「……ちゃん……かず…と…一刀ちゃん」
「……ぅぅうう……」
「ほら、起きて」
「……今、何時?」
「6時」
「……朝練遅れちゃう」
「だから、早く起きなさい」
「……寒い」
「僕は入って温める?」
「……ううん、いい」
「そう、残念」
いつものような、北郷家の姉弟の朝の風景である。
「母ちゃんは?」
「寝てる。夜2時に入ってきたから寝かせて」
「2時って……お姉ちゃんあんな時間まで起きてたの?大丈夫?」
「平気よ。おねがい」
「うん」
お姉ちゃんがくれるご飯とお味噌汁を、次々と食卓に運んでいくのは弟の北郷一刀、今16歳、高校一年生。
ご飯を作っているのは姉の北郷紗江、19歳で高校三年生、一年留年している。
「いただきます」
「いただきます」
朝早く食卓に座っているのはこの二人だけ。
夜はバーで歌を歌う母ちゃんはベッドの中。
お父さんは長期出張中である。
剣道部所属の北郷家の姉弟は、並んだ椅子で朝御飯を食べていた。朝練があるから直ぐに行かなければならない。
何しろ、剣道部の部長と副部長が遅れることでは見本にならないのである。
「で、昨日どうして2時まで起きていたの?」
「ちょっと調べるものがね……ハァァー」
我慢できなかったのか紗江は欠伸をした。
手で口を閉じる動作がすごく優雅である。
実際、北郷紗江と言ったら学校では有名であった。
実力だけで剣道部の部長となった強い人だが、その一方、学校ではすごく優雅で優しい面もあった。
「強さ」と「優しさ」、そして勉強でも右に出るものがない、まさに完璧超人であった。
一つだけを除外したら、
「あ、ほら、ご飯粒付けないの」
「あ」
紗江は側でご飯をほぼ食べ終わっている弟の顔に付いていたご飯粒を指で掴んで自分の口にいれた。
「ちょっ、そういうのやめてよ、もう」
「何が?」
「……もう、最近お姉ちゃんのせいで学校で上級生の先輩たちの目が冷たいんだからさ」
「あら、一刀ちゃんにそんなことするなんて、余程死にたいのね」
「だからそれをやめなって……」
この人、すごくブラコンである。
タッ
タラっ!
「はぁああっ!!」
「ふん!」
それは、剣道部の朝練で広がれている壮観であった。
練習に参加している他の部員たちも、道場の中央で対練している部長と副部長の姿に見惚れて、自分たちの練習も忘れてその姿に目をとられていた。
「やっぱりすごいよね、あの二人って」
「紗江お姉さんって、やっぱり素敵」
「一刀だってほら、あんな小柄なのにお姉さんに全然負けないんだから」
道場の外ではまだ登校するには早い時間なのにも関わらず、見物をしている人たちが多かった。大体は一年生や、二年生の女の子たちである。
皆この二人を見に来たのだ。
完璧超人で有名な北郷紗江だったが、そんな彼女が唯一弱いのは誰でもなく弟の北郷一刀であった。
だからといって、そのせいで北郷一刀が痛い目にあっているとかというとそういうことはなく、寧ろ学校の中で凄い人気を得ていた。
姉とは違って、その年に比べすごく小柄な一刀ちゃんであったが、何一つ他の生徒たちに負けるものがなかった。
剣道、運動実力、勉強。一刀に何かで勝てると言ったらそれは背だけだった。
ぽつんと見ていたら、高校生どころか小学生だといっても信じないことはなかった。
背にすごくコンプレックスを持っていた一刀に、剣道や勉強やいろんなことを教えたのが、紗江であった。
中学の時、周りの友たちは成長するのに自分は全然背が伸びないことにすごくストレスを持っていた一刀ちゃんを見て、紗江は「だったら他ので勝ったらいい」とか言って武術、知識、他に頼りになりそうなものは全部一刀ちゃんに教えた。
それらを全て習得した一刀ちゃんも凄いが、一刀ちゃんのために学校も一年留年しながら一刀ちゃんと一緒にいた姉の弟好きもすごいものであった。
そんなこともあって、紗江の弟バカさは一刀ちゃんが高校部に入学する前から知られていたが、実際一刀ちゃんが入学した時は(今もそうだが)女の子たちから凄い人気だった。
に一刀ちゃんを一目で見ると、女の子たちの中から保護欲みたいなものが芽生えた。一刀ちゃんは苦笑しながらも、背の低さが自分の武器になれるということを高校に入って初めて知った。
「はぁあっ!!」
「腰」
動きはそれほど大きくなかった。隙、というほどではなかった。
誰もその動作をしている彼を見て「腰が空だとは言えないであろう。
だけど、相手はただ「腰」と、誰にも聞こえないようにそう呟いて彼の攻撃をながして、彼の腰を斬った。
タッ!
「……一本よ」
「くぅぅぅ!!まただよ!」
勝負がついた途端に、負けた一刀ちゃんが頭の防具を取った。
「ちょっとだけでも手加減して、もう」
身体にに合わなく万能な一刀ちゃんだったが、彼が唯一叶えない存在がいるとしたらそれは姉の紗江であった。
一刀ちゃんの何もかもが彼女から出てきたのだから、正直叶うはずもないが、それでも一刀ちゃんと紗江の間に努力だけでは超えられない壁があったことには間違いないだろう。
「あー、やっぱかわいい♡」
「負けて悔しがる姿がなんとも愛おしい。ああ、私が入って慰めてあげたいぐらいよ」
外からそんあ話が流れてくるのを聞いて、防具を取った紗江が外に向かって拍手を打った。
「はい、はい、もう本格的に練習するから、皆帰ってもらいますよ」
「えー、もうちょっとだけ見たらいけないですか?」
見物していた子の一人が残念そうに言った。
「ごめんなさい、もうすぐ大会もありますから、今日は皆この辺で帰ってください」
一刀ちゃんが近くに行って見物していた女子生徒たちを帰らせた。
「一刀ちゃんがそういうなら仕方ないね…」
「一刀ちゃん、後で教室でも見ようね」
「あ、うん」
「………」
人たちが帰った後、一刀ちゃんは紗江のところに戻った。
「一刀ちゃん」
「何?」
「……先、教室でみよって言ったのは……」
「ああ、同じクラスの子だったよ。陸上部の子なのにどうしてここにいるんだろう」
「そう………もしかしてこう……つ、付き合うとかは」
「うん?ち、違う。違う。単に同じクラスの子」
「そ、そうだよね……ハァー」
深い溜息をするお姉ちゃんを見て、一刀ちゃんはキョトンとなっていた。
やっぱり、背と精神年齢はある程度比例するのかもしれない。
ざざざざざーーー
下駄箱に普通入らないぐらいの多くの手紙が出てくる。
「………」
「……相変わらずだね」
「そんなことはないわよ。昨日より五つぐらい減ってるもの」
「今全部数えただと!?」
「そういう一刀ちゃんはどうなの?下駄箱の中」
「……あまり見たくはないけど」
一刀ちゃんは恐る恐る自分の下駄箱を開け、
ざざ、
タン!
て素早く閉じた。
「今日は、靴下だけで歩こう」
「一刀ちゃんも相変わらずの人気ね。ちゃんと読んでるの?」
「昼休み時とかに…こっそり……誰かにバレたら殺されそうだし」
「大変だね」
「お姉ちゃんはどうなの?」
紗江はなんともしないように手紙たちを集めて鞄にいれた。
「うん?」
「手紙どうするの?」
「そうね。一応読んではいるのだけれど……」
「会いに出てみたこととかある?」
「ないわね。興味ないし」
「気に入る人一人二人ぐらいいるんじゃない?」
「僕はあなたみたいな子じゃないと興味ありませんわ。そしてあなたみたいな子は、あなたしかいない。だから誰にも興味はありませんわ」
「…………」
いつもの返事がかえってくることに、一刀は目を逸らした。
「そういう一刀ちゃんは、いつも約束場所に行っていつも丁寧よく断っているんじゃないですか」
「…知ってたの」
「おかげであなたと一緒に帰れないのが残念でいつも道場で一人待っているんじゃありませんか」
「先に帰ったらいいじゃん」
「嫌よ。途中で変なおじさんとか会ったら怖いもの」
「そのおじさんの方が可哀想」
「……」
タッ!
「痛ッ!」
「………」
持っていた鞄で一度弟の肩を加撃した紗江は、何事もなかったのように自分の教室に向かうのであった。
「何なんだよ、もう……いてててっ」
いつも理不尽に姉に殴られて不満充満な一刀である。
やっぱり、背と精神年齢はある程度比例するのかもしれない。
「かずーぴー、会いたかったよ」
「まだ死んでなかったんだ」
「ひでー!!」
教室に入ったら悪友、及川が一刀ちゃんを迎えた。
「いや、この前言ったじゃない?百回振られたら死ぬって」
「振られたこと前提で話進めるな、ちくしょー!そりゃ振られたけどよ!」
公認、人生で百回振られた及川であった。
「百回振られたら百一回目に挑戦する!それが俺の生き方だ!」
「ボクだったらいきたくないけどね」
「お前はしゃべるなーー!」
言葉一つ一つが深く刺さってしまう及川であった。
にしても、先はあんなに優しい口調だったのに、友たちには容赦なく毒言を吐く一刀ちゃんもすごかった。
「お前はえーな。そんなちっちゃいから女の子たちにモテモテやし。俺も中学の時もうちょっと背のばんかったら……」
「ソレ以上口ニスルノデアレバ、ココデソノ頭ヲ切ッテ背ヲ縮マセテアゲヨウ」
「じょ、冗談だってー、あははー」
こっちは冗談じゃなかった。
「ボクも好きでチビじゃないんだからさ。人気あるのも結局お姉ちゃんが学校で人気あるからだし」
「まぁ、それもあるけど……お前自分がどれほど母性を誘うのか分からないんだな」
「よく分からないけどやっぱ及川にそんな口ぶりされると腹が立つね」
「そんなことよりさー!かずぴー、お前のお姉さんに俺の事紹介してくれへんか?」
「ことわるよ?」
「真顔で断られた!しかもなんともない顔で!」
「だって及川がお姉ちゃんに3m以内に近づいたら周りの護衛(三年生の剣道部の男たち)にぼっこぼこにされるだろうし。及川を殺すことを許されたのはボクだけだし」
「ど、どう反応すればいいのか分からないぜ」
「先にこんなこと言ってあげるボクに感謝して」
「それだけは絶対しねー」
いつかはこの悪縁をなかったことにしよう。いつか、誰にも気づかずに人を殺せるようになったら……といつも思っている一刀ちゃんだった。
「だからかずぴーにお願いしてるじゃんか。なんとかならんのか?」
「……一つだけ方法があるよ」
「おー!さすが!何だ?」
「ボクに勝てればいい」
「お前合わせる気ないならそう言えよ」
正直自分のお姉ちゃんにこのバカをあわせたくなかった。
「紗江、一刀ちゃんが来たんだけど」
「あら、そう」
クラスの友たちに言われて、机で本を読んでいた紗江は教室のドアの方を振り向けた。
「ねぇ、ねぇ、お昼行くんでしょ?あたしも一緒に行っちゃダメ?一刀ちゃんのこと紹介してよ」
「駄目。一刀ちゃんは僕のだから、いくら由実だも手を出したら許さないわよ」
「もう……紹介してあげるだけじゃない」
「だーめ」
友たちのお願いを無視して、紗江はお弁当を持って一刀が待っている廊下に向かった。
・・・
・・
・
二人が昼食を食べる場所は決まっている。屋上の一番高い場所だ。
普段、屋上のドアはしめてあるのだが、紗江の手にかかれば鍵無しでドアを開けるぐらい、ちょろいものだ。
特に問題も起してないし、バレたこともない。
バカは高いところを好きだと言うが、その点については紗江は弟バカだったので問題なかった。
……
「……」
うん、弟の弁当に豆で♡とか作ってるところバカなのは確かである。
「どうしたの、食べないの?」
「これを屋上以外のところで食べたらどうなるか想像してる」
「皆羨ましがるわよね」
「これがボクの最後のお弁当になるだろうね」
昼頃の屋上の風は気持ちがいいものだった。
紗江は目を閉じてその風を浴びながら嬉しそうな顔をしていた。
「楽しい」
「うん?」
「こうして、一刀ちゃんと一緒に居ると、僕すごく楽しいの」
「別にいつも一緒にいるじゃない」
「そうなんだけどね。時々怖いのよ、僕は……」
「何が?」
「目が覚めたら……これが全部なかったことになるかも知れないって」
「………?」
一刀ちゃんは頭をかしげた。
紗江は、時々こんなわけのわからないことを言った。
朝起きたら、紗江は何もせずに先ず一刀ちゃんの部屋に向かう癖があった。
昔は一刀ちゃんが紗江の部屋で一緒に寝たり、その反対だったりしたが、年を取って周りの目が痛くなる年になればそれもできなくなったけど、それでも紗江はいつも一刀ちゃんの部屋に行った。
朝起きて、一刀ちゃんがちゃんと部屋にいて、自分がそこにいるということを確認するのが、彼女の日課の始まりだった。
理由は分からない。
彼女にはそんなことをする『理由』があるのだろうと思う。
それは一刀ちゃんにも分からない、紗江の一人だけの悩み事だった。
「あ、お姉ちゃん、あの宿題もうやった?」
「え、宿題って?」
「この前できた博物館に行って、感想文書くの、ボクも忘れてたのに、及川が明日まで出すのだって」
カラッ
「……あ」
紗江は金槌に打たれたような顔をしながら持っていた箸を落とした。
「?お姉ちゃんも忘れてたの?」
「うん?ああ、うん……お姉ちゃんうっかり忘れてた」
「丁度よかった。じゃあ、今日ボクと一緒に行こう。明日までだから、今日放課後一緒に観に行こうよ」
「そ、そうね……」
紗江はそう頷きながら、弁当を食べ続ける側の一刀ちゃんに聞こえないように小さくつぶやいた。
「……まさか」
放課後、紗江と一刀ちゃんは博物館に向かった。
博物館には中国の戦国時代から後漢時代までの遺物が展示してあった。
「すごいね。これどうやって学校で展示できたんだろう」
「金とコネだけはきっちりした学校だからね。理事長は変態だけど」
「うん、すごい学校だね。理事長は変態だけど」
高校で有名な二人だったので、この学校の理事長と会う機会もそこそこあった。変態であった。
「あ……」
「うん?お姉ちゃんどうしたの?」
あるものを見て足を止めた紗江を見て歩いていた一刀ちゃんも足を止めた。
お姉ちゃんが目をやっていたのは、銅の鏡であった。
「銅鏡だね。後漢末のものかな」
「そうね、それぐらいね。……懐かしいものだわ」
「?」
「あの時、……これは割ってしまったら、あなたにも会えなかっただろうね」
「??お姉ちゃん何言ってるの?」
「……ふっ、ううん、何でもないわ。さぁ、次行きましょう」
「うん?うーん……」
笑っている紗江の顔だったが、一刀ちゃんはその顔の中で、いつものお姉ちゃんとは違う何かを感じたのであった。
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なかったことの中から、また新しくうまれることもあるということ。
だけど、それ以前のものがなかったことだから、うまれるそれもまた虚無なもの。
これは、実存しない話である。