この塔は、かつては朱に塗られている楼閣牢(ろうかくろう)。そう雪花は思っていた。
つまり牢獄だ、と。
雪花(セッカ)はかつてのことを覚えている。ある日、男が彼女を連れ去ったのだ。
ここはどこなのか?
鏡に映るのは己の姿。細い手足、朱の射さぬ白き頬、つやつやと光る黒髪は長く、朴衣をさらに包み込んでいる。わずかに膨らんだ女性の体。その自身の姿を湯浴みする湯室の、鏡によって、雪花は見ている。白い雪のような白い肌。陶器のように硬い「骨」を連想させる。と雪花は思った。周りの従者たちにはいわなかった言葉だが。
己を”その人”の意識とともに。己を”その人”の意識とともに。
ここは封じされた「南土」にある、はじまりの弓の骨だ。文の塔というものはそういったものだ。
雪花の力を封じ、閉じ込められた「文の塔」は楼閣牢ともいわれる。しかしもともとは女性が「文」を書く場所だったという。
文は文様。文は人文。文は天文。
そして、雪花に妄りに触れるものは「文」となるのだ。雪花と”その人”が望めば。だが。
そのため雪花は楼閣牢に隔離されている。ここにいるのは機工(からくり)の人形だけ。通常は、「文の塔」には一人の女性しか入ることは許されない。文の塔は彼女の文の力を精密なカラクリのように操る。
なぜなら雪花は生命を文に変えるため。その「文の秘儀」を解かぬかぎり、雪花に自由はない。
かつて雪花が生まれたときに母親を文に変え、村の人間をただの文へと消滅させた。
通常の文はさほど剣呑ではない。まれに、文の力を封じた娘が生まれる。そして彼女たちは国の宝として、つまり文の力を調整できるものとして、塔のなかで暮らす。文をもったもの同士ならば、お互いの文を調整できるから。
だから雪花もまた文の力をもったものだ。しかし彼女の力は制御できぬ力だったのだ。そのため、村の惨状を伝え聞いた、王都の領主は彼女を他の「文」を交えぬようにした。
雪花は力のコントロールを教えた、その「文」を”その人”と呼んでいる。
雪花には年に一回彼女の文を求める、男たちが来る。それらは男性だった。文の力を調整せねば、その男たちを殺してしまうだろう。と自覚させたのだ。
「ねえ、あなたはどう思うかしら? つまりわたしのもつ力」と人形に聞く。奇妙なカラクリだが、殺人用に作られている。つまり雪花の文が暴走すれば直ちに塔の保安機能が働くことも、その女性から知らされたことだ。
硯に文を書き記していると、そのとき文の力は現れない。もっとも雪花の文の力が写った書物は貴重な呪文書となるのだが。
「アノオトコニキクノガヨロシイカト……」それだけ人形は答えた。この人形もまた文によって動くが人間よりも堅牢なのだ。
「そうね」
もちろん、雪花にも楽しいことはある。塔の天蓋の部屋の天窓の日差しは心地いい。今日はここで寝よう。星とともに寝るのだ。冬が近づいている。
「私には星は文様のように思えるな」とその人はいったもの。
「そうなのかなあ」
「そうなの。あの星もこの世界も文によって動いているんだから」
などと口をもぐもぐさせる。甘味と香料の香ばしい香りだ。その天蓋部屋にお茶を持って、上ると、そこに……。
昼間の人形がいた。彼らは雪花を一瞬で殺せるだけの技量をもった暗殺者だ。カラクリと文は相容れぬものなのかしら?と雪花はため息をつく。もっとも彼らなしではこの塔は維持できぬだろうが。雪花も身の回りのことをするようにいわれているが。
といって、のんびりと、お茶を飲むわけにもいかず。
「あなた何をしているのかしら?」と困っていることを告げる。
「コレハシツレイシマシタ。姫君の警護をするように仰せ付かったものです」
「そう」わたしが姫君。それも文によって作られた幻想だと彼女は知っている。あの人たちもそういっていた。
「でも乙女の部屋に入ってくるなんてあなたたちは遠慮がないのね」
「コレハシツレイシマシタ。でも……わたしたちにはお願いがあるのです」
「わたしたち?」
「ハイ。わたしたちにもっと生命を与えてください」と人形のうさぎがいう。
「困ったことをいう。文の力がコントロールできぬ以上、それはしてはならぬ掟。掟によって作られたそなたたちがなぜ?」
「ハイ。叛乱軍の蜂起を確認しました。現在、人形たちは「塔」のまわりに防衛線を敷き、都からの警護人たちも防御を固めています」
雪花の力がある限り、叛乱軍もこの地には近づけぬはずだ。しかし……。
「叛乱軍は強力な文を使っています。そのため人形たちの文を強化する必要があるのです」
「そのような重大なことなぜ言わぬ」とわたしは文を読む。そうこれは文。
「悲しいわね。わたしたちにはなにもできない。なにもしてはならぬ」とその人はいった。
そうわたしたちはなにもしてはいけないんだわ。
「残念なことに、わたしにはカラクリに力を与える力がありません。貴殿らは、防衛線を維持するように」と雪花は、精一杯いってみる。でも悲しいよ。人が生命、つまり文を奪い合う。それにわたしたちも巻き込まれていること。
わたしに母親がいたら。いいえいるのよ。そう雪花は気を落ち着ける。さきほどは動揺したが、お茶を飲んで気分を穏やかにする。
もっともそれが人形たちに通じたのかは分からないが。
しかし、それよりも叛乱軍のことが気になった。星を見る。といったこともしているがそれらしい「文」はない。
次の日の都からの連絡文書(れんらくもんしょ)に書いてあった。都に攻め上っている。という。
しかし規模が大きくはないが、警戒するように。といっている。
雪花は届けられた食材で、食べ物を作りながらため息をつく。どうしろというのだ。
「わたしたちも戦には巻き込まれるわ。例えば文をコントロールすることで敵国の兵士や将官の命を奪う。とか」
とその人はいったもの。まだ冬だ。叛乱軍もさほど動けまい。
湯は暖かい。冷たい白い肌に温もりが戻ってくる。湯浴みをするのはたいてい自分だけだ。着替えなども姫君は面倒に思うようになるとか。以前の「文の塔」はたしかにそうだった。自分も含めて、従者がいたものだ。
それは今はいない。なぜだろう?
どうしてカラクリの人形しか残っていないのだろう?
こうして雪花は都からの連絡文書を疑いながら見るようになった。といっても警護兵たちはいるので、なんらかの事情で、システムが変わって、従者たちがいなくなったのだろう。と考えてみるが。
もっともそれは分からないものだ。と長い黒髪を振る。焔という従者だったか。
それがいなくなって、人形だけが残った。
それも文の作用なのだろうか?
雪花は思った。雪花は幻想を見ているのでは?と。
しかしそんな子どもじみた疑いも、実際に感じる感覚とくらべらばあきらかに違うものだ。と感じる。
正午を過ぎ、雪花が、天蓋の窓を開けると、雪がひらひらと降っている。その冷えた感覚を愉しんだ。
手に冷たい雪。暖かい胸の体温。
でも冷えてくるので雪花は窓を閉じた。風がすごいし。
雪花(セッカ)と呼ぶ声がある。人形だ。
「あなたは気づかないの?」
「なにに?」
「もういいわ」と人形のうさぎが出ていく。
その人がいうように、雪花は閉じた骨の塊だ。つまり閉じられている。ということだ。
白い肌は白い骨。
雪花に幻想が一つ加わる。それを文とするのだが、それによって一つ世界に文が生まれる。
雪花とは雪の花。文を作る天文にして人文たる「文の塔」。
世界を見ている。といえる。ゆっくりと沈んだ夢を。
雪花は文を書く。
世界はやがて海に沈んでいきます。と。海? 海かしら? 海は広々としているわ。わたしは見たことがないけれど。
南なのにどうして寒いのかしら? 海は暖かいわ。きっと。
暖かい場所といえば。地下? 天蓋?
天蓋の部屋はきっと暖かいわ。お日様に近いんですもの。
そういって雪花は微笑んだ。文がひとつ書きあがったので。
雪花の文が解けることは幻想にして、そして不可能だ。文は文だから。
ヒトとは異質なものなのよ。と雪花は思う。
「その謎を解くものだあれ?」
「その謎を解くものだあれ?」
文の塔である、楼閣牢より一人、少女の魂が文の世界へと、旅立っていた。
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文は人文。文は天文。文の力をもつ少女、雪花は文の塔へと幽閉される。