朝の雑踏の中、呼ばれた気がした。
「みい」
振り向くと彼が立っていて、どくん。
と胸が鳴った。頭の重くなるような感覚、今でも鮮明に蘇るあの日の記憶。五年前、引っ越した日のこと。
「久し振り」
口の中に苦い味が広がるような思いで言った一言。
「藤森(ふじもり)君」
言いながら見上げた、彼の顔。あんまり変わったとは思わなかった、五年経った今でも。でも、少しそれなりに大人びたような気はしたけど。
「あの、俺…」
彼が何か言おうとした。
「あっ私急いでたの忘れてた」
それをすぐに遮る、あの日の話をされるような気がしたから。
彼はすぐに慌てた口ぶりで、
「じゃぁ、これ俺の名刺」
ごそごそと鞄から定期を取り出し、名刺を私に差し出す。
「うん」
頷きながらそっと、手を伸ばし受け取る。
「じゃぁ」
急いでいると言ってしまった手前、急ぐふりをする私。会釈をして、彼に背を向けた。
「俺、忘れてないよ」
呟く様な言葉、彼の声、口調。私に向けられたような。恋をした、恋愛感情が心に生まれたあの日のこと。振り向こうとは思わなかった。だって来なかったのは彼の方。
早歩きで立ち去り、自分の目的地へと向かう。学校、私は女子大生、勉強しなければ。でも頭がそっちへ向かわない、動揺してる。そう思いながら、未だに手に持ったままの名刺を見る。
「藤森達(ふじもりたつる)」
声に出して言ってしまっていた。回りを確認する、不審げな視線を向ける人はいないようだ。
教室に入り、真中の席に座る。そこが一番人がまばらだったから。筆記用具を取り出そうと思う、体は動いた、でも頭は記憶を辿っていた。
五年前のあの日の…
冬は寒かった、だから一緒にいた、暖め合いたかった。傍にいて、そう、誰よりも近くにいたあの日。
「何か好きになってたみたいなんだ」
寒かった、重ねた手のひらから温まる気持ち。自分の思い。
「うん、そうみたい」
嬉しそうな笑顔、より強く握られた手の忘れられない、力強さ。
曖昧さも大切な気持ちの一部。
でも次の日の学校、呼び出された。彼女がいて、
「返してよ」
彼はものじゃないよ。
「私の好きな人」
彼の好きな人?
「やめてよ、好きな人、取らないで」
嗚咽交じりの叫び声。
彼女にしてみれば、私は奪ってしまった。だから返してと自分の辛さを誇示し、自分だけが辛いように。返してと彼女は言う。
「返して…よ」
涙の流れる頬、真っ赤な瞳は眠れなかった証。昨晩の出来事。
辛いのに一番なんて無い。だから、
「だめ」
一言、それ以外何も言えなかった。驚愕した彼女の瞳。
でもそれが真実。
「あれ、片瀬(かたせ)さん?」
聞き覚えの無い声。振り向くと、
「ねぇ、私のこと覚えてる?」
意地悪そうに笑いながら、あの日の彼女はそこにいた。
「藤森君の?」
確証は無かった。
「うん、そう…」
語尾が小さくなって行くのは、私の手にある名刺に目が言っているからのようだ。彼女は不思議そうな瞳で、
「会ったの?」
頷く私。
「そう、会えたんだ」
そう言って嬉しそうに笑う彼女は、大人びて見えた。もうあの日の彼女じゃないのだと認識した。
「ねー今日、暇?」
「えっいつ?」
「今日」
私と何するつもりなんだろう。
「困んなくて良いよ、昔のことは忘れてさ」
それなら、
「いいよ」
「よし!決まり」
勢い良く言って、彼女は私の手をつかむ。
「へっ」
急なことに対応に困る私。彼女を不安気に見上げる。
「行こうか」
今から?言いたいけど言えなかった。
「今から行こうよ、たまには良いんじゃない?」
特にこんな日は、言外にそう言われた気がした。
ずるずると引きずっていこうとする彼女にストップをかけ、机に出したままの荷物を鞄にしまう。それから彼女の手を掴んで私は言った。
「行こうか」
今日は特に天気が良かった。こんな日だからだろうか。そしたら、貰い過ぎな気もする。気持ちが高揚しているのがわかる。でも落ち着くまでは連絡なんてできない。
「時間平気だよね」
「うん」
頷きながら、反芻する。時間、時間が必要なんだ。五年じゃ足りなかったんだ。
「もうすぐだよ」
学校は駅の反対側。今は駅を通り抜けて、住宅街のほうに来ている。
「ふうん」
かなり大きめの家が立ち並んでいた。そんなところを通り抜けてきたら、団地住まいの私は口を開けっ放しにするしかない。しかも、もうすぐと来たもんだしね。
「ここ」
彼女の指先は自営業、のみやノンベエを指していた。ほっと一息な私。2階建ての丈夫そうな建物で、割と古めの扉は引き戸。
「うちなんだ」
ガラガラと音を立てながら、引き戸を開ける。
「入んなよ」
彼女は引き戸を押さえて待っていてくれた。私は、
「お邪魔します」
上半身を少しかがめながら、中を覗き込むようにして入った。カウンターとテーブルとその上に乗っけられた椅子とが暗い部屋の中に並んでた。
「上に行こう」
彼女は迷いも無く奥へと進んでいく、私は慌てて後を追う。階段を上ると、すぐに扉があってこれは普通のドアノブのついたドアだった。
「先に入ってていいよ」
それからすぐに階段を降りる音が聞こえた。私はドアノブを回してドアを開ける、引いて開けるドアだ。 手前の左側にベッドがあって、その奥に机がある。机の真直ぐ前には窓があり右奥には本棚、手前にはCDコンポとテレビ。部屋の真中にはテーブルがある。
テーブルのあたりまで入って、驚いた。藤森君の写真がテーブルの上に置いてあったから。五年前、引っ越したときぐらいの写真だ。
これは…昔のことは忘れてなんてちょっと無理なのでは?
写真を手にとって見る。懐かしいあの頃の写真だ。
「藤森君」
忘れてないよ、私も。でも、あの時どうして来てくれなかったんだろう。
結局、私が振られたことには変わりないじゃない…
「どうしたの?部屋の電気位つけなよ。暗いよ」
パチ。音がして部屋が明るくなる。そして写真の藤森君もはっきり見えた。
「あーそれね置いといて」
何事も無かったように言う彼女。私はどうすれば良いのやら。
「好きなとこ座って良いよ。ベッドのほうがいいならそれでも良いし」
「うん」
ぼんやりと頷き、ベッドに腰掛ける。彼女は持ってきたらしいおぼんから、菓子ざると飲み物を置いていた。おぼんを床に置き、飲み物を手にとって私に、
「はい」
と渡してくれた。
「ありがとう」
嬉しくなって受け取る。彼女も自分で飲み物を持って、
「カンパーイ」
私の飲み物に自分の飲み物を近づけてくる。
カン。いやに良い音がして、私も、
「乾杯」
と言う。そして一口飲む。
「ぐほ」
「大丈夫!?」
慌てて彼女がティッシュを差し出してくれる。ティッシュを一枚引き出しながら、
「ごほ、これお酒?」
「うん、そう。駄目なの? もしかして」
口元に零れた液体をふきつつ答えた。
「ううんそうじゃない。ただお酒だと思って飲まなかったから」
「そうなの?」
「うん、あのね例えばコーラだと思って飲んだものがウーロン茶だったときの気持ちを考えてみて」
「あっそりゃ辛いわ」
「でしょう?」
笑って頷き合う。
「んじゃ、も一回」
飲み物を持ちなおす。
「カンパーイ」
二人同時に言い、カン、と音を鳴らす。菓子籠を良く見ると、お酒のつまみだけだった。さきいかとビーフジャーキーとポテトチップスにスモークサーモンの揚げ物。
乾きもんのみ。
「食べれないもの無いよね」
「うん」
「お店のもの?」
「ううん、違うよそんなことしたら、しばかれちゃうよ」
「お母さん?」
「うん、両方」
「そうなの」
さきいかを口にくわえながら、
「お父さんが板前で、お母さんが女将さん。でも、大概のお客さんは気づかないからお母さんに言い寄ったりして、お父さんが張り紙出そうかなとか言ってた」
「お母さん綺麗な人なんだ」
「うん、まぁねって私親ばかみたいじゃん」
その切り返しの速さに、思わず笑みが零れる。
「あはは、でもほんとでしょ」
「うん」
素直だなぁ。飲み物を一口のみ、体の熱くなるのを感じた。
「あのときさぁ」
唐突な彼女の言葉。予想はついた、でもなんとなく聞き返した。
「いつ?」
「五年前」
胸に鈍い痛みを感じた。体が一気に冷えて冷や汗が背中に出る。
「来なかったの? 藤森」
言うのが辛い、でも、
「うん」
小さく頷いて、ベッドから滑り落ちる。
「待ってたけど、来なかった」
天井を見上げた。目の前がぼんやりしてくる。涙だ。
「そうだよね、片瀬さんにとっては来なかったなんだよね」
涙が零れそうで下を向けない。
「でも、ほんとはね…」
ジリリリリリリリリッリリン。
「電話だ悪いけどちょっと待っててくれる?」
手で制し私が慌てて頷くのを確かめてから、部屋を出ていった。
彼女の部屋に無いものは電話みたいだ。しかも懐かしの黒電話。涙を拭いながらもそんなことを考えてしまう私。本当に動揺してんだろうな。
「ほんとは?」
ふと彼女の言葉を思い出す。ほんとは、何だろう、ほんとは藤森君は、藤森君は、来たの?
「そんなことない」
軽く首を振る。でも、私はあの日、親とは別行動で行くことになって、だから逆に藤森君のことずっと待ってたずっと、電車の時間ぎりぎりまでは。
「その後に?」
来たとしても私にはわからない。だからほんとはなのかな。だとしても、夕方の電車に乗るからって、お昼に待ち合わせした。その間何してたの? 私は知らない。考えたくなかった。逃げ出した、忘れたいと思った。振られたんだと、彼女に戻ったんだとしても。そうじゃないにしても。ずっとそう思ってたから。
ほんとの事がわからなければ、痛いのは自分だけだと思ってたんだ。そうなんだ、私。相手のことを考えようとは思わなかった。あの日信じて待ってたはずだった。途中で不安になったりもしたけど、でも、それでも、待ちきれなかった。私。私が一番。
「誰も信じられてなかったんだ」
ぎゅっと身を縮める。膝を抱えて、その上に頭を乗っけて。涙を圧し止め様と思った。だって私、こんなにたくさん泣いて良い立場じゃない。
「お待たせ」
ドアを開ける音と同時に聞こえた。少し間が合って何の物音もしなかった。きっと私を見ているんだろうそう思った。
「酒、きたの?」
頭のすぐ傍で声がした、屈んでるのかしゃがんでるのかはわからないけど。小さく首を振って、
「ううん」
答えた。
「そう? あのねほんとはね、行けなかったよ」
「遅いよ、もう」
何もかも、投げ捨てたくなる気持ち。投げやりになってる。
「それは、ないんじゃない」
「うーうん」
思いきり首を横に振りながら言う。
「私が信じれてなかったの、一番」
「あっそれ、違うよ」
以上に明るい声で、彼女は言った。私は、彼女を見上げる。
「はい?」
「あの時、私が引き止めたりしなければ、た、藤森はきっと片瀬さんのとこに行ってたよ」
何のわだかまりもない調子での言葉。彼女にはもう過去なんだ、でも私はだめなんだ、気が済まない。
「ううん、あの時私がもっと待ってられたら」
「きりがないね?」
「うん」
笑顔の彼女。
「だからね、私がこう言うことするのって、罪滅ぼしみたいなもんなんだ」
「うん?」
言っている意味が良くわからなくて、相槌を打つ。
「みい」
「は?」
振り向くと藤森君。
「えぇぇ?」
「私、彼氏いるんだ」
「へ?」
「藤森は大切な友達なんだ」
友達?
「あの、写真は」
「…へ? あぁ、藤森に返そうと思ってたんだよ」
写真を手に取り私に差し出す。
「あげるよ、私、片瀬さんのこと嫌いじゃないよ。どっちかっていったら、許してるって言ったほうが良いのかな?」
好きな人を奪ってしまった私を、五年間を。
「傷つけたのはお互い様だしね」
にっこりと笑われる。何も言えなくなって、口が開いたままになっている。慌てて閉じると、彼女がさらに笑顔になって言った。
「じゃぁね、気にしないでやってよ」
そのまま、彼女は部屋から出ていった。
このまま他人の部屋で。藤森君と私、どうしたらいいんだろう。
「みい、ごめん」
どうして謝るんだろう。
「長い間、ごめん」
彼女は私を許してくれている。藤森君は?
「藤森君は?」
「え?」
「怒ってないの?」
「なんで?」
「私が、信じれてなかったから」
一瞬の沈黙の後、頭乗せられた手を感じた。重みが暖かかった。
「ちがうよ、みい。あいつの許した意味わかってるか?」
よくわからなくて。首をかしげた。
「俺が行けなくて、みいを傷つけた。みいが待てなくて、俺が傷ついたと思ってる。お互い様だろ?」
「喧嘩両成敗ってこと?」
「まぁ、そうだな」
じゃぁ、どうして?
「どうして、謝ったりするの?」
「それだけじゃなく、悪いと思ったからさ」
「だったら」
頭の上の手にそっと触れる。
「ごめんなさい」
「うん」
嬉しそうな笑顔。あのときのことを思い出す。
「五年、経ったんだね」
少し、悲しく思って言う。
「でも、ある意味これで良かったんだと思うよ。俺は」
「なんで?」
「辛いと思ったから、お互い忘れなかった。悪いと思ってたから曖昧にしても忘れなかった」
「曖昧さも、大切な気持ちの一部なんだよね」
手がそっと頬を包む。
「なんかずっとすきだったみたいなんだ」
「うん、そうみたい」
手を差し出して、彼の手と重ね合う。
「もう逃げないよ」
「うん」
大切にしたいのはこの瞬間のこと、忘れないことだと思うよ。
※名刺とか言ってるのは、当時名刺が流行ってたからで、今で言うところの携帯番号もしくはメルアド交換のよーなものだと思っていただければ助かります。
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5年振りに再会した。彼に。
動揺したまま学校へ行くと、更に彼の彼女だった人とも再会して…
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