それは彼女にとって生まれて初めての衝撃であり、痛みであった。
「はがっ!?」
夕食に大きくて熱々の海老の天ぷらを食べている最中、至福の瞬間に不意に訪れた突然の激痛。
イカ娘は目を大きく開いて右頬に手を当てた。
その様子に相沢家の面々はみんなイカ娘に視線を向けた。
「おい、急にどうしたんだイカ娘?」
イカ娘はしかめるような表情を作る。
「よく分からないでゲソ。なんだかちょっと歯が痛いでゲソ」
その答えに、栄子は安心と呆れの混じった表情を浮かべた。
「虫歯か」
「虫歯?」
頬を手で押さえながら、イカ娘は疑問符を浮かべた。
「虫歯っていうのはね、歯が口の中のバイ菌にやられてボロボロになっていく病気のことだよイカ姉ちゃん」
たけるの答えに、イカ娘は不安げな表情を浮かべた。
「嫌な痛みでゲソ。……でも、そのうち治るでゲソね?」
イカ娘の問いかけに、相沢家の誰もが首を横に振った。
その様子を見て、イカ娘は冷や汗を流した。
「イカ姉ちゃん。虫歯はね、放っておくと絶対に治らない病気なんだ。そのままずっとどんどん悪くなって、どんどん痛くなっていくんだよ」
こんな痛みがず~っと続く? それどころかもっと痛くなる? しかも治らない?
「じょ……冗談でゲソよね?」
恐る恐る訊ねてみるが、誰も答えない。
みんな、沈痛な面持ちを浮かべるのみだった。
「イカ娘ちゃん。たけるの言ったことは本当よ。虫歯は最悪、死に至る恐い病気なの」
「死っ!?」
「そうよ。歯の奥の神経や血管にバイ菌が潜り込んで、全身を侵していくの」
千鶴の言葉に、イカ娘は絶望と恐怖に染まった表情を浮かべて震えた。
栄子は遠い目を浮かべた。
「イカ娘。可哀想にな」
「…………栄子?」
栄子が重い溜息を吐くのを見て、イカ娘は自分の運命を悟ってしまう。ああ、これで本当に……自分に残された命は後僅かなのだと。
イカ娘の目から涙が零れた。箸を置いて、歯を食いしばって俯く。
「……そうでゲソか。私は……もう、ここまで何でゲソね。地上の侵略も道半ばで……倒れるなんて…………悔しいでゲソ。エビも……もっともっと食べたかったでゲソ。……うっ……ひっく……うぅ……」
死を覚悟してもまだエビか、というか侵略って道半ばどころか始まっていないようなものだろ? と栄子は心の中でツッコミを入れた。その表情も一目見れば何を考えているか丸分かりなのだが、俯いたイカ娘からは見えない。
「イカ姉ちゃん。そんな……泣かなくてもいいよ。歯医者に行けばちゃんと治るんだから」
「……え?」
涙を流しながら、イカ娘は顔を上げてたけるに視線を向けた。
そんなイカ娘に、千鶴は苦笑いを浮かべる。
「なんだか驚かせちゃったみたいね。大丈夫よイカ娘ちゃん。確かに虫歯を放置しておいたら絶対に治らないし死ぬこともある病気だけど、直ぐに歯医者に行けば治るわ。明日にでも行きましょう」
「そうだよ。だから安心しろ、イカ娘」
死ななくてもいい? 直ぐに治せる? その言葉に安心して、イカ娘の体から力が抜けた。
「……よ、よかったでゲソ。これでまだまだエビが食べられるでゲソ」
「お前……この期に及んでもまだエビかよ」
流石に今度は黙っていられず、栄子はツッコミを漏らした。
「う、うるさいでゲソ。だいたい、栄子が悪いのでゲソ。そんなに深刻な表情で哀れむようなことを言うから、勘違いしたのでゲソ」
「お前が早とちりしただけだろ? あれは歯医者に行く羽目になって可哀想になっていう意味だ。たけるだって、さっき『放っておいたら』って言っていただろうが?」
しかし、それで納得するつもりは無いのか、イカ娘はむくれた。
「というか、イカ娘? お前ちゃんと歯磨きはしていたよな?」
「歯磨き? していたでゲソ。それがどうかしたのでゲソ?」
「イカ姉ちゃん。歯磨きは歯を綺麗にして虫歯を防ぐためにしているんだよ?」
「そうだったのでゲソか。テレビのCMとかで、歯を綺麗にしているのは知っていたでゲソが、虫歯はよく知らなかったでゲソ。海ではそんな話、聞いたこと無かったでゲソ」
「確かに、海で生活しているとそういう話は聞かなさそうねえ。野生動物が虫歯になったって話もあまり聞かないわ」
栄子も千鶴に相槌を打った。
「なあイカ娘? お前さ、最近は地上に来てからどんなお菓子を食べていたんだ?」
「お菓子でゲソか? え~と、ケーキにチョコレートにクッキーに……あと、ガムと飴と……」
「見事に甘い物ばかりね」
「動物園の動物にお菓子をあげると虫歯になるっていうけど、何だかそういう話みたいだね」
「それは虫歯になっても不思議じゃないなあ」
納得だと、栄子は頷いた。
「まあ、姉貴も言ったけど明日まで我慢しろ。明日になったら歯医者に行って治せばいいさ」
「そうでゲソね」
今日一日の我慢なら何とかなりそうだと、イカ娘は頷いた。
少しだけエビの天ぷらの美味しさが戻ってきた気がした。
その翌日。
こんな痛いのはごめんだと早速イカ娘は千鶴に付き添われて歯医者に来たのだが。
「な、何なのでゲソここは?」
イカ娘は得体の知れない恐怖感に冷や汗を流した。
院内の内装は薄いベージュを基調とした明るく清潔感のある雰囲気ではある。イカ娘の他にも数人の患者が待合室にいるのだが、その誰もが沈痛な面持ちをしている。親に付き添われてきている子供に至っては、涙を浮かべ、これから死刑台に昇っていくのかどうかという表情であった。
妙に鼻につく独特な匂いが落ち着かない。そして、診察室がある扉の向こうから聞こえてくる甲高い異音。あれはいったい何の音だろうか?
診察室の扉が開く。
お大事にという医者の声と共に、その奥からまるでプロレスラーか何かのような大柄の男が出てきた。
その表情に、ごくりとイカ娘は唾を飲んだ。
男の瞳から光は失せ、地獄の死闘をくぐり抜けてきたかのような、そんな憔悴しきった表情を浮かべている。
「ち……千鶴? や、やっぱり別の日にしなイカ?」
「イカ娘ちゃん?」
ひぃっ、とイカ娘は小さく悲鳴を上げた。
「イカ娘ちゃんは死にたいの? エビ……食べたいんでしょ?」
開眼してそう言ってくる千鶴に、イカ娘は首を横に振る。
(ここで逃げ出したら、虫歯より先に千鶴に殺されるでゲソ)
どのみち、治さないという選択肢はないのだ。
「イカ娘さ~ん、こちらにどうぞ」
看護士の声に、イカ娘はびくりと震えた。
覚悟を決めるしかない。
イカ娘は悲壮な表情を浮かべ、診察室の中へと入っていった。ドナドナが頭の中で演奏されている気がした。
歯医者に促され、緊張しながらイカ娘は診療台の上で横になる。
「はい、じゃあ口を大きく開けて」
「こ……こおでげふぉか?」
口を開けたイカ娘の口の中に、歯医者が鏡を入れて様子を見てみる。
「ふぅむ……虫歯は……どうやら一本だけのようだね。この様子ならまだ軽度ですから、直ぐに治せますよ。早く来てよかったねえ。はい、じゃあうがいして」
イカ娘の口から鏡が取り出される。
診療台が折れ曲がってイカ娘の体を起こし、イカ娘は診療台の脇に置かれた紙コップの水でうがいをした。
取り敢えず、直ぐに治せるという言葉を歯医者から聞くことが出来て、イカ娘は安心した。
再び診療台が倒される。
「……さて……と」
イカ娘はぎょっと表情を引きつらせた。
視線が歯医者の手の先から離せない。
「そ、それは何でゲソ?」
歯医者はまさか知らないのかと、小首を傾げた。
「虫歯を削るドリルだよ?」
「まさかっ!? 虫歯をそれで削るつもりなのでゲソか? そんなことをしたら痛いじゃなイカ!?」
「……まあ、そうだねえ。ちょっと痛むかなあ。ああ、痛かったら『痛い」って言うか、左手を挙げてね。これが終わったら樹脂を入れて固めます」
どうやらこれが一般的な虫歯の治療法らしい。昨晩に栄子が『可哀想に』と言っていた意味をイカ娘は理解した。
「はい、それじゃあお口開けてー」
平然と言い放ってくる歯医者に、イカ娘は泣きたくなった。
きゅいいいいいいいいいぃぃぃぃぃんっ! とドリルが甲高い音を立ててイカ娘の口に迫ってくる。
イカ娘は声も無く悲鳴を上げた。
「お大事に」という言葉を背に、イカ娘達は歯医者を後にした。
本当にどうしても我慢出来ないということも無かったが、やはりドリルで歯を削られるのは痛かった。
確かに虫歯の痛みが無くなったのは、有り難いことだが……。
右の頬に手を当てる。
「もう絶対に虫歯になんかならないでゲソ。歯医者なんか行かないでゲソ」
今度からはお菓子を食べた後も歯磨きをしようとイカ娘は誓った。
「ええ、そうねイカ娘ちゃん?」
「千鶴?」
千鶴の声に不穏な物が混じっているのを感じ取り、イカ娘はびくりと体を震わせる。
振り返って千鶴を見ると、笑顔が恐かった。
「イカ娘ちゃんは保険が無いから治療費が結構掛かっちゃったの。悪いけど、バイト代から引いておくわね」
歯医者の治療費は意外と高い。保険が効かなければ尚更だ。
千鶴の言葉に、イカ娘はがっくりと項垂れる。
「もう、二度と虫歯は嫌でゲソ~~~~っ!!」
イカ娘の目から滝のように涙が流れた。
―END―
Tweet |
|
|
3
|
1
|
追加するフォルダを選択
イカ娘二次創作
イカ娘が虫歯になったようです
虫歯って嫌ですよねえ。歯医者さんには感謝しつつも、苦手な人は多いだろうなあなどと思いながら書きました
歯は大切ですね、本当に