No.19940

VAMPIRE ViRUS

少し古い作品です。ハードボイルドアクション。
主人公、クレアは軍が極秘に開発を行った、人体強化ウィルス「ヴァンパイア・ウィルス」に感染し、症状は現れていなかったが、軍を退役した。
故郷の町で同じ感染者である少女エレンと出会い、暮らし始めるが、そこへ元上官であり元恋人であるリヒャルトが現れ、クレアを殺しに来たと告げる……

2008-07-18 15:28:42 投稿 / 全8ページ    総閲覧数:708   閲覧ユーザー数:638

 
 

 干からびた灰色の谷間の底を女が走る。黒い髪とコートを揺らしながらかなりの速さで疾走していたが、その動き乱れはなかった。

 女……クレア・クラインシュタットはT字路に差し掛かり、そこで立ち止まった。風雨に晒された古いコンクリートビルの壁に背を当てて奥をうかがう。

 そこに明らかに人の気配がする。彼女は腰のホルスターから銃を抜いた。

 黒光りするそれは、わずかに少女の面影を残した短い髪の彼女にはやや不釣合いだったが、それを抜く仕草からセーフティをはずすまでの動作は実に鮮やかなものだった。

「こんなところでエレンを独りにしたのは間違いだったな……」

 彼女は独りでもごもごとつぶやいた。

 この街の治安は荒れている。ダウンタウンともなればその色は濃くなる。

 彼女は路地に飛び出すと片手で銃を構えて威嚇した。

「その子をはなせ!」

 なれないセリフだと彼女は思った。任務についていたとき、こんな言葉を吐いたことはなかった。任務の目的は目標の抹殺であり、人質の救出ではなかったからだ。

 だが、今は違った。軍人であったのはもう過去の話だったし、その人質は彼女にとって必ず救出しなければならない存在だった。

 肉親のいない彼女にとってエレンは肉親そのものだった。

「なんだぁ? 獲物が増えやがったぜ?」

 そこには大男がいた。身長は二メートル近い。クレアも背の低いほうではなかったが、それでも見上げるような格好になってしまう。左手一本で抱き上げられたエレンはまるで子供か人形のようだった。

 男の目がぎょろりとクレアを見た。薄暗い路地裏でその目が不気味に紅く輝いている。クレアはそれを見て舌打ちした。

 感染者、なのか……

 クレアは銃を構えて睨み付けた。

「くっくっく……そんなもので俺を殺せると思っているのか?」

 大男は唇をゆがめて笑った。卑小なものでも見るような視線。クレアはそれにわずかに眉をゆがめたが、動じなかった。男は知っているのだ、自分の体が通常の人間のものと変わってしまっていることに。

 クレアはコートの袖に隠してマガジンを装填し直した。

「なら、試してみるか?」

 クレアはエレンを盾にされなかったことを幸運に思い、眼前に仁王立ちする男に向って発砲した。

 銃声が入り組んだ裏路地にこだまする。

 銃弾は狙い過たず、男の額の中心に吸い込まれた。

「ぐあっ」

 男はうめきをあげ、仰向けに倒れる。

 左手に抱えられていたエレンはそこから零れ落ちて、コンクリートに横たわった。眠るように気絶している。クレアはそれを確かめると、油断なく男の様子をうかがった。

 通常なら当然即死の一撃だ。

 と、男の右腕が動いた。クレアは銃を構えなおす。

 男は足を振り上げてその反動で勢い良く立ち上がった。額には確かに銃弾の後がある。だがそれを無視するかのような動きだ。

「くくく……残念だったなぁ! 今の俺はそんなものじゃ死ねなくなってんだよ!」

 男はにやりと笑うとゆっくりとクレアに近づいた。

 クレアは一つ息をつくと、銃を下ろした。

「観念したか? だが痛かったぜ。お仕置きしなきゃな」

 男の腕がクレアに伸びようというその時、男の体が小さくはねた。

「あ?」

 男は硬直したまま、不思議そう自分の体を眺めた。にわかに熱をもった違和感は燃え広がるように彼の体を覆い尽くした。

「ぐうう! なんだこれは」

 体が硬直していく。自由を奪われていく焦りに彼は焼かれた。

「ブレスド・ブレッド。祝福された弾丸の意味を持つ特殊な弾よ……そう、あなた達のようなヴァンパイアを滅ぼすためのね」

 かつて軍人だった頃のクレアの任務はそれだった。ヴァンパイアを滅ぼす銀の弾丸を打ち込んだクレアは悶え倒れた男を見下げた。

「感謝してよね。人として死ねるんだから」

 彼女は祈らなかった。吸血鬼を滅ぼすとはいえ、彼女は聖職者ではなかった。

 男は一声断末魔の叫びを上げた。それが最後だった。

 全身の筋肉を収縮させて丸く小さくなった男を見て、ようやくクレアは肩の力を抜いた。

 一息大きくため息をつくと、アスファルトに横たわった小さな少女の頬を軽く叩いた。「たく、エレン! おきろー、おきなさーい」

 少女に反応があった。クレアはひとまず安心した。

 その時だ。背後五十センチもないもない距離に人の気配を感じた。

 クレアは反射的に体を硬直させた。軍隊で、特に市街地戦の訓練を受けてきた彼女がこうもたやすく接近を許すとは。

 なんてストーキングだ!

 クレアは毒づきながら体を翻して銃を放とうとした。

 だが、先を取られていた彼女はその銃を持った右手首に手刀を当てられ、銃を落としてしまう。

「なっ」

 クレアはこうもたやすくイニシアチブを取られる相手の動きに驚愕した。

 振り向いた彼女はその相手の顔を見てさらに驚くことになうる。

「リヒャルト!」

 それは彼女のかつての上官だった。そしてただの上官と部下の関係でもない存在だった。

「偶然だな、クレア」

 白っぽい金髪の彼は微笑みながら言った。

 クレアはしばらく沈黙して彼を見た。

「偶然? まさか……私を追ってきたのでしょう?」

「そうだ」

 クレアはリヒャルトの真意を見破っていた」

「私はあなたの……」

「そう、かつて愛した女だ」

 リヒャルトは背を向けた。

 クレアは困惑と不安と怒りが入り乱れた顔で彼の背を見つめていた。

 それは二人とも似た表情だった。

 狂暴化した被験者が特に求めたのは人の血だった。そのウィルスはその種の拡大のために、よりしろたる人の意志すら乗っ取ったのではないか。そんな寒からぬ憶測すら研究者達の中に起こった。

 ともかく事態は深刻だった。存在しない病気の特効薬を開発することは難しい。症状が分からなければ薬の調合ができないためだ。つまりこのウィルスに関しての特効薬も開発途中で未完成なままだった。それを担当していたのもマクシミリアンだったとは喜劇の他ならない。

 それが被験者と感染者の中でパニックを引き起こした。

 パニックは彼らの狂暴化を促進し、事態は深刻化した。

 軍上層部はこの一見を極秘裏のうちに消してしまおうとした。彼らを処理し、ウィルスも破棄してしまおうとしたのだ。

 だが、処理中、信じられないことが起きる。二次感染者を中心に、銃弾をうけても倒れない者が発生したのである。肉体の強化と回復力の過剰がそうさせたのだろうか、処理は失敗し、一部の感染者が逃げ出してしまったのである。

 不死性、血を好むこと、狂暴。これらからそれは通称「ヴァンパイア・ウィルス」として一般市民には隠されたまま世に放たれたのである。

 

 クレア・クラインシュタットは元軍人という経歴を持っている。軍人というには彼女の顔は垢抜けなかったし、線も細かったからその経歴を話さなければ、少し人付き合いが苦手そうな学生のような印象を受ける。

 彼女の父は職業軍人で最前線を駆け、そして戦死した人だ。そんな父を追ってか彼女も十六歳で入隊を果たす。もちろんその年齢での入隊にはいろいろあったが、彼女は志願もあってカランダ旧市街の戦線へ投入される。残り三年強、総計五年の戦争だといわれたカランダ紛争だったがアスブルク政府にとっては利益の少ない軍事介入であった。クレアは二年ちょっとの最前線を戦い抜き、故郷へ生還したのである。

 故郷で待ち受けたのは特殊部隊への編入である。若くして激戦地の最前線を生き抜いた実績。射撃の腕前は群を抜いてよかったこと。そしてある男の是非もあったからだった。

 

「ハンター……か」

 アスブルクの特殊部隊の俗称は、わざわざほかの地方の読み方をした。クレアは彼女自身がいた部隊の名をつぶやいた。

 テーブルに置いたコーヒーの湯気が彼女の形のいいあごの先を湿らせている。彼女の視線の先には窓があって、外はきんと晴れ渡っていた。彼女は軍を辞めて半年になっていた。二十歳の誕生日も迎えたばかりだった。

 ちらと視線をテーブルに伸ばす。アンティークなそれに乗っているのはコーヒーの入ったマグカップと手入れの行き届いた銃。軍を辞めるときに私物化したものだ。銃の所持資格と許可は持っていたし、愛着もあった。

 クレアは立ち上がって窓を開けた。この時期のアスブルクの夜は冷える。冷たい空気がさらりとした感触を残して彼女の体をすり抜ける。それが心地よく感じる。

「こいつをこんなに使うことになるとはね」

 独り言を月につぶやく。蒼い月は話し相手になってくれなかったが変わりに背後に気配が流れてきた。

 クレアは振り返る。そこには眠そうな顔をした少女が立っていた。白いパジャマが月明かりに照らされてかすかな青を放っている。かわいらしい少女だった。

「ごめん、寒かった?」

「うん、どうかしたの? クレア」

「え? 私、何か変?」

  クレアは慌てて笑顔を見せた。少女の感受性の高さにクレアは少し驚きを見せた。そう言えば、彼女が軍隊に志願したのも少女と同じような年頃だった。

「なんでもないから……お休み、エレン」

 少女は眠そうに目をこすっていたから、クレアは安心させるかのように微笑みながらやさしく言った。

「うん、おやすみー……あ、窓閉めてね」

 クレアは苦笑いをすると窓を閉めた。

 エレンは満足げに微笑むと、クレアの視線から消えた。ここらだと暗闇で見えないベッドに身を沈めたのだ。

 エレンはクレアと何の血のつながりもない少女だ。

 クレアが軍を辞めてからすぐのころエレンと出会った。エレンは浮浪少女で売春や窃盗で日々を食いつないでいる浮浪少女だった。戦争をしている国なら特に珍しいことではなかった。現にアスブルク市にはエレンのような少年少女が社会問題になっている。

 エレンはクレアが引っ越した安アパートのガレージに住み着いていたのだった。

 クレアはエレンを見て、とんでもないところに引っ越してしまったものだとあきれた。エレンに対してではなく、ここを管理している人間にあきれたのだ。

 だが、クレアは母親を生まれてすぐに亡くし、父も戦死して久しかった。エレンの姿に妙な親近感を抱いて、彼女を自分の部屋に住まわせることにした。エレンはその日、クレアの家族になった。

 エレンの父親も戦場で戦死し、母親はしばらくして男を作って彼女を捨てた。その頃にはエレンはすでに体を売ることと、窃盗の技術を覚えていた。

 エレンは十五才だった。

 そして、エレンはウィルス感染者である。まだ、発病はしていない。だが確実に陽性反応は出ていて、いずれ発病することは明らかだった。

 一方、クレアが所属していた特殊部隊「ハンター」はその名のとおり、ヴァンパイア・ウィルス感染者を狩るための特殊部隊だった。

 エレンがウィルス感染者だと彼女が気づいたのはエレンを家族にした後だった。

 クレアはそれでもいいと思った。もう、家族にしてしまったのだから。

 それに彼女が軍を辞めた理由は彼女も感染者の一人だったからだ。

 ただ、それに気づいている者は彼女の入隊の口利きをし、また特殊部隊「ハンター」にも呼んだ男、リヒャルト・フォン・ジンクマイヤー大尉だけである。

 そして、彼はクレアの恋人だった男でもある。

 二人はコーヒーを頼んだ。

 リヒャルトは煙草に火をつけた。煙が渦を巻いて流れていく。クレアは懐かしさを感じたが、それは危ない感情だと思った。

「ねえ、一本もらえる?」

 リヒャルトは意外そうな顔をして煙草のボックスとライターを差し出した。

「なんだ、持ってないのか?」

「同居人がうるさいから」

 クレアは煙草に火をつけながら答えた。

「同居人って、あの子か。随分変わった恋人じゃないか」

「ふふ、嫉妬した?」

 クレアは煙で遊びながら笑った。過去の感情に流されるほど子供ではなかったし、割り切れるほど大人でもなかった。クレアは自分をそう感じた。

 別れ話を持ち出したのはクレアのほうだった。一方的に別れたといってもいい。リヒャルトがクレアのウィルス感染報告を持ってきたとき、クレアは別れなければいけないと思った。

 リヒャルトはクレアの陰性感染をつぶした。発病すればクレアの身体能力は倍増する。それが暴走すれば脅威となりかねない。もしそれが上層部に知れたらクレアの命はなかった。

「危うい種は蒔いては行けない」

 そのセリフを上層部の軍人から聞いたとき、クレアは心の中で笑った。

 蒔いたのはアンタ達だ。それを偉そうになんだ。

 クレアは出た芽を刈り取る側から刈り取られる側になった。

 リヒャルトが自分のために情報をもみけしてくれたことは純粋にうれしかったが、いつか「この時」が来る事を予感していた。だから、リヒャルトの前から姿を消さなければならなかった。

 なのに、この男はのこのこと私の目の前に! クレアは怒りを覚えたが表情には出さなかった。

「で?」

「ん……ああ」

 コーヒーが運ばれて来た。リヒャルトは角砂糖を二つ、クレアはそれに加えてミルクを入れた。リヒャルトはそれを口に運んだ。いい豆を使っている香りがした。

 クレアはリヒャルトが彼女のことを話したとは思っていない。この場でもそのことは彼自身の口から聞けた。古い彼女の活動記録の中から、それが発覚したのだ。ある感染者を始末した際に、彼女は怪我を負った。怪我自体は大した物ではなかったから特に騒がれなかったが、その時流した血液が感染者の血と混ざって採取されていたのである。その中からDNAを介して彼女の血にウィルスが存在する事が確認されたのだ。ヴァンパイア・ウィルスは一度流れ出た血液には興味を示さない。つまり、それは流血後にウィルスが伝染したのではなく、彼女自身がウィルスを保持していたという事になる。

 彼女がいつどこで感染したかは不明である。

「そりゃ過ぎた事ね。感染したのは事実だし、それが発覚したのも、ね」

 クレアは笑った。もしとか、たらればはいらなかった。軍人に必要なものは正確な現状把握だった。

「あなたがわざわざ姿を見せた事は、ウィルスを撃退する特効薬とかできたわけ?」

 クレアは真剣味に欠けた口調で言った。皮肉ってみせたのである。彼女がいた頃とまだそれほど時間は経っていない。

「いや、現状は君がいた頃と変わっていない」

 リヒャルトがコーヒーカップを降ろした。陶器がふれあう乾いた音がした。

 通常の兵器では重火器でも使わない限り、感染発病者を滅ぼす事は難しい。唯一彼等に対抗する方法は、ウィルスに犯された細胞に拒絶反応を与える薬品を投与する事のみだ。その薬品を詰め込んだ銃弾が通称「ブレスド・ブリッド」と呼ばれる。ハンター達はそれを使って感染者を葬ってきたのだ。

 ブレスド・ブリッドを血液の集まる場所、心臓や首、頭部などに打ち込む事で、全身にその薬品を循環させる。即効性のあるその薬はウィルスとの拒否反応で感染者の組織を破壊する。

 つまり感染者を処理する方法は「殺す」ことしか見つけ出されていない。

「あなたがここに来たという事は私を殺しに来たという事ね?」

「まあそういうことになるな」

 リヒャルトはもう一本煙草に火をつけた。視線を背けた。

「信じられない。私は、あなたの何?」

 クレアは思う。どういう答えを期待してこの言葉を吐いたのだろう。彼女自身わからない。

「……今は、何でもない」

 リヒャルトは答えた。感情を押し殺した声にも聞こえたが、それはクレアの期待する心がそうさせたのかもしれない。

 クレアは愕然として彼を見つめた。

「君の呼びかけに答えたのは、二つ理由がある」

 リヒャルトはクレアを見つめた。

「一つは、君に全てを知ってもらいたかった事。もう一つは……もう一度君とこういう時間を過ごしたかった事……」

 リヒャルトはしばらくクレアを見つめた後、伝票を持って立ち上がった。クレアはリヒャルトが座っていた場所を見つめたままだった。

「まってよ。まだ、まだわからないことがある」

 リヒャルトは進みかける足を止めた。

「あなたは……あなたは私のことを……」

 声が途切れる。沈黙と周りの雑踏。リヒャルトは視線を逸らしたままのクレアを見つめる。クレアはかつてリヒャルトがいた場所を見つめる。

「愛していたさ。多分、それは今も同じだ」

 リヒャルトは歩き始めた。クレアはそれを見なかった。見る事ができなかった。

 クレアは悔しかった。彼といた時は彼がいつもイニシアチブを握っているような気がしていた。それが穏やかに彼女の幸せと苛立ちを積み重ねていた。

 アスブルク市民の貧富の差は激しい。世界情勢を不安定にさせた二十七年前の世界的な大不況の影響だ。金は金のあるところに集中して流通が滞った。

 それに加えて戦争や紛争、内戦などが度々勃発しては市民の生活は安定しなかった。

 難民や浮浪者が街に溢れている。

 アスルブルクはきらびやかな新市街と、低収入者や浮浪者たちの旧市街と別れている。旧市街は警察の目も完全に行き届いてはおらず、売春や麻薬、時には人身売買まで行われている。「北の魔都」とも呼ばれているこの街は退廃的な雰囲気も持っていた。

 エレンはその街で育った。

 戦死した父親はともかく、母親は親として能力に欠けた人だった。特に夫が死んでからは無気力になる事が多く、幼いエレンを虐待する事もあった。

 夫のわずかな遺族金では二人の生活を支えるには不十分だった。しかし母親は収入を持たず、エレンはしばしば飢える事があった。エレンは自分で自分を養わなければならなかった。

 エレンは働こうかとも思ったが、少女を働かせるまっとうな店はなかった。エレンは生きるために犯罪を犯すしかなかったのである。彼女を被害者か加害者か判断するには価値観というエッセンスが必要になる。

 ともかく、エレンが生きていく手段と方法を見つけ出した頃、母親は男を作って失踪した。

 エレンはそのことに関して悲しみを特に持たなかったが、住む場所を失ってしまった。エレンは浮浪少女として辛苦の道を歩き始めた。

 

 エレンは旧市街に隣接する繁華街を歩いていた。

 はじめ小奇麗だったこの街にも旧市街のにおいが少しずつだが、流れてきているのに彼女は驚いた。

 この街でエレンは昔の仲間に声を掛けられたのである。

「よう、エレン。近頃見ないと思ったら、随分いい格好をしてるじゃないか。金持ちのオヤジにひろわれたかよ?」

 エレンは路地裏に引きずり込まれ、彼等の根城であろう使われていない倉庫の中で囲まれた。

 エレンがクレアと出会う前に仲間だったクレメンスという少年とその仲間達である。浮浪少年達は徒党を組む事が多かった。その一グループだった彼等のナワバリにエレンはいたから、彼等に拠る事も多かったのである。もちろん、その代償を彼等は彼女に要求したし、彼女も答えざるを得なかった。

「ごめん、アンタ達とは……」

「関係ないってか? いい御身分だな、ええ?」

 クレメンスはエレンの髪をつかんですごんだ。エレンは痛みに耐えてクレメンスを見返した。彼は卑猥に笑った。

「抱かれろよ。そしたら許してやってもいいぜ?」

 エレンはクレメンスらに抱かれる事は初めてではなかった。エレンは今彼等を刺激しては駄目だと感じた。だが、彼の腕がエレンのワンピースの袖を乱暴に引っ張ったとき、エレンの瞳に怒りが宿った。

 高価なものではなかった。が、クレアが初めてエレンに買ってくれたものだった。

「いやよ! 離して」

 エレンは爪を立ててクレメンスの腕を振り解いた。クレメンスの腕からうっすらと血がにじんだ。

「エレン、わかってんな?」

 クレメンスが周りの取り巻きに目配せした。息を荒くして立ちすくむエレンを浮浪少年達が取り囲んだ。

「エレン、これからはあんな事絶対にしちゃ駄目だからね」

 クレアの声がエレンの中に響く。エレンにとってクレアの言葉は絶対だった。彼女との約束は守らねばならない第一のものだった。エレンに欠けていた家族というキーワードをクレアは与えてくれた。エレンは家族との約束を守ろうとしたのだ。

 エレンは周りを見た。クレメンスとその仲間が血走った目をしている。エレンは彼等を哀れんだ。

 

 今夜は随分と冷え込んでいる。

 クレアが帰途につくころ、日は地平線に沈んでからずいぶんと時間が経っていた。古いマンションの階段を上がり、部屋の前まで来る。明かりはついていなくてしんと静まり返っていた。

「エレン、出かけてるのかな?」

 クレアは部屋のキーを取り出して、いつものように差し込んだ。違和感がある。

「あれ? 開いてる。エレンのやつったら」

 クレアは毒づきながらもドアを開けようとした。開けようとしてその動きを止める。中に人の気配を嗅ぎ取ったからだ。

 クレアは軽く舌打ちし、銃を構えた。

 リヒャルトと会ったばかりだ、もし彼の部下がここに来ていたとしても驚く事ではない。クレアは慎重に体を室内に滑り込ませ、気配を殺して明かりを点けた。

「エレン!」

 そこにはエレンが椅子の上にひざを抱えるようにして座っていた。肌着一枚の彼女はクレアにもかまわずじっとひざを抱えていた。

「ちょっと、明かりもつけず、ストーブだって……ってか何? あんたボロボロじゃない!」

 クレアは慌ててエレンに駆け寄った。エレンは所々に痣やら擦り傷があった。つややかな白亜麻の髪は乱れたままだ。

「エレン、何があったの? 教えて!」

 クレアはエレンの顔を覗き込んだ。生気を失った目がそれた。

「……乱暴、されたのね?」

 エレンは何も答えなかった。クレアはそれは肯定だと思った。腹の奥底から怒りが込み上げてきた。歯ぎしりの音がエレンにまで伝わった。

「エレン、教えな! 私が行って万倍にして返してやるっ!」

 クレアは立ち上がって吠えた。エレンの反応はなかった。クレアは待ったが、エレンは変わりに部屋の奥を指差した。

 そこには黒いワンピースがあった。袖やすそはもうぼろぼろだった。

 クレアは怪訝そうにそのワンピースを手に取った。

「血? それも大量の……」

 黒いワンピースはその色ゆえに目だなかったが、大量の血液を吸っていた。クレアははじかれたようにエレンを見る。エレンにさほど大きな傷はない。それよりももしこれがエレンの血液なら、ただでは済まない出血量だ。

 クレアは血の気が引く思いがした。

「エレン、まさか……」

 クレアはエレンが発病した事を知った。

「私の中が熱くなって……頭の中が白くなっていって……あいつらを憎いと持ったら、何かがはじけて……気がついたら……」

 エレンは泣いていた。彼女は帰ってからシャワーを浴びた。返り血でひどいありさまだったからだ。全て洗い流したかった。返り血だけでなく、身に起こった全て。その時、彼女は自身の手の爪に入り込んでいた肉片を見て恐怖した。自分の中にいる見えないものに。

「楽しいと思ったんだ。血を見るのはうれしかったんだ。あいつらが泣き叫んで、命乞いをしている。私はそれを踏み潰して……」

 わななくエレンの腕をクレアはつかんだ。そしてその上から暖かく抱きしめた。ヴァンパイア・ウィルスの症状だ。破壊、殺人、攻撃性のあることに快楽を見出すようになる。

「もういいわ……エレン。その場所を教えて。お願いだから」

 クレアはやさしく、やさしく言った。エレンの震えが収まった。少しはましになったろうと、クレアはエレンの顔を見た。ただ、脅えているだけの少女の顔だった。

 エレンは事の起こった場所をクレアに教えた。

 クレアはエレンに服を着せて、部屋を出た。

「いい? 私が戻るまで待っててね」

 そう言い残して。

 現場は幸いなことにまだ誰も手をつけていなかった。

 クレアはその倉庫に忍び込むと凄惨に傷つけられた六人の少年の死体を発見した。頭蓋骨が陥没していたり、内臓を引きずり出されたり、肋骨がめちゃくちゃに折られたりしている。

 傷ついた者が逃げ出した形跡はないように思えた。それが唯一の幸いだと言える。感染者のエレンに傷つけられて、感染しようものなら、その少年も感染者になってしまう。だが、正確な事はわからなかった。

「ま、何人いたか聞くの忘れちゃったからなぁ」

 クレアは頭を掻いた。しかしエレンの事を思うと、心が痛くなる。

 ウィルスの症状は突発的に起こる。普段は普段の彼女のままなのだ。

 クレアは戦場で初めて敵兵を殺したときを思い出した。見ず知らずの敵兵ですら、戦場ですらその死は強烈だった。その震えは今も覚えている。それが、エレンは顔見知りの元仲間だったのである。その恐怖は計り知れない。

 クレアはクルマに戻った。現場にいるところを誰かに見られてもまずかったし、第一エレンを一人にしたのは失敗だった。

 クレアはアクセルを踏んだ。冷え切った空気をエンジンが吸い込んで、甲高いエキゾーストノートを響かせてクルマは発進した。

 クレアはエレンを連れてアスブルクを逃げなければならないと思った。自身の身も追われ、エレンも発病した。アスブルクは危険過ぎる街だった。

 

 クレアはクルマを乱暴に路上に停車した。

 狭い路地を駆け、マンションの階段を軽やかに駆け上がる。急いで自分の部屋の扉を開けたが、扉の向こうはしんとした暗闇で、そこにエレンの気配はなかった。

「エレン……」

 クレアは我に返って舌打ちをする。

 この時、彼女は二つのへまをしていた。

 一つはここまでの行動を誰かに尾行を許した事、もう一つはそれに気づいた事を相手に気づかせた事。

 クレアは動きを止めて相手の出方をうかがった。かすかに物音がした。クレアはその一瞬に前方に転がり込み、ソファの影に身を伏せる。今まで彼女の体が会った場所に着弾があった。

「ハンターか、ちくしょう。リヒャルトもそつがない」

 クレアも腰から銃を抜いてセーフティをはずした。息を殺して相手の気配を探る。まず、敵には何人か、それが知りたかった。それで戦い方が変わるからだ。

 敵は動かなかった。クレアは焦れたが動かなかった。その重苦しい雰囲気に負けるほど、彼女は初心ではなかった。

 空気を切る音がする。その後に金属音が床に落ちた。

 手榴弾? いや……

 クレアはソファの影から動いた。手榴弾など使うはずがなかった。ここは市街地だ。テロリストではない限り、そんなものを使うはずがない。

 フローリングの上にカンのようなものが転がっていた。ガスだ。クレアは体制を低くして出口へと疾走した。銃声が聞こえてクレアの左頬を銃弾がかすめた。大口径の弾丸が通り過ぎたときのめまいのような感触を覚えたが、クレアは怯まなかった。クレアの後方でカンから勢いよく催涙ガスが噴射された。

 クレアはかまわず出口に向けて発砲した。気配が動きクレアは出口を突破しようとした。が、動いた気配はフェイクだった。クレアの頭上から銃底が振り下ろされる。反射的に左手を上げた。それがなければ、一撃で気を失っていたかもしれない。わずかにそれはそれて、クレアの左の側頭部に直撃した。ポイントが外れたおかげで威力と効果は半減し、クレアは軽いめまいだけですんだ。

「このっ!」

 クレアは発砲した。霞んだ目ではそれは標的を捉える事ができなかったが、十分な威嚇になった。クレアはそのまま体をスライドさせ、通路においてあった物置の影に身を潜めた。相手の反撃が地面をかすめていった。

 クレアは鈍く痛む左の額を触った。額が割れて血が流れ出ていた。傷は深くない事を確認したが、衝撃で軽い脳震盪が収まりきれていないのが厄介だった。

「ちきしょ、さっきから女の顔をなんだと思ってんだ」

 小さく毒づくと、機会をうかがった。足に何かが当たった。見ると水の溜まったカンだった。

 使えるな。クレアはとっさに思った。

 クレアは物陰にもたれかかり、尻をついた。相手が微かに見えるように右手をだらりと下げた。もちろん、銃を握っているほうの腕だ。

 相手の気配が近づいてきた。もちろん油断ない足取りだったが、その警戒は右手の銃に集中していた。

 気配が至近に迫ったとき、クレアは持ちうる最速の動きで水の溜まったカンを拾って相手に投げつけた。たいしたコントロールはつかなったが、水を撒き散らしたそれは相手の体勢を崩すには十分だった。

「ぐあっ!?」

 クレアはのけぞった男の足を内側から足で引っかけて払った。

 男は体勢を崩し、背中から崩れ落ちた。クレアはその隙を逃さず、その男に馬乗りになり、左足で相手の右手を封じた。右手は銃を相手の眉間に突きつける。

 男は金髪の若い男だった。

「所属と、名を名乗れ! エレンはどうした?」

 クレアは短く言った。彼女のウェイトは格闘技に有利なものではなかったが、ここまで相手を封じてしまえば特に変わりはなかった。

 男はあきらめて力を抜いた。

「さすがだな、クレア・クラインシュミット」

「私は私の名前くらいは知っている。質問に答えろ」

 所属は予想がついた。

「俺はカイン・シェルスタイン。ジンクマイヤー大尉の部隊の者だ、といえばわかるだろう? エレンって奴は俺は知らんな」

 カインは笑って答えた。クレアの反応に興味があったのだろう。彼は二人の関係を知っていた。だが、クレアは表情一つ変えなかった。

「これはリヒャルトの指示か?」

「……いや、俺の独断専行だ」

「だろうな、私がリヒャルトなら、私をたった一人で襲わせたりはしない」

 決して自信過剰からの発言ではない。リヒャルトはそういう男だ。任務は成功するという確信を持ってから行動に移す。

 クレアはカインの銃を蹴飛ばした。それは開きっぱなしのクレアの部屋の中へ滑って闇へ消えた。

「殺さないのか?」

 カインは疑問に思った。クレアは元軍人だ。人を殺す事にためらいがあるとは思えなかった。

「私はね、軍人でいたときにはそりゃたくさん人を殺したよ。でも、奪うために殺してきたんじゃない。誇りのために戦ったんだ。けど、今は私と私の大切なものが守れればそれで良いと思ってる」

 クレアは銃を向けたまま、カインから離れた。

 カインは身を起こしてひざをついた。

「動くな。私が消えるまで動くな」

 クレアは階段までカインから視線を外さなかった。不穏な動きがあればためらいなく発砲していた。カインもそれを知っていたし、動かなかった。クレアは階段を駆け降りた。

「今日は何て日だ!」

 クレアは人生最悪の日だとかってに決め付けて、さして信じていない神様に毒づいた。

 クレアはクルマに駆け込むと、セルをまわしてエンジンに火を入れた。

 

 クレアはクルマを大通りまで出すとアクセルを全開にした。エンジンの回転数があがって甲高いエギゾーストが深くなった夜にこだまする。

 エレンの行く宛などクレアには知りようが無かった。闇雲に探しても埒が開くはずも無かったが、とにかく探さねばならない。

 が、偶然かエレンの姿はすぐ見つかった。

 クレアは慌ててクルマをとめて歩道へ転がり出た。

「エレン!」

 すっかり人通りは少なくなった歩道にエレンは歩いていた。意外にも彼女はクレアの部屋へと歩いているようだった。

 戻ろうとしてたの?

 クレアはとにかく前言撤回し気まぐれな神様に感謝をした。

「クレア……」

 エレンは戸惑いながら答えた。視線がクレアのほうには向かなかった。クレアは微笑んでエレンに駆け寄った。

「エレン、話は後よ。早くクルマに乗って!」

「でも、クレア」

「乗って」

 クレアの真摯な瞳に動揺するエレンは反論の余地が無かった。クレアの視線の強さや額の傷は生易しい事態が起こっているとは思わなかった。

 エレンは戸惑いながらもクレアの助手席に乗った。

「……クレア、怪我……」

 エレンは心配そうにクレアの左の額の傷を見た。ロクに血止めもしていないから、彼女の顔の左半分は血まみれだった。

「ん、ああ……」

 クレアは苦笑した。エレンの事で頭がいっぱいだった。今更ながら傷の事を再び思い出した。

 クレアはかまわずクルマを出した。エレンが心配そうにハンカチを取り出してクレアの顔を拭いた。

「ありがと……エレン、どうして出て行こうなんておもったの?」

「……クレアに迷惑がかかると思ったから」

 エレンはか細く言った。今、彼女の心の大部分を占めている要素は不安だ。それは不確定の未来と自分自身なのだろう。クレアは心の苦痛に目を細めた。

「エレン、困った事は私に言いなさい。何とかできる事と、できない事とあるけど、一人で困っているよりは随分マシよ」

 優しい声だった。エレンは言葉で答える事ができなかったが、やさしく丁寧にクレアの傷口をふいた。エレンの瞳に光るものがあったのはクレアの思い過ごしではない。

「でもさ、家出しようとしてた割には何であんな所にいたの?」

「……笑わないでね。預かりものを思い出して、部屋にこっそり置いてこようと思ったの」

 エレンは照れくさそうに言った。エレンはポケットから小さな箱のようなものを取り出した。ご丁寧にリボンまでかけられていた。

「それはだれから?」

 クレアは嫌な予感がした。

「知らない人だけど……金髪でカッコイイ系の人だったな、たぶん、クレアと同じくらいの歳の人」

 カインだ! クレアは舌打ちをした。カインにこれを持たせたのはリヒャルトだろう。そしてこれは発信機に違いない。

 エレンが家を出たという誤算はあったが、再びこうして共に行動をしている。計算ちがいも二度起これば正解になる事もあるという事か! リヒャルトはクレアが身内ののエレンと共に行動する事を見越し、警戒が少ないだろうエレンにこれを持たせたのだ。思えば、カインが独断でクレアを襲ったのもエレンが予想外の行動をとったからやむなしの行動だったのかもしれない。

 クレアはバックミラーを覗いた。先ほどから一台、大型のスポーツタイプのクルマがいる。

 クレアはアクセルを入れた。

「エレン、掴まってて! 飛ばすよ」

 クレアはエレンから発信機の入った箱を窓から捨てた。

「正解!」

 リヒャルトは助手席で遥か後方へ流れていく発信機のマーカーを車内のモニターで追った。

 猛然と加速していくクレアのクルマを見て、

「どうします?」

 とカインが聞いた。

「追うさ。そのためにあれを預かってもらったんだろ?」

 カインはアクセルを全開にする。フロントノーズからコンプレッサーの回り始める音が響き、二人は腹からシートに押さえつけられるような加速を感じた。

「あれを発信機じゃなくて、爆弾にしとけばよかったんじゃないすか? 二人でいるときに、ドカンってさ」

「俺達はテロリストの真似なんかしないよ。俺はまだ手段と方法を選ぶ男でいたいね」

 

 後方のクルマが近づいてくる事を確認してクレアは小さく舌打ちした。クレアのクルマも遅いクルマではなかったが、エンジンの出力には明らかな差があるようだった。

 クレアは細い路地を選んでフルブレーキングを敢行した。スキール音とエレンの悲鳴をが聞こえた。電子式のアンチ・ロック・ブレーキシステムが起動していたが、かまわずステアリングをきった。軽量・コンパクトなクレアのクルマは派手なスキール音とブラックマークを残してその細い路地にむかってノーズをこじ入れた。入り口でごみ箱のようなものを跳ねたがかまわずアクセルを入れる。

 カインもそれに続いてその路地にクルマを突っ込ませたが、大型で重い彼のクルマはクレアと同じブレーキングポイントではアンダーステアを誘発させて思うような加速ができなかった。止まる方向にグリップを使いすぎて、曲がる力を引き出せないのだ。

 だが、猛然と加速させればカインのクルマに分がある。クレアはカインのクルマが迫ると、次の道を選らんで遥か手前でステアリングをきった。

 わずかにノーズが動くと、クレアはブレーキをわずかに踏んだ。フロントノーズが慣性の法則で沈み込む。クルマの重量のほとんどがフロントにかかり、リアタイヤは押え込む力を失ってわずかに引き起こされた横慣性に負けてスライドを始めた。

 クレアのクルマは道路に対してほぼ直角を保って直進する。タイヤは限界を超えた事を訴えてすさまじいスキールを書き立てる。だが、クレアはパワーバンドとスライドを維持するためにアクセルを入れつづけた。

 クレアがコーナーの出口を見たとき、一瞬アクセルを抜いて、フロントタイヤのグリップを回復させる。あとは道幅いっぱいを使ってクルマを前に進ませるだけだった。クレアのクルマは前輪駆動である。タイヤのグリップがあるかぎり、アクセルを入れればクルマは前へ進もうとする。

 リヒャルトはクレアのクルマのテールを追って口笛を吹いた。

「くっそ、あの女ァ!」

 カインは毒づき、ブレーキングを開始した。クルマが重く、減速方向に多くタイヤを使わなければならないカインのクルマは大きく失速する。その後でステアリングを切り込み、アクセルを開けた。

 カインのクルマは後輪駆動でエンジンからのパワーがリアタイアに伝わる。コーナリング中にグリップの限界を超えたそれは大きく慣性に負けて外に飛び出そうとする。

 カインはそれにリアタイアが進行方向から逃げないようにカウンターステアを当てて、クルマをコーナーに対して垂直を保つようにコントロールした。

 ノーズが十字路のクリッピングをかすめる。

 カインはリアタイアのスライドが収まると、アクセルを全開にした。ヘヴィ級のボディが軋み一つ上げず加速を開始したが、クレアのコーナリングスピードの前にかなりの差が付けられていた。

 クレアは細い路地をねずみのように逃げまわった。細い路地は彼女のクルマには有利だった。カインもその事を知っていて、彼我のクルマの速いところと遅いところを的確に突いて執拗に彼女を逃がさなかった。

 クレアはブレーキを目一杯ふんでクルマを止めた。

 路地が行き止まりになったのだ。カインのクルマを随分突き放したところであった。

「く、ツイてない!」

 クレアは落胆したが、止まってはいられなかった。

「降りて、エレン!」

 エレンは機敏に反応してクルマから出た。クレアの並外れたパフォーマンスに頭がくらくらしたが、文句は言わなかった。

「何、クレア、悪い人に追いかけられてるの?」

 幼い問いかけにクレアは笑いが漏れた。なるほど、映画の一シーンにでもありそうだった。

「ん? ああ、まあちょっと違うけど」

 クレアは建設途中のビルへ走った。エレンもそれを追った。

 

 リヒャルトたちは悪い人じゃない。むしろ、感染者を放っておけば、エレンに殺された浮浪少年達のような被害者が増える一方だ。だから、彼等は私たちをねらっている。

 ならば私たちが悪者か。

 否、これは善悪の問題ではない!

 

 クレアはその論理を反芻した。

 ビルに駆け込むとクレアは銃を抜いた。

「エレンは別の出口を探してそこから逃げなさい」

「クレアは?」

「ん、後から行くから」

 エレンはクレアを見上げた。そして、クレアの血で紅くなったハンカチを差し出した。

「ありがと、エレン。約束するから」

 クレアは微笑んでそれを受け取った。受け取って傷口にあてて後ろで結んだ。血は止まっていたが、途中でまた傷が開くのが嫌だった。

 エレンは肯いてビルの闇へ走り出した。

 クレアはそれを確認すると入り口を向いた。

「……生きてるヤツが生きるために抵抗するのは当然だよね」

「……自分の愛する人を守るために戦うのは当然だよね」

 クレアは息を呑んだ。

「だから、私はアンタと戦うよ! リヒャルト!」

 後方に一つ気配が消えていった。前方で二つの気配が別れた。前者がエレンで後者はリヒャルトとカインだ。前方の気配はすぐに気配を感じ取れなくなり、後方の気配はしばらくして分からなくなった。

 クレアも銃を抜いて真新しい裸コンクリートの柱の影に身を寄せた。リヒャルトとカインの気配はほとんど感じ取る事ができない。

 クレアの感覚は研ぎ澄まされていた。兵士として、ハンターとして鍛え上げられた彼女だ。才能もあった。だが、それでも二人の動きを捉える事ができない。ハンターは市街地戦におけるスペシャリストの集団だった。

 クレアは思う。

 こんなやつらがウィルスに犯されて発病したら!

 ヴァンパイア・ウィルスは反射神経・運動神経を大幅に増幅させて、筋力も限界を超えて発揮できる。限界を超えた筋肉はその状態を維持するために超回復を連続して行う。超回復とは筋肉が疲労した際、その負荷を超えて筋肉を維持、成長することだ。それは強力な自然治癒能力にもつながっていた。

 つまりヴァンパイア・ウィルスは運動能力を増幅する点において何一つ欠点が無い。

 だが、その状態が引き起こされると感染者は極度に理性が薄くなり、攻撃性が極端に高まる。特に相手の肉体をむさぼるような嗜虐性が顕著に上昇する事がわかっていた。

 治癒能力の過剰による不死性や暴虐性から "ヴァンパイア" の名前を冠するようになった。

 もし、リヒャルトやカインがその状態になったら。

 クレアは勝てる気がしない。彼等はその感染者たちと戦うために訓練を受け、実践をこなしてきた男達だ。人間としてのポテンシャルを最大限に引き上げられた者が、ウィルスによってさらにその力を倍増されたなら、それに恐怖を感じるなというほうが無理だ。

 クレアは他人事のように考えたが、自分がそれだという事を知っていた。そしてクレアは感染者だ。まだその陽性反応は出ていないが、確実にそのウィルスを体内に潜ませている。

 はじめはその危険性を見てリヒャルトが来たのだと思った。しかし、それならばクレアが軍を離れる前にその事実を知った彼は、内々で処理したに違いない。

 何故今更?

 クレアは疑問に思ったが、推理する時間は与えられなかった。

 すぐ側まで気配が忍び寄っていた。この距離まで相手の存在を感じれなかったのは久々である。彼等の能力に素直に感心しながら、クレアはコートを脱ぎ捨てて、柱の表へ投げ捨てた。

 銃声が響き、コートが空中で二三度跳ねる。それと同時に逆サイドからクレアは飛び出して銃を放った。

 手応えはなかった。敵はカインで姿勢を低くして突っ込んできた。クレアはかまわず銃を撃ったが、当たらなかった。

「くっ、格闘する気?」

 クレアはカインのタックルを躱した。カインは振り向きざまに上段に回し蹴りを放った。クレアは寸ででそれを躱したが、体勢が崩れた。銃を撃った分後手に回った。

 カインはさらに蹴りを放った。体重が乗ったそれは、今度はクレアの体にヒットした。クレアはそれをガードしたが、体重差で吹っ飛ばされた。大きくはじきとばされ、コンクリートの床を転がる。派手に吹き飛ばされたように見えたのは、カインの蹴りが当たる瞬間、クレアは軽く飛んでカインの力を逃がしたからだ。それでも受けた左腕に痺れが走った。

 クレアは床に転がったまま、その場で立ち上がらずに体を更に転がした。クレアがいた場所に着弾があった。この狙撃はリヒャルトだろう。クレアはそのままの勢いでべつの柱の影に身を寄せた。

 そこから、リヒャルトとカインに向けて威嚇の射撃を行った。

「くっ……」

 クレアは荒くなった息を整えながら壁を背にして立ち上がった。これだけの実力者二人を相手にして勝てるとは思えなかった。カインとの一対一でも、先ほどの運良くクレアが勝ったが、本当に運がよかっただけだ。コイントスのようなものだ、表裏、どちらかが勝つかわからない。

 ただ、今はどちらもクレアの敗北意味するような、そんな予感を彼女は覚えた。

「コインだってたまには立つことだってあるさ」

 クレアは毒づいて銃のマガジンを交換した。腰には二つの予備があったが、一つはブレスド・ブレッドのもので、感染者ではない彼等に対しては威嚇程度にしかならない。クレアは事実上最後のマガジンを挿入した。激しく動いたせいか額の傷口が開いてエレンのハンカチに新しい血がにじんだ。

 カインの気配が近づいてきた。二人がかりで獲物を追いつめる。たとえそれがクレアのような強敵であっても、この有利な状況では逡巡する必要はなかった。彼にはリヒャルトという絶対のバックアップがある。

 リヒャルトはクレアの癖を知り尽くしている。彼が今まで彼女をバックアップしていたのだ。彼女の長所も短所もわかりきっていた。

 クレアには打つ手がないように見えた。

 クレアの脳裏に父親の顔が、エレンの顔が、戦友の顔が、そしてリヒャルトの顔が浮かんだ。

 彼女はあわてて頭を振ってそれを振り払った。それは幻ではなく死神だった。彼女はあきらめという最強の死神を蹴り飛ばしてカインの気配がするほうへ走った。

 クレアの三十八口径とカインの四十五口径の銃声が鳴る。だが、それは二人ともわずかに体をかすめて真新しいコンクリートに突きささった。

 銃を使う距離ではない事を二人は悟った。

 二人は格闘戦へ縺れ込んだ。格闘戦ならリヒャルトも銃で援護できない。クレアの不利は一時的に消えたかと思えた。

 クレアはカインの手刀を掻い潜って掌底を彼の腹に入れた。

「ぐうっ!」

 彼はうめいたが、伸ばした手をそのままひじをクレアの脳天へ入れた。

「がっ!」

 クレアの一撃は申し分ないタイミングで決まった。だが、カインの鍛えられた筋肉の前ではクレアの膂力はわずかに勝負を決めるに足りなかった。

 クレアは視界が歪むのを感じた。

 くっそ、女って不利だ!

 クレアは呪った。軍人になってから女である事をいくつ後悔しただろう。差別などではない。肉体的に男にはどうしてもかなわない部分があった。

 だが、彼女は負けなかった。そして生き延びた。だからこの時も、彼女は意識を失わなかった。

 クレアは必死に体制をコントロールしてカインの右足にのしかかった。カインの体重を支えていた軸足である、さらにクレアの体重がかかってカインは体勢を崩した。二人はもつれ合って転び、押し倒したクレアが上になった。

 クレアは銃を構えてカインを見た。

 カインは殺されると思った。クレアの瞳は戦場の兵士の目だったからだ。

 銃声が鳴った。

 それの距離は遠かった。それはクレアの左肩を貫き、クレアは体勢を崩した。リヒャルトの目は的確にクレアを捕らえていたのだ。

 カインは力の抜けたクレアを蹴り飛ばした。クレアは抵抗ができなかった。吹き飛ばされ、柱に叩き付けられる。意識が朦朧とした。

「もうちょいだったな。さすがだぜ、クレアさん……」

 カインが起き上がって銃を構えた。視認は出来たが、体が動かなかった。視界の隅にリヒャルトが現れた。不思議と憎しみは沸かなかった。

「俺はアンタの後がまに入って散々アンタにくらべられたよ。ようやく俺がアンタの幻を超える時間が来た」

 カインは笑うと引き金を引いた。クレアは死を覚悟して銃口を見た。

 予想外の気配が急速に近づいていた。クレアはその正体に気づいて手を伸ばそうとした。

 銃声と共に黒い影がクレアの視線を横切った。

 一瞬遅れて紅い飛沫がクレアの驚愕の表情を染めた。

「っ! エレンーッ!」

 クレアは痛みを忘れて絶叫した。

 影はエレンだった。クレアはそれに気づいたが、一瞬遅かった。エレンの体は滑るように冷たいコンクリートの上に横たわった。

 リヒャルトとカインは予想外の事に一瞬動きを止めた。クレアはその隙を逃さず発砲した。

 狙いは曖昧だったが、銃弾はカインの右腕を貫いていた。

「ぐあっ……」

 カインは衝撃で銃を落とした。

 クレアはエレンの体を抱き起こした。カインの銃弾はエレンの腹部を貫いていて、黒いセーターにはおびただしい血が染み出していた。エレンは硬く目を閉じて、苦しそうに眉を動かした。大きくせき込み、血を吐く。致命傷だった。

「……ちきしょ……ッ!?」

 クレアは自身の体が沸き立つような感覚を覚えた。全身の血が赤く沸騰する。意識が暗く沈んでいく。怒りが心に充満してくる。クレアは自分自身に恐怖した。自分の中から、何かが来る。

 クレアは次の瞬間、弾け飛んでいた。人知を超えた速度でカインに疾走する。カインは驚愕の目でクレアを見た。見たときには眼前に彼女の掌があった。

 彼はそのまま、押し倒された。女性の左手一本で。カインは訳が分からないまま、後頭部を強かに打ちつけた。クレアはそのまま、銃でカインの頭部を四、五発打ち抜いた。カインの頭部は原形をとどめなかった。コンクリートには血は染み込まず、血液と脳漿の海に金髪が漂っていた。

 その光景をクレアはしばらく無表情で見据え、次にリヒャルトを見た。

 リヒャルトは戦慄した。クレアが発病した事を知った。

 だが、呆然としている暇はなかった。マガジンを抜いて、ブレスド・ブレッドが装填されたマガジンを入れる。発病した感染者に通常弾の効果は薄い。

 リヒャルトはクレアに向けて発砲した。

 クレアは一瞬で加速を開始し、リヒャルトに体を向けた。驚異的な事にクレアは銃弾を見切ってそれをすべてよけた。

「ば、馬鹿な!」

 リヒャルトも幾度と無く感染者と戦ってきた。だが、クレアはあまりに驚異的だった。鍛えられた人間が感染するとこうも超人的な行動が取れるのか。驚きを超えて感動すらした。

 クレアが目前に迫ると、彼女の姿をリヒャルトは見失った。

 後ろを取られたのだ。

 リヒャルトは振り向きざまに銃を放ったが、狙いはそれた。クレアの手刀が伸びてリヒャルトの銃を払った。強烈な衝撃にリヒャルトの銃はあっけなく転がった。

 クレアは至近から銃を撃った。

 その銃弾はリヒャルトの脇腹を貫いた。

「ぐあっ」

 リヒャルトの長身が傾いた。クレアは彼を押し倒して、銃を額に当てた。

「……いいぜ、オマエに殺されるなら悪くない」

 リヒャルトは笑った。

 クレアは引き金を引いた。銃弾はでなかった。ハンマーの乾いた音が小さくビルに反響した。

 クレアは全身の興奮が冷めていくのを覚えた。リヒャルトはクレアの瞳が正気に戻っていくのを見た。しろい、エレンのハンカチがクレアの額からひらひらと舞いながら落ちた。傷はウィルスの影響か奇麗に塞がっていた。

「……リヒャルト」

 クレアが銃を収めた。

「殺さないのか?」

「……殺したくても弾がもうないわ」

「覚えているんだな、暴走してても」

「意外と鮮明にね。不思議なくらい冷静にね……ただ、体が勝手に動いているよう……まるで自分の意志とは関係ないように」

 クレアは息を荒くして答えた。体中の筋肉が軋んだ。限界を超えて運動能力を発揮したのである、ウィルスの影響下にある肉体といえど、完全ではなかった。だが、それもウィルスの力によってまもなく回復するだろう。

 クレアは息を整えて、リヒャルトの上から動いた。口を開きかけたがリヒャルトに機先を制された。

「何か聞きたい顔をしているな」

 クレアはリヒャルトを見つめた。

「何故、今ごろ私を殺そうとしたの? 発覚したから? 命令されたから? ううん、違うよね、あなたは……」

「知りたかったのさ。ウィルスの進化を」

「ウィルスの進化?」

「ああ、ウィルスは進化している。特に二次、三次感染以降は特に顕著だ……多分、人の体にあるさまざまな雑菌とふれあううちに独自の進化を遂げたのだろう。それも急速に」

「じゃあ、私のからだの中にあるウィルスは……」

「ああ、軍の施設にあるウィルスとはすでに別物だろう」

「どうなるの?」

「……わかっていりゃ、ここにこないさ……寒くなってきたな」

 体内から血液が流れ落ち、体温が奪われているからだろう。リヒャルトの白っぽいスーツに血がにじんでいた。

「……正直、俺はオマエを殺すつもりでいた。オマエが暴走して人殺しをし、それで自分を責めていくオマエの姿は想像したくなかった。そしていつか発狂していく。俺には殺すくらいしか救いの手が思い付かなかった……だがな、クレア……オマエはウィルスに冒されても冷静だといったな、今まで俺達がしとめてきた奴等とは少し違う……」

「違わないと思うわ。私は現にカインを殺したし、あなたすら……」

 クレアは悲しそうな目でリヒャルトを見た。残虐にカインを殺し、リヒャルトに銃口を向けたとき、クレアはなんとも言い知れぬ快感を覚えていた。その恐怖に背筋が凍りつく。

「タバコ、とってくれないか? 体がしびれて、な」

 クレアは戸惑った。戸惑ったが、リヒャルトの左胸ポケットからタバコとライターをとり出した。彼のタバコの位置は知っていた。

 タバコを彼にくわえせるとき、クレアの指先がリヒャルトの唇に触れた。クレアが火をつけると、白い煙が吐き出された。いつもの彼のにおいだった。

 クレアは悲しさが溢れ出しそうになった。悟られまいと背中を向けた。おそらくその強がりは彼には通用しなかっただろう。

「……エレンが心配ね……通報はしておく。運がよかったら生き延びられるわ」

「ああ、気が利くな、致命傷じゃない。心配するな」

「……だれが、あなたなんか」

 クレアは駆け出した。リヒャルトは煙を吸って瞳を閉じた。

 

 クレアがエレンを発見した頃、エレンの傷はもうふさがりかけていた。ウィルスが細胞分裂を促進させて異常な治癒能力を与えているのだ。エレンの意識は戻っていなかったが、ひとまず安心できた。

 クレアはエレンをクルマに乗せて車を発進させた。

 携帯から警察に電話をかける。

「発砲事件で

 
 

 
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