No.202929 生まれ変われた日(後編)小市民さん 2011-02-21 15:16:10 投稿 / 全2ページ 総閲覧数:425 閲覧ユーザー数:409 |
信濃町にある慶翔大学病院で長女を出産すると、大城と姓を改めたさかえは、悠愛(ゆめ)と名付けた。
その日が、二月十四日の聖バレンタインデーだったことから、終生、愛を受けられるように、と願いを込めての命名だった。
すぐに西船橋の実家から母を連れ、国交省で働く夫が、産婦人科病棟の贅沢な個室に入院しているさかえを見舞いに駆けつけた。
さかえはいささか体重が軽いことから新生児室へ入れられた悠愛をガラス越しにでも父となった夫に会わせるよりも前に、
「あんた。お母さんに飲み物ぐらい買ってきてよ」
病院で貸与されているピンク色のパジャマ姿で、産後の肥立ちを警戒して点滴を続けながら、夫を顎で使うと、夫は、
「気が利かなくてごめん。すぐに行ってくるよ」
倉皇として病室を出て行った。母は、そうした婿の後ろ姿を目にすると、さかえに、
「お前、今みたいな口調で利雄(としお)さんと接しているの?」
真顔で聞いた。さかえはきょとんとして、
「え? お母さんだって、いつも命令口調でお父さんをあれこれと使っているじゃない? わたしが同じことをやって、何が悪いの?」
怪訝そうに聞き返した。さかえの母が、茫然として娘の顔を見つめたとき、新生児室の悠愛は不気味な薄笑いを浮かべた。
悠愛が幼稚園に通い始めると、専業主婦となったさかえは、送迎バスの停車地に設定された街角に甲斐甲斐しく娘の送り迎えを繰り返したが、どうしたわけだか、同じ幼稚園に我が子を通わせる若い母親達が、あからさまに自分を避けていることに気付いた。
母親達ばかりか、園児の誰もが、さかえと悠愛には挨拶の一つもせず、明らかに嫌っていた。
悠愛が幼稚園に通っていたときは、さかえも思い過ごしだろうと考えていたが、四谷区立の小学校に進み、二年生になったころには、勘違いや考え過ぎという段階など、既に超えていることを思い知らされた。
六月初旬のどんよりと曇った日の放課後、老練の男性担任に呼び出され、さかえが悠愛に通わせている小学校の職員室へ行くと、担任は重い表情で隣接した応接室を目で指した。
何事か悠愛の身に抜き差しならぬ事態が迫っていることを感じながら、さかえは応接室で担任と対座すると、
「悠愛ちゃんのことですが……」
担任は重い口を開いた。さかえはびくりと肩を震わせながら、はい、と返事をした。担任は、
「クラスメートに終始、命令口調でものを言い、無理強いを繰り返しています。例えば、授業中に悠愛ちゃんが指されると、隣に座る男子生徒に『あんたが答えなさい』とか、給食で嫌いな献立が出ると、やはり手近にいた生徒に『あんた、食べなさい』と言っています。
クラスメートばかりではなく、昇降口をたまたま通りかかった見ず知らずの上級生にも平然と『下駄箱からわたしのスニーカーを出しなさい』と命令しています。
児童達が悠愛ちゃんの命令を断ろうものなら、悠愛ちゃんは『わたしのパパは国の偉い人なのよ。あんたのことパパに言って、家族ごと日本にいられなくしてやるんだから』とうそぶいています。失礼ですが、ご自宅ではどのようなお話をされていますか?」
愛娘の学校での生活態度を語り、自宅の躾を尋ねた。さかえは、まさか悠愛が学校で一介の国家公務員に過ぎない父親の職業を笠に着て、母親の顔から火が出るような傲慢な振る舞いを続けていたとは露知らず、
「いいえ、自宅でそんな素振りは一切ありません。むしろ無口過ぎる子で、両親から声をかけなければ、その日の出来事を話さない子です」
両足をがたがたと震わせ、自宅での過ごし方を答えた。担任はふうっと溜息をつくと、
「子供さんの性格は三歳まででほぼ決まってしまいます。悠愛ちゃんはもう七歳で、今更間に合わないかも知れませんが、ご自宅で繰り返し、例え小学生とはいえ、社会を構成する一員であることを説かれて下さい。これは、ご両親の責務です」
宣告するように言った。さかえは母の父に対する振る舞いを無意識に真似ていたが、悠愛までがさかえの意識していない言動に倣っていたとは……幼子の将来を思うと、さかえは取り返しのつかない罪を犯した現実に打ちのめされた。
その帰り、通学路に指定されている道で、さかえは悠愛がクラスメート二、三人に交替で自分のランドセルを持たせている姿を遠目に見つけた。
「大城! 自分のランドセルは自分で背負えよ!」
「もう、悠愛ちゃんと遊ぶの嫌!」
クラスメート達が高慢ちきに腰に手を当て、人を見下す目つきを続けている悠愛に言うと、
「いいの、あんた達? わたしのパパは国の偉い人なんだからね。わたしに逆らったら、あんた達も家族も日本にいられなくなるんだから!」
虎の威を借る狐のごとく、ぬけぬけと言った。さかえは、両親の前では愚者の片鱗さえも窺わせない娘の真の姿を担任からの伝聞ではなく、現実に目にすると、ガイア建設に在職中、社長秘書として一目置かれた存在、と自負していた自分は、あまりに滑稽で醜かった真実がのしかかってきた。
娘の真実を目の当たりにした日の深夜、さかえは自宅のリビングで夫から離婚届の用紙を差し出された。夫は既に担任から悠愛の話を聞かされ、親族にも根回しを終えている様子で、
「悠愛の担任の先生から話は聞いただろう。悠愛のしあわせを思うなら、悠愛を俺の両親に預けてくれ。特に、俺のお袋は江戸時代末期から続く華道の流派の師範だ。礼儀、作法を一から悠愛に仕込んでくれるだろう。
もっとも、今更、お袋に頼っても、悠愛は反発を繰り返し、離婚した両親は勿論、父方の祖父母も恨み、家を飛び出して、身を落として行く将来が容易に想像できる。俺ももっとお前に言うべきことは言わねばならなかった。後悔している」
心の奥底から悔いる夫の一言一言がさかえの思いを代弁していた。
母であるさかえの肩書き第一主義が、何の罪のない幼子の人生を既に崩壊に導いているのだった。悠愛が立ち直ってくれるのなら、義母に任せることで、まだ間に合うのなら……さかえは一縷の望みを託す思いで、がたがたと震える手で、離婚届に印鑑を捺した。
昨日から降り続くみぞれ混じりの雨は、陽が落ちても一向にやむ気配はない。乾燥しきっていた都心の冷え込みはますます厳しくなった。
しかし、新宿三丁目にある東京オペラシティのコンサートホールへ続々と足を運ぶ人の列は、寒さなどはねのけるような輝きが顔にあった。
聖バレンタインデーを記念し、京浜交響楽団によるブランデンブルグ協奏曲のコンサートの開場時刻になっているのだった。
ブランデンブルグ協奏曲は、作曲者J・S・バッハのケーテン時代、ブランデンブルグ辺境伯クリスティアン・ルートヴィヒに献呈した六つの協奏曲を一まとめにした作品集で、当時、使われていたあらゆる楽器が登場し、曲想も作品ごとに全て異なる多様性と変化が聴きどころである。
シューボックス型の平面に変形ピラミッド型の天井、二層のバルコニー席をもつ千五百六十八席のコンサートホールは、ホワイトオークで仕上げられている。
こうした民間の複合施設に再就職し、西尾さかえは二年が過ぎていた。
さかえの仕事は、普段は庶務であるが、コンサートがあるときは観客の誘導の他、盗撮や録音にも目を光らさなければならない。
愛娘の将来を慮り、義母に悠愛を預けたものの、自分の選択が正しかったのか、その答えが得られるのは遠い未来のことであった。
西船橋に住む両親からは、さかえはよりにもよって大切な孫娘を口先三寸にたぶらかされ、大城の家にくれてやった、と勘当状態で、安いアパートに一人暮らしであったが、何とか生活は成り立っていた。
仕事そのものはあまりに広大な複合施設での使い走り同然であったが、連日連夜のごとく開催されるコンサートに訪れる人は、誰もが善男善女ばかりで、これと言ったトラブルもなく、楽であった。
「西尾さん?」
ふと、自分を呼ぶ声に振り返ると、見知らぬ四十代前半の男が立っていた。
男が誰であったか思い出せず、さかえは瞬時、黙してしまったが、男は真正面からさかえの瞳を見つめ、
「よかった、ガイア建設にいたときと比べて、想像も出来ないほど和やかで、穏やかな光をまとっています。きっとしあわせに暮らしているんですね」
思いもかけないことを言った。両親を失い、夫と娘も失った今の自分のどこがしあわせなのか、と心が小波立ったが、言われてみると、ガイア建設に在職していたときのような地位や学歴には何のこだわりもなく、淡々と生きる日々の心は軽い。
ガイア建設にいたとき? 男の言葉を反芻したとき、その男はかつてさかえ自身が疎ましく、目障りに感じていた宇井 認であることをようやくに思い出した。
認は多忙そうなさかえに、
「それじゃ」
軽く右手を上げ、チケットに記された自分のシートを探し、観客席へと去って行った。
さかえは認の後ろ姿を見つめ、今日が聖バレンタインデーであったことを思い出した。一昨日の昼休み、新宿駅構内のフラワーショップから今日、九歳の誕生日を迎えた悠愛に花を贈っていたのだった。
愛娘の誕生日であると同時に、認からほんの一言、自分の心が生まれ変わっていたことを教えられたのだった。
いつしか開演したコンサートホールから、さかえの再出発を祝うかのように、ブランデンブルグ協奏曲の第一番ヘ長調BWV1046の第一楽章の華麗な演奏が、耳に届き始めた。(完)
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さかえは国土交通省で働く夫と結婚し、長女を出産します。しかし、長女の悠愛(ゆめ)は虎の威を借る狐のごとく子供とも思えぬ愚者に育ってしまいました。悠愛が立ち直ることを信じ、何もかも失ったさかえが見たものは……短編「生まれ変われた日」の後編です。この作品、そう言えば、バレンタインデーネタだったんですね。2月14日に間に合わず、ごめんなさい。ご感想、待っています!