[注] 三浦:高校一年生、下條:瑞穂バスケ部監督…でお送りします。
# カメラ・ルシダ camera lucida
an Eternal Golden Braid
マンションの地下駐車場へ格納された下條の車から降りる三浦。
通い慣れたこの部屋へ、この日もまた足を運ぶ。
——なにかを必死で埋めようとするかの如く。
この頃になると、このような事はほぼ毎日で、数日間自宅に戻らない事も当たり前となっていた。
職を持つ母と子、二人暮らしの生活で、キャリアウーマンの母親とは元々生活時間も異なり、同じ屋根の下に暮らしていても顔を会わす事は稀だ。
そんな状況も手伝い、制限される事の少ない三浦は自然と居心地の良い方へと流れる事となり、今に至る。
少しずつ持ち込んだ三浦の私物も今ではそれなりの量となり、また、いつの間にかそれらの物はこの部屋に馴染み、益々三浦にとって居心地の良い場所となっていた。
最低でも週に三日は下條宅から学校に通う——そのような生活を送っている。
三浦はリビングに入るなり荷物を置いて、必要な物を持ちクロゼットルームで部屋着に着替え、ランドリールームで洗濯物を洗乾機に放り込む—— 一連の行動は既に手慣れたものだった。
キッチンの冷蔵庫から三浦お気に入りの輸入物の天然性発泡水を取り出しリビングへ。
ソファに座り、一息吐いてから
「おいおい、何だ、宿題か?」
三浦同様、スーツから着替えた下條はテーブルに広げられたそれらを見て声を掛けた。
リラックスウェアの下條は年相応かそれよりも若く見える。
高校生とは言えども半年前はまだ中学生だった三浦からすると下條は「社会人」で「大人」で自分たち学生とは別の生き物のように感じるが、彼もこの時はまだ二十代なのだ。
二十代前半と後半では往々にして違いはあるし下條は後者であり、数年で三十路に分け入るがそれでもまだ二十代——中年からみるとまだまだ青二才の若者なのだ。
「見ての通り。誰かの所為で今日ずっと眠かったんですよねぇ。だから授業聞くのが精一杯で内職できなかったんですけど、」
その原因の張本人へ三浦はじろり、と視線を向ける。
色気を孕んだその流し目が、相手を虜にするという事に本人は気付いていない。
「ああ……それは、すまなかったな。じゃあ、今日はお前が食べたいものを作ってやろうか?何が良い?」
下條は、悪いとは露ほども思わぬ口調で謝った。
「……特に無いかな、いつも通りで良いですよ別に」
「お前なぁ……。本当に困った奴だな。わかった、今日は麺じゃなく米な。絶対食えよ」
いつも通りの返答に下條は呆れ果て、オーバーアクション気味に首を振るとそのままキッチンへと姿を消した。
「ボリュームは抑えて下さいねー、」
普段通り食欲が無く、米類が得意ではない三浦はリビングとは壁で仕切られているだけのキッチンへ向かって念のために注文を付け足した。
食の細い三浦は空腹を覚える事も然程なく、食に対する執着も希薄で「食事」という行為は単なる生命維持の為のものでしかなかった。不味いものよりは美味しいものを食べる方が増しだとは思うが特に美食というわけでもなく、味には無頓着な方である。
自宅では母親が時間的に余裕のある時は食事を用意して仕事に出掛けるので、その時は手を付けないのも悪いと思い食べるが「時間がなくて作れないから自分で用意して欲しい」という旨のメモ書きが残されていた時は、食欲の赴くまま殆ど何も食す事無く過ごす。
下條の家に入り浸るようになってからは、大変だろうから食事を用意しなくてもいい、と母親に伝える事でさり気なく無駄になる食事の供給を止めた。
三浦的には食欲が出た時に食べられれば良いと考えているが、「発育が良くない」「栄養素が足りてない」「育ち盛りは食べろ」などと下條は煩いほど説教し、結果、三浦は強引に食事を摂らされる羽目になっていた。
初めの方こそ、個人の意志の自由だと抵抗していたが、しかし下條の言う事は悉く筋が通っているのも確かであり、逆らうだけ面倒だと感じた三浦は大人しく従うようになる。
「出来たぞ、」
宿題を終えた頃にタイミング良く、用意が出来たからダイニングへ来いと下條からお呼びが掛かる。
「はぁーい、」
テーブルに広げた教科書とノートを手早く閉じ揃え片隅に置き、ダイニングへ移動した。
「チーズリゾットなら食えるだろ?文句は受け付けないからな、」
「味付いてるのは平気だから大丈夫。いただきまーす」
「……ほんっとにお前は世話が焼けるよな、」
食べ始める三浦を眺めて溜息交じりに下條は言い、口調とは裏腹に満足げな表情を浮かべた。
「だからさ、そんなに見られると食べ難いって。見てないで先生も早く食べたら?」
「人の観賞についてとやかく言われたくないな。俺は楽しんでるんだから気にするな」
毎度の事だが、下條宅で食事をする時も外食する時も常に下條は食事をする三浦を目を細めて満足げに見つめる。一方、三浦はその視線が気になり食べ難い。何度もそう訴えるが何が楽しいのか下條に
「ま、いーけどね……。ところで、先生ってナニゲに料理上手?」
「上手かどうかは分からんが……大学の頃、一時期ハマってたな」
「どーりで……微妙に本格的なんだ。ねぇ今度、なんか簡単なの教えて?この前の和え物パスタとかいいな、あれ美味しかったし」
「三浦、まさかお前、料理出来るのか?」
この年代で料理に興味を持ち、且つ実践するのは、いい大人でも料理が出来ない人間が多い昨今にしては非常に珍しいなと思う反面、この手の顔は料理が出来ないという偏見を持ち、素の三浦を知る下條は彼が料理をするとは信じられないといったように大袈裟に驚く。
「失礼な。ウチは母親が働いてるから時々は自分で料理するんです。……て言ってもよっぽどお腹空いた時じゃないと自分でわざわざ作らないですけどね」
「あぁ……そうだろうな、お前、此処でもそうだもんな。ちゃんと食えって言ってるのに」
「だから用意してくれた分は、ちゃんと食べてるでしょう?」
「はいはい、そうでした。三浦君は偉い子ですね、」
「……なんかバカにされてる感じ……」
「ほう、分かったのか、なかなか賢いな。……てのは冗談で、次来た時に教えてやるよ。簡単だから教えるってほどのものじゃないけどな」
見る間に拗ねた表情に変わる三浦を、もっと
学校での三浦は同世代の生徒達よりも考え方や態度が大人びているが、ある一定の距離を越えると顕れる部分の彼は年相応の少年らしい素顔を持っている。
そういった表情を自然と下條の前で見せるようになり、
「うん、じゃあ今度教えて下さい」
そう言うと三浦は再び食べ始める。
三浦よりも料理の量が多い下條が食事を終える頃に、やっと三浦も食事を終え「ごちそうさま、」と律義に手を合わせ、下條の食器諸共、食洗機に投入する。
食後はリビングのソファで思い思いに二人は寛ぐ。
大抵、下條は晩酌をしながら、三浦はお気に入りの発泡性のミネラルウォーターを口にしながらデジタルチャンネルで止めどなく放映されている映画を見るとも無しに見る。
いつの頃からか三浦は、ソファに座る下條に凭れ掛かるか膝に頭を預け寛ぐようになっていた。
潔癖じみた所がある三浦が相当心を許している表れであるが本人はその事には最後まで気付かない。
「そう言えば……今日、授業の余談でエピメニデスとかゼノンのパラドクスの話を聞いたんだけど、」
下條の膝に頭を預ける形で横になりながら三浦は思い出したかのように言った。
「"クレタ人の嘘(つきパラドクス)"、とか"アキレスと亀"、辺りか?」
「そうそう……昔の人って面白い事考えるよね。ていうか、考えると深みにハマっちゃってさ、もっと知りたくなったっていうか」
「自己言及の事を?」
「うん、"次の文章は誤りである。"、"前の文章は正しいです。"、とかね。単品では何ら問題無いものなのに、ふたつ並べると矛盾が出てきちゃうなんて、不思議だなって」
「不思議の環の矛盾を失くす為に言語の階層化を図ってメタ言語やメタ—メタ言語を持ってきたり……人間て大変だよな」
下條は三浦の頭に手を置き、その髪の毛の柔らかな手触りを楽しむかのように手で梳くように撫でる。
下條にそうされるのが好きな三浦は黙ってされるがままに委ね、言葉を続ける。
「で、その時、高屋敷先生がチラっとこの本を読むと面白いって言ってたんだけど……なんか三人のヒトの名前がタイトルになってるやつ、」
「ん?あぁ……"ゲーデル,エッシャー,バッハ"、か?俗にGEBって呼ばれてる、」
「そうそう、それ。よく知ってますね」
「悉く失礼な奴だな……俺も曲がりなりに数学科の教員免許持ってるんだぞ。理工学部数学科卒を舐めるな、」
「へぇ、そーなんだ?確かに……メガネのあたりは雰囲気出してると思うけど」
「なんだそれ、メガネに対する偏見か?喧嘩なら買うぞ。……ていうか、GEB読みたいなら貸してやってもいいぞ?」
「え!?先生、持ってるの?読みたい読みたい、」
「確か書斎の手前側にあったはず……持って来てやるから待ってろ、」
そう言うと、膝に頭を預ける三浦を優しく抱き起こし、下條は書斎へと消える。
「ほら、これだ。重いから気をつけろよ」
程なく書斎から目的の書物を抱えて戻り、注意を促しながら三浦に手渡す。
「うわ、こんなに分厚いの?重た!ここで読み切ってくのは無理そうだね……」
手渡されたそれは菊判の大きさで厚みは優に5cm以上はある代物で、ちょっとした辞典よりも重厚だった。
「そうだろうな。貸してやるから好きなペースで読むといい。自己言及をテーマにしてるが、なかなか面白い内容だぞ。特にその三人の事を知ってたら著者の言わんとするところの理解がもっと深まるな」
「ゲーデルは不完全性定理?だっけ?それくらいしか知らないけど、バッハとエッシャーは、好きだから一応それなりに作品には触れてます」
「それなら上出来だな。この三人は数学・音楽・美術の違った視点から本質的に同じ事——上昇する無限の環……著者は不思議の環と表現——を表現していて、それは即ち……て、これ以上言ったら詰まらなくなるからやめとくか」
「あんまりネタバレはね……、でも読むの楽しみかも。ありがとうございます。……てゆうか、もう時間も時間だし、ベッドで寝ながら読んでも良い?てことで僕、もう寝るかな」
三浦は外装とカバーを外し、ロウテーブルの上に丁寧に置き、パラパラと頁を
下條は、ひとり晩酌を続け、放映されている映画を最後まで視聴してから就寝する事にした。
放映が終了した
音を立てないよう静かにドアを開け、寝室に入る。
テーブルランプの灯で、室内はナイトテーブルを中心にぼんやりと明るい。
小さく寝息を立てて眠る三浦がその柔らかな光に照されている。
傍らには眠りに落ちると同時にブックマーカーを挿む間も無く閉じられたらしい本が投げ出されている。
幼い面影を残したその少年の寝顔を見て、下條は優しい笑みを浮かべる。
「まったく……しょうがないヤツだな……、」
何処まで読んだのか分からなく閉じられてしまった本をナイトテーブルの上に乗せ、下條は三浦の傍らの自分が眠る定位置に横たわった。
難なく二人で眠る事が出来るクイーンズサイズのベッドをシェアする事で落ち着き、結局は三浦の為に客室を片付ける事も客用の寝具を用意する事もなく現在に至る。
現役を引退し日本へと帰国してからは生理現象を解消する為だけに利害が一致した女性達を相手に淡々と性欲処理をする詰まらない日々に飽きていたところへ、偶然なのか必然なのか成り行きで三浦を自宅に収容する出来事が起こった。
頭の片隅で鳴る警鐘を無視して、退屈な時間を有意義に過ごす事を思い付いた下條はそれを実行し三浦の意図は知らないが彼もそれに乗ってきたのだ。
暇潰しの他愛の無い遊戯のつもりが下條も気付かぬうちに愛玩動物を慈しむかのような気持ちに変化し、本来、愛玩動物を飼うのは厄介事以外の何物でもないという信条の下條が、三浦と過ごす日常の端々で過去に抱いた事のない感情が芽生え、ペットを飼う人間の心理を理解するまでに至った。
今までの人生で他人にこれほど興味を持った事は無い。
静物や生物に関係なく美しいものが好みであり、細くしなやかな体躯と中性的な風貌を兼ね備えた三浦は下條が好きな黄金比を持った彫刻を体現したかのような少年で、下條が瑞穂バスケ部で必要とする選手の規格からは大きく外れてはいるものの個人的な印象はそれほど悪くはなかった。
かと言って初めから特別な存在だったかと言えばそうではなかった。
教員持ち回りの校内巡回での度重なる邂逅で三浦は見た目以上に問題児だと認識を改める事はあれど、教育にも職務にもそれほど情熱をかけず、悪く言えばやっつけ仕事でこなす彼にとって職務を速やかに終了出来ない原因であった三浦は厄介事の類いでしかなかった。
必然としか思えない、あの場の見えない力に誘導されたのをきっかけに三浦と関係を持ち、今では四六時中彼の存在が頭の片隅に巣食うまでになり、このまま突き進んで行けば狂気に向かうしかないような感覚を漠然と察知するが、敢えて考えないようにしている。
三浦はどう考えているのか知るところではないが下條としては、まだ暫くはこの状態を維持して楽しむつもりである。
此処を一種の避難場所のように捉えている節のある三浦も、恐らくこの状況を壊そうとは考えていないであろう。
これから夜が明けて、いつもの朝の風景が繰り返される事を今の二人は疑いもしない。
「おやすみ、」
下條は、無防備に眠る三浦の頬に軽く接吻をし、自らも眠りに就いた。
この日、三浦が借りた本は当分持ち主に戻る事は無いのだが、永遠に返却されないままなのか最終的にどうなるかは不確定性原理が作用する現時点ではあらゆる可能性があり、どの未来が訪れるのか断言する事はまだ出来ない。
END.
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2008.4
カメラ・ルシダ シリーズ第一話目。
他の薫蘭妄想文はサイトにて閲覧出来ます。
薫蘭の詳細は本編のカメラ・オブスキュラ(at 地下室)をお読み下さい。
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DEAR BOYS:薫蘭(下條×蘭丸)
三浦→高校1年、下條→瑞穂監督時代の妄想文