髪を残して両耳の上側だけ三つ編みにしている。その三つ編みに結び付けてある鈴が揺れて鳴った。

彼女が着る服には幾何学模様が刺繍され、左前合わせの立て襟だ。裾の長さは膝上で、下穿きに革の長靴を履いている。それが十代の娘の衣装と決まっていた。

 少女の背後から背の高い娘が覗き込んだ。

「あとは袖の刺繍だけじゃない。レティシアどうしたのよ、何時間でも縫い物する子が」

「無心で縫えればいいけど、いろいろ考えちゃって」

レティシアは目の周りをもみ始めた。目が疲れる作業だ。

針を小さな木箱にしまいこみ、彼女は放り投げた着物を丁寧に畳んだ。

「いいわよね、レティシアは。着飾らなくたって相手は決まってるし」

「嫌味言わないでよ、サリタ。爺達に期待され過ぎて気が重いの」

そう言いながらレティシアは柱にかけておいた上着をとった。襟と袖に貴重な羽毛をあしらった茶色い外套だ。

「爺にはもう時間がありません、早く御子を、お世継ぎを……」

サリタが爺の掠れた声と震える手を真似ながらわざとらしく言うと、娘達は声を上げて笑った。

レティシアが祭りに参加することを公表して以来、年老いた者と顔を合わせば言われてしまう口癖だった。

「やめてよ、もうっ」

いつものからかいに手をひらつかせて難なくかわし、レティシアは天幕を出た。

 

 温室のような天幕から出ると寒さがいっそう身に染みる。

レティシアは上着の前を合わせ、耳まで隠れる帽子を被った。

 木を削る音や金槌で叩く音が響く中で青年達は地面に突き立てる木の彫刻を作り、求婚をする舞台を組んでいた。

花嫁を迎えられた時の為に、新居の天幕に布を重ねて入念な防寒を施している者もいる。

これは防音も兼ねると言って豪快に笑い合う様を見れば、この祭りを楽しみにしている者が女性に限らない事が解る。

威勢のいい声と共に丸太と重い毛皮がそりに乗って運ばれ、まるで村造りのような活力に溢れていた。

 レティシアが通ると村人は手を休め、巫女様、巫女様と言いながら手を振った。

「ご苦労様」

レティシアが一人一人に声をかけてまわることによって青年達の作業がはかどる。

村人への声かけと長の作り出した目に見えない防壁の状態を確認することが、この部族を束ねる地位に最も近い彼女の仕事であった。

 父親たちは焚き木の傍で酒を飲みながら息子の働きを見ている。

祭りの準備は参加する青年だけが行うもので、経験者は指示することを義務付けられていた。

その間、彼らの母親は大きな鍋で料理をこしらえるのが常だ。

祭りに縁の無い子供達は迷い込んだ小動物を追いかけて遊んでいる。耳と尻尾が長いその動物は素早く走り回って子供たちを撹乱していた。

 なんて平和で暖かい村だろうとレティシアは思った。村全体が一つに繋がった家族のような一体感がある。

吹雪を遮る岩山は時として雪崩を起こすが、長が張った結界は部落の壁となり邪悪な獣の侵入をも防いでいる。

この村を守る長を支えること自体が、村人を守ることへと繋がるのだ。

彼女にとって変わらない平安を存続させる使命は重荷ではなく、すすんで担いたい喜びだった。

 レティシアが自分の天幕へ戻ろうとした時、村の入り口の方で人だかりが出来ていた。

何人かの男達が何か叫んでいる。

(喧嘩かしら)

喧嘩はよくあるが、憎しみにまみれたいがみ合いにまで発展する事は無い。

大抵が酒の飲みすぎで引き起こされる乱痴気騒ぎなのだ。

 人ごみのなかから銀髪の三つ編みを腰まで垂らした青年が歩いてくると、担架を運ぶ男達が後に続いた。

誰かが運ばれている。喧嘩よりも緊迫した状態を察したのか、外にいた男達は仕事の手を止め、女達は天幕から顔を覗かせた。

「どうしたの」

レティシアは小走りで銀髪の青年に近寄って話しかけ、遅れをとらないように同じ速さで隣を歩く。

紫の双眸が彼女を見た。

 透き通るような象牙の肌に、知性を感じさせる額。一日に何度も顔を合わせるのに、その度に見とれてしまう。

同じ銀髪でもどうして自分とはこんなにも輝きが違うのか、彼女には不思議だった。

「“ヌートの口”付近で少年が倒れていた」

彼が言った。その低い声を出さなければ背の高い女に見える中性的な美しさだった。

ヌートの口と呼ばれる大地の裂け目の前で倒れていた少年は、浅黒い肌をした黒髪だった。年齢はレティシアと同じか、年下にも見える。

「この容姿……何処の国の者なの、私見たことがない」

少年の髪と服についていた雪を払ってレティシアが言った。

 この地方の寒さを知らない者であることは誰が見ても解る。薄地の布を纏った軽装備で雪原を行くのは自殺行為だ。

担架に付き添う男が少年の首筋に指を当てて言った。

「ファルカ様、脈が弱いし足の凍傷も酷い」

「私の天幕へ」

ファルカという一族の長は、真っ直ぐ自分の天幕へ進んだ。

 二人の門衛が入り口の布を左右に引き、担架を運んだ家臣が座卓を端へ避けた。

垂れ絹の奥に湯と薬が運び込まれる。呪術的な方陣模様が織り込まれた絨毯の上に、毛布に包まれた少年が寝かせられた。

薪が次々に火の中にくべられ、部屋の温度が高くなっていった。

「皆、外へ。巫女だけでいい」

ファルカがそう命じると、3人の側臣が一礼して外に出た。

 少年の薄い服を脱がし、ファルカは自らも毛皮の上着を脱ぎ始めた。

ファルカは赤い刺青が彫られている少年の胸を己の白い素肌に重ねた。氷の冷たさで顔が一瞬強張る。

レティシアは丸い鉢で薬を混ぜていたが、ファルカが毛布の中に入って少年を正面から抱きかかえたのを見て甲高い声を出した。

「やだっ何でそんなやり方をするのっ。いつもみたいに手をかざせばいいじゃない」

「そこの布をお湯に浸して彼の足を包んで」

ファルカは口付けをするような体勢で意識の無い少年の呼吸を確かめながら、レティシアに指示を出す。

「もうーっ」

顔を真っ赤にして不平不満を言いつつも、レティシアは彼に言われた通りにした。長には逆らえない。

 相手が少年でも悔しく思えるのは、滑らかな肌を自分以外の者が占有しているからだった。

(もう……もうっ、嫌だ私)

ましてや未だ自分が触れたことも無い場所であれば尚更で、嫉妬している自分が小さく思える。

「心臓を温めれば血液も温まるでしょ」

レティシアは手っ取り早く終わらせて欲しいが為に、ファルカの手を取って少年の胸へ誘導した。

ファルカはふてくされるレティシアに微笑んだ。

 二人の間に流れる時間の早さが異なるように思えるほど、ファルカは穏やかに構えていた。

「わかったよ」

彼は目を閉じてゆっくりと息を吸い、細く長く吐いた。そして唇が微かに震えると、ファルカの体内から光が溢れ出た。

彼の内側から発せられる月光のような煌きは皮膚の下にある組織を浮き上がらせる。

レティシアは力の流れを調整する為に、彼の肩に手を置く。二人の中を流れるヌートの力が発現した瞬間だった。

ファルカはその力を人に与えたヌートと一体になり、少年の壊死した細胞を蘇らせる為に肉体の修復能力を活性化させた。これが代々の長の直系に伝わる力だった。

(いつ見ても綺麗)

微風が吹いて少年の黒髪とファルカの銀髪が動く。瀕死の少年を忘れて、レティシアは長に魅入った。

ヌートの力を行使する時の長は、畏敬の念を抱かずには居られないほどの神々しさを放つのだ。

 青黒く変色していた少年の足はすでに赤みを帯び、頬が上気していた。

ファルカが目を開けると光と風は止んで、炎の茶褐色の灯りが天幕の中を照らしていた。

「治療するには私の体に直接触れるのが一番早い」

「私が怪我した時は手をかざすだけじゃない。昔みたいに抱きしめてもくれない」

レティシアはファルカに背中を向け、火の中に木を放り込む。木の皮が弾けて火の粉が飛んだ。

「私の気持ちを知っているのに、何故いつもひねくれる」

「解らない」

ファルカは手を伸ばし、レティシアの腕を掴んで引き寄せた。

中腰だった彼女は重心を失ってファルカの脇に倒れ込んだ

 鼻筋、目元、唇、頬の曲線。ファルカはレティシアを確かめるように長い指でなぞる。

彼の指が触れる度に胸が締め付けられ、レティシアの体が高揚感に支配される。まるで体の芯を撫でられているような、むず痒い感覚だ。

「私達はまだ兄と妹だ。ヌートの祭りで君を妻として迎えるまでは何もしたくないと言ったよ」

ファルカは少年を自分の胸にうずめたまま、レティシアの腰に手を当てて引き寄せた。

「兄さん……」

レティシアはファルカの首に腕を巻きつけ、甘えたように紫の目を見つめる。

「本当に困った妹です」

兄は昔と同じように妹をあやすような笑みを浮かべ、抱擁する。

レティシアは自分が物欲しそうにしているように見られたような気がして恥ずかしくなり、顔をそむけて隠した。

 二人が結ばれるよう運命付けられたのは、レティシアが生まれた時であった。

それが長の子として生まれた二人の使命であり、村を守る力を子に残す代々の風習である。

だが人目がある所でしか妹でいられなくなっていたのは、二人きりになると息が苦しくなるほどの想いが溢れて、どうしていいか解らなくなってからのことだ。

成長しても接し方が何も変わらない兄に比べると自分だけが募る想いに我慢しているようにしか思えず、不公平に思えた。

友人から恋人との時間の過ごし方を聞くと、自分だけ損している気がしてしまうのだ。

(もうすぐ祭りだけど、本当にこのまま夫婦になれるのかな)

彼の目に映る女性はいつでも自分だと解っていても、恋人のように接した事も無い。

兄の優しい眼差しに包まれている間は、いつまでも自分が妹でしかいられないような気がしていた。

 ファルカの顔がレティシアにゆっくりと近づき、唇が合わさる前に額をこつんと合わせて微笑を浮かべる。

想い合っていても、唇を交わしたことは今まで一度もない。あくまで、まだ兄と妹なのだ。

二人の禁欲的な雰囲気に耐え切れなくなった少年は、これ以上機会を逃すと気まずくなりそうな予感がして上半身を起こした。

「あのー、それって犯罪じゃ?」

「きゃっ」

突然起き上がった少年に驚いたレティシアは背後の柱に後頭部をぶつけ、尻餅をついた。

少年は顔をひきつらせ、訝しげに兄と妹を見比べた。

 

 

 少年はレヴィ族のハーディーと名乗ったきり、運ばれた食事を全て平らげるまで他に話をしなかった。

相当空腹だったと見え、死にかけていた様子も垣間見えないほど食欲は旺盛だった。

 首まで覆われる白い毛織の服を借りて着たが、色素の薄い一族の人間に比べて少年は髪も肌も濃くて似合わない。

目鼻が大きく顔立ちもはっきりとしているせいか、彼の内面もそう見てとれた。

 長とその右腕、巫女と少年は絨毯の上に並べられた食事を前にして円座を組んでいる。

一通り食べ終わって酒に手を出そうとしたハーディーの手の甲を、レティシアは叩いた。

「ちょっと、さっきの犯罪って何よ。そんな口をきく前にお礼くらい言いなさいよね」

「あ、ゴメンナサイ。助けてくれてありがとう」

ハーディーは名残惜しそうに骨付き肉を口に咥えたまま言った。

彼の礼儀を欠いた発言と行儀の悪さにレティシアは胸焼けがした。

まれ人を供応する村のしきたりさえなければ、外に放り出してやりたいくらいだった。

 ファルカは自分の皿にある肉を小刀で骨からそぎ落とし、レティシアに切り分けている。

口元は綻んで、生意気で威勢のいい少年との食事を楽しんでいた。

ハーディーは掌をファルカの目にかざして、上下に振った。焦点の定まらない、開いた瞳孔が気になったのだ。

「見えてますよ」

ファルカが言うと、ハーディーは手を引っ込めた。

「皆と同じようには見えませんが、精霊の加護により特に不都合は無いのです」

「へー、精霊の力が盲目の補助か。便利だな」

関心無さそうに言いながら、ハーディーは飲み物をすすった。

(失礼な奴! 兄さんだって苦労していないわけじゃないのにっ)

レティシアはハーディーを睨みつけるが、彼は気付いていない。

長の隣に座る口ひげを生やした側近はレティシアの態度に苦笑した。

「それにしてもここは寒いね。雪ってやつ、初めて見た。オレの住んでいる所は温かいから」

「我々の先祖もここを初めて訪れた時にはそう思ったことでしょう。ヌートの祝福を得た指導者は山の頂を染める白銀に魅せられ、自らを白銀の一族と呼ぶことにしたと聞いています」

ハーディーはファルカの話を聞きながら適当に相槌を打ち、皿を片付ける豊満な体つきをした給仕の娘を目で追う。

娘はハーディーの視線に気付くと、顔を赤く染めながら長に濁り酒を注いだ。

 部屋を仕切る布の向こう側では、書記がハーディーの会話を書きとめている。

口ひげの側近に帯刀したまま食事に参加するように頼んだのはレティシアだった。

(まったく、兄さんはお人よしなんだから。危ない奴だったらどうするのよ)

妹の目線に気付いたファルカが野菜を摂るようにうながす。レティシアは食欲が無かったが、箸で芋を刺して口へ運んだ。

「レヴィ族とはこの大陸の反対側に住む部族ですね。旅の仲間は他にいないのですか」

中年の側近は炉の中で焼いている芋を菜箸で突付きながら、何気なく言った。

彼はハーディーの素性を遠まわしに穿鑿していた。

「うん、オレ一人で遭難した」

「一人で雪原を行くのは心細かったでしょうに。何処に向かっていたのですか、そこまで我々が案内しますよ」

(そうよ、早く何処かへ行っちゃって。こっちは祭りの前で忙しいのよ)

レティシアの思惑を見透かしたように、ハーディーは口元をにやつかせて思わせぶりな流し目を彼女に送った。

「そりゃ親切にどうも。でも少し滞在させてもらいたいな。めでたいことでもあるみたいだし」

手から箸が滑り落ち、レティシアは慌てて拾った。

 兄が甘える妹を宥めていた時か、それとも妹が兄の首に腕を絡ませた時なのか。

いつからハーディーに見られていたのか解らない。

「聞き耳立てるなんて、そっちこそ犯罪じゃないの」

レティシアの顔は真っ赤になり、口角が引きつって下がった。

巫女として大人しく座っているのには、もう限界だった。

 愛する者への想いを誰に聞かれようと、恥じることではないと思っているファルカは涼しい顔をしている。

だがレティシアは素直になれるわずかな二人きりの時間を無関係の者に覗かれ、踏みにじられたような気分だった。

「犯罪って、ああさっきの話ね。オレの国じゃ血が濃すぎる婚姻は犯罪で、兄妹なんてもっての他だからそう言ったんだよ」

「私の家系はヌートの力を残す為に代々親族で婚姻を結ぶのです。私達の両親も兄妹でした。犯罪ではありませんよ」

レティシアを引き寄せてファルカは言った。自分の花嫁としてハーディーに紹介しようと思ったのだ。

「近親婚を繰り返した結果が、その目ってわけか」

少年の一言で天幕の中が凍りつき、レティシアの腰に回したファルカの腕がかすかに震えた。

暖かい料理から立ち上る湯気すらその凍て付いた気配を察して制止しているようにも見える。

(何、どうしたの)

家臣は言葉を捜して眼球の動きが落ち着かない。

レティシアは訝しげに真顔の兄を伺ったが、光を失った目の中に心を探るのは難しかった。

兄の真意はいつも紫の垂れ絹の向う側に隠されているのだ。

「ハーディー、あちらで休みながら君の国のことを聞かせてもらえませんか」

「いいですよ」

ハーディーは木の実を口に放り込んだ。

 ファルカが杯を持って立ち上がると、ハーディーもそれに続いた。

「兄さん、そろそろ貢物が着く頃よ。ヴォルフ族の人も夕方には来るし」

レティシアは付き合う暇は無いと言いたいのをこらえた。客人を丁重に遇するのが礼儀でも、村を挙げての祭りが控えているのだ。

しかし露骨に兄を引き止めてハーディーと張り合っているように思われるのも嫌だった。

「ではレティシア、代わりに頼みます」

「えーっ」

二人が奥の寝所へ行き、横になって杯をかわす姿が垂れ絹の影に映った。

 穏やかな清流に投げ込まれた石は流れを乱れさせ、やがては澱んで塞き止めるのではないか。

レティシアは遭難して村に入り込んできた少年が心掛かりだった。

その不安が巫女としての勘であれば、危惧するべきことである。

彼女は上着を羽織ると足早に天幕を出た。

 体格のいい、四角い顔をした天幕の門衛がレティシアに声をかけた。

「巫女様、ふくれてますね」

「怒ってないよ。長が忙しい時は私が皆に指示を出すのが勤めだし」

厚顔無恥なハーディーが兄と一緒に居ると思うだけで胸裏は穏やかではないが、レティシアは笑窪を作って笑った。

「今年のヌートは特別です。レティシア様が十七を迎え、やっとお二人が結ばれる日が来たのですから皆楽しみにしてますよ」

「ありがとう」

レティシアの眉は八の字に下がり、観念したかのような侘しい笑顔を見せた。

 皆が待ちわびている結婚だと何度も繰り返し聞いてきた。

レティシアとファルカに期待することによって、二人の未来に一族の行く末を重ねているのだ。

『もう待てない、今年の冬の祭りで君を私の妻にしたい』

春の祭りの後で、兄はレティシアにそう言った。

同年代の者が次々と伴侶を得ていく祭りが、兄の目にどう映っていたのか知らなかったレティシアはただ驚くだけだった。

彼女に定められていた長の妻という肩書きが現実味を帯びたのはその時であった。

(私、不安なのよ……兄さん)

兄と妹はすでに家族であり、夫婦となっても変わらず家族である。

二人の間に出来た後継者を産み育てることが、新たに加わるレティシアの勤めと言えるだろう。

彼女自身も幼い頃からこの時を待っていた筈だった。

だがこの時を本当に待っていたのか解らなくなるほど、レティシアは重責と情愛に押し潰されそうになっていた。

 

 夕方の見回りを終えたレティシアは、ヴォルフ族からの参加者を迎える為に村の門へ向かった。

薄紫色に染まった夕暮れの空はファルカの目の色彩で、星が幾つか見え始めていた。

日は落ちたが松明はいたるところで燃えており、外にいても苦になる寒さは感じなかった。

 半日かけてやってきたヴォルフ族の男女はレティシアに挨拶をし、族長から預かってきた品を見せた。

三台の荷車には、長と巫女の婚礼祝いが山積みだった。彼女は丁寧に礼を言い、客人用の天幕に案内した。

(今年はヴレード族からの参加が少ないみたい。人数合わせ大丈夫かな)

祭りは三日後に迫った。遠い村からの参加者が次々に到着し、すでに祭りのような騒がしさを見せていた。

 当日に花嫁が立ち並ぶ舞台も完成して、広場を囲む木彫りの彫像も何本か立っている。

篝火は祭りが終わるまで絶やさないことになっており、一晩中火の番をしなければならない男の顔はすでに煤けていた。

レティシアは額に浮んだ汗を拭いながらファルカの天幕を見た。まだハーディーと話しこんでいるようだ。

「巫女様、参加者の名簿が出来ました」

「ありがとう」

長の天幕の中から出てきた家臣から羊皮紙を受け取ると、レティシアは額に張り付いた前髪を払った。

厚着しているわけでもないのに、今日はやたらと汗が出る。長時間湯に浸かったようにのぼせていた。

 レティシアが松明の灯りの下で荷台の荷物を調べていると、晴れ着を完成させた友人が彼女の方へ歩いて来た。

「手伝うわよレティシア」

サリタはレティシアから羊皮紙を取り、ヴォルフ族からの貢物を書き留める役目をかってでた。

他の少女も手伝うつもりで来たのだが、品物を目にしてからは祭りで売りに出される細工物の予約以外に余念が無かった。

 広場では母親の煮物がふるまわれ、力仕事を終えた者と客人が我先にと群がっていた。

母親の手料理と言うものは、どの部族にも共通して心と体を温めるものなのだ。

特に決まった相手がいない娘は、荷物を調べながらも魅力的な異性を探して目が動いていた。

ヴォルフ族の男は狩猟者らしい野性味に溢れ、白銀一族の男には優男が多いが親しみやすさがある。

それだけではなく、近隣に住む少数民族の男達の風変わりな外見も気になる。

そして、同性に対しては静かな火花を散らすのだ。

男達も異性が視界に入ってしまうのだろう、レティシアと周りに居る娘を一瞥しては食事を摂る手を動かす。

前夜祭と当日に向けて、彼らはお互いを品定めしていた。

「やあね、ちゃんと彼がいるのに物色しちゃって」

ヴレード族の荷台にあった木の実や種を手で掬いながら、レティシアが言った。

「あら楽しいわよ、目の保養」

娘達は悪びれた様子も無くレティシアを笑殺した。

 やや酸味のある臭いがする荷物は牧畜や狩を生業とするヴォルフ族からの贈り物だ。

レティシアはその臭いを好きになれなかったが、乾燥させた肉や天幕用に縫い合わせた毛皮は滅多に狩をしない白銀族にはありがたい品だった。

「ねぇレティ、あの男の子って花嫁探しの旅だったんですってね。親が他の種族の女を連れて来いってうるさいらしいわよ」

サリタはそう言いながら、細工物や宝石が詰まっていた袋の口を紐で何重にも縛った。

「えぇっ何それ、誰から聞いたの」

「さっきファルカ様が話しているのを聞いちゃった。是非君にも参加してもらいたいって。女の子達は皆騒いでるわよ」

サリタにそう言われ、レティシアは急いで参加者の名簿を見る。

表の一番最後に、ハーディーの名前があった。

「もう、信じられないっ。安易よ、兄さんらしくない」

レティシアは牙の装飾品が入った袋の口を思いきり閉めた。

 点検していない荷台はあと一台だ。

レティシアがため息をつきながら巻いてある絨毯を広げていると、そばかすの少女が手を伸ばして手伝った。

「あの子可愛いわよね、十五歳で一人旅だなんて頼もしいし。あの日焼け具合はしろがねの御子ならぬ、くろがねの御子って感じ」

「まさか狙ってるの? やめなよ、もっと包容力のある大人の男にしなよ。あいつはまだ子供でしょ」

レティシアは荷台の上で絨毯を転がし、再び巻く。八つ当たりのように叩くと、糸くずと埃が宙に舞った。

「はいはい、ファルカ様みたいな人にしな、って言いたいんでしょ。あんな方が他にいるわけないじゃないの。いいわよねーレティは」

娘達は普段にも増して饒舌だ。ファルカの話題を出されてはレティシアに勝ち目は無い。

「もうっ、私はああいう偉そうで品が無くてがさつな男の子が嫌いなだけ」

「彼がファルカ様に気に入られてるから嫉妬してるんでしょ」

二人の結びつきがどの恋人同士よりも強いと信じているからこその冗談だ。

だがレティシアは駄弁を弄する気分ではなかった。

 胃袋が押し上げられるような吐き気を感じ、汗をかくほど動いていないのに服がじっとりとした肌に張り付いている。

「やあねぇ、嫉妬するなんておかしいわよ。誰もあんた達の間に入りたいとも思わないってば」

二人の間に誰かが介入出来る様な隙間すら無い。娘達は腹を抱えて笑い崩れた。

ハーディーが自分の生活に入り込んできた異物であることは確かだが、感情そのままに本音を言える身分ではない。

そんなことない、とレティシアは口に出して言っているつもりだったが、何故か声は出なかった。

 舞台の背後に聳え立つ岩山が回転している。連なる山々は一つに繋がって、円を描いていた。

(何、何なのこれ)

心臓の鼓動は早く、口の中が乾いている。手足が冷たくなるにつれて、レティシアの顔は真っ青になっていた。

「やめなよ。いよいよだからちょっと不安なだけよね。……レティシアどうしたの」

友人の口元は動いているに、耳鳴りがして何も聞こえない。

サリタが振り向くと、レティシアはこめかみを押さえていた。

目の前が白んだ途端、彼女は荷台の上に昏倒した。

 

 巫女が倒れたと聞いたファルカが妹の天幕へ駆け込むと、診療を終えた年寄りの薬師が水盤で手を洗っていた。

肩で息をしているファルカは、眠っているレティシアよりも青白い顔だった。

「妹はどうです、何故倒れたのです」

彼はそう言いながら垂れ絹を跳ね上げ、薬師の許可も得ずに寝所へ上がった。

「長、落ち着いて下され」

薬師は目元と手以外が全て灰色の布で覆われ、傍目からでは性別がつかない。

レティシアとファルカの祖父母よりも長生きしているこの薬師は二人にとって親代わりでもあり、信頼出来る存在だった。

妹に触れたい衝動を抑える為に呼吸を整え、ファルカは薬師の隣に座った。

 鎮静剤を兼ねた香が焚かれ、その煙が天井へ真っ直ぐ立ち昇った。

「私の治療が必要ならば、今すぐにでも」

「長がご自分の目を治療する事がお出来になるというなら、巫女もお救いになれるでしょう」

ファルカは咄嗟にレティシアを振り返った。

妹は静かに寝息を立てていた。目の不自由な彼から見れば、何の障害も無い妹は健康そのものに見える。

「そんな……レティシアまでも……」

彼は胡坐をかいた膝の上で拳を握り締める。

激情に己を失わないよう、爪が皮膚に食い込むほど力強く握らねばならなかった。

 ハーディーを治癒した彼の力をもってしても、己の盲目は治せない。生まれつきの欠陥だからだ。

体内で破損したものの修復や本来あるべき姿に戻す治癒の力は、元来の奇形には通用しないのだ。

 薬師は焚き木の上にくべていた壷の中から匙で薬を掬った。小皿に入れてかき混ぜ、濃度を調整している。

「御子を育てる部屋が未発達であることが原因で、月の穢れが酷いのでしょう……婆に何の相談もありませんでしたが、ずい分と痛みはお辛い筈です。それも毎月」

ファルカは口元を手で覆い、薬師の言葉を受け入れられずに首を振る。微かに潤んだ目を瞬かせると雫が零れた。

 毎日一緒にいながら、何故気付いてやれなかったのか。

兄と妹という関係を超えて彼女の体を熟知するほどの間柄であれば気付いてやれたのか。

白皙の青年は悲愴な面持ちで不憫な妹を見つめ、紫の瞳は燃え上がるような赤に転じていた。

「巫女は体調がすぐれないだけとしか思っておられなかったのでしょう。あるいは、巫女として耐えるべき試練と」

皺だらけの手がファルカの上に重ねられた。

「御子は育ちません、巫女を娶れば血筋が絶えます。亡き父君のご兄弟などにはまだ白銀の血が。その娘をお選び下さい」

骨を皮で包んだ様な薄っぺらい手の甲が震えている。

長く生きる者として、そして残り少ない命を持つ者として一族の未来を憂えているのだ。

しかしファルカにとって、幼き日の誓いを破らねばならないほどの問題では無かった。

彼が最も優先すべきこと、守らねばならないものは変わらない。

「妹を裏切って他の白銀を選ぶことなど出来ない。私はレティシアを愛している」

薬師の手を振り切るようにファルカは立ち上がり、天幕を出て行った。

「どうか長としての決断を」

薬師は翻った垂れ絹へ頭を下げると、自らも壷を抱えて出て行った。

 

 炉の中の木が炎の勢いで形を崩し、乾いた音を立てた。

誰もいなくなっても、レティシアは目を開ける事が出来なかった。

目を開けてしまえば苛酷な現実が待っている。逃避出来ない現実ならば目覚めたくはない。

(何でこんな……私が、何で)

涙が溢れて枕を濡らした。

 兄の感情が高ぶっていなければレティシアの気配を察していただろう。

寝ている振りをして息を潜めている間じっと我慢していたが、もう抑えきれない。

手の甲で何度も拭っても、涙は止まらなかった。

 長の妻になるには致命的過ぎる欠陥であった。

(私は兄さんの子供を産めないのよ、長の後継者を作れない女なのよ)

長の隣に座る者として祝福される立場から、全く価値の無い白銀一族の汚点へと一気に堕落したのだ。

ファルカの想いが不変であるが故に、レティシアは愛される事の苦しさで煩悶するのだった。

 兄と共に村を治めることを基盤として生きてきた彼女の世界は壊れて何処にも見当たらない。先も見えない。

彼女は泥の中でのたうちまわる惨めさを味わっていた。

たった今、兄の至純の愛を知ったというのに、暗澹とした気持ちは拭えない。

(どうしたらいいの……何で、何でこんな体に)

息を何度も吸っても肺が満たされず、息苦しい。

自分という認識と五感が乖離してしまったような感覚さえ生じ、混乱していた。

その時、ハーディーが食事中に漏らした一言が脳内を走った。

『近親婚を繰り返した結果が、その目ってわけですか』

血の濃い婚姻は彼の国では罪だと言い、その後のファルカと側近はその場を取り繕うような様子だった。

(兄さん知っていたのね。知っていて、続けようとしていたの)

レティシアの知らない、長としての兄。彼女は戦慄して己を抱きしめた。

 村人は農作業をするのに適した強健な体をしているが、自然の法則を操るヌートの力は宿していない。

通常の容姿と引き換えに、長の一族は精霊の力を受け継いできたのだ。

 母は肩から手が付いており、一度も我が子を抱いたことがなかった。彼女はレティシアを産むと同時に死んだ。

祖父母においてはもっと悲惨な容姿だったと、レティシアは兄から聞いたことがある。

耳の不自由な父は精霊の力を母ほど受け継いでいなかった為に、忍び寄る獣の足音を察知できずに噛み殺された。

数代続いた異形の後に美しい銀髪をした兄が生まれ、四年後にも五体満足で生まれた妹を村人たちは奇跡だと驚喜した。

(気持ち悪い)

レティシアは祖先から引き継いできた自分の肉体が厭わしく思え、全身を掻き毟って汚れを剥がせるものならそうしてしまいたかった。

 レティシアは兄との結婚に浮かれていた自分の浅慮を恥じた。

ヌートの祭りによって村民には他族との混血が進み、長の一族の血は濃くなっていく。

長の家系の異常はヌートの血を引いている証と思い、レティシアはその発生の仕組みを考えた事は無かったのだ。

(村の皆は……皆はどうなの、知っているの? 私が知らなかっただけなの、そうなの?)

天幕を揺らすほどの吹き荒ぶ風と共に、岩山に生息する魔獣の咆哮が響いた。

兄が張った結界に侵入しようと試みる獣の遠吠えは、精霊ヌートが愚かなレティシアを嘲笑っているかのようだった。

 重々しい衣擦れが聞こえ、一陣の冷たい風が天幕の中を通った。誰かが入り口の布をまくったのだ。

「おい、大丈夫か。倒れたんだって」

大して心配している様子も無いハーディーの頓狂な声を受けて、レティシアの体は強張った。

「何の用事よ、来ないで」

レティシアは膝を曲げてうずくまり、頭を抱えた。

 布団の中からでは聞こえなかったのか、ハーディーは躊躇せずに中へ入って来た。

この男はどうして何も気にせず人の心に土足で上がることができるのか。

レティシアは沸き起こる怒気を抑えきれなかった。

「入って来ないでって言ってるでしょっ」

「うわ、なんだ……っ」

寝所から吹いた突風は御簾を跳ね上げ、ハーディーの体を外へ押し戻した。

薬師が置いていった皿が引っくり返って薬湯が零れ、卓上の書類も飛んだ。釣り棚も揺れている。

ハーディーは柱にしがみついて踏ん張ったが、堪えきれずに弾かれるようにして天幕の外へ転がり出た。

 雪の上に転がったハーディーは目を丸くしていたが、やがて苦々しい顔つきになって言った。

「何なんだよ、心配して来ただけなのに妙な術を使いやがってっ」

ハーディーは頭の上に落ちてきた布を顔から思い切り払って立ち上がると、天幕の中へ駆け込んだ。

 ハーディーは真っ直ぐレティシアの方へやって来る。彼女はハーディーの睨むような視線を背中に感じていた。

(何で来るのよ、来ないでよ)

レティシアはハーディーが自分を袋小路に追い詰め、難詰するのではないかという脅威を感じた。

 足音が垂れ絹を挟んだ向こう側で止まった。寝所までは入って来るつもりはないようだ。

しかしハーディーは沈黙し、あの軽口は一向に始まらない。

その時間が長く感じられ、レティシアの心臓は早鐘を打つ。

傷つけられる前に自分から傷つけば傷口は浅くて済むと、レティシアは自暴自棄に陥った。

「知ってるんでしょ」

寝床の中からくぐもった声でレティシアが言った。

「何がだよ」

ハーディーの言葉の端には苛立ちがあった。レティシアは布団を握り締め、自分の方へ引き寄せた。

「私の体の事も知ってるんでしょ、馬鹿な風習のせいだって笑っ……」

言葉の最後に嗚咽が交じり、その後はただ咽び泣いた。

語句を紡ぎ出せばそれだけ己の浅はかさを告白することになりそうな気がして、後に続かなかった。

 ハーディーは突然泣き出した少女に吃驚し、彼女の言葉を反芻した。

彼は彼女の体の問題など何も知らないし、レヴィ族では禁じられている血族婚を野蛮な未開人の風習と思ってはいなかった。

白銀の部族は彼らなりのやり方で村を治めているのだ。誰が犠牲になろうとハーディーには関係が無い。

責められる云われも無いが、絶望しているようにも見える少女に怒る気にもなれなかった。

「そんなこと……笑えねぇよ」

考えた後にようやく出てきた言葉は、つれない一言だった。

彼は泣いている少女に気の利いた言葉もかけられない情けなさを痛感した。

 ハーディーは急に手持ち無沙汰を感じ、足元に転がっていた小皿を机に置いた。

薬は絨毯に零れてほとんど残っていなかった。

寝具が小刻みに震え、上掛けの中から漏れ出てくるすすり泣きは止まない。

布団の中にもぐって泣くレティシアの傍で、しばらくハーディーは立ち尽くしていた。

 

 前夜祭で振舞われる酒樽が広場に集められ、白銀の村人は酒を介して近隣の村人と交流を深めていた。

ヴォルフ族の村では山から降りてきた魔獣が家畜を食い荒らして困り果てているとか、冒険者として名高い族長の弟がエルゼリア大陸に渡ったなどと、人々の歓談は尽きない。

各村の中継地点にある市場で出回った情報が、今夜は白銀の広場に集まっていた。

 父親達は豪快に酒を飲み、血気盛んな一部の青年は目当ての少女を巡って早くも喧嘩腰になっている。

レティシアが天幕の中で静かに縫い物をしていると、人々の愉快な笑い声が聞こえてくるのだった。

 体を動かさないと気が滅入る一方なのだが、レティシアは薬師に大事をとって安静にするように言われ、外に出ることを許されなかった。

引き裂きたくなる気持ちを押し留めて再開した晴れ着の裁縫は、先ほど終わってしまった。

明日の儀式の為に三ヶ月もかかって作った衣装だ。針を布に通す度に、兄への想いを縫い込んできた。

しかし今は、袖を通すのが躊躇われる。

巫女であるレティシアが一度舞台に立てば、長との婚礼の儀式は始まってしまうのだ。

 ファルカは村の見回りと接待で繁忙を極め、レティシアが倒れてから話をしていなかった。

客人としてもてなされているハーディーは連日女の子を連れて歩き、相手構わず自分の妻にするから国までついて来いと誘っている。

レティシアと仲の良い娘達も一度見舞いに来たきり、着物の最後の仕上げに入って忙しいようだった。

 広場の方から賑やかな手拍子と軽快な足踏みが聞こえ始めた。舞台の上で伝統の踊りが始まったのだ。

人々の浮かれ騒ぎを聞いているうちに、レティシアに虚しさがこみ上げた。

気が付けば炎を凝視していた。

辺り一面の銀世界に一人で投げ出されたような茫洋たる前途に、彼女は放心状態だった。

「皆は宵祭りの方へ行ってください」

外で人払いをする声がした。

 天幕に誰か入ってきた。誰なのか、気配で解る。

レティシアは着物を引き出しにしまいながら言った。

「私、明日の祭儀に出たくない」

兄はまた妹がだだをこねて自分を困らせようとしていると思った。

そんなひねくれたところも愛しくてたまらないファルカは、妹の背後から腕をまわして抱きしめた。

「それは困ったね、私にはレティシアしかいないのに……それに、他の娘を選べば掟に逆らう事になってしまうよ」

妹の不安を解きほぐそうと、ファルカはレティシアの頭を撫でた。

「私達の一族は呪われているのよ。こんな力の為に誰かが犠牲になるのは耐えられない。識者を集めて話し合いましょう」

「レティシア、急に何を言い出す」

ファルカは彼女の髪にうずめていた顔を上げた。

やんわりとした笑顔が消えたのは、妹が冗談を言っているのでは無いと気付いたからだった。

 レティシアはファルカに顔を向けるのが辛くて、振り向く事は出来なかった。

「一族に体のおかしい所があっても当たり前だと思っていたのよ。お父さんもお母さんも、爺もそうだったでしょ。健康なのは村人だけ。次はどんな子が生まれるのかしら、口がきけない子、歩けない子、それとも」

「レティシア、落ち着いて」

ファルカは彼女の両肩を掴んで自分の方を向かせた。

 紫の瞳が心配して覗きこんでくる。レティシアは目を逸らし、一歩下がって彼から離れた。

そうしないと今までのように彼の胸へ飛び込み、泣きすがってしまいそうだった。

レティシアは緊縮するあまり喉が自然と嚥下したが、渇いた粘膜が引きつっただけだった。

「長の血筋に伝わる能力を濃く残す為の、先祖代々の慣わしだ。受け入れなければならない」

「そんな力無くても皆はきっとやっていける」

ファルカは眉間に皺を寄せたが、一度溜息をついてからは悠揚たる物腰でゆっくりと言った。

「村を覆っている結界はどうする。雪崩から守り、獣の侵入を知らせる仕組みは。何よりも守られている認識があるからこそ安心して皆は生きていけるのだ。我々は精霊のよりしろだ」

レティシアは力が抜けたように背後の棚に寄りかかった。何を言っても彼を説き伏せる事は不可能に思えた。

兄は正当な理由をつけて真実を隠し、妹の名誉を守ろうとしているのだ。

「白銀の後継者を作るのが掟なら私じゃダメよ。そうでしょ、血が絶える。兄さんだって知ってるくせに」

積弊を改めたいその一心で女としての欠陥を自ら曝け出したレティシアを、ファルカは凝視した。

 驚異の目をみはる兄を見たレティシアは、焦燥感に苛まれて思いついた言葉を連ねた。

「笑っちゃうわよ、皮肉よね。力を残す為に体の正常な機能を失う代償を払ってきたのに、今度はそれを伝える為の機能までも使えなくなっちゃって、もうおしまいじゃないの。兄さんは他の娘と結婚しないと次代の……」

「やめなさい」

妹の自嘲は彼が通ってきた道だ。

彼は成長して力を使いこなせるようになるまで、目の不自由さに葛藤し苦難を味わった。

「ねぇ、そうなんでしょ。私達の祖先が続けてきたことはそういうことなんでしょ」

レティシアは激昂して兄に詰め寄った。

返事の代わりに、ファルカはレティシアを抱きしめた。

レティシアはしがみ付く様に兄の逞しい背中に手をまわし、彼の胸に顔をうずめた。

包まれるようなその温かさを失いたくは無かった。

 相思の二人は抱擁し合いながらお互いの高ぶった気持ちが落ち着くのを待った。

レティシアは兄から体を離し、悲哀の表情そのままで希った。

「ごめんなさい、兄さんは悪くない。兄さんだって自分の体の事で苦しんだのに。私はこんな思いをもう誰にもさ

せたくない。一族の為に誰かが犠牲になるのは耐えられない。兄さんはそんなに掟が大事なの」

「私には掟よりも君が大事だ。後継者が欲しいのではない、君を愛する権利が欲しい」

ファルカは妹の頬を掌でそっと包み、そう哀願した。

高鳴る胸を抑えきれず、レティシアは兄から視線を逸らした。

甘い言葉をかけられただけで撫でられたような心地良さを感じてしまうのだ。

「ど、どうして急にそんなことを言うの、そんなことを言う兄さんじゃなかったのに。皆の事も、一族の事を一番に考える兄さんだったのに」

「解らないのか」

ファルカは語調を強め、妹の手首を掴んだ。

「君の幸せが私と共にあることならば、掟もヌートの力もどうでもいい」

気位が高く理性的で、レティシアを妹として大事にする兄は演じるのを止めたのだ。

 突然のことにレティシアは動揺し、反応を示せずにいた。

掴まれた手首が痛い。

(兄さん、何言ってるの)

それが感じたことの無い空気であることを、彼女は兄の目を見て知得した。

自制心を失った紫の瞳は狂熱にとり付かれ、恍惚の眼差しでレティシアを見つめていた。

ファルカを兄と長という立場から解放してしまったことを、レティシアは解らずにいた。

 ファルカはレティシアの首を手で支えて顔を近づけた。

「兄さん」

口では抗っても体は抵抗していない。むしろ彼女の体は触れられるのを待ち焦がれ、熱を帯びていた。

「もう兄さんと呼ぶな」

兄が募る想いを行動に移したのは初めてのことだった。

 重なった唇から漏れた吐息が熱い。二度三度と唇を重ねる毎に、痺れるような余韻が二人の体に残された。

レティシアはファルカの袖を握って意識を保とうとした。

そうしなければ、この居場所さえあれば全てがどうでもよくなりそうだった。

(離れたくない、本当は離れたくない。ずっと傍にいたいの)

声にならない叫びを全て受け止めるように、ファルカは彼女の唇を塞いだ。

 兄は妹の細い腰から下へと手を這わせ、自分の体に密着させる。

広場から聞こえてくる激しい太鼓の律動と、レティシアの胸の鼓動が重なった。

彼女は背後の飾り棚に手をついて、兄の重みにしなる自分の体を支える。

運命から逃れようとする妹を繋ぎ止めるように、ファルカは手を絡ませた。

「レティシア」

彼女の耳に押し当てられた兄の唇が名前を囁いただけで、レティシアの足が力を失ってぐらつく。

兄は妹の背中を支えながらゆっくりと寝台に横たえた。

「私がどれだけ我慢していたか、君は知らない」

棚が揺れ、並んでいた香水の瓶が倒れた。

 母の墓の隣に父を埋めながら、幼い兄妹は二人でこの村を守っていくと決めた。

父の側近から宣告された掟を受け入れ、両親がしたように一族の為に尽くす誓いを立てたのだ。

夕焼けに染まる黄金色の雪を見ながら、兄は妹の手を握った。

しっかりと固く握り締めてくれた兄の手の力強さを、レティシアは今でも覚えていた。

そして、その繋いだ手を自ら離す時が来ると思ってはいなかった。

 兄の銀糸がレティシアの頬にかかった。兄の広い胸、匂い、温かさ。全てが好きだった。

「好きよ、ずっとこうなる事を待っていた。知ってるでしょう……」

レティシアは喘ぐように言った。

妹の頬を伝う涙を見て、兄は彼女の唇を解放した。

「兄さんお願い、明日のヌートでもう終わらせて。私の代わりに他の誰かを、お願い」

真っ直ぐ見つめるレティシアの瞳には、己を犠牲にして呪の連鎖を断ち切る決意が込められていた。

 ファルカは妹の愛が何処にあるのかを悟った。だが、誰もレティシアの代わりにはなれない。

「他の誰かと未来を紡げと言うのですか」

息を吐きながら、ファルカは体を震わせた。妹に重なっていた体を離す為には、強い意思が必要だった。

「君は私より長に相応しいらしい」

彼は刹那に見せた哀愁の横顔を振り切り、妹を突き放した。

狂態を曝した自分が酷く矮小に思え、ファルカの顔色は蒼然として血の気が無かった。

「だが、長は私だ」

彼は寝台のレティシアを見下ろして自分を奮い立たせるようにそう言うと、垂れ絹を跳ね除けて天幕から出て行った。

(兄さんごめんなさい、ごめんなさい)

揺れる垂れ絹を見ながら、レティシアは両手で顔を覆いながら慟哭した。

 お互い想い合っていながら何故傷つけ合う結末を迎えてしまうのか、答えの出ない問い掛けが彼女を苦しめる。

前夜祭の座興に酔いしれる人々の喧騒は終夜続いたが、来賓を饗するべき長と巫女はその姿を村人の前に現さなかった。

 

 山の稜線に太陽が顔を出す早朝に、山峡の村には爽涼な空気が流れ込む。

空を突き抜けるような銅鑼の音を合図に典雅な弦楽器の調べが鳴り響き、人々は霜柱を踏みしめる爽快な音をたてながら広場に集まった。

 白銀一族の長であるファルカが母たる精霊ヌートに冬越えの祈願をすると、祭りの開始である。

続く巫女の祈祷の後で、着飾った少女達が舞台の上に立った。

恋人の告白を待つ娘達はとても華やかで美しい。

子供に混じって雪合戦をするようなお転婆な少女達でも、今日は淑やかな一面を見せていた。

 青年が想い人の前に進み出て二人が口づけを交わすと、婚姻が成立する。

夫婦となった二人は貴重な花の吹雪を浴び、白銀の長から絹一反と種芋、ヴォルフ族からは食用の動物を一頭祝いに贈られた。

十八組の結婚に父と母たちは泣いて喜び、小さな子供達は笑い声を上げながら踊った。

 誰も求婚しない少女もいれば、何人もの男に求められる少女もいた。

一人の少女を巡って決闘が起こった時には、群集は己の属する村の青年の応援に白熱して、野次を飛ばした。

ヴォルフ族の青年との戦いに敗れたある白銀部族の青年は、足を引きずって天幕の方へ戻って行った。

血が流された戦いが二、三度あり、人々の興奮は日が暮れないうちに最高潮へと達した。

 酒が人々の間に浸透して満月が山の頂点から現れた時、白銀の長の婚姻の儀が始まった。

朱色の長い衣に身を包み、金細工が施された帽子を被ったレティシアが舞台の真ん中に進み出た。

 羽毛を黒く染め、何枚も重ね合わせて翼の形に固めたものが舞台の正面に飾られている。

黒き翼はヌートの象徴だ。レティシアがその翼の前に立つと、有翼の人のようであった。

更に煌びやかな丸十字の刺繍と朱の布地の相乗効果によって、巫女は見事なまでの鮮烈な色彩を放っていた。

耳と首に下げている金の装身具が風に揺れれば瞬く星のようでもあり、眼の淵と唇にひかれた赤い化粧は彼女を成熟した女性に見せた。

己の幸せに酔っていた新婚の夫婦たちも舞台に注目した。

 巫女の顔色が心なしか悪く見えるのは、銀と金の刺繍が篝火で反射して肌に映り込んでいるからだと村人達は思った。

笑みが失われていることも、緊張のあまりいつもの調子が出ていないだけだと解釈していた。

しかし、彼らはレティシアが小刻みに震えていることまでは知らなかった。

 壇上へ上がるファルカは瑠璃色をした正装に額冠を着け、族長としての威光と品格を露わにした。

レティシアと同じ丸十字模様の銀の縫い取りは豪奢だが、彼の場合、髪の輝きの方が勝っている。

腰に下げた剣の鍔にはめ込まれている玉は、彼の目と同じ紫色だった。

長の中性的な美貌に、男女共に驚嘆の溜息を上げた。ファルカは彼らの誇りだった。

 長の結婚は、ヌートと白銀一族の青年の結婚が再現される慣わしであった。

「銀に咲く、紅の守護者は誰ぞ。そはしろがねの、しろがねの御子」

ファルカは伝統の文句を声高に語りながら、一段一段しっかりとした足取りで階段を登った。

(ここまできたら、もう手遅れね。後継者を産めない体だと言わない限り、何も変わらない)

次代の血族を率いる御子を懐妊する定めにある花嫁は、村を守る為の生贄だ。

だが、レティシアにその能力は無い。それでも兄は彼女を選ぶことを強行するつもりだ。

ファルカは美しい妹の前へ立った。

「麗しき我が妹 気高きしろがねの巫女」

歓声が沸き起こり、誰もがレティシアを祝福し羨望の眼差しを送った。

 新しい時代の幕開けを、誰もが固唾を呑んで見守っていた。

「兄さん、お願い。今ここで私達は結ばれないと皆に言って。私の体のことを言ってもいいから」

言葉と共に吐き出される息は、寒さで白い煙のようになっていた。

兄は黙して跪き、巫女扮するヌートが自分の額に手を置くのを待った。儀式はそれで終わりなのだ。

(兄さん)

レティシアの手は胸元で組まれたまま震えて動かない。

このまま村民の前で長に恥をかかせるか、夫婦になるのか。

心は決まっていた筈であったが、足元で屈んでいる兄を見たレティシアには迷いが生じていた。

 壇上で何も動きが無いことに不信を抱いた村人は舞台の下へ集まってきた。

悠久の調べを奏でる演奏者も異変に気付き、音色が途切れだした。

ファルカは妹の手が自分の額に触れるのを信じて待っている。

長の側近が舞台のそでからレティシアに口添えした。

「レティシア様、お忘れですか。御手を長の額にっ」

彼女は蒼白となって首を振った。

(私、私はっ)

巫女、巫女、と何度も自分を呼ぶ村人の声がレティシアには聞こえた。

彼女は幾つもの民衆の冷たい目に責め苛まれている恐怖にとりつかれていた。

「愛に狂った長なんてみっともない」

橙色の衣服と共布の額当てをはめた少年が、人ごみを掻き分けるようにして舞台への階段を登り始めた。

 その少年は剣を背中に固定する為の幅広い皮ひもを斜めがけにして、胸元へ引っ張りながら結んでいる。

神聖な儀式に割り込む不敬な少年を見て、周囲は騒然となった。

「おい引っ込めよ」

「長の婚姻の儀式だぞ」

「お客人、神聖なる儀式ですぞ」

非難を一身に浴びながら少年は颯爽と階段を登り、二人の男が彼を追った。

「邪魔するなっ」

少年は一喝した。彼を引き摺り下ろそうとした壮年の男は、少年に脇腹を肘で小突かれて蹲る。

槍を構えた村人が血相を変えて走り寄ったが、すでに少年は階段から滑り落ちた男を飛び越えて舞台へ駆け上っていた。

(な、なんで)

異国の客人はこの儀式の意味を知らないのだろうか。

レティシアは彼が舞台に上がった理由を考えてますます混乱した。

今はレティシアにとって、一族の行く末を賭けた枢要な選択を迫られている時である。

彼女は無遠慮な態度をとる少年に、憤慨するどころか錯乱しそうだった。

ハーディーは悪戯っぽく笑い、腕を組んだ。

 雪の上を撫でて一層冷えた風が三人の間を通り過ぎ、月は事態を静観しながら皓々と舞台を照らしていた。

「何をしているのか、解っているのですか」

ファルカは立ち上がり、訝しげにハーディーの方を振り向いた。

「北の大地に異形の長が治める国があると聞いて、オレはやって来た」

ハーディーは不敵な面構えで、誰も聞き漏らす事のない様に声を張り上げて言った。

その姿は堂々としていた。

「俺が一人で旅しているのは国のしきたりのせいだ。王族の男は十六の成人前に一人で旅に出て、自分と違う肌をした伴侶を国に連れて帰らなければ大人として認められない。生き残れる強い男、異なる血。すべては国の繁栄と安泰の為だ。そうだろ、それが悲劇の元だ」

(悲劇の元)

レティシアの目が、ハーディーのそれと合った。

 レヴィ族では強い種を残す為に成人する青年を命の危険に晒す慣わしがあり、ハーディーが国の掟に従って孤独な旅をした結果があの遭難であった。

抗いたくても奔流に逆らって泳ぐ事は容易ではない。

古から続くその流れに溺れ足掻くだけの苦しみを知っているハーディーに、レティシアは心強さを直感した。

 群集は顔を見合わせた。

ハーディーが言った意味を口々に推察したり、不遜な輩だと罵っている。

「オレはファルカとレティシアの婚姻に異を唱える。名乗りをあげるって言ってんだよ。オレは掟ってやつが嫌いでね」

尊い儀式を汚そうとするハーディーに向かって、村人は腕を振り上げて抗議した。

長の側近は宥めるが抑えきれない。今にも階段を登って来そうな勢いで、人々は悪罵を叫号する。

ハーディーは白銀の村の平穏を打ち破る、異国の敵と見なされたのだ。

 興奮する村人達を鎮めたのは、彼らが敬愛する長だった。

「愛する者への求婚を許されるのは勝者のみ。我らの儀式とて例外ではない」

ファルカはハーディーを睨みつけ、帯刀していた剣を抜いた。

月光が反射した刀身には無慈悲と清麗が共存し、冷たい光を放っていた。

「そんな、いや、やめて」

レティシアはただならぬ殺気を兄から感じ取った。

放出しようとしている力は舞台に影となって映り、兄の体から怒りが陽炎のように噴出しているのが見える。

ヌートに捧げる祭りは血の饗宴と化した。

 

 祭りで流される血は一滴残らずヌートに捧げなければならない。

ファルカとハーディーは舞台から広場へと降りた。

深夜になって気温が一段と下がり、人々の足跡が残る雪の一部は氷に変化している。

頬の皮が引っ張られるような凛とした冷たい空気の夜だった。

 人々は広場を囲んで壁のようにひしめき合いながら事態を注視する。

渦中の人となったレティシアも長い裾をひきずり、決闘の場へと足を運んだ。

(兄さんとハーディーが戦うなんて……一体どういうつもりなの、あいつ。もう、どうしよう)

彼女は視界が悪くなる頭の飾りを外し、両手に握り締めた。

 ハーディーは背中の剣を鞘から抜いた。

相手は盲目だというのに、隙も無く激烈な殺気が立ち上って近寄りがたい。

ハーディーは顔色一つ変えないファルカの穏やかな面の下に隠れた、自分への激しい憎悪を察した。

 長の婚礼に介入する不届き者は未だかつていなかった。

人々は座興の一つと思いながら好奇な目を向けている。

長の名を連呼し、少年に身の程を知らしめるよう声を嗄らして応援する年寄りもいた。

レティシアはハーディーの勝利により兄との婚姻から逃れられるが、若年の旅人に敗れることは部族の長としての威信に関わる問題となる。

しかし、兄が勝利すれば事態は振り出しに戻ってしまうのだ。

(私がいけないのよ、舞台の上で皆にはっきり言えばこんなことには)

一族の掟は彼女を何処までも追いかけ、苦しませる。戦いを見届ける役目を、彼女は放棄したかった。

 戦いの銅鑼が鳴らされ、ファルカは目を閉じた。彼の持つ力は第二の目でもある。

二人の男は雪を蹴って踏み込み、一気に間合いを詰めた。

幅広の剣を振り回すハーディーは軽い身のこなしでファルカの剣を回避する。

ファルカから発せられている殺気が見間違いではないとすれば、ハーディーは手を抜かれている事になる。

ハーディーにとって本気で挑んでいる相手に弄される戦いは不本意だった。

「あんた手を抜いてるだろ、本気出せよ」

暢気なハーディーは己が危殆に瀕することを楽しんで、更に威嚇した。

(ばっばか、兄さんが本気出したら一瞬で終わっちゃうわよ)

レティシアは気を揉んで冠を胸元で握りしめた。

 ファルカが何事か呟くと、ハーディーの動きがぎこちなくなった。

彼の足は長靴の中に鉛を流し込まれたような、見えない枷を嵌められた。

ファルカはハーディーを見ずに、感じるままヌートの力が導くままに足を動かして剣を振った。

鋭く切り込むファルカの剣を寸での所でかわしたつもりのハーディーだったが、追い討ちをかけた風が刃となって襲い掛かる。

脇腹から鮮血が散った。

「いってぇな、妙な術を使いやがって」

脇腹を押さえたハーディーが体勢を立て直す前に、再びファルカが襲い掛かった。

 術によって動きが鈍くなっても、元来俊敏なハーディーがファルカをかわす事は容易だった。

ハーディーは横へ飛び退って懐から棒状の暗器を立て続けに二本投げる。

飛来する短剣をファルカが剣で薙ぎ払った所に、移動したハーディーの剣が腹部を裂いた。

雪に血が滴り、苦痛でファルカの顔が歪む。

「兄さんっ」

レティシアの手から冠が落ちた。

驚きの余り針で刺されたような痛みが全身に走り、彼女は片手で口元を覆った。

 ファルカは剣を支えにして片膝をつき、血の滲む腹部を抑えた。

掌から光が漏れると、何事も無かったかのように彼は立ち上がる。

服は裂けたままだが、薄っすらと裂けた線が残っているだけで止血されていた。

 ハーディーは舌打ちした。彼の服は裂けてはだけ、露出した皮膚から血が流れて布を赤く染めていた。

治療しながら戦えるファルカの方が、ハーディーよりも有利だった。

 ハーディーがどんなにファルカを切り付けても傷は癒え、動き回るハーディーから流れる血の量は増える一方だった。

白い雪の上に、赤い斑点が広がった。振るった剣からも血が振り落とされる。

レティシアの視界は揺れていた。先日倒れた時のような冷たい汗が背中を流れている。

激しい剣戟が彼女の頭の中で鐘のように響いていた。意識は朦朧として、視界は月の暈のように朧だった。

「もう、もうやめて」

息が途切れて呻き声を上げながら彼女は訴えたが、か細い声は周囲の声援にかき消された。

 戦いは一方が気絶か降参するまで終わせてはならないことになっていたが、二人の様子ではどちらか一方が息絶えるまで続ける気迫がある。

ハーディーの息は荒く、顔の色も失い始めていた。

受けた傷はファルカの方が多いが、ハーディーは治療する事が出来ない為に持久戦で勝つ見込みは無い。

ファルカはふらついたハーディーに向かって掌を向け、空気を圧縮した衝撃の波を放った。

ハーディーは剣を前にかざして受け止めたが、氷の上では踏み留まる事が出来なかった。

背中を地面に打って倒れた彼の喉元に、ファルカは剣を押し込んだ。

「兄さんっ」

耳を劈くような轟音が響き、一筋の光が空と地上を結びつけた。

 広場を中心として円形に設置された篝火は全て消し飛び、鼻を突く臭いが辺りに充満した。

村人が振り返ると、舞台の両側に立てられている精霊を模した木の彫刻が燃えていた。

灯りが全て消えた暗闇を唯一照らす光源は、地面に打ち立てられたヌートの神像を燃やす炎だった。

「ヌートの彫刻が燃えてるぞ」

「お告げだ」

「ヌート様がこの戦いにお怒りなのだ」

村人は畏れてどよめいた。

自然の法則に逆らって雲ひとつ無い群青色の夜空から落ちた雷に、当然人々は畏怖した。

その場に居た者たちの敵意が、儀式を邪魔した客人に降り注いだ。

 伝染しやすい集団心理を押さえ込む為、レティシアはいち早く進み出て叫んだ。

「いいえ、これは神託です。この争いが無意味だという思し召し」

不可思議な状況の理由を与えられて、人々は安堵の溜息を漏らした。

ヌートの力を受け継ぐ家系の者の言葉は絶対で、巫女の発言を疑う者はいなかった。

村人達は黙諾して二人の男を見た。

 雷の衝撃で手元が狂った剣先はハーディーの喉下を逸れて雪に刺さっていた。

ファルカは土混じりの雪から剣を引き抜いた。

失望し蔑んでいるようにも見える兄の視線を、レティシアは正面から受け止めなければならなかった。

嫌悪されてしまえば彼女の気も楽だが、一つの選択が十数年にも及ぶ想いを打ち砕くほどファルカの愛は軽く無い。

それを解っていていながら兄の想いを踏みにじる自分こそ明き盲なのだと、彼女は自嘲した。

(兄さんごめんなさい、こうしないともう止められない)

悲哀に満ちた空虚な紫の瞳を見つめ返す己の双眸を閉じることすら罪に思える。

だがレティシアは耐え切れずに兄の視線から逃れ、唇を噛んだ。

 ハーディーが起き上がり、思い出したように息を吐ききった。

剣を突きつけられた時に命は無いと思っていたのだろう。喉元を触って穴が空いていないことを確かめている。

ファルカは剣を鞘へ収めて言った。

「巫女の言うとおり、神託が下った。ヌートは黒金のまれ人の参加を歓迎されなかった。我が婚礼は来春の儀に持ち越す」

ファルカはそう言うと、恭しく頭を下げながら道を開ける村人の間を割って入った。

燃え盛る柱の横を通って天幕の中へ入って行くその背部に、長たる威厳は無かった。

 

 近年の祭りの中で最も重要であった儀式は、長の退場によって幕を下ろした。

若い夫婦はひやかしを浴びながら新居へ入っていく。

広場では相手の居ない者や結婚を断られてしまった男達が、長く淋しい夜を酒で飲み明かそうと騒ぎ始めた。

 長と側近達は天幕の中でヴォルフ族の使者をもてなし、相手が居ない為に舞台に立つ事も出来なかった年頃の男女の見合い相手を協議している。

山の際が白み始めていたが、温かい布団で寝息をたてているのは子供だけだ。

焦げて黒くなってしまった精霊の彫刻には、まだ火が燻っていた。

 レティシアは帯を緩め、広場の端で膝を抱えるようにして座っていた。

隣にサリタが立ったことにも気付かず、彼女は気抜けした顔で広場の真ん中に設置された焚き木を眺めていた。

「レティシア、春まで延びちゃって残念ね。……大丈夫?」

レティシアは話しかけられて始めてサリタに気付き、無意識に作り笑いを浮かべた。

「あぁ、サリタ。平気よ。それよりもおめでとう」

「ありがとう」

緑色の繻子を着たサリタはヴォルフ族の夫の腕に手を絡めて礼を言うと、赤く染まった頬を隠すようにして足早に立ち去った。

幸せそうな友人を見たレティシアの空虚な心は幾分か宥められ、満たされた。

 今頃はレティシア自身も祝福され、夢にまで見た幸福の絶頂期にいた筈だった。

兄を傷つけ掟を破り、ヌートをも畏れぬ嘘をついた事の方が夢のようである。

だが村人から腫れ物に触るように気を使われ避けられる度に、現実に引き戻されるのだ。

男達が飲んでいる酒が空になっていることに気付いたレティシアは、壷を抱えて貯蔵庫の方へ走った。

 酒樽が並んでいる簡易天幕の中に入った途端、レティシアの気が緩んで涙が溢れ出た。

「あの雷はお前の仕業だろ。神託ってのはハッタリだな」

レティシアは驚き、思わず壷を持つ手を緩めて落としそうになる。

絨毯も惹かれていない剥き出しの地面の上で、胡坐をかいていた者がいたのだ。

「ここで何してんのよ」

彼女は涙を拭いながら言った。

ハーディーの口には長細い干し芋が咥えられていた。

 五本の柱に布を被せただけの天幕は、宴の肴として作られた食事と酒を保存しておく貯蔵所だ。

決闘の後で空腹を感じたハーディーはここで食い散らかしていたのだろう、大皿の上には付け合せの野菜しか残されていなかった。

 ハーディーは食べながらしきりに脇腹を押さえていた。破れた布の間から包帯が見える。

レティシアの視線に気付いたハーディーが言った。

「全身ぐるぐる巻きの婆さんが治療してくれたよ。ファルカと同じ力を持っているようだったけど」

「婆は薬師よ。私の遠い親戚だから、少しヌートの力を使えるみたい」

彼女は薬師が全身を覆っている理由を考えた事がなかったが、今では本人に聞くまでも無い。

外見に出た奇形を隠す為に、顔以外を晒せないのだ。

 レティシアの曇った顔を見たハーディーは、彼女が持っていた壷を取り上げた。

腕の中の重みが無くなり、彼女は我に返った。

「何するのよ」

レティシアは壷を取り返し、三つ並んでいる樽の真ん中の上蓋を外した。

 濁り酒の濃厚な匂いが立ち上り、レティシアは顔をしかめた。

「何であんなことしたの。しきたりに口うるさい年寄りはあんたが儀式を邪魔したから精霊がお怒りになったって思ってるよ。身の危険ぐらい感じてよね。あんたよそ者でしょ」

レティシアは文句を並べ立てながら長い柄のついた玉杓子で酒樽から乳白色の酒を掬い、壷に流し込む。

口で言うほど彼の無鉄砲な行動に腹が立たなかったのは、そのおかげで彼女自身が救われたからである。

「単に邪魔したかっただけだよ。言っただろ、掟ってやつが嫌いなんだよ。まあ、仮にオレが勝ったとしてもちゃんと責任はとるつもりだったけどさ」

「馬鹿じゃないの」

「お前こそ何であんな嘘ついたんだよ。オレのことを怒ってるなら、精霊はオレを認めなかったって言えば兄貴と一緒になれたのに」

ハーディーはレティシアの顔を横から覗き込みながら、わざとらしく続ける。

「まさかあんなに熱々だった兄貴と結婚するのが嫌に」

「兄さんのことは愛してる。でもダメなの」

レティシアはハーディーの言葉を遮った。

 黙したレティシアを見ながら、ハーディーは伝えようとする言葉を吟味して考えを巡らした。

「ファルカは、お前のことを本当に想っていると思うよ」

レティシアは手を滑らせて杓子を樽の中へ落とした。慌てて拾おうとするが底の方へ沈んで手が届かない。

樽の淵に手をかけ、彼女は底に沈んでいる杓子を見つめた。

(お互い想い合っていてもどうにもならないのよ)

手を伸ばせば届きそうにも見えるが、彼女はそうしなかった。

 ハーディーがレティシアの傍に立ち、杓子を掬い上げた。

そのまま酒を飲み、顎に流れた酒を腕で拭う。満足そうに屈託の無い笑顔を見せた。

それが、不器用な彼が出来る精一杯の励ましだった。

「あーあ、あいつらがオレの周りにたかってたのは物珍しいからだけだったんだよな。一緒に来てくれって言ったらゴメンナサイだ」

レティシアは堪えきれず噴出した。

嫁探しの旅をする異国の少年に興味をそそられはしたが、生まれ育った村を出て遠い国に嫁ぐ話とは別だ。

ハーディーは年上の娘にからかわれたのだ。

 レティシアが樽の蓋を閉めると、ハーディーはその上に杓子を置いた。

彼女は尚も笑い続け、腹部が痛むほどだった。

「笑うなよ」

「だって必死なんだもん、嫁を連れて帰らないと大人になれないんでしょ」

胸に刺さっていた棘はいつの間にか抜け落ち、レティシアはハーディーの愉快な失恋を楽しんでいた。

「残念だったね、他の村で探してちょうだい」

レティシアはそう言い、壷を抱えて天幕から出ようとした。

「ダメか?」

「え、何が」

彼女が振り向くと、ハーディーはうつむいて視線を泳がせていた。

やがて彼女を一瞬だけ見て、あの無神経な言い草を放った。

「残り者同士ってことで、どうよ」

残り者同士。

その意味をようやく理解したレティシアはハーディーの頬に平手を叩きつけて怒鳴った。

「何ですってっ」

どう見ても不誠実で無分別を極めたようなこの少年に、一瞬たりとも頼もしさを感じたことをレティシアは歯軋りするほど悔やんだ。

 

 月は役目を終えたかのように山の背後へと隠れ、藍色の寒空は柔らかな藤色に変化していた。

明け方になっても騒ぐ人々の声は止まず、天幕の中では朝まで愛が語られていた。

村の門番は酒を飲んで体を温めながらうたた寝を決め込んでいる。

普段から危機管理に乏しい人々の警戒心が更に薄くなる時間であった。

 ファルカは天幕の中に居ながら、ヌートの力で村の中を見渡していた。

結界に異常も無く、人々は喧嘩しながらも浮かれ騒いで楽しんでる。

近隣の村人との仲も、それほど悪くは無いようだ。

しかしヌートよりもたらされた特別な目は、馬小屋の異変を見出した。

柱に繋ぎとめておく綱を残して、妹の愛馬が消えていたのだ。

 ファルカは人体を侵す毒のような力に守られて暮らす村人への愛と、妹への愛に挟まれていた。

しかし小麦色の肌をした少年を救助して以来予感していた未来を現実のものとする為に、ファルカは出来るだけの計らいで二人の進む道を整えたつもりだった。

呪を断ち切ろうとする者と、流れに逆らう者。

異なる国に生まれ育ったというのに、彼の妹と少年は似過ぎていたのだ。

 感情に反して想いを殺し、妹を突き放して兄を演じることもあれば、抑えきれない想いを破裂させて激しい悔悟の念にも捕らわれた。

その苦しみが終わろうとしているのに、彼の心には悲しみも残らず達成感も無かった。

「長、どうされましたか、ご気分でも」

側近に話しかけられ、ファルカは眼の焦点を手元の杯に戻した。

「いいえ、なんでもありません」

側近は長の杯に酒を足した。

「あのまろうどめ、ファルカ様とレティシア様の間に入るとは! 長は人が良すぎるのです。私はもう顔も見たくありません、朝には出て行って頂きましょう」

彼はそう言いながら干し肉を口に咥え、恨みを晴らすように思い切り引っ張って噛み切った。

ヴォルフの使者が白髭を撫でながら賛同した。

「同感ですな、白銀の。我がヴォルフの族長ならばあの小僧の首を切り落としているところです」

冷静なファルカとは裏腹に、取り巻きは憤慨していた。

 話題は残った男女の引き合わせ方から始まり、ハーディーの処分に及ぼうとしている。

もはや少年の味方をする者はいない。彼はただの遭難者でいられぬほど派手な行動をとりすぎたのだ。

ファルカは苦笑した。

「そうですね、すっかり座が白けてしまいました。即興でよろしければ最後に私が歌でも詠みましょう」

ファルカは微笑んで席を立つ。

彼らの準備が整った事を知ったファルカは、周囲の目を惹きつける役目を自ら請け負った。

 各々くつろげる場所に散開していた人々は、天幕から出てきた長を見て再び広場に集まった。

楽師が弦を弾くと、天幕の中にいた新郎新婦が乱れた服装を整えながら外に出た。

子供達は親に抱えられながら眠たい目を擦っていたが、鳥の囀りを聞いて清々しい朝の訪れを知った。

 朝日は海原に照り返す光のように雪を煌かせながら顔を出した。

ファルカが陽光を背中に浴びながら両腕を広げると、彼自身から光輝が照射されているようだった。

 

我が紅は毒 不浄の花

 

 深みのあるその美声は、裏門にいた旅装の少女の耳にも届いていた。

(兄さんが歌を)

彼女は震える手で荷物を馬の背中に縛り付ける。三日間野宿する分だけの、最低限の荷物だ。

 

幼き日の小さき手に誓いて

我が麗しき乙女には 清き流れを

呪縛を解き放つは くろがねの

くろがねのまろうど

 

ゆっくりと歌を詠むファルカの目は、黒馬と男女が裏の門から出て行く様をとらえていた。

 長の歌に魅了されていた人々は、何者かが許可を得ずに村を出て行ったことに気付かなかった。

“ヌートの口”を過ぎるまで静かに歩いた後、少年は少女の手をとって馬に乗せた。

後に始まるであろう騒ぎを覚悟して、行ける所まで馬を走らせなければならない。

食料が尽きるまでに村と村を中継する市場まで辿り着かねば、命の保障は無いのだ。

 日が昇るに連れて雪は銀色から眩しい金色へと変化し、兄と誓いを立てたあの日の朝と同じ色をしていた。

胸には最後に聞いた兄の歌が響いていた。

(兄さん、まさか)

懐かしい情景に、レティシアは目を見開いた。

 歌に詠まれた真意を理解していると兄に告げるには遅過ぎる。

レティシアは遠ざかる村を振り向こうとした。

「振り向くな、捕まってろ」

彼女の迷いを断ち切るように、ハーディーが叫んだ。

 村で数日を過ごしただけの少年ですら、ファルカの情愛は痛いほど身に染みていた。

妹に対する行動に秘められた深い想いを同じ男として察してはいても、それに対して同情という安易な言葉は当てはまらない。

ハーディーはファルカの崇高な精神に惹かれたからこそ、彼から託されたものの重みを感じながら手綱を握っているのだった。

 濃い虹色の朝陽に染まりつつある冬天の下、若い男女を乗せた黒馬が黄金の雪原を疾走している。

幼年の誓いを成し遂げる為の兄妹の想い、そして固く結ばれた絆は離れていても永久に寄り添う。

レティシアは振り落とされないように旅人の腰にしっかりとしがみついた。

馬の蹄に蹴られた白雪は風に乗って飛散し、朝日に煌いていた。

 


 
このエントリーをはてなブックマークに追加
 
 
2
1

コメントの閲覧と書き込みにはログインが必要です。

この作品について報告する

追加するフォルダを選択