ミーコの生きている世界。
それは、普通の人間とはかなり異なる様で。その生物的な能力すら普通とは言い難い様な人間の様で。
リコはしかし、予想はしていたので、あまり驚きはしなかった。とはいえ、ある程度の確信を持ったのは、実につい最近だ。どういう訳か、今年になって顕著になった、不思議事件との遭遇。夏休み前、湿気の鬱陶しいゴールデンウィークに体験した、夢の世界。そして、夏休みにヤカと体験した、帰省先での事件。ユニコーンと遭遇した事など、ここ数週間のあれこれ。異常な現象や異常な状況を経験して、その雰囲気とミーコの持つ雰囲気が似ていたと、なんとなく思い始めて。
だからこそ、彼女に相談を持ちかける決心がついたのだった。
そして現実に、こうして相談を持ちかけている…………のだが。
「で、この悪趣味な演出には、一体どんな意味があるんですか?」
相談を持ち掛けてはっきりしたのは、ミーコが普通の人間で無いという事実のみ。もちろん、相談してすぐに答えが判明する事を期待するのは、あまりにも虫が良すぎるが。虫が良すぎて、都合も良すぎる。
「意味…………か」
ミーコは一拍置いて、嘆息した。その溜息が何に由来するものかは分からないが、何処か疲れているような、あるいは嘆いているような、そんな感じだった。
そして、ふと思い出したかの様に、言った。
「私の能力はね、尋問向けなんだわ」
「尋問…………?」
また、穏やかではない単語が出てきたものだ。そして、やはり会話の本質をずらしていた。
「まあ、驚かせたり、怖がらせたりね。精神を不安定にさせて、情報を引き出す。そんな能力なんだよ」
見てな、と言って、指を一度鳴らした。その音は世界中に響き渡るかのように冴えた音で有り、実際、世界中に響き渡って、世界そのものを破壊した。
空間に走る亀裂。亀裂はあっという間に広がって、世界を覆いつくし、そして割れた。
世界の破滅に直面しても、しかしリコは動揺しなかった。割れた空間の外側から、割れる前と全く同じ世界が顔を覗かせており、つまりは。
「…………別の空間を作っていた…………んですね」
すでに、世界は何もかも元通りだった。往来する人々の頭はちゃんと首に乗っかっているし、気分が悪くなるような四足歩行でもない。
リコは、カレンが作り出した真白の空間を思い出していた。つまり、ああいうものなのだろうと、予想していた。だからこそ異常な状況を目の当りにしても、あまり動揺しなかったのだ。
「いや、違うね」
だが、ミーコは否定した。足を組み、右膝に右肘を乗せて、手の甲に顎を乗せて。上目遣いで否定した。
そして、端的に、リコが取り込まれていた能力を表現した。
「おはよう、リコ」
「え?」
妙な笑顔でそう言ったのを聞いて、聞き間違いかと思って、しかし、どうやらそうでは無いらしくて。
何を言っているのかと思った。時刻は既に夕方前。暑さの残るこの季節、まだまだ日が落ちるには早い時間帯だ。目覚めの挨拶にはまだ早過ぎるし、あるいは遅過ぎる。そもそも、仮に午前帯であったとしても、そういう挨拶は出会ったその時にするのが普通だろう。
「あんたは夢を見ていたんだよ。言っただろ、夢幻世界だって。別の世界を作り出して、誰かを取り込んじゃうような途方も無い力は無いよ、私には」
そのミーコの言葉を耳から受信し、脳で解析し、瞼を閉じて良く咀嚼し、心の奥底へ飲み込んで。
「え? 私、寝てたんですか?」
「まあ、そういう事だ」
「こんな公共施設のど真ん中で、立ったまま?」
言いながら、リコは自分が立ったまま寝ている姿を想像して、その姿があまりにも間抜けで、泣きたくなった。
「なんて事してくれてやがるんですか、このアホ先輩は」
項垂れつつ、恨みの言葉をミーコに送る。
そのリコの気落ちした姿に、流石に悪いと思ったのか、ミーコは少し引きつったように笑って、両手を振った。
「いや、でも実際アレだから。あの、ほら、周りからは見えないようにしてるからさ。それに、可愛い寝顔だったよ。ほんとに」
フォローになっているのかなっていないのか、良く分からない様な事を言って、むしろリコを凹ませた。
「周りから見えない…………?」
凹みつつも、疑問に感じた部分を口に出した。
そういえば、だらしの無い座り方をしているミーコに、それを注意した時も、同じ様な事を言っていた気がする。
それも能力の一部なのだろうか? まあそういう事なのだろう。
「まあ、長々と本題を誤魔化してきたけども、そろそろ入るとしようか。本題に」
ミーコは若干俯いて、眼は左に逸らし。
「結論から言うと、私にあんたを助ける事なんて出来ない」
その声が少し弱弱しく感じたのは、何かしらの負い目を感じているからか。
それとも、もっと別の理由か。
どちらにせよ、だからこそ、本題を誤魔化して、回りくどく、あるいは直接的に否定する事を嫌ったのだろう。
そうする事で、少しでも回りくどくする事で、話に段階を付ける事で、リコに対する拒絶を正当化する…………などという卑小な考えでは無く、単純な優しさなのだろう。
だが、正直な所、それにどれほどの効果が有ったかは疑わしい。
だって、こんなにもショックだ。
リコは、掴んでいた裾を無理やり振りほどかれ、路頭に迷ったような、そんな不安定さを感じていた。
もちろん、1から10まで、その全てを助けてもらおうなどとは、微塵も考えてはいなかったのだが。
「そんなにがっかりしないでくれよ」
隠そうともしない大きな溜息とともに、ミーコはそう言った。
「私だって、残念なんだ。出来れば、あんたの大きな力になってあげたいけど、このケースは人間が手を出せる範疇を大きく超えてる」
私の力なんかじゃ余計にね、と、小さく呟いた。声に比例して、その姿まで小さくなったかの様な気がして、また夢を見せられているのかと疑ったが、それはただの気のせいだった。
「…………でも、助言くらいは出来る。長々と回り道したのは、そのためさ。…………知っておいて欲しかったんだ」
「何を…………ですか?」
「あんたを殺す者の事を、さ」
「……………………」
リコは息を呑んだ。
ネクロノミコンとリコの関係について、どれほど知っているのかは分からないが、やはりミーコは、あるいは彼女の所属する組織とやらは、リコの置かれた現状を把握しているようだった。
ミーコは遥か昔を思い出すかのように遠い目をして、再び、息を深くついた。
「生と死、理性と混乱、正気と狂気」
再び鉄の塊の様なものを握っていて。祈る様に両手で握っていて。
「そういう、善も悪も、良いも悪いもひっくるめた上で、それでも圧倒的に善を導くのが、ネクロノミコンって呼ばれてしまっている奴でね」
そして、リコに人差し指を伸ばして、
「死、混乱、狂気、不条理、堕落、嫉妬。そう言った悪いもの全てを押し固めたものが、リコがカレンって呼ぶ存在なのさ」
「……………………」
リコは再び息を呑んで…………そして、それ以上の事は出来なかった。冗談の欠片も見る事の出来ないほどに真剣な表情のミーコ。こんな表情は、中学時代から培ってきた彼女に対するイメージとは程遠いもので、だからこそ嘘や誤魔化しなどをしていないのだろうと思えてしまう。そして、それを肯定することは、彼女が冗談めかして語ったカレンの存在というものは、本当にそういうものであると肯定する事に等しく。
しかし、リコが驚いているのは、その事では無かった。まして、ミーコの事情通ぶりにでも、ミーコの置かれている日常に対するそれでも無い。
世界を一瞬で破壊する力を持った、負の塊。それがカレンの本来の姿で。
そのカレンと正反対で、圧倒的に善である存在が、ネクロノミコンであると。
そう、ミーコは言っていて。
それはリコにとって、ちょっとした衝撃だった。
ネクロノミコンとは、死の表象では無かったか。
それは、花刻家の図書館で…………家の所有者ですら知らないであろう、あの超空間の図書館で。白いローブに身を包んだ男が言っていた言葉だった。
ネクロノミコンは彼を狙っていて、その過程でリコを殺す事になる。それも、彼が言っていた言葉だった。
だからこそ悪だと。
恐ろしい存在だと。
リコはそう理解していた。
「いや、まあね。私もさ、どういう経緯でリコが殺されるっていう予言が成されて、どういう理由で殺される未来が確定してるのかも知らないんだわ、ほんとの所は」
ただ、そうした事実のみは、情報として知っているのだと続けて、
「だからこそ信じ難いってぇね。そう思うわけだわ。私の知ってるネクロノミコンって存在の定義から考えれば、人を殺すなんて有り得ないからね」
「…………っ! でも、ネクロノミコンは、それを見ただけで死んでしまうって…………」
普通、その存在を見る事は出来ない。しかし、もし、ネクロノミコンの姿を見たとしたならば。
即死する。
だからこそ、死の表象だと。
息を呑んで反駁するが、上手く言葉が出てこない。代わりに、心中では思考が複雑に駆け巡り、そして気がついた。だから、ミーコの次の言葉も予想出来て、それは当たっていた。
「見ただけで死ぬ。見えなければ死なない。誰も気がつかない。そこに居ないのと同じ。空気以下の存在」
ミーコは嘆息した。
「ネクロノミコンが積極的に人を殺してるなんて、誰が言った。アレは聖なる奇跡の側の存在だ」
「聖なる奇跡…………?」
聖なる者。
奇跡を起こす者。
ネクロノミコンがそういう側の存在だと言われても、とても信じられない。
とても信じられないが、同時に、その信じられないという思いを信じることの出来る根拠は無い。ミーコの言葉にも根拠は無い。信用しているミーコの言葉ならば、あるいは鵜呑みにしても問題は無いのかもしれない。そもそも、ミーコが何の能力も持たない普通の女子高生だったとして。ネクロノミコンについて、自分の身に起きている事について彼女に相談した場合、どの様な調子で会話が進んだとしても、その言葉を鵜呑みにする以外に方法が有っただろうか?
きっと、無かったに違いない。
恐らく、本当に全て鵜呑みにしないまでもそのほとんどに対して不確かな情報性を備えたまま、そのほとんどに対して鵜呑みにするしか無かっただろう。判断材料など無いのだから。藁にも縋りたい思いを抱えていたのだから。
ただ、ミーコが信用出来るというだけの理由で、間違っているかもしれない情報に命を預けていただろう。
ミーコはそれを理解していたのだ。
だから中々本題に入らずに、『助けにはなれない』と断言した上で、ネクロノミコンに対して知っている事を話してくれたのだろう。
カレンを引き合いに出して嘘を付いた事。能力を使って夢幻の世界を見せた事。
それもきっと、リコに対する警告だったのだろう。
「見えているもの、見えていないもの。何が夢で何が現実だ? 何が真実で何がそれ以外だ? 嘘とそれ以外のものは何だ?」
見せた夢の様に。夢だからこそ誇大な妄想に現実を感じる様に。勘違いをしてるだけでは無いのかと、ミーコは問う。
「……………………」
ミーコの言いたい事は何となく分かった。
だが。
だが、しかし。
そんな事を言われても、リコにはもう、何が何だか分からなかった。顔を下に向けて、何も言えなくなった。
それでも、1つだけ胸に生まれた感情が、思いが有った。
とはいえ、これはミーコの言葉に従うならば、当然の事なのだろうが。とはいえ、実感として生まれたその思いは、口先だけの言葉では無く、人生で初めてかもしれない、熱い感情だった。
知ろう。
そういう思い。
たったそれだけの思い。
混乱し、複雑に思考を繰り返す(無駄な思考の方が圧倒的に多かったのだろうが)頭で、押し出されるようにして首を出したその思い。
ネクロノミコンに殺されると聞いて。
現実感など何も無しに、しかし焦燥は積もり。
恐ろしかったのだ。
カレンという、ミーコの言葉通りならば強大な力を持つ人外の存在と、その本質を一つにしても。
恐ろしくて、前を見れなかった。
ネクロノミコンについて、知ろうとしなかった。
あの本を何時でも持ち出せる状態に有りながら、開こうともせずに、あろう事かテスト勉強などしていた。開くべき本は、学校の教科書では無かったろうに。
『ネクロノミコン』と題された、あの本だったろうに。
リコが右手を開くと、何も無かったはずの右手には、何時の間にか重たい装丁の本が一冊握られていた。
必要とした者の前に。
必要だから現れる。
本の様で、本質的には本では無い。とある魔術師の、なれの果て。
その本を胸に抱えて、リコは顔を上げた。
「ああ、なんだかやる気になったようだね、リコ」
ミーコは嬉しそうに言って、だらしなく座っていたベンチから、腰を上げた。
「有難うございます、先輩」
「例は要らない。私は何もしてないからな」
ミーコは首を回して、関節から音を出して、ひと息ついた。
そして、彼女は空を見上げて、それほど眩しくも無い筈の夕刻の光に、眼を細めた。そして、眼を少し閉じて、再び眼を開けた時には、先ほどのだらしない格好からは想像も付かないほどに凛とした表情で、リコに視線を送っていた。
その表情に、少し胸が跳ねて、リコはミーコに視線を合わせる。
ミーコの全身からは決然としたものが溢れており、なるほど、普通の人間には出す事の出来ない覚悟が見て取れた。
「今日、リコと話せて良かった」
「え? それは私が…………」
それは私こそが言う台詞だ。こっちの台詞とはこの事だとリコは思ったが、ミーコは違うと首を振った。
「実はな。私は今から、個人的な最終決戦に向かう所だったんだよ。別に世界の命運がかかってるとか、そんなんじゃ無い。ただ1人の友達を助けたいって、それだけの戦いなんだけどね。それで、知り合いと一緒に奔走しててな」
言いながら視線を横に流した彼女の方を見ると、そこには1人の男が距離を置いて立っていて。今まで全く気が付かなかったが、ずっとそこに居たらしく。頭と腕には痛々しく、包帯が巻かれていた。年は、リコと同じくらいだろうか。
「だから、リコと今日話せて、正直、良い気付けになったよ」
嬉しそうに笑って、ミーコはリコの頬に手を当てて、額と額をくっつけた。ぶつけるのでは無く、優しくくっつけた。
不思議と気恥ずかしさなどは無く、元気になったと主張するミーコの言葉が、素直に嬉しかった。
そして、ミーコは手を振って何処かへ歩いていった。ある距離まで行った時に、その姿が一瞬で消失した。
彼女は戦いに赴いたのだ。
自分もまた、出来る事をしよう。
リコは腕に抱えた不可思議な書物に、いっそ愛おしく見えるほどの力を込めて、それをそのまま決意に変えた。
カレンはリコ、ミーコの居る場所から、少し離れた場所に居た。距離にすれば1キロ程か。歩けば数分の距離だ。
だがその場所は、普通の人間ならば、自力では一生たどり着けないだろうと断言できる。
そこは空の上だった。
地面から1キロ上空の場所だった。足の支えなど、当然有る筈も無い。しかし、空に浮かんでいる、という表現が正しいのかどうか、今のカレンを視た人間ならば、疑問に感じるだろう。
浮遊感は無く、固定されたイスの上で胡坐をかいている。全く、その様にしか視えないのだった。浮かんでいるというより、正に座っている。まるで、空の上すらも地上の一部で有るかのように振舞っている。落下という感覚や体感を、世界の遥か彼方に置き去りにして、少女の姿をした怪物はそこに居た カレンはリコ、ミーコの居る場所から、少し離れた場所に居た。距離にすれば1キロ程か。歩けば数分の距離だ。
だがその場所は、普通の人間ならば、自力では一生たどり着けないだろうと断言できる。
そこは空の上だった。
地面から1キロ上空の場所だった。足の支えなど、当然有る筈も無い。しかし、空に浮かんでいる、という表現が正しいのかどうか、今のカレンを視た人間ならば、疑問に感じるだろう。
浮遊感は無く、固定されたイスの上で胡坐をかいている。全く、その様にしか視えないのだった。浮かんでいるというより、正に座っている。まるで、空の上すらも地上の一部で有るかのように振舞っている。落下という感覚や体感を、世界の遥か彼方に置き去りにして、少女の姿をした怪物はそこに居た。
「もう少し上に行けば、視えるのかの?
精神世界として隔離された場所に、有るのかの」
カレンは呟いた。そして、鼻で笑った。
カレン自身、信じては居ないからだ。自分が口にした言葉の内容を。
神が住まうは天の国。空に近づけば、有るのかもしれない。神が住まうは天の国。しかし、空に有る様で空に無い。空よりも高く、高く高く高く、その更に上に広がる世界。神の支配が実現した世界。
しかし、そんなものが存在しない事など、誰もが知っていた。
だから、現実として存在しないのだ。この世界には、そんな場所など存在しないのだ。
「…………護らなければならぬの。主様を」
カレンの更なる呟きは口の中だけで消えた。独り言なので、その内容は色々と要領を得ない。
「我も、救われたいからの」
そして、救われたいのは誰でも同じだ。
リコが今の状況から救われたいのと同じように、カレンもまた同じなのだ。あるいは、より切実に。
そして、あの哀れな聖人もまた、同じなのだ。自覚的である所が、また哀れだ。
「まあ、我が護りきるまでも無く、主様は我よりも高みに行くであろうよ。その時は、我も………」
続く言葉を空に浮かせて、カレンは主人の元へと帰還した。
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分かりやすい様に描くっていうのが難しすぎて困る。
そんなお話です。