「ではこれより呉蜀との戦について話し合いをする」
男の屋敷に集まりしは雲の将、秋蘭、一馬、詠、凪達三人、そして風である
王、曹操の「各自戦に備えよ」との命を受け、夏侯昭率いる雲の将は集う
長方形の長い机の中央に座る男の隣に秋蘭を、左右を軍師が固め将が並ぶ
「我ら魏は天子様の下知により大義の下、戦を行う。我らが戦う理由は漢帝国に逆らう逆賊を滅ぼすという名目だ
だが呉蜀は俺たちを逆臣と呼び戦の檄文を飛ばすだろう、陛下を誑かす逆賊曹操を討てとな」
「何が逆賊や、隊長が今までしてやってきたこと。恩を仇で返しよって、どの口が言うんや!」
「落ち着きなさい真桜、蜀は元々漢帝国復興の為に戦をしていたのよ。大義名分がなければ蜀の兵は士気が落ちる
自分らに都合の悪いことは明かさないわ、いくら僕達が騒ごうとも真実は誰にも、特に民には解らない。
昭が呉を援助していたなんてね」
詠の言葉は頭では理解できるが心が理解出来ない、いや理解などはしたくは無いのだろう
手を握り締め、拳を作ると行き場のない悔しさをぶつけるように机を一つ叩く
凪と沙和は真桜を心配そうに見つめ、我らも思いは同じだと話し落ち着いたところを見て詠が男に話を
進めるように促す
「開戦の文は向こうから届くだろう。なにせ呉の頭脳、周瑜殿は病にかかり時を惜しいと思っているからだ
ならば我らは万全の体制を整え、覇王の兵らしく堂々とその挑戦を受ける。其れこそが民に我らの大義を示すことに
なるからだ」
「相手に用意をさせず早い段階で戦に持ち込まないのですか?」
「良い質問だ凪、もちろん相手に合わせれば策は相手の都合の良いように張り巡らされる。だが俺達には
早い段階で戦をするよりも、遅い段階のほうが都合が良い」
首を捻る凪達、通常ならば迅速に兵を進め、敵の体制が整わぬ内に策を少しでも崩し、攻め込むこそが必勝の手
だが其れをしない、それどころか遅いほうが都合が良いというのだ
「其れは、周瑜殿の体調が悪化するのを待つということでしょうか?」
「俺と同じことを考えるな、だが違う。華琳は周瑜殿を民の役に立てさせる為、生け捕りにしろと言っている」
男の言葉に想像をするのだが、どうもそこまで思考が追いつかないようで
そんな三人に詠は少し呆れた溜息と、本当に最初から教育しなおす必要があると
これでは脳筋になってしまうかもしれないと頭を抱えていた
「あのね、向こうは自分たちの有利な戦をしようとしてくるわけ、向こうの得意な戦って何?」
「・・・あ」
詠に促され、思考を導かれようやく考えついたのか声を合わせ「船戦!」と顔を見合わせる
「そう、その通り。この位置関係なら呉と蜀は僕達を柴桑付近の・・・そうね、赤壁までおびき寄せるはず
その時戦場は水の上」
「詠、俺達は水上での戦争経験が無いに等しい、この状態で呉と戦争したとき指揮はとれるか?」
「正直、難しいわね。一度でも大きく経験をしていれば想像付くけれど。やったことが無いことは
確証も保証も出来ない」
男の言うとおり、大陸を半分制するまでに大きな船戦などまるでしたことは無く
水上での戦など想定し訓練をした事などたことは無かったに等しい
ましてや本来この時点で劉表の水軍をまるごと手に入れているはずが、肝心の劉表は既に没し
水軍も解体され手に入れることなど出来ていないのだから
歴史は非情にも男や華琳の味方ではなく、赤壁で敗走するのが貴様らの運命だと言っているかのように
凪達三人は大きな水上戦、船戦となった時の兵の指揮や戦方など全く想像がつかなかった
小さな戦、賊等を鎮圧する際に小さな川で、小舟での戦闘などは経験があるが
本格的な戦など経験は無いに等しいのだから
「我らは兵数で既に圧倒的な差が有る。其れに加え向こうと違って統制は一つ。乱れることは無い」
「昭の言うとおり。此処は相手が動き出すまでに水上戦での練度を上げる。船も作成しなくちゃならないし」
「船作成の指揮は真桜に、船軍の練兵は秋蘭を中心に行ってもらう」
船戦で最も必要な技能は弓である。相手の船にぶつけ、乗り移るまでに弓で敵の戦力を削るのが船戦の基本
基本が出来ていなければ、全てにおいて足元から崩されてしまう。だからこそ僅かな時間でも
基本を叩き込み、船をぶつけ、有利な白兵戦へと持ち込むことが重要になってくるからだ
「先ずは凪達三人と詠に新野まで先行してもらう。そこから船を作成、更に練兵を行ってもらう」
「隊長と秋蘭様は?梁も一緒には来んの?」
「俺は矢を集める。俺の開拓した行商人の助けを借り、矢を大量にかき集めておく
梁と苑路、統亞は別の仕事だ、今回の戦には参加しない」
「私はお前たちが船を作成している間に季衣、流琉の虎士。そして姉者のと霞の率いる虎豹騎の弓練度を底上げする」
統亞達の仕事はなんだと首をひねり、水上での戦に不安を覚えながらもとりあえず納得をする真桜と沙和
だが凪だけは一人、一生懸命考えを巡らせていたようだった
そんな様子に男は直ぐに気が付き、少しだけ間を置いて凪に何でも良いから考えを話すように促すと
「あ・・・はい、あの、もしかして隊長が赤壁付近の江夏では無く、新野に布陣させるのは
敵を使って練兵することも考えて居られるのですか?」
おずおずと自分の考えを話す凪。自信なさ気な表情で、男の返事を待つ凪の眼には男の心底嬉しそうな顔
そして徐に席から立ち上がり、男は凪の頭を優しく撫でていた
「良く気がついた。偉いぞ、やはり詠と組ませたのは正解だったようだ。良く吸収している」
凪の言うとおり、詠と風の助言。そして桂花と稟が考えた策の一つ。華琳がやった練兵法
戦の中での練兵を、おびき出そうとする敵兵を使って行おうというのだ
敵はどうしても自分たちの有利な戦場に敵を誘いこもうとする。その時、誘いこみをする兵の数は少なく
また、確実に逃げると分かっている敵。これほど訓練に適した敵は居ないだろう
「凪の考えたとおりだ、敵の誘いに乗りつつ兵を南下させ、江夏に付く頃には練兵は完了
決戦の赤壁では完全な形で戦を行えるようにする」
「僕たちの兵は練度は高い、けれど水上戦では其の力を発揮できないというなら敵を利用し練度を上げる
新兵でない分、練度の上がりは通常以上。僕もこの機に指揮の感触を掴むわ」
周瑜は時間がない、新野を決戦の場に選ぶ事もできるだろうが其れは出来ない
赤壁程の大河があるわけではない場所では完全な水上戦に持ち込むことは出来ないし
肝心の火計を、連環の計を使った煉獄の炎といえる策略が行えないのだから
魏軍はそこから動かない、そういった道を選ぶことが出来るが
周瑜は選ぶことが出来ない、彼女に残された時間は無いのだから、選べるのは魏軍を赤壁に呼び込む道だけ
「僕からもう一つ、一馬は騎馬兵を突騎兵に変え、船上で馬を扱えるようにして」
「えっ!?船の上で馬を?それに突騎兵とは何ですか?」
突騎兵とは弩を持たせた騎馬兵のこと、元々華琳に騎馬の重要性を説いていた詠は騎馬と弓を使った
一撃離脱の突騎兵という兵科を考え出していた
そして霞の神速の用兵術と一馬の人馬一体の馬術を組み合わせ、船上で騎馬を操り戦おうと考えているらしい
「結局は船をぶつけた後は白兵戦になるし、船も巨大なものを使うはず。ならば船上を大地と考え
船と船の間を駆け弩弓で蹴散らすわ」
「船の上で馬を・・・」
「一馬でも出来ないか?」
「兄者は意地悪ですね、そう言われてしまったら出来ないとは言えません。やってみせます」
「良っ!じゃあ早速なんだけど、突騎兵はそれほど多くなくていいわ。あまり多すぎても味方の邪魔になるし
重要なの白兵戦になったときの一撃離脱だからね」
詠は自分の考え出した兵科が作成出来ると喜び、用意していた竹簡を一馬に渡し眼を輝かせていた
男は其の様子を見ながら自分の席に戻り、茶を啜る
新野まで兵を動かした後は恐らく関羽辺りが一当てしてくるだろう
おそらく平地からでは無く川からだ、蜀もそれほど船戦が得意というわけでは無いはず
向こうもそれで練度と感触をつかもうとしてくるはずだ
南下した後、俺達は江夏に拠点を移しそこからが決戦だ。桂花の話だとそこまでは順調に行くと言っていた
敵と自分たちの思惑が合致しているからと
華琳は先行する凪達、そして俺が合流してから兵を江夏に移すだろう。そこまでに全ての下準備を終えねば
「何か質問はないか?無いならばこれで会議は終わりだ。俺は今後の動きを華琳に報告する。動くのは明日からだ
今日はゆっくり休んでくれ」
将達は異を唱える者もなく、皆が頷き部屋を後にする。だが風だけは今話をされた内容を黙々と竹簡に書き記し
一人部屋に残る。男の話した内容、そして詠の創りだした新しい兵科等を詳しく書き終え、顔を上げれば
そこには一人、一馬が風を厳しい眼で見下ろしていた
「どうしましたかー?風に何か御用でも?」
「・・・何をなさっているのですか?」
「先日お話したとおり、登用する方に渡す資料を」
一馬は勢い良く卓を叩き、風の書いた竹簡を乱暴に払い腰の宝剣に手をかける腰を落とす
「素性を知らぬ人間に自軍の情報を渡す等、普通なら厳罰、いや殺されても文句は言えませんでしょう」
「・・・お兄さんから許可はとっています」
「兄者は人を疑わず、信じ抜く人。それが仲間ならば尚更。だが私は、それで兄者が傷つくのが我慢できません!」
一馬は腰から剣を抜き、七星に宝玉が散りばめられた宝刀を構える
「一馬君は風が裏切り者だと?」
「違いますか?兄者は私に言いました。何故、黄蓋殿に言われる前に自分の眼の対処を多少なり知っているのか、
諸葛亮殿の眼を覗いた時、何故美羽さんが許靖さんが生きているのを知っていたのかと」
「・・・」
「兄者の眼を逃れる事など通常は出来ません。呉の周泰殿でさえ兄者の眼には捕らえられていた
貴女は中途半端に兄者の、魏軍を抜け、自由の身となり何をしていました?答えてくださいっ!!」
激昂ともいえるほど怒りをその眼に灯し、風を睨みつける握る剣に力を込める一馬
だが風はぼーっと向けられる剣の切っ先を見て居るだけ、そして椅子からゆっくり降りると
落ちた竹簡を拾い上げる
「動かないでください、弁解すらしないのならば認めたと判断します」
剣を風の首もとに当てる一馬。それでも風は恐れること無く竹簡を丸めると一馬の眼を真っ直ぐ見る
「・・・兄ちゃん、あまり俺達を舐めるなよ。命賭けてるのは兄ちゃんだけじゃ無いんだぜ」
「くっ!」
宝譿が突然低くドスの利いた声で喋り、一馬の握る剣がピクリと動く
「一馬っ!華琳の所に行く前に兵舎まで共に行くぞ、兵に説明をする」
「は、はいっ!」
玄関から男の大きな声が響き、一馬は剣を止めてしまう
そして風に鋭い目線を向けたまま、ゆっくり剣を鞘に収めると風をその場に置き去りに玄関へと走る
命を賭けるとは一体どちらの事を言っているのだ、兄者にか、それとも蜀にか?
しかし、私には斬れなかった。私には兄者のように冷酷になることは出来ないのだろうか
部屋には一人残された風が竹簡を小脇に抱え、散らばってしまった矢立を袖にしまい込むと部屋を出る
玄関を見れば、玄関で駆け寄る一馬の額を指で弾く男。風は此方に視線を向けることのない男の背中に
刺繍された魏の文字を見ながら顔を伏せ、竹簡を握りしめた
「・・・と言うわけだが、予定通りに進めて構わないか?」
「ええ、迅速に事を運んで頂戴。桂花、秋蘭の弩兵、弓兵を手本として練兵を行う準備は?」
「は、既に練兵は進んでおります。現在予定の半分は熟しました」
玉座の間では玉座に座る華琳と其の脇を固める桂花、華琳に対峙するように立ったまま報告をする男
桂花の返答に満足そうに頷き、男の献上した竹簡に眼を通し、詠の突騎兵の想像をしているのだろう
楽しそうに指で竹簡をなぞりながらブツブツとつぶやいていた
ひと通り頭の中で動かしたのか、軽く溜息を吐くと珍しく部屋の隅から鳳が男の隣に立つ姿を見て
華琳は「何かしら?」とばかりに玉座に頬杖をついて首を傾げる。それをみて跪く鳳
「は、これより鳳は昭様と共に矢の調達を致します。目標は五十万、期限は三日で揃えてみせましょう」
「五十万ですって!アンタ馬鹿なこと言ってるんじゃないわよっ!何処からそんな矢をっ!!」
「フフッ、良いわやって見せなさい」
「華琳様っ!」
突然実現不可能とも言える矢の調達を言い出す鳳に桂花は驚くが、珍しく真っ直ぐ視線を向けこの玉座の間に立つ
鳳を見た華琳はやってみろと許可を出した。華琳自身もどうやって揃えるかは想像がつかないが
鳳は以前許昌を数日で陳留と同じレベルに、また黄巾党と共に生活するための法を創りだした
魏のもう一つの頭脳と言っていいほどの部下である。なによりも彼女は出来ないことは口にしない
だからこそ華琳は許可をするが、桂花は不安、心配、一見怒っているように見えてしまうが
自分の姪、鳳を心配しているようでその珍しい表情に華琳は口元を抑えて可愛らしく笑っていた
「有難うございます。そういえば報告が遅くなったのですが武都から土産を」
「土産?何かしら」
「は、西涼より大宛馬を手に入れました。騎兵に配置可能です」
「なっ!大宛馬だとっ!?そんな馬を何処から・・・武都に居たときにそこまで手を回していたのか!」
矢では驚かなかった男は大宛馬と聞き驚愕する
そう、彼女は武都で地盤固めをするだけではなく、男の交易ルートを利用し大宛馬を西涼から手に入れていたのだ
良質の汗血馬である大宛馬。其れを大量に手に入れ騎兵に配置することさえ可能にするその頭脳に男は後ずさっていた
なんて手腕だ、いやそれよりも大宛馬を知っていると言うことだけでも相当だ、一体どれだけ知識を持っているんだ
桂花を立てるために後ろに、影のように仕事をしていたのは知っていたが、これでは前に出れば桂花は霞んでしまう
「大宛馬とはあの大宛馬のこと?良くそんな馬が手に入ったわね」
「いえ、これは昭様が交易や行商人を開拓し、活発にしてくださったからですよ。私はそれに少しだけ手を入れただけ
矢も本当は既に半分は手に入っています」
跪いていた立ち上がり、何時ものように衣嚢(ポケット)に手を突っ込み、カチカチと小銭を鳴らすと
ニッコリ笑う。そしてキョロキョロと周りをわざとらしく見回して男の腕に飛びつきしがみつく
「というわけで、私は此のまま昭様と矢を調達しますねー!あと宜しくケイちゃん」
「あと宜しくってアンタ、今回も戦に出ないの?」
「スマンが離してくれ、包帯がずれる」
「ええ~」と残念そうに言う鳳に男は呆れたように額に手を当て、華琳を見れば笑い、その隣には
質問を無視され青筋を立てる桂花
「ちょっと無視するんじゃないわよっ、相変わらず私の前でわざとらしくソイツに引っ付いて、馬鹿じゃないのっ?」
「ん~?だって戦は苦手だし、得意なケイちゃんに任せるよ。私は内政のほうが得意だから、適材適所ってことで」
男の目に流れこむ声は、口で言うこととは全く別の声
(いい加減無理しないで。戦で功を上げて軍師になりなさいよ)
(私は今の立ち位置で十分。戦が一番功績を上げられる、大好きな華琳様にケイちゃんの力を見せてあげて)
と、本当にこの二人は仲が良い、まるで春蘭と秋蘭のようだと男は抱きつかれた腕をそのままに
鳳の頭を撫でると「行くぞ」と一言
鳳は猫のように眼を細めて気持よさそうに撫でられ、歩き出す男と玉座の間を出る
「昭、待ちなさい。統亞達はどうなっているの?」
「予定通り、呂伯奢と馬の移動に従事してる。今は武都だ」
「そう、解ったわ。鳳は昭と矢の調達が終わり次第、李通と共にその足で統亞達の元へ」
「御意、お任せください」
出る寸前に華琳に止められ、声を掛けられた男は振り返り、華琳の言葉に鳳は男の腕を放し
跪いて頭を下げ、立ち上がり玉座の間から出ていってしまう
玉座に残された桂花はアンタに心配されなくともちゃんとやるわよと小さな声で呟き
華琳の方を向けば、華琳は少し複雑な表情で男の出て行った後の扉を見つめていた
廊下を歩く男と鳳、鳳はニコニコしながら男の腕を取り抱き寄せていた
男は暫く歩いたところで徐に立ち止まり、もう十分だろうと鳳の額を指先で軽く押す
「あはは~残念。昭様は額を指で押すの好きですよね」
「ん・・・そう言われればそうかもしれん。一馬の額などは良く押しているな、嫌だったか?」
「いえいえ、優しい感じがして私は好きですよ。そういえば今日、許昌からりっちゃんが
美羽ちゃんを連れて帰ってきます」
鳳の話では男が呉へ旅立た後、直ぐに許昌の養蜂所の様子を観るために李通と七乃と共に許昌へと馬を走らせ
男が新城に戻るのを見計らって美羽達は許昌を出発したようだった
「もうご自宅に到着されている頃かと。頑張ってくださいね、私も全てを尽くして戦います」
「ああ、有難う。華琳に力を貸してくれ」
鳳は男の腕を名残り惜しそうに手放し、男の正面に立って指を顎に当てて身仕舞いを見て
外套の襟を正し、少し皺になってしまった袖を申し訳なさそうに笑って直し「ウン」と頷くと
踵を返して手を軽く振ると矢の調達を進めるため、市の方へと歩く
「あ、言い忘れました。私達では昭様の支えにならないかも知れませんが、どうぞ頼ってください
何時も支えられているばかりでは申し訳ないですから」
「・・・ああ、その時は頼む。俺は一人では戦えない、誰よりも弱いから」
此方を振り向かず、立ち止まり、頼ってくれと言う。チラリと見えた横顔は少しだけ頬を染めて
微笑む男の言葉を聞くと、鳳は何時ものように衣嚢に手を突っ込んで鼻歌を歌いながらその場から立ち去った
「美羽が帰ってくる。呉の事を話さねば、全く、俺は父なのだぞ怒りなどに揺らいでどうする」
廊下で一人立つ男は、自分の手のひらを見つめ強く握り締め拳を作り震わせると
顔を上げ、真っ直ぐ前を見て自分の屋敷へと歩を進めた
屋敷に着けば、美羽が玄関で七乃と共に待っていたらしく。男のに飛びつき心配そうに男の顔を見上げ
怪我が無いことを喜んでいた。七乃も同じように心配をしていたらしく、美羽から一歩下がったところで
手を組んで祈るように安堵の溜息を吐いていた
「怪我も無く無事に帰ってきて安心した、父様が無事ということは呉との同盟は成功したのじゃな」
「もちろんですよ美羽様。お兄さんが無事に帰ってきたことが何よりの証拠ですよ」
笑顔になる二人に男はゆっくりと膝を曲げ、美羽と視線を合わせると少しだけ、困ったように笑って
肩に手を置いて深く頭を下げる
「呉とは戦になる。すまない」
男の言葉に美羽は震え、男の下げた頭を震える手で抱きしめる。男の頬にぽたぽたと温かい雨が降る
「妾のせいじゃな、妾が生きていたことが呉に知れたのじゃろう」
「違う、俺の力が足りなかったからだ。美羽の事は呉も死んだと信じていたよ」
「嘘じゃっ!嘘じゃ嘘じゃっ!父様は優しいからっ、父様がしてきたことを考えれば呉が、孫策が断るはずは無いっ」
男はゆっくり抱きしめられた頭を上げ、また美羽の瞳を真っ直ぐ見つめ、手を頬に当てて優しく言葉をかける
「嘘じゃない、周瑜殿との駆け引きに負けた。蜀は俺より先に呉と接触し、同盟を組んでいたんだ
美羽のせいじゃない」
「そんな・・・また、また大きな戦になるのか、また父様が傷付くのか、また皆が、人がたくさん死ぬのか」
泣きじゃくり、震えいやいやと顔を振る美羽を男は優しく抱きしめ、顔を胸に押し込む
安心させるよう、心を鎮めさせるように
「俺は大丈夫。美羽が俺の為に皆の為に泣くならば、俺はその涙を止めるために戦おう。俺は生きると約束した
だから戦では死なない。娘との約束は守る」
「嫌じゃっ、父様は戦場になど立たなくて良い、その眼に沢山苦しみを、悲しみを刻みこんで
此のままでは父様の心は持たん。劉備め、周瑜め、戦などこれ以上必要ないと何故解からんのじゃっ!」
泣き叫ぶ娘を男は目を伏せて少しだけ強く抱きしめる。優しく頭を撫で、娘の涙を止めるために
「お兄さん、私も戦場に立ちます。孫策さんは怖いですが、美羽様の願いを足蹴にしたことは許せませんから」
「いや、七乃は美羽に付いていてくれ、涼風も見ていて欲しいんだ、頼む」
剣を握る七乃は戦場で孫策と劉備に己の全てをぶつけようと戦場に立つと言うが返された言葉に少しだけ驚く
美羽だけではなく、涼風も【頼む】と言っているのだ。己の命よりも大事だと言える自分の娘ふたりを
七乃に頼むと
「それは・・・」
「ああ、信頼している。七乃、お前に頼みたい俺を支えてくれ」
全てを背負い、皆を支える男から言われる言葉、七乃は体を震わせる。戦場に出ないからこそ出来る戦い
家を守る。其れを男は頼むと言っているのだ。口に手を当て、一筋涙を流す
かつては敵であり、殺されるところを助けられ、それどころか自分の主をこれほどまで成長させてくれた
恩人に今、恩が返せるのだと
「解りました。私の命に変えても御二人はお守りしちゃいます」
「有難う」
跪いて頭をさげる七乃に男は笑顔を返し、顔を上げた七乃も笑顔を返すと抱きしめた腕の中からは
嗚咽が聞こえなくなり、いつの間にか小さな寝息を立てていた
「疲れて居たんですよー。許昌から全力で飛ばしてきましたからねー」
「そうか、美羽を頼む」
そう言って男は寝てしまった美羽を七乃に抱き上げて渡し、七乃は大事な宝物を扱うように優しく抱き
屋敷へと入っていった
辺りは暗闇に包まれ、美羽が眼を覚まし寝台から起き上がれば隣では七乃が小さな寝息を立てて眠っており
其れを見て美羽は七乃を起こさぬようゆっくり寝台から降りると、父から貰った蒼い旗袍を脱ぎ
何時も来ていた金色の、袁術を表す衣装に身を包む
そして父の来ている外套に似せて作った背に夏の文字の入る外套を羽織り、部屋を出て
男の寝室で立ち止まり、頭を一つペコリと下げると物音を立てぬように
ゆっくりと、静かに屋敷から出て厩へと走る
「はっ、はっ、今からでも間に合うはずじゃ。妾が呉の孫策の元に出向き、首を差し出せば戦は回避出来るっ」
もう嫌じゃっ、父様が、皆が苦しむのはっ!妾の首で全てが丸く収まるならばこの首を差し出すことに
なんの躊躇いがあろうかっ!
暗闇を走り、兵舎の見張りの眼を掻い潜り、厩に繋がれた馬の手綱を手に取る
「この時間は丁度見張りが交代のはずじゃ」
何時もであれば、将が交代で一人は常駐してる兵舎だが、戦の前ともあって兵が数名で見張りをしているだけ
手綱を叩き、音を立てずゆっくり馬を走らせる表の城門は兵が多く、この時間は抜け出せない
ならば裏門から、しかも水路を馬を使って通過すれば気がつかれないはずだと
許昌と同じ水路を地下に作ってある新城の水路を走らせる
「見えた、外じゃっ」
暗い水路を一気に走り、外の月明かりが見え外へ出た瞬間、美羽の体はふわりと宙に浮き
何がおきた!?と一瞬頭が真っ白になるが、気がつけば美羽は馬に跨る男の腕の中
「あ・・・父様。何故此処に居るのじゃ?」
「何故?表門を通って此処に来ただけだ、俺の娘なら自分の責任だと呉に走ると思ったからな」
呆気に取られる美羽を抱え、馬から降りると男は美羽を持ち変える
脇に抱えられた美羽の頭は男の背の方に、尻は男の前の方に、まるで鼓を打つように
「う?と、父様」
「ん?何だ?」
「何故妾は此の様な格好なのじゃろうか」
「俺は約束を破る子は嫌いだ、今度同じコトしたら怒ると言ったよな?」
父の言葉に呉に旅達前のことを思い出す。自分の首を差し出し、呉との同盟をと言った時の事
そして更に思い出すのはまだこの魏に降ったばかりの頃、父の財布から金を盗み
蜂蜜を買って怒られた事を
「あっ、これはっ、父様が、皆が苦しむのはっ」
「問答無用っ!」
城壁の前、誰もいない場所で子供の泣き叫ぶ声と父の恐ろしい怒号が鳴り響く
外でなければ城内の人々は深夜だというのにきっと起きだし、騒ぐことだろう
さんざん尻を叩かれた美羽は尻を抑え涙ぐみ、父に恨み言をぶつけていた
「父様の馬鹿っ!阿呆っ!妾の尻をこんなに叩きおって、父様は鬼なのじゃ、鬼畜なのじゃっ!」
「オウ、俺は馬鹿で阿呆だ、娘を泣かせたんだからな。ろくな死に方をしない」
そう言うと男は外套を開いてうずくまる美羽を抱き上げると自分の方に抱き寄せて
外套の前を閉じてすっぽりと抱きかかえてしまう
一言で言うならカンガルーの親子のように、美羽は男の外套から顔を出せば、頭上には直ぐ父の笑う顔
男はそのまま地面にあぐらをかいて座り、空を見上げる
空には満天の星空、美羽も同じように空を見上げ、瞳に映る沢山の星々
「綺麗だなぁ」
「うん、綺麗なのじゃ・・・」
「・・・蜀には既に美羽の事だけじゃ無く、許靖の事も知られていた。此方の情報は全て知られていたんだ」
美羽の事がなくても、許靖は助けていただろうし、これは回避できないことだった
今、美羽の首をさし出しても戦は止まらないだろうと男は言い、美羽は男の胸に背を預ける
「・・・戦はもう嫌じゃ。父様、死なんでたも」
「ああ、約束は守る」
「それと・・・・」
「ん?」
座る男の外套にもそもそと潜り込み、男にしっかりと抱きつく美羽
「・・・・・・ごめんなさい」
そういって男の胸に顔を擦り付けるのだった
翌日
昼食時に華琳は何故か涼風と美羽に手を引かれ、厨房に入ると待ち構えた男が扉を閉め、鍵をかける
何事かと周りを見れば、秋蘭が申し訳なさそうに給仕をするため茶等を用意し、春蘭は卓に真っ白な布を広げ
椅子を引いて此方どうぞと同じように申し訳なさそうな顔をしていた
「一体何をする気になの?」
問いかける華琳を無視し、男は厨房に子供たち二人と立ち
「俺と娘の気晴らしに付き合え」
と一方的に言い放つと、子供たちがなにやら音楽を口ずさむ
「さぁ始まりました。お料理クッキングの時間です」
「じかんですー!」
「今日のお料理は何ですか美羽さん」
「うむ、片栗の粉を使った天の国の料理、鳥の竜田揚げを作るのじゃ!」
「のじゃー!!」
いきなり始まる説明口調での料理、其れを見ながら華琳は呆気に取られ、口の端を引きつらせていた
「どういう事、秋蘭?」
「はぁ、昭が華琳様に食事を、天の料理だと言ったので戦争前の気晴らしにと思ったのですが」
「・・・天の料理ねぇ、で?鍵までかけて私を閉じ込める意味は?」
「意味は無いそうです。それから昭がお叱りは幾らでも後で受けると」
「そう、なんとなく何があったかは予想がつくから良いわ。
せっかくだから其の竜田揚げとやらを楽しませて貰いましょう」
美羽と男を見て全てを察したのか、華琳は春蘭の引いた椅子に腰掛けると秋蘭のいれた茶を啜りながら
芝居のような料理を見て笑っていた
「これが妾が育てた片栗から取り出した粉じゃ!普通の片栗よりずっと多くの粉を取れる!!」
「では其れを紹興酒と醤油、生姜で下味を付けた鶏肉にまんべんなくまぶします」
「ぺたぺたー!」
ぺたぺたと鶏肉に沢山の片栗粉を付けて、余分な粉を落とし油で上げればこんがりとキツネ色の
鶏肉の竜田揚げ。其れをアツアツの内に包丁でザクザクと斬り、皿に盛りつけ華琳の前へ出す
「ふむ、見た目は美味しそうね、では頂こうかしら」
「ちょっと待った!まだ完成ではないっ!」
「あら、まだあるの?」
「その通りじゃ!此処で妾の育てた橙と大根の出番じゃっ!」
取り出したのは美羽が育てた甘酸っぱい匂いを放つ柑橘類の橙、そして交雑させ味と大きさ増した大根
さらに男と涼風は青州から送られてきた昆布を取り出し華琳に胸を張る
「何故そんなに自慢げなのか解らないけど、とりあえず待ってるわね」
ドヤ顔の三人に呆れる華琳を他所に、男は昆布で取った出汁を取り出し中に醤油と紹興酒を入れ軽く沸騰させる
涼風は大根をゴリゴリとおろす。そして美羽は橙を男に二つ投げ渡す
「フンッ!」
気合と共に男の握力で潰される橙。手の下には器が用意されぼたぼたと果汁が滴り落ち
見る間にたまる橙の果汁。次々に美羽から投げ渡され潰していく男
なんだか解らないがその光景に顔を青ざめる春蘭、秋蘭、華琳
絞り終わったのか搾り出した果汁を冷ました出汁に入れて混ぜはじめ
涼風は華琳の前に出された竜田揚げにおろした大根を丁寧に乗せていく
「さぁて、これで三日ほど寝かせれば完成だ」
「三日って此のまま三日待てって言うのっ!?」
「いやいや、三日寝かせたのが此方です」
突っ込みを入れる華琳に平然と後ろから既に寝かせた物を取り出し、目の前へ置くと
始めからこれを出しなさいと殴られる男
「で?これは何?」
「いててて、ポン酢って調味料だよ。大根おろしとポン酢でおろしポン酢。美味いぞ」
「これをかけて食べれば良いわけね、柑橘類が鶏肉に合うとは思えないけれど・・・」
不安気に竜田揚げを口に一切れ運ぶと華琳の動きが止まる
まさか、不味いものを食べさせたのかと春蘭と秋蘭は男のほうを見れば男は笑っているだけ
「美味しい」
「な?美味いだろ?」
次の瞬間背後から聞こえるのは華琳の溜息、どうやらお気に召したようでニコニコ顔で箸を進め
その光景に美羽と涼風は手を上げて喜んでいた
「柑橘類の酸味が食欲をそそり、上に載せた大根が揚げ物の油を洗い流す。これは食が進むわ」
「うむ、華佗が言うには大根には消化を助ける作用も有るらしいからの。食欲が無い時も良いかもしれんぞ」
「ええ、この料理を一番に良くしているは大根と橙。これほど味も大きさも素晴らしい物を作るなんて・・・」
喜ぶ美羽に華琳の眼光が光、男は其れを遮るように前に立つ
「気晴らしに付き合ってあげたのだから、その才は私に献上するべきじゃないかしら」
「そいつは無理な相談だ。俺の娘はやらんぞ」
その後、出来立の竜田揚げを食す美羽や春蘭達の横でギャアギャアと言い争いをする華琳と男
美羽は食事をしながら横目で笑顔で言い争う華琳と父を見て心の中で礼を言うのだった
「おかげで心が軽くなった、父様、華琳有難う」と
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ついに100話です
三桁行きました。
此処までこれたのも皆様のおかげです
特にNight様、ねこじゃらし様、thule様
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