私が最後に見たもの、覚えてる。
二つのまぶしい光と空。
「ならば、この状態を理解できるのではないか?」
そう問う、黒く長い髪をなびかせる彼は私を見つめた。烏の濡れ羽色の髪を流れるような動きでかきあげる。私を見つめるひとみは、それと同じ色をしていた。
ぼんやりと見つめ返す。この場所が暗いから、彼の黒さが尚更同化しているような気になった。
そして、改めて自分のいる場所を見渡した。真っ暗でどこまでも、続くような気がする空間。そして、私に道を示す者。
「先ほども言ったが、お主は死んでおる。お主がいたところで言うところの、魂というものに今はなっているのだ。輪廻があると思ってもらって構わない。だからこそ、わたしはここにおり、お主を迎えに来ているのだ」
「迎え?」
彼はため息を一つつきそして、呆れたように私を見る。
「つまり、お主は迷っておるのじゃ。本来、このような迎えはないのだぞ?」
迷う? 何に? 私が?
「死んでも死にきれぬような思いが今のお主を形作っておる」
「思い? 私? やり残したこと」
「そうだ。だからこそ、今選ぶが良い。このまま去るか、伝える努力をするか」
彼には全てわかっているのだろうか? 私の、やり残したこと。
視界の端で彼の手が動くのを感じた。その手を暗闇の空間へどこへともなく伸ばす。手の平から光が現れ拡散していく。暫くすると、何かが動いていた。
薄暗くゆがむ表面に、見覚えのある顔。
「吾月(あつき)く…ん? と、達輝(たつき)…?」
それから、裕子(ゆうこ)が見えた。
「お主の、思い人はあの男で良いのだろう?」
そういって、達輝を指差した。元気に笑っているように見えた。思わずぼんやりと見ている自分がいて、慌てた。
「えっと、違いま…」
す、まで言わせてはもらえなかった。彼の伸ばした手に私は動きを封じられている。何だか悪い予感がした。あまり当たったこと何かないけど、でもあまり運の良い方でもなかったから、本当になってしまうかもしれない。
「わかっているとは思うが一言伝えてしまえば、終わりだからな」
思わず頷こうとしたけれど、動けなかった。
それから、彼は何かをぽつりと呟き、私には聞こえずそのまま意識が遠のいた。
眺める空は青かった。天気が良くて、雲ひとつないから暑いけど。それでも今日は外に出てないといけない気がした。
放課後の屋上、あいつの誕生日。十七歳になる筈だったあいつ。そしたら、一週間後には俺達の誕生日だった。いつもは。
「達輝君、吾月君知らない?」
顔をあげたら、同じクラスの大川(おおかわ)が立っていた。探し回った様子で、赤い顔と肩で息をしていた。顔を手で扇いでる。
「いや、しらねぇけど?」
首を振りながら答えると、困ったように首をかしげた。
「そう? ありがとう、もう少し探して見るね」
言いながら、すでに走り出していた。背中が多少小さくなり、屋上の扉で見えなくなる。
吾月…か、おんなじ顔してるはずなんだけどな。やっぱ性格かね? あいつにもそういって振られたし。
「双子なのになー」
双子だからおんなじじゃないんだよ?
ふと、あいつの言葉が耳に届く。声まで思い出せるのに。笑顔も何もかも、全部好きだった。
「夏(なつ)…枝(え)」
どうしてなんだろう? 何で俺の知らないところで、あいつは…
「死んでしまったんだろう」
「大丈夫? 吾月君」
すごく、具合が悪そうに見えた。息荒いし、顔色も悪いし、脂汗かいてる。
「あぁ…」
小さく頷く彼は動くのも億劫そうに、壁によりかかる。
私が見つけたときはすでに、壁によりかかってたけど、かけよったら、寄りかかってくれた。
ちょっと嬉しかった。不謹慎だとは思ったけど。だって彼女っぽいこと、触れ合うことあまりなかったから、尚更。初めてだったんだもの。
彼は目を閉じてじっと耐えるようにしている。脂汗がすごく多い、ポケットからハンカチ取り出して、ぬぐってみた。それでも、後から噴出すように出てくる。
そういえば、これさっき汗かいたから拭いたんだっけ? 私の汗。
まぁ、大丈夫でしょう。そんなに違うものでもないしねぇ。
「裕子…さん…」
うめくように呼ばれた。余計なこと考えてる場合じゃなかったよ。
「何? 呼んだ? 私、裕子だよ?」
少し目を開けて微笑む。顔色悪いから、無理してるようにしか見えないけど。私の為? なのかな?
そう思ったら頬と身体が熱くなった。なに考えてるのよ、私。彼の危機なのよ。
彼の汗を拭いながら、顔を覗き込んでみる。さっきよりは楽そうに見えた。あんまり息も荒くないみたいだし。ちょっと怖いので鼻に耳近づけてみた。
「スウ…スウ…」
「もしかして、寝てる?」
おいおいおいおいー 大丈夫なのかー?
あいつの次は吾月かよー俺、休む暇もないのか?
「達輝君、ごめんね?」
いや、あんたの所為ではないだろう。吾月が倒れたからって、何であんたが謝るんだ? 大川…
「運んでもらって、人を呼びに行ける状況じゃなくって」
あぁ、何だそういうことか。
…俺疲れてるのかもしれないなぁ。思ったよりも。
大体、何でこいつが倒れるんだ? 夏ばてか? いや、運動部だしなぁ。毎日部活出て帰ってくるし。それだったら、俺の方が帰宅部でだらだらしてるしなぁ。昨日までは、普通だったよなぁ? 朝はこいつ朝練あるから会わないし。
「達輝君?」
大川の声にはっとする。
「着いたよ?」
保健室の扉が開いたまま俺を待っていた。多分大川が開けたんだろう。
「悪い」
そう言いながら、先に入った。保健の先生はいないようだった。
「あれ? 先生? いませんかー?」
大川が割と大きな声で呼んでいる。ベッドの方へ歩いていき、戻ってきた。
「いないみたい、私探してくるね?」
「えっ?」
それなら、俺が行くって言うひまもない程の速さで大川はいなくなった。
「なんだかなぁ」
ため息を一つついて、吾月をベッドへと寝かせた。
「彼女なんだから、あんたがついてた方が良いに決まってるじゃねぇかなぁ?」
言いながら吾月の顔を見た。同意を求めたつもりだったんだか何だか、わからないけど、でも。
「うわっ」
俺、すごく冷や汗かいてる? かくよな、かいて良いんだよな?
吾月の目が開いてる。開いてるのは良いけど、尋常な開き方じゃなかった。思わず触れてた手を離すくらい。
びっくりしたぁ。
達輝が驚いて離れた。少し傷ついたけど、仕方がない。場合が場合なんだから。それとも、私が私の身体で生き返ったらよかったのかしら? いや、尚更驚くか…
「吾月?」
動きにくい。上手く動かない体。その間にも、達輝は距離を空けている。
あんた、ちょっと双子の兄弟なんだから、もうちょっと心配しても良いんじゃないの?
「た…つき」
かろうじて出た言葉。お願いわかっって逃げないで、私だから、もう少しで伝えられるから。
「吾…月じゃないのか?」
「そう、だから、お願い、聞いて? 達輝」
夏枝なんだよ、私だよ?
「誰なんだ? どうでも良いけど、吾月苦しんでるんだ、早く出てけよ」
達輝は鋭い目つきで私を見返す。
わかってもらえないみたい。何でわかってくれないの? 私だよ? そんな痛い言葉投げつけないで。そんな目で見ないでよ。私だよ?
「吾月は俺の兄弟だ。吾月で平気なら、俺でも平気なはずだろ? 俺が聞いてやるから、俺の方へ来い」
「た…」
呼ぼうとして、やめた。いくら言っても無駄なんだ。
「あ…ぅ」
がくん。身体の中で変な感覚がした。身体に尚更力が入らなくなる。倒れこんでそのまま、意識は遠のいた。
すごく気分が悪かった。筈だった。でも眠ったらそうでもなくなった。
ここは夢なのだろか。真っ暗闇で距離感が掴めない場所。
「吾月君!」
僕を呼ぶ声。この声は知ってる。ずっと前から、子供の頃から知ってる声。
「夏…枝ちゃん?」
振り向いて呼ぶと、ふっと目の前にぼんやりとはっきしない何かが現れた。
「吾月君…」
目を凝らして良く見ると、向こう側がすけてみえる、夏枝ちゃんの姿が分かった。
「ごめんなさい…あのね、私。吾月君が好きだったの」
「え?」
そうだったのか? 知らなかった。夏枝ちゃんは僕の中でずっと幼馴染の夏枝ちゃんだったし、夏枝ちゃんは達輝を好きなのだと、ずっと、思ってた。
「好きなんて…思わなかったよ」
呟く彼女は何だかはっきり濃くなって見えた。
「苦しめて、ごめんね」
「え?」
「私が吾月君の中に入る時に、すごく気持ち悪かったみたいだから。当然だよね、他人の意識が入ってくるんだもの。ごめんね」
「いや、夏枝ちゃんは…死んでしまったんだよね? 達輝には? 会った?」
達輝が夏枝ちゃんを好きだったことは知ってた。子供の頃からそうだった。見てればわかったんだ。達輝のことは。
「えっと、吾月君の姿だったからわからなかったみたい。逆に怒られちゃった。吾月じゃなくて俺の方に来いって…」
達輝らしいと言えば達輝らしい。何をも恐れずに、そう言ってしまえる達輝が何だか嬉しい反面、やっぱり心配になる。そしてうらやましくもある。僕は保身ばかり考えてしまうような男だからだ。
夏枝ちゃんの気持ちも嬉しいけど、なにが嬉しいのかわからなかった。
「あのね。変なの」
夏枝ちゃんの言葉で我に返る。
「どうかしたの?」
「思いを伝えたら、終わりだってそう、言われたの。私はまた彼に連れて行かれる筈なのに」
思いを伝えたら、終わり?
「夏枝ちゃんは、僕が好きなんだよね?」
「…うん」
歯切れの悪い頷きを見て、僕は気付く。
僕に思いを伝えた夏枝ちゃんは、僕を好きだったわけじゃないんだと。
走って、走って、どうにかこうにか職員室まで辿り着く。
「すみません。保健室の先生いないんですけど!」
勢い良く扉を開き、そのまま叫ぶ。
「おーかわ~声がでかい。っで? 何があった?」
職員室の中ほどに席のある担任の上田(うえだ)先生が気がつき、すぐに反応した。小走りに近づいてくる。
「あの、保健室の天野(あまの)先生が、いなくって。吾月君が…じゃなくて松野(まつの)君が倒れて、脂汗かいてて、達輝君が運んでくれたんですけど…」
先生はふっと不思議な笑みを浮かべて私の頭を軽く叩いた。
「よし! わかった行くぞ」
「え?」
私が応えてる間に、先生は走り出している。慌てて私は追いかける。
「先生っ速いぃぃ~っ」
「何言ってんだっ急げ」
叫びながら全力疾走した。
先生が保健室の扉を勢いついたままで開こうとして、身体が滑っていた。
どごんっ。音がして、保健室の扉は開いてた。
「先生っ」
慌てて駆け込み、口を抑える。そう言えば吾月君が寝てるんだった。
ベッドには布団越しに人の膨らみが見えた。ちょっと安心して、達輝君を見た。
何か怒っているのだろうか? 怖くて近づけない背中が見えた。
「松野? 兄さんはどうした?」
気遣うように、先生が手を伸ばしつつ声をかける。
「どうもこうもねぇよっ」
ぽつりと呟く、達輝君の背中は震えているようだった。
「あいつ、絶対に成仏させてやるっ」
拳を握りしめて、固い決意の言葉を吐き出す。
「はぁ?」
成仏? ムードと達輝君は格好良かったのに。何で成仏? それだけで、いっぺんにギャグに感じてどうしようもなく、気が抜けた。
「吾月に何かが憑いてるんだ。それで調子悪いんだと思う」
「松野…本気か? 冗談か? どっちかにしろ」
呆れたような先生の言葉に、達輝君は激しく答える。
「そんな余裕ねぇよっ本気に決まってんだろっ」
「何か憑いてるって?」
「あぁ、でも俺の名前呼んだんだ。俺に用があるんだと思う」
「怨まれる覚えでもあるのか?」
「わかんねぇ。でも、俺の名前呼んだんだ」
全く、一直線だな。バカ正直だ。
松野(弟)は真剣な表情で兄を見つめる。ベッドの脇に手をついて覗き込んだ。
「今は、寝てるんだ。またいつ出てくるかはわからない」
そう言って、うーんと唸りだす。兄に取り付いているものをどうするか思案しているのだろう。
「吾月君、大丈夫かな?」
「どうだろうな。お前達の話では、相当苦しんでいたんだろう?」
放課後の保健室で、こんな話をするとは思いもよらなかったな。
「うん、すごく、汗かいてて…」
大川は小さく頷き、気遣う様に目線を移した。
「ぐったりして重かった。運ぶの大変だったんだぜ」
腕を組みながら、松野(弟)は言葉を継ぐ。
「そして、気付いたと思ったら、松野(兄)ではなかったと言うことだな?」
自分で締める。そうすると、本当に何かが? 自分で見たわけじゃないから、はっきりとはしないが。
「どうしようもないな。もう一度出てくるとかしない限りは」
「確かにそうだよな。吾月自体も起きそうにねぇしなぁ」
ベッドの周りを三人で囲むように立っている。自然と眠っている松野(兄)を見下ろす形になった。
前髪が額にはりつき、顔色も悪い。呼吸自体は落ち着いているが、あまり生気を感じさせる様な呼吸の仕方ではなかった。
そう言えば、天野先生は風邪で休みのはずだったな。
救急車でも呼ぶべきだろうか? 俺には手におえない気がする。でも、そうすると松野(弟)がなぁ…
「病院に、連れてくか? 何かに取り憑かれているとしても、身体のことに関してはそっちの方が対処してくれると思うぞ?」
「う…ん、そうだよなぁ」
「じゃぁ、私付き添いますっ」
勢い良く大川が顔を出してくる。
「いや、…まぁ良いか。じゃぁ松野は当然来ることになるぞ」
「あぁ。俺、家に電話してくる」
そう言うと、すたすたと歩いて出て行った。
誰なんだろう。全くもってわからない。
俺の名前、はっきり呼んだ。
記憶に鮮やかに蘇る。
『た…つき』
『そう、だから、お願い、聞いて? 達輝』
幽霊の言葉。幽霊? 何かが憑いてるのであれば確実にそうだろう。
女言葉だった…おかま…? まさか、な。そう考えると多少背筋に寒いものを感じた。
まぁでも女の子だと思っておこう。
うんと頷いて、身体が震える程の衝撃に気づく。
「おん…な?」
まさかっっ
勢い良く踵を返し、宙に浮く感覚でもって走り出す。
まさか、まさか、まさか。吾月の声だったけど。
扉を見つける。力を込めて開いた。
「夏枝っっ!?」
大声で叫んだ。俺に驚いて、目を見張る先生と大川。
…まだ眠ったままの、吾月。
ゆっくりとベッドへ向かって歩き出す。
もし、そうなら、本当にそうなら。俺は…
「達輝君…? なつが…?」
「松野…夏枝って、どうかしたのか?」
死んでしまった筈のあいつ。最後に俺と笑ったあいつ。
夏枝…もし、俺はお前に会えるのなら…
そっと覗いたベッド。ぼんやりと目を開いている、吾月。
それを見た瞬間、我に返る。
どうしたいんだ、俺?
蜻蛉の目の様に見える天井…輪郭がはっきりしてくるにつれてわかってくる。
そして、覗き込む自分に似た顔。環境は同じだったけれど、僕と達輝の性格は全くと言って良い程違っていた。生活習慣などを除いては。だから、双子でも随分と他人に与える印象の違う顔になった。
その向こうには、好きな人…同じクラスで、彼女は夏枝ちゃんと仲が良くて、達輝も一緒に自然と仲良くなった。達輝はずっと夏枝ちゃんが好きだった。仲間はずれにする様な奴ではなけれど、何かあれば当然夏枝ちゃんを優先した。だからか、僕は裕子さんを優先した。反発だったのか、可哀相だと思ったのかはわからないけど、そう言う中で良く話をする中になった。恋かどうかは、わからないけど。一緒にいて素直に楽しいと思える。そんな相手だった。
「松野…兄の方。意識は確かか?」
達輝が反応したのに対して気を使ってか、上田先生はそう言った。
「吾月…?」
「吾月君…?」
心配げに、更に覗き込んでくる。心配に対して、身体を起こそうと思う。シーツに触れる両手、丁度良い場所で力を入れる。勢い良く上半身を起こした。
「吾月君っ」
「普通みたいだな…」
起きあがって間近にいた達輝は、少しがっかりした様に背を向けてベッドのカーテンの向こうに消えた。
僕に対する態度に腹を立てる以前に、達輝に伝えないとと、急いでいることがあった。
「達輝…夏枝ちゃんに会ったよ」
ガターンっ。
何かが倒れる音が聞こえたと思ったら、達輝が目の前にいた。僕の身体の左右に両手を置いて、顔を間近に近づける。僕は思わず座椅子のリクライニングの様に後ろに下がる。
それでも構わず、達輝の顔は近づいてくる。
「…吾月」
えっ? と思ったら、達輝の顔は目の前から無くなった。
「お前、キスしたことないのか?」
はぁ? 訳がわからなかった。何で急にキス…?
「なぁ、大川」
急にからかい口調になって、先刻の音の素らしいパイプ椅子を直しながら、裕子さんに向き直った。
「えっっ? あっ当たり前じゃない。付き合い始めたばかり何だから」
彼女は頬を染めつつも、負けじと答える。
「松野…弟。お前下らないこと言ってるんじゃないよ。それよりも…」
先生は僕に向き直る。
「お前は大丈夫なのか? そう言えば…弟も言っていたな。夏枝って杉崎(すぎさき)のことか? こないだ…亡くなった」
少し困った様に目を伏せた。
「先生…多分、今そいつ疲れてるから…」
「あぁそれもそうだな。帰れそうか? 松野?」
「俺が一緒に帰るから大丈夫だよ」
「私、鞄持つよ」
どうしたんだ?
何時もなら、何よりも先に聞く筈のことを聞いてこない達輝に僕は戸惑っていた。
鮮やかに蘇る。
「夏枝…」
俺は…
記憶は…笑顔と出会いと泣き顔と全てをを、思い出させる。
思い出せるのに、俺は。自分の痛かった記憶へ到達する。
中間テストも終わった、6月の晴れ間。
屋上から見上げる青空、乱反射する太陽。目の前には夏枝の笑顔。いつもの様にばか言って笑わせて、それを俺に向けてくれる。嬉しかった。
ばかでも何でも。夏枝が笑って俺に向いてくれるなら。
「もう、吾月君だったら絶対そんなこと言わないんだからね?」
「何言ってんだよ、当たり前だろ、俺だから言うんだ」
そう言うと、ばかな笑いとは別の微笑みを見せる。それは嬉しそうに。
「そうだねっ達輝だもんね~」
そしてにっこりと笑いかけてくる。幸せだと思った。微かな微笑みの意味も俺は知っていたから。
「ねぇ達輝」
「ん?」
既に笑いは収まっていた。風が吹いて夏枝の長い髪を流した。それを片手で押さえながら、夏枝は言った。
「裕子がね、吾月君のこと好きなんだって…」
「そうなのか?」
思わず普通に聞き返す。内心驚いていたけど。
「うん。私、相談されたんだ…どうしたら良いと思うって」
俯く夏枝。俺は何となく落ち着かない気になった。
「どうしたら良いったって、ねぇ? 打ち明けるか、様子見るか、諦めるかくらいしかないわけじゃない?」
最後の選択肢を聞いた瞬間、俺はぐっと自分を抑えた。
「まぁ、どうしたいの? ってことになって、伝えたいって言うから…」
夏枝の嗚咽で身体は震える。俺も震えてる頭の中が。
俺は夏枝うなじを見つめてぼんやりとしていた。
「だから…今。言ってる筈だよ。裕子にいくじがちゃんとあればね」
うなじが、がくんと下がる。俺も俯く。
「でも…裕子だから。大丈夫だよ…ね?」
語尾は小さくそれでも聞かれていることがわかった俺は、自分の表情も認識出来ないまま、頷いた。泣いている目は困った様子で俺は見上げる。あぁ、そうか、俯いてたから声に出さないといけなかったんだ。
そんなことにも気づけなかったんだ。俺。何でかって、言ったら。
「うん…そうだよね。ありがとう、達輝」
微笑んで夏枝は言った。
あれっ? 俺、頷いたのか?
「いつもありがとうね、達輝。私ね…」
やめろっその先は言うな。
夏枝をとめようとする、けれど現実には体は動いていなかった。
「好きだったんだ」
夏枝っ。
「吾月くんのこと…」
目を見開いた、筈だった。目の前が真っ暗だ。感じていた予感、聞きたくなかった言葉。
どうしたら良い?
「夏枝…俺は…」
声がどこか別のところから降ってくる様な気がした。
「うん?」
夏枝が振り返る。風が吹いて、雲を動かす。太陽は別の光を放ちだす。
「好きだ」
搾り出す様に出した声は擦れていた。
「………」
「夏枝が」
「…え…」
疑問でも答えでもない、当惑の夏枝の言葉。それも擦れていて、見開かれた目が俺を見つめていた。
「ご…めん。達輝」
走り出す夏枝。屋上の扉は音を立てて閉まった。
俺は、考えるより前に伝えてしまった。
夏枝の気持ちを。
「なつ、あのね私さちょっと気になる人がいるの」
きょとんとした目で私を見返す、なつ。それがじょじょに見開かれていく。
「へ…? 裕子あんた、男の子あんまし得意じゃないって言ってなかった?」
前に話した、小学生の時にいじめられて以来苦手だと言ったことを言っているのだろう。でも、それでも私は知ってしまったから、優しい男の子もいることを。
「うん…意地悪な人は苦手だよ? でも良い人もいるんだなぁって」
「好きってこと?」
学校帰りに寄ったファーストフードの店で私は思いきって話してみた。
なつは、カウンター席に並んで座っていたせいか、下から覗き込み私を見上げる。
「だぁれ?」
意地悪そうな笑みを浮かべながら、なつは言う。
その笑顔の悪戯半分なのが笑顔だけだと何となくわかって、私は切り出した。
「あっ…吾月君…」
「へっ?」
大きく目を見開いて、固まる。
「吾月君? へぇ~そうなんだ?」
何だかやけに大声に聞こえる。あからさまに誤魔化しだとわかった。
なつ? なつも、もしかして…
「頑張んなよね? 応援するからさ」
にっこり笑って、そう言われた。
無理を感じる。明らかに、隠してる。
「なつ…なつ、もしかして…」
「え? なぁに?」
笑顔で返される。きっとどんより顔の私。
多分言いたいことわかってて、言わせないんだ。
何だか、がっかりした。別に私だけが吾月君を好きだなんて思ってない。思ってなかったんだよ? 私は。
気持ちに嫌な感じのものが溜まって行く。
言ってくれたら、良かったのに。言えば、良かったのに。
私はどうしたら良いのか、わからなくて。
タイミングを逃した。
どこからか、お経が聞こえる。
「……つき…」
誰かが、俺を呼ぶ。
「き…」
本当に、俺か? 俺を呼んでいるのか?
まさか。あいつが俺を呼ぶ筈がないんだ。
お経の声は止まずに、どんどん近づいて来る気さえした。
「…つ…き」
なぁ、どうしてはっきり呼ばないんだ? それだけじゃ、わからないだろう?
俺なのか。
吾月なのか─
見たくないもの。聞きたくないもの。慌てて塞いだ。
視界がぐるぐる回って暗転する。
「わっ」
声に我に返ると、上半身起こた状態で全身汗だらけの俺がいた。
蒸し暑い、夏の夜。開いた窓からは風の気配もない。でもこの汗は、熱帯夜の所為だけじゃないのだと自覚していた。
「大丈夫か? 達輝」
見返すと吾月が心配そうに、俺を見下ろしていた。
「あぁ…」
額の汗を拭いつつ、答えると吾月は反対側にある自分のベッドへと腰掛けた。間に机があるから、結構距離がある。
「お前こそ、人の心配してる場合じゃないだろう?」
聞こえるか、聞こえないかくらいの声で、ぼそりと言う。
「僕は、今は大丈夫だよ。達輝の方こそ、うなされてたぞ。Tシャツびっしょりだし。シャワー浴びて来たらどうだ?」
「…母さん、もう寝たか?」
「いや、父さんまだ帰ってないから」
「そうか。じゃぁ入るかな」
呟いて、立ち上がる。
母さん神経質だからな。割と。夜中の物音で起きたりするんだから。こっちも気を使うしかない。
着替えを用意して、部屋を出る頃、吾月は雑誌を読んでいた。
台所でテレビを見ている母さんを横目で見て、脱衣所に入る。
何も考えることも出来ずにシャワーを捻った。出て来た水は少し温い。調節しようと、そう思う。動くことが頭の隅でぼんやりとしている。気がつくと、水は丁度良い温度になっていた。汗を流す。頭を洗う。顔も洗って、風呂から出ると歯を磨いた。
頭の中じゃなくて、頭の横の近くくらいに何か自己主張するものがある。気がつけば、容易く頭に侵入してくるのだろう。でも、気付かない振りをする。今はまだ。
部屋に戻ると、雑誌を広げたまま吾月が眠っていた。それを見下ろし、雑誌をどける。
寝顔は変わらない。昔から。出来の良い兄。それなりに造作の整った顔。おつむも人並み以上、人当たりも良い。本当に、昔から、そうだった。
「だから…か」
何ともなしに、口から出る言葉。それは、俺の本心か?
「何が、だから何だ?」
吾月と目が合う。起きていたのかとかそれ以前に、俺は。
「お前が…」
ぼんやりとした頭が口に出してはいけないと、飲み込ませた。
「お前が? 何だよ?」
今日変だぞ? お前。いや、そうじゃない。もっと前から、そう夏枝ちゃんが…
「そうだ。どうして、何も聞かないんだよ? 夏…」
言葉は、塞がれた手で途切れさせられた。
達輝を見返す。目を逸らして、いる。達輝が? どうして、そんなに煮え切らないんだ? いつでもどこでも、夏枝ちゃんに関してだけは、執着を忘れない様な奴だったのに。
「お前、何で大川と付き合ってるんだ?」
突然の問い。手を離され、見返すと今度は、真っ向から目が合う。挑む様な達輝の瞳。
何の関係があるのかは、わからなかった。でも、答えなければならない。
「好きだから…だよ」
自然と、困惑した返事になる。何だか、自信を持てなかった。
「好きなら、付き合うのか?」
喧嘩腰の達輝。何故なのかが、わからない。
「そうだよ」
目を逸らして、小さく答える。
直視できなかったんだ。何だか、自信が持てなかったから。
「鈍いな。お前」
「何が?」
達輝はふっと笑って、やっと目を逸らした。意味がわからなくて、見返す。
「そういうところさ。みんなに、好かれる吾月君?」
……?
「はぁ?」
意味がわからない。
みんなに、好かれる? それは、達輝。お前の方だろう?
昔から無邪気にばか一直線に走って、気がつけばみんなを引っ張って走ってる。そして、振り返ることを知らないんだ。なのに、夏枝ちゃんにだけは、手を伸ばす。
「何言ってるんだ?」
「…お前、鈍過ぎ」
呆れた顔して、立ち上がり自分のベッドへ入る。
「達輝」
「もう寝ようぜ?」
そう言って、背を向け何も言わなくなった。
「意味わかんないよ」
呟いて、背中を見つめる。
答える気がないんだ、そう思って電気を消す。
「お前、ばかだな」
真っ暗な中達輝の声が聞こえた。
「はっ? 僕?」
またもや、意味がわからない。
「そう。…おやすみ」
「……おやすみ」
わからせる気がないんだ。それしか僕にはわからなかった。
近所には、空き地があってそこには背の高い草がたくさん生えていた。入ると、くっつき虫が必ず服にくっついていたり、貧乏草が生えてるから、ここは貧乏って言ったり。ぺんぺん草も生えてた。耳元で鳴らすと微かな音がする。でも明らかにぺんぺんとは聞こえない。
今はそう思う。色々経験して、時が経つ。身体も心も成長した頃。無邪気さはなくなったわけじゃない。でも、蝉の抜け殻を拾えないし、かまきりもバッタも怖くて触れない。力加減がわからなくなった。多少の嫌悪感も抱く様になった。
昔を思い返すってそう言うこと。そう言うこと何だよ。達輝。ひねた気持ちもどこかに存在するのよ。
…好きって何? 私のことが? ばか言わないでよ。
信じられない。…私もそうだけれど。吾月君のことが好きだなんて。
好きと恋の境目にいたのよ。私達。
でも一人離れてしまった、吾月君。だから、傷ついた何て。
ばかみたい。
「吾月君の内側は、真っ暗ね。本当は達輝が一番好きな癖に…」
思い出は時に痛みの行いをも蘇らせる。
空き地にダンボール持ち込んで、秘密基地を作った。近所の子みんなで。ガムテープ持って来て、どんどん大きくさせる。その内に、雨が降って来た。みんなごみ袋とか、敷物かき集めて自分達の場所を守った。濡れた場所と、無事な場所。ごみ袋はともかく、敷物びっしょり濡らして怒られたけど、守りきれなかったと思う、痛み。
私の宝物は無事だった。達輝の宝物は濡れてしまった。吾月君は持って来なかった。
「だから、持って来ない方が良いって言ったのに」
「うるさいな。乾かせば使えんだよっ」
宝物は、めんことビー玉と、銀玉鉄砲。ビー玉はともかく、めんこは湿ってへにょへにょしてるし、銀玉鉄砲は分解して乾かさないと駄目だった。
「宝物だろ? だったらもっとちゃんとしたところに置くべきだと思うんだよ」
「基地は? 大切じゃないの?」
吾月君の言葉は、何だか悲しい気持ちになった。みんなで作ったのに。守ったのに。
「大切…だよ? だから、もっとちゃんと作ったら良かったんだ」
「そんなこと言ってんじゃないだろ? 夏枝は仲間はずれみたいに思ってるんだ。吾月のこと」
言葉が足りなくて、伝えられなかったこと。達輝にはいつもちゃんと伝わってた。
「そうじゃないよ。宝物だから、守りたかったんだ」
慌てて首を振って答える。
でも何だか、私には意味がわからなくて、首を傾げた。
「あっちゃん、ちょっと手伝ってくれる?」
「あっうん」
他の子に呼ばれて、吾月君は離れる。
「夏枝。俺のこと、ばかだと思うか?」
「え? 何でばかなの?」
わからなくて、めんこを日差しにならべる達輝を覗き込む。
「吾月は俺のことばかだって言ってるんだ。…俺もちょっと思った」
「めんこが濡れちゃったこと? でも、吾月君はばかだって言ってるんじゃ、ないんじゃないの? とりあえず、達輝はばかじゃないよ。優しいよね? いっつも。わたし、知ってるよ?」
達輝はみんなにわかりにくく、優しかった。暴れん坊で乗りが良くて、それでいて周りを気にしている。私だけじゃないのは良く知ってた。さり気なさ過ぎて、気付かない人も多いけど。多少暴力的なところもあったから。
吾月君は、そんな達輝の止め役が多かった。自ら出張ることもなく、達輝の後ろに立って。微笑んでいる。わけ隔てなく、誰にでもわかり易い優しさを持つ人だった。達輝以外には。
達輝は、家族が義務を背負って行うことが多々あることを、自ら自覚なく進んでやる人だった。
吾月君は、自分を隠して他人に優しくするけど、それは自分に踏み込まれない為で、理性を常に残すタイプなのだと思う。
こんな子供の頃には、そこまで細かいことはわかっていなかったけど、でも子供なりの付き合いの中で、隠れているものを見つけていることに気付いてなかった。
「めんこが濡れたとか、そう言うんじゃなくて。宝物をここにしまったことだよ」
達輝は言いながら黙々と、めんこを並べて行く。
「ううん。だって、わたしは宝物だから、ここにしまったんだもん。達輝は違うの?」
「…違わない」
「じゃぁ。良いじゃない?」
「うん」
頷いて、ビー玉も並べる。
日差しに乱反射するビー玉をぼんやりと眺めて、呟いた。
「乾くの時間かかりそうだね」
「そうだな」
でも、心はわくわくして、それすら誇らしかった。
「吾月君、なつに会わして貰えないかな?」
次の日、学校に無事に登校して来た吾月君に安堵しつつ、頼む。
昨日、帰った後電話で聞いた話。
吾月君が会ったなつ。
「え…?」
驚いた顔して私を見返す。
当たり前だよね。私今まで、余り強い口調で話たことがなかったから。
「あのね。良く考えたの私。それで、怒ってるの、だから良かったら会わせて貰えないかな?」
「怒ってるって…裕子さん?」
「吾月君、友情の上での譲り合い何てされたら、嬉しい?」
少し目を見開いて私を見つめる。
「…ありがたくは、ないな…」
「…じゃぁ、会わせて貰えるかな?」
「あの、裕子さんはその…」
困惑した言葉は言外にそれを語る。
「うん…わかったんだよ。タイミングだったって」
吾月君の微妙な気持ちも。
「そう…」
俯く、吾月君はどこ悲しげに見えた。
「でも、ごめん」
ふと、顔を上げ、私を見た。
「へ?」
「どうしたら、夏枝ちゃんが出て来れるのか、わからないんだ」
目を閉じている筈だった。急に見えた気がする眩しい光。
「恋は叶えられそうか?」
それは、言葉を伝えることを言っているのだろうか。
だったら、それは私にとってはゴールじゃないのだと、言っても無駄なのだろうとぼんやりと思う。
光の中から現れた彼は何時でも黒い姿だった。
そして、同じ問いを重ねる。
「わからない」
私も同じ答えを返す。
「行方はどうなった?」
初めての違う問いに戸惑った。
「…行方?」
「気持ちだ」
「それは…」
俯く。真っ暗な地面しかない。
吾月君が裕子を友達以上に見ているのが、わかった。私は嫉妬した。吾月君のことを私が好きだからだと、思った。でも、本当は…3人が壊れるのが嫌だっただけ。
思い出すのは達輝の言葉。好きだと言った。
吾月君のことで悩んでた心が一瞬でそればかりになった。
それから話かけられなくて、どうしたら良いのかわからなくて毎日考えて、考えて。
最後に思ってたのは、達輝のこと。
そうして、ここに辿り着いた。
誰か、助けて。そう思った。
ぐるぐる回る。同じところへ戻る。
もう止まらないから。
部屋の窓を開ける。風が入って来る。カーテンが揺れる。
俺はそれをぼんやりと見ていることしか、しなかった。
吾月は話したがっている。あいつのこと。
でも、俺は駄目何だ。俺の全てがあいつで埋まっている気がして、仕方がない。今、名前を口にするだけでも、どうにかなりそうだ。
ガキの頃、外で遊ぶ時駈けずり回って泥だらけになって良く母さんに叱れた。結構神経質な母さんはヒステリックに叩く時もあったから、俺はあんまり好きじゃなかった。俺が泥だらけになる時、吾月は絶対に遠くで見てた。遊ぶ時は一緒に遊ぶ、ガキの暗黙の了解。俺はただ単に、母さんに叱られない為の要領だと思っていた。
ある夜、母さんと父さんが話しをしてた。
「あの子はあたしの気持ちわかってくれてないんだわ」
「何言ってるんだ…」
「だって何度言っても、泥だらけになって帰って来てっ」
「子供って言うのはそう言うものだろう? 何言って…」
「あなたにはわからないのよっ子供と一番接しているのは私なのよ?」
「……」
「達輝に比べて、吾月は良い子だわ…私の言うことを良く聞いてくれる」
「お前、子供を比較してどうするんだ? わかってやるのが、俺達の役目だろう?」
「私が悪いって言うの? あなた、もしかして他に女がっ…」
「…お前…」
「やっぱりっそうなのね? だから、そんなこと」
「いい加減にしろっ」
母さんは求めることしかしないんだ。それがわかった瞬間だった。何で俺を叩くのか? それは俺が母さんの求めることに応えないからだ。吾月はわかってたんだ。それを。いい子でいること、母さんに求められるものであること。
俺は更に母さんが嫌いになった。父さんは母さんを病院に連れて行っている様だった。父さんは優しかったし、悪いことはきちんと子供にわかる様に叱ってくれた。
ある日、学校の行事で畑の手伝いに行くことになった。
「畑ね…また、泥だらけになってくるのねぇ」
母さんはそう言った。自分が正しいと思っている。いくら言っても聞かない子供。自分の求めることに応えないのなら、嫌味を言う。
「吾月、気をつけなさいね?」
そう、吾月にだけ声をかけた。むかむかした。衝動が抑えられなかった。
手伝いが始まった。吾月は俺のむかむかに気付いているみたいだったけど、行事の進行に従っていた。泥だらけになる度、母さんはテレビのコマーシャルみたいに白いものは真っ白に、他のは綺麗に洗濯していた。俺はそれを当たり前だと思ってた。
真っ白な体操着。吾月の背中には、松野って書いてある。俺にも書いてある。誰が書いたかって? 母さんだ。
「達輝…?」
気がついたら、びっくりした顔で吾月が俺を見上げてた。
俺は吾月の背中を押して、転ばしてたんだ。母さんの書いた文字は、畑の土で汚れてた。
「うらぁっ」
勢い良く、俺は吾月に向かって飛び掛る。
「うわっ」
「あっ俺も」
「たっちゃん、何してんだよ~」
他の奴らも混じって、土かけたり、飛び掛って来たり。
母さんの文字が泥に混じって読めなくなるまで。
「こらっ何してるの? ちゃんとしなさいよ」
夏枝が言った。笑って、多少呆れた様に。別にこの頃はまだ、恋とかわかってなかったし、わかる気もなかった。
「うるせぇなぁ、お前にもやってやるよっ」
「きゃっちょっっせんせ~」
「なっちゃん、大丈夫~?」
女子はいつもそうだ。何かあるとすぐ先生にちくる。
土がかかって多少泥だらけになった夏枝は先生を呼んで来た。
「達輝君? 駄目でしょ? こんなことしたら、畑の持ち主さんにも迷惑かかるのよ?」
先生は中腰で子供目線。頭に手を乗せられた。
怒られても、悪い気は全然しなかった。畑の持ち主さんにはちょっと悪いことしたなぁって思ったけど。
でも、母さんに文句言われる度、頭が熱くなる怒鳴りたくなる。まわりが見えなくなる。
「わかったかな? じゃぁ、またお手伝い開始しようね?」
俺は頷いて、皆もまた石取ったり草取ったり。
隣には吾月。吾月は何にも言わなかった。俺に押されたこと気付いてない筈ないのに。
家に帰ったら、名前真っ黒な俺達の体操着。
「あぁ、もうさっさと脱ぎなさい?」
呆れた顔して母さんが言う。今日は吾月がいたから文句言われなかったのか? そう思った。
晩飯の後、眠くなった。閉じてくる目を開けようと思って、目を擦る。
「達輝、眠いの? 部屋帰って寝なよ?」
「…うん」
頷いた。でも、眠気が取れなくてそのまま横になる。
「お母さん、手伝うよ」
そんな吾月の声。
「ありがとう」
ちょっと笑って母さんが答える。
「今日は、楽しかったみたいね? 吾月」
「うん。楽しかったよ…」
ちょっと困った様な吾月の声。
「良かったわね。吾月」
「…うっうん」
嬉しそうな吾月の声。
何だか、悲しくなった。でも眠気がそのまま襲って来た。
次の日は元気出なかった。遊んでても、ぼんやりするんだ。
夕方になって、皆と別れて吾月とも理由つけて別々に帰った。
一緒に居たくなかった。
俺に出来ないこと、全部出来る吾月。母さんは吾月が居れば良いんだ。
「あっ達輝」
声に振り返る。夏枝が立ってた。
「何してるの?」
笑いながら近づいてくる。でも、俺の顔見てびっくりした顔になった。
「…えーとね、私、お使いの帰り何だけど」
ちょっと下向いて、袋をがさがささせる。歯切れが悪い。俺どんな顔してるんだ?
「夏枝?」
「ん?」
「俺…どんな…」
言いかけて、思う。聞いて、どうするんだ?
額に手を置く。下を向く。くぐもった声で、
「何でもない…」
それだけ言った。
「泣きそうだよ」
妙に通り良く聞こえる、夏枝の声。
「…え?」
ゆっくりと夏枝を見た。
「うん。泣きそう。捨てられた動物みたい」
的を得てた。俺の心情。
捨てられた。
「なるほど」
俺はそう感じていたのか。
何だか、胸の奥の方で堪えていたものが出て来る様な感覚。
「…っはは」
「達輝…?」
不思議そうな問い。当たり前か、いきなり笑いだせば。
「……泣いてるの?」
「へ?」
夏枝は首を傾げて俺を見てる。
俺も首を傾げる。
泣いてる? 頬にそっと触れる。感じる液体。
「あぁ、泣いてんのか。俺」
「うん」
夏枝が頷く。それがぼんやりとしていく。
「…吾月と俺はどう違う?」
「えっ? 吾月君と?」
びっくりしてる、それでも思案始める。
「うーん。元気の良さかなぁ?」
「元気?」
「うん。元気ないと達輝っぽくない感じだね」
「そうか…俺今、俺っぽくないか?」
「そう言う意味…ではそうかな」
何だか、単語でしか答えが返って来てない様な気がした。
「答え難いか?」
「…何のことか、良くわからないからね」
「俺が、遊んで泥だらけになって家に帰ると母さんが怒るんだ。吾月は初めから泥だらけにならないことしかしない。だから、俺は怒られる。吾月は怒られない。母さんは父さんと俺のことで喧嘩してた。それは俺がいるから? 母さんは吾月には笑う。俺には笑わない。母さんは俺に吾月みたいになって欲しいって思ってるみたいだ」
「…あのね。幼稚園の時に、吾月君と達輝の見分けがつかなくて、何で同じ顔が二つあるの? いらないじゃんってお母さんに言ったら、叩かれたの。頭」
そう言って頭をさする。
「顔が同じだからって何でいらないの?って言われたから、わかんなくなるからだって言ったら、笑って。同じ顔じゃないのよ? 似てる顔なの。違う人だからいる人なのって言われた」
「似てる顔…」
「まーそん時はそんなのわかんなかったけど、達輝と吾月君が違う人だなっているのは良くわかるよ」
凄い考え方だと、そう思った。変なの…でも、ちょっと嬉しかった。何でだかもわかんなかったけど。
「そうだったのか…お前見分けつかなかったのか?」
冗談めかして言った。別に今はそんなに傷ついてない。
「あっごめん。でも今はちゃんとわかるよ? 大体、双子だから同じじゃないんだよ?」
「見分けつかなかったんじゃん」
「だーから今は…」
笑った。俺は嬉しかった。
双子だから同じじゃない。
夏枝じゃなきゃ出てこない言葉だな。多分、今は。
「達輝は、お母さんが自分のこと好きじゃないと思ってるの?」
「…そうかもな」
あんまり、そこを考えたことはなかった。叩かれるのが嫌だなと思っていただけだったから。
「何か、吾月君とお母さんの取り合いしてるみたいに聞こえるんだけど」
「はぁ?」
「だって吾月君はお母さんのして欲しいことしてるんじゃないの?」
「あぁ」
そうだ。吾月は母さんの求めることに応えている。
「達輝はお母さんの怒ることして、怒られてるんでしょ?」
「……」
「それは、仕方のないことじゃないの?」
母さんの求めることをせずに怒られる。仕方ないのか?
「お母さんとお父さんが喧嘩してたのは達輝が大事だからだよ。じゃないと、喧嘩したりしないんだって。こないだ、私のお母さんが喧嘩した時教えてくれた。私のこと考えてるからだって」
「本当に…?」
自分の求めるものしか受け入れようとしない母さん。俺は求めるべきものではない。なのに父さんと喧嘩してた。俺がわがまま言うって。父さんは母さんに怒ってた。母さんは別のことで父さんのことを怒ってた。
「お母さんは吾月君がしてくれてることが嬉しいってことだよねぇ」
「俺は…」
一回も喜ぶ様なことをした覚えがなかった。吾月はいつも母さんが望む様に動く。家の手伝い、服を汚さない。他にも色々。
「達輝はお母さんに笑って欲しいってことなの?」
………なるほど。
「そうか……」
「そうじゃないの? 良くわかんないけど」
俺は母さんが吾月にする様に接して欲しかったんだ。
俺も求めてばっかりだったんだ。
「はぁ~っ」
でっかい溜息して俯いた。恥ずかしいっなぁ。
「わかった。わかったけど…」
「なにが?」
きょとんとした顔で俺を覗き込んで来た。俺はびっくりして顔を上げる。
「何か違うと思うんだよなぁ」
家の手伝いとかはともかく。母さんが喜ぶ為に俺は友達と遊ぶこと、我慢しないとならない。
でも、吾月はそれをしてる。友達に疎まれることもなく、上手いこと。
「お母さんは、達輝が吾月君がじゃないと好きじゃないってことじゃないんじゃないの?」
そう言う意味じゃなかったんだけど。けど、それも一理ある。
「俺は元気良いのか?」
「…うん?」
「そーか…じゃぁ俺らしく、行くよ」
子供にそんなことまで誰も求めてない。大人になるまでに覚えることだって今はわかってる。
でも、母さんはそれを俺に求めた、俺は意味がわからず、理由がわからず、反発した。
母さんが求めるものの為だけに俺じゃなくなる。そんなの割に合わない。でも、母さんが俺にしてくれてることは確実にあるんだ。父さんみたいに、そう父さんみたいに違うことは違うって、良いことは良いんだって、そう言いたい。俺だけがしても、そんなの甘やかしだ。
だって、吾月は我慢してるんだから。あの畑の手伝いの時にあいつは、楽しそうだったんだから。泥だらけでも。
家に帰って、良く良く考えたら夏枝に泣いてるとこ見られたんだよなぁと思った。
口止めって言うか、礼って言うか。そう、俺あの時夏枝に見つからなかったら家に帰れなかったかも知れないんだ。話して、すっきりもしたし嬉しかったもある。やっぱり礼だ。
「これやるよ。だから、黙っとけよ?」
本人には照れ臭くて、はっきり言えなかったけど。夏枝はにんまり笑った。その後ちょっと照れた嬉しそうな笑いを浮かべていた。それを見て俺はちょっと嬉しかった。
女にやるプレゼントって言うのを意識したって言うのもある。
喜ぶかどうかわからなかった、ビー玉。昔から色々集めてたけど、きらきらして綺麗だったから、女なら喜ぶかも知れない。そう思った。めんことか銀弾鉄砲、こまとか何て女は喜びそうにないことだけはわかってたから。
それに、誰かが喜ぶ為に何て初めてやったんだ。母さんにもこうすれば良いのかも知れない。
それがわかったのも嬉しかった。
それからは、家の手伝いとかはしたりしたけど、俺が我慢しないことには嫌そうな顔する母さんに耐えつつ俺は俺らしく過ごした。
吾月とも普通に接していた。母さんも、頻繁には病院へ行かなくなっていた。
だから、昔のことの様に語れる様になった頃、ある時吾月は言った。
「母さんは可哀想な人何だよ。僕も、昔は怖かったけど、ね」
吾月は怯えて、母さんのために動いていた。
俺も怖かった。でも、俺を叩く人の為に動きたい何て思わなかった。
「叩かれたくない。そう思ってたけど、たまに嬉しそうにする姿を見ると空しくなった。だってお母さんが自分が望んだものを他人与えられて初めて喜べるんだ。受け入れ方も、求め方も知らない人何だよ」
同情。それをして、ある意味見下して、初めて相手を怖くないと思える。
やっぱり吾月は大人だ。そう思って羨ましくなった。より父さんに近い気がして。
それからは、俺も母さんに無理させようとは思わなくなった。無理に気遣うこともしなかったけど。向こうも無理強いをすることはなくなった。
諦めたのかも知れない。
それでもたまに笑って話をしたりするんだ。
夏枝は誰にも言わなかったみたいだった。口止めしなくても言わない気はしてたけど、嬉しかった。俺の嬉しいことを俺が望まなくても知らない内にしてくれてるってだけじゃなくて。俺は夏枝の嬉しい顔をもっと見たくなった。ビー玉あげてもあげなくても、きっと礼言ったら笑ってくれてた。
それか、
「なんのこと?」
何て笑いながら、そら素っと呆けそうな、そんな感じ。想像するだけで楽しくなる。
恋だとか、そう言うんじゃなくて。良くわからないけど。
会えるのかも、知れない。それだけで心が震えた。
吾月に聞けば、全てがわかる。けど、それじゃ駄目何だ。あいつに会えるのなら、悪魔に魂さえも差し出してしまいそうな自分がいる。
もう、心で納得してたつもりだった。あいつの誕生日だって、一人で迎えた。笑顔も何もかも、思い出だって、そう思っていた。
吾月にいるのが、もしもあいつなら俺は。あいつが何を望んでいるのかはわからないけど、覚悟を決めて会わないとならない。
こんなに大切に思っている。いたのだろうか? いつでも近くにいたかったけど。好きじゃないなら仕方ないとは思った。
俺が言った後、あいつはぎこちなく応対して来たから、まともに話してもない。
そのまま、あの事故が起きた。
そのことで俺を怒ってるなら、会ってくれないんじゃないかとは思う。
「会いたいのか?」
誰に?
「思う相手だ」
それは誰?
「それは主が一番知っている」
夏枝が、吾月を好きだと言った。その瞬間から、上辺しか見えなくなった。
俺じゃ駄目なんだって。そう思ったら、全部。
「全てはあいつの為、か」
吾月が憎いわけでもない、夏枝の気持ちは揺るがないのだろうとも思う。
ただ、目に見えるもの全てがなくなれば良いと思った。
俺は夏枝が好きだった。
好きな気持ちは変わらない。
だからこそ、全てに目を塞ぎたくなったのだろう。
「ただいま」
振り返ると、吾月が立っている。
「お帰り」
そう言って背を向ける。
「なぁ、達輝」
「ん?」
「夏枝ちゃんは僕のことを好きだったんじゃないんだよ」
「……何言ってんだ?」
俺はまた振り返る。今日の風は強い、カーテンが大きくなびいて一瞬吾月を隠した。
「好きなのは…」
「吾月…?」
カーテンが戻り始め、吾月の足が見えた。
「うっ…」
うめき声? が聞こえたと思った。戻ったカーテンが倒れていく吾月を目の前に見せた。
「吾月っ」
慌てて立ち上がり、駆け寄る。
「ごめん、な…つ」
脂汗を浮かべる、吾月の額。言葉はそこで途切れた。
な…つ? 夏枝?
「そこにいるのか?」
呼ぶ声がした。僕を呼ぶ声。
「吾月、君。ごめんね。」
そう言って本当にそう言う顔をするんだ。
「夏枝ちゃん」
名前を呼んで、そして僕はあお向けに寝転がっていることに気がついた。
そして、また見上げると覗き込んでいる懐かしい顔。
もう、写真とかでしか見られる筈のない顔。
「ごめん」
ぽつりと呟けば、顔が歪む。
「吾月君は、何も悪くないよ」
泣きそうに。それを見て僕は懐かしく思うんだ。
大体こういう時には達輝が現れたなって。
「本当に、私がわかってなかったから、勘違いしてたから」
「好きな人を?」
そう言って僕は笑う。何故か悪い気分ではなかった。逆にやっとわかったのか、そう思う。
吾月に言おうとする僕を確実に君は止めるだろう、そう言う確信が僕にはあったんだから。
「最初は良くわかってなかった。…でも、裕子の存在が私達の関係を変えた時…」
嗚咽が聞こえる。そうか、幽霊でも泣けるんだ…何て関係ないことを僕は思っていた。
「多分、好きな人とは別に別れて行くことが私には耐えられなかったんだと、そう思う」
僕は、多分どうでも良かったんだ。達輝が大事にする夏枝ちゃん、達輝が大事にするかあら夏枝ちゃんを大事にする僕。僕と君なんて本当は、達輝がいなければ単なる幼馴染だったね程度の関係だったんじゃないかと思う。
ただ、達輝が求めるものは僕の求めるものでもあったから。それだけのことなのだろう。
「僕は、夏枝ちゃんのこと別に好きじゃなかったよ?」
微笑んで言う。保身の為じゃない初めての言葉。少ししこりのある胸を押さえつつ。
目の前で一瞬傷ついた顔が、次の瞬間には驚いた顔になった。
「ありがとう…吾月君」
そして、そんなわけないことを知っている顔になって笑う。
その後ろに僕は光を見た。後光の様に彼女をさす。どんどん光が強くなって僕には何も見えなくなった。
本当にそんなわけない。なかったんだ。これだけ一緒にいて。
僕は嘘つきにもなるさ。
達輝の大切な夏枝ちゃん?
光射す場所。
「わかったのだろう?」
黒い彼は相変わらず黒かったけれど。
私のいる場所は一変して明るい光の射す場所。
「ここは彼の中ではなかったの?」
不思議に思い聞いた。
「…人の意識に他人が入ることは難しい、それは我が力だ」
「そう、どうもありがとう。」
「後は、伝えるだけだな?」
彼は私を真っ直ぐに見つめ、確認する様に私に問てきた。
「…何で、私のお迎えなのにそこまでしてくれるの?」
不思議に思っていた。お迎えだからだと言われたらそれまでなのだけど。
「本当に、我の質問には答えない娘だのう?」
呆れた様に溜息をつかれ、私はちょっと図に乗っていたなぁと思った。
「迎えだからじゃよ、まぁ最初にちと遊んだ我も悪いのかも知れんがな」
遊んだ?
「迎えがないと言うのは嘘じゃったんじゃよ。あんまりにものろのろとしている娘だったから喝を入れてやろうかと思ってのぅ…逆効果にはならんかった様だがなぁ」
「迎えはある。それはわかったけど…遊ぶって言うのは…」
本当に一瞬にして腹が立った。でも仕方ないとも思った。
「悪かったのぅ。済まんかったな…だが、な。人の意識に入り込むと言うのは本来ないもの何じゃよ」
「え…?」
本来ないもの。そう言うことを行えば大体に置いて罰があるもの。
「達輝には会うことは出来ん。お主はこのまま輪廻に入るんじゃ」
「なっ何で? それが罰なの?」
「そうかも知れんのぅ」
「そんなの、駄目!」
叫んだ。吾月君も裕子も傷つけて、やっとわかったのに。
伝えたいことがあ
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意識を取り戻したって言うのだろうか。
そこは私の知らない場所で、知らない人がこう問うてくる。
「最後の記憶は何だ?」
二つのまぶしい光と空。
「ならば、この状態を理解できるのではないか?」
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