曹家を後にしてから数日が過ぎた。行く当てなど当然なく、路銀を稼ぐため賊の討伐などを邑から請け負って生きながらえている。最近ではその成果が大陸に広まり続けているのか、邑側もすんなりとこちらを受け入れてくれる。当初は姓も名も字も捨て、真名も封印したことで邪見にされてきた。偽名として陰(いん)と名乗ったが、自分ながら陰険な名前だと思う。だけどそれが自分だと思った。
賊の討伐を終えて手にした路銀を数えながら邑の飲茶の店へと向かった。
「いらっしゃいませ、ご注文は?」
「炒飯とラーメンをください」
久々の食事にありつけることもあって二品頼んだ。普段は一品と決めており、それは路銀の節約の為だ。今回のいつもより少し多めだったので自分へのご褒美。欲求に歯止めが利かないことは身の破滅を招く結果となりえるが、今回だけは見逃してほしい。
炒飯とラーメンがテーブルの上に並べられた。懐から木箱を取り出し自分専用の箸を取り出す。養子とはいえ裕福な家の子供とか、そういった見せびらかせではない。この箸は自作だ。曹家に身を置いていても周りの生活品は自ら用意しなければならなかった。箸も器も食料も飲料も、すべては自家製であり、自分で調達したものだ。確かに不自由ではあったが、この日のことを考えたら感謝するべきか。
「……それで貴方は何をしているんですか?」
過去に振り返っている間に、前の席に腰を下ろしてラーメンをすすっている人間がいた。頭まですっぽりとフードを被っていて性別は分からない。
「見ての通りラーメンを食べているのじゃ」
「俺のラーメンですけど」
「お前の物は私の物。私の物はお前の物じゃ」
某キャラの言葉を微妙に変換して伝えてきた。それとこいつは女だ。それも若い。ただ性格は完全に歪んでいると思われる。
「金は払えよ」
「曹家の長子のくせに小さいの」
「っ!」
愛刀の鞘から剣を抜き、女の首筋に添えた。許昌を後にして一度も口にしていない情報。許昌から流されたとも思えない。
(……いや、否定はできないか)
重臣たちは俺が邪魔でしかない。脅威云々とかではなく、ただ邪魔でしかないのだ。
「短気かと思ったが、頭は常に冷静を保つ。想像していより利口のようじゃな」
酷く嬉しそうに笑みを浮かべて女は言った。
太公望――女はそう名乗った。大陸に伝わる仙人の一人だ。そんな人物がなぜ俺の前に現れてラーメンを食べているのだろうか?
「お腹がへっているからに決まっているじゃろ」
「後ろにある釣竿で魚を釣ればいいだろう」
「……ふむ、お主この釣竿が見えるているのか?」
こいつは何を言っている?
「この釣竿はのう特殊でのう……実は」
太公望は俺の耳元に近づくと、小声で囁くかと思いきや、俺の目に手を添えてきた。
「な、何を!?」
目が熱く焼けていく感覚に襲われていく。
「少し痛むと思うが、少しの我慢じゃ」
灼熱の熱さと痛みから解放されたのは一刻ほどしてだった。感覚がおかしく、まるで自分の目ではない違和感を覚える。
「太公望、何をした?」
首筋に添えていた剣を引こうとした瞬間、
「お主に力を与えた。いや、潜在能力を開花させたというべきか」
説明してきた理由にその手を止めた。
「潜在能力? 秘められた力というあの潜在能力のことか?」
「そうじゃ。この釣竿はのう潜在能力が秘められている人間だけが目にできる。その秘められた力が強大であれば鮮明にのう。お主はこれを釣竿だと淀むことなく言い切った。つまり強大な潜在能力を秘めているということじゃ」
にわかに信じられない話だが、眼前にいるのは仙人の太公望。仙術の類と考えれば納得はできる。それに先から体の奥底から込み上げてくる力を感じているのは事実。今なら一国を落とすのも容易いかもしれない。
「さすがに無理じゃろう、それは」
「人の心を勝手に読むな、とはいえ、感謝する」
「感謝するのは私のほうじゃ。ようやく私を使役できる主に出会えたのじゃ」
「はい?」
「私はのう欲がないのじゃ。故にこの地を平和に導きたくても、それに執着できない。だから主を探していたのじゃが、半端な人間に従えても意味はない。そこでこの釣竿じゃ。この釣竿を見ることができれば乱世を生き抜く可能性が高いということに比例する。後はその者を調教……王道へと導けばよいのじゃ」
調教という言葉を耳にしたが、あえて流させていただく。
「そのおめがねに俺がかかったわけか」
日に日に大陸は乱世に飲み込まれていっている。黄巾賊の脅威も今の漢王朝では手に余る存在となりつつもあった。
「近々に漢王朝が結成する連合軍と黄巾賊の決戦あるじゃろう。お主にはその後が見えているのではないか?」
群雄割拠の時代が待っているはず。時代の流れと臭いを嗅ぎつけたら誰もが気づくはず絶対の未来。
「悪くないか。俺は特殊だが、この世界には悲しみに包まれた陰なる存在がたくさんいる。俺が一蹴しよう。太公望、俺についてくるか?」
「もちろんじゃ、主。我が名は太公望。真名を聖(ひじり)と申す」
「俺には姓も名も字もない。今は陰と名乗っている。だが真名は捨てていない。翡翠、それが俺の真名だ」
お互いの真名を交換して俺たちは一つの契りを交わした。それは掟ともいえる契り。
『裏切るな』
それが交わされた契りだった。
「主、そろそろこの剣をどけてくれないかの?」
「ラーメン代を払えばな」
互いに笑い声が店内に広がった。
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許昌を後にした翡翠は姓も字も名も捨てて戦地に身を委ねる。