「やまない微熱」
鼻腔にこびり付く鉄錆の臭い。
喉を通る空気は重くるしい。
咳き込む度に舌に不快の味。
あぁ、これは血の味。
幾度と無く味わった生きている証。
そして、死へと誘われつつある証。
体からほとばしる熱気が思考を塞ぐ。
私を現世から遠ざける意識の乱れ。
くるしい。くるしい。くるしい。くるしい。
いつの間にか、手の平は赤色に染まる。
悶える心に反し、体は動くことすら疎ましい。
私には待つしかない。
全てが終わるのを待つしかない。
第一章 「初恋の人」
1
あっ……。血……。
咳き込んだ口元を押さえてた私の手には、いつも通りに血が滴っていた。
それから目を背けるように、私は血の付いた手を握り込む。ここ数ヶ月、私の吐血する回数が確実に増えている。
そして、私の体から失われる血の量は徐々に増していた。
「真湖〈まこ〉さん、大丈夫?」
後ろの席の綾瀬舞〈あやせ・まい〉が私に声をかける。
彼女の声色は特に心配している様子もありません。それは反射的に出た言葉。
何の考えもなく、私が咳き込んだというだけで発せられた言葉。
それも当然のことでしょう。私が咳き込むなんて、日常茶飯事なんだから。
彼女の社交辞令を、私はありがたく受け取る。形だけの言葉でもいい。
全く誰からも声をかけてもらえない辛さを私は知っているから。
「うん、平気。いつものやつだから」
そう言葉を返して顔を上げると、綾瀬さんの目は見開いていた。
一瞬、どうしたんだろう。と、私の方が疑問に思ったけど、その理由はすぐに思い当たりました。
私が手の甲で口元を拭うと、私の白い肌に赤い一線が走る。
私には見慣れた赤。手のひらで押さえ込んでいたはずの血が、口元に付いていたのでしょう。
あらら。血を吐いたのがばれちゃった。
「真湖さん!」
綾瀬さんが大声を出すものだから、教室のみんなの視線が私に集まる。
私の吐血ぐらい見慣れてるんだから、そんな騒ぐこともないでしょうに。
私は教室の中を見回した。どこを向こうがクラス全員と目が合ってしまう。
そういうの嫌い。
私は人に見られるのとか、同情されるのとか、
『自分は彼女みたいにならなくてよかった』なんて思われるのが大嫌い。
「大丈夫か? 保健室行ってこい」
教壇に立つ英語教師の言葉。私をクラスのみんなから隔離しようとする言葉。
私は、私を除け者にさえすれば授業が滞りなく進むと思っている教師達も大っ嫌いだった。
それでも教師にそう言われたのなら、私は従うしかない。
それに反抗心を持つほど、私は子供ではありません。
「保健委員は……、頴田〈かいた〉だったな」
どうして担任教諭でもない英語教師の椚田〈くぬぎだ〉が、私のクラスの保健委員を知っているの?
普通の人ならそう思う所でしょう。その答えは簡単。
このクラスに私がいるから。このクラスに私がいる所為で、
このクラスの保健委員の名前を呼んだことのない教師は一人もいないのだから。
静かに席を立ち上がり、保健委員の頴田晶〈かいた・あきら〉君は、いつものように私の元に来てくれる。
「さぁ、行こうか」
たったそれだけの言葉に、私の心は飛び跳ねる。
私の心音はオーケストラのティンパニーのように連打を奏で始める。
私は顔を伏せたまま、何も言えずに教室から連れ出された。
保健室まで数分の道程。
頴田君に迷惑をかけるこの瞬間が嫌い。
頴田君に迷惑をかける私の体質が嫌い。
頴田君に迷惑かけるのに、頴田君に近付けるこの瞬間を心待ちにしている私自身が、一番大っ嫌い。
階段にさしかかれば、頴田君はさも当然のように私の足下を気遣ってくれる。
長い廊下を何も言わずに私の歩調に合わしてくれる。
「大丈夫?」「一人で歩ける?」なんて上辺だけの言葉を頴田君は決して口にしない。
彼は私が助けを求めない限り、決して手を出さずに見守ってくれる。
心配で何もさせない他の人とは違う。頴田君は私のことを見守ってくれる。
「危ないから」「体にさわるから」と言って私を差別する人達の中で、頴田君だけは私の意思を尊重してくれる。
私は私の体質が嫌い。私は寡黙な頴田君が好き。
私は卑怯な私が嫌い。私は優しい頴田君が好き。
私はそんな私が嫌い。私はそんな頴田君が好き。
私は、頴田晶が大好きです。
「あら、今日も? いらっしゃい」
保健室に着けば、いつもの台詞で由利〈ゆり〉先生が出迎えてくれる。
書類作成でもしてたのでしょう。小さくて可愛いメガネの位置を直して私を診てくれる。
養護教諭の由利先生は、この学校の関係者の中で私と一番長い付き合いです。
同じクラスの生徒と同等か、それ以上の時間を共有している。
私が一番世話をかけているし、一番私の体のことをわかってる人。
「先生、それじゃあ」
頴田君が教室に戻ってしまう。保健室に着けば、保健委員の頴田君の役目は終わり。
後は養護教諭の管轄。頴田君は当然、教室に戻ってしまう。
「いかないで」「もっと私の側にいて」本当はそう言いたい。
でも、そんなこと言えるはずがありません。
頴田君は優しすぎる。もし私が請えば、何も言わず頴田君は私の側にいてくれるでしょう。
でも、その優しさに甘えたくない。
彼は保健委員だから私に付き添ってくれただけ。それは仕事だから、役目だから。
私は私にそう言い聞かせる。我慢するのが私の役所だから……。
私は病弱でした。
そんな言い方では過去形に聞こえてしまう。私は今も病弱です。
記憶も残っていない幼い頃に大病を患って以来、私は健康とは無縁の体になりました。
私が十歳になるのを待たずに母は亡くなりました。
母は私と同様に病弱な人だったのです。私のひ弱な体は母譲りのもの。
私を産んだ負担からか、ずっと伏せがちだった母が死の床で
「丈夫に産めなくてごめんね」と泣いたのは、一生忘れられません。
私は小学校に半分も通えませんでした。
みんなが運動場でボールと戯れているとき、私はベッドの上。
保健室にいればまだいい方、週に数度は点滴の滴りを数える生活。
風邪をひけば高熱を出し、風が吹く夜は胸の苦しみに喘ぐ。
当然、そんな私がまともに成長出来るはずがなく、
十六になった今でも小学生に間違えられる小さく弱々しい体です。
特に去年の秋口に腰骨を折ったのは痛かったです。
文字通り酷い痛みもありましたが、長期の入院生活で出席日数が足りずに留年させられたのは、
私の病弱人生の中でも非常に苦痛を感じる出来事となりました。
たった三年しかない高校生活の一年目をリセットされ、クラスメイトは皆一つ上の学年と姿を変えました。
高二となった彼女達は勉学に部活動、そして遊びにと忙しい生活。
廊下で私に会って挨拶してくれることはあっても、普段は音沙汰もありません。
そして、新たに入学した新入生の中にして病弱な留年生の私は歪な存在。
体調を崩し授業をよく抜けることも相成って、クラスメイト達にすれば腫れ物を扱うようなもの、
私に友達なんて一人もいない。
そんな孤立した私に優しい光を当ててくれる人物、それが保健委員の頴田晶君。
私は知っています。誰もやりたがらなかった保健委員に、あみだくじのハズレをわざと引いてなったのを。
もちろんそれが「病弱な私の為だった」なんて、自意識過剰でお馬鹿さんなことは言いません。
皆が嫌がっているのを何も言わず引き受けた頴田君の人柄を言っているのです。
私の回想を遮るように、急激な嘔吐感と容赦ない咳が私を襲う。
肺は空気を拒み、胃の律動は私の体を跳ね上げる。
内臓も喉も、全てが裏返りそうな感覚が私を駆け巡る。
またちょっと吐いちゃいました。さっき教室で出し切らなかった分でしょう。
保健室のベットならシーツをいくら汚しても由利先生が洗ってくれます。
本当は迷惑かけたくないのだけれど、吐いた血は元には戻せません。
ごめんなさい、由利先生。
えっと……。そうそう、頴田君の話でした。
正直に言っちゃいましょう。私は頴田君に恋してるのです。
そう、多分これは恋なんです。恋愛なんて浮いたもの、私にはよくわかりません。
これまで病院にべったりで、生きることに精一杯だった私は恋など知りません。
クラスメイト達が誰と誰が付き合っているだのワーキャー言って騒いでいるのも、
私は現実感なく遠目に見るだけでした。
だから今、私の中にある頴田君への思いが本当に恋なのか、ちょっと自信はありません。
それは言うならば、安心感。
彼なら私を傷つけない。私を除け者にしない。私のことを見守ってくれる。頴田君はそういう人。
誰もいない保健室。ベッドの中で一人思う。
私は頴田君を好きになっていいの?
いつ死ぬともわからない私が、人を好きになるなんて許させるの?
頴田君に私の気持ちを伝えていいの?
私はいつの間にか、泣いていた。
普通に恋する資格がない私。
恋する資格があるかないかを考えてしまう私。
頴田君に気持ちを伝えられない私。
私は泣くしかない。
弱虫な私は、泣き虫な私を抑えられない。
あるはずのないifを夢見て泣くしかない。
私が普通の体だったなら……。
(第1章の2につづく)
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幾度となく血を吐き捨てる私。
いつに死ぬともわからぬ私。
惨めに死を待つしかない私。
そんな私でも恋をした。