電話が鳴り響いたとき、桐生真月はちょうど美容室を出た時だった。今まで長かった髪をバッサリと切りおとし、少しゆるいパーマをかけて完全に仕事モード。毎回何か大きな仕事を控えた時など、気分を入れ替えるときには必ず髪を切る。これは真月のジンクスでもあり真月なりの気合いのいれかたなのだ。
「もしもーし。お疲れ様、秀晴さん」
電話の向こうからのんびりとマイペースな少し低めの声が聞こえる。
「すいません、真月さん。店に来る前に一つ買い物を頼まれていだたけませんか?」
「了解。何を買っていけばいいの?」
「はい、ひとまずビターチョコレートと生クリームを。ちょっとバレンタイン向けに一品考えたものがありまして。」
「わかった。200gくらいでいいかな?」
「はい、十分です。」
ここは、大きな都会の片隅。空は狭く、四方は高いビルで囲まれていて、まるでとんでもなく大きな牢獄に見える。
でも、この街には数々の希望と欲望と夢があちらこちらに散らばっている。
ふと、視界の片隅白い羽をもつ鴉が飛んでいくのが見えた。
「…ホワイトクロウ。」
あの鴉がどこからきて誰から依頼をもらってくるかはわからない。だけど、きっとあの鴉は舞い降りる。
…時には忘れた約束を果たす誰かの元に、時には時間に忘れ去られた恋人たちが再び巡り合うために。時には一度なくしたものを再び取り戻すために。
「いらっしゃいませ。御予約のお客様でいらっしゃいますね?」
今宵もまた誰かがあの狭い路地裏を通り、石畳の階段を降り…「WHITE CROW」へと招かれるのだろう。
white crow:2<彼が彼女に出逢うとき>
その客は必ず22時ちょうどに現われる。カウンターの右端に一人でそっと座り、いつも煙草をふかしていた。
メイクは薄めで髪は長く、肌は雪のように白い。けれども飲む酒は最初の一杯だけ。誰かと待ち合わせでもなく、ただひたすらに煙草をふかし続ける。
「灰皿をお取り換えいたしますか?」
「…いいえ、お構いなく。」
こういったやり取りはほぼ毎日行われ…24時になるとそっといなくなる。
「今日もいらしたねぇ、あのおねーさん。」
持っていたほうきでごみをかき集めながら、慧はそっと呟いた。
「そうねぇ。ここのところ毎日よね。…ちょっと、まだごみの取りこぼしがあるよ。」
「恋人とか、楽しいこととかないのかな?いっつも一人でちびちびさー。」
「ちびちび…ってお前な。一応もてなす側の人間だろ、おまえ」
頭上から低く冷たい声が降り注ぐ。
「…なんだよぉ、春兄ぃ。俺ってば春兄ぃよりもずーっとハートフル♪な接客を心掛けてるつもりだよー。春兄ぃなんて仏頂面で『いらっしゃいませ』。だもん、せっかく超可愛い子にメアド書かれた紙手渡されたって顔色一つ変えやしない。ロボットかと思うよね!」
慧はくるくる表情を変えながら御丁寧にものまねまでしてハルトを攻め立てる。…本当に、この二人を足して2で割ればちょうどよさそうなのにね。
「まあまあ、二人とも。ほらほらほら、早くしないと夜があけちゃいますよー?まったくタップとテールみたいに仲が悪いんだから。」
火花を散らしてにらみ合う二人の間に長兄の秀晴さんが割り込む。なるほど、あの二人がちょうど足して2で割った完成型が秀晴さんなんだな。
「…秀晴さん、それ 多分チムとジュリーの間違い。タップとテールはリスだからね。」
「…あー。そうでしたっけ?」
などと和やかに閉店準備を進めていく。
この、「WHITE CROW」というバーは私と秀晴さん、ハルトに慧の4人で回している。
彼らはこの店のオーナーであり、同時に店員でもある。私の肩書は一応「店長代理」。本当の店長はどうも別にいるらしいのだけど、詳しいことはわからない。
3人ともどうやら血のつながった正真正銘の兄弟らしく、みんなどこかしら日本人らしからぬ雰囲気を持ち合わせていることから、どこかの別の国の血が混ざっているんだろう。もっとも。彼らの素性なんて聞こうとも思わないし、どうであろうと構わない。これは仕事をする上でのルールだと思うし、私自身のけじめでもある。
秀晴さんは多分私よりも年上らしく、見た目はイケメンオーラを存分に発揮している今でいう癒し系なタイプ。…ただ、どうもどこかしら抜けているというか、浮世離れしているところが少なくはない。でも仕事は早いし、即席で様々な料理を作り出してくれる。
次男の春十は3人の中で唯一髪が黒い。仕事に対してもマジメだし、彼が作るお酒は実際美味しいし、暇があれば黙々とシェイカーを振る練習をし、黙々と新たなカクテルを考案してくれる。…が、いかんせん無口で無表情なもんだから、正直何を考えてるのかわからない。
そして三男の慧。見た目は天使のような笑顔を見せていて、それだけでなんとも幸せな気持ちにさせてくれる。…しかし一度スイッチがオンになると相当な毒舌ぶりで、それこそ周りがドン引きされるぐらい凄まじい。
と、このように手探りで始めているこの店だが、秀晴さんいわく全員が「運命共同体」らしい。月の総売り上げは運営費、材料費を抜いて。残りはこの四人で山分けと言うのだから手を抜くわけにはいかない。…と言っても彼らのイケメンぶりと提供している物の質の良さで、なんだかんだで黒字経営ではあるのだけど。むしろ、余裕があればもう一人ほしいくらいである。
「あー。やっと終わった~じゃね、真月ちゃんまた明日―!」
「それじゃお疲れ、桐生さん」
春十と慧はそれぞれ店の上にあるアパルトマンの中へ引き上げていく。この三階と半地下のビルは丸ごと彼らの住処であり、生活場所なのだ。…ちょっとうらやましい。
「真月さん。お送りしますよ。もう夜中ですから。」
「あら、平気よ?どうせ歩いても20分くらいだし。」
「まさか、そういうわけには。さ、行きましょうか」
まさにジェントルマン。紳士的ってのはこういう人に使う言葉よね。…等と感心しながら、なんだかんだで三兄弟交代制で送ってくれる。彼らなりに気を使ってくれているんだろう。
「…真月さんは、何も聞かれないんですか?」
歩いて10分を過ぎたあたりで秀晴さんが神妙そうに尋ねてきた。
「聞くって何を?」
「私たちが何者か、です。」
「うーーん。聞いてほしいの?」
「そうですね…。真月さんが訊きたいと仰るのならお答えします。」
「じゃあ、聞かない。正直興味ないし、想像するのも面白いでしょ?」
あまりにもあっさりと言い放った私が意外だったのか、それとも思っていた答えと違いすぎて驚いたのか。秀晴さんはきょとんとこちらを見ている。
「なあに?…まあ、今聞かなくても必要な時は聞くし、話したいのなら聞かせてもらうけど…。なんにしても、私は私なりにあなたたちを仕事上の同胞として信頼しているし、腕も確かだと思う。それじゃ…変、かしらね。」
「…なるほど。ふふ…面白いことをいうひとですねぇ。」
半ばあきれたように…でもほっとしたように笑う秀晴さんを見て、何となく私まで安心した気がする。
そうこうしているうちにすでに私が住むマンションの目の前まで来てしまった。
「あ、ここでいいよ。秀晴さん。」
「はい。無事、任務完了ですね。」
去っていく秀晴さんの後ろ姿を見送りながら、私は考える。
(改めて訊かれて答えなきゃいけないほど複雑な事情って何なんだろう?)
まあ、亡くなった人と会えるようなバーなんて普通じゃないのはわかりきってることだけど。でも、それを想像するのも悪くないと私は思うのだ。
その日は、普通とは少し違った。
同じ時間、同じ場所、同じお酒を注文するのだけど…カウンターの右端に座ったのはいつもの女性ではなく、男性だった。
今日も灰皿は煙草で満杯になっている。
「…灰皿をお取り換えしましょうか?」
「いいえ、このままで。」
どこか中性的な雰囲気を漂わすこの男性の服装は、いつもの女性とはまるで正反対だった。
しわのない光沢のあるスーツ。髪は明るいオレンジ、ちらりと見える腕時計は海外ブランドのものらしく、ピアス、ペンダントとともに同じく某有名ブランドの代物だろう。
彼の姿はオレンジのライトに照らされて、まさに何かの映画のワンシーンのよう。
「わー…。ホスト?すげ、あの時計ほしーなぁ。」
ぽかん、と口を開けた間抜け面がひどい。「慧。みっともない。客を凝視しない、口閉じる!」私に言われてあわてて目に力を取り戻す。
「今日はあの人来ないのかな?」何事もなかったように澄まし顔を作り終えた慧は客に呼ばれてホールに戻っていく。
「なあ、桐生さん。女装する男性ってどう思う?」
「…はぁ?…それは、まあ自由じゃない?ほら、スカート男子ってのもいるし。…ってまさか。」
私はちらりとカウンターの彼を見る。
「…彼のことを言ってるわけ?」
「さあ。わからん」
そんな話をしているうちに、例の時間がやってきた。…24時ちょうど。まるでシンデレラみたいだな、と私は思った。
「…どうも、チェックお願いできる?」
「あ、はい。ただいま。」
私はあわててレジに向かう。ふと、彼の横を通り抜けた時一瞬違和感を感じた。
(あれ?)
「わあ。すごい雪だな。…今年は雪が多いね。」
そう言って、彼は店を出て行った。「ありがとうございました!」見送りながら、私はさっき感じた違和感の正体を考えてみた、だが。その答えは思い浮かばなかった。
「絶対!あれは同一人物だって。」
閉店するや否や、突然ハルトが切り出した。
「だーかーら…。接客業の三大ルールは?」
「客を凝視しない、客以上の一線を越えない、噂しない!…あ、口を閉じるだっけ。」茶化すように慧はヤジを飛ばす。冷たい一瞥をくれた後、私は何か考え込むような表情の春十を見た。
「口を閉じるのは君限定。…珍しいじゃない、春十。何か気になることでもあるの?」
「いや…でも多分あの人…」
こつん、こつん。
そんなことを話していると、突然ノックをするような音が聞こえてきた。
「…どうやら、やっときたみたいですね。」
秀晴さんはそう言うと、アンティークの装飾が施されたガラスの窓をそっと開く。
ひらりひらりと花びらのように粉雪が舞いあがり、放たれた窓の外から一匹の白い鴉がひょっこりと顔を出した。…嘴には何やら小さい紙袋を加えている。
「あ!…白い鴉。」
「彼の名前はホワイトクロウ。…こちらは桐生真月さん。」
ホワイトクロウは白い羽をぱたつかせながら秀晴さんの腕に停まると、鳥特有の首かしげのしぐさで私を見つめると、一声だけ「カァ」と啼いた。その時ほんの一瞬だけど目が合う。ガラスのような青色の瞳…この青に見覚えがある。ハルトの瞳と同じ色だ。
「…挨拶、されたのかしら??」
「多分ね。よかったね真月さん!」
慧が嬉しそうにほほ笑んだ。
よかったねと言われても。私は鴉に曖昧な微笑みだけ向けたのだった。
次の日は、あいにく雪だった。
もう二月も半ばを迎えようとしてることで、いたるところで「チョコレート」の有名メーカーのイベントが行われている。
いつもの時間、いつもの席。…その日も彼は現われた。
「あれ?…この時間にこんなにお客がいないなんて珍しいね。」
今日の彼の恰好はゴールドのキルティングコートに黒のブーツにスリムパンツ。…彼が立つ周りだけまるで別世界で、目がちかちかする。
「…本日はいつもご来店されるお客様のために特別なサービスをさせていただこうと思いまして。…どうぞ、お席へご案内いたします。」
「……ふぅん?それならそれでいいけど、今日おれが来なかったらどうするつもりだったの?」
少し意地が悪そうなほほえみだ。勿論、こんなことで表情を崩してはプロの接客は成り立たない。
「もちろん、お客様がいらしてこそのサービスです。さぁ、どうぞ。」
ここからは私の仕事じゃない。…彼ら三人の仕事だ。私は彼が席に座ったのを確認して、外の看板を「CLOSE」に直しておく。
「いらっしゃいませ。ようこそ、ホワイトクロウへ。」
カウンターでは春十が彼を迎える。…今回の彼の接客は、春十が申し出た事だった。
「それで、一体どんな特別サービスをしてくれるのかな?」
春十が優雅な手つきで黄色のキャンドルに灯をともす。それと同時に店内の照明を落とし、暖かい光が彼らの周りだけ包み込んだ。
「この、ホワイトクロウには二つの役割がございます。…一つ目はお客様に楽しいひと時と癒しの時間を提供すること。そしてもう一つは…御予約のお客様の魂と心の傷を治すお手伝いをさせていただくこと…です。」
「…楽しいひと時と癒しはわかるとしても…魂を治す手伝いをね…それは一体どういうふうにするものなんだい?」
彼がそう言うとさっきのような意地の悪そうな笑みを浮かべ、ジャケットの中にしまいこんであったシガーケースを取り出す。すると、しんと静まり返った店内にベルの音が鳴り響く。…今回の本当の依頼主がやってきた。
彼女は白いコートを身にまとい、いつものように長い髪を束ねてカウンターに座ると、彼の口元の煙草を奪い取る。
「煙草は辞めた方がいいっていつも言ってるはずよ。」
二人の男女の視線が交わる。瞬間、彼の表情は固まった。
その様子を面白そうに女性は眺め、ふっと笑った。
「いつも見なれた顔なのに、こうして面と向かい合うと変な気持ち。私のこと、わかるでしょう?」
「…これが魂とやらを治す手伝い?!…悪い冗談だろう?」
「…彼女をご存じなのですか?」
彼は立ち上がると、春十を睨みつけた。一触即発…な雰囲気がこちらにも伝わってくる。だが、当の春十は涼しげな表情でシェイカーをふるい終わると、透明なカクテルグラスに薄紫色のカクテルが注ぎ込む。
「…ブルームーンでございます。」
「ブルームーン…。」
まだ納得しない様子な彼だったが、出されたグラスを見て、再び座り込む。
「その名の通り、あり得ないこと、出来ない相談などの意味がございます。今起こってるできこともあり得ない出来事の中の一つ。…彼女のことはあなたがいちばん御存じでしょう。」
「…あり得ないこと。…確かに、彼女についてはこのおれが誰よりも一番知っていると思う。だって彼女は…」
「そう。私はあなた自身。あなたの影であり、あなたが隠していた部分。あなたは私、私はあなた。…あなたの中に眠る『私』。」
「俺…いや、僕自身の私…か。」
私はこの時、以前彼が店に来た時に感じた違和感の正体がやっとわかった。違和感の正体、それは彼の香水にあった。
香水は普通、女性用と男性用、共用のものと、三パターンある。髪の長い彼女がつけていた香水の香りと、男性である彼の香水が同じだったのだ。
「あなたが私を認めたくなくても、私は必ずあなたの中にいる。…それをわかってほしい。…認めてほしい。それが私の依頼。」
彼女はそれだけ言うと、その場から煙のように消えていった。
しばらく彼は何かを考え込むように下を向いていたが、ふと、顔をあげてハルトを見た。
「…僕の話を聞いてくれるかい?」
「それが彼女の依頼であり、俺の仕事です。」
「不ふ。君はまじめだね。」
彼がそう言うと、春十は静かにうなづいた。
「僕が自分の体に違和感を感じたのは、小学校を卒業して、中学はいった頃だった。」
「 小学校の頃から女の子と遊ぶことが多く、それについて自分は何も違和感を感じなかった。けれども、周りの男の子たちにそれをネタに馬鹿にされることも増え、また自分もなぜ女の子じゃないのか、不思議に思うことも増えた。そして、中学に進級した頃、それは確実に『他の人間とは明らかに違う』ことだと思い始めた。
そして与えられた制服は男性のもの。その時初めて自分の中に『女性の部分があること』に気がついた。
でも、それは『普通ではなくて、異常』である事に気づき、自分の中にある女性の部分を消し去ろうとした。…その時はそのまま大人になり、薄れていくものだと思っていた。そして高校を卒業した頃から、妙なことが増えた。」
彼はそういうと、残っていたカクテルをぐいっと飲みほした。
「夢の中で、自分は女性になって街を歩いているんだ。…その日から、いつの間にか知らない男のメールが増えたり、アドレスが増えたり…僕は自分が知らないところでもう一人の自分が動いているんじゃないかと疑いを持ち始めた。」
「もう一人の自分…。」
「夢の中の自分は、髪は長く、いつも白い服を着ていた。…先程消えた彼女と同じ。でも、12時を過ぎると、いつも自分は普通に職場に戻っていつも通り仕事をしている自分に戻っているんだ。そのころからホストなどという女性的なこととは全く相反する仕事を選んだ。…女性の嫌な部分を見ようとして…女性自身を嫌いになろうとしていたんだ。」
― 私は必ずあなたの中にいる。―
それだけ言って消えたもう一人の彼。…あれは心の叫びなのかもしれない。どれだけ抑圧しても抑えられない「女性の自分」。普通と違うと、人は誰でも不安になる。その為、自分が普通であるように見せようとする。ならば、答えはおのずと見えてくるんじゃないだろうか。
「…チェイサーを、どうぞ。」
私はそう言って、彼のもとにグラス一杯の水を運んだ。
「差し出がましいようですが…本当のブルームーンの意味を御存知ですか?」
「ブルームーンの意味?…あり得ないこと、稀なことではないの?」
「それはカクテルの方の意味ですね。…自然現象の中にあるブルームーンの本当の意味は『ひと月の中に二度起こる満月』のことを言います。」
「…要は、二回満月が起こる…ということ?」
「そう。二回も満月が起きることって本当に滅多にない、貴重なことです。それともう一つ、ブルームーンは幸せの兆しともいわれるんです。」
「…幸せの兆し…?」
「…私がお客様の話を聞いていて思ったのは、あなたは女性の気持ちと男性の気持ち、両方が分かるということ。…それって実は、とても素敵なことだと思いませんか?私はうらやましく思います。女性と男性の気持ちを併せ持つ…それが、お客様自身なのでしょう?」
「僕自身…か。…僕は、僕の中に眠る女性の部分を認めようとしなかった。…認めることで、自分が人と違うということを知ることが恐ろしかったんだ。目を伏せて、耳をふさぐことで自分を無理やり正当化しようとしていた。」
彼はそう言うと、ほっとしたようにほほ笑んだ。…先ほどの意地の悪そうなほほえみとは比べ物にならないほど、やさしい笑顔。
「ありがとう。お姉さん。…バーテンダーさん、もう一杯、ブルー・ムーンを頂けますか?」
「かしこまりました。」
その時、午前零時を知らせる掛け時計の音が響く。…本当なら彼が帰る時間。シンデレラの魔法が解ける時間。
でも、今日は彼は帰らなくて済みそうだ。だって、白い服のシンデレラの魔法は解けたのだから。
「そういえば、桐生さん。ブルームーンのもう一つの意味を知ってる?」
客が帰った後、にやにやしながら春十がこちらに近づいてきた。
「…何。何を言いたいの?あのほかにも意味があるの?」
「そう。あり得ないもの、稀なこと、出来ない相談。そしてもう一つ。」
もったいぶって春十が言うと、なぜか慧まで近づいてきた。
「「お嫁に行き遅れる。でしょ?」」
あり得ないこと、稀なこと…だからお嫁にいけない。
唖然として立ち尽くすと、見ればカウンターの方で秀晴さんも顔を手で覆って明らかに笑いをこらえている。
「ちょっと!!!秀晴さんまで笑うことないでしょ?!こら!慧、春!!待ちなさいよ!!!掃除していけ!!!」
私の声は、多分店の外まで響いたはず。
フンだ。結婚がすべてじゃないわよ!
集めたごみを袋に思い切り不満を押し込んで、走り回る男二人に投げ飛ばす。
「あんまり笑いすぎるとバレンタインのチョコあげないよ!!」
「!」「まじ?!チョコ?!!」
あれ?思った以上に反応が大きい。
「わー!!真月ちゃんおれ謝ります!!マジすいませんでした!!」
「言いすぎました。」
まるで掌を返したように二人が謝り出す。…確かに。この世に住まう男性すべてがチョコを貰えるわけではないだろう。意外なほど喜んでくれた二人を見て、なんだか怒る気もうせてしまった。
「…はぁ。まあいいや。はい、チョコ。これは春十、これは慧ね。で、こっちは秀晴さん。三人とも一応手作りだよ。いつもお世話になってるし、それにこれからもよろしく、ってことで。」
「やったーー!!これがジャパニーズバレンタインかぁ♪」
「頂きます。」
「真月さん、ありがとうございます!」
深ぶかと頭を下げる春十に、飛び跳ねて喜ぶ慧。それにとびきりの笑顔を向けてれくれた秀晴さん。三人は三者三様に喜んでくれたらしい。
はあ…なんだか無邪気に喜ぶ三人の様子で先ほどのことは水に流すことにしようか。だって仕事に生きる女性ってかっこいいじゃない?!
空を見上げると、今日は満月だった。綺麗な白い、丸い月だった。
― 彼が彼女に出会うとき~ブルーム―ン~ ―
END
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都会の片隅にひっそりと建つ「Bar White crow」。そこは、果たせなかった願いや約束を導く不思議な店。今夜のお客様は、二つの心を持つ男性だった。