No.203088

LOST-WORLD

alikoさん

不定期に東京地下鉄に現れる謎の無人電車「自殺志願者専用車線」の終点にある森闇の町「鏡ノ裏」に迷い込んだ少年と心が欠落した人々の風刺的交流、退廃的愛情。
※流血、ダーク、狂愛、悲恋、BL要素を含みます。以上が苦手な方はご注意くださいませ。

2011-02-22 14:55:50 投稿 / 全15ページ    総閲覧数:376   閲覧ユーザー数:373

 

 

 

序章「悲しい過去」

 

 

 

 世界は「音」で構成されている。

 音とは、化学物質を構成する基礎的な成分の内のひとつであり、空気、火、水、土の四大元素よりも重く、万物の根源に最も近い元素の源として、人類には繁栄を、自然界には豊かな恵みを齎すとして、古来より重要視されていた。

 

 音には零番から十二番までの「ナンバー」と呼ばれる属性が存在し、例えば、一番に属する音は「闇」を、二番に属する音は「炎熱」を司っていて、古代人は音と人間とを密接に絡み合わせる事で崇高な文明を築き上げていたと言う。

 しかし、時は流れ、現代……有り余る富を持ってしても、また、どんなに優れた文明を築いても、現代人は古代人の様に音の基礎的な仕組みを理解する事が出来ず、その絶対的かつ強大な存在を完全に持て余していた。

 時代が流れるにつれて、人々は進化を続けた。優れた兵器や重火器を開発し、高性能、軽量化に特化した、あらゆる娯楽機材を作り上げ、富を蓄えていった。

 そして、世界が創世されてから今まで、どんなに優秀な学者や偉人達も知り得なかった、音の発生源―――エルドラド―――の存在が明らかになった事により、強大な力の源であるエルドラドの所有権を各国が主張し、やがて、理想郷を手中にしたいという人類の底知れない欲が、数多もの命を無慈悲に奪う結果となる世界大戦へと発展した。

 

 エルドラドとは音の集合体であり、天空を泳ぐ浮島の呼称である。

 エルドラドは、激しい乱気流を伴って世界各地の上空を不規則に移動し続けていたのだが、ある時、エルドラドが日本の上空で停滞した事をきっかけに、日本国内で、不可思議な現象が勃発した。

 

 不思議な現象とは、女性、老人、幼い子供など、なんら一貫性のない日本国民が、突発的に超常的な能力を得た事だった。

 火を操る者や、他人の心理を読み取る者、自発的に電気を発する者など、超常的な能力と言っても一口では言い表せられない程に、その現象は日本国内、あらゆる場所で、また、あらゆる形で報告された。

 そして、世界大戦の最中にあった日本は、これらの現象を軍事利用できないかと考えたのだった。

 後に、不思議な能力を得た進化系人類は「能力者」として研究施設に収容され、能力を得た根本的な原因、そして、能力の発生から発動に関するまでのメカニズム等を解明するべく、本格的な研究が始まった。

 そして、後に明らかとなった「能力者」発生の秘密とはこうだった。

 

 大気中に四散している「音」と、人間の体内を流れる「血中音素」が、何らかの要因によって結び付き、彼等に不可思議な能力を与えたという事だ。

 人類が体内に宿している血中音素は、大半が「無属性」である十番か十一番と相場が決まっていたのだが、能力者として収容した彼等の体内には、一番や二番、三番など、それぞれ「特異」とされる血中音素が流れていた。

 研究を進めてゆくにつれて、零番から九番までの特殊な音素を体内に宿した人類はごく僅かであり、逆に、無属性である十番や十一番の音素を持つ者に、特異とされる零番から九番までの音素を投与すると、被験者は高い確率で禁断症状を起こし、最悪の場合には死亡する事がわかった。

 

 つまり、能力者とは、音に選ばれた特別な存在なのだ。そんな彼等を人間兵器として軍事利用できれば、日本国にとって、こんなにも都合の良い事はない。研究者達はそう考えた。

 

 

後に始まる、能力者を大量生産する為の「核」として選ばれたのが、当時若干十七歳の少年だった。「デストロイ計画」の始まりである。

 

 彼が現れるまで、この世に存在する音は、零番から十二番までの、計、十二種類しかないものと思われていた。

 しかし、彼が体内に宿していた音は研究機関に保管してあったサンプルのどれとも一致せず、新たに「十三番目の音」が存在していたのだと言う、衝撃的な事実を彼等に突きつけた。そして、同時に、十三番目の音を体内に宿した彼が持つ能力は、研究者達を歓喜で沸かせた。

 

 音は、決して互いに干渉しないという、絶対的な法則があった。

 例えば、一番の音を持つ者に、固有振動数の異なる別の音を干渉させると、振動の割合が崩れ、双方に破壊的現象―――ハウリング―――が起こる事が、その後の研究で明らかになっていた。ハウリングを受けた者は、血中音素の流れを乱され、能力を上手く扱えなくなったり、生命を維持する為の機能が誤作動を起こしたりと、あらゆる身体的異常を引き起こす事がわかっている。

 そんな中で、十三番の音だけは違った。十三番の音は唯一「音は、決して互いに干渉しない」という絶対的な法則を打ち破り、零番から十二番までの全ての音と同一振動数で同調(シンクロ)する事が果たせたのだ。

 そして、十三番の音とシンクロした被験者の能力値にも大きな変化が見られた。十三番の音とシンクロした被験者の能力値は劇的に上昇し、小さな気流を起こす程度であった低位能力者が、大規模な乱気流を起こすまでの高位能力者にまで跳ね上がったのだ。

 

 つまり、十三番の音は他の音を同一振動数でシンクロさせる事により、能力値を増幅させる効果を持っていたという事だった。能力者の大量生産―――デストロイ計画―――に欠かす事のできない、貴重な人柱である。

 

 その後も、少年はデストロイ計画の為の人身御供として、自らの音を研究機関に捧げ続けた。一切の自由を奪われ、逃げ出せない様にと四肢を拘束され、華奢な身体に何本ものカテーテルを埋め込まれ……。人間兵器量産の為に、彼は、血中音素を人為的に抜かれ続けた。

 

 しかし、血中音素には限りがある事を当時の研究者達はまだ把握していなかった。そして、血中音素を枯渇させた能力者が辿る、悲惨な結末にも……。

 

 

 少年が研究施設に隔離されてから二十一年の月日が経った頃―――。少年の血中音素が完全に枯渇した事を理由に、デストロイ計画は一時、中断される運びとなった。

 

 少年は、もう少年とは呼べない程に、とてつもない程の時を……年齢を重ねていた。

 そして、二十一年ぶりに日の光を浴びた少年の眼に、絵の具を零した様な澄んだ青空と、散りばめられた白い雲が映る事は二度となかった。

 

 彼は、血中音素を人為的に、そして、滅茶苦茶なやり方で体外に出され続けた事による副作用から、視覚、聴覚……あらゆる感覚機能を失い、自分の足では歩けない程に衰弱していたのだ。

 

 十七歳の時、身勝手な大人達の都合で引き裂かれてしまった二人の少年の想いは、二十一年という歳月が流れても、その想いの強さが変わる事はなかった。

 デストロイ計画の為の人身御供として研究施設に隔離された少年―――雨弥(あまね)―――と、彼の帰りを待ち続けた少年―――深司(しんじ)―――は、恋仲であった。

 同性間の恋愛が認められないこの世界で、彼等は静かに、そして、たおやかに、人知れず恋を重ね合っていた。

 この恋は、きっと、生涯忘れられない恋になる。そう確信できる程に、二人の想いには一片の迷いも恐れもなかった。

 だから、深司は、雨弥が研究施設に隔離されてから二十一年という気が遠くなる程の月日を重ねても、ずっと彼の帰りを待ち続けた。辛くなかったと言えば嘘になる。けれど、深司は大切な人と引き離されてしまった悲しみよりも、また会いたい、会って強く抱き締めたい……そんな思いの方が勝っていたから、どんなに辛くて、どんなに悲しくても、待ち続ける事ができた。

 

 そして、長きに渡る闇が晴れて、やっと彼に会える―――。深司は涙で視界が滲む程に歓喜した。それなのに。

 雨弥は、喜びと感動に打ち震える深司の姿を視認する事も、「雨弥」と呼ぶ彼の声に応える事もしなかった。……いや。正確には、出来なかった。

 研究施設から解放された時、雨弥は五感の全てを失っていたのだ。彼は、外界から完全に遮断され、光も音もない、無慈悲なまでに「黒」しかない世界で、「貴重な研究サンプル」という身勝手な都合で生かされていたに過ぎない。

 そして、そのまま、雨弥は深司と抱き合う事もなく、実家に併設された離れ小屋に幽閉される事となった。貴重な人柱を囲む厳重な警備の前で、深司は絶望の最果てを見た。

 あんなにも愛した人が、すぐ近くにいるというのに……。会えない、触れられない、抱き締めてやる事もできない。

 

 

 雨の日も、晴天の日も、滔々と雪が降り頻る寒い日も、深司は雨弥に会いに行った。けれど、一般人である深司が、国家の存続と繁栄の為に最終兵器に仕立て上げられた雨弥に会える事は一度としてなくて―――。

 

 それから二十五年の歳月が経った、ある日。雨弥は命の鼓動を静かに止めた。満足に動かぬ身体で、日差しが届かない暗く狭い部屋で、たった一人、死んでいった。

 その日はとても晴れた日で、暖かな日差しが新たに芽吹いた命を穏やかに照らしていた。

 いつもの様に、雨弥が幽閉されている離れ小屋から少し離れた場所で、ここにはいない愛おしい人を思いながら空を見仰いでいた深司は、果てない空に雨弥との再会を思い描いていた。信じていれば、いつか、また―――。そう信じて、その日も、深司は雨弥を思っていた。彼が、もうこの世にいない事など、知る由もなく。ただ、純粋な愛を、雨弥への想いを胸に、いつか来るだろう再会の時を信じて疑っていなかった。

 

 エルドラドを巡る第三次世界大戦において、デストロイ計画は日本国に勝利を齎した栄光の軌跡として、日本政府はこれを賛辞し、今後も研究を進めてゆくとの意向を示した。

 そして、第三次世界大戦に勝利した日本は、国際社会における絶対的な地位と、エルドラドの所有権を我が物にした。全てが上層部の思いのままだ。

 デストロイ計画の最中、強引な研究のせいで激しい副作用に苦しみ、もがき、死んで逝った者……。後に、重い後遺症を抱える事となった者……。また、人間兵器として戦場に駆り出され、死んでいった能力者達を弔う事もなく、日本政府は自らが招いた惨劇を勝利という栄光で掻き消したのだ。

 

 この国は堕落していた。正義の為の戦いと銘打った先の大戦で、血を、涙を流したのは末端の兵士だ。大切な者を失った国民の悲しみや絶望を、政府は知らない。知ろうともしない。

 

 

―――激しく地面を打ち鳴らす雨が、まるで冷たい刃の様だった。

 背中を丸めた老人は、色褪せた写真と麦藁菊の花を手に、鬱蒼と生い茂る森闇の中を、ゆっくりと歩いていた。辺りには、生命が息衝く気配も感じられない程に陰鬱とした静寂と、深い闇だけが広がっている。老人の歩調に迷いは無い。彼は剥き出しの肌に木の枝が引っかかっても、磨り減った靴の紐が切れても、それらに構う事なく、奥へ、奥へと歩みを進めて行った。

 

 やがて、雨は止んだ。そして、視界が開けた時、彼の眼に映ったのは青白く浮かび上がる小さな泉と、その周囲に群生する鮮やかな色彩を放つ多種の花々であった。全ての光景がぼんやりと滲んでいる。そこだけ開けた森に、眩い程の月明かりが射し込んでいた。しかし、幻想的で、神秘の儚さを孕んだ、それらの光景を、彼は美しいと感じる事ができなかった。

 彼―――深司―――の世界は、雨弥が死んだと聞かされた瞬間に終わってしまったのだ。彼がいない世界に一片の価値はなく、刹那を生きる花々の美しさも、瞬間的に色を変えてゆく空も、雪も、何もかも―――雨弥が存在していたから綺麗だと思えたし、雨弥が存在するこの世界こそが美しいものだと思っていた。

 

 深司が、雨弥が死んだ事を知ったのは、彼が死んでから一週間後の事だった。

 雨弥が幽閉されていた離れ小屋の警護を担当していた軍人が、雨弥が死んだ事も知らずに、毎日、雨弥の元へと通い詰める深司の姿に哀れみを感じて、ついに告げてしまったのだった。「中宮雨弥は死んだ。だから、アンタもここに来るのは最後にしなよ」―――と。

 瞬間、深司は呼吸の仕方を忘れてしまったかの様に、目をかっ開いたまま、その場に立ち尽くした。雨弥に見せたくて摘んで来た麦藁菊が、ぽとりと地面に落ちる。

 それから暫くの間、その場で立ち尽くしていた深司だったが、ゆっくりとした動作で地面に落ちた麦藁菊を拾うと、軍人に「ありがとう」と告げ、その場を後にした。そうして、辿り着いた場所がここである。

 

 何かに導かれる様にして、深司はこの森に足を踏み入れていた。途中で電車に乗った様な気もしたが、よく覚えていない。

 目的なんて、とうに理解している。彼の後を追う為だ。

 

 深司は、雨でぬかるんだ地面に足を取られながら、迷う事なく泉へと足を踏み入れた。そして、腰まで水に浸かったところで、自分以外の他者の気配を感じ、彼は後方へと視線を移行させた。

 

 「……誰だい?」

 

 深司の問いかけに、気配の主は答えない。十分とは言えない視界の中で、深司は、泉の畔に腰掛ける青年を見た。

 月明かりに映えるのは、漆を塗ったかの様な艶のある黒髪に、鮮やかな光彩を放つ桔梗色の瞳だ。

 青年は、深司の手に握られた写真と麦藁菊に気付くと、端整な顔をくしゃりと崩して、微笑んだ。

 

 「綺麗な麦藁菊ですね。そちらの写真は?」

 

 写真……。深司は「ああ」と納得した様に漏らすと、無意識の内に、くしゃくしゃになるまで握り締めていた写真を丁寧に開いた。

 そこには、若かりし頃の深司と雨弥が映っていた。今となっては痛いくらいに眩しい笑顔で隣り合う二人が、そこにはいた。あの頃の二人は、こんなにも悲しい別れが待ち侘びていた事など、知りもしなかった。

 

 

 

「見るかい?」

 

 そう言って、写真を差し出す。青年は、「ありがとうございます」と言うと、手渡された写真に視線を這わせた。

 

 「綺麗な方ですね」

 「もう、死んでしまったけどね」

 「どうして亡くなられたんですか?」

 「殺されたのさ。この国に……日本に……殺されたんだ」

 

 果たして、この日本でエルドラドを手中に収めたいと願った国民など、どれ程いただろうか。大切な誰かを犠牲にしてまで手に入れたい権力や栄光なんて、あっただろうか。

 雨弥は日本に殺されたのだ。エルドラドを手に入れる為、国際社会で優位に立つ為―――そんな身勝手で、くだらない体裁の為に人身御供にされたのだ。許せる筈がない。

 

 「それで、あなたは後追い自殺でもするつもりで?」

 「今時、流行らないって事はわかってるさ。でも、雨弥がいないこの世界で、ひとりで生きて行ける程……僕は、強くないんだ」

 

 そして、深司は青年から写真を受け取ると、麦藁菊の花を胸に、冷たい水の中へ、ゆっくりと身体を沈めていった。青年は、水の中に消えてゆく深司の姿を黙って見詰めている。さよならの時間が近付いていた。

 

 深司は、一瞬、表情を強張らせると、次の瞬間、一気に全身を水中に沈めた。そして、深司の身の丈以上もある巨大な水草に自らの足を括りつけて、浮かび上がらない様に固定する。まるで永遠とも感じられる息苦しさの片隅で、深司の意識は深い絶望と憤怒に満ちていた。

 

 何故、雨弥でなければいけなかったのか。何故、孤独の中で雨弥は死んでいかなければならなかったのか―――。

 自分に彼を守るだけの力があれば、今頃は何かが変わっていたのか。或いは、堕落した国を変えるだけの力があれば、彼を救えたのだろうか。わからない。

 ―――ああ、水が肺に浸入した様だ。視界が白んで、何も見えない。息苦しさを逃そうと、首に食い込んだ爪が皮膚を抉る。

 意識が途絶える瀬戸際で、思い出すのは雨弥の事ばかりだった。彼の無垢な笑顔が好きだった。彼の笑顔を守る為なら、自分はどんな事だって出来る。呆れる程に、そう信じて疑っていなかった。けれど、結局は無力な自分を嘆く事しかできずにいる。

 ―――憎いよ。この国も、君を守れなかった僕自身も―――許せない。

 

 瞬間、深司の中で這いずり回る負の感情が暴発したかの様に、泉の水が勢い良く弾け跳んだ。辺りに冷たい水が飛び散って、木々や花々を濡らす。

 一体、何が起こったのだろうと、青年が水中を覗き込む。深い場所では、水草に足を括った深司が麦藁菊と写真を握り締めたまま息絶えていた。

 そして、動きを止めた深司の周囲で黒く禍々しい光の粒が漂っているのを見て、青年は目を見開く。あれは、一体―――?

 

 その瞬間、青年の中を激しい恐怖心が駆け抜けた。人間が死ぬという瀬戸際に、何故、自分は冷静でいられたのか。何故、死にゆく彼を止めなかったのか。

 

 自分は今、何をしていた―――?

 

 

 

 「……っう……!」

 

 水中で、水草の様にゆらゆらと揺れる深司を見て、青年は思わず口を押さえた。

 今からでも遅くはない、助けなければ。そう思った青年は、がたがたと震える身体を抑え込んで、彼を畔に上げるべく、水中に飛び込んだ。

 黒い光が深司を取り囲む様にして漂っている。青年は、それらを手で振り払いながら、固く目を閉ざしたまま動かない深司に近付き、触れた。そして、一気に引き上げようと、掴んだ腕に力を込めた、瞬間―――。

 青年の脳内を、あらゆる映像が錯綜した。その中には、自分によく似た人物と、いつかどこかで見た様な……そんな気がしてならない、懐かしさに似た何かを感じる栗色の髪の少年が笑っていたり、自分によく似た人物が涙していたり、まるで自害でもするみたいに、鋭利な刀を首に宛がっていたりしている。

 あらゆる映像が明確なヴィジョンとして脳内に入り込んで来る。自分は一体、どうしてしまったんだろう。

 早く彼を引き上げたいのに、身体が動かない。絶望、深い悲しみ、そして、愛おしい……。いくつもの感情が脳内で入り乱れて、青年から正常な思考を奪ってゆく。

 

 愛しているのに、憎んでいる。憎んでいるのに、誰よりも愛している。対照的なこの感情の正体は、一体、なんだというのか。

 

 混乱する青年の目に、息絶えた深司が胸に抱いたまま離さずにいる鮮やかな黄色い花が映った。麦藁菊。花言葉は、確か―――……。

 

 (永遠の、記憶……)

 

 

 

 

 

 ―――雨が降っている。雨が大地を打ち鳴らし、土の匂いが辺りに立ち込めているのを鼻腔で感じながら、彼は、閉じていた瞳をゆっくりと開いた。

 気付けば、自分はベンチに座っていた。びしょ濡れになって、塗装が剥げた古いベンチの背凭れに力なく身体を預けている。

 ゆっくりと辺りを見回すと、ブランコや滑り台といった遊具が目に入った。どうやらここは公園らしいが、正確な位置まではわからなかった。

 何故、こんな所で、びしょ濡れになって座っているんだろう。ここに来る前は、一体、何をしていたのだろう。

 この場所に辿り着くまでの経緯を思い出す事が果たせない。けれど、無理に記憶の糸を手繰り寄せようとすると、まるで「思い出すな」と警告されているかの様に、彼を激しい頭痛が苛んだ。

 混濁とした意識の中で、猫の鳴き声を聞いた様な気がする。一体、どこにいるんだろう……。首を捻ってみても、それらしい姿を見つける事はできなかった。

 

 その時、彼を容赦なく打ち付けていた雨が和らいで、視界が僅かに暗くなった。青年が、ゆっくりとした動作で上方を見仰ぐと、そこには、綿菓子の様にふわりと揺れる、栗色の髪が美しい少年がいた。少年は、心配そうにこちらを見詰めている。

 

 「……あの、大丈夫……ですか?」

 

 大丈夫。そう言おうとしたのに、どうしてか声が出ない。身体がひどく怠くて、立ち上がる事もできずにいる。本当に、どうしてしまったんだろう。

 

 「あの。辛いなら、送りますから……。だから、あの、あなたの名前……」

 

 ―――名前?

 自分の、名前……。

 不安そうに表情を曇らせる少年をぼんやりと見上げたまま、青年は静かに、ゆっくりと口を開いた。

 

 「……俺の、名前は―――……。」

 

 

最近、とある都市伝説が流行っていた。

 

「自殺志願者専用車?」

 

 少し離れた場所から聞こえた啓発な声に、中宮 有栖(なかみや ありす)は、視線だけを前方へと移行させた。自殺志願者専用車。ここの所、頻繁に耳にする言葉だ。

 

 「お前、知らねぇの?不定期で東京地下鉄に現れる謎の無人電車……って、結構有名な話だろ」

 「いや、知らねぇ。初めて聞いた。」

 「あー。俺、聞いた事あるかも」

 「つーか、自殺志願者専用車って言い難くねぇ?」

 「確かに!」

 

 教室の一角に集まって、他愛もない事で笑い合っている男子生徒達の能天気な笑顔に嫌気がさす。

 口を開けば女の話、愚痴、怪談、都市伝説……。

 あちこちから聞こえる下品な笑い声も、女子生徒達の媚びた化粧も、覇気がない教師の嫌味も、聞き流すに終わる淡々とした授業も、何もかもが煩わしくて仕方ない。有栖にとっては、尊ぶべきクラスメイトも、目に映る光景、耳殻を震わす喧騒の全てが苛立ちの対象でしかなかった。

 この場にいたくない。そう思った有栖は、早々にこの場から立ち去るべく立ち上がった。その際に発した机と床が擦れた音が思いのほか大きかった事により、あんなにも騒がしかった教室内が途端に静まり返る。

 

 「……なんだ、中宮かよ」

 「もうちょい静かに立てっつーの」

 「ほんと、うっぜぇな」

 

 誰もが皆、そうする事が当たり前の様に、嫌悪を孕んだ眼差しを有栖に向ける。

 遠慮を知らない彼等の雑談や教室内の喧騒に比べたら、今しがた有栖が発した物音なんて些細なものだった筈だ。それなのに、誰もが、こんなにも過敏に反応を示したてるのは、有栖への紛れもない嫌悪感の表れだろう。

 

 

 

 有栖が、こんな風にクラスメイトから冷たい眼差しを向けられる様になったのはいつからだったか。もう随分と前の事だから、始まりの記憶なんてひどく曖昧だけれど、気付いた時にはもう手遅れだった事だけは確かだ。

 元より人付き合いが苦手な性格だったので、友達を作る事が得意という訳ではなかったけれど、中学生の頃は、今よりも環境には恵まれていたと思う。あの頃は、こんな風に表立った悪口を言われる事などなかったし、有栖の性格を理解した上で、気を遣って話しかけてくれるクラスメイトも何人かはいた。

 けれど、高校に進学してからは、人間関係に関しては悪化の一途を辿るばかりだった。

 

 何をした訳でもないのに虐めの標的にされて、陰湿な嫌がらせをされたり、ひどい暴言を吐かれた事も多々あった。

 もしかしたら、自分が気付かぬ内に周囲を苛立たせる言動をしてしまっていたのではないかと自分自身を問い詰めた事も何度かあったが、やはり、身に覚えがないのだ。

 その内に、段々とうまく笑えなくなっていって、孤独を思い知った頃には修復の余地はなくなっていた。

 有栖自身、張り詰めた虚勢の糸が解けない様にと意固地になって、いつしか歩み寄る努力さえも忘れていたので、事態が良くなる事もなかった。

 

 有栖に対する文句や罵倒をひとしきり浴びせ掛けた後、それぞれはまた、内容の薄い雑談に戻ってゆく。まるで何事もなかったかの様に、中宮有栖という人間なんて、最初から存在していなかったかの様に。

 悲しいなんて、死んでも言えなかった。

 

 

 

 「有栖」

 

 その時、知らずして俯いていた有栖の肩に、武骨な手の平が置かれ、有栖は弾かれた様に面(おもて)を上げた。そこには、クラスメイトである秋山 桔平(あきやま きっぺい)が持つ、柔和な笑みがあった。

 

 「……秋山」

 

 有栖は、その穏やかな表情を見た瞬間に、思わず泣きそうになったのをぐっと堪え、彼の名を呼んだ。すると、秋山は「屋上に行かないか?」と言って、有栖の手を引いた。途端に、二人のやり取りを見ていたクラスメイトから「待てよ!」と言う制止の声が飛ぶ。秋山が不思議そうに眼を丸くすると、クラスメイト達が苛立ちを露に声を荒げた。

 

 「桔平!お前、なんでそんな奴に構うんだよ!」

 「そうだよ、中宮なんて放っとけって!」

 

 その言葉を筆頭に、クラス中から有栖を批難する声が飛び交う。有栖は、思わず秋山の背後に身を隠した。平静を装ってはいても、クラス中から向けられる嫌悪の眼差しに未だ慣れそうにない。

 秋山は、変わり者と呼ばれ、嫌われ者のレッテルを貼られた有栖を見限ったりせずに、有栖が助けて欲しいタイミングで現れて、彼が望んだ展開に導いてくれる。有栖にとって唯一の、友人と呼べる存在だった。

 

 「じゃあ、逆に聞くけど、どうしてお前達は、そんな風にして有栖を目の敵にするんだ?有栖がお前達に何かしたのか?」

 「そういう問題じゃなくてさぁ!」

 「だってそいつ、根暗だし……。こそこそ絵ばっかり描いて、キモイだろ!」

 

 

 

 そう言って、男子生徒の一人が有栖の鞄を掴み、その場に中身をぶちまけた。どよめく教室内に、幼い頃から大切にしてきたスケッチブックや色鉛筆が音をたてて散らばる。

 

 「な……、何するんだよ……っ!」

 

 無造作に散らばった画材を拾おうと咄嗟に駆け寄るも、近くにいた男子生徒に突き飛ばされてしまった。与えられた衝撃のままに、有栖は床に倒れこむ。下品な笑い声が教室内に響いた。

 ふざけんな。そう言いたいのに、声が出ない。行き場のない怒りと悲しみを逃す術を求めて、有栖は拳に力を込める。

 落ち着け―――冷静な自分が、しきりに訴えてくる。もしも暴力沙汰になって、その騒ぎが両親の耳に入ってしまったら、今度こそ全ての希望を奪われてしまう。それだけは避けなければならないと、なけなしの理性が必死に訴えるけれど、有栖の中の怒りは増殖を続け、今にも爆発してしまいそうな程に不安定な状態を保っていた。

 

 「なんだよ、そのツラ。」

 「何、怒ってんの?」

 「それじゃ、一発殴ってみるか?十倍になって返されるけどな」

 

 不愉快な笑い声が頭上から降ってくるのを、有栖は唇を噛み締め、聞いていた。心が痛い。

 

 「大丈夫か?」

 

 急速に冷えてゆく意識の中で、秋山の声だけが、やたらと脳裡に留まった。ゆっくりと俯かせていた視線を上向かせると、神妙な面持ちでこちらを見詰める秋山と視線がかち合った。そして、次の瞬間、秋山は鋭い視線で周囲を見回すと、「いい加減にしろ」と、普段の温厚な秋山からは想像もできないくらいに低い声で言い放った。

 

 「お前達、多勢に無勢で、こんな馬鹿げた事をして恥ずかしくないのか」

 「……な……なんだよ、桔平……。そんな、ムキになって……。」

 「つーか、意味がわかんねぇ。なんでそこまでして中宮に肩入れする訳?お前等、中学違うだろ」

 「そんな事は関係ない。ただ、俺は人の夢を笑ったり、ましてや踏み躙ったりする様な人間よりも、自分に正直に生きてる有栖を応援したいだけだ」

 

 秋山は、真っ直ぐに見据えて、極めて強い語調で、そう言い切った。そんな秋山の物怖じしない態度に、一同は怯み、返す言葉もない様子だ。

 秋山は、呆けたままの有栖を立ち上がらせると、散乱した色鉛筆やスケッチブックを無言で拾い出す。そして、それら全てを拾い終えると、彼は「行こう」と言って、有栖の手を引いた。有栖は、こくりと頷く事しかできなかった。

 突き刺さる様ないくつもの視線が痛くなかった訳ではない。それでも、取り乱したりせずに最後まで強がっていられたのは、他の誰でもない、秋山の存在があっての事なのだと、有栖は強く思った。そして、秋山の広い背中を見詰めながら、心の中で、言葉にできない「ありがとう」を何度も繰り返したのだった。

 

 

 

 

 「さっきはありがとう」

 そう言おうとするけれど、つまらないプライドが邪魔をして、うまく言葉にする事が果たせない。けれど、秋山は口を噤んだまま何も言おうとしない有栖に嫌な顔をする訳でもなく、「風が気持ちいいな」と言って、大きく伸びをしている。先刻までの鋭い表情とは一変して、普段、秋山が見せる穏やかで優しい笑みが戻った事に、有栖は内心で安堵していた。

 

 「空も青くて綺麗だ。有栖がこの景色を描いたら、どんな絵ができあがるのかな」

 

 そう言って、秋山は端整な顔をくしゃりと崩して笑った。つられて、有栖も小さく笑う。

 

 「描いて……やろうか」

 「本当か?じゃあ、頼むよ!」

 

 有栖の申し出に、秋山は表情をぱっと明るくさせた。大人びた秋山が時折見せる、子供みたいな笑顔が有栖は好きだった。

 スケッチブックを取り出して、思うがままに色鉛筆を走らせる有栖の隣で、秋山がごろりと寝転ぶ。その様子を視線だけで盗み見ると、秋山の黒くて綺麗な髪が、風に靡いてきらきらと輝いていた。

 

 「有栖の目には、世界はこんな風に映ってるんだな」

 

 頬杖をつきながら、スケッチブックを覗き込んだ秋山が、感慨深げに呟く。

 

 「お前、絵とか描かないの?」

 「美術の授業以外は全く描かないな。と言うか、描けないんだ。描き方がわからない」

 「そう言えば、前に秋山が描いたピカチュウって、化物みたいだったよな」

 

 有栖の茶化すような口振りに、秋山は「それは言うなよ」と唇を尖らせた。いつもは落ち着いた表情が印象的な秋山が、まるで小さな子供の様に拗ねている。そんな、年相応の少年らしい秋山が可愛いと思えてしまって、有栖は声を出して笑った。

 

 「コラ、笑うな」

 「だって……思い出しちゃってさ……っ、ぷっ……!」

 「……笑うなって言ってるのに」

 

 笑いを堪えきれない有栖の頭を、秋山が小突く。叩かれている筈なのに、くすぐったい。有栖の内側を穏やかな風が吹きぬけたみたいに、温もりで満たされてゆくのを、しっかりと感じていた。

 つい先刻までは子供みたいに拗ねていたというのに、今は困った様に眉根を寄せて笑っている。そんな秋山の、ころころと変わる表情が愛おしいと思う。

 

 「……自分にできない事だから尚更すごいと思うし、応援したくなるんだよ」

 「秋山にだってできるよ。目に映る景色や物を、そのまま表現すればいいんだ」

 「それができないんだよ。ピカチュウだって、見本通りに描いたつもりが、あのザマだったろ?」

 

 珍しくムキになった秋山に、有栖は今度こそ腹を抱えて笑ってしまった。

 

 秋山桔平といえば、学業成績は常にトップをキープしていて、また、卓越した運動能力から、大抵の競技はそつなくこなす完璧人間として、教師からも一目置かれていたけれど……まさか、こんなギャップがあったなんて。きっと、この事は学校中で自分しか知らないだろう。そんな、ささやかな秘密を共有しているという関係性に、有栖は優越感にも似た感情を覚えた。純粋に嬉しいと思う。

 そして、有栖は予備のスケッチブックを取り出すと、小さなクレヨンセットを添えて秋山に手渡した。

 目を丸くする秋山に、有栖は得意げな表情で「芸術的感性を高める為にも、ピカチュウくらいは描ける様になった方がいいだろ」と言った。要するに、そのスケッチブックとクレヨンはやるから絵を描いてみろ、そういう事だ。

 そんな有栖の意図を汲み取った秋山は、困った様に眉尻を下げたが、「ありがとう」と言って、画材一式を受け取った。

 

 「ありがとう」なんて、こっちのセリフなんだけどな。人知れず、有栖は思う。

 

 「とりあえずはピカチュウを描ける様に、頑張ってみるよ」

 「お前、随分とピカチュウにこだわるな。そんなに悔しかったの?」

 「当たり前だろ。あそこまで言われて、笑われたんだから。」

 「じゃあ、黄色のクレヨンがなくなったら言えよ。新しいの、やるからさ」

 「ああ、わかった。ありがとな。」

 

 微温い風が吹きぬける屋上で、二人は下校の鐘が鳴るまで、他愛もない会話を楽しんだ。

 

 空が青くて、風が気持ち良くて、隣には秋山がいる。

 これ以上に望む幸せなんてないと、そう思えるくらいに穏やかな時間が、二人の間をゆっくりと流れていた。

 

 

 

 

 

 下校時、有栖はいつもの様に秋山と隣り合って駅までの道を歩いていた。

 今日の夕飯はなんだろうとか、明日の科学の授業は実験らしいとか、そんな取り留めもない会話をしながら、スローペースで歩みを進めるこの時間を、有栖はとても好いていた。

 

 すれ違う人は皆、誰もが伏し目がちで虚ろな表情をしている。この世に生を受けた時は確かに持っていた希望も、急かされる毎日の中で大きな絶望へと形を変えてしまったのだろう。それ程までに暗く、濁りきった目をしている。

 

 もう、四十年以上も前に日本の勝利という形で停戦調停を結んだ第三次世界大戦によって、日本は国際社会における確固たる地位を獲得したらしいが、「強国」として常に先進を行く日本とはなんとも都合の良い表現であって、覇気があるのは政府の役人のみで、国民と言えば、誰もが同じ様な目で、同じ様な表情で、同じ様な姿勢で……それでもやっぱり、それぞれの道を歩いている。

 「強国」と呼ばれる「日本」だったが、文明が栄えるにつれて人々の心は確実に荒んでいった。

 それを裏付ける様に、今日も、あちこちに設置された巨大スクリーンでは「自殺者の増加」や「心の闇」をテーマに扱ったワイドショーが流されている。

 

 その時、ニュース速報のメロディが鳴ったと同時に、全てのスクリーンが緊急ニュース速報の番組に切り替わった。

 

 「なんだろう」

 

 そう言って、秋山が足を止めてスクリーンを見上げる。有栖も便乗して、巨大な画面に視線を移行させた。

 

 『現在、日本全土で行方不明者が多発しているとのニュースが入ってきました。行方不明者は本日までに数百名にも及び、未だ安否の確認はとれていないとの事です。』

 

 淡々として声音で告げられたニュースに、有栖と秋山は互いに顔を見合わせた。

 そういえば、最近、自殺による死者や行方不明者が増加しているとのニュースを頻繁に耳にしていた事を思い出す。

 数百人という人間が一斉に姿を消すだなんて、安直に偶然の一致として片付けてはいけない様な気がしたが……。一体、彼等に何があったのだろう。

 ニュース速報から元のワイドショーに切り替わったスクリーンでは、評論家達が早くも今しがた入ってきたばかりの話題をそれぞれの観点から論じていた。

 しかし、結果として原因は解明されていないのだと知り、有栖は興醒めだとでも言いた気に画面から視線を外す。お得意の屁理屈と揚げ足取りで尤もらしい事を言ってはいても、根拠がはっきりしていないのであればすぐに足元をすくわれてしまうだろうに。

 そんな事を考えながら、ふと隣立つ秋山に視線を移すと、彼は利き腕である左手をきつく握り締め、色のない表情でスクリーンを見上げていた。普段の秋山からは到底、似つかわしくない冷めた眼差しに違和感を覚える。

 

 

 

 

「秋山?どうかしたのか?」

 

 体調でも悪いのだろうか。有栖が声をかけると、秋山は我に返った様に、ぴくりと身体を震わせた。

 

 「いや、なんでもないよ。悪い。」

 「謝る事はないけど……。腕、痛むのか?」

 「そんな事ないよ。大丈夫、少しぼんやりとしてただけだ。」

 

 そう言って、いつもの調子で穏やかな笑顔を浮かべる秋山に、有栖はそれ以上、何も言わなかった。

 

 二年前、秋山は不慮の事故により、左手を故障したらしい。

 利き腕である左手が使い物にならなくなり、秋山は、控えていたバスケットボールの大会に出場できなくなり、間もなくしてスタメン落ちになったそうだ。

 当時の事を秋山は笑いながら語っていたけれど、やはり、相当のショックを受けたんだろうと思う。今はリハビリの甲斐あって、日常生活を送る上で、なんら支障はないそうだが……。

 

 「……二年前か……。俺、何してたのかな」

 

 無意識の内に漏れ出た有栖の呟きに、今度は秋山が目を丸くした。

 秋山が左手を故障して、スタメン落ちという絶望を味わった二年前、自分は何を見て、何を感じ、何を思って生きていただろう。ちゃんと笑えていたのだろうか。そこだけ記憶がすっぽりと抜け落ちてしまった様で、有栖は二年前の自分を思い出す事がどうしても出来なかった。両親や主治医からは軽い記憶喪失の様なものだと聞かされていたが、それならば、記憶を失うに至る何かのきっかけがあった筈だ。けれど、それさえも教えて貰えずに、結局は何もわからず終いだった。

 

 「また一人で考え込んでるな、コイツは。」

 「うわっ」

 

 その時、有栖の頬を秋山が両手で包み込んだ。突然の行動に、有栖の声は素っ頓狂に裏返ってしまう。

 有栖が一人で何かを考え込んでいる時、悲しみを押し隠している時……。そんな時、秋山は決まって、今みたいに有栖の頬を両手で包み込むのだった。最早、癖になりつつあるのかもしれない。すると、いつだって有栖は、秋山の手の平から伝わる温度に安心して、自然と心の取っ掛かりを取り払う事ができた。

 

 「ご、ごめ、わかったから……。」

 

 周囲の目が気になるのか、有栖の顔が真っ赤に染まる。通りすがりの女子高生がクスクスと笑っている事に、秋山はまるで気付いていない様子だ。途端に口篭る有栖に、秋山は「本当だな?」と念を押してから、そっと、彼を解放した。

 瞬間、有栖の中に、恥ずかしさから解放された安堵感と、温もりが離れてしまった事に対する寂寞感が同時に芽生える。それらを誤魔化す為に「ばか」と憎まれ口を叩いてみるが、当人である秋山は、本当は離して欲しくなかった……という、有栖の本心など、微塵も気付かないんだろう。

 秋山の天然タラシ。有栖は、まだ熱を持っている様な気がしてならない頬に両手を添えて、心の中で毒吐いた。

 

 それから二人で駅へと向かい、有栖と秋山はそこで別れた。

 定期券を取り出し、改札を抜ける。すると、反対側のホームでは、既に到着していた電車に乗り込んだ秋山が窓越しに手を振っていた。

 有栖は恥ずかしさから一瞬、視線を逸らしてしまったが、誰も自分を見ていない事を確認すると、観念したかの様に小さく手を振り返す。

 

 ……本当に、恥ずかしい奴。けれど、秋山の姿が見えなくなるまで手を振り続けていた自分も、相当恥ずかしい奴なのではないだろうか。

 そんな事を考えていると無条件に顔が熱くなって仕方ない。やがて到着した電車に乗り込んだ有栖は、一番端の席を確保すると、熱を持った頬を隠す事を名目に、学生鞄に顔を埋めて、瞳をぎゅっと瞑った。けれど、目を閉じても、やはり、脳裡に浮かぶのは、あの穏やかな笑顔で、考えるのは秋山の事だった。

 

 ……そう言えば、ニュース速報を見ていた時の秋山の様子が気になったが、何かあったのだろうか。秋山が「なんでもない」と言っているのに、無理に聞きだす事はしたくなかったから、有栖も、それ以上は何も言わなかったが……。

 

 「……大丈夫。秋山が嘘をついた事なんて、一度もないし……。」

 

 そう呟いて、有栖は、これ以上、この事に関して自問自答を繰り返すのはやめようと、思考を切り替えた。

 規則的な電車の揺れに身を委ねていると、心地好さから段々と眠たくなってくる。

 駅に着く少しの間だけ眠ろうと、有栖は、緩やかに迫り来る睡魔を享受した。

 

 

 

 

「最近、ロストワールドへのアクセス数が以前よりも格段に増え続けているよ」

 

 パソコンの画面を覗き込み、薄紫色の髪を肩下まで伸ばした細身の男が満足気に呟いた。大きなハットを目深に被った男の表情を窺い知る事は果たせないが、その口調はどこか楽しげであった。

 

 焼きたてのクッキーや、焙煎した珈琲の香りが狭い室内に充満している。カウンターの向こうでは、桜色の髪が印象的な少年が菓子作りに没頭していた。

 客である男に珈琲を差し出し、喫茶店『アッシュ』のマスターである井沢 清人(いざわ きよひと)は、やれやれと言った風に、苦笑を浮かべた。

 

 「王城はよっぽど暇らしいな。わざわざ自殺サイトを作って、自殺志願者を呼び寄せるなんてよ」

 「外は確実に荒んでいる。自殺志願者が増えれば、王城にとっても鏡ノ裏にとっても、こんなにも喜ばしい事はない。だろう?」

 「死にたがりばかり集めて、一体、何になるんだかねぇ……。」

 「君が言う死にたがりは、一度、何らかの形で絶望を味わっている。そういう人間が持つ心の穴は王城にとって非常に価値あるものだし、満たされた温室で育った人間よりも深く、いい色をしている。」

 「ほんと、悪趣味なのは昔から変わんねぇな」

 「死にたがりに僅かな希望を与えては自殺者を減らそうとする、そんな君の方がずっと悪趣味でナンセンスだと、僕はそう思うけどね」

 「……マスターの悪口言ったら怒るよ」

 

 その時、奥で菓子作りに没頭していた少年が、面白くなさそうに表情を顰めて言い放った。警戒心を剥き出しにした少年に、男は、まるで挑発するかの様に溜息を落とす。

 

 「悪口だなんて心外だな。僕は鏡ノ裏の住人として、そして王城の人間として、あくまで一般論を述べただけだよ、楝時(れんじ)くん。」

 「一般論なんて知らない。俺は、マスターをいじめて欲しくないだけ」

 

 そう言うと、楝時と呼ばれた少年は、ついっと視線を逸らしてしまった。子供染みた悪態に、男は苦笑を漏らす。

 

 「楝時くんは余程、僕の事が嫌いらしい。」

 「嫌いだよ。本当は顔も見たくないのに、マスターが……。」

 「やれやれ。子守も大変だな、マスター。」

 「……っ、俺は子供じゃない!」

 

 相手の神経を逆なでする事に長けた男の無遠慮な物言いに、楝時は悔しそうに表情を歪めた。そんな楝時を、清人は「まあまあ」と、間の抜けた表情で窘める。

 

 「ユーリ。うちの楝時くん、いじめないでやってくれや。コイツ、機嫌を損ねたら暫くは治らないんだからよ」

 「それは失礼したね。楝時くん、すまなかった。」

 「……マスター。俺、こいつ嫌い……。」

 「まあ、そう言ってくれるな。ウチにとっては大事な常連さんなんだからよ」

 

 そう。先刻から楝時にとって、ことごとく不愉快な態度を講じる男―――ユーリ―――は、経営難に苦しむ小さな喫茶店にとっては手放したくない顧客であり、清人をはじめとする従業員は、本来ならば、もてなさなければならない立場にある。

 腹の虫がおさまらないのをぐっと堪え、楝時は渋るように頷いた。恩人である清人の店を潰すわけにはいかない。そう思ったからだ。

 

 「では、僕はこの辺でお暇(いとま)しよう。会計をお願いできるかな、楝時くん」

 

 ユーリは相変わらず真意の読めない笑みを浮かべながら、伝票を楝時に手渡す。そんなユーリに、楝時は、内心では「二度と来るな」と悪態を吐きながらも、マスターからの教え通りに会計を済ませ、釣銭を手渡したのだった。

 

 

 

 

 

 規則的に揺れる車内で、彼は、椅子の背凭れに全ての体重を預ける様な体勢で、ぼんやりと天井を見仰いでいた。電車が揺れる度に、吊革がかつかつとぶつかり合う。

 帰宅ラッシュの時間帯にも関わらず、彼が乗り合わせた車両には、彼以外の人影がひとつとして見当たらない。まるで、そこだけ見えない結界でも張られているかの様に、不自然な程に人が寄り付かないのだ。他の車両には、いつもの様に多くの人々が、まるでゴミの様に小さな箱型移動車に詰め込まれているというのに。

 しかし、そんな不自然な光景を、彼は少しも気に留めていない様子だった。ぼんやりと宙を仰ぐ桔梗色の眼差しに、光はない。

 

 やおら、彼は鞄から小さなスケッチブックとクレヨンセットを取り出した。クレヨンセットの容器には、幼い字体で元の所有者の名前が記入されている。彼は、それを愛おしそうに撫でると、ゆっくりとした動作でスケッチブックを開いた。良質な真っ白い紙を前に、さて、何を描こうか……。暫く思案した後、彼は、赤いクレヨンを取り出した。

 

 

 

next…


 
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