間違いはなかったはずだ。
2月14日。『女の子が男の子に思いのたけを』なんてキャッチフレーズがとうに形骸化した、女子同姓間の甘味交換日。あるはずもない女子生徒からの甘酸っぱい告白を夢見る男子生徒すら居なくなったただの平日は、すでに『告白のきっかけ』にはほとんど使われないが、『愛情の再確認』もしくは『先行投資』としての効力までは失われていないようだった。
法を犯しながらその身が果てるまで、数多の報われないつがいを神の御許で夫婦にしてきた古の偉人からすれば、複雑な思いにも駆られるだろうが、ワールドワイドな視点をもってすれば、本来こちらの方が正しいのではないかという個人的意見もある。
ゆえにすでに彼女もちの男子は、同姓から無言の被爆命令が絶えないわけだ。が、朝倉純一からすれば無差別に投げられる刺々しい視線は、考えの浅さを露呈しているといわざるを得ない。
なにもその日チョコレートをもらうすべての男子が恵まれているとは限らないのだ。
「音夢、期待してるからな。明日はちゃんと、買ったもの寄越せよ!」
生存を夢見る若き少年は、愛の日を待たずして爆散した。
「朝倉、アンタ音夢に何いったのよ?」
年季の入った友人の白んだ視線が痛い。
昼休みを文字通り休憩、というかそもそも授業時間から睡眠に入っていた純一は、机に突っ伏したまま片目をそろりと眞子の方へ持ち上げた。
「何が?」
「何がじゃないでしょう? 朝から音夢の機嫌が悪いのを見れば、まず疑うべきはアンタ、そうじゃなくても一番事情を知っていそうなのはアンタ」
一応に白を切って見せたが、それが通用する相手ではなかった。言葉の切れ間に調子よく人差し指を近づけ、最終的に指は目に刺さるのではないかというほどまで眼前までやってきた。指紋さえ見える人差し指のどアップは、なかなか目の覚める光景だ。
流石、伊達に長年親友をやっていない。
まるで根拠のない推測は、限りなく正解に近い、というかむしろ正解だった。
視線を教室前方、黒板付近の席最前列に向ければ、クラスメートと仲良く話し込む音夢は、知らない人から見れば『いつもよりも機嫌が良い』と思われるだろう。
とことん面の皮が厚い義妹にして恋人の裏の人格は、表と鏡合わせの構造になっている。右手を上げれば左手、左手を下げれば右手が下がる。別に利き手が逆になるわけではないが、感情のスイッチがあべこべになるのだ。
つまり優雅に首もとの鈴を転がして微笑んでいるあの顔で、腹の中は地獄の業火。器用なものだといっそ感心してしまう。
「昨日何かあったんですか? 大切なものを壊しちゃったとか」
騒がしい眞子の声を聞いて、後ろに座っていたことりも話しに加わってきた。
いつも購買でご飯を買うことりにしては珍しく弁当持参、と男の身からすれば圧倒的に小ぶりな弁当箱の中のウインナーをみて、腹が減っていることを思い出した。
「いや物を壊したわけではないが、心を壊したというか。生存本能に従った結果の正当防衛というか」
「……わけわかんないわよ」
目蓋を半分閉じた眞子に射抜かれる。まるで現行犯で逮捕されながら未練がましく言い訳をしている犯人を観察する警察官みたいだ。完全に事情を聞く前から悪者扱いされている。
ことの顛末を話すのは簡単だが、この葛藤を理解してもらうのは困難を極めそうだ。
案の定、本日バレンタインデーにまつわる料理下手な彼女をもつ少年の被害予想とその予防、ついでにその後の諍いを聞いた女子2名の反応は、「最低」「それはちょっと……」という非常に優しくないものだった。
「そうはいうけどな、お前らだって知ってるだろ。アレの作る料理の出来を」
核心を突く一言に、眞子もことりも、さすがに顔を引く付かせた。
料理と書いて科学兵器とルビ振れる奇跡のテクニックをもつ音夢の、その生まれもって備わった才能、というか呪いはお菓子作りにもいかんなく発揮されていた。
チョコを溶かして型に流して固めるというだけの工程にどういった『工夫』が加われば、ひとひとりが昏倒する羽目になるのか。その因果関係は未だ杉並ですらわからない。宇宙人だとかいるかどうかわからんものじゃなくても身近にこんな不思議があるんだから、できれば可及的速やかな原因究明を求めている。
無論、2人とも昨年の2月15日に朝倉純一が欠席した理由を知らないわけではない。
できれば食べてやりたい。手作りを喜ばないほど薄情な男になった覚えはない、それでも『食べきる』ことさえ不可能な現状に、回避という選択はやむなしだろう。
「それでも、彼氏なんだから何とか食べきりなさいよ」
「愛で解毒はできん」
「げ、解毒って……」
なおも食い下がる眞子へと放たれた経験則から導き出された結論は、無情なもの。
眞子も明らかに分が悪いことがわかっている所為か、語調は未だ強いものの歯切れが悪くなっている。心なしか目も泳いでいる。ここにいる3人全員が一応あの料理の殺傷能力を身をもって体験していたから、否応なしに身体が恐慌状態を引き起こしているのかもしれない。
「けど、せっかく去年の汚名を返上しようとしていたところに、そうやって言われたら、やっぱり悲しくなっちゃうかな?」
顎に手を置いて、困ったような顔で遠慮がちに放ったことりが一言。
思いのほか、純一の心に深刻なダメージを与えた。
そうやって音夢の弁護の気持ちを汲み取るように弁護されると、自分の矮小さを突きつけられるようで、身が縮こまる。
「アタシだって、音夢の弁護してるじゃない」
「どちらかといえばお前は俺を責めてるだけだ」
「そんなことないわよ」
納得いかない眞子の、心根はことりと一緒だということもわかっている。
乙女たちがもつシンパシーの力は男のそれでは到底理解できないほど固い。
音夢の心境は純一もわかっているが、同時に一向に向上しない現状を誰よりも知っているのも純一だ。
そう何度も臨死体験しているわけにもいかないのだ。話によれば不味いチョコの食いすぎで性格変異を起こした北国のファミレス店員の事例も悪友づてに聞いたことがある。
誰だって一つの命。惜しいものは惜しい。
「無茶をしろ、なんてさすがにいえないけど、それでも関係が悪くならないように、何かしたほうがいいと思うよ? 朝倉くんたちがそうだと、なんだか調子狂っちゃいますし」
「そうよ。アンタだって、憮然とした顔で市販のチョコ渡されたって嬉しくないでしょ?」
昨日の口論を辿れば、もしかしなくても本日の純一の戦果はゼロだろう。
妙なところで意固地な交際相手の態度が今日中に軟化するとも思えなかった。ちなみに今日のあやつの恋人に対する呼称は「お兄様」だ。某12姉妹の呼称の内の一つだから需要はあるだろうが、嫌味たらしく強調されては全くもってうれしくもない。
被害にあわないことは喜ばしいが、恩恵も賜れないのでは何のための聖バレイタインチヌス様慰霊日であるか。
なんとかしなくてはいけないとは思う。いけない、が。
脅迫めいた期待の眼差しは、暗に「お前ならどうにかしてくれるのだろう」といっているようで、わざとらしくげんなりとした表情を純一は作った。
「かったる」
2月の半ばになれば授業も消化試合の様相を呈してくる。
5時間目の体育はテストもなく、暇を持て余したからついでに入れてみたといわんばかりの室内スポーツだし、6時間目はロングホームルーム。議題は卒パについてで、学校行事問題行動の指名手配犯に出る幕はない。
つまり昼休みに抜け出したところで純一にとっも、学園側にとっても何一つ問題が生じることがないのだ。
しかし実害こそ出ないが、無変化というわけにもいかない。
風紀委員、それも重要なポストに位置付く音夢からすれば、義兄の軽率な行動は頭痛の種だった。
優等生な妹と問題児の兄を一纏めにして文句をいうような輩は周囲に居ない。そんなことをすれば本人には秘密裏に作られたファンクラブの連中に逆に叩かれることだって目に見えているからだ。
それでも、それに胡坐をかいていられないのが音夢の生真面目なところであり、絶望的に純一と違うところでもある。
「まったく、兄さんったら」
いつもより大股で歩く帰り道。
日に日に目前へと迫る卒パに学園全体が浮つきやすくなっている。
そこで羽目を外しすぎないよう、適度に引き締めてやるのが風紀委員の役割だった。
案件は卒パ当日までは増加の一途を辿るだろう。
冬に比べて長くなり始めた日も、6時を過ぎれば流石に西の地平線にどっぷりつかっていた。
音夢が肩を怒らせている理由は、なにも純一の素行の悪さだけではない。
むしろそっちはどちらかといえばとどめの一撃。
沸騰寸前の脳は昨日のことを遡っている。
「市販のチョコを買って来い、なんて」
バレンタインに手作りチョコをと意気込む恋人に堂々とあんなこというだろうか。
チョコを渡した次の日に胃薬を買う屈辱を、何とか晴らそうとする可愛い妹にいう言葉だろうか。
洒落だとしても許せない。何より洒落にする気がまったくなかった。
「ほんっと、デリカシーがないんだから」
思いつく限りの罵詈雑言を呟きながら、ふと洋菓子店の前で足が止まった。
赤地に白抜きで書かれた『バレンタインフェア』の文字。ショーウィンドウにはロシェやプラリネなどのボンボンの袋詰め、ガナッシュ・トリュフの缶詰。ガトーショコラやエクレア。
つややかな光沢や、新雪のようにきめ細かいシナモンパウダーの色彩をみて、思わずため息が漏れた。
ホントは自分で作ったものがとても食べれたものではないことも理解できている。
見た目は完璧なのだ。今目の前に広がるお菓子たちと比べては流石に腰が引けてしまうが、それでも『そういう人』にありがちなグロテスクな仕上がりになったことはない。
だがその見た目に味が付いてこない。口に入れる者みな卒倒して、味の感想なんて聞ける雰囲気ではない。
そんなことだから『詐欺食品』と痛烈な名称をつけられたこともある。
目の前の甘さに反して苦い思い出ばかりがあふれ出そうで、足早に離れた。
人は兄さんをグーダラだとか、かったるい星人だとか呼んでいる。
それは間違いではない。何かにつけてサボろうとするし、最近では少しマシになってはきたものの、根本的に集中力というものが続かない。
だから騙されるのだ。だって眠たげな顔して、なんでもないようなフラフラした足取りで、当たり前のようにことを成し遂げてしまうなんて誰が信じられるだろうか。
一番近くで育ってきた私自身、兄さんをまだまだ甘く見ていたのかもしれない。
扉を開けると同時に何かが飛来したせいで何もいえなくなってしまった。
午後の授業をサボった件で怒鳴り込むつもりでいた唇は、開けたまま音を成さずに、視線が手の中の綺麗にラッピングされた袋と義兄の顔を往復する。
触感から、小さなものが幾つも入っているようだった。
「お帰り。音夢サン」
「あ……ただいま」
奇襲で気勢を持っていかれた音夢は、小さな声で返事をするしかなかった。
壮大な口げんかを先日した手前、いつも通りの対応では座りも悪い。
「に、兄さん。コレ、は?」
「お前、今日それを聞くのか?」
「え? ……あ」
モールで留められた袋の中から出てきたのはチョコの上にナッツと胡桃が乗ったマンディアン、星型の型抜きチョコ。縦長のチョコはオランジェットだろうか。
乱暴な扱いの所為で少し砕けてしまっているものもあるけれど、贔屓目を抜かしても十分美味しそうな出来である。
「逆チョコですな」
熱のない声音。照れ隠しですらない。
一口かじってみても、自分のみたいにしょっぱかったり、辛かったりすることはなかった。
むしろ型抜きチョコの中身はホワイトチョコだったようで、まろやかな甘みに驚かされることになる。
目の前のかったるい星人が作ったなんてにわかには信じられない。
「これ、兄さんが作ったの?」
「大変だったぞ。まぁ本自体はこの時期だから、何処にでも売ってるんだが、『溶かして固める』だけじゃないことはわかった」
下手の横好きで、料理器具だけは無駄に充実している。
ミキサーだの温度計だの、そのほとんどが埃被っていたのが悲しいところではあるが。
さしたる失敗もないのだから、初挑戦からすれば十分成功といっていいだろう。
未だ喜べばいいのか悔しがればいいのか、目を吊り上げて唸り声を上げる音夢に、思わず純一は苦笑した。
甘味の誘惑と女のプライドみたいなものが、色々絡み合っているのだろう。
「ま、これを参考にして精進してくれや」
そういって、大きく伸びをする。
普段使わない神経使ってまでお菓子作りなんてしたせいか、疲れた。
ついでに夕飯も作ってしまったのだからテンションというものは恐ろしい。
少し早いが部屋に引っ込んで惰眠を貪ろう。
音夢の脇を抜けて扉に手をかけた。
「あ、兄さん」
「んぁ?」
合わせた目は、即座に逸らされた。
思わず呼び止めたけれど特にいうことがなかったか、いいたいことがうまくいえないのか。多分後者だ。
ややあって頬を上気させたまま、音夢の目元が緩む。
「その、ありがとう」
真正面から感謝の言葉をいわれるのはいつまで経っても慣れない。
相手が身内ことも、気恥ずかしさに拍車をかけているのだろう。
鼻から息を吐いて、肩を竦めて見せる。
「御代は1ヵ月後に。期待してるぞ」
商魂逞しいわが国が生み出したもう一つのバレンタイン。
正直言ってその存在すら絶滅危惧レベルだが、利用できるものは利用するに越したことはない。
少し意地の悪い笑顔でも見せれば、自分らしくなるだろうか。
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我が家の純一は原作ゲーム準拠です。
つまり『異性の前でも自然体・フランク・デリカシー=照菓子(食い物)?・ダルデレ・隠れ有能(爪を隠しすぎて腐らせている)』
学園のアイドルの膝にギャグで座ってみたり、義妹の好意(料理)に「三択問題」を突きつけて回避しようと画策する強者