No.188992 地上楽園A-O-TAKEさん 2010-12-10 22:14:03 投稿 / 全3ページ 総閲覧数:2520 閲覧ユーザー数:2307 |
厚いカーテンで閉ざされた部屋であっても、時間が来れば自然に目を覚ます。
長い時間、普通の高校生を演じてきた彼女にとって、それはもはや惰性のようなものだった。
潜入用にと用意した、学生らしい携帯電話へと視線を落とす。仕事用のものとは違い、こちらに着信が入る事はまずない。友人の数は片手で足りるのだから。
――だというのに。表示された着信の数は、手足の指を使っても未だ足りない。
彼女は溜め息と共にカーテンを開け――窓の向こうは隣のビルの壁だ――薄暗い路地の空を眺める。
卒業式に相応しい、憎たらしいほどの快晴。
「……まったく。お人好しが多いこと……」
外部進学を隠れ蓑にして、学ぶことの無くなった学院から姿を消す。そうしていれば、いずれはゆっくりと忘れられていくはずだった。
そう……例えば、判断を保留した不要物が、押入れの隅に入れられたままで忘れ去られていくように。
だが、彼女が考えるよりも、彼女の名前を覚えているものは多かったらしい。
石動塞。
彼女が使ってきた幾多の名前の中でも、特に長く使ってきた名前。長かった茶番が終わり、今日を境に世界から消える名前。
だが、今はまだ――自分の名前さえも殺してしまった――暗殺者たる彼女の名前だ。
「あら、塞さん。久し振りね」
「……香織理嬢。そうね、一月振りくらいかしら」
「そうね、それくらいかしら。……私、正直な話、塞さんは卒業式に出ないと思っていたわ」
ごきげんよう、と定番の挨拶をしながら教室に入った塞を待っていたのは、塞の数少ない友人の一人が放つ、遠慮の無い言葉だった。
「……どうして?」
「だって貴女、効率的でないものは嫌いでしょう? もうとっくに、入学する大学の近くにでも引っ越してしまったのではないかと、ね」
確かに。
人付き合いが浅く、効率的な物を好む。そういう人格を演じてきたのだから、そう判断されて当然だ。
しかし、そうしておけば卒業式の日に顔を出さなくても済む、と考えていた塞の予想を覆したのも、目の前の人物である。
「……人に何度もメールを送ってきた貴女が、それを云うのね」
「あら、そう? ……私は義理堅く生きることにしたの。一度助けられた以上、そのお返しをしなくてはね?」
「……人の考えに必要以上に踏み込まないのが、貴女の信条ではなかったのかしらね」
「そうね。……でも、どこかのお節介さんの所為で、踏み込まれるのも悪くないと思ってしまったものだから」
「……ではそれは、お返しではなくて仕返しと云い直すべきじゃないのかしら」
「あら? ……まあ、物事の捉え方は、人それぞれよね」
悪びれずにそんなことをいう香織理は、目を細めて笑う。
今にして思えば、人と関わらずに行動するべきであった塞が、どうして香織理と共に行動し、更には彼女を庇い立てするような運動に協力するようなことをしたのか。
あるいはそれこそが、塞自身が云った『自分を良く見せたいという欲求』であるかもしれない。
――あるいは、香織理から自分の心を引き離すことが出来ない塞が、心の奥で、香織理を本当の友人と思っているからなのかもしれない。
「……まあ、香織理嬢が私を呼んだというのなら、それに応えて卒業式に出るくらいには、私は貴女を友人と思っているのでしょうね」
「なあに、その、自分の考えを整理するような物言いは。本当、塞さんは不思議な人よね」
「……自分でも、そう思う」
本当に、人の心と云うものはままならないものだ。それが、制御することに長けた塞のものであっても。
式が終わり、みんなと一緒に写真を撮って。押し寄せてきた下級生たちを丁寧に捌き終える。
そんな、一区切りが付いたその時に、彼女――塞の姿を見ることが出来たのは、果たして偶然だったのだろうか?
「ケイリ……」
「分かっているよ。礼拝堂だね」
学生寮では、卒業していく千早たちの為にパーティの準備が進められている。
だがその前に、済ませておかなければならないことがある。きっと、これが塞と話すことができる最後のチャンスだから。
千早とケイリは勇気を分け合うように手を繋いで、ゆっくりと礼拝堂へ足を向けた。
果たして、開いたままの扉の向こう――礼拝堂の中には、確かに人影があった。
真上からの太陽の光は、ステンドグラスの外側を明るく照らす。しかしそれ故に、かえって礼拝堂の中は薄暗く感じた。
そんな薄闇の中で、塞はマリア像を見上げている。
「ねえ、ケイリ。ここは僕に任せてくれますか? ちょっと、彼女と話がしてみたいんだ」
「そう……そうだね。そういうのも、良いかもしれない」
扉の外から様子を窺っていた千早は、ケイリの手を軽く握ってから離す。ケイリが扉の影に身を移したのを確認してから、ゆっくりと静かな世界へ足を踏み入れた。
「塞さん」
「……千早さん、か」
千早の呼びかけに、塞は視線を動かすことなく応じた。
会話を拒んでいるようでも、逆に話しかけられるのを待っているようでもある。
だがどちらにしろ、話しかけるのはケイリだと考えていたのだろう。千早には、声が落胆しているように聞こえた。
「なにか、用?」
「……そうですね。少し、話をしたくなりました」
「マリア像の前で、殺し屋と? 存外、面白い人なのね」
声に揶揄するような響きは無く、平坦で感情の篭らない声だ。そう考えると、塞の言葉はそのままの意味かもしれない、などと千早は思う。
「このような場所の方が、本音で語り合えそうですから」
「そう? 愛をもって吐かれる嘘は積極的な善である、という言葉もあるわよ?」
「状況倫理ですか? しかしこの状況で、塞さんの為を思って吐く嘘は――少なくても、私にはありません」
「ふん……言葉遊びよね。それこそ、神の居る場所でするようなことじゃないわ」
「……神は居ないのではなかったのですか?」
「……そうね。ええ、あの時も言った通り。いや……神は信じない、と言い直そうかしらね」
言って振り向く塞の顔には、薄らとした嘲笑が見えた。千早を、ではない。今の状況に置かれている、自分を嘲笑っている。
「神が偉大だと云うのなら、何故、矮小で愚かな私たちを使って倫理を試すのかしらね?」
「……」
「私たちは、矮小なものたちに望んだりはしない。道徳も、倫理も。そうでしょう?」
「……塞さんは、勉強家ですね」
想定していたあらゆる言葉とも違う千早の言葉に、塞は鼻白む。
「それは皮肉?」
「いいえ、本心ですよ。私はクリスチャンではありませんが……それでも、貴女が倫理や道徳を深く学んでいることは分かります」
「ふん……」
「私も、この学院に入る時にそれなりに調べています。だから、社会を維持するための道徳と、神の教える道徳が別のものだということは分かります」
千早の言葉は、偽善的な言葉だ。
そんなことはもう何年も前に――最初に人を殺めた時に、涙と汚物に塗れながら考えたことだ。
「ケイリがあの時云ったように、貴女の罪を立証することは難しい。なら……」
「だから、どうだというの?」
「えっ?」
千早の言葉を遮って、塞は口元を歪める。誰が罪を決めるかというのは、実際には問題とならないのだから。
神の否定をしておきながら、その教義が定める倫理に縛られているというのも妙な話だが……少なくても、自分の罪は、自分が知っている。
そして、だからこそ塞は、神を信じてはいけないのだ。
「人が人である為に存在するのが道徳と倫理なら、私はその理から外れている存在よ。そう――」
塞は軽く首を振ってマリア像へと視線を戻すと、決別するように声を出した。
「――貴女と私とでは、生きている世界が違う」
「そうですか?」
「ええ。貴女にとっては地上でも、私にとっては……ここは、煉獄よ」
「……ああ、良かった」
反射的に殴りかからなかったのは、体が千早へと向いていなかったからだろう。もし視界に入っていれば、今頃、千早は床に転がっていた筈だ。
千早の言葉に、今度こそはっきりした怒りを持って、塞は改めて千早を見た。
混じりけなしの殺気に押されたのか、千早の体が僅かに揺らぐ。だが、それでも千早はその場に踏みとどまった。
「どういう意味か、聞いても良い?」
場合によっては、後の事など考えずに――そんな意志を込めて、塞は千早を睨みつける。
「……煉獄というのは、罪の贖いを受けて救済を約束されていながら、浄化を必要とする者のためにある場所。そうでしたよね?」
「……」
「罪を浄めながら前へと進めば、いずれ、楽園へと辿り着くことができる。地獄ではないのですから」
千早の言葉に暫し考え込んだ塞は、直ぐに一つのことを思い浮かべる。
千早の言っているのは教義におけるそれではなく、物語の上でのことだと。
「ふ……ん、煉獄篇(神曲・Purgatorio)とは、また妙なものを持ち出したものね」
些か拍子抜けした声で塞が呟く。
七つの大罪を刻まれたダンテが天へと向かうように、塞にも罪を浄めて正しく生きろと云う心算だろうか?
「残念だけど、それは無理ね。さっきも云ったでしょう、神は居ないと。私を天へと導く存在など居ないわ」
「いいえ。貴女はもう逢っています」
「誰に?」
「……『ベアトリーチェ』に」
「はっ! 『ベアトリーチェ』!? 貴女が私を導く永遠の淑女だとでも!?」
お笑い種だと鼻で飛ばす塞に、しかし千早は真面目な顔で首を振る。
「知っている答えを態と間違えるのは感心しませんね。それに……私は、永遠の淑女などではありませんから」
「ふん……じゃあ、自分はなんだと思っているのかしらね」
上手く乗せられた。塞はしかし、そう気が付いても会話を止めようとは思えなくなっていた。
「そうですね……私は、罪人です。貴女と同じように」
「私と同じ? へえ、どんな罪なのかしら?」
「ええ……マリア様もいらっしゃるし、この場で懺悔しましょう。僕は――」
千早がマリア像へと向き直り、頭を垂れる。
この、自分が考えていたよりもずっと曲者だった女が、どんなことを云うのか楽しんでいる。そう自覚した塞だったが――そんな気分など、次の瞬間に吹き飛んだ。
「――実は、男です」
「ふっ……」
塞は口を押さえたが、一度漏れた笑いは止められそうになかった。
「ふっふふふふ……なに、それは? ははははは……!」
「……そんなに可笑しいですか?」
少しばかり拗ねたように千早が呟く。それがまた、塞の笑いを誘った。
「ははははは……成程、私の本当の失敗は、私よりも厚い仮面を着けた人間が居ると気が付けなかったことか! ははははは……!」
道理で妃宮千早などという女が存在しなかったはずだ。あるいは名前を変えている可能性ぐらいは考えていたが、まさか、変えていたのは性別の方だったとは。
いくらなんでも予想外。この自分が、一年近く騙され続けていた!
「くっ……ふふっ……ねえ、証拠ぐらいは見せてもらえるのかしら?」
「しょ、証拠ですか?」
「そうよ……ふっ……例えば、そのスカートの中身とか」
「え、それはちょっと……」
「くっ……いい、云わないで。勘弁して……」
「……」
貴女は本当にさっきまでの塞さんと同一人物ですか、と尋ねたくはなったものの。
自分の一言がここまで彼女を変えると思っていなかった千早は、憮然としたままで、塞の笑いが治まるのを待つ。
「ふふっ……成程、確かに貴方は罪人ね。やっぱり神なんて居ないわ。貴方のような不道徳者を、この世に生かしておくのだから」
「……酷い云われようですね」
「だってそうでしょう? ねえ千早さん、確か、貴方と私は合同授業では一緒だったはずよね?」
「うっ……」
塞が暗に出歯亀していたことを詰ると、千早は反論出来ずに黙り込む。
塞は笑う。もう駄目だ、可笑しすぎると身を捩って。
つまりこの男は、惚れた女を守りたい一心で、自分の計画を暴いてみせたのだ。恋人を守りたい一心で、自分の突き出したナイフを奪ってみせたのだ。
職業的暗殺者の自分が、そんなくだらない、ありふれた理由の為に、仕事を失敗したというのだ!
あまりにも馬鹿馬鹿しい。塞は身体の力を抜くと、マリア像を載せた台に寄りかかった。
「ふっ……ふふ……」
塞の含み笑いが礼拝堂に木霊する。
毒気の抜かれたその姿に、どうしたものかと千早は迷う。しかし、千早が行動を起こす前に、ケイリが礼拝堂へと入ってきた。
扉の閉まる音が響き、塞の笑い声も止まる。
「おや、もう終わりですか? あまりにも楽しそうだから、私も参加したかったのだけれど」
「ふっ……好きに笑うといいわ。喜劇役者が二人も居るのだから」
「礼拝堂の外まで貴方の笑い声が聞こえてきたわ。誰かが覗きに来るんじゃないかと心配してしまうくらいに」
「そう? でも、それはそれで良かったのでは?」
微笑を浮かべたケイリの言葉に対して、険の取れた顔で塞が呟く。
誰かがこの場に居たのなら、先程の千早の言葉に腰を抜かすだろう。
全校生徒を代表するエルダーが男だったとばれたなら、さぞかし面白いことになる。
「ああ、そうか。こんな茶番に巻き込んだお礼に、貴方を社会的に抹殺するというのはありかもしれない」
「えっ!?」
「ああ、それは良くない。面白いことは好きだけれど、それは大変に面白く無さそうだ」
どこまでが本気なのかと疑ってしまう塞の言葉に、ケイリはわざとらしく眉を寄せた。
「『ベアトリーチェ』……私は暗殺者を廃業する」
前触れも無く、まるで散歩に誘うような気軽さで、塞が自らの意志を語る。
驚きに目を瞠る千早を余所に、ケイリはゆっくりと塞へ近付いた。
「あのときにはもう分かっていたことだけれど……愛なんてものの為に仕事を失敗した私は、暗殺者として終わってしまっている」
「そうですか? 貴女にだって、そういう感情はあるでしょう?」
「だからだ。あんな風に笑えてしまうのでは、自分を殺すことは出来ない」
「……そう」
倫理や道徳などを口に出す時点で、塞もまた人間だ。先程自分で言ったように、倫理や道徳というものは、人間が人間として生きるために定められたものなのだから。
そして、人間として培ってきた倫理や道徳は、殺人者としての塞を戒める。
だから塞は、仕事であるという建前と、自分という人格を殺さなければ、人間を殺めるという禁忌を犯すことが出来ない。
だというのに――あの日、自分で告白したように、人間の心に踏み込みすぎた。
心は自分の着けた仮面の内側に浸透し、人間という群れの外に居た殺人者としての自分を、群れの中へと導いたのだ。
「でもね……私は、そんな風に笑う貴女のことを、素敵だと思うよ」
「ふ……ん、物好きなことね」
「おや、元の表情に戻ってしまった」
ぶっきらぼうな物言いで口を閉じた塞を見て、ケイリが大げさに肩を竦めた。しかし、それはケイリの戯けだろう。
千早が見ても分かるくらいに、塞の口元は持ち上がっている。皮肉気な、でもはっきりとした微笑だった。
「さて、それでは行きましょうか?」
あの日と同じく差し出されたケイリの手を見て、塞は軽く首を傾げる。どこに行くのかと問いかける前に、ケイリは塞の手を取った。
それはあの日とは違って、手を取る側を斟酌しない些か強引な誘いだった。
「なにを……」
「学生寮で、みんながパーティの準備をしています。勿論、貴女にも参加してもらいますからね」
反射的に手を払おうとした塞は、反対側の手で千早の手を取ったケイリを見て諦めたように首を振る。
差し出された手を自分から取る為には、まだまだ時間が足りないだろう。今この瞬間から素直になるなど、仮面の割れた塞には出来ないことだ。
だが、まあいい。少なくともこうして手を引かれていれば、進む道に迷うことは無いだろうから。
そう。それは、開き直ってしまえば、案外と簡単に受け入れられるもの。
「……まったく、本当に、お人好しの多いことね……」
「何か言いましたか?」
問いかけてくる千早の言葉に、塞は苦笑して首を振る。
「……ケイリ」
「なんですか、塞?」
「……貴女に射してきた光というのは、彼が照らしたもの?」
「そうだね。だって千早は、私の最強星だから」
「……アルムテン。占星術?」
「ああ、いや、やっぱり今のは無し」
微笑んだケイリは聞き慣れない言葉を云う。しかし、尋ね直した塞の言葉を聞いた後、何故か千早の方を見てから、ゆっくりと首を振った。
「運命だとか、星の導きだとか、そういう理由付けは無し。私は私の意志で千早を好きになった。だから……救われたのよ」
「ケイリ……それは少し、気恥ずかしいですよ」
「……ああ、成程。私は惚気られているのね」
「いえ、それは……っ」
先程に塞と相対していた時とは一変、狼狽して言葉に詰まった千早は、わざとらしい咳払いをしてから言葉を紡ぐ。
「んんっ……僕はケイリを救うなんて、そんな大したことはしていませんよ。それでもケイリがそうだと云うのなら、それはこの学院が……外の世界より、ほんの少しだけ優しい場所だったおかげです」
「……優しい場所、か。そうかもしれないわね……」
結局のところ、要約してしまえばそういうことだ。
そんな居心地の良い場所だから、塞も変わってしまったのだから。
寮の方へと歩いて行くと、テラスに立った薫子と香織理が、外を眺めているのが見える。
やがてこちらに気が付くと、手を繋いでいるケイリと塞を見て目を丸くしたのが分かった。
「……ふっ……香織理嬢にあんな顔をさせるのも、悪くはないものね」
この一年、塞の悪戯に引っ掛かることの少なかった香織理だが、どうやら最後の最後にとびきりの驚きを与えることが出来たらしい。
今日を境に消えるはずだった名前は、どうやら一命を取り留めたようだ。だというのなら、やるべきことは山ほどある。
だけど、今は。
「……とりあえず、目先のことを楽しむとしましょうか」
煉獄山の頂上にあるという常春の楽園。天国に最も近い場所とされるその場所は、かつて人間が黄金時代に住んでいた場所だという。
今日、一つの楽園から旅立っていく者たちは、果たしてその場所へ辿り着けるのか。
――だが、心配する必要は無い。お互いの手が繋がれている限り、ひとりぼっちにはならないのだから。
了
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おとボク2「秋の作品フェスティバル」用作品。
公式HPでの人気投票でケイリの人気が思ったよりも少なかったので、勢いに任せて書いた作品です。……いままでお蔵入りしていたけれど、この機会に発表させていただきます。