第九.五章「岐路」
私は既に死んだ人間だ。
命の灯火が消えたはずの私が今生きているのは、多くの人の努力と、多くの人の犠牲があればこそ。
私はそれにどんな言葉でも表せない感謝と恩義を感じている。
人生を旅に喩える人がいる。もし私の人生を旅に喩えるなら、海外の有名観光地に行くツアー旅行だろう。
チケットの手配も案内も全て旅行社がやってくれる。
海外にいるのに会話を片言のカタカナ語で済まし、料理を食べるのも観光客向けの店。
そんなどこが外国なのかわからない環境で、海外に来たと満足する。
そんな勘違いした人生だった。
私は知らなかったんだ。
コンダクタのいない外国の地を、ネイティブの発音でないと言葉が通じない本当の海外のコミュニケーションを。
私はずっと平和で平穏で安全圏にいる人生を送っていたのだ。
そして、私のツアー旅行は終わっていた。
私はなんの準備も覚悟もないまま、スラングの飛び交うスラム街に放り出された。
誰とも言葉が通じない外国の地で無一文。
大使館があるのかすらわからない。
そんな喩えが似合う私の人生。
私は死を覚悟して気付いたのだ。
それまで私が普通で平凡でつまらないと思っていた日常が、どれほど尊く素晴らしいものなのかと。
私は運良く助けられた。
それは私の人徳や強運などではない。ただただ拾われた命。
彼が私を助けてくれた。私は彼に出会っていなければ今頃、墓で骸(むくろ)となっていただろう。
だからからこそ、私は恩義に答えたい。
私を助けてくれた彼と、これまで犠牲になっていた全ての者の為。
そしてこれから救われるだろう私と宿命を同じくする者の為。
もしかすると、私が生きながらえたのは運命だったのかもしれない。
既に死んだはずの私に命をかけて成すべきことがあるのなら、私は躊躇なくこの命を賭けるだろう。
私は私の人生に価値を見いだしたい。
何も成し遂げることなく死ぬのが私の運命だったなんて、受け入れるわけにはいかないのだ。
この拾った命で、私に出来ることはあるのだろうか?
第十章「正菱有紗の場合」
私は慌てていた。
この非常時に相変わらず繁華街をうろちょろしている安達郁斗を注意するだけのはずだった。
それなのに妙な黒ずくめの男にからまれて、手間取っているうちにあの黒川らしき人物も現れて、郁斗をさらっていった。
普段の彼なら簡単にさらわれることもないだろうが、どうやら麻酔銃の類を使ったらしい。
気を失った郁斗を担ぎ、黒川は路地裏の奥へと消えてしまった。
不覚にも程がある。私は自分の失態を許せなかった。
何の為に深山が死んだと知って以来動いてきたんだ。私は地団駄を踏む思いだった。
しかし、実際に地団駄を踏むにはまだ早い。
黒川が消えても、私はまだ黒ずくめの男と相対していた。
「私、急いでるんだけど。そこどいてくれない?
そう言っても、あっさりどいてくれるとは思ってないけど」
私の言葉に黒ずくめは全く反応しなかった。
黒川が消えた路地の奥に私を行かせまいと絶妙の間合いで立ち塞がっていた。
「アンタ一体何者よ? 本当に自慢じゃないけど、私以上のパワーとスピードなんて、ホント異常よ」
先程の数手の打撃と力比べ。
筋肉制御のリミッターがない私を超える身体能力を黒ずくめは見せていた。
「正菱有紗。私はあなたに敬意を表する。
あなたがいなければ、今の私はなかった」
今まで一言も発していなかった黒ずくめが初めて言葉を放つ。
「私をその名で呼ぶなぁぁ!」
反射的に叫んでいた。
私は悠木有紗。断じて正菱なんかじゃない!
あんなクソったれと一緒にするなんて!
瞬間的に頭に血が上ったが、ふと黒ずくめの言葉にそれ以上に重要な事項が含まれていたことに気付いた。
「私がいなければ……。つまり、私と同じ……なの?」
私の言葉に黒ずくめは何も言わなかった。
その沈黙を肯定と捉えると、私の心から怒りが湧き上がる。
先程の頭に血が上る程度のものではない。
憤り、恨み、悲しみ。色んな感情が溶け合った私の心がうねり出す。
「アンタたちは、まだあんなことやってるの!」
私の奥歯が軋みの音をあげる。
握り締めた拳は骨が歪み血色を変えた。
「私たちだけで十分じゃない。それなのに、まだ!」
私は怒りにまかせ、拳を壁に叩き付ける。
ビルの壁が爆ぜ欠片が私の足下に飛び散った。
そして私の拳は皮が剥け、血が滴っていた。
痛い。拳が痛い。
それ以上に心が痛い。
私たちが苦しんだだけじゃ足りないの?
私の犠牲はなんだったの?
私は、私は……。そんなの絶対に許さない!
「私たちの目的は柚山潤の確保だ。あなたと対立する理由はない。退いてくれないか?」
「拉致っておいて、退けですって?
アンタたちは血も涙もない奴らだとは思っていたけど、テロリズムにまで平気でやるとは思ってなかったわ」
「我々には我々の事情がある」
「私たちの事情は考えたことある?」
何が事情だ。アンタたちの良からぬ企みなんて知ったことか!
「君と論議をする気はない」
「私もよ。
黒川に行き先、教えてもらいましょうか。
どうせ素直に吐く気はないんでしょう?
力ずくで聞かせてもらうわ」
言うなり私は強く踏み込み、一足跳びで男に襲いかかった。
確かに黒ずくめの男の方が身体能力は上なのは認める。
コイツらの言い方をするなら、私はこの男よりも『性能』が低いのだろう。
でもね、自分と同種の原理でスピードとパワーを出しているなら、やりようはいくらでもある。
私は勝機を確信し、先程壁に叩きつけた右の拳を今度は男の顔面めがけて放った。
残像すら残さない拳を、黒ずくめは難なく眼前で、手のひらを掲げて受け止める。
しかし、私はその直前に拳を自ら止めていた。
その時には既に次の動きが始まっている。
私は男が防御の為にかざした手の下に隠れるように潜り込み、今度は左の拳を放った。
私の背中を回り込むように左腕は綺麗な弧を画き、男の顎を捉えた。
私に格闘技の経験はない。
でもそれなりに場数は踏んでいる。
今の変則フックは安達郁斗の得意技だった。
郁斗にはこれでよくもてあそばれたものだ。
私自身が幾度となく味わったフェイントコンビネーションを私の体が覚えていた。
回避姿勢をとる必要もなく、反射的に出る防御の手が必ず間に合ってしまうが故に隙が出来る。
私と同種の力の持ち主なら、初見はまず間違いなく食らってしまう。
そして、恐らく黒ずくめの男はフェイントに弱い。
力が出過ぎる余り、この体は一度起こした行動を止めにくい。
十年前から力を制御するリハビリを行っていた私と、最近この体になったであろう黒ずくめの男では、動きの柔軟性に差があるのだ。
そして、結果は私の読み通りだった。
私の拳は黒ずくめの顔面にクリーンヒット。
黒ずくめは大きく仰け反ってふらついた。
人を殴る感触はいつまで経っても慣れないもので、背筋に嫌な悪寒を感じた。
そして男を殴った腕に痛みが走る。
素人の私が顔面を殴ったので手首を痛めた?
そう思って腕に目をやれば、いつの間にか手首が黒ずくめの男に握られていた。
え? 嘘? 私が殴りつけたのに耐えた?
しまった! また力加減を失敗した!
瞬間、体が宙に浮かぶ。
手首から引き上げられ、足が地を離れた瞬間、黒ずくめの膝が私の腹に食い込む。
肋骨が悲鳴を上げる。それ以上に握り潰されている手首が嫌な音を立てている。
筋肉、骨、血管。全てが圧壊されるような感触が私の手首に食い込んでいく。
「離しなさい!」
黒ずくめに顔を向ければ、男の大きな拳が私の方を向いていた。
咄嗟に自由な右手を防御に構える。
黒ずくめはかまわず拳を振るった。
ハンマーで殴られたような衝撃。
実際にハンマーと同質の威力を持っているだろう拳が幾度となく私の体に襲いかかる。
痛み以上に、自分の劣勢が許せない。
アイツを助けに行かなくてはいけない私がこんなところで手間取っていることが許せない。
私は殴られながら、自分の無力を呪う。
こんな痛みなんか……。
こんな……痛み……。
十年前の苦しみに比べたら!
私は心中で叫びを上げる。身体的痛みで私は挫(くじ)けない。
精神の苦しみを受け続けてもなお生き延びた私は、こんな程度で挫けるわけにはいかないの。
私は必死に防御をし続ける。
けれど、私の思いをあざ笑うかのように、打撃のダメージが蓄積していく。
「そこで何やっている!」
一際大きな濁声(だみごえ)が路地に響き渡る。
それに合わせて、黒ずくめの男の攻撃がピタリと止んだ。
「警察?」
視界の端に警察の制服が過ぎる。
巡回中だったのだろうか、警官が二人路地の入り口に立っていた。
黒ずくめもそれを確認したのだろう。再び私の手を引き上げて振りかぶった。
えっ、ちょ!
再び足が地を離れた私は、黒ずくめの手の振りに合わせて浮き上がる。
遠心力が私の足を引き上げた瞬間、黒ずくめが手を放す。
宙に浮いた私は全く抵抗出来ずに空中に投げ出された。
いくら私が軽い女の身とはいっても、まるで木の枝を扱うが如く簡単に投げ飛ばすなんて、黒ずくめは一体どれだけ力があるの!
風を切って空中を行く私は、とにかく身を丸め衝撃に備える。
「うあぁぁあ」
私の体の進行方向から警官たちの情けない声が聞こえてくる。
黒ずくめは私を警官たちに投げつけたのだ。
空中で一人の警官と目があった。信じられないものを見たような驚愕の表情。
そりゃそうでしょ。人間を投げつけられるなんて、誰が考えるのよ。
強い衝撃が私の体を襲う。
どこにどう着地したのかわからないが、警官を下敷きにクッションにしたお陰で強い痛みは感じなかった。
「待て!」
有紗の耳元で警官の声が響く。
その声に振り返ってみれば、黒ずくめの後ろ姿は遠く消えようとしていた。
一歩目の初速から異常に早い。
黒ずくめの脚力も相当なもだった。
「君、大丈夫?」
私の下敷きになっていた警官が声をかけてきた。
警官の手が私のお尻にかかっていたが、緊急事態なので不問に処した。
本来なら平手打ちを三発は入れている所だが、今はそんなことをやっている場合じゃない。
黒ずくめを追おうとして立ち上がった私を激痛が襲う。
黒ずくめに入れられた膝で肋(あばら)が数本イッたらしい。
それに無理させていた手足にも痛みが走っている。
さっき暴れすぎた副作用が私の体を蝕んでいた。
筋肉も関節も限界を超えた動きについていけないのだ。
いくら馬鹿力が出せようとも私の体は普通の人と同じ強度しかない。
それはあの黒ずくめも同じだろう。力を出せば出すほど自身が傷ついていく。
こんな体、不自由で仕方がない。
それをあの男は私と同じ体になっただって? 冗談じゃない!
「大丈夫……です」
私は全ての痛みを堪えて警察に答えた。
「何がありました? 単なるケンカではなさそうですが?」
そりゃ単なるケンカで人が飛ぶわけがない。
それを認識しているのか、警官にも緊張が窺えた。
警察に事情を聞かれ、はたと気付く。
黒ずくめから解放されたのはいいが、警察というのも些(いささ)か都合が悪いのだ。
私にしても表沙汰になるのは困る身の上である。
普段であれば脚力に委(まか)せて逃げの一手だろうが、肋骨の痛みで逃走を躊躇ってしまう。
一度、機を失うとなかなかタイミングが計りづらい。
「とりあえず君、名前は?」
警官の質問に、私の脳裏に選択肢が浮かぶ。
手荒なマネも考えついたが、警官を相手に立ち回るのは本意ではなかった。
とりあえず偽名でも名乗ってやり過ごす?
「アリサ君だね?」
偽名を言おう決断としたとき、急に本名を呼ばれ、私は首筋に水が垂れてきたように全身で驚いた。
警官の後ろに恰幅のいい、にやけた男が立っていた。
擦れたジャンバーを着ていて、腰に新聞でも刺さっていれば競馬場帰りにも見える男だった。
「路武警部、お知り合いですか?」
ジャンバーの男が私服警官と知り、私は警戒を強めた。
下手に背広など小綺麗な服を着ていない分、現場の屈強な刑事に思えたからだ。
「ああ。ここはいいから、お前達は巡回続けて」
「しかし……」
路武と呼ばれた刑事に指示されても、二人の警官は納得がいかないようだった。
「お嬢ちゃんはこっちの管轄」
路武刑事に促され、二人の警官は去っていった。
この路武は警部らしいので、階級的にも巡回警官は口出しできないのだろう。
残された私は路武を睨みつけて事の成り行きを見守った。
「そう気張る必要はないよ。
私も色々聞きたいことが山程あるが、お迎えが来てる」
そう言うと路武は親指で背後を二度指した。
その先、裏路地を出た表通りには、重厚なロールスロイスが止まっていた。
全てを察し、私は溜息を吐いた。路武が気の毒に思えて仕方がない。
「ごめんなさい。迷惑をかけてるみたいね」
「そう思うならこっちの捜査に協力してもらいたいね」
「う~ん。個人的には警察は嫌いじゃないけど。現状でペラペラ喋るのは色々とね。
……私、行っていいんでしょ?」
私の言葉に路武は苦々しい表情で、さっさと行けとだけ言った。
ロールスロイスに近づくと運転手が現れ、静々と扉を開ける。
私は何も言わずそれに乗り込んだ。
成金趣味の装飾に私は顔を歪ます。高級車内は私の大嫌いな空気で満ちていた。
向かい合わせの後部座席には二人男女がいた。
二人とも私の知った顔である。車は発車の振動を感じさせることなく滑るように走り出した。
「久しぶりだな、有紗」
重苦しい空気の中、最初に口を開いたのは男の方だった。
「……そうね。兄さん」
私が兄と呼ぶ人物は世に一人しかいない。腹違いの実兄・正菱知也(まさびし・ともや)だった。
顔立ちは平凡で、一見普通なサラリーマンにも見えるが、見る人が見れば着ている背広が一級品であることはわかるだろう。
「色々やらかしてくれたな。安国病院でも警察に見付かったろ。
ベタベタと指紋やら足跡やら残してどういうつもりだ? どうして俺の所に来ない?」
上から見下ろした物言い。まぁ兄さんが偉そうなのは今に始まったことじゃない。
「さっきの刑事。兄さんの差し金?」
「話を聞いているのか?」
「聞いてない」
「まったく。どうしてこうひねくれたんだか」
兄さんはそういいながらも苛ついた様子はない。
それは私が兄に対するいつも通りの態度だったからだ。
「有紗様。先程の路武警部も、その前の警察官も知也様の配慮ですよ」
兄妹の不仲を見かねたのだろうか、静観していた女性が口を挟んだ。
彼女は兄さんの補佐役、役職で言えば秘書にあたる女性だ。名前を惣我景子(そうが・けいこ)という。
普段、兄に会いたがらない私との連絡役をする人物で、兄さんよりも会う頻度は多い。
私なんかよりも遙かに美人だと思うが、仕事人間でプライベートはさっぱりらしい。
この二人は私が会う唯一の正菱関係者だ。
父の正菱和也になんて十年以上会っていない。
既に顔すら思い出せないぐらだ。私はもう一生、父と会う気がない。
実験病棟に入れられ見捨てられた怨みは一生消えるものではない。
「警察をどうやって動かしてるの? いくら兄さんでも一人ではそんな力ないわよね?
誰かバックについてるの?」
「いいや。今回は正菱だけで処理するつもりだ。他に借りを作るつもりはない」
「じゃあどうして?」
「情報交換ついでに頼んだだけさ。
あの路武という刑事とはギブアンドテイクの関係だ。何もアゴで使っているわけじゃない」
「そうなの?」
「ああ、こっちもそれ相応の情報を出したからな。
正直痛手だ。それには、お前の身体データだって入っている。少しは反省しろ」
さすがに有紗も言い返す言葉が無かった。
「有紗様。血が出ていますよ。手当しませんと」
景子がハンカチを取り出し私の拳を拭う。
拳だけではない。全身怪我だらけであるが、私は手当を断った。
どうせまたボロボロになる。それならやることをやった後に入院でも何でもすればいい。
「……ジュンがさらわれた」
私はひねり出すように呟いた。それは私自身への反省と不甲斐なさを叱咤(しった)するものだった。
明らかに私のミスだった。
ジュンが狙われていることは容易に想像が出来た。
だから彼が一人にならないように目を配っていたはずだった。
あの路地裏での一件も、黒ずくめの男が現れた段階で彼を逃がすことを最優先に考えるべきだった。
それなのに自分の身体能力を過信してしまった。
いつも通り、力ずくで黒ずくめの男を追い払えると考えてしまった。
黒川が割って入ったことなんて言い訳にもならない。
「のようだな」
兄さんはジュンがさらわれたことを知っている口ぶりだった。
「やっぱり、私たちの行動はずっと監視されてたのね」
先程、警察を利用して私を助けに入ったのは明らかにタイミングがよすぎる。
ある程度予想はしていたが、私たちはずっと正菱配下の人間につけられていたのだ。
「有紗様を助けられたのも、そのお陰ですよ。知也様を責めるのは筋違いというものです」
景子の言い分は正論である。私だってそれぐらい分かっていた。
「……私たちを泳がせてたのね」
しばらくの熟考の後、私は言った。
監視しているのに警護しようという気配は全くなかった。
私たちは黒川の出方を見る為の餌にされたのだ。
「今回、俺も色々立場が悪くてな。黒川がオヤジ経由で根回しをしていたんだろう。
どうやら古狸のジジイどもは向こうについた節がある。
もちろん表立っては知らぬ存ぜぬだがな。
正直、俺は手持ちのカードが少な過ぎる」
「それで私たちを泳がしていたのね。……そしてこれからも」
そう考えればあの路武という刑事が私を見逃したのも納得がいく。
あの刑事にしても私を囮につかって捜査を続けるつもりなのだろう。
そうでなければ私を自由にさせる理由がない。
「お前は俺が何を言おうがジュンを追って行くだろ?
……そこまで考えが及ぶんだったら、その猪突猛進の性格なんとかしろ」
「私のどこが突貫体質なのよ。ただちょっと後先考えてないだけよ」
「……それはツッコミ所なのか?」
「そのようですね。知也様がツッコんで差し上げたらどうですか?」
景子も呆れた様子だ。
何? 私何か悪いこと言った?
「まぁ、とにかくだ。さすがに俺だって奴がさらわれていいとは考えてはいないさ。
ただ、少し気になる情報があってな。様子見を余儀なくなれていた」
「あの黒ずくめのこと? 私と同じ体質のようだけど。
あれは黒川が……『作った』の?」
「さぁな。そこまでの情報は得ていない」
「私、ジュンを守れなかった……」
私は両の拳を握り締めていた。
腕の筋肉も、握りつぶされた手首も痛みを訴えるが、それをつらいとは思わなかった。
私は失態を犯した自分に罰を与えているのだ。
「だからジュンは私が預かろうと前々から言っていたんだ」
「正菱の人間なんか信じられない。正菱なんか頼るぐらいなら警察のブタ箱に入った方がマシよ」
その正菱の血を私は半分受け継いでいる。
それは否定出来ない事実だ。でも、もし叶うならその半分の血を赤十字にでもくれてやりたい気分だった。
「言葉が過ぎます、有紗様」
「いや、言わせておけ。有紗にはその資格がある」
資格。兄は何を指して資格と言ったのだろう。
十年前のこと? それとも正菱の家を出て、一切正菱との関係を断っていること?
私が名乗る悠木の名は母親の姓だ。
正菱の父に愛人として囲われていた母は私が幼少のころに死んでしまった。
バイトで生活費と学費を工面している私には、もう正菱につなぎ止めるものはないのだ。
「しかしながら、ブタ箱に入らないといけないことをしたのかい、有紗?」
「べ、別に何もしてなわよ」
私は視線を車外に向ける。それを見て、兄さんだけではなく景子にまで溜息を吐かれてしまう。
「お前は嘘を吐くのが下手過ぎるな。
……とりあえず奴の身柄の話は今の最優先事項ではないだろう。肝心の奴がさらわれたんだ」
「ジュンがどこに連れて行かれたか、わかる?」
「そう急くな。とりあえず俺の把握している情報ぐらい聞いて行け」
その言葉はジュンがどこに連れて行かれたのか知っていることを暗喩していた。
「お前がどこまで調べを進めているかは知らんが、こっちも今回の騒動でそれなりに影響を受けている。
一番問題になっているのが世界中からMBAD患者が消えていることだ」
「消えた?」
「日本に限らずアジアを中心に末期のMBAD患者が蒸発している」
「それって大事件じゃない? ニュースにはなってないようだけど」
「なかなか巧妙な話で、恐らく患者家族に話を通した上で連れ去っているようだ」
「何それ?」
「患者家族も口止めされていてなかなか情報が集まらないが、十年前と同じ手口だろう。
違法だが最先端の治療を受けられると言って患者をかき集める。
未だにMBADは根治出来る病気ではないからな。末期となれば尚更だ。
家族がその話に乗っても不思議ではないさ」
「さっき世界中って言ってたけど、どれくらいの人が?」
「把握しているだけで二十六人です。全体では四十人規模になるだろう予想しています」
景子が補足する。恐らく調査した情報を管理しているのもこの惣我景子の方なのだろう。
兄はほとんどお飾りに過ぎない。
「多いじゃない」
マサビシ脳萎縮性ジストロフィーという一千万人に一人という低い発症率の病気において、数十人規模というのは世界中から寄せ集めないと集まらない数である。
事実、十年前の安国病院でも日本人の患者は十人に満たなかったそうだ。
私が覚えている日本人の患者は四人ほどしかいなかった。
「黒川は十年前の続きをしようとしているの?」
「恐らくそう見て間違いないだろう。実験体を集めてやることは決まっ」
私の指が兄さんの眼前で止まる。私の腕は痛みにかかわらず真っ直ぐ綺麗に伸びる手刀。
兄さんの目をえぐらんとするかのような一撃。寸止めした私の顔に一片の笑いもない。
怒りというより呆れ。やはり正菱の人間はわかっていない。
「私の前でもう一度そんなことを言ってみなさい。いくら兄さんでも死んじゃうわよ。
そのときは頑張って耐えて。優しい有紗様の気が済むまでね」
私は敵意を隠さず兄、知也に向けていた。
景子は口元に手をあて驚いているが、兄さんは全く気にしていない様子だ。
「有紗の前でって事は、他でならいいのかい?」
そう言って兄さんはやんわり私の手をどけた。
「ふん。陰口までどうこうしようなんて、私は尊大じゃないわ」
私は息を吐き、高級車の柔らかいシートに座り直した。
別に本気で怒ったわけじゃない。ただ、いつまでも意識を変えようとしない人間たちには警告が必要なのだ。
「知也様。今は失言ですよ」
「ああ、口が滑ったな。すまない有紗」
兄さんが小さく頭を下げる。
本心からの謝罪でないことぐらいわかっているが、私はそれで一定の満足をした。
私には形式的なものではあるが兄が謝罪したことの重さが分かっていた。
十年前の事件に深く関わった父を引退間際まで追い込んで、正菱の実権を手に入れている兄さんの謝罪は、正菱の公式の謝罪に等しい。
意地もプライドも、それ以上に立場のある兄の謝罪は私も無碍(むげ)にするつもりはなかった。
「さて、MBAD患者の件は引き続きこっちで追っていくが、それ以上にお前が興味あるのは深山の件だろう?」
「……ええ」
私は苦々しく答えた。
「惣我、渡してやれ」
「よろしいんですか?」
「どうせコピーだ」
「いえ、そういうことではなく」
「情報のあるなしでリスクは段違いだ。
有紗は俺が止めても聞くわけがない。なら情報ぐらい渡してやれ」
「……はい」
兄の物言いに景子は渋々と紙ファイルを取り出した。
私はそれを受け取ると手早く目を通していく。それは警察の捜査情報だった。
「これ警察の内部資料じゃないの。これも路武って刑事から?」
「いいや、これはもっと上から手を回した。
それを読めばわかると思うが要点は三つだ。
まず一つ目が深山浩と思われていた遺体が、どうやら深山ではない可能性が出てきた」
「なんでまた?」
そう言いながら私は資料の該当ページを探す。
「元々所持品から深山だろうとされていたのが、歯形が一致しない可能性が出てきたそうだ」
「さっきから『可能性』って回りくどいわね」
「綺麗な遺体ではなかったらしいからな。それが要点の二点目だ。そこに写真があるだろう?」
兄さんが示したページには遺体らしきモノが写っていた。
私の目にはそれが何か現実味無く映って見えた。表面が白赤い塊。
確かに一番大きなブロックから四つの部位が生えているが、言われなければそれが四肢だとは気付かないぐらいに歪(いびつ)な形をしていた。
それこそ低予算のB級映画に出てくる作り物の生命体のようにも見える。
顔と思しき場所には小さい瘤(こぶ)がいくつかあるだけで、その合間から汚いベージュ色をした何かが垂れていた。
「ぅあぁ!」
それが何か認識して私は叫び声をあげた。
今の今までまじまじと写真を見ていたのに目を背けずにはいられなかった。
「見ればわかるだろ? それじゃあ顔も歯形もあてにならんよ。
血液型は深山と一致したらしいが実際深山かどうかは、今DNA鑑定をしようとしているそうだ。肝心の深山のDNA見本が入手出来ず手間取っているらしい」
「な、何よこれ。これが人の死体なの?」
「俺も聞きたいな。有紗の力で人体をこんな風に出来るのかい?」
兄が喜々として、にこやかに質問した。ホント趣味が悪い。
「出来るわけないでしょ!」
普段なら兄さんの態度に怒りを覚えるところだが、私が声を荒げたのは純粋に否定したかったからだ。
「やはり有紗の力でも無理か、ならこれは何でこうなったんだろうな」
沈黙が車内を包む。そんなこと誰も答えられない。
その答えを黒川が知っているというのだろうか?
「そして要点の最後。まだニュース報道されてないが、同じように警察官が二人も殺されている」
「嘘でしょ……」
信じられなかった。元々私は深山が仲間割れか返り討ちにあって死んだ程度にしか考えていなかった。
わざわざ黒川が人殺しをするという発想がなかったからだ。
それなのに、深山かどうかは定かではないが一人がこんな無惨な殺され方をし、更に警官が二人も殺されただなんて、一体どうなっているのだろう?
「警察官の遺体も……こんな酷いの?」
「同じように、と言ったろ」
「いくらなんでも黒川がそんなことをするなんて」
「さぁ、実際に黒川がやったかどうかは俺は知らんよ。
だが事実として、二人の警察官は黒川をマークしている最中に殺されたらしい」
私は歯を食いしばる。どんな状況であれ、人が死ぬなんて私には耐えられない。
数々の命が消えていった実験病棟で生き残った者だからこそ、命が失われることが許せなかった。
「とにかくだ。まだ事件に関わる気なら、そのファイルをよく読んでおけ」
「ありがと、兄さん」
「お前に礼を言われるなんて何年ぶりだろうな」
「初めてじゃない?」
「言ってくれるな有紗」
冷え切っていた車内の空気が和みを見せる。
「肝心のジュンの居場所も教えてくれるんでしょ?」
「奴がどこに連れて行かれたかは知らんが、黒川の研究施設の場所は見当がついている。
何十人というMBAD患者を収容するのだ、それ相応の施設があるはずだ。それに新しい出資者も。
背後に大がかりな組織がついた可能性もあるのでこっちも慎重に調べている」
「黒川に大がかりな組織がつくだなんて、そんなことに今まで気付かなかったの?」
「我々も毎日あの事を気にしているわけじゃない。
我々にとってあの研究所のことは十年前に終わっているんだよ」
「よく言うわ。私たちは今でも……」
「お前の言いたいことはわかる。しかしあの研究のおかげで今生きているのも忘れるな」
「ふん、私が生きているのはジュンのおかげよ」
私の言いように、兄は反論しなかった。
「これでも、今回の件については相当骨を折っているつもりなんだがな」
「それぐらい当然よ。アンタたちのまいた種なんだから」
「そう面と向かって言ってくれるのは有紗だけだ。
惣我、候補地リストも渡してやれ。
少々時間が足りなくてな。四つまでは絞り込んだがそれ以上はわからん」
「え~ 多いじゃない」
「向こうも情報撹乱ぐらいしているんだ。仕方がないだろう?」
「四つまで絞れたんだったら、現地調査すれば直ぐにわかるでしょ?」
「正菱で被害者を出すつもりはない」
私の脳裏にあの遺体の写真が浮かぶ。
調査に向かう人間はああなることを覚悟せねばならない。
自ら志願する人間なんていないだろう。確かに被害者はこれ以上出すべきでない。
「何? だったら私は被害者になってもいいって言うの?」
「お前はもう正菱ではないのだろ?」
母方の悠木を名乗る有紗には返す言葉もない。
兄も本気で私が死んでいいとは思っていないだろうが、私は普通の人間にはない馬鹿力がある。
リスクが一番低い人間というわけか。
「アンタねぇ。妹を何だと思ってるのよ」
「こう見えても可愛がっているつもりなんだが、懐いてくれなかったな。非常に残念だよ」
「一生懐くか、馬鹿兄貴!」
車は速度を落とし、駅のロータリらしき場所に停車した。
「有紗。表立っては手伝ってやれない。
今回のことは、正菱は全く関与せず一部の者が独断で起こした問題とし、収拾することに正式決定している。
その代わりマスコミと警察は気にするな。
こっちが全力をもって圧力をかけてやる。いくらでも暴れて来い」
「やっぱり可愛い妹に言う言葉じゃないわよ。でもお礼は言っておくわ。無事に事が済んだらゆっくりお茶でもしてあげる」
「はは、お茶か。悪くないが、最近和食も作れるようになったらしいじゃないか。一度有紗の作った味噌汁が飲みたいな」
「味噌汁? 言っとくけど、結構すごいわよ」
そう言い残して私は車を降りる。
「何がどうすごいんだ?」
「さぁ、それは機会があれば自分の舌で確かめたら?」
ロータリを見回せば、黒いタクシーが客待ちの列を作り、ティッシュ配りのバイトが遠巻きに私たちの方を見つめていた。
こんな高級外車で乗り付ける私に周囲の目は釘付けだった。
これからまた不法侵入をしようという私がこんなに目立ってどうするの……。
そんな思いを抱いて私は駅へと歩み出した。
「兄さん、また会えたらね……」
私は祈るように呟いた。
もちろん死ぬ気はない。それでもこれから向かう場所が危険なのは確かだった。
そんな状況で兄さんとの再開を願うのは、私も正菱有紗としての一面が残っているのだろうか?
駅の雑踏は普段通りに私を迎え包んでくれた。
(第11章につづく)
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悠木有紗にとって僕がどういう存在なのか、気にならないと言えば嘘になる。
でも、僕が彼女にとって特別な存在だなんて妄想は、僕の頭の中にしまっておく。
ただ一つ、ただ一つ言えることは、僕には彼女が必要だったって事だ。
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