大陸最北の地、幽州。
かの劉備玄徳が、関羽・張飛の二人と桃園の誓いを交わした事で、よく知られているこの土地。黄巾の乱が起きるまで、この地を治めていたのは、劉備と同じく、漢に連なる血筋の劉虞という人物だった。
だが、その乱の最中、劉虞は黄巾の者たちによって討ち取られ、一時は州の半分以上を、黄巾賊がその支配下に置いた。しかしその後、劉備姉妹率いる義勇軍を従えた、北平太守公孫賛の手によって、黄巾賊は幽州の地から追い払われた。そして、その功を以って公孫賛は幽州の新たな牧となり、現在に至っている。
その公孫賛の居城である北平城に、その日、三万の蒼い軍勢が姿を見せた。一刀率いる冀州軍である。従軍するは徐庶に李儒、そして姜維の三人。先頭にて彼らを誘導する単経は、ここに至るまでのその道程の中、あることを痛感していた。
それは、冀州軍の、その軍団としての練度。
一糸乱れぬ行軍、というのは、この事を言うのだろうと、彼女は心底感心した。まるで、すべての兵が、互いに意識を通じ合っているかのような、その見事なまでに合一した呼吸。歩を進めるその足も、完全に同一のタイミングで、一歩一歩を確実に動かしている。
ここまでになるほどには、一体どれぐらいの調練を課せばいいのだろうか。
彼女は改めて、冀州の軍-いや、正確には北郷一刀と言う人間に、深い興味をもった。……しかし、少しでも彼と親しくなろうとして近づくと、すぐにどこからとも無く徐庶が現れ、「一刀さん?ちょっとオハナシが」と、背に”何か”を背負ったものすごい笑顔で言い、一刀を連れて何処かへといってしまうのであった。
結局、単経は一刀に、まともに近づくことすら出来ないまま、北平の地に戻ってきたのであった。
「北郷、久しぶりだ。今回は、わざわざ足を運んでもらって、すまないな」
「いえ、お気になさらず。けど本当にお久しぶりです。……いつかの連合戦以来、ですね」
謁見の間にその姿を現した一刀に、笑顔で語りかける公孫賛と、それに同じく笑顔で答える一刀。
「そうか、もうそんなに経つんだな。……美音、お前も使者の任、ご苦労だったな。よく、務めを果たしてくれた。礼を言うぞ」
「……白蓮はん。その前に、うちからお話しておきたいことがあります」
「?何だ?」
主から労いと礼の言葉をかけられると、単経はその場に膝を着き、頭を下げて、自身の犯した過ちを語り始めた。つまり、一刀を試すために、主である公孫賛の真意を隠し、限りなく嘘に近い援軍要請をしたことを。
「……本当なのか?北郷」
「……ええ。けど、単経さんはもう十分に反省していますし、俺たちも気にはしていませんから、出来れば穏便に済ませてあげて欲しいんですが」
「……北郷はん?弁護はありがたい事どすが、これは白蓮はんの臣下であるうちとしての、いわばけじめにおます。……白蓮はん、うちからの釈明はありまへん。どうか好きに、お裁きくだはれ」
自分を弁護した一刀に礼を述べつつも、公孫賛の臣下として、罪へのけじめはつけたいと、単経は主君に対し、改めて自身への裁きを求める。その彼女に公孫賛はそっと近づき、単経の肩に手を置いてこう言った。
「……確かに、使者として赴いた公式の場で嘘をついたのは、絶対に褒められるものじゃあない。……だが、さっき北郷も言ったが、お前はもう、十分に反省しているのだろう?なら、今後は二度と、同じ事をしないと誓えば、私はもう何も言わん。……どうだ、美音?約束、出来るか?」
「白蓮はん……はい!……はい!……お約束、いたします……!!」
主のその慈悲の言葉に、ただただ、涙を流して答える単経。そして、そんな君臣をほほえましく見つめる、一同であった。
「……美音の事については、私からも改めて謝罪を言わせてもらうよ、北郷。……その上で言うのもなんだが、改めて、北郷一刀どの。われわれと、手を組んでもらえるだろうか?」
「ええ。勿論、そのつもりでここに来たんですから。公孫賛さんこそ良いんですね?俺たちは今、逆賊の身になってます。……そんな俺たちと手を組めば」
「私たちも、逆賊呼ばわりされかねない、か?ふ、気にすることは無いさ。……私は、民のために良いと思ったほうを選んだだけだ。迷いは、無い」
無言のまま、暫し互いの目を見合わせる二人。そして、
「……一刀よ、どうやら、良き盟友が出来たようだな?」
「……ああ」
李儒の一言をきっかけに、その顔に笑顔を浮かべる一刀と公孫賛。
「なら、改めて。……わが名は公孫賛、字は伯珪。真名は白蓮だ。盟の証……になるかはわからんが、この真名、北郷に預けたいと思う。受け取ってもらえるだろうか?」
「勿論。……けど、俺は真名を持ってないから、一刀と、これからはそう呼んで欲しい。……よろしく頼みます、白蓮さん」
「呼び捨てで良い。後、敬語もな。……美音、お前はどうする?」
いまだ跪いて泣き続けている単経に、その手を貸して立たせつつ、公孫賛がそう問いかける。無論、真名を預けるのかどうかという意味である。
「ええ。もちろん、北郷様がよろしければ、うちも真名をお預けしとう思います。うちの真名は美音。ぜひに、お受け取りくんなまし」
「わかりました。……よろしく、美音さん」
「ところで一刀?軍議の前に、一つだけ聞いておきたいんだが、その、仮面の娘は何者だ?徐庶と姜維は私も覚えているが」
「ああ。……そうですね。同盟をしたんだし、貴女にも教えておいたほうが何かと良いかもね。……構わないかい?命」
「妾は構わん。……じゃが、腰だけは抜かさんといてくれよ?伯珪」
『??』
一刀と李儒の会話の意味が理解できず、公孫賛と単経はその首をひねる。そして、仮面を外した李儒の顔を見た瞬間、公孫賛はぺたり、と。腰を抜かして床に座り込んだ。
「……こ、ここっ、ここっこっ!!」
「ど、どないしはりましたん!?白蓮はん?!そんな、鶏やあるまいし。……この人が、どうかしはりましたんか?」
「あ、貴女はまさか、しょ、少帝陛下!?「…え゛?」……お、おい一刀!?」
こく、と。
顔を真っ青にして問いかけてきた公孫賛に、無言のままうなずいてみせる一刀。
「な、亡くなったのでは無かったのですか?!……まさか、ゆーれいなんて事は」
「このとおり足もちゃんとあるぞ?公孫伯珪。……久方ぶりじゃの」
「は、ははっ!お、お久しぶりに御座います!!まさか、まさか生きておいでだったとは……!!」
公孫賛と単経は、二人そろって慌てて床に平伏する。死んだと言われていた先の帝-李儒こと劉弁が生きていた。それは公孫賛にとってもとても嬉しいことであった。先の連合戦のおり、一度だけ会った劉弁の皇帝としての器に、彼女は大いに感服した。そしてこの人物ならば、間違いなく漢を、大陸を、そして民たちを良き道へと導いてくれると。公孫賛はそう確信した。
だからこそ、その劉弁が死んだと聞かされたときには、彼女の失望感はそれは大きなものだった。しかし、その少帝が今、生きてこうして自分の目の前にいる。彼女はそれが嬉しくて仕方なった。……だからこそ、こんな疑問が、彼女の口を付いて出た。
「ご存命であられたことは、漢の臣としてまこと喜ばしいことにございます。ですが、それならば何故、ご自身の生存を世にお告げにならないのですか?そうすれば」
「……早急に、世の乱れを正せるのではないかと、そう申すのだな?」
「はい」
す、と。公孫賛の問いを聞いた李儒は、再びその顔に面をつけ直し、その場から一歩後ろに下がった。
「……陛下?」
「ここに居りますのは、李儒、という名の一介の将で御座います。……死んだ亡者が世になど出てみなされ。……混乱はさらに大きく、膨れ上がることになりかねませんぞ?」
そう前置いてから、李儒は自分が生きていることを隠すことにした理由を、公孫賛に語って聞かせた。都に残した妹のこと。各地の諸侯のこと。大陸と、民の現状。それらを総合して熟慮した上で出した、自身の結論を。
「……」
公孫賛はただ静かに、李儒のその言葉を聴いていた。頭では、確かに彼女の話も理解はできる。だが、感情としてそれを拒んでいる自分がいるのも、また確かである。
そこに、一刀がするりと、口を挟んできた。
「……なあ、白蓮。命の気持ち、理解してやってくれないかい?……彼女も十分に悩んだ末、今の立場を選択したんだ。過去の自分をすべて捨てて、民のためになると信じた自分の道を、さ。……駄目、かい?」
「……はあ。……わかった。もう、これについてはこれ以上何も言わない。私は今日、ここで何も見なかった。何も聞かなかった。……それでいいんだな?」
「……感謝いたしますぞ。公孫伯珪どの」
不承不承、もしくはやれやれといった感じで、公孫賛は頭をかきつつ引き下がった。先の台詞を語る李儒の瞳には、一点の迷いも感じられなかった。見て取れたのは、決して曲がることのない強い意思。加えて、一刀の李儒を擁護したその言葉が、それをさらに強調した。
もうそれ以上、公孫賛は何も言えなかった。
「それじゃあ、気を取り直して、だ。烏丸に対するこっちの対策なんだが」
「美音さんから、それについてはある程度聞いてるよ。俺たちが并州の匈奴をけん制している間に、白蓮たちが直接、烏丸の地に攻め入るってことは」
「それなら話が早い。お前たちが連れてきた三万、そいつでもっていくらか時間を稼いでいてほしい。その間に私たちは「ちょっと待ってくれ」……え?」
自身の方針-一刀たちに背後の憂いを防いでもらって、その間に烏丸へ攻勢をしかけるという、その内容を語りだした公孫賛を、一刀が話の途中でその言葉をさえぎる。
「それについてなんだけどさ、烏丸への攻勢には、俺たちが連れてきた三万も、そっちの戦力として使ってほしいんだ」
「お、おい!それじゃあ、匈奴への牽制ができないじゃないか。……あ、もしかして、鄴の戦力をそっちに当てるつもりなのか?」
一刀の本拠地である鄴の城には、華雄と賈駆が先に送った五万をあわせた、総勢六万の兵で待機をしている。まあ、そのうち即戦力になるのは一万ほどだけであるが、牽制程度ならばその程度でも十分可能ではある。だが、一刀の答えは公孫賛の考えを、はるかに飛び越えたものだった。
「……いや。匈奴の連中のところには、兵は一人も連れて行かない。俺と輝里、それと由の三人だけで乗り込む予定だよ」
ほんとは一人で乗りこむ気だったんだけど、と。そう事も無げに、笑顔でそんなことを一刀がのたまう。で、それを聞いた公孫賛の反応は、至極当然、こうなるわけで。
「ぶっ!?おま、冗談も寄せ!いくらなんでも無謀すぎる!徐庶!姜維!それに李儒殿!この馬鹿、何とか止めらんないのかよ!?」
「いや、あの、馬鹿って」
一刀の対匈奴の手段。それを聞いて思わず一刀を馬鹿呼ばわりし、徐庶たちに自分たちの主君を諌めろという公孫賛。だったのだが。
「……私たちも、散々、止めたんですよ?いくらなんでも馬鹿な選択にも程がありますよって」
「輝里まで……」
「馬鹿は馬鹿やん。十万以上の異民族が跋扈してるところに、たった一人で乗りこむっちゅうやもん。……馬鹿って言う以外なんて言うねん」
「……あう」
「ま、こやつの馬鹿は今に始まったことじゃないがの。……それに、一応、妾たちも納得する手段を出してもおるし……まあ、それでも、こやつ以外では、多分出来んことだとは思うが」
「だから仕方なく、私と由が同行するのを条件に、一刀さんの馬鹿な策を認めんたんです」
と、徐庶が嫌味たっぷりな言葉とともに、一刀をじっと見る。
「……そりゃ、無茶なのは分かってるけどさ、何もそんなに馬鹿馬鹿連呼しなくても」
『……何か間違ってるとでも?』
「………………ませんです、はい」
三人からジト目を向けられ、何も言い返せずに縮こまる一刀。
「しかしなあ。いくら策があるといっても、一国の主が敵地にほいほい乗り込むってのは、あまりにも危険すぎるぞ?……もしも何かあったときは、いったいどうする気なんだ?」
「大丈夫さ。……主君としての器を持ってる人間なら、ここにもう一人いるからね。俺に何かあったら、後を全部任せられる人が。……な?白蓮?」
「な?!……そ、それって」
そう。一刀はそれを確信していた。……先ほどの単経への裁き、そして、自分たちとの同盟を組むことに対するその覚悟。加えて、今までの彼女の統治能力を判断すれば、”それ”は十分に不可能ではない、と。
「……それに、俺はまだ死ぬ気は無いからね。やらなきゃいけないことは、まだまだ山積みなんだ。……少し高い山くらいで、この足を止めてなんかいられないさ」
「っ!」
少し高い山。
一刀にとっては、匈奴や烏丸などの、あの五胡の者たちすら、その位のものでしかないというのか。あくまでも、彼らは通過点でしかないというのか。公孫賛は、一刀のその器の一端を、ようやく少しだけ覗けたような気がした。……あまりにも、大きすぎるその器の。
身震いを感じた。
それは、いつだか初めて、先の皇帝である少帝の前に出たときに感じたもの。-いや、それ以上のものかもしれなかった。
「……わかった。なら、三万の冀州兵、確かに預からせてもらう。指揮は、李儒どのに任せればいいんだな?」
「うむ。……本当なら、妾も一刀に付いて行きたかったが、個人としての武を持たぬ妾では、お荷物の足手まといにしかなんからの。伯珪どの、しばしの間、よろしく頼みますぞ?」
「ああ、こちらこそ」
握手を交わし、互いに笑顔を向ける公孫賛と李儒。そして、軍議がまさに終わろうとした、そのときであった。
バタンッ!!
『!?』
突然謁見の間の扉が開かれ、そこに一人の女性が飛び込んできた。
「姉貴!敵だ!また烏丸のやつらが来たぞ!」
「何だと?!水蓮、向こうの数は?!」
「それが、わずか五千足らずってところだ。……それに、様子が少し、変らしい」
公孫賛の問いに答えたその女性-公孫越が、少しだけ眉をひそめて、その報告を始めた。
「様子が変、って。何かあったんどすか?」
「美音か。戻ってたんだな。……いやな、どうやら連中、騎馬を一騎、追いかけて来ているらしいんだ」
「追いかけてる?たった一騎をか?」
烏丸の軍勢から少し先のほうを、一騎の騎馬が先導するような形で走っているらしい。しかしその走り方は、まるで後方の軍勢から逃れようとしているようだと。公孫越は物見の報告を、ありのままに話した。
「……輝里、みんな、すぐに動けるかな?」
「はい。全軍、疲れも無く待機しています」
「一刀?」
「白蓮、ちょっと出てくるよ。……その騎馬、助けたほうがいいような気がする。……輝里、由、命、行くよ」
『御意!』
たたた、と。公孫賛からの返事を聞くのもそこそこに、一刀たちはその場から足早に駆けていく。
「……なんだ、あいつ?姉貴のこと真名で呼んでやがったけど?」
「あいつが北郷一刀だ。真名はさっき預けた。……って、んなことより私たちも行くぞ、水蓮!その騎馬……対烏丸の、大事な鍵になるかも知れん」
一刀のその表情が、何かを直感したことを物語っていた。それに気づいた公孫賛は、状況の飲み込めていなさそうな妹を急かし、一刀のその後を追った。
そして、北平から少し離れた、遼東郡との郡境にほど近い場所。
「はあ、はあ、はあ。……連中め、本当にしつこい。……じゃが、さすがはわしの育てた連中じゃ。行軍にそつがないのう。……と、そんなこと言うてる場合ではないか。何とかやつらを振り切って、北平に辿り着かねば……!!」
全力で疾駆する馬に跨ったまま、ぶつぶつと独り言を言っているその少女。その十代前半にしか見えないその容姿で、自身の倍はあろうかというその馬を巧みに操り、ただ一目散に西を目指す。そして、郡境となっている小さな川の近くまで来た、その時だった。
どすっ!
ひひいーーーーんっっ!!
「し、しまった!!」
後方から放たれた一本の矢が、少女の乗っていた馬の脚に、見事に突き刺さった。そして、走っていた勢いのまま、前転する形で転倒した。当然、その背に乗っていた少女は、馬から思い切り放り出された。……とっさに取った受身のおかげで、怪我らしい怪我はしなったものの、地に叩きつけられ、そのままごろごろと大地を転がった。
「う、くそ……。わしとしたことが、油断したわい」
転がり続ける自身を何とか止め、ゆっくり立ち上がろうとする。だがそこに、後ろから来ていた軍勢が追いついた。そして、その軍勢の中から、一人の筋骨隆々とした男が歩み出てきた。
「……蹋頓(とうとん)か。よくもまあ、わしの前に出てこれるものよな。……この裏切り者めが」
ぎろり、と。少女がその軍勢を率いていた男をにらみつけた。
「裏切り者とは心外ですな、単于(ぜんう)?……こうやって民を捨てて、一人逃げ出すものは裏切り者とは言わないとでも?」
「ああ、裏切り者じゃろうな。……じゃが、それもお前に比べればまだまだましなほうじゃ。分けの分からぬ者に踊らされて、一族を真っ二つに割ったお前に比べればの!」
「分けの分からぬ、ということはありますまい。あの者は漢の正式な使者ではありませぬか。……しかも、われらが五胡の全てを掌握できるよう、たんまりと兵や物資を送ってくれたではありませぬか」
「ふん!あやつらの本当の狙いも分かっておらん者が、何を言うのか」
数ヶ月ほど前。
長安の漢帝の使者を名乗るものが、彼女ら烏丸の地を訪れた。大量の、兵士と軍需物資を携えて。その男は張温と名乗り、漢の皇帝の言葉としてこう伝えた。
『これに持ち寄りしは、漢の十四代皇帝たる劉協陛下よりの、心ばかりの品である。雄雄しき烏丸の者たちこそ、五胡の頭領として相応しき者たちである。些少ではあるが、これらの物が烏丸による五胡平定の力添えとなるよう、ここにお送りするものである』
と。
烏丸の単于であった少女は、これを丁重に断ろうとした。内紛を煽るための火種。それが見え見えだったからである。だが、彼女の側近だったこの蹋頓は、少女の判断に異を唱えた。この好機を逃す手は無いと。
そして、烏丸族は単于派と蹈頓派に分かれ、激しく争った。結果として、敗北したのは単于派だった。
彼女は囚われの身となり、烏丸は蹋頓の手で指導されることになった。そこまでなら、まだ彼女も何も言わなかったであろう。烏丸の者たち自身の意思で、行動の規範を決めていれば。だが蹋頓は、さらに漢から送られてきた援助物資に気をよくし、彼らの”依頼”を聞くようになってしまった。
その依頼とは、遼東半島への進出であった。
かの地を占拠し、さらには幽州全域すら、その支配下に組み入れてほしいと。その使者は言い始めた。そして、単于たる彼女は悟った。漢朝は、自分たちを都合のいい手駒にしようとしていると。
もちろん、蹋頓にもそのことは言って聞かせた。だが、彼はまったく聞く耳を持たず、本気で幽州侵攻を開始した。事ここに至り、彼女は決意を下した。烏丸後を脱出し、かねてより親交のあった幽州の牧、公孫賛を頼ることを。
そして機を見て烏丸の地を飛び出し、あと少しで、公孫賛の居城である北平に辿り着くところまで来た。なのに、後一歩のところで追いつかれてしまった。
「蹋頓よ。このままあやつらの頼みを聞き続けていれば、いずれわれら烏丸族、ことごとく漢人の手足、いや、奴婢として徹底的に使役されることになるぞ?」
「ふん。そうなる前に、逆に我らが漢を支配してくれるわ。さ、戻っていただきますぞ。貴女にはまだまだ利用価値がありますでな」
蹋頓が少女の手を掴もうとした、その時であった。
「将軍!前方に砂塵が!」
「なに?!幽州の連中か!?ちっ、思ったより素早い」
「あ、いえ!旗は公孫ではありません!黒字に白の十字!」
『何だと!?』
少女と蹋頓が同時に、その口から驚愕の声を上げる。二人のその視界にも、それがはっきりと見えてくる。それは間違いなく、黒字に白い十字が描かれた牙門旗。
「まさか、あの天の御遣いか?!飛将軍と呼ばれし呂奉先と同等の武を持ち、その知略神の如しと噂される、あの?」
「馬鹿な!なぜやつらが幽州にいる!?」
そうしているうちにも、一刀率いる冀州軍三万は、彼らのすぐ近くへと、大地を響かせて押し寄せてくる。
「ちっ!このままじゃ分が悪すぎるか。全軍退くぞ!単于よ、とっとと一緒に来」
「行かせるかいーっ!!」
「うおっ!?」
「せいやあーっ!!」
「くうっ!?」
突然襲ってきた、短刀と両柄の剣を寸手でかわし、少女からわずかにその距離を開ける蹋頓。さらに―――。
「……北天示現流、残影衝!チェストおおおおっっっ!!」
「ぐおおおおっっっ!?」
その二つの斬撃の一瞬後、蹋頓の体勢がわずかに崩れたその隙をめがけ、蒼い光がいくつもの影を残しつつ、彼をめがけて突進してくる。蹋頓はそれを何とか受けきるが、その勢いに押され、大きく後方へと弾き飛ばされた。
「ぐはっ。……おのれ、貴様ら……!!」
「……冀州刺史、北郷一刀。故あって、この娘に助太刀させてもらう」
「その配下、徐元直。……同じく、お相手します」
「同じく、姜伯約や。……うちの影刃(かげば)、味おうてみるか?」
少女の前に立ち、武器を手に蹋頓をにらみつけ、牽制する一刀、徐庶、姜維の三人。
「……三万対五千か。しかも、戦神と呼ばれる天の御遣いが居ては、尚のこと分が悪すぎる。……単于よ、その身柄、しばしそやつらに預けておきましょう。……全軍!退けーっ!!」
蹋頓の指示とともに、烏丸軍はその場から撤退をしていった。そこに、公孫賛と公孫越も、その手勢を率いて合流してきた。
「よかった、みんな、怪我は無いか?」
「せーへんせーへん。ほんな柔とちゃうしな。……で、白連はんはこの人、知ってはるんやろ?紹介してくれへんか?」
と、気軽に公孫賛に問いかける姜維。しかし、
「……いや、私も始めてみる顔だが」
『へ?』
「ほほう。お主が公孫白珪か。そう言えば、文は何度か交わしておるが、実際に会うのは初めてじゃったの。ぬはははは!」
徐庶の手を借り、その場に立ち上がったその少女が、公孫賛の名を聞いて笑いながらそう言った。
「……ちょっと待て。じゃあ、何か?もしかして、お前……が?」
「うむ!……まずは、始めましてと言っておくべきかの」
居住まいを正し、一同へとその視線を送り、少女ははっきりと、自己紹介を始めた。
「わが名は丘力居!烏丸の単于である!……以後、よろしく見知りおけ♪にゅははははははっ!」
『……………………』
衝撃の事実にぼーぜんとする一刀たちをよそに、丘力居のそんな高笑いが、周囲へとこだまするのであった。
~続く~
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はい、どーもw
四章、三幕目で~っす!
今回はまたまた新キャラが登場です。敵味方双方に一人づつでございます。
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