朝起きて、窓を開けて、吸い込んだ空気が思ったよりも澄んでいた。
人の清廉を思わせるその空気が、寝癖混じりの髪を柔らかく撫でていく。
息を、思い切り吸い込んで思い切り吐く。綿菓子の様に、白く柔らかな空気が抜けていった。
天を覆う蒼は突き抜けていて、その空気と同じように、やはりどこまでも澄んでいた。空に浮かぶ純白の飴すら、この蒼の中に有っては不純なのだろう。そんな気がした。
思わず、見惚れてしまった。思わず、見蕩れてしまった。
胸が締め付けられるような感覚に陥って。
だから、というわけでは無いだろうが。
「……………………」
なんとなく、部室へ行こうと思った。
思いついてからは早かった。彼女は沸き立つ思いを抑えきれずに、駆け出した。
歯を磨いて。着替えをして。愛用のギターを背負って。食パンを口に。
誰にも外出を告げず、ただ一言、行ってきますと、家を飛び出した。
所々、色々な場所で、彼女の興味を惹く何かがあって、その度に立ち止まっては、しかし走り出す。
学校へ付いて、部室の鍵を借りて。朝早いにも関わらず、警備員質の前にはそれなりの人数が居た。わたわた、もぞもぞ、と鍵を借りて、部室に飛び込んだ。
何が有る訳ではない。目的が有って来た訳では無い。ただ、来たかっただけ。
飛び込んだ部室は。
空気の冷たさと。
今までに体感した事の無い静けさと。
心細さが相まって。
でも、どうしてだろうか。だからこそ、とても愛しく感じられた。
入り口の所で少し立ち止まって。
らしくも無く落ち着いて、落ち着き払ってしまって。息を大きく吸い込んで、部室を体全体で感じて。
普段は気にしない、床の軋む音すら新鮮で。
部室のマスコットと少し戯れて。
愛用の机に触れながら移動し。
意味も無く物置の扉を開けて。
普通とは少し違う空気の香り。
足を一歩踏み出して。
一回転。
昔から有った木製の棚と。新しく購入したスチールの棚。
そして。
…………そこで、気が付いたのだった。
クッキーを口に入れて、改めて律は思った。
憂ちゃんくれ。
あるいは、唯以外、その場に居た全員の願いかもしれなかった。…………どうだろうか。それは言いすぎかもしれない。実際、『じゃあ、今日から私は、律さんの妹です』と言われれば、きっと真剣に引いてしまうだろう。羨ましいのは、『唯の妹』である『憂ちゃん』なのだから、それも当然だろうか。
サクッとした触感と共に、バターの甘い風味が口の中に広がる。だが、サクッとするのは噛み始めだけで、すぐにケーキの様に口辺りの良い、しっとりとした触感に変わる。ソフトクッキーというやつだろうか。チョコチップのアクセントが良い感じに利いていた。
聞けば、憂がお菓子を作るのは、それほど珍しい事では無いという。それ自体は特に驚きでは無いし、その、何処かのお菓子屋さんで出せる程の出来栄えも、彼女の能力を考えれば驚きに値しないが、律はむしろ、だからこそ驚いていた。薄々分かっていた事ではあるが。
家で何時もこんなものを食べながら、部活でもムギの持ってきたケーキやお菓子を食べているという事に。
律は、唯の『いくら食べても太らない体質』という自己申告にしか過ぎない体質を、今更ながら実感した。そして、その事実を改めて思い知らされ、机でうな垂れている澪に苦笑した。
当の唯はと言うと、美味しそうに、実に美味しそうに、妹の握ったおにぎりを咀嚼していた。こちらにも、律は苦笑を送ってあげた。
それに気づいた唯は、どうしてだか非常に嬉しそうな表情を作って(この邪気という概念が皆無である笑顔が、きっと彼女最大の魅力なのだろう)、口の中のものを飲みこんだ。
「実は私、朝食がパン1枚でして」
しかもトーストしていないらしい。トーストしていない食パンを口に加えて、食べながら登校したらしい。
だが、
「いや、唯は大体そんな感じだろ」
「遅刻ギリギリの日も多いしな」
律と澪が声に出すまでも無く、別に珍しい事でも無い気がするのだった。
「え~、律っちゃんも澪ちゃんもひどいよ~。私だって、ちゃんと起きれた日には普通に朝ご飯食べてくるもん」
語るに落ちていた。それはつまり、ちゃんと起きれない日は、正にその通りだと明言しているに等しいのだから。
「それに、遅刻しそうな時でも、トーストして苺ジャムくらいは塗るもん」
「いや、もういいから…………」
弁護になっていない自己弁護なのだった。
ところで、唯がこれまで何処にいたのか。唯が梓と戯れている時、さわ子に聞いても良かったが、本人の口から直接聞く事にした。
そして、その質問には、とても簡単な答えが返ってきたのだった。
『え~…………実はそこで寝ちゃってて』
とても申し訳なさそうに唯が指したのは、軽音部の物置だった。盲点と言えば盲点だった。一番初めに見ていても良かった様な場所だ。
数メートルも離れて居ないにも関わらず、全く見当はずれの場所を探していたわけだ。その、自身の間抜けっぷりに、律と澪は大いに脱力した。荷物が見当たら無いからと言って、部室に居ないと判断したのは早計だった。探す対象が唯である事を、もっと考慮すべきだった。単純にして難解な行動パターンを誇る唯であったが、過ぎた難解は極めて単純な事が多い。そして極めて単純であるが故に、その自由度は計りし得ないのだった。
ムギはとても嬉しそうに、『じゃあ、私と同じね』などと言って、唯と両手を合わせていた。そう言えば、場所は違えど、ムギもまた、部室で寝ていたのだった。
とは言え、その時間数には絶対的な差があるが。
やはり、唯を見つけたのはさわ子だったらしい。そして、どうやらその時、唯はまだ寝ていたらしい。そのすぐ後に律達がやってきたという事なので、唯は2時間近くの睡眠を取っていた事になる。
さわ子が唯を起こして事情を説明すると、唯は大いに慌てたらしい。自分からメールを送って皆を呼び出したにも関わらず、そのすぐ後に居眠りをしてしまったわけだから、それも当然だが。
部室に帰ってきた時、さわ子が微妙な表情でこちらを迎えた訳は、唯が扉の向こうに居るという事を知っていたから…………というだけでは無く、律達が帰ってきたのを知った唯が、慌てて隠れるのを目の当たりにしたからだろう。確かに、それは言葉と対処に困る状況だっただろう。
「全く…………なんでそんな所で寝るんだよ」
おにぎり2つを胃袋に収め、幸せそうに紅茶を口に付けている唯。出会ってから何度も漏らし、熟練の域に達した呆れ声で、律は言った。ムギの時もそうだが、思わず寝てしまう事に対して、律には何も言う事が出来ない。律もまた、酷い眠気に襲われ、寝てしまいそうになったのだから。だが、ムギの時もそうだったが、もう少し寝る場所を考えてはどうだろうかと、律は思う。
そして、それにさわ子が同意した。
「そうね。唯ちゃん、思いっ切り床に寝転がっていたんだもの。気絶してるのかと思ったわよ」
それは確かに驚きの光景だっただろう。少なくとも、寝ているという発想では無く、気絶しているという発想にたどり着いてしまうくらいには。
「全く…………風邪引いても知りませんよ」
呆れているのか怒っているのか…………こういう時の彼女の心は、決まって心配や愛情の裏返しなのだが、とにかく、梓はそう言った。先ほど唯から受けたダメージは確実に爪あとを残していそうな感が有った。とりあえず、少し気だるそうだった。
「大丈夫! ギー太が居ましたから」
梓とは対象的に、妙に元気な唯が言った。梓に抱きつくという行為は、1日のエネルギー源であるらしい。以前、そう言い切った事のを聞いた覚えがある。敢えて深くは突っ込まなかったが、本人がそう言っているのだから水を差す事も無い。
「いや、ギターって基本冷たいだろ」
「愛が有れば大丈夫なんだよ」
「そういう問題か…………?」
そういう問題なのだろう。やはり本人がそう言っているのならそれで言いのだ。たぶん。
「まあ、次からは気をつけろよ。本当に風邪なんか引いたら、また憂ちゃんに心配かけちゃうからな」
澪が纏める様に言った。ちなみに、唯発見の報は、既に憂へと届いている。やはり、唯の携帯の電池は切れていたらしく、澪に携帯を借りていたが。
「ごめんなさい。次からは本当に気を付けるよ…………」
憂を出されると、唯も弱いのだろう。先ほどまでも、彼女は純粋に素直な意見を言っていたに過ぎないのだろうが、今度は素直に謝った。
「で、だ。あのメールは一体なんだったんだ?」
澪は続いて、唯に聞いた。あのメールとは当然、唯が部室集合を促したメール。唯を捜索するはめになった原因とも言えるメールだ。
「ああ、そうだよ。それそれ」
「律、まさか忘れてたのか…………?」
「まさか。そんなわけ有りませんわん」
ティースプーンをひらひらと上下に動かして、否定した。別に忘れていたわけでは無い。記憶の片隅に放り投げていただけだ、と内心の自己弁護を忘れない。まあ、事実として、律は唯からの集合メールを受け取ったという認識が薄い事は間違いない。携帯を忘れたために、直接リアルタイムで確認したわけでは無いのだから。
「あ、ほうはよ。ほれ、ほれはよ!」
「まずは口の中の物を飲み込んでから喋れー」
クッキーを頬張っていた唯は、ハムスターの様に頬を膨らませ、しかし人体構造的には頬袋を作れるはずも無い。制服の上に齧り損ねたクッキーをぽろぽろと零しながら、だがそれを意に介することなく、人差し指を立てた。
「それなんだよ律っちゃん!」
言われて、律は他のメンバーと顔を合わせた。さわ子は我関せずと、どこと無く優雅な調子で紅茶を口にしていた。ムギは何かを期待する眼を唯に向けていた。澪と梓は……………恐らく、律自身も浮かべているだろう表情をしていた。
なんだか、とてもどうでも良い話になりそうだ、と律は内心そう思っていた。
そして、実際にとてもどうでも良い話だった。
移動したのは物置。唯はそこで寝ていたのだった。
唯は、部室側とは反対側の扉を示して、
「これ! この扉だよ! 大発見だよ! 何処に通じてると思う?」
ふんす、と言わんばかりの勢いだった。唯のその顔はとても得意げで、眼はキラキラと輝いていた。
「……………………」
律はリアクションに困って、
「いや、何処って…………」
苦笑交じりに、なぁ、と澪に振った。
「う、うん……………………」
澪もまた、なんと言ったらいいのか困ったのだろう。律に、私に振るなよ、と抗議の視線を送り返した。
さわ子は部室に残って…………とはいえ、目視出来る距離だし、話も余裕で通じるのだが…………こちらを微笑ましげに見ていた。
「む、ムギ?」
「私の口からはちょっと…………」
ムギは、彼女にしては珍しく、やはり律達と同じ様な顔をしていた。
だが。
「なんと! この扉の向こうには…………」
「音楽室ですよね?」
唯の言葉を遮って、梓が端的に答えを示した。何を今更、という調子だった。そして、それはこの場に居る、唯以外の全員が思っている事でもあった。
狭い、とても狭い物置の中。時間と空気が一瞬止まった。
この可愛い後輩はたまに空気を読めない所があるのだ、と律は自分の事を棚の一番奥の一番見つけ難い場所に押し込めて思った。
「…………え?」
唯は完全に予想外、という顔で…………笑顔を張り付かせた無表情に近い…………首を傾げた。
「いや、だから、音楽室ですよね。そこの扉の向こう」
念を押すように、実際に念を押して、本当にどうしてそんな事を今更言うのか理解出来ないのだ、という気持ちを言外に込めた梓は、更に追い討ちをかけた。
「それで、その扉が音楽室に通じてるからって、だからどうしたんですくわっぷ!?」
「はいはーい。もうそれまでー」
律は梓の背後に回って無理矢理に口を閉じた。こうして梓の動きを止めるために抱きつくと、なるほど、唯の気持ちが少し分かる気がした。
「え? もしかして…………皆、知ってましたか?」
「ああ、まあ私は」
冷や汗をかき、上擦った調子の唯の声。その問いに、澪は気まずそうに答えた。
「こ、この扉が、音楽室に通じてるって?」
「ごめんなさい。私も…………」
「ていうか、普通知ってるだろ」
ムギは、見ているほうが申し訳なくなるような顔で、下を向いて答えていた。そんなに真剣に謝る事無いぞー、と思いながら、律も答える。もちろん、梓の口は塞いだままで。
だが、梓は体を捻って、律の拘束から逃れた。そして、
「え? 唯先輩、それだけ…………なんですか?」
梓は本当に、思っても見なかったという感じで、まさか唯の大発見が、音楽室に通じる扉を発見しただけだという事実がどうしても信じられ無いという様子で、眼を丸くした。
それが、唯を更に追い詰めていた。うおぉん、と謎の奇声を発し、顔を手で隠して膝を床に着けた。
ああ、やってしまった。もう少しダメージの少ない方法でこの場を収めることが出来たはずだが、真面目な梓はそのまま突っ走ってしまったのだった。
だが、梓を攻める事など出来ない。
少し考えれば分かる事だが、いや、そもそも考える必要など本来は必要の無いレベルの事なのだが、軽音部の部室が音楽室と、間接的にせよ繋がっているのは当然なのだった。軽音部の部室は音楽準備室だ。部室の隣には音楽室が有る。いや、音楽室の隣に音楽準備室が有る、とした方が自然だ。
だから、そんな当然の事は考えるまでも無く、扉を開けて実証するまでも無く、息をするのと同じくらい当然に理解出来ていてしかるべきなのだった。
「あの…………すいませんでした」
梓の、とことんまで困惑した声が、静かに響いた。
唯の体が、びくんと一度跳ねた。
その謝罪が更なる追い討ちになるのだという事を、この後輩は理解しているのだろうか? そう思いながら律は、完全にうずくまって卵の様に成った唯の姿を見て、吹き出してしまった。そして澪に額を叩かれたのだった。
「ほら唯、何時までそうしてるんだよ」
「もう私の事は放っておいて下さい…………」
部室に戻り、各自机に向かって。
唯は顔を見せないように頭の上で手を組んで完全防御を築いていた。その声には何時ものハリが無く、平坦かる負の感情が篭っていた。とても安っぽい負の感情だったが。唯の背中を叩いて顔を上げるように促すが、そのそぶりを見せない。
「まあでも…………うん、結局大した事無くて良かったよ。唯からのメールを見たときは、ちょっと驚いたからな」
さきほど、さわ子に言われた事に、思うところでもあったのだろうか。少し言葉に含みを持たせて、澪は笑った。
「全く、人騒がせにも程が有りますよ、唯先輩は」
梓はまだ少し怒っているような調子だった。まあ、憂と一緒に心配を共有していたのだから、それも当然かもしれないが。律が梓の立場だったとすれば、確かにもっと心配していたかもしれない。
「まあ、もうそれは良いじゃ無いか」
「そうね。唯ちゃんも十分反省してるみたいだし」
「いや、でもアレは反省してると言うより…………」
亀の様な、それこそ部のマスコットと同じような完全防御を築いた唯の姿は見るからに痛々しいが、それは今回の反省がどうのこうの、という話で無いのは明白だった。
明白だったが。
「…………まあ、確かにもう良いですね」
その姿が痛々しいのは賛成の限りだったのか、梓は嘆息して引き下がった。梓も単純に唯が心配だっただけなので、唯が見つかったならば、それで万事OKなのは間違い無いのだった。
「ほら唯ちゃんも。憂ちゃんの焼いてくれたクッキー、美味しいわよ」
ムギから差し出したされたクッキーに、唯は僅かに顔を上げて、手で受け取らずにそのまま口で加えた。
「おいおい」
「行儀悪いぞ」
苦笑交じりの律と、苦言を呈する澪とは逆に、クッキーを頬張る唯の顔は、見る間に輝いていった。
「おいしい~」
「相変わらず立ち直り早いな…………」
先ほどまで口から零れ落ちる程に頬張っていたはずなのに、まるで1口目の様な顔と感想だった。
「まったく、単純な奴だな」
嘆息したが、律は唯のそういう部分が一番好きだった。唯が怒った所を見た事は無いが、情緒が豊かで有るというのは、見ているだけで気持ち良い。そう思うのは律だけかもしれないが、やはり好ましかった。性格的に合っているのかもしれない。
ともあれ。
これで、何時も通りなわけだ。律の見ている、何時も通りの景色。
澪と向かいあって、梓が右手に居て、唯は左手に。ムギは唯の対面に。さわ子は唯の左手に。マスコットは水槽で泳いでいる。
久しぶりな気がする。どうしてだか、律はそう感じた。自由登校になって、学校へ来る事は確かに少なくなったが、それでも、こうして集まらなかったわけでは無い。むしろ、よく集まった方だと思う。夏休み等の長期休暇では、部室に集まる事は無かったわけだし。でも、どうしてだか久しぶりな気がした。
唯を探して、色々と疲れることをしたからだろうか?
そう自問して、しかし、それは違うだろうと即答する。
机に肘を付いて、顎を手に乗せて。斜になって皆を眺めた。
朝、部室に来た時。感じたあの違和感。あのどうしようも無い孤立感。たぶん、それが原因なのだろう。
良くは分からないが、どうしてそう思ったのかは分からないが、あの瞬間、律は自分が世界のどんな場所からも切り離されていると、そう感じたのだ。どうにも恥ずかしい類の妄想に過ぎないが、それで涙すら流してしまったのは事実だった。
卒業。
それはやはり寂しいものだ。
澪も。ムギも。もちろん唯だって。その寂しさを感じているはずだ。
実際に卒業しない梓だって、いや、実際に卒業しないからこそ、もしかしたら一番の寂しさを感じているのかもしれない。最近の彼女は、時折その表情に影を見せる。
笑っている。皆、笑っている。雑談に興じている。…………いや、このメンバーなら、きっと何も話題が無くて、話すことが無くて、誰も何も言わなくても、楽しいに決まっている。
だが。
どうしてだろう。
この場所は暖かいはずなのに。
どうして、冷たく寂しく感じるのだろうか。暖かくなればなるほど、冷たい。楽しければ楽しいほど寂しい。
いや、本当は分かっている。分からないはずが無い。
この時間も、もうすぐ終わってしまうからだ。
もちろん、卒業したからといって、このメンバーが離れ離れになるという事では無い。皆、同じ大学に進むし…………放課後ティータイムは解散しない。何処ででも集まれる。
でも、誰が保障出来るのだろうか。
誰も変わらないという保障が、どうして出来るだろうか。この時間が変わらないという保障なんて、誰にも出来はしない。
「律っちゃん? どうしたの?」
気が付くと、唯が顔を覗き込んでいた。どうやら、ぼ~っとして完全に一人の世界に入り込んでいたらしい。
「元気ないよ、大丈夫?」
「あ、だ、大丈夫だって。ていうか、元気無いとか、気のせい気のせい!」
「……………………?」
一応の納得を見せたらしい唯だったが、首を捻り、不審の色は消えていない。
澪とムギは事情を知っているから、律が何を考えていたか、もしかしたら分かっているかもしれない。特に何も言わずに、敢えてスルーしているらしい様子だから、まあ分かっているのだろうが。
「律っちゃんが元気無いなら、私だって元気無いわよ」
そう言ったのはさわ子だった。両手を前に組んで、やや沈鬱そうな表情。
だから違うって。そう言いかけたが、しかしさわ子の続く言葉に、言葉が一瞬詰まった。
「皆、もう卒業だものね…………」
その言葉に。
皆が、さわ子を見た。
さわ子からその言葉が出るのは…………卒業という言葉が出るのは、もちろん初めてでは無い。クラスの担任になって、進路の決定を促されて、夏休みに入る前に、夏休みが終わって…………3年に入ってから、何度となく聞いた。
あの時、色々なタイミングで向けられた卒業という言葉。それは自覚を促す意味もあったのだろうが、やはり、さわ子も彼女なりに寂しかったのだろう。
さわ子にとって、初めて担任したクラスの卒業。そういう観点から見ても、その初めては特別な意味をもつはずだ。
だが、それ以上に、軽音部3年の面々との別れが。特別に寂しいのだと、厚顔でも何でもなく、律は真剣に思っていた。
思えば、無理矢理に顧問へと引っ張り出して3年。軽音部の活動に、決して無関係で無かった彼女の存在は、やはり大きい。さわ子との別れもまた、あるいは彼女にとってそうであるのと同じに、律にとっては特別に寂しい事だった。
だから。
「あ…………」
だから、律は…………。
「ティータイムが無くなるなんて、先生、本当に寂しいわ」
「そっちかよ!」
立ち上がって激しく突っ込みながら、律は別に忘れてはいなかった事を思い出していた。ああ、そう言えばこういう人だったなあと。これまでの3年間、お茶とお菓子で釣って、無理矢理仕事をして貰った事も少なくない。
それに、先ほどまで憂鬱な気分で物を考えていたが、冷静に考えれば、さわ子にとって別れというのは何度も経験したものであるはずだ。少なくとも、律達よりは余程。さわ子の言葉を借りるならば、別れというのは突然で有るのだから、人生経験が多ければ多いほど、必然的にその回数も増えてくるはずだ。
だから、律が考えているほどに、さわ子が現軽音部員達との別れを惜しんでいなくとも、それを責める事は出来ない。
「なによ~。私にとっては重大な事なのよ。ムギちゃんのお茶が飲めないなんて、私はこれから先、一体何処でお茶をすればいいの?」
「いや、もう職員室で適当に済ませてください」
口を尖らせて言うさわ子に、律と澪と梓は白い目を送っていた。ムギだけは自分のお茶を褒められて嬉しかったのか、妙に嬉しそうだったが。
そして、唯は。
「大丈夫だよ、さわちゃん」
妙に力の篭った声だった。
「軽音部の伝統は、あずにゃんが全部引き継いでくれるから」
「私ですか!? ていうか伝統って!?」
直々に指名を受けて(梓以外に来年の軽音部員が居ない事から、それも当然だが)、梓は律の様に勢い良く立ち上がっていた。長い軽音部の歴史の中でも、僅か3年しか行われていないティータイムが伝統になるならば、これまで軽音部では相当数の伝統が生まれ、そして廃れていったのだろう。
「え~、ムギちゃんのじゃ無いと嫌~」
「あんたはもうちょっと遠慮しろよ…………」
さわ子から拒否されたが、梓はショックを受けてはいなかった。まあ、給仕係に任命されて喜ぶような人間は、そう居ないだろう。ムギが嬉しそうにそれを行っているのも、育った環境が特殊だったからに違いない。
……………………。
そういえば、大学の合格発表前、自宅学習をしていた時。3年生のほとんどが学校へ来ていなかった頃。たまたま部室に来た憂がお茶を入れる、と、そんな事があったらしい。
来年、仮に憂が軽音部に入部する様な事でもあれば、伝統はめでたく守られることになるだろうが…………どうだろうか。何処と無くそういう動きが有る様に思えるので、実現しそうな気がする、と律は思うのだが。
唯の言葉から、そこまでの面白い未来を想像しつつ、律は密かに笑った。そうなったら良いな、という未来だった。
だが、唯の言葉は、それで終わらなかった。
そして、その言葉は、律の心を大きく動かした。…………動かされた。
「それに、私達もたまには遊びに来るよ」
その言葉を聞いて。
律は。
「だからさわちゃん、寂しいなんて言わなくても大丈夫だよ」
「いや、別に貴女達が居なくなるから寂しいなんて一言も…………それに、卒業したら、そう気安く来られても困るんだけど…………。一応、許可だって要るし…………」
声同様に、妙に力の篭った唯の眼に押されたのか…………いや、実際にそうなのだろうが、さわ子の声は弱弱しかった。
「じゃあ、じゃあ…………そうだ! ライブする時はちゃんと呼ぶよ! あ、ライブならあずにゃんも絶対一緒だから、またこうやって皆でお茶会出来るね」
果たしてそういう話だっただろうか?
話題の本質が何時の間にかすり替わっている事に、皆が呆れたように、しかし諦めたように唯を見て、そしてそれは律も同じだった。
だが。
もしかしたら、皆もそうなのかもしれないが…………律の心中に、1つの光の様なものが差し込んでいた。その光は暖かく、とても清々しい。
先ほど、唯は『私達』と言った。『ライブならあずにゃんも絶対一緒』と強く言った。
律が疑っていた事。卒業すれば、同じ学校とは言えど、疎遠になる事も有り得るのでは無いかという懸念。
唯の言葉は、そんな事など有り得ないと断言しており…………考えた事すら無いと言っているのに等しかった。そして、本当に考えたことも無いのだろう。
何時までも一緒だと、信じ切っているに違いない。
その信念にも似た何かは、将来もしかしたら訪れるかもしれない残酷な現実によって、無情にも打ち砕かれるかもしれない。律は、世界が残酷な現実と絶望に満ち溢れていると信じては居ない。少なくとも、そこまでの観念を得る様な体験はした事が無いし、そもそも若過ぎる。だが、卒業という現実に、心が沈む程度の残酷さを味わっている。だから、その程度の残酷さは、世界には確かに有るのだと、既に知っている。
唯はしかし、律が残酷な現実で有ると認識しているそれを、考えたことすら無いと断言したのだ。
律が感じていた孤独感など、紙切れよりも容易く吹き飛ばして。
世界の色が変わったかの様にすら、感じた。
本当にそう感じたのだ。眼を見張った。それくらいに、実感していた。
朝から部室に感じていた寒々しさに、暖かみが生まれ。
寒色から暖色へ。
皆の顔すら、先ほどよりも、楽しそうに見えてきた。
気持ちの変化と思考の変化。目まぐるしく変化する感覚は、妙な高揚感を与えて。
だからだろうか? そこで、気がついたのだ。皆を見て、気がついた。最初から知っていたのだろうけども、初めての発見であるかの様な、そんな衝撃だった。
当たり前過ぎて、気が付かなかったけれども。
一緒に居たいという気持ち。離れたくないという想い。
共通の感覚。
共通の…………想い。
皆で遊んで、皆で練習して、皆でお茶をして。
分かち合う喜びや悲しみ、そして記憶。
そういう物をまだ…………まだまだ、ここに居る誰一人として、心底疑ってなどいない。
そして、疑ってしまったとしても、大丈夫だろう。
心沈んだとき、傷ついた時、誰かを信じられなくなった時。
誰かがそうなっとしても。
律が泣きそうになった時に、澪が居たように。ムギが温かいお茶を、皆に入れてくれた様に。梓が唯を心配した様に。
誰かが誰かを支えあえる様な、そんな関係が、この5人はとっくに出来ている。
大丈夫だ。
律はそう思った。
この先、何があっても。卒業後に、どんな事があっても。
この4人となら、どんな時間でも、どんな場所でも、きっと、こんな感じなのだろう。
5人が居れば大丈夫。
大好きなあの教師も、そこに含めても、全く構わない。
卒業? 寂しい?
私は何を言ってるんだ。
皆、大好きだ。
「どうしたんだ? 律」
「どうしたの、律っちゃん。やっぱり、元気無いよ? 風邪でも引いたんじゃ…………」
何時の間にやら、またぼ~っとしていた様だ。澪と唯の声で我に返った。すると、これまた何時の間にやら、皆からの視線を惜しみなく浴びていた。
「いや、何でも無いよ」
首を振って、お茶を口に含んだ。口元には微笑が浮かんでいた。
そうしたら、なんだか妙に笑いたい気分になった自分に、律は気がついた。
そして、笑いはすぐに外に漏れ、最初は吹き出した程度だったが、徐々に大きくなって、これまた何時の間にか大爆笑に変わっていた。
怪訝な顔をして、他の4人は互いに顔を見合わせた。しかし、律の笑いにつられたのか、まずムギが。間を置かずに唯が。そして梓が。最後に澪が。
何時の間にか。意味も無く。しかし確かな一体感で。
笑っていた。
何時まで続くかは分からないけども。少なくとも、今はまだ。いや、まだまだ。当分先まで。
彼女達の放課後は、終わらない。
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結構時間がかかってしまいましたけども、これで終わりです。
律、好きだー。