No.203090

LOST-WORLD

alikoさん

不定期に東京地下鉄に現れる謎の無人電車「自殺志願者専用車線」の終点にある森闇の町、「鏡ノ裏」に迷い込んだ少年と心が欠落した人々の風刺的交流、退廃的愛情。

2011-02-22 15:03:20 投稿 / 全11ページ    総閲覧数:366   閲覧ユーザー数:359

 

 

 

第一章「ゆるやかに壊れてゆく」

 

 

 

 少年は墓地に佇んでいた。雑草が生い茂った荒れた地に、手入れの行き届いていない墓石が点在しているだけのそこは、死者が眠る場所としては相応しくないのでは―――そう思わずにはいられない。杜撰としか言い様のない目の前の光景に、その地に眠る死者達を思い、少年は心を痛めた。

 こんなにも寂しい場所に閉じ込められて、彼等は一体、何を思うのか。きっと寂しがっているだろう。けれど、自分にはどうしてやる事もできない。こうして時々足を運び、摘んできた花を手向ける事しかできないのだ。

 

 舗装のなされていない砂利道に足をとられながら、少年は、か細い鳴き声を頼りに歩みを進めて行った。

 どこにいるの。問いかけても明確な答えが返ってくる訳でもなく、「にゃあ」という、どこか悲痛を孕んだ、か細い鳴き声が、ただひたすらに彼の焦燥感を煽るのだった。早く見つけてやらなければ……と。

 やがて、少年はひとつの墓石に縋り、鳴き声をあげる一匹の黒猫を発見し、安堵の息をついた。もうじき嵐がやって来る。天気が荒れる前に、温かい屋根の下へと避難させてやらなければ。少年は、そう思っていたのだ。

 

 「ほら、行くぞ」

 

 そう言って、腹の下に手の平を差し入れる。すると猫は、それを拒絶をするかの様に、一際強く鳴いた後、少年の手に噛み付いた。

 突然の事に怯んでしまった少年だったが、ここで引く訳にはいかない。この猫が、とある一点―――少年の祖父が眠る墓石―――から頑なに離れたがらない事を少年は知っていた。だから、彼も無理に家に連れ帰る事はせずに、この場所で必要最低限の世話をしていたのだ。

 けれど、大きな嵐が近付いている今、今までの様に野晒しにしておく訳にはいかない。せめて、嵐が過ぎるまでは温かな部屋で安心して眠って欲しいと思う。

 何故、この猫が祖父が眠る墓石から離れたがらないのか……理由はわからないけれど、今は悠長に構えている場合ではない。少年は、多少手荒な所作で猫を抱き上げ、そのまま走り出した。

 

 墓地を抜けて、坂道を駆け下りる。その間にも猫は鳴き続けていた。少年の腕から逃れようと暴れる猫を強く抱き締め、彼は走る。既に、空は分厚い雲に覆われていて、いつ降り出してもおかしくない状況だった。

 交差点に差し掛かり、少年は歩行者用の信号が点滅している事に気付いていたのにも関わらず、「まだ、大丈夫だろう」―――そんな安直な考えのもと、横断歩道を渡ろうと、走るスピードを速めた。それがいけなかった。

 

 「危ない!」

 

 誰かの声がして、少年はようやく自分が置かれている状況を把握する事が果たせた。

 まるで永遠とも思える一瞬の中で、トラックが自分に向かって突っ込んできているのを少年は見た。

 そして、見知った人物が、切羽詰った表情で自分の方へ必死になって手を差し伸べている姿も……。

 スローモーションで再生されているかの様に、あらゆる光景がゆっくりと流れている。そんな錯覚の中で、空間を割る叫び声や、劈く様な悲鳴が幾重にも重なっているのを、どこか遠い意識で聞いていた。

 

 ―――ああ。もう、駄目だ―――。

 「死」を覚悟した少年を待っていたのは、彼にとって、予想だにしない結末だった。

 

 

 

 

 「え……?」

 

 瞬間、少年の目に映る世界がクリアになる。反響して聞き取り難かった周囲の雑音も、今、はっきりと聞こえた。

 気付いた時、少年は血溜まりの中で冷たいアスファルトに倒れ伏せていた。腕に抱いていた筈の猫の姿は、もう、どこにもない。その代わりに、そこにあったのは、まるで投げ捨てられた人形の様に力なく倒れている―――

 

 「     」

 

 名前を呼ぼうとするも、開いた唇から漏れ出るのは覚束ない呼吸音だけだった。アスファルトに倒れ伏せている影は、微動すら起こさない。

 死んでいる―――?

 嫌な予感がして咄嗟に駆け寄ると、彼は、ぼんやりとした眼差しで宙を見仰いでいた。夥しい量の血溜まりと、幾重もの悲鳴が響くその場には、とても相応しくない……それ程までに落ち着いた表情をしていた。けれど、呼吸は荒い。彼の利き腕である左腕が見当たらなくて、少年はぞっとした。それもその筈だ。彼の左腕は、横転したトラックとコンクリートとの間に挟まれ、肩から指の先にかけて圧迫されていたのだから。

 トラックを退かそうとしても、少年の腕力では魚篭ともしない。頭でも打ったのだろうか。早く彼を助けたいのに、力を込める度に前頭葉を激しい痛みが走った。

 次第に、少年の中に芽生えた恐怖と焦燥が大きくなってゆく。

 呼吸を乱し、涙を流しながら、それでも懸命にトラックを退かそうと足掻く少年の姿を認め、彼は、やおら鮮やかな桔梗色の瞳をふっと細めて、穏やかに笑って見せた。痛いのは、苦しいのは、左腕を潰され、頭部を固いコンクリートに打ち付けた彼の筈なのに、無傷である少年の方が痛く、苦しそうな表情をしていた。

 そんな少年に、彼は「大丈夫か?」と心地の良いテノールで問いかけた。生は限りなく希薄であり、無慈悲なまでに濃厚な死が犇めいている瀬戸際に、彼は自分の事ではなく少年の身を案じた。

 俺は大丈夫。お前は大丈夫なのかよ。そう声をかけたいのに、上手く言葉を発せない。

 

 取り乱した自分を宥める為に、彼が全ての苦痛を笑顔にすり替えて、「大丈夫だよ」と言うであろう事は、混乱する思考の中で、そこだけ鮮明に理解していた。

 

 がたがたと震える身体に、彼の手が触れる。少年が大好きな、大きくて骨張った手の平が赤く染まっている。冷たい。

 

 ―――嫌だ、死なないで。頑張って、息をして。声にもならない思いを必死に繰り返すも、彼の呼吸は、目に見えてか細いものになってゆく。

 彼の薄い唇が、何かを紡いでいる。微弱な声音が少年に届く事はなく、もどかしさばかりが募ってゆく。大切な者が流した血溜まりの中で、泣きじゃくる事しか出来ない自分を酷く呪った。

 どうしていつも、いつも、自分は……俺は―――。

 

 「     !」

 

 誰かが自分を呼んでいる。混濁とした意識の中で、やたらと脳裡に留まる、色のある声。けれど、それは自分が求めているものではない。

 強い力で肩を揺さ振られ、彼―――有栖―――は、不快感を露に閉じていた目を開く。

 

 

 

 

 「おい、お前!なんやっとんねん、死んどるんか?!」

 

 はた、と思考が止まる。有栖は二度、三度と瞬きをしてから、「……は?」と、間の抜けた声を出した。

 

 「あ、生きとった。良かったー。」

 

 楽観的な声がそう告げるも、有栖にとっては何が「良かった」のか、わからない。目の前では、キャラメルブラウンの髪を派手に逆立てた少年が、八重歯を覗かせて笑っている。

 「……誰。」思いがけずついて出た言葉に、少年は丸い瞳を瞬かせてから、「キョウ」とだけ言った。

 

 「……キョウ?」

 「きっ君とかキョンキョンとか呼ぶヤツもおるけどな!」

 

 お前も好きに呼んだらええ。そう言って、キョウと名乗った少年は有栖の隣に腰掛けた。

 

 「それにしても、お前みたいな若いモンまでこんなトコ来るなんてな。親御さんが悲しむやろ、この親不孝め。」

 

 そう言って、けらけらと笑うキョウを横目に、有栖は首を捻り、周囲を見回した。不気味なまでの静けさで覆われているこの空間には見覚えがある。登校や下校の際に、ほぼ毎日と言っていい程に利用している地下鉄東西線の車内その物だ。

 

 「まぁ、最近は若年層の志願者も増えてきとるし、そう珍しい事でもないか。それに、自分で決めた事やし、外野の俺がとやかく言う話ちゃうわな。でも、死ぬ前にいっぺん、鏡ノ裏の観光はしといてもええと思うで。俺のオススメはアッシュと夢見屋と……あ、王城も記念に一枚くらい写真撮っといてもええかもな」

 

 自分が置かれている状況を把握する事が果たせずに困惑している有栖を他所に、少年―――キョウ―――は不可解な語句を言い連ねながら観光プランを練っている。

 鏡ノ裏、アッシュ、夢見屋、王城―――どれも聞きなれない語句だ。

 それに、ここはどこなのだろう。静かだからそう感じるのだろうか。有栖は、ひんやりとした空間に身震いをしながら辺りを窺った。

 確か、学校からの帰り道、いつもの様に他愛もない話をしながら秋山と共に駅へ向かい、別れて、地下鉄東西線に乗り込んだ筈だった。今、自分が座っている椅子も、車内の広告や吊革も、何ひとつとして不自然な点はなく、見慣れた光景のひとつとして有栖の目に映っている。

 けれど、何かが違う。閑散とした車内に自分とキョウ以外の人影はなく、窓の向こうの景色は、いつも有栖が足早に駆け抜ける駅構内とは違っていた。

 

 「鏡ノ裏……?」

 

 電光掲示板に記された見慣れぬ語句に表情を顰める。果たして、鏡ノ裏という名の町など存在しただろうか。それに、何故、帰宅ラッシュの時間帯に、自分とキョウ以外の人影がひとつとして見当たらないのだろう。

 

 「ここ、どこだ?」

 

 向き直り、尋ねると、キョウは「はぁ?」と訝しげに眉を寄せた。

 

 

 

 

「どこも何も、そこに鏡ノ裏って書いてあるやん。自分、ロストワールドからの招待を受けてここに来たんちゃうのん?」

 「そんなの知らない。俺は家に帰る途中で、居眠りをして、それで……。」

 「ほな、死への強い欲求が因果してここに辿り着いたんやな!良かったなぁ、自分!もう少しで死ねるで!」

 

 キョウは「おめでとさん」と言って、邪気のない笑みを浮かべた。端整な顔をくしゃりと崩して笑うキョウは、とても楽しそうで、とても綺麗で、とても―――変だ。

 分の中に「死への強い欲求」があるなどと微塵も思えなかったし、命の重みにも気付かずに軽はずみな言動で「生」を軽んじる人種を特に憎む有栖にとって、キョウという存在はどこまでも異質だった。

 だからこそ、能天気な笑みで「おめでとう」だなんて口にするキョウを、有栖が友好的に思える筈もなかった。自分の祖父は、汚濁した世界を誰よりも愛していたのに、それでも、誰に看取られる事もなく、孤独の中でひっそりと死んでいったと言うのに。

 

 「お前、頭がおかしいんじゃないのか?死への強い欲求?ふざけんな。俺は、自分だけがと卑下して卑屈になって、そうやって死んでいく様な人間が大嫌いなんだ!お前みたいなヤツと一緒にするな!」

 

 一息に言い切ると、有栖は、胸の中心で渦巻く嫌悪感を逃すべく深い溜息を吐き出した。この世界には馬鹿したいないと今なら断言できる。命の重みにも気付けない軽率な人間を前にすると、どうしても荒くなる鼓動を止められない。

 もやもやとした消化不良の思いが渦巻いて、自然と表情が険しくなる。そんな有栖を見て、キョウは怯む訳でも気分を悪くする訳でもなく、まるで、真新しい生き物を見るかの様な、好奇の視線を彼に注いだ。

 

 「……自分、死にたないの?」

 「どうして、理由もなしに死にたいだなんて馬鹿げた事を思う?お前の思考回路はどうかしてる」

 「ほな、死にたいから鏡ノ裏に来た訳じゃ……」

 「だから、寝過ごしたって言っただろ!」

 

 声を大にする有栖に、キョウは「信じられない」とでも言いたげに目を丸くした。

 ―――本当に、苛々する。こんなにも低俗な質問を純粋な眼差しで投げかけてくるなんて。そのせいで、蓋をしていた悲しい記憶を思い出してしまった。

 キョウは、ぽかんと口を開けたまま暫く呆けていたのだが、苛立ちを露にする有栖に興味を抱いたのか、「お前、名前は?」と口にした。

 

 「……中宮有栖」

 「アリス?」

 

 復唱した後、キョウは「え?!」と、大袈裟に驚いて見せた。確かに「有栖」だなんてそれは大層と夢見がちな名前だと自負していたが、そこまで露骨に驚く事もないだろう。

 すっかりと気分を害した有栖は、この場から早々に立ち去るべく腰を上げた。すると、すかさずキョウが「どこ行くん?」と有栖の服の裾を引っ張る。有栖は面倒くさそうに溜息を吐くと、窓の向こう側を見遣り、呟いた。

 

 「この電車、いつまでも動き出しそうにないし……とりあえず、駅員に事情を聞いてくる。鏡ノ裏なんて町、俺は知らないし」

 

 ―――そう。東京で生まれ、東京で育った有栖だったが、鏡ノ裏という名の町など、地下鉄の路線図でも、地図でも、一度として目にした事がなかったのだ。正確な位置がわからない今、駅員に確認する事が先決だと思った。しかし、そんな有栖の考えを一蹴する言葉がキョウによって紡がれる。

 

 

 

 

「お前、アホちゃうか?!鏡ノ裏は自殺志願者専用車線の終点にある町やぞ?帰りの電車なんて、ないに決まっとるやろ!」

 「……どういう事だよ」

 

 「自殺志願者専用車」―――覚えのある言葉だ。

 最近、不定期で東京地下鉄に現れるという、謎の無人電車―――「自殺志願者専用車」―――については、都市伝説として、クラスメイト達が頻繁に口にしていたので記憶に残っているが……。

 けれど、まさか、あの有名な都市伝説が現実のものだったなんて、手放しで信じる事はできない。

 

 「なんで、自殺志願者専用車が各駅停車か知っとるやろ?帰るなら今やぞ、覚悟が鈍ったモンは帰れ。そういう意味が込められとる。それなのに、お前は最後までこの電車を降りなかった。降りる機会なんて沢山あった筈なのに、それをせずに最後まで残った。……まぁ、実際は居眠りしとって降りられへんかったらしいけど」

 

 せやから、鏡ノ裏に辿り着いたら、最期。もう、「外」には一生、帰られへん。

 「わかったか?」と言って、キョウは有栖の顔を覗き込む。しかし、絶望と直結する宣告を受けて、素直に頷く事などできる筈もない。

 不安に揺れる有栖の双眸が、ゆっくりとキョウの瞳を捉える。困惑する有栖を真っ直ぐに見詰めるキョウの目は、深い闇を宿しているかの様だった。色素の薄い栗色の眼球が薄闇の中で確かな光彩を放っている。綺麗だと、素直に思った。そして、その美しさは恐怖さえ、有栖に抱かせた。

 夕暮れ刻の街、行き交う人々の眼差しには、絶望や悲壮といった負の感情が反映されているかの様に、まるで生気が感じられなかった。それなのに、先刻から訳のわからない事ばかりを口走るキョウの目、表情、声は、どれをとっても人間らしい。

 「外に帰れない」とは、一体どういう意味なのだろう。もしも、自分が乗り合わせた電車が偶然にも都市伝説として語られている自殺志願者専用車で、その終点の町である鏡ノ裏に辿り着いてしまったと言うのならば、自分はどうなってしまうのだろう。

 

 「とりあえず、外に出えへん?鏡ノ裏の事がわからへんのやったら俺がガイドしたるし、もしかしたらお迎えが来てるかもわからんしな」

 

 わからない事の方が多過ぎる今、一人でいるよりもキョウと共に行動した方が得策だろう。そう考えた有栖は、促されるまま、キョウの後に続いて電車から降りたのだった。

 

 

 

 

 改札を抜けてから地上に辿り着くまでの間、結局、誰ともすれ違う事がなかった。広い敷地内で自分とキョウ以外の人間が一人もいないという現状が、鏡ノ裏と呼ばれる町の異質さを物語っている様だ。

 すると、数歩先を歩いていたキョウが「あ」と声をあげたかと思えば、一目散に駆け出した。一体何事だろうと目で追うと、少し離れた場所に、まるで郵便屋を思わせる衣装を身に纏った、鮮やかなマラカイトグリーンの髪が印象的な少女―――いや、少年が立っている事に遅かれ気付く。

 

 「りっちゃん!」

 

 「りっちゃん」と呼ばれた少年は、まるで少女の様な顔立ちに、あどけない笑みを浮かべてこちらに近付いて来た。

 

 「きっ君、また黄泉沼から抜け出して来たん?王様に怒られても知らんで?」

 「せやかて、黄泉沼は森と沼と墓ばっかりでつまんないし。それよりな、新しい志願者のご到着やで!」

 

 そう言って、キョウは「ほら、自己紹介せぇ!」と、有栖の背中を押した。

 「りっちゃん」と視線がかち合い、有栖は状況が飲み込めないまま、とりあえず会釈だけをしておいた。すると、「りっちゃん」は大きな目をぱちぱちと瞬かせると、徐に弾ける様に笑って、「ほな、招待状を拝見しまーす!」と言った。

 差し出された手の意味がわからずに目を丸くする有栖の代わりに、キョウがこれまでの経緯を簡単に説明する。

 

 「あんな、コイツはロストワールドの招待を受けてへんねん。居眠りしとる間に鏡ノ裏に辿り着いとったらしくて。ほんで、自殺願望がある訳でもなくて、名前はアリス言うねんて。な。」

 

 自分の置かれている状況を未だ把握できずにいる有栖にとって、キョウの言葉は一種の救いだった。彼の言葉に同調する様に、有栖も頷く。

 

 「招待を受けてない?君、ほんまにアリス言うん?」

 「……そう、だけど」

 

 ―――また。キョウも「りっちゃん」もアリスという名前に過敏に反応を示したてる。

 アリスが一体なんだというのだ。訳がわからぬまま立ち尽くしていると、急に「りっちゃん」が目の色を変えて、有栖に詰め寄り、言った。

 

 「自分、ほんまにアリス言うんか?ペラこいてんねやったら張り倒すぞ、コラ」

 「……は、ッ?!」

 

 有栖の胸倉を掴み上げ、鼻先が触れるか触れないかの至近距離で凄む「りっちゃん」は、先刻までの友好的な態度とは一変し、恐怖を覚える程だった。

 自分よりも低い位置にあるマラカイトグリーンの髪が、風に靡いている。真っ直ぐに有栖を睨み据える大きな瞳を見て、有栖は息を飲んだ。

 ―――キョウと同じだ。有栖は思う。美しい光彩を放つ眼球の奥で、深い闇が渦巻いている。美しきは同時に恐怖さえ抱かせると、どこかで聞いた様な気がしたが、成程、こういう事を言っていたのかも知れない。

 有栖は、密の濃い睫毛で覆われたエメラルドグリーンの瞳に捕らわれてしまったかの様に、視線を逸らす事が敵わなかった。すると、怯んでしまった有栖を見兼ねたのか、「りっちゃん」は興醒めだとでも言いた気に溜息を吐き、有栖の体躯を乱暴に押しやった。

 

 「―――嘘や。アリスがこんなヘタレな訳ない。」

 「俺もまさかとは思ってんけど、でも、ロストワールドの招待もなしに鏡ノ裏に辿り着いたなんて、今まで、十一代目のアリス以外にいてへんやん!それに、名前もアリスだなんて……」

 

 有栖は、「りっちゃん」の表情が虚ろになった瞬間を見逃さなかった。美しい眼球から光が消えて、深く暗い闇が彼の双眸に宿った、その瞬間―――。まるで、命を持たない人形の様に無機質で、恐ろしく冷たい眼差しに、有栖は戦慄を覚えた。全身から血の気が引いてゆく様な感覚を覚えたのは、キョウが「十一代目のアリス」という言葉を口にした瞬間だと、はっきりと言う事ができる。

 得体の知れない恐怖に身を竦める事しかできずにいる有栖を尻目に、「りっちゃん」は嘲笑を浮かべ、口を開いた。

 

 

 

 

「きっ君はほんまにアホやなぁ。アリスはお月さんみたいな金色の髪と、血みたいな赤い目の持ち主だって、文献に書いてあるやろ?」

 「せやけど、十一代目のアリスも、十二代目のアリスも……コイツみたいな、栗色の髪をしてた。」

 

 そう言って、キョウは艶のある有栖の栗色の髪を見た。そして、何かに気が付いたかの様に目を見開くと、何かを言おうとした。しかし、それは「りっちゃん」によって遮られ、結局、キョウが何を言おうとしたのかはわからなかった。

 

 「……で?自分、死ぬんか生きたいんか、どっちや」

 「どっち、って……」

 

 そんな事、考えるまでもない。

 

 「死にたい訳がないだろ……。さっきからなんなんだよ、お前等……っ?!」

 「死にたいなんて、言うだけならタダやからな。最近は半端な覚悟でロストワールドにアクセスするアホもようさんいてんねん。まぁ、そういうクズを殺すのも隠密の仕事やし、さくっとやったるわ。」

 

 冷たく言い放ち、「りっちゃん」は鋭い眼光に闇を湛えて有栖ににじり寄る。

 やばい―――身の危険を感じ、咄嗟にキョウを見るが、当人は「大丈夫、りっちゃんは処理のプロやから」と言って、けらけらと笑っている。……そうだ。キョウは鏡ノ裏の人間だ。発する言語は同じなのに、自分には到底理解できない発言を多々、繰り返した。助けを求めるに相応しい相手ではなかったと理解していた筈なのに、無意識下で彼を求めてしまった。しかし、己の軽率な行動を嘆くには、とうに遅すぎる。

 こんな見ず知らずの土地で、こんな……こんな、おかしな人間に殺されて終わるのか。恐怖と絶望とが入り乱れた意識の中で、内なる自分が「逃げろ」と警告をする。けれども、がたがたと震える足では走り出す事も敵わない。

 微弱な風が舐める様にして肌を撫ぜたと思った、瞬間。「りっちゃん」の黒いブーツの周りで激しい風の渦が巻き起こる。突如として現れた風の渦に、周辺に散らばっていた小石が四方へと飛んでゆくのを見た。非現実的な光景を前にして、有栖は、ただ立ち尽くす事しかできずにいる。

 

 「これで終いや」

 

 終焉は、すぐそこで息衝いている。有栖は悟り、小さな呻き声を漏らした。そうする事しかできなかった。けれど、そんな有栖に少しの慈悲を与える事もなく、「りっちゃん」は宙に手の平を翳す。すると、足元で高速回転していた風の渦が、一瞬にして巨大なものになり、「りっちゃん」と有栖の周囲を風の壁が覆った。そして、強い浮遊感が全身を包んだかと思えば、裂く様な激しい痛みが有栖を遅い、体躯のあちこちが軋みをあげる。

 

 「……う……わ……っ!」

 

 風の刃が有栖の皮膚を容赦なく切り刻む。旋風によって鮮血が飛び散り、視界が赤く染まった。

 気が違えそうな程の激痛の中で、意識だけはやたらとはっきりしていて……もう、助からない。そう悟った瞬間、脳裡を過ぎったのは、かつて自分を愛してくれた祖父と、秋山の笑顔だった。

 

 

 

 

 「翔太(しょうた)、どうかした?」

 

 後方から投げかけられた声に、翔太は、はっとした様子で振り返った。いつの間にか背後に回っていたらしい、美しい藍色の髪が印象的な青年―――潤(じゅん)―――の不思議そうな眼差しに、翔太は慌てた様子で言葉を紡ぐ。

 

 「あ、いや……えっと、今、十三番目の音が乱れた様な気がしたから、駅の方で何かあったのかな、って……」

 「十三番が?」

 

 潤が目を丸くしながら聞き返すと、翔太は神妙な面持ちで、こくりと頷いた。

 

 「十三番だけじゃなくて、四番の音も乱れてます。この乱れ方は……もしかしたら、リアの奴……能力を解放してるのかも……。」

 

 言うなり、翔太は音詠み(おとよみ)の体勢に入るべく、腰まで伸ばした蜂蜜色の髪を後ろで結わい、ヘッドフォンとシールドを装着した。

 「ゆりかご」と呼ばれるドーム型の重機の中で、翔太が「無音の領域」を発動させる。大気に四散する、あらゆる雑音の中から、目的の音だけを抽出し、音の波長、発生源を調べる為には、翔太を覆うゆりかごの中を、無音に近付けなければならないのだ。

 潤が「四重奏者」と呼ばれている様に、翔太も「調律者(チューナー)」という、二つ名を持っている。

 調律者とは、この世に散在する、ありとあらゆる音を詠み、謡い、コントロールする者の事を言う。

 ただし、誰もが調律者になれる訳ではない。調律者になる為には、絶対的な音感を持っていなければならないのだ。

 翔太はまだアルバイトの身で、調律者としての技術力は嘗ての師に遠く及ばないだろう。しかし、潤も、嘗ての師も、翔太の中に秘められた「調律者としての素質」に注目し、その才能が開花する事を誰よりも信じていた。

 そして、二人の予覚は確信になり、翔太は若くして調律者としての才能を見事、開花させたのだ。大気中に散らばっている音の欠片を拾い上げて、繋いで、常人には到底気付けないであろう僅かな音の乱れをも感知できるのも、元より調律者としての天才的な才能を持ち得ていたからだと言える。

 

 「四番がベースから外れるなんていつもの事だけど……四番の力が大き過ぎて、他の音にも影響を与えてます。それに、鏡ノ裏で十三番の音を持ってる人間なんて、いない筈なのに……」

 「外部から志願者がやって来たのかも知れないね」

 「外の人間なら、尚更有り得ない……。でも、はっきりとわかる。これは、十三番の音です」

 

 確信を孕んだ翔太の眼差しを受けて、潤も頷いた。

 この世を生きる者は皆、零番から十三番までの、それぞれ異なる音を持っている。大抵の人間は十番か十一番と相場が決まっているのだが、昨今は「個」の喪失により、音にノイズが混じり、ナンバーを確認する事が難しくなっていた。

 対して、鏡ノ裏に住む者達は皆、特殊と分類される零番から九番、そして十二番の音を持ち、ノイズを含まないクリアな音質が特徴的だと言われている。

 そんな中で、突如として現れた十三番目の音―――。鏡ノ裏でも十三番の音を持つ者はおらず、文献では唯一絶対の存在である「アリス」のみが持つ音とされていた。翔太の混乱を招くには、十分過ぎる程の出来事だ。

 

 

 

 

「場所は駅前広場……四番と十三番、十二番……あと、一番が近付いてます。移動速度が速すぎる……潤さん、コレって……!」

 「……猫か」

 

 ―――猫。潤の呟きに、翔太は肩を震わせた。他の「一番」を圧倒するまでの色濃い音の塊は、間違いなく「チシャ猫」と呼ばれる彼の物だ。

 

 「チシャ猫が動くなんて……。やっぱり、音の発生源はアリスなのかも……。」

 

 そう呟き、翔太は不安を押し隠す様に自らの手で震える肩を抱いた。

 十一代目のアリスが死んでから十年の月日が流れ、そして、十二代目のアリスが消えてから二年が経った。そして、再び鏡ノ裏にアリスが現れた。

 また、沢山の人間が血を流す事になるのだろうか。大切なものが壊れてゆくのを目の当たりにしながらも、どうする事もできない自分の無力さに打ちひしがれるのだろうか。

 

 「そんなの、嫌だ……っ」

 

 絞る様に声を漏らし、翔太は唇を噛んだ。訪れるであろう凄惨な未来を思い、悲痛を滲ませる翔太の柔らかな髪をくしゃりと撫でて、潤が「大丈夫」と微笑む。

 

 「まだアリスかどうか、わからないだろ?」

 「でも、確かに十三番の音が流れてたんです!絶対、アリスが来たんですよ……っ!」

 「もし、十三番の音の持ち主がアリスだとしたら、翔太は王城の監視下から外れる事になる。やっと、自由になれるじゃないか」

 「六代目のアリスみたいに、失敗したら……?十一代目のアリスみたいに、軍事利用されたら……?十二代目のアリスみたいに、見捨てられたら……?俺、もう、誰にも死んで欲しくないのに……っ」

 

 切々と零された言葉に、潤は困った様に笑った。

 もう、随分と長い間、鏡ノ裏で生活していたが、外の世界に関する情報収集は怠っていなかった。故に、翔太がビー玉の様な双眸に水膜を湛える気持ちは、痛い程に理解できる。

 初めて会った時よりも随分と痩せてしまった翔太の体躯を、壊してしまわぬ様に、けれども強く抱き締める。「よしよし」と、まるで子供をあやす様な所作で背中に手の平を這わせると、翔太の華奢な手の平が潤の背中に回る。泣きたい気持ちを必死に抑え、自ら犠牲になる道を選んだ翔太の背中は、少しでも力を加えれば折れてしまいそうな程に、薄い。

 

 「潤さん、ごめんなさい……っ。俺、もっと、ちゃんと、強くならなきゃいけないの、わかってるのに……いつも、泣いて、潤さんを困らせてばっかりで……っ」

 「いいよ、そんなの。翔太がいつまで経っても泣き虫で、頼りないから……だから、その為に俺がいるんだろ」

 「―――……っ、う……っ」

 

 まるで、幼子の様に泣きじゃくる翔太の髪を撫でながら、潤は「大丈夫、俺がいるからね」と言って、回した腕に力を込めた。

 

 

 

 

先刻まで響いていた轟音が掻き消え、辺りは静けさを取り戻していた。

 ―――何が起こったんだろう。

 恐る恐る、硬く閉ざしていた瞳を開けてみると―――目の前には、鬱蒼と生い茂る森闇を喚起させる様な、どこまでも深い緑があった。

 

 「リア、そこまでだよ」

 

 聞き慣れない声が頭上から降って来る。荒い息遣いで見上げると、長身の男が立ち塞がる様にして、有栖と「りっちゃん」の間に立っているのが確認できた。

 「りっちゃん」と呼ばれていた少年は、どうやら「リア」という名前だったらしい。「アリス」という名前にあんなにも過敏に反応を示し立てていた癖に、アリスに負けず劣らず女々しい名前ではないか。有栖は、朦朧とする意識の中で、そう毒づいた。

 

 「なんで一番がここにおんねん。ここら一帯は第一師団の管轄と違うやろ」

 

 そう言うと、リアは何かを振り払う様に右手で宙を裂いた。その瞬間、リアの周囲で停滞していた風の渦がぴたりと動きを止めて、大気に四散してゆく。

 助かったのだろうか。けれど、有栖に与えられたダメージは相当の物だった。声を発する事はおろか、上体を起き上がらせる事も敵わない。

 リアと対峙している男の表情は窺えないが、彼が助けてくれたのだろうか。そう考えたが、直ぐにその思考を振り払った。むやみやたらに信用しては命取りになる。その事を、有栖は体躯でもって教えられた。

 

 「アリスを殺すと王様に怒られてしまうよ」

 「……はっ。コイツがほんまにアリスなら、今頃リアは殺されとったよ。」

 「だから、それを確かめる為に、ここに来た。」

 

 そう言って、男は人懐っこい笑みを浮かべて、倒れ伏せている有栖に手を差し伸べた。差し出された手を、素直にとる事が躊躇われた有栖は、なんとかして自分の力で立ち上がろうと、コンクリートに手をつき力を込める。そんな有栖を、男は黙って見守っていた。

 

 「確かめるって」

 「夢見屋に連れて行く。そこで、調律者にナンバーを解析して貰えば、これに勝る確証はないだろう?尤も、調律者の彼は今頃、乱れた十三番の音に気付いて、こちらに向かっているかも知れないけれど」

 「……もし、そいつがアリスやあらへんかったら、第四師団に引き渡して貰うで。処理はリア達、第四師団の仕事や」

 「了解だよ、リア」

 

 二人がそんな会話をしている時、それまで蚊帳の外だったキョウが「あともうちょいで死ねたのに、惜しかったなぁ」と、残念そうに耳打ちした。その言葉を受けて、有栖は改めて先刻の仕打ちを思い出す。

 轟々と吹き荒れる旋風の中で、まるでカマイタチの様に有栖の体躯を引き裂いた、無数の風の刃―――。風を操るだなんて、人間が出来る芸当ではない。それなのに、リアは風を操るという非現実的な行為を、いとも容易くやってのけ、初対面の有栖を躊躇なく殺そうとした。

 背筋が冷たくなるのを感じ、有栖は咄嗟に逃げ道を探した。早く、この場から逃げなければ……。そう思うのに、傷口がずきずきと痛み、立ち上がる事すらままならない。

 よろめく有栖に、キョウが「大丈夫か?」と言って手を差し出して来たが、有栖はそれを払いのけ、視線を合わせる事すらしなかった。

 今更になって身を案じる素振りを見せたって、もう遅い。この場には、自分の味方など一人もいないのだ。

 

 「りっちゃん。コイツ、ほんまに死にたないらしいわ。止血してやらんと可哀相やで」

 

 そう言うと、キョウは有栖の傷口に手の平を宛がい、流れ出る鮮血を止めようと力を込めた。その瞬間に走った、突き抜ける様な激しい痛みに、有栖は表情を歪める。キョウの手が思ったよりもずっと冷たかった事にも驚いたが、今はそれよりも、強い痛みが思考を鈍らせ、有栖は止血を試みるキョウを冷たく突き放す事しかできなかった。

 

 「そんなの、必要、ない……っ!俺に触るな、消えろ!」

 

 ―――バシン。乾いた音が空間に響く。キョウは、驚いた様子で目を見開いたまま、微動すら起こそうとしなかった。

 差し伸べられた手を無下に振り払う事に、罪悪感なんて微塵も感じていなかった。ここにいる人間は皆、何かがおかしい。気を許してしまえば最期……。そう、確信していた。

 

 

 

 

「アリス、ごめんよ。酷い怪我をさせてしまったね」

 

 そう言って、長身の男が有栖の傷口に指を這わせる。武骨で華奢な、冷たい指だった。

 

 「でも、君なら大丈夫。アリスは例え、四肢を引き裂かれても死にはしないさ」

 「……な、にを根拠に……っ」

 「ご覧、傷口がもう塞がりかけているよ」

 

 男はにこりと笑い、有栖の右腕を指差した。示された箇所を目で追うと、信じられない事に、破れた皮膚が繋がりかけていた。

 

 「な……んで、だよ……?!」

 「当然の事さ。アリスの血は高貴な蜜だ。むやみやたらに失う訳にはいかない。」

 

 男の確信を得た様な物言いに、有栖は愕然とした表情で、塞がってゆく傷口を見詰める事しかできない。

 ―――俺の名前は中宮有栖で、けれど、こいつ等が言う様な特別な存在でも、「アリス」でもない。それなのに、何故―――。

 混乱する頭で必死に考える。普通、これ程までの傷を負ったら、気を失うか、最悪、死んでしまってもおかしくはないのに。

 ―――普通の人間なら。

 

 「お前……ほんまにアリスなん……?」

 

 信じられないとでも言いたげにリアが漏らす。

 ―――違う。俺は中宮有栖で、お前等みたいな化物とは違う。声を大にして、そう叫びたいのに……。それが出来ないのは、崩れてゆく「日常」を目の当たりにしてしまったから―――。

 

 「……あっ、おい、アリス?!」

 

 勢い良く立ち上がり、有栖は駆け出した。見知らぬ土地で、見慣れぬ路地を宛てもなく彷徨う。後方からキョウの制止の声が聞こえた様な気がしたが、構っている余裕なんてなかった。

 何がどうなっているのか、わからない。

 何故、今しがたできたばかりの傷が早くも塞がりかけているんだろう。木の枝に引っかけた程度の小さな傷ではない。深く肌膚を抉られた筈のそこは、既に薄皮が張られ、血も止まっていた。

 彼等は一体、何者なんだろう。さっき見た不可思議な現象は一体なんなのだろう。

 生温い大気が夏の到来を報せている。闇に支配された町の片隅で、有栖の日常は確かに、音をたてて崩れ始めていた。

 

 

 

next…

 

 

 

 

 


 
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