「う~ん。……あー、うー」
栄子は頭を抱え、机の前で唸り続けていた。
その頭から既に湯気が出ているような状態だ。
「あーもう、全っ然わけ分からねー」
苛立たしげにぼやく栄子を眺め、イカ娘は小首を傾げた。
「栄子? また数学の宿題でゲソか?」
「あぁ?」
イカ娘の声に栄子が反応してドアの方へ目を向けると、廊下にイカ娘が立っていた。
栄子は嘆息して頷いた。
「数学じゃないけどな。今度は英語の宿題。……英語はどうも苦手なんだよなー」
「数学のときも同じ事言っていたでゲソ」
「うぐっ」
イカ娘の言葉に、栄子は呻いた。
「……ちょっと見せて欲しいでゲソ」
「まあ、いいけどさ」
自室に入ってきたイカ娘に、栄子は英語の教科書と辞書を渡した。
「ところで、英語って何でゲソ?」
「ってえっ!? そこから説明しないといかんのか? つくづく、お前の知識ってどうなっているんだよ?」
ぱらぱらと教科書や辞書をめくるイカ娘に栄子は呆れた声を上げた。
「……まあ簡単に言うとだな? シンディーとかがアメリカで話している言葉のことだよ。私たちがここでは日本語で話をしているように、シンディーとかはアメリカで英語を使って話をしているんだ。んで、その文章ってのが今お前が見ているそんな感じなんだよ」
「……ふむふむ」
「いやだからふむふむって……確かに数学はすぐに理解できたみたいだけどな? いくらお前でも、そう簡単に英語が読めるわけ――」
「栄子? つまりここのページは『F-22はF-15の後継機としてロッキード・マーティン社とボーイング社が共同開発したステルス戦闘機である。F-22は第五世代ジェット戦闘機に分類される。第五世代ジェット戦闘機とは主に――』」
すらすらと読み上げるイカ娘に、栄子は冷や汗を流した。
「おいおいおいおい? マジか? まさか? 数学だけじゃないのかよ? ……ちょっと貸せっ!」
栄子は教科書と辞書をイカ娘から引ったくるように取り返し、中身を読んでみる。……何となくだが、さっきイカ娘が言っていたようなことが書かれているような気がする。
「な、なあイカ娘? この問題集のここなんだけどさ……。ここって何が入るんだ?」
栄子が示した一文にはThe world is not beautiful. ( ), it isと書かれ、問題文には()の中に単語を入れるように支持されていた。
「Thereforeでゲソ」
「即答かよ? 待て待て、答えは……合ってるしっ!?」
信じられないものを見たと、栄子は交互にイカ娘と答えを見合わせる。
「お前……実は研究所の三バカトリオの一人が見つけたとかいう“世界中の言語を一瞬で覚える方法”を教えて貰ったんだろ?」
「英語だってさっき知ったのに、そんなわけないじゃなイカっ!? だいたい、そんなにこれが難しいというのなら、栄子がその方法を教えて貰えばいいじゃなイカ」
「あー、いまいちそれは信用出来なくて……。イカ娘がそれで覚えたというのなら信用出来るけど」
「私を何だと思っているでゲソ?」
ジト目を浮かべるイカ娘に、栄子は乾いた笑みを浮かべた。
「……じゃあダメもとで聞くけどさ。どうやって英語が分かるようになったんだ? 方法を教えてくれよ」
しかし、頼む栄子に対してイカ娘は頬を膨らませてむくれた。先日の数学の際は、せっかく方法を教えたのに感謝どころか怒られたのだった。
軽く栄子は嘆息する。
「私にも分かるようだったら、エビ買ってやるから」
「いいでゲソ☆」
ころりと笑顔を浮かべ、じゅるりと涎を垂らしてイカ娘は目を輝かせた。
栄子の机の上に置かれたシャープペンシルを触手で掴み、イカ娘は栄子のノートにその方法を書いていく。
そして数十秒後。
「……やっぱりエビは無しな」
「ええ~っ!?」
栄子は嘆息し、イカ娘はがっくりと肩を落とした。
「まあ、最初から期待してなかったけどな」
イカ娘がノートに書いた摩訶不思議な……というか園児が適当に書いたような図を見て栄子は肩をすくめた。数学の時と同じオチだった。
「栄子は嘘つきでゲソ」
「ああはいはい、分かった分かった。エビを買ってやるのは無しだが、今度の夕食にエビが出たらお前に分けてやるよ。それでいいだろ?」
「……まあ、それならいいでゲソ」
いまいち不満は残るようだが、ともあれエビは獲得できたわけで、イカ娘は若干機嫌を直した。
「しっかし……シンディーじゃないが、お前の頭の中って本当にどうなっているのか一度見てみたい気はするな」
「解剖は嫌でゲソ」
青ざめるイカ娘に、栄子は苦笑を浮かべた。
「いや、流石にあいつらにお前を売ったりはしないけどさ」
ふむ……と栄子はイカ娘の書いた落書きを眺めて頷いた。
その翌日。
「と、いうわけでさ、一応お前達にも見て貰いたくて来たんだが」
栄子はシンディー達のいる秘密基地へとやってきた。イカ娘は連れてきてはいない。彼女が喜んでついてくるわけもないし、無闇にここの連中を興奮させるような真似も栄子は避けたかった。
ただでさえここの連中は話が通じないというのに、更にハイテンションになられてはもはやお手上げである。
「……お前ら、これ分かるか?」
どれどれ? とシンディーと三バカトリオが栄子のノートに書いたイカ娘の落書きをのぞき込む。
そして、それを見た瞬間、マーティンは息を呑んだ。
「こ……これは……っ!」
大きく目を見開き、食い入るようにノートを見詰めてマーティンはわなわなと震えた。
「分かるのか?」
バカだと思っていたが、さすがはMIT首席卒業。普通(?)の出来の脳味噌でしかない栄子には分からなくとも、彼には分かるものがあったというのか。
「……さっぱり分かりませぇん」
「分からねぇのかよっ!」
ちょっとでも見直して損したっ! と栄子はマーティンの頭にグーでツッコミを入れた。
涙をこぼし、栄子のツッコミで出来たでかいたんこぶを撫でながらマーティンが弁明する。
「いやいや、言い方が悪かったデス。正確には、ほんのちょっとしか分からないのデース」
「ほんのちょっと?」
結局それは何も分かってないってことじゃないのか? と栄子はマーティンに再び鋭い視線を送る。
「少しでも分かるところはあるっていうことよ。まったく分からないというわけではないわ」
曲がりなりにも同じ研究所の一員、同じ科学者であるという意識がそうさせたのか、シンディーは再びマーティンにツッコミが入る前に助け船を出した。
「どういうことだよ? 何か違うのか?」
こほん。とマーティンは咳払いをした。
「私は前に宇宙人とコミュニケーションを取るための研究の過程で、世界中の言語を一瞬で覚える方法を見つけました」
「ああ、確かにそんなこといっていたなお前」
でもそれが一体どうしたんだ? と言わんばかりにうろんな視線を向ける栄子に対し、マーティンはくいっと眼鏡を直して見せた。
心なしか彼の眼鏡の縁がきらりと光った気がする。
「私が見つけた方法ではあくまでもこの地球上の人類の言語を覚える方法だったのデス。それは到底、宇宙人とのコミュニケーションを確立させるというにはほど遠い成果でした」
「え? そ、そうなのか? だって世界中の人達と話せるようになるんだろ?」
当惑する栄子に対し、シンディーら四人は肩をすくめて見せた。
普段ならこの四人にそんな態度を取られるとバカにされているようにしか思えなかっただろうが、普段の彼らからは到底見出すことの出来ない、出来る科学者特有のプレッシャーを栄子は感じていた。
「いい? 栄子。確かにマーティンの見つけた方法はこの地球上の言語には通じるかも知れない。けれど、宇宙だったらどう? 想定する言語の幅というものは当然この地球上の言語の範囲よりも広くなるわ。つまり、マーティンの見つけた方法はその地球の言語よりも広い範囲までカバーしきれるとは言い切れないのよ。……いえ、カバー出来ない可能性の方が高いでしょうね」
「あっ? ……そ、そうか。言われてみれば確かに」
シンディーの解説に栄子は頷いた。
「そういえばあいつって……昔から日本語を覚えていたのか? 海で生活していたときにそんなものが必要なわけがないし。まさか、海から上がって私たちの店に来るほんの短い時間で日本語を覚えたとか……」
イカ娘の適応能力は高いとは思ってはいたが、もしそうだったとしたら、適応能力の高さは人類の想像の限界を超えているのではないだろうか。
渚ではないが、栄子は初めてイカ娘に対して戦慄を覚えた。
イカ娘に侵略の才能だけは欠片も無いということは、重々承知しているつもりだが。
「……あいつ、一体何者なんだ?」
我知らず、栄子は呟く。
「宇宙人よ」
その呟きに、シンディーはすかさず答えた。
栄子は我に返り、首を振って軽く笑い飛ばす。
「いやいや、まさかそんなわけないだろ? そりゃーお前達にしてみればそう言いたいってのは分かるけどさ。でもいくらなんでも宇宙人なんて……」
「いいえ、栄子。彼女が地球外の知的生命体とのコミュニケーションを取る術を持っている。それが何よりの証拠よ。そんな方法、彼女にどうして必要なの?」
「え……? えっと……それは……」
シンディーの問いかけに、栄子は言いよどむ。答えが見つからない。
「それだけじゃないわ。前に彼女からもらった触手を分析してみたの。その細胞の構造は地球上のあらゆる生命体の組織のものとも類似するものが無かったわ。おそらく、あの触手を動かしている機構も筋肉なんかとは随分と違っているわね。そうでなければ、あんな力は出せるはずがない。そう……DNAの配列も人間やイカ……あくまでも今調べられている生物の限りの上でだけれど、地球上の生物とは異なる点が多すぎるの」
「え? え? ええ?」
いつになく真顔で、そして平静な口調で話をするシンディーの説明を理解しようと栄子は努めるが、戸惑う。
何をどう聞いても、ただ……イカ娘が宇宙人である可能性が高いということだけは……シンディーがそう言っているということは理解する
「ハリス……ちょっとこの前の実験データだけど、持ってきてくれない?」
OKと、ハリスは頷いて研究所の奥へと消えていった。
思わず、栄子はごくりと唾を飲んだ。
イカ娘は海の家「れもん」に並んだテーブルに顎を乗せ、ぐったりとしていた。
今日は朝から団体客が入ったため、栄子がいない分イカ娘に大きな負担が掛かっていたのだった。
昼過ぎになり、客の入りもまばらになったので軽く休憩を取っている。
ちなみに、負担は当然のことだが千鶴にものし掛かっていたわけだが、とてもそうは見えないペースで料理を作っていた。もっとも、千鶴も疲れたのか今は厨房に椅子を持ってきて座り、団扇で自分を扇いでいる。
「ただいま」
朝から姿を消していた栄子が現れるなり、イカ娘は昼ドラの小姑もかくやと言わんばかりに非難がましい視線を送って見せた。
「随分と遅かったじゃなイカ。いったいどこに行っていたのでゲソ?」
「そうよ栄子ちゃん。ほんのちょっとって聞いていたけれど、こんなに遅くまで……。さっきまでお客さんがいっぱいでイカ娘ちゃんも大変だったのよ」
千鶴も流石にこれには腹を立てていたのか、若干剣呑な雰囲気をその口調に込めた。どんな理由があったのかは分からないが、職務怠慢には違いない。
しかし、栄子からの謝罪の言葉は無かった。
無言でゆっくりと栄子はイカ娘の脇へと近づく。
「……栄子?」
「栄子ちゃん?」
その様子にイカ娘と千鶴は疑問符を浮かべた。いつもの栄子であれば、こういうときは素直に謝ってくるはずだ。口調や行動こそ荒っぽく見えるところもあるが、決してその性根は歪んでいない。
「……イカ娘」
「な、何でゲソ?」
抑揚が無い栄子の口調に、イカ娘はたじろぐ。逆光でいまいち彼女の表情が見えないのもイカ娘の不安を煽った。
勢いよく栄子は両手でイカ娘の肩を掴んだ。思わず、イカ娘が小さく悲鳴を上げる。
「イカ娘。お前は……宇宙人だったんだよっ!!」
「なあっ!? そんなわけあるわけ無いじゃなイカ?」
「いいや違うっ! 私は分かったんだ。シンディー達の言っていたことは本当だったんだ。その証拠は山のようにある。もうお前が宇宙人だってことは疑いようのない事実なんだ。さあ、私と一緒に研究所に行こうイカ娘。でないとお前、このままだと死んでしまうかも知れないんだぞ? この前だってイカモス何とか病になったじゃないか。安心してくれ、短い間だけど私はお前のことを本当の家族……妹のようにすら思っていた。私だけは絶対にお前を見捨てないからっ! だからっ!」
栄子が早口でまくし立てる意味不明な言葉に、イカ娘は滝のような汗を流した。
完全に栄子の目はイっちゃっていた。
「まま……待つでゲソ。栄子、落ち着くでゲソ~っ!?」
屋外にいるときは触手を動かす都合で百キロに設定している体重もなんのその。栄子は羽交い締めにしてイカ娘を無理矢理に椅子から立たせ、れもんから連れ出そうとした。ずるずるとイカ娘が栄子によって引きづられていく。
「うわ~っ! うわ~っ!? 誰か助けるでゲソ~っ!?」
れもんに響くイカ娘の悲鳴。
イカ娘がれもんの外に連れ出されようとするまさにそのとき、疾風が駆け抜けた。
その一瞬で、千鶴が栄子の前に立ちはだかる。伝説の歩法、宿地でも使ったのかと思うほどのスピードだった。
実の妹とはいえ、これには流石に不意を突かれたのか栄子が一瞬、硬直する
そして、千鶴はその一瞬を見逃さなかった。
とんっ、と千鶴は栄子の唇の上に人差し指を押し当てる。
その直後、糸の切れた人形のように栄子は床に倒れ込んだ。
「な、何をしたんでゲソ? 千鶴?」
まさか、殺したのか?
イカ娘がそう思ってしまうほど、栄子はぴくりとも動かない。
ん? と千鶴はイカ娘に微笑みを返す。
「定神っていう心の落ち着くツボを押したの。しばらくしたら目が覚めるから大丈夫よ」
「そ、そうでゲソか。よかったでゲソ」
床にへたり込み、ほっと胸をなで下ろすイカ娘に千鶴は背中を向けた。そして、れもんの外へと向かう。
「千鶴? ……どこに行くでゲソ?」
「ちょっとシンディーさん達の研究所に行って来るわね。イカ娘ちゃん? お留守番お願いね」
イカ娘はびくりと震えた。彼女に振り向いた千鶴の目は開眼していた。
こくこくとイカ娘は頷く。
そして、れもんを出て研究所へと向かう千鶴の背中を見送りながら、もう二度とシンディーや三バカトリオに会うことはないんだなとイカ娘は思った。
―END―
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イカ娘の二次創作
初めてイカ娘で書いてみたが、このネタを書いた後に8巻で既に英語ネタは出ていたということを知って絶望した。orz