No.192008

ah! My Goddess ~the gate of the Judgment~1

2000年に(もうそんなになるのか〜)劇場公開された劇場版『ああっ女神さまっ』を文章化したものです。
ムービングを文章化、文章の利点を生かして表現するとどうなるのか、という練習です。
ですから真新しいことはありません。
ただ、螢一はまだしもベルダンディにリアリティがないのでちょっと苦戦しました。
三回に分けて投稿します。

2010-12-26 22:55:23 投稿 / 全14ページ    総閲覧数:1318   閲覧ユーザー数:1307

 序『moon』

 

 月面。

 砂漠よりも乾燥しきった世界。

 そして、

 極圏よりも凍える世界。

 

 そこを舞う妖精の少女。

 彼女の背中には、蝶のような羽があった。

 大気のない月面で、まるで風に靡くような黒い髪の毛。

 その舞いは人の目から見ればまさに蝶のようであった。

 しかし、

 刹那、彼女は深呼吸をすると、まるで魚が静かな湖面にそうするように、月面にダイブした。

 

 月の中には巨大な空洞があった。

 その中央には、妖精の少女を押しつぶす程の高く分厚いリトグラフィが聳え立っている。

 黒く鈍く光るそれには、いにしえからある神族の魂のみが幽閉されていた。

 

 その名をセレスティン。

 

 彼は、あらゆる世界のあらゆる法則を管理する神に最も近しい神族でありながら、そしてその高見に座する者でありながら神の意に背いた。いや、ひょっとしたら最も神に近い存在だったから背いたのかも知れない。

 「こんな大きな物でも、見つけるとなれば骨を折るということね」

 その怜悧な顔に困憊の色を漂わせつつ、しかし少女は見上げながら含み笑いをした。

 男が月に幽閉されているという情報を耳にしてから、計画というにはあまりに稚拙な企てを思い至り、それからここまでどれほどの時間を費やしたことだろう。とはいえ、ここまで来ればその苦労も報われると思えた。

 白い掌をリトグラフィに翳す。

 神の結界の堅牢さを感じる。確かに、これでは中のセレスティンという男でも脱出は不可能であろう。これほどの結界を作れるものは神の他には存在しまい。

 少女の一族、アヴァロン族を除いては。

 アヴァロン族にとってみればこれでも薄紙のようなものでしかない。無効化することは、ここまでの道程を思えば造作もないことだった。

 ただ、神の法にふれるというだけのことである。

 妖精の少女にしてみれば、それもまた些細なことでしかない。

 神への謀反そのものが彼女の目的だった。

 

 少女の掌がリトグラフィに触れた瞬間、積み木を崩すよりももろく、そして重苦しい音をたてそれはゆっくりと瓦解していった。

 少女は降りかかる瓦礫をさけるため、大きな跳躍で後ずさる。

 ものの数刻で、リトグラフィはただの瓦礫の山になった。

 砂煙る瓦礫の中に、少女は白く光る卵形の小石を見つけて拾い上げた。石の窪みが人の顔のように見えた。

 これこそがここに封印されていたもの。彼女が探していたものである。

 

 “私の他に、このようなことをする者がいようとはな”

 白い小石に口はない。小石の中に封印されたセレスティンは思念派を使い、感嘆の口調で少女の脳に直接話しかけた。

 「私とあなたの志は同じなのでしょう? 私にはそれを行う力も知恵もないけれど、あなたにはそれがある。そして、あなたはそれを実行する体を持たないけれど、私にはあるというだけのことよ。セレスティン」

 “なるほど。永遠に月の地中に埋もれていることはないだろうと思っていたが。アヴァロン族の少女よ、君の名は”

 「モルガン・ル・フェィ」

 “新たな世界を造りたい。神が二の足を踏む理由は理解できないが、私の計画と君の協力があれば、きっと成功する”

 「交渉は成立ということね」

 少女は静かにそう言うと、白い小石を胸元にあてがった。小石はずぶずぶと音をたててその白い肌に埋没してゆき、そしてついにその体の一部のようになった。

 “モルガン。ベルダンディのところに行く”

 「ベル……あの一級神。そんなに弟子が可愛いの」

 “戦力は必要だ。それに彼女のところには森里螢一という青年もいる。よしんば戦力にならなくても、ユグドラシルへのカギと扉にはなる。”

 「封印はされていても、したたかにやっていたって? 封印されっぱなしのつもりはなかったって言うのは、はったりじゃないってことね」

 モルガンは頼りがいのあるパートナーを見つけられたことに満悦した。これから命をかけた大犯罪をおこなうのだ。自分の人選に間違いはなかったと思えるのは嬉しいし心強いことだ。

 モルガンの唇がほほえみで歪んだ。

 ah! My Goddess ~the gate of the Judgment~

 

 

 一『accsess』

 

 満開の櫻が散りはじめる頃、

 

 その朝、森里螢一は美しい女性の歌声で目覚めた。

 といっても、それが耳障りだったわけではない。

 このソプラノは、彼の同居人の一人、ベルダンディのものだ。

 

 “I want to say in the world

  I am yours

  It is in the angel now, and it can be

 

  Birds are making noise

  It will be on refreshing 1 by today's forecast

  It is as glaring as to choke

 

  Because it fell in love to you

 

  I want to say in the world

  I am yours

  It is in the angel now, and it can be

 

  From your mouth

  I want to know all

  The depth of the sea

  The height of the sky

  It was full of the wonderful wonder

  This scene

 

  Because it fell in love to you

 

  I want to say in the world

  I am yours

  It is in the angel now, and it can be”

 今日おこわれる、猫実工大自動車部の新人歓迎コンパの用意をしていて、夕べの就寝はいつもより遅い。今も早朝といえる時間ではあるが、こんな素敵な歌声を聞いてしまえば不機嫌になるはずもなかった。

 螢一は、パジャマのまま外に出ると、歌声のする裏庭に廻ることにする。

 もともと他力本願寺という寺院だっただけに、庭は広い。ベルダンディの声はまだ遠いが、螢一の耳朶をしっかりとうっていた。

 ベルダンディを裏庭からさらに奥の林の中に見つける。と、彼女は両手を大きく広げて枯れかかっている樫の樹を優しく抱きしめていた。

 その樫の木の為に歌っているのであろう。

 ブルネットのロングヘア。櫻色のワンピースに白いエプロンがよく似合う。

 歌にさらに熱と感情がこもってくると、彼女の細い背中から白いローブを纏った天使が姿を現す。彼女の能力が天使の形になったもの“ホーリーベル(聖なる鈴の音)”だ。

 その天使が純白の翼を大きく何度かはばたかせる、

 

 “I want to say in the world

  I am yours

  Because it reached paradise at last”

 

 と、詠唱は終わった。

 同時に、ホーリーベルもベルダンディの中に姿を隠した。

 

 「凄いね」

 螢一は、枯れかかっていた樹から、若葉が芽吹いているのに気づいて少し興奮した。自分より少し背の高いベルダンディを眩しそうに見る。彼女の能力には、いつも驚かされる。

 「おこしてしまいましたか」

 「君の歌声が聞けて元気になったのはこの樹だけじゃないよ」

 ベルダンディの優しい声に、未だに螢一はてれていた。

 「朝食の準備をしていたら、この樹が私を呼んだんです。もう少しだけ生きなくっちゃって。だから、手助けができればって……」

 螢一のはにかみがベルダンディに伝播したようで、少し雄弁になっていた。

 「早く大学に行こう。夕べせっかく準備が、遅刻したらもったいない」

 落ち着いた、それでいて可愛い返事をベルダンディはし、踵をかえした。長い髪が泳いで、芳香が螢一の鼻をくすぐる。いいかげん彼女の挙動に狼狽しないように慣れるべきだと思いつつも、少し、めまいがしそうだった。

 螢一は、ベルダンディの背中が見えなくなるまでいつまでも見ていた。

 “手助け”と彼女は言うが、それだって普通の人間にできることではない。

 彼女は、もっとも神に近しい存在。

 神族である。

 「朝っぱらから見せつけてくれるのはいいんだけど。どうせならもう少し男らしくいけないもんかねぇ。あんたら、もう何年になるんだっけ?」

 枯れかかっていた樹の影から、諦めかけたような物言いで、螢一よりもひとまわり年上の風貌の女性が現れた。銀髪、褐色の肌、上下ジーンズというラフななりである。

 ウルド、ベルダンディの姉だ。

 「冗談。あれよりお姉さまに近づいたら私が大声をあげて!」

 さらにウルドの背中から、高校生くらいの黒髪のセーラー服少女が声を尖らせた。

 ベルダンディの妹、スクルドである。

 無論、二人とも神族である。

 「混ぜっ返すなよ。なんなんだよ」

 螢一は、照れ隠しにたしょう憤慨してみせる。

 「あの娘の声が聞こえてきたから、ひょっとしたらって思うじゃない?」

 「二級神の私としては、一級神であるお姉さまの歌って勉強になるのよ」

 それぞれに思惑はあれど、ベルダンディの歌声にひかれてきたのには違いないようだった。

 一級神という肩書きにどれくらいの価値があるのか、正確にはわかりはしない。ただ、彼女の魅力は並大抵のものではないというのは周りの声からも、螢一が肌で感じとれていることでもあった。

 とはいえ、そんな素晴らしい女性何故さえない自分と同居をし続けてくれるのか。さらに身辺の世話までもしてくれるのかということに疑問を持つほど螢一は矮小な青年でもなかった。

 

 

 「帰ってきたら、一緒に歌の練習をしましょう」

 螢一のBMW-RSサイドカータイプのパッセンジャーシートに乗り込んだベルダンディは、ヘルメットを被り、見送りのスクルドを見上げた。

 スクルドは歓喜に躍り上がって上半身を全部使うように頷いた。

 「じゃ、いってくるよ」

 螢一は、ヘルメットのシールドを降ろすとゆっくりとアクセルを開けた。

 小気味いいエンジン音でBMWは走り出す。

 ベルダンディが螢一のところに来てから三年目の春を迎えていた。

 “お助け女神事務所のベルダンディともうします。あなたのようにお困りの方を救済するのがつとめです”

 と、螢一の部屋の鏡から現れた。そして、彼女はひとつだけ願い事を叶えると平然と言ったのである。

 “君のような娘に、そばにいてほしい”

 それが、螢一の願い事だった。

 あらゆる名誉、

 地位、

 富、

 世界の破滅までも叶えてみせるとまでベルダンディは言ったが、よもやこんな願い事が叶うとは思ってもいなかった。

 しかし、そんな気持ちで言った願い事であっても、それはひやかしでも偽りの気持ちでもなかった。ベルダンディのまじめな眼差しの前にとてもそんなことは許されないと解ったし、彼女の価値観は螢一を熱く夢中にさせたのだ。

 しかし、そしてその願いは受理された。

 異例の願い事であるのはちがいないようだった。直後の彼女のリアクションからも、受理されることがかなり特殊なことであったと想像はできた。

 そしてその後、彼女の姉と妹までもが一緒に生活することになったのである。

 これまでに紆余曲折があった。

 いつからかお互いを恋人のように思えるようになっていたし、世間は二人の関係をそのように受け取っていた。

 男としてベルダンディを抱きたいと思って可成り焦ったこともあったが、残念ながら、そのような交渉はこれまでにはない。妹の恵には「不能なの?」と疑念を抱かれるほどであったが、今となってはそれでもいいと思う。焦ることもないし、失望することもない。そのうち自然となるようになるだろうと思いはじめていた。螢一とて健康な男であるし、恋愛は心のみの仕事だと思っているほど幼くもない。とはいえ、ベルダンディを遠く感じるというわけでもないのだ。愛しい彼女をいつだって近くに感じていられる。離れていく気配など毫も感じられないのだ。

 『他力本願寺って言ったって』

 住んでいるのがもともと寺院だからといって、煩悩を克服したとか無我の境地に達したわけでもないのだろうにと苦笑していた。

 さあ急ごうと、螢一はもう少しアクセルを開けた。

 上空から、二人の姿をモルガンとその胸に埋め込まれているセレスティンが見おろしていた。

 「もう少し手間取るかと思っていたけど、あれでは見つけてくださいと言っているようなものね」

 モルガンは、失笑することも拒否した。呆れることすらできないと思った。

 個体密度や空間の広さ。そして、ターゲットの大きさから鑑みれば二人を発見するのはセレスティンを見つけるのよりも遙かに時間がかかるはずだった。しかし、あきれるほどに容易く見つけることができてしまった。

 螢一とベルダンディをこうも早く見つけることができたのは、二人を包み込むように結界が張られていたからである。それも、それを感じ取ることができる者であれば戦慄をせずにはいられないほどに強力なモノである。おそらくは、いや、間違いなく二人が意識的につくっているものではない。しかし、確実に二人を守っていた。

 “あれでこそだよ。二人は、我々の希望だからね”

 「人間界のこのあたりでは、私たちみたいなのを“馬に蹴られて死んじまえって”言うらしいわよ」

 モルガンは、背中の羽を鷹揚にはばたかせながら、しかも挑発的に笑った。

 “私は、一度死んでいる。それに、新たな世界を造るために死ねるなら本望だよ”

 「私だって」

 モルガンは、自分の決意を再確認して身震いした。

 二人を包んでいる結界は、セレスティンを封印していたものよりも数倍強力なものだ。結界のオーソリティーである自分でも破れるものかどうかやってみなければわかったものではない。しかし、あの結界を突破しないことには今度の作戦は始まらない。にもかかわらず、相手は恐ろしく強大だ。

 “あの二人の結界は、過去にいちど神ですら退けているということだが?”

 「でしょうね」

 「あの二人に近づくだけでいい」

 「結界もだけど、幻術はお手のものよ。

 モルガン・ミスズ・豪和でいいのね?」

 

 

 猫実工大自動車部の新人勧誘はおおむねうまくいった。

 例年並みに新人を確保できたということである。

 大学キャンパスの一角、どちらかといえば裏手と言える区画で勧誘セレモニーは行われた。

 これまでの活動で造り上げられてきたマシーンが次々とデモンストレーションに現れる。素人のやっていることとはいえ、いくつかの大会で結果を残してきたものばかりである。二輪や四輪といわれるモノに詳しくない者でも感嘆した。無論、目利きのあるものであれば、その価値を理解できた。新入生の中にも、自動車部に入るために猫実工大を受けたという者もいた。

 とはいえ、どこの部でも新人の獲得には苦労するものである。自動車部もご多分に漏れはしなかったが、とっておきの秘密兵器があった。本人たちこそその価値に気付いていないのだが、ベルダンディと螢一である。

 二人は、新人獲得に大きく貢献した。

 レース競技用のサイドカー、純白のレーシングニーラーRS80-TOMBOYで登場した。

 地を這うように低く流線型のボディを身体の一部のように操る、ライダーの螢一とパッセンジャーのベルダンディ。その華麗さにギャラリーは息をのむ。そして、タラップからおりたベルダンディが物々しいフルフェイスのヘルメットをはずし、ブルネットの長い前髪をかき上げればいたるところでため息がもれようというものだ。いくら無粋なデザインとはいえ、身体の輪郭がはっきりするライダースーツでは彼女の美しさを隠すことはできない。下品にも生唾を飲み込んだ者もいたようである。

 貢献したという意味では、入部希望者第一号となった真っ赤なロングコートの美少女もそうであろう。「なんと。入部第一号は女の子です!」と部長が声を張り上げれば嫌でも瞠目する。まして、冷たいとさえとれる均整の撮れた顔立ち、ロングの日本人形のような黒髪の少女であれば、下心まるみえに男どもが入部をしてくるものだ。

 夕べ、螢一やベルダンディも準備をした歓迎パーティーは、盛り上がった。

 イロ紙を用いた飾り付けはベルダンディの得意とするところであるし、なぜか自動車部の備品というカラオケセットの修理も螢一がしておいたのだ。食料は、部長やOB会のほうで用意してくれていた。

 

 カラオケのマイクが回ってきて、ベルダンディは上座のほうにでていった。

 螢一は、入部第一号の少女の横に坐った。赤いロングコートを脱いで、ブラウス姿になっている。彼女のことは、ベルダンディとの楽しい会話の中でも気になっていた。テーブルについて、グラスに冷やの日本酒を飲んでいる姿が淋しそうに見えたのである。多くの入部者を喚んでくれた功労を労いたいとも思っていた。

 「俺、森里螢一。君は? にぎやかなのは苦手なの?」

 

 ベルダンディが、珍しくポップ調の歌を歌いはじめた。

 

 “It is only by the side of which doesn't become love

  Because it is a dull man even if a mystery is hung

  The clothes of summer were put on, and it came to the sea of spring

  Talk gently in your shirt

 

  my heart It doesn't begin to say

  please It tries to kiss

  A theydream dream swells

  It disappears high in the sky

 

  As for the girl, anyone can become happy

  If love begins, it begins to light up

  Even if tears are shed, because of you

  Even if it worries, it isn't sad”

 「先輩のことは存じてます。私はモルガン・ミスズ・豪和です」

 言われて、顔立ちといいおそらくはハーフなりの日系の娘なのだろうと螢一は洞察した。

 彼女の口調は突き放すようであったが、螢一は声をかけたことに後悔はしていなかった。異性同士なんて本来そんなものだ。自分にとってのベルダンディこそが特別だったのである。

 「ここにいるんなら二輪とか自動車とか好きだってことだろうし、話は合うよ。ドライバー志望の奴とかメカニック肌の奴とかいろいろいるしね」

 「ベルダンディ先輩と同居してるって本当なんですか?」

 矢庭に切り出されて少々当惑する。隠しているわけではないし、同居しているからといっててれてしまうのも今さらなのだが、声に出して言われたり訊かれるのは初めてだったと気付いた。

 「ああ。いっぱい世話になってるよ」

 なんでそんなことを訊くのかという疑問もあって、訊き返そうというスケベ心もわいてきたが、妹の恵が割り込んできてできなくなってしまった。

 「ケイちゃんダメよぅ。ベルダンディの目の前で浮気できるなんて、たいした甲斐性ですのね?」

 モルガンの反対側から、螢一の肩に腕を回してきた。

 反対の手にはビールジョッキが揺れていた。

 ぐんと、ビールの所為で真っ赤になった顔を近づけてくる。酒臭い。

 「お前。帰りバイクっていうのに!」

 「かたいこと言わないの。ケイちゃんこそ、浮気してるとベルダンディに怒られちゃうから」

 恵は螢一の二の腕に身体をすりつけてきた。完全に酒に飲まれているようである。

 「そう思うんだったら……」

 恵を振り払おうとするが、思いのほか力がある。螢一は男性としては身長の大きい方ではないから、妹とはいったって身体の大きさがほとんど変わらない。ましてや、相手は力加減の麻痺している酔っぱらいだから仕方がないと言えば仕方がない。

「あっら~。昔は一緒によくお風呂に入ったじゃないの。なにてれてんのよ」

 刹那、螢一のもっているグラスの底が抜けた。

 オレンジジュースが盛大にぶちまけられ、危うくジーンズを汚してしまうところだった。

 もともと、ひびでも入っていたのかなと思ったが、

 次には、

 恵のビールジョッキに、

 モルガンの日本酒のグラスに、

 部員が一気飲みしている一升瓶に、

 一瞬にして、真っ白になるほどの細かいひびが入り、砕け散った。そして、辺りが濡れることもないくらいに霧散した。

 一部の女性部員から悲鳴があがるが、深刻なものでもないようだった。次の瞬間には不思議な顔をする者、再び笑い出す者とになっただけである。ケガ人がでなかったということだろう。

 そして、知らないあいだにベルダンディは歌うのをやめていた。伴奏はながれているが、薄い唇の動きは止まってしまっている。正確には、多少ふるえているようだ。まるで、今、グラスが割れたことに一人だけ驚き恐怖しているかのようだった。

 部屋中の視線がベルダンディに注がれていた。

 「……すみません!」

 ベルダンディはマイクを放り出し、悲鳴を上げて飛び出していった。

 「ベルダンディ」

 ベルダンディを追いかけていった螢一に、部屋中からあっぱれとばかりの喝采があがった。

 それを鼻先で笑うようにしながら、モルガン・ミズズ・豪和は、ゆっくりと席を立った。

 

 辺りは暗くなっていた。

 自動車部の部室前にある幾本もの櫻が、今年最後の力を振り絞るように、零れんばかりに咲いていた。

 ベルダンディはその櫻の幹にもたれるようにして俯いている。

 螢一は、躊躇なくその肩に掌を置いた。

 「ベルダンディ?」

 「すみません。あんなところで力を使ってしまって」

 「そういう君を見ていると、安心もするし、なにより嬉しいよ。君と僕の立場が逆だったら、同じ事してたって言えるもの」

 「螢一さん」

 ベルダンディに見つめられて、螢一は視線がそらせなくなってしまった。このシチュエーションには永遠に慣れることができないかなとは思いながら、

 「今年の櫻は、もうおしまいになるね」

 見てもいない櫻のことをどうにか口にした。

 「来年も、これからもずっと螢一さんと櫻を観たいです」

 ベルダンディは、額を螢一の肩に休ませて少し甘えてみせた。

 身体中の血液が沸騰している、と思う余裕すら今の螢一からなくなった。やっとのことで、もう片方の掌をもう一方の肩に乗せてベルダンディを抱き寄せていた。

 「ベルダンディ」

 無粋な男の声が二人の耳に届く。

 「!」

 ベルダンディは、その声に敏感に反応して螢一の胸の中でふりかえった。

 声の主は、螢一でもすぐに見つけられた。

 隣の櫻の脇に立っていた。もう充分暗くなっているのに、燐光のように輝いているので容姿はよく見えた。空色のローブ。その姿は彼が神族であることの証拠といってもいい。

 「セレスティン!」

 ベルダンディの目は見開かれた。歓喜の悲鳴を上げ、螢一の胸から飛び出す。

 螢一は、その虚無感を振り払おうとベルダンディの後をゆっくりと追いかける。

 「お久しぶりです。こちらにはなんの用事でみえたのですか。それとも、私に会いに来てくださったのですか」

 ベルダンディは、セレスティンの掌を握りしめた。

 セレスティンは、優しく暖かい眼差しでベルダンディを見おろした。

 「君たちに会いに来たんだよ。幸せかい?」

 「はい。螢一さんは、とても優しくしてくれますから」

 ベルダンディは、ちょうど手の届く辺りまで来た螢一を振りかえる。。

 螢一は、ベルダンディを見ることをやめてセレスティンを見上げた。さっきベルダンディが胸の中から飛び出していった時の虚無感がまるで嘘のように思えた。自分の知らない、それも神族らしい男をベルダンディが大切にしていれば嫉妬心もわいてきそうなものだと思えるが、不思議とそうではない。このセレスティンという男には安堵感さえ抱くことができた。

 「どうも」

 螢一は、それでもどこか素っ気ない挨拶をしてしまっていた。警戒心を抱かない自分が、抱かせないこのセレスティンという男を不気味だと思えたからである。

 「君が森里螢一くんだね。私は、ベルダンディの古い知り合いでね。これからも、この娘のことを頼むよ」

 「私の、恩師なんです」

 ベルダンディは、今度はセレスティンの胸に飛び込んだ。

 「本当に美しくなって。君は本当に私の自慢の生徒だよ」

 セレスティンはベルダンディの肩を抱いた。

 「ありがとうございます。セレスティン、心配していたんですよ」

 しばらく連絡もなかったのだろう。言いたいことが、伝えたいことがたくさんありすぎて、ベルダンディの中で渦を巻いているかのようだった。だからなのか、ベルダンディは泣き出しそうになっていた。彼女の感情がこれまで激しく溢れだしたことなどこれまでに数えるほどしかない。だからこそ、その響きはとても悲しく感じられた。抱きしめてあげるべきだろうかと螢一が思った刹那。

 「そうか。やはり、なにも覚えてはいないのだね。残念だよ」

 セレスティンはベルダンディの顎に手をやると、その唇をそっと重ねていた。

 「?」

 「!」

 目前に突きつけられた情景に螢一が逆上する前に、ベルダンディの全身からは力が抜け、糸の切れた操り人形のように地面にへたり込んでしまった。

 螢一は、ベルダンディに駆け寄ると抱き起こして何度も名前を叫んだ。しかし、反応はない。

 セレスティンはそれを見おろしつつ、奥歯を噛みしめたようだった。

 「忘れてしまったのならば、思い出してもらうしかない。手段をこうじるまでだよ」

 「何をしたんだ!」

 螢一は、こんな言い方しかできない自分にいらだってもいた。

 「君がベルダンディを大切に思ってくれているからだよ。君や彼女の優しさを大切にしたいんだ」

 「ベルダンディに何をしたんだ!」

 螢一は、血を吐く思いでもう一度叫んだ。

 ベルダンディの姉のウルドは、飛行箒で猫実工大に急いでいた。しかし、螢一と妹を上空から見つけた時点で間に合わなかったことに気付いて臍を噛んだ。天界からの連絡を受けるまでセレスティンの存在を察知できなかった鈍感な自分を呪い、セレスティンの脱獄をもっと早く確認できなかった天界のスタッフに憤って舌打ちをした。

 『なんにも知らなけりゃ、無防備になるって!』

 セレスティンが月に幽閉されていた理由を知っている者は数少ない。ウルドですら、ベルダンディの身内であるからという理由で口外しないことを条件に知らされただけである。

 過去、彼がどのような仕打ちを妹にしたのか!

 「よくも、妹の前に!」

 上空から飛び降りたウルドの第一声は、セレスティンへの罵倒だった。

 ウルドをおろした飛行箒は、主の意志を察知してセレスティンに猪突する。が、躱されてしまった。

 「君もあいかわらずだ。君ほど賢しければ、むしろ私の身方をしてくれそうだと思うのだが」

 「思想も体制もないんだよ。妹を苦しめる輩は敵なんだから」

 「直情径行なところも変わらない。手を組めないということだな」

 ウルドはもう一度飛行箒のをセレスティンに突進するように命令した。

 「また、ベルダンディを傷つけるなら!」

 「ウルド」

 セレスティンは、飛行箒の突進を鼻先で受け止める。彼もまた戦闘部の者ではないが、箒の単調な動きを製することなど造作もなかった。

 しかし、ウルドとてそのようなことは承知している。自分の攻撃がそのままセレスティンに通用するなどとは思ってはいない。箒の方は牽制である。彼女は、その間に雷光召喚の体制を整えていたのだ。

 セレスティンが箒を投げ捨てた時には、すでに稲妻は夜空を翔け、夜気を切り裂いて彼の頭上に迫っていた。

 ウルドは、自分でもここまでうまくいくとは思っていなかった。手傷のひとつでも負わすことができれば、その間に螢一とベルダンディをつれて逃げることもできるだろうと思っていたのだ。どこで、どのような手段で手に入れた身体か知らないが、急あつらえの体では思っていたいじょうに操りきれなかったようだ。

 が、

 ウルドの誤算がここで露呈する。

 「ベルダンディ!」

 螢一の腕の中にいて気絶したようになってたはずのベルダンディが、突如セレスティンの頭上でシールドをつくり、ウルドの攻撃を跳ね返していた。

 「姉さん。なんてこと!」

 ベルダンディの絶叫が大気を揺るがす。

 耳鳴りのしそうな声に螢一は耳をふさぎ、いつものベルダンディとは違うのではないかと思えた。あの、暖かく優しい彼女がこんな声を発すなど想像できなかったのである。

 『あの男は、彼女にとってそれほどの存在だとでもいうのか』

 自分のセレスティンへの先入観が誤っていたと気づく?

 「ベルダンディ!」

 螢一は、ただ叫んだ。

 今のウルドとセレスティンの短いやりとりだけでは、彼らの過去に何があったのか推し量ることもできない。しかしベルダンディは唇を奪われ、それでもなおその相手のセレスティンを庇おうとするのであれば、気が狂いそうにもなる。

 無論、ウルドの攻撃は過激だ。しかし、彼女はベルダンディの姉であるし、彼女を守ると言うのであれば、それこそを信じたいのである。

 セレスティンという男は、敵のはずだ。

 「螢一、あんたは間違ってない。あの娘は、忘れさせられたとしてもおかしい」

 ウルドの背後から、“ワールドオブエレガンス(優雅なる世界)”と名付けた天使が現れる。その背中の翼は、白と黒で対をなす。ウルドの能力も完全に臨界点に達した。

 ベルダンディがたとえ障壁となろうとも、ウルドが妹に攻撃を加えられるはずもなかった。手元に帰ってきた飛行箒に乗ると、セレスティンに猪突する。神族が二人も相手ではさしものウルドとて勝ち目はない。ベルダンディを奪われたままというのは心配だが、ここは一時撤退をするしかない。自己最速で逃げる為のワールドオブエレガンスなのである。猪突とあいまって相手に肩すかしを食らわせることもできるということだ。

 しかし、ここでウルドはまたも誤算をしていたと気づく。

 「ベルダンディ」

 螢一が、セレスティンのかたわらに立ったばかりのベルダンディに向かって走り出していた。

 「バカ」

 螢一が冷静でいられるはずもないことなどわかりきっていたのに、忘れていた自分を迂闊だと思う。

 螢一は、ベルダンディの掌をとると自分の胸に引き寄せていた。

 「誰なんです、貴方は。何を。一級神であれば、恩師を守れなくては。姉をくい止めなくてはいけないのに!」

 困惑しているが、ベルダンディのその言葉からいくつかのことが判った。

 彼女は自分のことを忘れてしまっている。たぶん、あの接吻が原因なのではないか?

 そして、それでもあの優しさは失われていない。ベルダンディはベルダンディのまま、毫も変わってはいない。

 螢一は、彼女の髪の毛の香りを感じて泣きたくなった。先ほどの彼女の絶叫で、彼女が彼女でなくなったのではないかと疑った自分を恥ずかしいと思った。

 「ベルダンディ。俺のことを忘れてしまっても、俺は君が」

 男のつまらないプライドだと思われるかも知れない。幼稚な嫉妬心だと自分を嘲笑もする。

 それでも螢一は、

 ベルダンディの唇に自分の唇を重ねた。

 逆に、こんな時でもなければこうすることもできなかった自分を軟弱だとも思う。その軟弱が彼女を苦しめ、こんな事態になったのではないかと思うのは自分の傲慢かも知れないと思う。が、これが謝罪のひとつになればいいとも思った。

 「螢一さん?」

 ベルダンディは唇と心に暖かいものを感じ、いま目覚めたような気がした。目の前に螢一さんがいる。必死で、そして優しいまなざして見つめてくれている。尽くす安らぎの他に、尽くされる安らぎがあると以前ウルドから聞いたことがあるが、今のこれがそれなのかと思った瞬間、彼女は再び気を失った。

 「螢一!」

 ウルドが螢一の腕を取り、背後のワールドオブエレガンスがベルダンディを抱え上げていた。

 三人を乗せた飛行箒は、そのまま他力本願寺に驀進した。

 

 セレスティンは三人を追わなかった。

 というよりも追えなかった。

 長い間の投獄生活が完全に総てをなまらせていた。そのうえで、モルガンという借り物の身体を操るというのは予想以上に精神力を必要とするようだった。

 セレスティンの身体がいっしゅん光ると、次にはモルガンの姿になっていた。

 “私が至らないということ認めるが、君ですらベルダンディたちの結界を完全に無効化できなかったな”

 モルガンはセレスティンの思念派を頭の中に感じながら地に両膝をついた。

 「女とキスなんて、虫酸がはしるのよ。こんなことでうまくいくっていうの」

 憎まれ口で言い訳をするが、神を退けた二人の決壊がだてではないことをモルガンは実感していた。

 “二人ならユグドラシルへのカギにはなってくれる。作戦とは、二手三手さきのことを考えて行うべきだからな”

 ベルダンディと螢一を強く結びつける決壊をやぶり、その記憶を操作することが作戦の第一段階だが、その試みは半分ほど失敗してしまったようだ。ただ、これもまだ想定の中であることにセレスティンは安堵をしていた。


 
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